落合博満
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| 中日ドラゴンズ 監督 #66 | |
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 秋田県南秋田郡若美町(現・男鹿市) |
| 生年月日 | 1953年12月9日(55歳) |
| 身長 体重 |
178cm 80kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 三塁手、一塁手、二塁手 |
| プロ入り | 1978年 ドラフト3巡目 |
| 初出場 | 1979年5月29日南海戦(川崎) |
| 最終出場 | 1998年10月7日ロッテ戦(千葉) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督歴
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この表について
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落合 博満(おちあい ひろみつ、1953年12月9日 - )は、秋田県南秋田郡若美町(現・男鹿市)出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球監督。
目次 |
来歴
プロ入り前
中学・高校時代は、年間100本もの映画を観賞するほどの映画少年だった。特に『マイ・フェア・レディ』は7回見に行き、劇中歌の歌詞(英語)を覚えたほどだった。
秋田県立秋田工業高等学校では野球部に在籍していたが、野球をしている時間よりも映画館にいる時間の方が長かった。「練習が嫌い」という理由で野球部を退部したが、投打共に落合ほどの実力を持った選手がいなかったため、試合が近づくと部員たちに説得され、復帰した[1]。 落合はほとんど練習をせずに、四番打者として試合に出場した。
高校卒業後、東洋大学に進学するが、先輩がタバコを手にしたら素早く火をつける、等といった体育会系の慣習に納得できず、わずか半年で野球部を退部し大学も中退。秋田に帰ってしまった。
その後、ボウリングのプロを志すがプロテスト受験の際にスピード違反で捕まって罰金を支払ったことで受験料が払えなくなり受験できず、これも挫折してしまう。しかし、才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めもあって東京芝浦電気の府中工場所属の季節工として入社。同工場の社会人野球チーム「東芝府中」に加わった。ここで頭角を現して1978年アマチュア野球全日本代表に選出(森繁和も選ばれている)、同年のドラフト会議でロッテオリオンズに3位指名されて入団。落合をスカウトした城之内邦雄によると、指名理由は「変化球に強く、投手が苦手とするタイプの打者」という一点のみだった(城之内は投手としての視点から、落合の資質を見抜いていた[2])。なお、巨人は落合をドラフト2位で指名する予定であったが、江川事件によりドラフト会議自体をボイコットしたため、指名は実現しなかった。
プロ入り後
ロッテ時代
プロ入り当時のロッテの監督、山内一弘はレベルスイングの本尊といえる人物でもあり、アッパースイングだった落合のバッテイング・フォームの矯正に取り掛かった。「ホースで水を撒く感じで打て」などのアドバイスを貰ったものの、落合自身は後年「当時の自分には山内さんの高度な打撃理論が理解できなかった」と述べている通り、山内から教わった打法ではボールが前に飛ばない状況であったと言う。その為、ベテラン捕手・土肥健二の非常に柔らかいリスト(手首)を使って、ボールをはじき返すフォームに注目しそれを真似し、我流のフォーム改造を狙った(このことが落合がオレ流と呼ばれる所以である)。また打撃コーチの高畠康真は落合のこのリストワークが気に入り、1980年ロッテに移籍して来た張本勲のもとへ落合を連れていった。