落合博満

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
落合 博満
Hiromitsu Ochiai.jpg
中日監督時代(2007年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 秋田県南秋田郡若美町(現:男鹿市
生年月日 1953年12月9日(61歳)
身長
体重
178 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手三塁手二塁手
プロ入り 1978年 ドラフト3位
初出場 1979年5月29日
最終出場 1998年10月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 中日ドラゴンズ (2004 - 2011)
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 2011年
選出方法 競技者表彰

落合 博満(おちあい ひろみつ、1953年12月9日 - )は、秋田県南秋田郡若美町(現:男鹿市)出身の元プロ野球選手内野手)、プロ野球監督。2013年オフからは中日ドラゴンズのGMを務めている。 現役時代はロッテ、中日、巨人、日本ハムで活躍。日本プロ野球史上唯一となる三度の三冠王を達成した。2004年から2011年まで中日ドラゴンズ監督として指揮を執り、すべての年でAクラス入りを果たし、4度のリーグ優勝、1度の日本一に輝いた。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

1953年、秋田県南秋田郡若美町(現:男鹿市)にて7人兄弟の末っ子として生まれる。長嶋茂雄に憧れて野球を始め、小学生の頃は雑誌などに載っている長嶋のバッティングフォームをよく真似していた。中学・高校時代は、年間100本もの映画を観賞するほどの映画少年で、特に『マイ・フェア・レディ』は7回見に行き、劇中歌の歌詞(英語)を覚えたほどだった。

1969年秋田県立秋田工業高等学校建築科に進学[1]。野球部に在籍していたが、野球をしている時間よりも映画館にいる時間の方が長かった。その後、先輩による理不尽なしごきに耐えかねて野球部を退部。しかし投打共に落合ほどの実力を持った選手がいなかったため、試合が近づくと部員たちに説得され、復帰した。落合はほとんど練習をせずに、4番打者として試合に出場していた。高校時代は退部と復帰を通算7回繰り返している。

1972年東洋大学に進学[1]。しかし、先輩がタバコを手にしたら後輩がそれに素早く火をつける、などといった体育会系の慣習に納得できず、故障もしたことで、わずか半年で野球部を退部して大学も中退。秋田に帰った。その後、ボウリング場でのアルバイトをきっかけにボウリングに目覚め、プロボウラーを志すようになる。ところがプロテスト受験の際にスピード違反で捕まり、反則金を支払ったことで受験料が払えず受験できなくなってしまい、これも挫折した。

1974年、才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めもあって東京芝浦電気府中工場臨時工として入社[1]。同工場の社会人野球チーム・東芝府中に加わった。ここでの在籍5年間の公式戦で約70本塁打を放つなど頭角を現し、1978年にアマチュア野球全日本代表に選出(森繁和も選ばれている)された[1]。この頃の落合は、日中はトランジスタラジオの基板をコツコツと組み立て、夕方から野球の練習をする、という生活を送っていた[2]

1978年のドラフト会議ロッテオリオンズに3位指名されて入団。同年の誕生日で既に25歳という、当時としては非常に遅いプロ入りとなった(通算2000本安打達成者の中で最も遅いプロ入り)。落合をスカウトした城之内邦雄によると、指名理由は「変化球に強く、投手が苦手とするタイプの打者」という一点のみだった(城之内は投手としての視点から、落合の資質を見抜いていた[3])。なお、巨人は落合をドラフト2位で指名する予定であったが、江川事件によりドラフト会議自体をボイコットしたため、指名は実現しなかった[1]

ロッテ時代[編集]

1979年、プロ入り当時のロッテ監督・山内一弘はレベルスイングの本尊といえる人物でもあり、アッパースイングだった落合のバッティングフォームの矯正に取り掛かった。「ホースで水を撒く感じで打て」などのアドバイスを貰ったものの、落合自身は後年「当時の自分には山内さんの高度な打撃理論が理解できなかった」と述べている通り、山内から教わった打法ではボールが前に飛ばない状況であったという。そのため、ベテラン捕手土肥健二の非常に柔らかいリスト(手首)を使ってボールをはじき返すフォームに注目し、それを真似し[4]、我流のフォーム改造を狙った[5]。土肥のほか、得津高宏の左バッター特有のうまいボールの捕らえ方も参考にした[4]。また打撃コーチの高畠康真は、落合のこのリストワークが気に入り、1980年にロッテに移籍して来た張本勲のもとへ落合を連れていった。張本はレベル&アッパーの打撃理論を主張する打者だが、意外なことに「素晴らしい。このままのスイングで打てる」と絶賛した。落合は高畠から球種を読むテクニックを教わった。

入団当初、キャンプに来ていた評論家は口を揃えて落合のフォームを酷評し、特に前監督の金田正一は面と向かって落合の打撃を酷評した。落合はこの時の思いを「俺は社会人もやってプロ入りしたから何ともなかったが、もし高校出の若い選手が、あんな偉い人からプロに入っていきなり言われたら潰れるだろ」など、度々口にしている。この事は後に金田が会長を務めていた名球会への入会拒否の一因となり、プロ入り2年目ごろには「将来、たとえ2000本安打とか打てたとしても、名球会には入らない」と断言した。

1980年、5試合連続本塁打イースタン・リーグ記録を作って後期に一軍に戻ると、57試合だけで15本塁打を放ち、レギュラーを掴む。同年の近鉄バファローズとのパシフィック・リーグプレーオフに出場し、自身初のポストシーズンを体験した。

1981年にはオールスターゲームに初出場を果たし、監督の西本幸雄に「これから先、10年・15年、日本プロ野球を背負う男だ」と認められ、スタメンの4番打者で起用される。同年に初めて規定打席に到達すると、早くも首位打者のタイトルを獲得した。有藤通世レオン・リーレロン・リーらと強力クリーンナップを形成し、日本ハムとのパシフィック・リーグプレーオフでは第4戦に本塁打を放つなど、球団史上最後となる20世紀中のポストシーズンでの勝利に貢献した。

1982年、史上最年少(28歳で開幕を迎えたシーズン)で三冠王に輝く。しかし数字的には突出したものではなかった(打率:.325、本塁打:32本、打点:99)。野球評論家の豊田泰光は落合に対して三冠王のレベルではないと苦言を放った(ただし、後年再度三冠王を獲得することになる1985年、1986年と比べると1982年は投高打低であった)。

1983年は打率.332を残し、3年連続首位打者を獲得した。

1985年、打率.367、52本塁打、146打点と圧倒的な成績(とはいえ、批判された1982年に比べて、ランディ・バースと共に三冠王を獲得した1985年と1986年は両リーグでラビットボールの使用疑惑が持ち上がるほど本塁打が増加するなど投低打高化している[注釈 1])で2度目の三冠王を獲得した。打率.367は当時の右打者歴代最高打率、52本塁打は当時のパ・リーグタイ記録、146打点は現在もパ・リーグ記録である。またこの年は5割に迫る驚異的な得点圏打率.492を記録した(現在でも日本記録)[6]

1986年、シーズン中盤までブーマー・ウェルズ秋山幸二らと熾烈なタイトル争いを繰り広げ、最終的に2年連続で3度目の三冠王を獲得(打率:.360、本塁打:50本[7]、打点:116)。2年連続の三冠王は日本プロ野球界において王貞治1973年 - 1974年)、ランディ・バース(1985年 - 1986年)、落合の3選手のみで、通算3度獲得は落合のみである。 また2年連続50本塁打はプロ野球史上初だった。同年シーズン終了後、自身の理解者であった稲尾和久が成績不振で監督を解任されると、落合は「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない」と発言した[8]。その後、牛島和彦上川誠二平沼定晴桑田茂の4選手との1対4の交換トレード中日ドラゴンズに移籍[8]。日本人初の年俸1億円プレーヤーとなった。

中日時代[編集]

1987年、2年連続三冠王の看板を引っ提げてセントラル・リーグでデビュー。同年シーズンは篠塚利夫正田耕三らと首位打者争いを繰り広げ、首位と2厘差のリーグ3位の打率.331を記録する。

1988年は32本塁打95打点(共にリーグ2位)勝利打点19、出塁率と長打率共にリーグ1位を記録するなどチームの優勝に貢献したが、打率は.293とレギュラー定着以降初めて3割を割った。日本シリーズでは打点0と低迷しチームも西武に1勝4敗と敗れた。

1989年はシーズン終盤に破竹の勢いで打点を稼ぎ、打率.321・40本塁打・116打点の成績を残して打点王を獲得。両リーグ打点王は史上初だった。ちなみに、その年の本塁打王争いは阪神に同年限り在籍していたセシル・フィルダーや、ヤクルトに在籍していたラリー・パリッシュらと繰り広げたが、惜しくも2本差の42本でパリッシュに奪われる結果となった。8月12日の対巨人戦(ナゴヤ球場)では、9回1死までノーヒットノーランを続けていた斎藤雅樹から起死回生の逆転サヨナラ3ラン本塁打を放った。

1990年シーズンは、前年に引き続き阪神に移籍したパリッシュとの本塁打王争いを繰り広げた。パリッシュは28本塁打を放ったところで、8月に阪神を退団してしまう。その為、結果的に落合が追い抜いて34本塁打・102打点で本塁打王と打点王を獲得。両リーグ本塁打王は史上初だった。また、最高出塁率も獲得していた為、結果的にはセ・リーグ移籍後初となるタイトル三冠を手中にしている。この年、鳴り物入りでプロ入りし快進撃を続けていた近鉄バファローズ野茂英雄について、オールスター戦の前にコメントを求められた落合は「フォークでしか勝負できないんだろう。若いのにオジン臭い投手だ」と酷評。そしてオールスター第2戦で落合と野茂の対決が実現すると、落合は野茂が投じた高めのストレートを狙い打ち、本塁打を放った。全パを指揮していた森祇晶は野茂にフォークの多投を進言していたが、野茂はこの対戦で1球しかフォークを投げておらず、完全に落合の挑発に乗った形になってしまった。