張本はレベル&アッパーの打撃理論を主張する打者だが、意外なことに「素晴らしい。このままのスイングで打てる」と言った。この高畠から落合は球種を読むテクニックを教わった。しかし決して落合と山内の関係が悪かったわけではなく、落合は山内から伝授された打撃練習法(カーブマシンを自分の真正面に置き、自分に向かって飛んでくる球を左に打ち返すというもので、左脇を締めて壁を作る練習など)を現役晩年まで実践していた[3]。 また、その後、出来上がった神主打法を改めて見てみたところ、山内監督から教わったものが自分のバッティングにも生きていることが分かり[4]、また山内も落合の三冠王祝賀パーティで祝辞を述べ「落合は入団したときからいい打者になれそうな雰囲気を持っていたから付きっきりで指導した」と話すなど、山内・落合双方は決して互いに悪い印象を持っていない。
入団当初、その凝り固まったフォームをキャンプに来ていた評論家も皆酷評し、特に前監督・金田正一は面と向かって落合の打撃を酷評した。この時の思いを、後年落合は「オレは社会人もやってプロ入りしたから何とも無かったが、もし高校出の若い選手が、あんな偉い人からプロに入っていきなり言われたら潰れるだろ」など、度々口に出した。落合の名球会加入拒否は金田が名球会の中心人物だからであると言われている。読売ジャイアンツに入団した際も、ジャイアンツのかつての名選手を訊かれ、「王さん、長嶋さん、金田」と金田のみを呼び捨てにしたため物議を醸した。また、落合はロッテ時代「オレは1999本ヒットを打てばいつでも引退する」(名球会入会資格である2000本安打の1本手前)と発言した事もあり、この事から落合が名球会を、そして金田を遠回しで非難している事が窺える。
1980年、二軍調整中の江川卓のボールを、センターバックスクリーンに打ち込んだ。このシーンは現在も放送されるが、打たれた江川はセンターフライと思いマウンドを降りかけていたところ、打球は、途中から伸びスタンドに突き刺さる。柔らかく、そして強いリストを効かせ、鞭で叩くような落合の打法の特徴がよく現れている。5試合連続本塁打のイースタン・リーグ記録を作り、後期に一軍へ戻ると57試合だけで15本塁打を放ち、レギュラーを掴み、翌年1981年には早くも首位打者のタイトルを獲得した。
1982年には史上最年少で三冠王に輝く。しかし、数字的には突出したものではなく(打率:.325、本塁打:32本、打点:99)、野球評論家の豊田泰光が落合に対して苦言を放つなど、三冠王のレベルではないと批判された。これに反発した落合は1985年に圧倒的な成績で2度目の三冠を獲得した(打率:.367、本塁打:52本、打点:146)。
1986年も2年連続で3度目の三冠王を獲得(打率:.360、本塁打:50本、打点:116)。2年連続の三冠王は日本プロ野球界において王貞治(1973年 - 1974年)、ランディ・バース(1985年 - 1986年)、落合の3名のみで、通算3度獲得は落合のみ。この年はブーマー・ウェルズや秋山幸二らとシーズン中盤まで熾烈なタイトルを争い繰り広げたが、シーズン終盤早々に消化試合になってしまう当時のロッテのチーム状況もプラスになりタイトルを獲得。落合の理解者であった稲尾和久が成績不振で監督を解任されると、「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない」と発言。牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂の4選手との1対4のトレードで中日ドラゴンズに移籍。日本人初の年俸1億円プレーヤーとなる。
中日時代
1987年、2年連続三冠王としてセ・リーグでデビューしたが、本拠地がロッテ川崎球場よりやや広い中日ナゴヤ球場に移った等の影響で、本塁打・打点とも過去2年と比べて激減し、獲得タイトルなしに終わった。同年8月20日に妻信子との間に長男の福嗣が誕生。 1988年、32本塁打95打点(共にリーグ2位)勝利打点19でチームの優勝に貢献するも、規定打席到達以来初めて打率3割を割ってしまう。1989年、シーズン終盤に破竹の勢いで打点を稼ぎ、セ移籍後初のタイトルとなる打点王(116打点で)を獲得。1990年、34本塁打102打点で二冠を獲得。1991年2月、年俸を不服として日本人選手として初めて調停を申請。シーズンは終盤まで三冠を狙える位置にいたが、三冠を獲得するため本塁打狙いにいった結果、古田敦也との首位打者争いに敗れ、本塁打王のみに終わる。1992年、選手会を脱退。1993年、両リーグでの200本塁打を達成。同年オフ、導入されたばかりのフリーエージェント (FA)制度を利用してFAを宣言。
巨人時代
1994年、FA宣言により読売ジャイアンツに移籍。長嶋茂雄監督率いるチームの2度(1994年、1996年)のリーグ優勝に4番打者として貢献。1995年、2000本安打を達成するが名球会入りを拒否。1996年、史上7人目の通算500号本塁打、史上7人目の通算1500打点を達成。同年8月31日中日戦で野口茂樹から死球受け左手首を骨折し戦線離脱。同年の日本シリーズ第1戦から復帰した。オフに清原和博が巨人へ入団したため、出場機会を求めて球団に自由契約を申し出る。
日本ハム時代
1997年、ヤクルトの誘いを断り、2年契約を提示した上田利治監督率いる日本ハムファイターズに移籍。年齢から来る衰えを隠せず大不振。1998年、チームの「ビッグバン打線」が爆発し、9月まで優勝争いする中、出場機会も減少。シーズン終了後、現役を引退。(任意引退ではなく自由契約での引退)
引退後
引退後は解説者として活動。2001年までテレビ朝日で解説者を務める(キャッチコピーはオレ流解説)。その後はフリーとなっていたが、テレビ朝日時代から通っていた九州朝日放送には度々登場していた。2001年2月、森祇晶監督時代の横浜ベイスターズのキャンプで臨時打撃コーチを務めた。
中日監督時代
2003年オフ、中日の監督に就任(3年契約)。就任早々、16人の選手の背番号とユニフォームのデザインを変更した。トレードの凍結を宣言し、主な補強は川相昌弘とドミンゴ・グスマンのみにとどめた。キャンプ初日に紅白戦を実施。3年間1軍登板のなかった川崎憲次郎を開幕投手に起用。就任1年目にしてリーグ優勝を達成。日本シリーズでは、先に3勝しながらも3勝4敗で日本一ならず。
2005年、主砲タイロン・ウッズの殴打事件による出場停止と交流戦における負け越しにより失速。2位に終わる。
2006年、監督として2度目のリーグ優勝を達成。しかし日本シリーズでは1勝4敗で敗れまたも日本一ならず。オフに、球団と新たに2年契約を結んだ。
2007年、ペナントレースでは連覇を逃し2位。同年から導入されたクライマックスシリーズで阪神に2連勝、巨人に3連勝と勝ち進み、日本シリーズに出場。4勝1敗で北海道日本ハムファイターズを破りチームを53年ぶり2度目の日本一に導き、前年の雪辱を果たした。また、その後行われたアジアシリーズでもチームをアジアチャンピオンに導いた。これらの功績が認められ、自身にとって、また中日の監督・選手として初となる正力松太郎賞を受賞。
2008年、監督就任5年目で順位・勝利数・勝率のいずれもワーストとなり、成績上では監督として最悪のシーズンとなった。北京五輪で多くの選手が抜けたのも響き、3位に終わる。クライマックスシリーズでは2ndステージで巨人に敗退。オフに、球団と新たに3年契約を結んだ。
エピソード
現役時代
- 現役時代は生活の全てを野球に捧げていた。お腹を壊すと試合に出られないからと好物だった刺身をプロ入り後は一切食べなくなった、息子の福嗣が深夜に庭で父が素振りをする音で目が覚めた、遠征先のホテルでチームメイトが部屋を訪ねると裸でバットを持ったまま出てきたなど、その練習に関するエピソードには事欠かない。
- ただし努力している姿をファンに見せないことを信条としており、猛練習する姿はほとんど映像に残っていない。インタビューでも「努力は才能のない奴がすること」などと発言し、王貞治にたしなめられたことがある。