1991年2月、年俸を不服として日本人選手として初めて調停を申請。同年シーズンは前半戦に肉離れを起こし、大事を取り打撃三部門のトップに立った時点で1ヵ月程戦線離脱をした。復帰後も終盤まで十分に三冠王を狙える位置にいたが、三冠王を獲得するため本塁打狙いにいった結果打率が下がり、打率.340・37本塁打・91打点で本塁打王のみに終わる。打率は古田敦也に3毛差(古田.3398、落合.3395)、打点は広沢克己に8打点差で及ばず、それぞれリーグ2位だった。打率に関しては、最終戦で6打数5安打という意地と驚異的な追い上げで一度は首位打者の古田を逆転したものの、最後は古田が最終戦で1打数1安打を放ったことで、タイトル争いに敗れた。この過程で古田のいるヤクルトスワローズとの最終戦では勝負を避けられ、1試合6四球の日本記録を作ったが、落合はヤクルトとの試合後に「こんなレベルで争ってる俺が悪い。歩かされたくなかったら自分が圧倒的な成績を残せば良いだけの話。」と発言している。

1992年、プロ野球選手会を脱退。同年シーズンの前半戦までは順調に打撃成績を伸ばしていたが、夏場以降は伸び悩み結果的に前年までと比べて数字が落ちた。その為、加齢による衰えが指摘され始めるなど、1984年以来の獲得タイトルなしに終わった。

1993年、史上初の両リーグ200本塁打を達成。同年オフ、導入されたばかりのフリーエージェント(FA)制度を行使してFAを宣言し、読売ジャイアンツに移籍した。[9]

巨人時代[編集]

落合が在籍した94年~96年の3年間、長嶋茂雄が率いるチームの2度(1994年、1996年)のリーグ優勝に4番打者として貢献した。94年の優勝決定戦(10.8決戦)で足の内転筋を痛めて以降、落合は重要な下半身からじっくりとリハビリやトレーニングで磨きをかけた。その結果、年齢的な衰えよりも落合自身の打撃技術の卓越さが際立つ成果が表れ、1995年のシーズンは打率.311、17本塁打、65打点という成績でリーグ4位の高打率をマークした。1995年4月に2000本安打も達成したが、先述のような経緯もあり、名球会入りを拒否した[10]。41歳4か月での2000本安打達成は自身がロッテ時代その打撃技術に一目置いていた新井宏昌の40歳2か月を抜き当時の日本プロ野球史上最年長記録となった(その後、2012年5月に宮本慎也が41歳5か月で記録して更新)。

1996年、史上7人目の通算500号本塁打、史上7人目の通算1500打点を達成。シーズン終盤に差し掛かるまでは打点王を争っていたが、8月31日の対中日戦で野口茂樹から死球を受け、左手首を骨折し戦線離脱。以降の試合は棒に振ったものの、同年の誕生日で43歳になるシーズンにも関わらず、前年の打撃成績を更に上回る打率.301、21本塁打、86打点の好成績を収めた。しかし、8月31日に受けた左手首への死球による骨折は、落合の打撃生命にとって致命的なものに近かった。さらに、離脱後に監督の長嶋から同年の日本シリーズでの復帰を強く懇願されていた。その期待に応えるため落合は無理を押して、復帰に向けバットを振り突貫的な調整を余儀なくされたことも大きく影響した。結果的に間に合うことができた落合は、日本シリーズ第1戦から復帰した。しかし、完治しきれていない状態での出場には変わりなかった。同年のオフに清原和博が巨人に入団してきたため、出場機会を求めて球団に自由契約を申し出る。退団会見の際には、長嶋監督が同席のもとで行われるという異例の会見となった。

日本ハム時代[編集]

1997年ヤクルトスワローズの誘いを断り、年俸3億円の2年契約を提示した上田利治が率いる日本ハムファイターズに移籍。背番号は「3」[11]。キャンプでは若手の生え抜きの上田佳範を指導し、上田は見事打率三割を規定打席に到達して記録した。自身は大杉勝男に次ぐプロ野球史上二人目の両リーグ1000本安打を達成するものの、打率.262、本塁打3、打点43という成績に終わった。これは年齢的な衰えだけが顕著になったわけではなく、前年の左手首骨折が完全に癒えていなかったこと、10年ぶりのパ・リーグ復帰、球場の広さ、巨人時代に比べてのデーゲーム増加といった様々な環境の変化も大きく影響した為であるとされている。また、6月以降に見られた疲労が重なったことも左右し、8月には落合自ら4番を降りて、6番での出場を申し出たほど屈辱的なシーズンとなった。いずれも規定打席に到達したシーズンの中では過去最低の成績に終わったが、44歳になる年での規定打席到達は現在でも日本プロ野球史上最年長記録である。落合は同年のオールスターゲームにも出場し、第2戦では指揮を執っていた仰木彬監督名物の粋な采配で1番打者として先発出場した。その始球式では女優の広末涼子とも対戦し球場が盛り上がるなど、結果的に落合にとって現役最後のオールスターゲーム出場となった。前年優勝争いをし惜しくも2位だったチーム成績は4位に終わり、自身にとってもチームにとっても不本意なシーズンとなった。

現役最終年となった1998年、前年の屈辱を晴らすべく落合は再び意地を見せた。バットを握る力を強めるためのバッティンググローブや、サン グラス着用といった改良も実践。春季キャンプからオープン戦にかけて、ホープとして打撃力を買われていた西浦克拓との熾烈な4番争いを繰り広げた。落合が開幕4番を勝ち取り、開幕から安打を記録4月下旬頃までは打率.300をキープしていた。しかし、一度打率が.300を切れた時点で、監督の上田は落合の打順を下位に降格させ西浦が4番を張る結果となった。その年の日本ハムは開幕から勝ち続け「ビッグバン打線」が爆発した。首位を走る中で、落合は下位打線はおろか出場機会も減少していった。これにより、前年からの指揮官との価値観や采配への疑問が露呈となって、落合自身の戦意が失われたと自らの著書『野球人』でも綴られている。後半戦はほとんど代打での出場や、ベンチを温める機会が多くなっていた。不本意なことに、9月以降のチームは勝ちが伸び悩み歴史的な急失速をしてしまう。その結果、西武・ダイエー・近鉄(いずれも当時)を含めた4チームが犇めき合うこととなり、最終的には西武が優勝を決めた。消化試合という寂しいシーズン最終戦となった、同年10月7日の対ロッテ戦(ダブルヘッダー第2戦)での代打出場が現役最終打席となった(対戦相手は黒木知宏。結果は一ゴロ)。落合は当日、上田監督からの先発出場の打診を断り、自らプロ入り初打席と同じ代打での最後の出場を選んだという。そのシーズン終了後、現役を引退した(任意引退ではなく自由契約での引退)。

選手引退後[編集]

引退後は野球解説者として活動。1999年から2001年まではテレビ朝日で専属解説者を務める(キャッチコピーオレ流解説)。その後はフリーとなっていた[12] が、テレビ朝日時代から通っていた九州朝日放送(KBC)には度々登場していた。また、1999年から2003年の間、日刊スポーツ野球評論家としても活動した。

その間の2001年2月、横浜ベイスターズのキャンプで臨時打撃コーチを務めた。

2003年オフ、中日ドラゴンズの監督に就任した(3年契約)。

中日監督時代[編集]

就任早々、16人の選手の背番号ユニフォームのデザインを変更した。このユニフォームは退任する2011年まで使用された。トレードの凍結を宣言し、外部からの補強は川相昌弘ドミンゴ・グスマン筒井正也のみにとどめた。キャンプ初日に紅白戦を実施。2004年、就任初年度にしてリーグ優勝を達成。日本シリーズでは、先に3勝しながらも3勝4敗で敗れ日本一ならず。リーグ開幕戦では3年間一軍登板のなかった川崎憲次郎を開幕投手に起用、川崎は5失点で降板するも逆転勝ちした。エースの川上憲伸を3戦目に先発させ3連敗のリスクを避けると同時に、川崎の開幕起用で補強なしの全選手横一線のチームに刺激を与えることと、先発投手についての情報の漏洩がないかを確かめることが目的と後に語っている(退任後に「外部に漏らしそうなコーチには伝えていなかった」と語っている)。また、投手起用については投手コーチの森繁和(投手チーフコーチ、一軍バッテリーチーフコーチを経て後のヘッドコーチ)がリリーフを含めて全て決めていたが、この川崎の開幕起用のみは落合が決めた[13]。落合が森に対し、川崎の開幕起用を提案したところ「長いシーズンでは負けてもいい試合がいくつかあるが、開幕戦からいきなり捨てゲームを作るのか」と呆れられたという。

2005年タイロン・ウッズがヤクルト投手の藤井秀悟に対する殴打事件による出場停止と交流戦における負け越しにより失速。2位に終わる。

2006年、監督として2度目のリーグ優勝を達成。普段はベンチに腰をかけて表情一つ変えない落合だが、優勝決定戦でウッズが満塁本塁打を放つと抱きついて出迎え、その時点から号泣しているシーンが見られた。試合終了後の優勝監督インタビューでも冒頭で言葉が出ないほど感極まっていた。ファンに日本一を約束したものの北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズでは1勝4敗で敗れまたも日本一ならず。オフに球団と新たに2年契約を結んだ。

2007年、ペナントレースでは連覇を逃し2位。同年から導入されたクライマックスシリーズで阪神に2連勝、巨人に3連勝と勝ち進み、日本シリーズに出場し、前年に続き日本ハムと戦い4勝1敗で日本一を奪取。本人いわく「プレーオフチャンピオン(価値のあるリーグ制覇を経ない日本シリーズ優勝)」ながらも、公式記録上53年ぶり2度目の日本一であり、更にその後行われたアジアシリーズでもチームをアジアチャンピオンに導いた。これらの功績が認められ、自身にとって、また中日の監督・選手として初となる正力松太郎賞を受賞。

アジアチャンピオンに輝き、選手達に胴上げされる落合博満(2007年11月11日・東京ドーム)

2008年、3位に終わる。監督就任5年目で順位・勝利数・勝率のいずれもワーストとなり、監督として最悪のシーズンとなった。ただし、本拠地・ナゴヤドームへの観客動員数は自身が監督を務めた8年間で最高であった。福留孝介メジャー移籍や北京五輪で5人の主力選手が抜けたことが響いた。クライマックスシリーズ2ndステージでは巨人に1勝したのみに終わり敗退。オフに球団と新たに3年契約を結んだ。

2009年、2位に終わる。クライマックスシリーズ2ndステージでも巨人に1勝したのみに終わり敗退。川上憲伸、タイロン・ウッズ、中村紀洋がチームを去り、谷繁元信がケガで離脱したこともあり、4月は負け越して開幕ダッシュに失敗。しかし、その後は巻き返し、7月には首位巨人に1.5ゲーム差まで迫ったが失速し、最終的に首位と12ゲーム差をつけられた。

2010年、監督として3度目のリーグ優勝を達成。井端弘和のケガによる離脱、トニ・ブランコの不調により得点力が大幅に低下し、一時は首位に8ゲーム差をつけられたが、リーグトップの投手陣の働きにより9月10日に首位に立ち、巨人・阪神との激しい三つ巴の争いを制して143試合目にして優勝を達成。クライマックスシリーズ2ndステージで巨人を4勝1敗で破り日本シリーズに進出したが、パ・リーグ3位から勝ち上がってきた千葉ロッテマリーンズに2勝4敗1分で敗れ日本一はならなかった。なお、2010年シーズン終了時点で7年連続で指揮した監督となり、与那嶺要(1972年 - 1977年)と星野仙一(第二次政権時の1996年 - 2001年)の6年連続を上回り球団歴代1位となった。

2011年1月14日、2011年度野球体育博物館(野球殿堂)競技者表彰に選出された。この年は攻撃陣の絶不調により前半戦は苦戦し、8月3日には5位に転落、首位ヤクルトとは最大10ゲームの差がつくが、9月に入りリーグトップの投手陣の働きにより巻き返し、ゲーム差を縮めていく。その中、9月22日に球団から同年シーズン限りでの監督退任を発表されるが[14]、その悪影響を感じさせず10月6日に首位に浮上、18日に142試合目にして優勝を決め(監督として4度目のリーグ優勝)、球団史上初のリーグ連覇を達成した。

監督としての契約は10月限りで切れていたので、以降は1日ごとの契約更新となった。ヤクルトとのクライマックスシリーズファイナルステージも4勝2敗(リーグ優勝アドバンテージ1勝を含む)で制し、2年連続(監督として5度目)の日本シリーズ進出を決め、試合後には当初予定されていなかった胴上げが行われた[15]。なお、同年の日本シリーズは3勝4敗で前年に続き日本一を逃したため、これが中日監督としての最後の胴上げとなった。2007年からセ・リーグにもクライマックスシリーズが導入されたものの消極的意見を持ち「完全制覇(リーグ優勝と日本一)」を目標に掲げていたが、達成されることなくユニフォームを脱ぐこととなった。11月10日、セ・リーグより最優秀監督賞に選出されたことが発表された[16]

11月20日、日本シリーズで福岡ソフトバンクホークスに敗れたその日をもって、監督退任となった。

監督退任後[編集]

2012年、日刊スポーツ評論家に復帰した。解説者としてはフリー。初解説は2012年4月15日に甲子園で行われた阪神対中日のテレビ中継だった(メ〜テレ制作)。

同年8月、顔面麻痺を発症し、病院に緊急搬送されたが間もなく退院する[17][18]。以後は、治療を続けながら講演や野球中継のゲスト解説などを行っている。

ゼネラルマネージャー[編集]

2013年10月9日、中日ドラゴンズが新設するゼネラルマネージャーへの就任が正式に発表された[19]

選手との契約更改とはGMとして初めて望み、山本昌井端弘和山内壮馬岩田慎司朝倉健太に減額制限を超える年俸を、吉見一起浅尾拓也荒木雅博ら18人が減額制限いっぱいの年俸を提示した。また、慣例では2年目は現状維持とされてきた新人にもドラフト1位から4位まで減額の年俸を提示された。中日球団を退団して巨人に入団した井端とFA宣言をしてソフトバンクに移籍した中田賢一を除く中日選手は落合の年俸提示に同意して契約更新し、総額8億円超のコストカットとなった。

プレースタイル[編集]

打撃[編集]

  • 落合の採用していた打法は、同じ神主打法を使用する他の選手と比べても独特であった。これはプロ入り間もない頃に受けた松沼博久の徹底したインハイ(内角高め)攻めに対応するため、改良を重ねて編み出されたものである。松沼は「最初のうち落合はインハイが全く打てず、ある時を境に苦手なはずのインハイばかり狙って振ってきた。そのうちインコースが投げ難い構え(神主打法)を編み出し、インハイを完璧にカットする技術を身に付けていた」と語っている。これには一軍に定着した頃に江夏豊からの「同じ球を待ち続ける打者が一番怖い」と言われ、その後はインハイの力のある球に振り後れないよう打席ではインハイを待っていたという。
  • ボールを運ぶ巧みなバットコントロールは、数々の逸話を生んだ。ロッテ時代、1986年シーズン終盤の打撃練習中にて、マスコミカメラがグラウンドにたくさん来ていた。カメラが目の前を通るため、落合は「危ないよ」と何度も警告を出した。しかしそれでもカメラマンが居座ったため、打席に立った落合は「じゃあ、そこ、狙うから」と言い、1球目を右に流し打ちしてフジテレビカメラマンの手持ちカメラレンズへ直撃させた。だが時価1000万円するカメラのレンズを割られたそのカメラマンは、「良い映像を撮った」という理由で後日に社長賞を受賞し、落合にお礼を言いにきたという。
  • 通算で510本の本塁打を放っているが、そのうちの176本は右翼への本塁打である(初の三冠王を取った1982年は32本塁打のうち20本が右翼への本塁打)。ちなみに、1998年の日本ハム時代に放った現役最後のホームランも東京ドームのライトスタンドに放り込んだ程、右方向の長打への理想は最後まで高いものがあった。アウトコースの球を払うように流し打ちをし、本塁打にしてしまう技術に感嘆したスポーツライターの山際淳司は、スポーツ選手に関するエピソードを集めた『ナックルボールを風に』(1983年)という著書の中の「アウトコース」で、落合を取り上げている。しかし当の本人は『別冊宝島 プロ野球・記録と記憶』(2000年)において、「俺の弱点はアウトローだった。俺ほど外の球を打つのが下手なのはいない」と語っている。実際に落合が得意としていたのはインコースをセンターから右に打つことだった。そのため、ライト方向へ多く飛ぶので「アウトコースは危ない。勝負するならインコース」と落合対策を練る他球団が増え、得意なコースばかり球がきて苦手なコースにはあまり投げ込んでこず、落合本人はそのことをほくそ笑んでいたという。
  • 内角打ちは芸術の域とまで賞賛されたが、一方で球を避けること自体はフォームの構造上得意ではなかった。北別府学は「試合の展開が見えてきてコントロールの良くない投手を相手にする時には、腰を引いて打席に立っていた」と指摘している[20](なお、中日移籍後の落合がセ・リーグでの第1号ホームランを打った投手は北別府である)。実際、落合の死球数は、リーグを代表していた強打者としては非常に少ない。
  • 選球眼が抜群で、リーグ最多四球を1984年から1991年の8年連続含め、通算9回記録した。通算1475四球は王貞治に次いで歴代2位、右打者では歴代1位である。四球が多いにも関わらず、三振数は少なく、3桁の三振を記録したシーズンは一度もない。

守備[編集]

  • 一塁手、三塁手、二塁手としてそれぞれ出場経験があるが、最も出場回数が多いのは一塁手である。守備範囲は狭かったが、捕球は堅実であった。自分が捕れる範囲の打球は確実に捌き、二塁手で守備率リーグトップになったシーズンもあるなど、守備率に関しては高い数値を残した。一塁手として通算1497試合・12717守備機会を残し、失策はわずかに58個で、一塁手プロ野球歴代1位(700試合以上対象)の通算守備率.9954を記録している。

人物[編集]

人物像[編集]