- 現役時代に2000本安打を達成しているが、それぞれ節目となる500本目、1000本目、1500本目、2000本目はすべて本塁打である。さらに、1000試合出場、2000試合出場の時にも本塁打を打っている。落合は取材に来たテレビカメラに打撃練習の打球を狙って当てた事もあるほどのバットコントロールの持ち主であり、おそらくは節目を狙って意図的に本塁打にしたのだと思われる。
- その優れたバットコントロールのエピソードとして、このようなものがある。
- 通算で510本の本塁打を放っているが、そのうちの176本は右翼への本塁打である。アウトコースの球を払うように流し打ちをし、本塁打にしてしまうその卓越した技術に感嘆したスポーツライターの山際淳司は、スポーツ選手に関するエピソードを集めた『ナックルボールを風に』(1983年)という著書の中の「アウトコース」で、落合を取り上げている。しかし当の本人は『別冊宝島 プロ野球・記録と記憶』(2000年)において、「俺の弱点はアウトローだった。俺ほど外の球を打つのが下手なのはいない」と語っている。
- 1990年、鳴り物入りでプロ入りし快進撃を続けていた近鉄バファローズ(当時)の野茂英雄について、オールスター前にコメントを求められた落合は「フォークでしか勝負できないんだろう。若いのにオジン臭い投手だ」と酷評。そしてオールスター第2戦で落合と野茂の対決が実現、落合は野茂が投じた高めのストレートを狙い打ちホームランを放った。全パを指揮していた森祇晶は野茂にフォークの多投を進言していたが、野茂はこの対戦で1球しかフォークを投げておらず、完全に落合の挑発に乗った形になってしまった。
- 入団当初は三塁手だったが、一軍に定着するため、2年目からは当時手薄だった二塁手に転向、有藤道世の外野手転向により三塁手に戻り、その後、打撃に専念するために一塁手に転向した。一時二塁手だったため2000年、日本野球機構などが行なった「センチュリーベストナイン(20世紀ベストナイン)」投票で落合が二塁手として選ばれた(落合の通算成績は20世紀ベストナインとするに十分であったが、一塁に王貞治、三塁に長嶋茂雄が選ばれるのは確実なので、なんとか落合を選出しようと多くのファンが知恵を絞った結果である)。また、この複数ポジションでの出場は監督としての現在に生きているとテレビで紹介された事がある。
- 足が速くないので内野安打は望めない。したがって打球が内野の頭を超えなければ安打とはならない。「安打製造機」イチローと比較されることも多いが、この「内野安打の少なさ」、長打の多さは驚異的である。
- ロッテ時代、打撃練習でバットの芯を外れた内野ゴロばかり打つ姿を見た村田兆治が声をかけると、ヒットでなくても走者を帰せるよう芯を外す練習をしていると答え、村田は呆れつつも感心したという。
- バットを体の前でゆったりと構える独特の「神主打法」で右に左に打ち分け、3度の三冠王に輝く(2005年現在、日本プロ野球では唯一)など数々の記録を作った天才打者との誉れが高い。周囲の言動に左右されず、自分の持つ野球の技術を伸ばし磨くのに最も良いと思った方法を貫く姿勢は「オレ流」と呼ばれ、生意気だと批判される一方、人気も博した。近著『落合博満の超野球学』(ベースボール・マガジン社)は、そんなオレ流で培ったユニークな技術論の一端を垣間見させてくれる。その一方、ヒーローインタビューで「良い子の皆さんは、基礎が崩れるから、僕のバッティングを真似しないで下さい」と発言した事もあった。
- 打撃の感触を重視するため、 グラブを使わずに素手でバットを握った。なお、デッドボール時の保護のため、リストバンドは使用していた。
- 守備においてもグラブ捌きは上手く、安定した守備を見せていた。しかしゴールデングラブ賞(ダイヤモンドグラブ賞時代含む)は一度も受賞できなかった(ゴールデングラブ賞は記者の投票によって選ばれるため、記者の選手に対する好き嫌いやイメージなどで受賞者が左右されることが多い)。このため、記者との間で色々といざこざの多かった落合にこの賞の受賞は不利であった事も否めない。