  • 20代で1度離婚後、ホステスをしていた9歳年上の信子と再婚した。信子は落合のFA権の行使や監督就任などを決断させたことでも知られる。2人の間には1987年8月20日に誕生した長男の福嗣がいる。
  • ロッテ時代の打撃練習にて、バットの芯を外れた内野ゴロばかり打っていた。その姿を見た村田兆治が声をかけると、落合は「ヒットでなくても三塁走者を帰せるよう“芯を外す練習”をしている」と答えた。村田は呆れつつも感心したという。また、現役時代の落合は口では「記録を出せば給料が上がる」と個人プレーに徹するような発言をしていたが、宇野勝が「落合さんが中日に来て、初めてチームバッティングとはどういうものかを教わった」と発言しているように、落合の打撃は状況に応じて安打、本塁打を狙い分けるものでチームの勝利第一であり、記録はその結果付いてきたものであった。実際、試合に勝つためにノーサインで突如送りバントを成功させ、周囲を驚かせたこともあった(シーズン終了後に「あれは勝つための判断」と説明)。
  • 愛甲猛清原和博宇野勝中村紀洋など新旧のスラッガーに信奉者は数多い。星野仙一も「大変優しい選手だ」とコメントしている。愛甲は自伝で、入団してしばらく投手として伸び悩んでいた愛甲に打者転向をすすめ、コーチングしてくれたのは、現役時代の落合だったと語っている。その指導は厳しいもので、あまりの厳しさに「俺はこれでも甲子園のヒーローなんです」と泣き言を言うと「じゃ甲子園にさっさと帰れ!」と怒鳴られたこともあるという。しかし落合の指導は適切かつ緻密、また愛甲の打撃力が向上したと判断すると首脳陣に「タケシ(愛甲)のバッティングがかなりよくなってきているからいま見にきてくれ」とすぐに電話する気配りもあった。打者転向によってプロとして成功した愛甲は落合のことをプロ野球世界での師匠として深く尊敬している。
  • 現役時代から「斜に構えた」スタイルをとることで知られる。現役時代「金のために野球をやっている」「多く給料を出してもらえるところへ行く」「金にならない試合には出ない」などと公然と言い放ち、FA宣言後も、巨人入団前から「一番お金を出してくれたチームに行く」と公言。巨人入りには当時のファンからは賛否両論があったが、「自分の力が(巨人で)通用するか証明したかったのもあるが、プロとして最も(金銭面で)評価してくれるところへ行くのは当然」と強調している。
  • 1985年から1987年まで社団法人日本プロ野球選手会の2代目の(プロ野球選手としては初の)理事長を務めたが、1992年に選手会を脱退した後の1993年、選手会が導入に尽力したFA制度を利用し、巨人に移籍している。
  • プロ入り前からの熱心な長嶋茂雄のファンで、後楽園球場での引退試合をスタンドで観戦している。巨人は1992年から長嶋が監督に復帰していたが、落合はロッテ時代に受けた取材にて「長嶋さんがもう一度巨人の監督になったら、世間からバカにされますよ。笑われますよ。だって、自分をクビにしたチームにのこのこ帰っていくヤツがどこにおるんよ」と発言し、取り沙汰されていた長嶋の巨人復帰に釘を刺したことがある[21]。しかし後年、落合も巨人に移籍し会見では「長嶋さんを胴上げするために来ました」と述べ、そして長嶋を胴上げに導いた。長嶋も落合について「自分は天才じゃない。本当の天才は王さんと落合さんの2人だけ」「フィールドに監督がもう一人いるようなもの」と語り、打撃はもちろん、投手への声掛けのタイミングや的確な指示内容などを高く評価していた。こうした経緯もあってか、ねじめ正一(詩人)、伊集院静(小説家)、テリー伊藤(TVプロデューサー)、鈴木敏夫スタジオジブリ)など、幅広い方面の長嶋ファンから絶大な支持を集めている。
  • 現役時代、プロ入り時の監督であった山内一弘からフォームの矯正を施されたが、指導された打法が合わなかった。しかし山内との関係が悪かったわけではなく、その後に出来上がった神主打法を改めて見てみたところ、山内から教わったものが自分のバッティングにも生きていることが分かったという[22]。落合は山内から伝授された打撃練習法(カーブマシンを自分の真正面に置き、自分に向かって飛んでくる球を左に打ち返すというもので、左脇を締めて壁を作る練習など)を現役晩年まで実践していた[23]。山内も落合の三冠王祝賀パーティで祝辞を述べ、「落合は入団した時から良い打者になれそうな雰囲気を持っていたから、付きっきりで指導した」と話している。
  • ロッテ時代の1984年から1986年に監督を務めていた稲尾和久を師と仰いでいる。現役時代、室内練習場で長時間にわたるバッティング練習を終えたところ、落合の指が感覚を失い、バットから離れなくなってしまう事態になった。その時、物陰から姿を現し、指をゆっくりとバットから離してあげた人物が稲尾だった。稲尾は落合の練習をずっと見守っていたのである。落合の稲尾への私淑はこの時がきっかけだという。稲尾もまた、1986年の序盤に極度の不振に陥った落合を4番で起用し続けるなど絶大な信頼を寄せ、落合もそれに応えて不振から立ち直り、3度目の三冠王に輝いた。落合が正力松太郎賞を受賞した2007年11月13日は奇しくも稲尾の命日でもあり、受賞後の会見で稲尾について「監督と選手の立場を超えて野球を語り合った。(稲尾が教えてくれた)打者には分からない投手心理は私の財産」との旨のコメントを残している。また、1986年は123試合の出場で50本塁打しており、7試合を残していたため、日本記録の55本塁打も十分狙える位置にいた。しかし、稲尾に残り試合を若手の育成に使いたいと言われ、本人も承諾し欠場した。これについて自伝では「来年でも十分狙えると思ったから」としているが翌年は中日にトレードになっている。本人曰く、「7人の監督に仕えたが野球を教わったのは山内さんと稲尾さんだけ[24]」。
  • ロッテ在籍時代、阪急ブレーブスのエース・山田久志とはライバルとして認め合い、数々の名勝負を繰り広げた。1980年5月28日の対阪急戦で2安打した落合を見た山田は、ブルペンに居た若手投手に「凄い打者が出てきた。あいつは三冠王を獲るかも知れない」と話したという[25]。果たして、落合はその2年後の1982年に初の三冠王に輝く事となった。落合はプロ入り当初、山田の決め球であるシンカーを全く打てなかったが、ある試合前に当の山田本人に攻略法を聞くという大胆な行動を起こし、「センター返しをしろ」とのアドバイスを貰い受け、それを実践し苦手のシンカーを克服した[25]。後の1982年4月29日の対阪急戦では、山田から3本のホームランを放っている。打った球は全てシンカーであった(ちなみに試合は阪急が勝利を収め、山田はこの試合で通算200勝目を挙げている)。通算対戦成績は、135打数32安打(打率.237)。二人は同郷であり、奇しくも前後して中日ドラゴンズの監督を務めている。
  • 鬼と化して野球に打ち込んでいるものの、落合本人は野球が好きなわけではなく、「俺は野球見るの嫌いだもん。大リーグも観ない。高校野球も観ない。これから仕事で、野球で頭を使わなきゃいけないのに、余計に頭を使う事はないだろ」と発言している通り、野球は仕事だと認識している[26]

野球[編集]

  • 2000本安打を達成しているが、それぞれ節目となる500本目、1000本目、1500本目、2000本目はすべて本塁打である。さらに、1000試合出場、2000試合出場の時にも本塁打を打っている(引退後のインタビューで全て狙って本塁打を打ったと明言している)。
  • その優れたバットコントロールのエピソードとして、このようなものがある。
    • 打者ヘルメットの耳当てが義務づけられた後も、特例規定で「耳無しヘルメット」を認められており、際どい内角球を防いでいたが東尾修との対戦では頭部付近に死球を受けた(厳しい内角攻めは東尾の持ち味でもあった)。次の打席、落合は東尾の足元を抜くセンター前ヒットを放つも、しかしどことなく不満げ。その次の打席で、落合は東尾を直撃する強烈なピッチャー返しを放つ(内野安打)。一塁ベース上の落合は少し満足げな表情を浮かべていた。「センター前ヒット、ピッチャー返しは打撃の基本(理想)」とされているが、これをプロの真剣勝負の場で狙って打つのは至難の業といえる。
    • 1987年に中日にトレードされた際、球団は本球場から離れた周囲・天井共にネットを張り巡らした体育館を急造の打撃練習場としていた。当然ボールがネットに乗り、垂れ下がってきてしまうので、選手がボールを投げて落とそうとするもなかなか上手く行かない。すると落合は「オレが落とすよ」と言い、ピッチングマシーンの球を打って打球をネットに当て始め、乗ったボールを落としていったという。セントラルリーグの審判部長を務めた田中俊幸は「まるで魔法のようなバットコントロールで、曲芸かマジックを見ているようだった」と述懐している[27]
  • 落合はゆるい球を自由に打ち返せれば調整はOKとしているが、ナゴヤ球場での打撃練習中のこと、審判が目慣らしのため近づいてきた。「10本打って何本スタンドに入ると思う?」と聞くと、ゆるい球は全力で打っても飛ばないため、審判は「精々4、5本だろう」と答えた。落合は「8本だ」と言い打ち始めると、打球はきれいな弧を描き、スタンドに吸い込まれていく。結果的に2本がフェンス前に落ち、スタンドインしたのは8本であった。その審判は「信じられない光景であった」と述べている[27]
  • 入団当初は三塁手だったが、一軍に定着するため、2年目からは当時手薄だった二塁手に転向。初めて三冠王を獲得した年のポジションも二塁手だった。有藤通世の外野手転向により三塁手に戻り、その後は守備の負担を考慮して一塁手に転向した。二塁手だった時期もあるため、2000年に日本野球機構などが行った「センチュリーベストナイン(20世紀ベストナイン)」投票で落合が二塁手として選ばれた(二塁手としてノミネートされていた)。ベストナインは一塁手で4回、二塁手で2回、三塁手で4回選ばれている。
  • 打撃の感触を重視するため、手袋を使わずに素手でバットを握った。これは往年の王貞治も同様である(ただし、春秋キャンプやオープン戦などの寒い時期は落合、王とも手袋を使用することがあった)。また、死球時の保護のため、緩衝材を入れた特注のリストバンドを使用していた。
  • 主流となっているユニフォームのズボンの裾を下まで下ろす着こなしは、中日選手時代の落合がチームメイトの宇野勝と共に始めたのが最初とされる。内野守備のクロスプレーで足をスパイクされるのを防ぐため、ソックスの上に毛製の足首のサポーターとストッキングを着用。血流が悪化しないようにそれまでズボンの裾に付いていたゴムをなくし、下まで下ろすようにした。同様の理由でソックスやストッキングは独自規格のものをメーカーに特注していたという。また、落合はロッテ時代に当時打撃コーチだった広野功の薦めで、木製バットの含水率を厳密に管理できるバットケース(富士シリシア化学製)の使用を始めた。これは球界におけるバットの含水率管理の先駆けである。
  • パシフィック・リーグで採用している指名打者制度には批判的であり、ロッテ時代は指名打者での出場があるが、現役最晩年の日本ハムでは指名打者での出場を頑なに拒否し、一度も指名打者では出場しなかった。通算2236試合に出場しているが指名打者での出場はわずか17試合である。
  • 広島東洋カープ前田智徳の打撃センスを評価しており、打撃指導の時は「広島の前田を参考にしろ」と言う事が多い。また、リトルリーグの指導をする時も「プロの真似をするなら広島の前田の真似をしなさい」と言う。自身の現役時代のフォームの真似については「(非常に高い打撃技術がない限り)真似るとスランプに陥る可能性があるので絶対にやめなさい」と述べている[28]。落合自身の打撃法について「俺と同じ打撃が出来るのは石嶺和彦だけ」と語っており、特に石嶺の内角打ちを高く評価していた。落合は中日の監督に就任すると同時に石嶺を中日の打撃コーチに迎え、石嶺は落合が監督在任した8年間、一貫して打撃コーチとしてチームを支えた。

発言[編集]

  • 「ボディービルダーになるんじゃないんだから」とウェイトトレーニング一辺倒に陥りやすい選手を批判しており、「広島カープの選手のようにバットを振って鍛えなさい」と言っている。「試合によって鍛えられる筋肉は練習によってしか鍛えられない」といった考えである。
  • 全盛期には毎年三冠王宣言をしてシーズンを始動していた。全盛期が過ぎてからも表面上は三冠王に頑なに拘っており、その発言で半ば意図的に自らを追い詰めることを意図していた節もあった。
  • 現在でこそ現役時代は人一倍バットを振ったことを認めているが、その全盛期(ことに2年連続三冠王を獲った時期)には世間的に「練習嫌い」とみなされており、 また本人も「練習しない」と発言していた。
  • 1998年、引退後にニュースステーションに出演。その中で横浜ベイスターズ佐々木主浩の決め球であるフォークボールに対して、「あれはフォークではなくカーブ」という旨の発言をするなど、佐々木の攻略法を語った。実際、他の選手が佐々木を苦手とした中、落合は佐々木をよく打っていた。落合の対佐々木通算成績は打率.444(36打数16安打4本塁打)である。また、佐々木はメジャーに移籍するまでの10年間でサヨナラ本塁打を1度しか打たれていないが、その唯一のサヨナラ本塁打を打ったのが中日時代の落合である。
  • 現役時代、シーズン中はぱっとしなくてもタイトル争いが掛かる終盤になると打ちまくったため、「帳尻合わせ」と揶揄されることもあった。また、消化試合に関しては解説者転向後に「盛り上がらない消化試合はいらない。中止になればその試合を移動日に前倒しして開催すればいい、ペナント優勝決定の時点でシーズンを終わらすのがいい」と発言し、話題になった。
  • 日本球界での「真」のホームランバッターとして、田淵幸一と秋山幸二の2人だけを挙げ、「自分も王(貞治)さんも違う」と語っている。また、2000年時点で、自らの現役時の記録において誇れるのは「3度の三冠王と2年連続50本塁打だけだ」と述べていた(どちらも当時、日本プロ野球界唯一の記録。2年連続50本塁打以上は2002年・2003年にアレックス・カブレラも達成した)。
  • 2006年、「斉藤(和巳)こそが日本球界でもっとも優秀な投手」と語るなど、斉藤和巳を絶賛する発言を連発した。斉藤が日本一の投手、メジャーでも活躍できるといった趣旨の発言もしている。
  • 2009年に行われた第2回WBC日本代表が優勝したことに対して、「よかったね、おめでとう。」とあまりにもそっけないコメントを残し [1]、同大会の日本代表に選出された中日所属の選手が全員出場を辞退している事と共に自身のWBCへの関心の無さを批判された。
  • 同年シーズン中、親会社が新聞社なのにも関わらず、記者団のインタビューで「当分俺からは野球の話はない。マスコミを使って選手にメッセージを伝えるのはやめた。新聞を読んでない選手もいるから」と発言。これが中日新聞社社長の大島寅夫の怒りを買い[要出典]中日新聞上でコラム『読む野球』を書かされることとなった[29]
  • 2011年、監督退任後の『報道ステーション』での長嶋一茂との対談で、統一球の影響については、「まったく関係ない」と発言し、「選手が『統一球は飛ばない』という言葉に逃げた。現に打てなくなった奴はみんなボール球を振っている。それでは打てないのは当然」と述べている[30]

オマール・リナレスとの友情[編集]

1978年7月にオランダで開催されたハーレムベースボールウィークの第11回大会に出場した落合はキューバの伝説の豪速球投手ブラウディリオ・ビネンから死球を受けてあえなく退場してしまう。それ以来、キューバの選手に対してはあまり良いイメージを持っていなかったという。1995年にキューバの選手が日本を訪問したおりにオマール・リナレスの手形を落合博満野球記念館に貰えないかという話になり、リナレスはこれを快諾。アントニオ・パチェコビクトル・メサと共に車で世田谷にある落合邸を訪問した。信子夫人と福嗣に歓迎されたが、落合は東京ドームの試合で留守だった。時間制限があったために落合に会えず、短時間で落合邸に別れを告げた。ところが、ホテルに戻ると信子夫人から連絡を受けた落合が駆けつけてきてくれていた。パチェコの誕生日祝いもあり、信子夫人と福嗣も後から合流してお祝いの会は大盛況で進んでいった。2人は野球談義ですっかり意気投合し、最後に落合はリナレスに「47歳までプレーする」と約束してみんなと別れた。翌1996年5月に再びキューバの選手が日本を訪問したおり、落合は再び彼らの宿舎を訪れ、リナレスとパチェコに自分のバットをそれぞれ1本ずつプレゼントした。亡命直前のローランド・アローホの誕生日も祝った。後日、リナレスの母校のピナール・デル・リオ大学で開かれた「リナレス展」の会場の真ん中に落合のバットが飾られていた。そこには「これは日本で三冠王を3度も獲ったオチアイという偉大な選手のバットです」と見学しに来ていた人に自ら説明するリナレスの姿があった[31]。後に2004年の一年間という短い期間ではあるものの、中日で落合は監督、リナレスは一塁手のレギュラーという間柄でリーグ優勝を達成した。

背番号へのこだわり[編集]

  • 背番号に対してのこだわりが強く、落合博満記念館は背番号「6」にちなんで六角形のデザインとなっている。2010年以降は眼鏡をかけるようになったが、フレームの淵の部分には漢字で「六」と入っている。巨人移籍時に「6」は篠塚和典が着用していたため「6」に「0」をつけた「60」を着用した(篠塚が引退した翌1995年からは「6」に変更)。1994年は巨人の球団創設60周年であり、尚且つ落合が同年開幕時に4番に立った場合巨人の「第60代4番打者」になるために選んだとも言われている。また、中日監督就任後は、「6」を二つ重ねた「66」を背番号としている。
  • 中日監督就任後も背番号のこだわりを随所に見せており、谷繁元信が当時「7」を着用していたのを「捕手の番号らしくない」と森昌彦大矢明彦伊東勤・古田敦也など歴代の名捕手が着用していた「27」に変更させている。当時「16」をつけていた森野将彦の番号を就任直後に「8」、2006年からは「31」に変更している[32]2009年には、現役を引退しファンから永久欠番の署名活動があった立浪和義の「3」を森野に与えようとしたが本人が辞退している。なお3番は1年間欠番となった後、2011年から吉川大幾に与えた。
  • 中日を代表する投手が代々着用し伝統となっていた“中日のエースナンバーは「20」”という考え方にも否定的で、2004年の川崎憲次郎が引退後に入団した中田賢一に「20」を与えた。「オレの中では18がエース番号。だれかがあれ(20)をつけないと番号が足りない」と説明している[33]
  • 中里篤史佐藤充など、後がない選手には1年だけ猶予を与えるが、支配下の選手の中で一番下という意味で背番号を「70」に変更させる。結局、中里と佐藤は結果が出せず1年後に戦力外となった。また、この2人以前にも70をつけていた鳥谷部健一2006年)、三澤興一2007年)は移籍して1年でそれぞれ戦力外となっている。ただし、2011年に加入したエンジェルベルト・ソトは例外で、入団当初から「70」をつけていた。GMとして中日復帰後は「70」をつけていたダニエル・カブレラの背番号を「99」に変更させ、谷哲也の背番号を「70」に変更させた。

ガンダムファン[編集]

ミラクルジャイアンツ童夢くん[編集]

  • 石ノ森章太郎の漫画およびアニメ『ミラクルジャイアンツ童夢くん』に実名で中日選手として登場(声優は沢木郁也)。劇中の主人公、新城童夢(ジャイアンツ)の投げる魔球「童夢スペシャル1号・スノーミラージュボール」を初めて打破するなど、実在の選手としては最大のライバルとして童夢に対峙する(他に童夢の魔球と対決するのは架空の人物が主)。アニメのサブタイトルにも「落合、魔球打倒宣言」(第8話)、「対決!落合対童夢」(第9話)などと題される。夫人の信子も劇中に登場した。

監督として[編集]