- 現役時代は「金の為に野球をやっている」「多く給料を出してもらえるところへ行く」「金にならない試合には出ない」などの、これまでの日本人選手に多く見られた「浪花節」的考えと一線を引いた発言は賛否両論を巻き起こした。実際、チャリティー試合の出場を拒否したこともあった。FA宣言後も、巨人入団前から「一番お金を出してくれたチームに行く」と公言。「プロとして最も(金銭面で)評価してくれるところへ行くのは当然」と強調している。
- 一匹狼的な雰囲気を醸し出していたが、実はチームメートに対しては優しく、面倒見も良かった。愛甲猛、矢野輝弘、清原和博、小笠原道大など信奉者は数多い。不仲が噂されていた星野仙一も「大変優しい選手だ」とコメントしている。マスコミなどがいないところでは進んでコーチ役も買って出ていたという。また、評論家時代にも、スランプに陥っていた中村紀洋や松中信彦らが落合にアドバイスを求めるなど、選手からの信頼性は高いと言える。
- 口では「記録を出せば給料が上がる」と個人プレーに徹するような発言をしているが、実際のところは全く逆であったようで、宇野勝は「落合さんが中日に来て初めてチームバッティングとはどういうものかを教わった」と発言しているように、彼の打撃は状況に応じて安打、本塁打を狙い分けるものでチームの勝利第一であり、記録はその結果付いてきたものであった。実際、試合に勝つためにノーサインで突如送りバントを成功させ、周囲を驚かせた事もあった(シーズン終了後に「あれは勝つための判断」と説明)。
- ロッテ時代の1984年から1986年に監督を務めていた稲尾和久を師と仰いでおり、唯一彼が無条件で従う人物といわれる。
- 現役時代、室内練習場で長時間にわたるバッティング練習を終えたところ、落合の指が感覚を失い、バットから離れなくなってしまう事態になった。その時、物陰から姿を現し、指をゆっくりとバットから離してあげた人物が稲尾だった。稲尾は落合の練習をずっと見守っていたのである。落合の稲尾への私淑はこのときがきっかけだという。
- 稲尾もまた、1986年の序盤に極度の不振に陥った落合を4番で起用し続けるなど絶大な信頼を寄せ、落合もそれに応えて不振から立ち直り、三度目の三冠王に輝いた。この年のオフの世紀のトレードは稲尾の監督解任によるロッテへの不信感が一因とされている。落合が正力松太郎賞を受賞した2007年11月13日は奇しくも稲尾の命日でもあり、受賞後の会見で稲尾について「監督と選手の立場を超えて野球を語り合った。(稲尾が教えてくれた)打者には分からない投手心理は私の財産」との旨のコメントを残している。
- 同学年の梨田昌孝とは大変仲が良い。オリックスを自由契約になった中村紀洋が、かつての監督である梨田に相談し、梨田は落合に打診。一度は断るが、最終的に育成選手として入団することになる。
- プロ入り前から長嶋茂雄の熱心なファンで、後楽園球場での引退試合をスタンドで観戦している。ロッテ時代には取材を受けた際に「長嶋さんがもう一度巨人の監督になったら、世間からバカにされますよ。笑われますよ。だって、自分をクビにしたチームにのこのこ帰っていくヤツがどこにおるんよ」と発言し、取り沙汰されていた巨人復帰に釘を刺したことがある[5]。にもかかわらず、1992年、長嶋が巨人の監督に復帰すると落合はFAで巨人に移籍。会見で「胴上げするために来ました」と述べ、実現させている。
- 落合は20代で結婚もスピード破局し、その後、ホステスをしていた9歳年上の信子夫人と再婚。愛妻家(恐妻家?)として知られる。FA権の行使や監督就任などを決定させた事でも知られる(詳細は落合信子の項目を参照)。2人の間には長男・福嗣がいる。
- 現役時代、「監督は寝ていたほうが試合には勝てる」という冗談を発したとされるが、もちろん自身が監督に就任してから試合中に寝たことはない。
- パシフィック・リーグで採用している指名打者制度には批判的であり、ロッテ時代は指名打者での出場があるが、現役最晩年の日本ハムでは指名打者での出場を頑なに拒否し、一度も指名打者では出場しなかった。
- 高校時代野球部を退部した後放課後は毎日のように映画館に入り浸る日々が継続した。自著では高校時代を通じて100本以上の映画を見たと記している。野球馬鹿にならずに済んだとも回想している[6]。