  • 就任初年度から広いナゴヤドームを中心にローテーションを組む戦略を展開し、ホームゲームにおいて高い勝率・防御率を残した。
  • 監督就任時の2004年は「この1年は補強を凍結し、個々の選手の能力を10%底上げして日本一を獲る」という公約を掲げ、補強は控えた(なお、戦略的な意味では表ローテとなるドミンゴ・グスマンを獲得している)。2005年のシーズンに向けては凍結を解除し、阪神と競合の上、横浜タイロン・ウッズを獲得。一方、新規参入にもかかわらず拡張ドラフトが行われずチーム編成もままならなかった楽天関川浩一酒井忠晴小山伸一郎紀藤真琴の4人を無償でトレード移籍させた。楽天には翌年にも実力がありながら出番に恵まれなかった土谷鉄平を金銭で移籍させている。また、在任期間中に野口茂樹福留孝介川上憲伸中村紀洋と4人の選手がFA権を行使して移籍していったが落合自身がかつてFA権を行使して移籍した経緯(本人曰く「選手が自分で勝ち取った権利」)がある為、移籍を容認するスタンスを取っており、残留交渉も消極的ではあった。
  • 試合中は常に無表情で感情を表に出さず、選手交代を告げる時とマウンドに行く時以外はベンチ奥で腕組みし足を組んで座ったままほとんど動くことはなく、好プレーをした選手や本塁打を打った選手を迎えることもしなかった。これは、個々のプレーに一喜一憂して感情を見せてしまうと、選手が監督の顔色を窺うようになってプレーに影響するためとしている。2011年11月の監督退任後には「イニング毎に必ずベンチを立って、監督室の中で表情変えて独り言を言ったりして、頭の切り替えを繰り返していた」と明かした[36]。他方、オールスターゲーム等では笑顔で選手とタッチを交わしたりしていた。また就任当初は感情を露にする事も珍しくはなかった。
  • マスコミに対しては、試合後のコメントも他の監督に比べ短く、落合の試合後のコメントを毎回掲載する東京中日スポーツの「オレ流語録」コーナー掲載のコメントはほとんど一行のみである。現役時代にチーム事情を敵にばらす記者がいることを知り、自分のチーム事情が漏れるのを警戒しているからであるとされている[37]。また、選手の個人名を出して批判することはあまりしない。これは「選手には家族がいる。もし俺が試合後のコメントで名指しで批判したら、妻が何かいわれたり、子供が学校でいじめられたりする可能性が大きい」と自らの選手時代の体験による配慮である。しかしそれゆえ、負けが込んでくると貝になったように話さないようになり、上記「オレ流語録」コーナーでも無言で去った旨の記述が散見される。
  • 上記の事情から、マスコミはもちろん、球団内からも「ファンサービスが足りない」と批判を受けていた。こうした批判に対し、落合は「(プロ野球チームは)勝つことが最大のファンサービスである」と常々口にしている。ただし、2004年プロ野球再編問題 (2004年)の時は例外で、同年の中日は首位を走っていたが、プロ野球ストライキ前には、選手会長の井端弘和を呼び、「選手会として、徹底的に戦ってこい。優勝や日本シリーズがなくなってもかまわない。世の中にはそれ以上に大切なことがある」と言ったという[38]。また、スト決行後は取材に対し「経緯を考えてみろ。選手会もやりたくてストをやったわけじゃない。(日本野球機構側に)やりようならいくらでもある。時間もまだあるじゃないか」「長年、この世界にいるから経営者側、選手会側の言い分も分かる。ただ赤字が続くというなら赤字を減らす努力をなぜしないんだ」と、この問題は機構・経営側に主たる責任があるという見解を示した。この時点でパ・リーグ首位のダイエー監督・王貞治は、「今の時代は企業も伸びたり、縮んだりしている。選手会が雇用の枠を譲れないというのだけでは、まかり通らない」と選手会を批判しており、好対照の発言となった[39]
  • 岡田彰布は落合と2008年オフに会話した折、これからはウッズ・和田など他球団の強力な主軸をマネーゲームで取る野球ではなく、選手を育成して勝利するという強い執念を感じたという[40]
  • 2007年オリックスとの契約交渉がこじれて自由契約になった中村紀洋を、2000年から落合の指導を受けていることもあり育成選手(後に支配下登録)として獲得した(中村とは近鉄時代から交流があり、また落合とも親友で近鉄の監督経験者であった梨田昌孝が間を取り持った)。
  • 2005年の日本シリーズでこの年レギュラーシーズン2位(プレーオフ規定によりリーグ1位)だったロッテが日本シリーズを制した際、「(ロッテは)日本一じゃなくてプレーオフチャンピオンだろ」「2位で日本一なんかになったって俺はちっとも嬉しくないし、俺が当事者だったら釈然としない」とコメントした。2年後の2007年に自身がその当事者になってしまったが、「リーグ優勝できなかったことに不満はある」と語っている。この意志を貫き同年のプレーオフでは胴上げを辞退している。また、2007年よりセントラル・リーグにもプレーオフ制度が導入されたが、落合は常々プレーオフ制度には反対の意向を示しており、「あくまでペナントレースの優勝に価値がある」と自論を展開し「日本シリーズは今年(2006年)で最後」と発言している。しかし、2009年のペナントレースで優勝を逃したときは「本当の戦いはこれからだ」とクライマックスシリーズから勝ち上がれば良いとも取れる発言をしたり、リーグ優勝が不可能な状況に陥るとクライマックスシリーズを見据えた戦術になることもあった等、決められたルールを最大限に生かす戦法を8年間貫いていた。
  • 2度目のリーグ優勝を成し遂げた2006年10月10日の東京ドームにおける勝利監督インタビューにおいて、こらえきれずに泣き出してしまった。実は延長12回の優勝を決定付けるウッズの満塁本塁打の直後からすでに泣いており、普段は本塁打を打った選手を出迎えることなどは一切無いのに、この時だけは満面の笑顔でウッズを出迎え、抱き合い、その直後から何度もタオルで涙をぬぐう姿が見られた。「今日は絶対に泣くまいと思っていましたが、最初に泣いたのは私でした」とコメント。また「1位で走っている球団の方が、追いかける球団よりも楽に決まっている」とインタビューで度々答えていたものの、優勝決定直後には「(一時は圧倒的なゲーム差を付けるも、終盤に驚異的な追い上げを見せた阪神に対して)あそこまで追い込まれるとは思わなかった」と本音を漏らした。
  • 2007年、投手として入団した2年目の金本明博を野手へ転向させることを決断。それにより今年中の一軍昇格は無理だと判断したことと、もしもの時に備えて70人ギリギリの選手枠に空きを作りたいということを理由に、ウェーバーにかけた後に他球団から獲得の意思が無ければ育成選手として再契約することを決めた。だが、選手会はこの件に関して、「育成選手の意味を都合良く解釈するな」と猛抗議。落合もこれに真っ向から反論。「本人と十分に話し合って同意を得た上で、決められたルールに従ってやったことだ。本来なら金本は、8月には整理リストに入っていても(解雇の候補に挙がっても)おかしくない選手。育成選手枠の存在があるからこそ、金本は今も中日のユニフォームを着ていられるんだ」と発言している。結局は同年5月1日、セ・リーグ会長の豊蔵一が金本のウェーバー公示の取り消しを中日球団に通告。「総合的に判断して決めた。ウェーバー公示の一方的な取り消しは規約違反だと分かってはいるが、承知の上」と弁明。だが、落合は「正規のルールに従ってやっていることなのに、何故そういうことになるのか」と激怒した上で対応を球団に全て任せるとし、中日球団は法廷闘争も辞さない構えを見せていたが、結局はこの取り消しを承諾。金本は投手から内野手に再登録して支配下登録のまま中日に身を置いていたが、同年10月29日球団から戦力外通告を受け、育成選手としての再契約も断り引退した。
  • 2007年11月1日、日本ハムとの日本選手権シリーズ第5戦で平田良介が打った犠牲フライによる1点を守りきり、球団として53年間達成できなかった日本一を成し遂げた。その一方で8回表まで完全試合投球を続けていた先発の山井大介を9回表に岩瀬仁紀へ交代させた采配には、他球団ファンや在京マスコミを中心として賛否両論が巻き起こった(2007年日本シリーズにおける完全試合目前の継投)。
  • 2007年11月13日、プロ野球界最高の賞である正力松太郎賞を選考委員会の満場一致で受賞した。その際、選考委員長であった川上哲治は「正力さんはいつも『勝負に私情をはさんではいかん』と言っておられた。日本シリーズでも勝敗に徹して、そういう強い信念が感じられた」とコメントし、賞の選考において同年の日本シリーズにおける先述の采配を肯定的に評価したことを明言している。指導者像に厳しい川上が監督を高評価するのは異例のことである。川上以上に指導者像に辛口な広岡達朗も落合の練習指導ぶり、非情な采配ぶりを高く評価している。
  • 2008年8月4日、山本昌完投で通算200勝を達成した際には先述の日本シリーズの件を引き合いに「代えられません! 日本シリーズとは違います。日本シリーズはチームの記録。きょうのは本人の記録です」と発言して記者たちの笑いを誘った。
  • 2009 ワールド・ベースボール・クラシックにおいて、12球団で中日だけが自軍の選手を誰も派遣しなかったことで、各方面から落合に対して様々な批判が寄せられた。しかしこれは落合が選手の派遣を拒否したのではなく、選抜された選手全員がペナントレースへの影響を考慮して出場を辞退したためである。また落合は「行くも行かないも選手の自由」としながらも、「選手はあくまでもペナントレースを戦うことが仕事」であると主張しており、万が一怪我をした場合の補償が万全では無いことなどを理由に、国際大会にプロの選手が出場すること自体は快く思っていない。自身が出筆した「采配」では、「中日ドラゴンズとの間で交わしている『チームを優勝させるために全力を尽くす』という契約を放り出すわけにはいかない。だが、契約相手である球団オーナーを通じて就任を要請されれば、断る理由がない。仕事の場面においては、契約はすべてに優先する」と記されている。
  • その意向もあってか2009年のクライマックスシリーズ敗戦後にシーズンを総括する談話の中で「契約社会なんだけど、時には会社員のような扱いをして。本来ありえない扱いが存在している。今の球界のあり方は正力松太郎さんが目指したものか聞いてみたい」と発言している[41]
  • コーチ陣の要職に関しては、二軍監督以外は他球団で一般的な一軍・二軍別の専門コーチング体制を取らずにチーム状況を見てシーズン中のコーチの入れ替えを行う事もあった。
  • 2010年10月2日、セ・リーグ8回目の優勝を果たした後、「一旦一軍の選手全員の出場選手登録を抹消する。クライマックスシリーズ、日本シリーズは最も調子のいい選手を起用する」と発言したのがその象徴と言える(抹消してから10日間は一軍への再登録が出来ないが、発言からクライマックスシリーズまでには18日あり影響はない。そして10月4日付で出場選手登録抹消を実行した。[42])。ただし出場選手登録の抹消に伴いFA資格の取得日数に影響することと、堂上直倫前田章宏など当時若手で年俸が低かった選手はその間の追加参稼報酬[43] を受け取れないことになるため、「若手選手がかわいそう」との批判もある[44]。尚このことがきっかけとなり2011年に制度が改正され、クライマックスシリーズ出場が決まったチームはレギュラーシーズン終了からクライマックスシリーズまで10日以上の間隔がある場合に限り、出場選手登録を自動的に抹消され、ポストシーズン開催時に再び出場登録された際には、抹消期間も出場選手登録期間として数えられるようになった。これにより2010年に出場選手登録を抹消された中日の選手全員も、抹消された期間を遡って出場選手登録期間として数えられることになった。
  • 江川卓の才能を高く評価している。現役時代にセ・リーグへ移籍した際には、「セ・リーグで対戦したい投手は江川だけ」と評した。引退後も江川からのインタビューは一度も断らずに受けており、退任発表後として初めての単独インタビューを了承した相手も江川であった[45]。また、対談をする度に江川に「早くユニフォーム着ろ」と監督になることを薦めており、その対談の際には「監督になった時に参考にして」と自分なりのアドバイスも贈っている。
  • 監督として6度の退場処分を受けている(なお、現役時代の退場処分はロッテ時代と巨人時代に1度ずつ)。このうち1度は審判への暴言、残りは抗議時間の長期化(試合進行の妨げ)である。
  • 監督時は、全権監督として球団と契約を行っており、チーム全体の編成権やドラフト会議においても積極的に介入した。例えば、2006年は平田良介、2009年には野本圭の1位指名を熱望し、それぞれ1位指名し獲得した。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1979 ロッテ 36 69 64 7 15 3 1 2 26 7 1 0 0 0 4 0 1 12 2 .234 .290 .406 .696
1980 57 188 166 28 47 7 0 15 99 32 1 0 2 2 17 0 1 23 5 .283 .349 .596 .946
1981 127 502 423 69 138 19 3 33 262 90 6 3 1 4 68 1 6 55 17 .326 .423 .619 1.043
1982 128 552 462 86 150 32 1 32 280 99 8 2 0 4 81 6 5 58 11 .325 .428 .606 1.034
1983 119 497 428 79 142 22 1 25 241 75 6 5 0 3 64 5 2 52 14 .332 .419 .563 .982
1984 129 562 456 89 143 17 3 33 265 94 8 1 0 4 98 8 4 33 14 .314 .436 .581 1.017
1985 130 568 460 118 169 24 1 52 351 146 5 1 0 4 101 26 3 40 16 .367 .481 .763 1.244
1986 123 522 417 98 150 11 0 50 311 116 5 1 0 1 101 19 3 59 15 .360 .487[注釈 2] .746 1.232
1987 中日 125 519 432 83 143 33 0 28 260 85 1 4 0 4 81 10 2 51 10 .331 .435 .602 1.037
1988 130 557 450 82 132 31 1 32 261 95 3 4 0 6 98 13 3 70 11 .293 .418 .580 .998
1989 130 559 476 78 153 23 1 40 298 116 4 3 1 6 75 7 1 69 11 .321 .410 .626 1.036
1990 131 570 458 93 133 19 1 34 256 102 3 3 0 8 100 17 4 87 7 .290 .416 .559 .975
1991 112 478 374 80 127 17 0 37 255 91 4 2 0 5 95 16 4 55 9 .340 .473 .682 1.155
1992 116 481 384 58 112 22 1 22 202 71 2 3 0 6 88 8 3 74 12 .292 .422 .526 .948
1993 119 504 396 64 113 19 0 17 183 65 1 2 0 8 96 14 4 69 13 .285 .423 .462 .885
1994 巨人 129 540 447 53 125 19 0 15 189 68 0 0 0 6 81 4 6 56 13 .280 .393 .423 .815
1995 117 483 399 64 124 15 1 17 192 65 1 0 0 8 73 2 3 87 17 .311 .414 .481 .895
1996 106 448 376 60 113 18 0 21 194 86 3 0 0 2 67 3 3 53 11 .301 .408 .516 .924
1997 日本ハム 113 466 397 35 104 14 0 3 127 43 3 0 0 5 61 1 3 60 16 .262 .361 .320 .680
1998 59 192 162 11 38 6 0 2 50 18 0 1 0 2 26 0 2 22 12 .235 .344 .309 .652
通算:20年 2236 9257 7627 1335 2371 371 15 510 4302 1564 65 35 4 88 1475 160 63 1135 236 .311 .422 .564 .987
  • 括弧内はリーグ平均[46]
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高

年度別監督成績[編集]

レギュラーシーズン
年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
チーム
得点
チーム
失点
年齢
2004年 中日 1位 138 79 56 3 .585 (7.5) 111 .274 3.86 623 558 50歳
2005年 2位 146 79 66 1 .545 10.0 139 .269 4.13 680 628 51歳
2006年 1位 146 87 54 5 .617 (3.5) 139 .270 3.10 669 496 52歳
2007年 2位 144 78 64 2 .549 1.5 121 .261 3.59 623 556 53歳
2008年 3位 144 71 68 5 .511 10.0 140 .253 3.53 535 556 54歳
2009年 2位 144 81 62 1 .566 12.0 136 .258 3.17 605 508 55歳
2010年 1位 144 79 62 3 .560 (1.0) 119 .259 3.29 539 521 56歳
2011年 1位 144 75 59 10 .560 (2.5) 82 .228 2.46 419 410 57歳
通算:8年 1150 629 491 30 .562 Aクラス8回
※1 順位の太字は日本シリーズ優勝、チーム成績の太字はリーグ1位(最優秀)、下線はリーグ最下位
※2 2001年から2004年までは140試合制(2004年は選手会ストライキのため2試合が行われなかった)
※3 2005年から2006年までは146試合制
※4 2007年から144試合制
※5 優勝年のゲーム差は2位とのゲーム差
ポストシーズン
年度 球団 大会名 対戦相手 勝敗
2004年 中日 日本シリーズ 西武ライオンズ 3勝4敗
2006年 日本シリーズ 北海道日本ハムファイターズ 1勝4敗
2007年 セ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ
阪神タイガース(セ・リーグ3位) 2勝0敗
セ・リーグ クライマックスシリーズ
2ndステージ
読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝) 3勝0敗
日本シリーズ 北海道日本ハムファイターズ 4勝1敗
2008年 セ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ
阪神タイガース(セ・リーグ2位) 2勝1敗
セ・リーグ クライマックスシリーズ
2ndステージ
読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝) 1勝2敗1分
2009年 セ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ
東京ヤクルトスワローズ(セ・リーグ3位) 2勝1敗
セ・リーグ クライマックスシリーズ
2ndステージ
読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝) 1勝3敗
2010年 セ・リーグ クライマックスシリーズ
ファイナルステージ
読売ジャイアンツ(セ・リーグ3位) 3勝1敗
日本シリーズ 千葉ロッテマリーンズ 2勝4敗1分
2011年 セ・リーグ クライマックスシリーズ
ファイナルステージ
東京ヤクルトスワローズ(セ・リーグ2位) 3勝2敗
日本シリーズ 福岡ソフトバンクホークス 3勝4敗
※ 2008年と2009年のクライマックスシリーズ2ndステージではセ・リーグ優勝の読売ジャイアンツに、また2010年と2011年のクライマックスシリーズファイナルステージ(2ndステージより名称変更)では、同じくセ・リーグ優勝の中日ドラゴンズに1勝のアドバンテージが与えられたが、ここではアドバンテージ分は除いた勝数を示した

タイトル[編集]

  • 三冠王:3回 (1982年、1985年、1986年)※史上最多
  • 首位打者:5回 (1981年 - 1983年、1985年、1986年)※右打者のパ・リーグ記録
  • 本塁打王:5回 (1982年、1985年、1986年、1990年、1991年)※両リーグ本塁打王は史上初
  • 打点王:5回 (1982年、1985年、1986年、1989年、1990年)※両リーグ打点王は史上初、現在も唯一
  • 最多勝利打点:5回 (1982年、1985年、1988年、1989年、1993年)※受賞5回は史上最多、1989年と1993年は特別賞
  • 最高出塁率:7回 (1982年、1985年 - 1988年、1990年、1991年)※受賞7回は歴代2位、右打者歴代1位
  • 最多安打:1回 (1982年)※当時連盟表彰なし

表彰[編集]

記録[編集]

日本記録
  • シーズン得点圏打率:.492(1985年)
  • シーズン出塁率:.487(1986年)※NPB公式での日本記録。ただし、出塁数を採用していた時代のセリーグの記録に遡ると1974年王貞治の.534が日本記録となる。
  • 1試合6四球(1991年10月13日)
パ・リーグ記録
  • シーズン打点:146(1985年)
  • シーズン長打率:.763(1985年)
初記録
  • 初出場:1979年5月29日、対南海ホークス前期8回戦(川崎球場)、7回裏に新井昌則の代打として出場
  • 初先発出場:1979年5月30日、対南海ホークス前期9回戦(川崎球場)、7番・三塁手として先発出場
  • 初安打・初打点:同上、6回裏に森口益光から
  • 初本塁打:1979年5月31日、対南海ホークス前期11回戦(川崎球場)、3回裏に山内新一から3ラン
節目の記録
  • 100本塁打:1983年8月31日、対阪急ブレーブス20回戦(阪急西宮球場)、9回表に山沖之彦から左越先制3ラン ※史上127人目
  • 150本塁打:1985年5月5日、対南海ホークス4回戦(川崎球場)、5回裏に大久保学から ※史上75人目
  • 200本塁打:1986年5月31日、対阪急ブレーブス8回戦(川崎球場)、2回裏に今井雄太郎から中越先制ソロ ※史上48人目
  • 250本塁打:1987年5月19日、対読売ジャイアンツ7回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に西本聖から中越2ラン ※史上27人目
  • 1000本安打:1987年6月2日、対横浜大洋ホエールズ9回戦(ナゴヤ球場)、7回裏に高橋一彦から左越ソロ ※史上148人目
  • 1000試合出場:1988年5月14日、対読売ジャイアンツ7回戦(ナゴヤ球場)、4番・三塁手として先発出場 ※史上276人目
  • 300本塁打:1988年10月2日、対阪神タイガース23回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に仲田幸司から右越決勝ソロ ※史上19人目
  • 350本塁打:1990年5月8日、対阪神タイガース3回戦(浜松球場)、3回裏に嶋尾慶一から左越先制3ラン ※史上14人目(歴代2位の1257試合で到達:当時史上最速、後にアレックス・カブレラが更新)
  • 1000打点:1990年6月12日、対広島東洋カープ9回戦(広島市民球場)、9回表に高木宣宏から右越3ラン ※史上21人目(歴代最速の1284試合で到達)
  • 1500本安打:1990年9月5日、対読売ジャイアンツ22回戦(東京ドーム)、9回表に桑田真澄から左越3ラン ※史上59人目
  • 3000塁打:1991年6月30日、対読売ジャイアンツ10回戦(ナゴヤ球場)、8回裏に香田勲男からソロ ※史上30人目
  • 400本塁打:1991年8月30日、対広島東洋カープ15回戦(広島市民球場)、4回表に金石昭人から中越ソロ ※史上11人目
  • 1000得点:1992年4月26日、対阪神タイガース5回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に中込伸からソロ本塁打を放ち達成 ※史上24人目
  • 1500試合出場:1992年5月4日、対広島東洋カープ3回戦(ナゴヤ球場)、4番・一塁手として先発出場 ※史上101人目
  • 3500塁打:1993年8月15日、対読売ジャイアンツ18回戦(東京ドーム)、8回表に橋本清から単打 ※史上18人目
  • 450本塁打:1993年8月18日、対ヤクルトスワローズ18回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に川崎憲次郎から先制決勝2ラン
  • 300二塁打:1994年4月16日、対ヤクルトスワローズ2回戦(東京ドーム)、7回裏に内藤尚行から ※史上31人目
  • 2000本安打:1995年4月15日、対阪神タイガース2回戦(東京ドーム)、6回裏に久保康生から左越ソロ ※史上27人目
  • 1000三振:1995年10月8日、対広島東洋カープ27回戦(東京ドーム)、2回裏に紀藤真琴から ※史上21人目
  • 4000塁打:1996年5月18日、対ヤクルトスワローズ7回戦(東京ドーム)、2回裏にテリー・ブロスからソロ本塁打を放ち達成 ※史上11人目
  • 2000試合出場:1996年5月29日、対ヤクルトスワローズ10回戦(東京ドーム)、4番・一塁手として先発出場 ※史上29人目
  • 500本塁打:1996年7月3日、対ヤクルトスワローズ15回戦(明治神宮野球場)、6回表にテリー・ブロスから逆転2ラン ※史上7人目
  • 1500打点:1996年8月27日、対広島東洋カープ21回戦(広島市民球場)、8回表に白武佳久から右前決勝適時打 ※史上7人目
オールスターゲームの記録
  • オールスターゲーム出場:15回 (1981年 - 1991年、1993年、1995年 - 1997年)
  • オールスターゲーム通算打率:.365 ※100打数以上では、歴代1位タイ。
  • オールスターゲーム通算本塁打:11本 ※歴代4位
  • オールスターゲーム通算打点:27 ※歴代3位タイ
その他の記録
  • シーズン得点:118(1985年)※右打者のパ・リーグ記録
  • シーズン塁打:351(1985年)※右打者のパ・リーグ記録
  • シーズン打率3割以上:11回(1981年 - 1987年、1989年、1991年、1995年、1996年)※歴代5位タイ、右打者歴代1位タイ。1996年は43歳になる年での達成で史上最年長記録。
  • シーズン50本塁打以上:2回(1985年、1986年)※歴代2位タイ
  • シーズン打率.360以上:2回(1985年、1986年)※日本タイ記録、右打者では史上唯一
  • シーズン30本塁打以上:9回(1981年、1982年、1984年 - 1986年、1988年 - 1991年)※歴代3位タイ
  • 17年連続シーズン100安打以上(1981年 - 1997年)※歴代4位タイ
  • 2年連続シーズン50本塁打以上(1985年 - 1986年)※史上初
  • 両リーグ1000安打以上(パ1096本、セ1275本)※史上2人目
  • 両リーグ200本塁打以上(パ247本、セ263本)※史上唯一
  • 5試合連続本塁打(1989年10月10日 - 10月14日)
  • 通算打率:.3108(1979年 - 1998年)※右打者の日本人歴代最高打率、5000打数以上では右打者最高打率
  • 通算出塁率:.422(1979年 - 1998年)※歴代2位、右打者歴代1位
  • 通算長打率:.564(1979年 - 1998年)※右打者の日本人歴代1位
  • 通算四球:1475(1979年 - 1998年)※歴代2位、右打者歴代1位
  • シーズン打率:.367(1985年)※右打者歴代3位
  • シーズン本塁打:52(1985年)※右打者の日本人歴代最多タイ記録

背番号[編集]

  • 6 (1979年 - 1993年、1995年 - 1996年)
  • 60 (1994年)
  • 3 (1997年 - 1998年)
  • 66 (2004年 - 2011年)

関連情報[編集]

著書[編集]

関連書籍[編集]

出演番組[編集]

出演CM[編集]

ディスコグラフィー[編集]

  • 「サムライ街道/そんなふたりのラブソング」(1986年)「そんなふたりの…」は夫人の信子とデュエット。5万5000枚を売り上げた[47]
  • 「男のララバイ」(1987年)
  • 「めぐり逢い」(1989年12月22日)
  • 「恋の広小路」(1990年12月12日)中村美律子とデュエット
  • 「落涙」(1991年12月24日)
  • 「縁歌酒」(1992年9月21日)多岐川舞子とデュエット
  • 「息子へ」(1993年1月8日)
  • 「夜明川」(1994年1月15日)
  • 「涙 渇くまで」(1996年2月21日)林るり子とデュエット
  • 「抱かれて乾杯」(1997年3月20日)若山かずさとデュエット
  • 「霧の別れ」(1998年3月21日)若山かずさとデュエット
  • 「サムライ街道/男のララバイ」(2004年2月11日)
  • 「旅路のひと」
  • 『オレ流クラシック』(落合博満選曲・監修、キングレコード、2005年11月23日、KICC-556)
  • 『落合博満ゴールデン★ベスト』(EMIミュージックジャパン、2011年11月23日、TOCT-11284)

注釈[編集]

  1. ^ 1982年のパ・リーグ総本塁打数が772本なのに対し、1985年は1050本、1986年は1006本と200本以上増加している。打率も1982年が.259なのに対し1985年は.272、1986年は.270であり、リーグ全体が投低打高化している。
  2. ^ 赤太字で表記しているが、出塁率が公式記録として採用される前には落合の記録を上回る記録も存在し、公式記録以前を含むシーズン出塁率では歴代8位の記録である(出塁率を参照)。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d e 二宮清純『プロ野球「衝撃の昭和史」』、文藝春秋、2012年、ISBN 9784166608812
  2. ^ テリー伊藤『なぜ日本人は落合博満が嫌いか?』p142(2010年、角川書店)
  3. ^ 岡邦行『プロ野球 これがドラフトだ!』、1989年11月30日、三一書房、ISBN 4380892492
  4. ^ a b 落合博満こ『なんと言われようとオレ流さ』、講談社、1986年4月、ISBN 4062026295
  5. ^ このことが落合が「オレ流」と呼ばれる所以である。
  6. ^ 筒香 シーズン得点圏打率4割なるか イチらと並ぶ最年少タイ23歳”. スポーツニッポン (2014年7月29日). 2014年7月29日閲覧。
  7. ^ この年を最後に、ロッテでは本塁打王のタイトル獲得者は2014年シーズンまで出ていない。
  8. ^ a b 【12月23日】1986年(昭61) ロッテ、ついに落合放出 中日と1対4のトレード発表”. スポーツニッポン (2007年12月23日). 2013年9月21日閲覧。
  9. ^ 長嶋監督、渡邉恒雄以外のフロント・首脳陣は猛反対であるにも拘らず落合の巨人入りを強行させた。清原の巨人入りは落合からの進言。(プロ野球トレード図鑑より)
  10. ^ 1995年 名球会目指してきたわけじゃない 落合博満、資格獲得も入会辞退 スポニチ 日めくりプロ野球2009年4月
  11. ^ 背番号「6」は当時、田中幸雄がつけており、たまたま空き番だった「3」を着用。
  12. ^ 『12球団全選手カラー百科名鑑2002』P232に掲載された落合の解説者名鑑プロフィールより、活動先は「フリー」「テレビ朝日ほか」となっており、人物紹介文には「もっと幅広くの理由で専属を解く。」との記述あり。
  13. ^ めざせ!会社の星」Eテレ 2013年7月10日付放送分
  14. ^ 中日監督に高木守道氏 落合監督、今季限り”. 中日新聞 (2011年9月22日). 2011年9月22日閲覧。
  15. ^ 落合監督、予定外の胴上げ「自然にそうなった」 サンケイスポーツ 2011年11月6日付
  16. ^ セの最優秀監督賞に中日・落合監督 デイリースポーツ 2011年11月10日付
  17. ^ 落合博満氏が「顔面麻痺」で救急搬送される - 『NEWSポストセブン』2012年8月27日(ソース:『週刊ポスト』2012年9月7日号)
  18. ^ 落合博満が〝顔面まひ〟隠さず語った「闘病2週間」
  19. ^ 谷繁選手兼任監督、落合GM、森ヘッド 中日スポーツ 2013年10月9日
  20. ^ 「20世紀のベストプレーヤー 100人の群像」(ベースボール・マガジン社)落合の項の解説より。
  21. ^ 玉木正之 『プロ野球大大大事典―決定版!!読むプロ野球』(東都書房 1986年3月)
  22. ^ 週刊ベースボール内「落合博満の超野球学」より
  23. ^ フジテレビ739さらば、愛しきプロ野球…。佐々木信也」より
  24. ^ Good Job!会社の星」NHK Eテレ 2013年7月10日付放送分
  25. ^ a b 別冊宝島『プロ野球名選手読本』(宝島社)P203-207
  26. ^ 中日スポーツ 2011年10月19日付
  27. ^ a b 田中俊幸『プロ野球 審判だからわかること』草思社、2004年、ISBN 9784794213433
  28. ^ 著書『落合博満の超野球学 バッティングの理屈』(ベースボール・マガジン社)
  29. ^ 野村克也との対談では「奴ら(新聞記者)は野球なんてぜんぜん知らない。無視したっていい」と発言し野村から「そんなこといわずに、記者たちに野球を教えてやるという気持ちでマスコミ対応もしっかりやれよ」とたしなめられている。週刊新潮2010年10月7日号P53有本義明のコメントより
  30. ^ SportsWatch:落合監督断言 「他の監督はやりやすくなった。逃げ道なくなったもん」”. 2011年12月1日閲覧。
  31. ^ 鉄矢多美子. 熱球伝説―キューバリナレスを育てた野球王国. 岩波書店. p. 114-118. 
  32. ^ 前者は「16」が野手の着ける番号ではないという落合の考え、後者は入団当初に「8」を希望した新人時代の平田良介の希望と、森野が掛布雅之に憧れていたことから。森野は2010年以降は「30」を着用。
  33. ^ 「中日・落合監督が竜投伝統のエースナンバー「20」を否定」、スポーツ報知、2004年12月15日、6頁。
  34. ^ 落合福嗣『フクシ伝説』(集英社)P.13,P.151
  35. ^ a b 中日ドラゴンズ「落合監督」BHC来訪! - バンダイホビーセンター 司令官の宇宙日誌・2008年1月15日
  36. ^ SportsWatch 落合監督が告白、試合中に無表情貫くも、その裏では・・・?”. 2011年12月1日閲覧。
  37. ^ 週刊現代『中日・落合の再生工場を見に行く』講談社刊、2009年8月15日発行(158-161ページ)、巨人軍担当記者の発言
  38. ^ 朝日新聞』2004年10月2日付 西村欣也「スポーツ チェンジ 揺るがなかった座標軸」
  39. ^ 『スポーツニッポン』2004年9月19日付 「王監督 早期のスト解除訴える」
  40. ^ 週刊現代『中日・落合の再生工場を見に行く』講談社刊、2009年8月15日発行(158-161ページ)
  41. ^ 『中日スポーツ』2009年10月24日1面
  42. ^ セ・リーグ10/4 出場選手登録異動公示(2010年10月6日閲覧)。
  43. ^ 契約年俸が一軍の最低保障年俸(2010年現在は1500万円)に満たない選手が、一軍登録日数に応じ「1日あたり、最低保障年俸と契約年俸の差額の150分の1」を球団から支給される制度。
  44. ^ 東京スポーツ・2010年10月5日付 2面
  45. ^ 2011年09月24日 日本テレビ Going!
  46. ^ 数値は Baseball-Reference.com を参照。
  47. ^ 日めくりプロ野球11月スポーツニッポン、2007年11月。

関連項目[編集]

関連人物[編集]

  • 牧田知丈 - バラエティ番組「とんねるずのみなさんのおかげでした」内の細かすぎて伝わらないモノマネ選手権で落合のモノマネを行い、名が知れ渡った製薬会社勤務の男性。第9回の優勝がきっかけで2006年末のドラゴンズ納会にゲストで招待され、選手・スタッフに大好評だった。また地元のピザチェーン・アオキーズ・ピザのTVCMにも落合選手役で出演したこともある。落合は、「とんねるずのみなさんのおかげでした」の食わず嫌いに出演した際、罰ゲームとして現役時代のバッティングフォームを披露した。
  • 峰竜太 - 現役時代から落合と交流がある。自身もドラゴンズファンであることから、優勝時のビールかけに参加したり、自身が司会を務めるドラゴンズHOTスタジオでは民放在名テレビ局で唯一、毎年キャンプ前に峰と落合のインタビューを放送している。
  • ねじめ正一テリー伊藤 - 両者とも落合に関する著書を出している。
  • 白井文吾 - 中日新聞社代表取締役会長・中日ドラゴンズオーナー。公私ともに親交があり、落合を中日ドラゴンズ監督に招聘した人物として知られる。

外部リンク[編集]