- 愛甲猛との自主トレーニングの際に落合の叱責に愛甲がたまりかね、「俺も甲子園優勝投手ですよ」と反論すると、「ここはプロなんだ、そんなに甲子園がいいんなら甲子園へ帰ればいいだろ。そんな気持ちでトレーニングするなら止めたほうがいい」とまで突き放した事があったという[7]
- 現役時代のヒーローインタビューは独特の秋田訛りがかったとぼけたような口調で核心をかわすのが特徴であった。
- 日本球界での「真」のホームランバッターとして、田淵幸一と秋山幸二の2人だけを挙げ、自分も王さんも違うと語っている。
- 広島東洋カープの前田智徳の打撃センスを非常に高く評価しており、「天才」と呼んでいる。実際、打撃指導の時は「広島の前田を参考にしろ」と言う事が多い。また、リトルリーグの指導をする時も「プロの真似をするなら広島の前田の真似をしなさい」と言う。ちなみに自身の現役時代のフォームの真似については「(非常に高い打撃技術がない限り)真似るとスランプに陥る可能性があるので絶対にやめなさい」と言っている。
発言等
- 「ボディービルダーになるんじゃないんだから」とウェイトトレーニングをする選手を批判している。「広島カープの選手の様にバットを振って鍛えなさい」と言っている。(広島カープの素振りは有名だが実際はウェイトトレーニングも盛んである)
- 私が来たから日本ハムは優勝します。(日本ハム移籍時)
- 巨人対広島戦を落合が解説していた試合で西山秀二に対するデットボールに対して「はっきり言っていいですか(このデットボールは)わざとです」と言い物議を醸した。後にこういった指示はベンチから出されると言及した。
- 現役時代タイトル争いがかかる終盤で打ちまくったため“帳尻合わせ”と揶揄される事もあったが解説者転向後に一転して「盛り上がらない消化試合はいらない。中止になればその試合を移動日に前倒しして開催すればいい、ペナント優勝決定の時点でシーズンを終わらすのがいい。」と発言し話題になった。
- 「金にならない試合には出ない」とチャリティー試合の出場を拒否した。
- マスコミ批判や野球界に対する批判が多く物議を醸した事が多々ある。
引退後
- 2000年時点で、自らの現役時の記録において誇れるのは「3度の三冠王と2年連続50本塁打だけだ」と言っていた(どちらも当時、日本プロ野球界唯一の記録。2年連続50本塁打以上は2002・2003年にアレックス・カブレラも達成した)。
- 中日ドラゴンズ監督になってからは「(プロ野球球団は)勝つことが最大のファンサービスである」と口にしている。
その他
- 背番号に対してのこだわりが強く、落合博満記念館は背番号「6」にちなんで六角形のデザインとなっている。
- 巨人移籍時に「6」は篠塚が着用していたため「6」に「0」をつけた「60」を着用した(篠塚が引退した翌95年からは「6」に変更)。1994年は巨人の球団創設60周年であり、尚且つ落合が同年開幕時に4番に立った場合巨人の「第60代四番打者」になるために選んだとも言われている。
- 中日監督就任後も背番号のこだわりを随所に見せており、谷繁元信が当時「7」を着用していたのを「捕手の番号らしくない」と森昌彦・大矢明彦・伊東勤・古田敦也など歴代の名捕手が着用していた「27」に変更させている。
- また、当時「16」をつけていた森野将彦の番号を「31」に変更(同一の番号は掛布雅之が名高い)。
- また中日において同球団を代表する投手が代々着用し伝統として語られていた“エースナンバーは「20」”という考え方にも否定的で、2004年川崎憲次郎引退後に入団した中田賢一に「20」を与えた際には「たまたま空いていたから与えた」と発言しファンの物議を醸した(その後、中田は先発陣の一角を占める存在になった事により「たまたまと言っていたが、初めから中田の事を期待しているからこそ20番を与えたのだろう」という好意的解釈もファンの中から出てきた)。
- 2009年1月13日、2009年度野球殿堂表彰者選考に於いて、有効投票数の75%である228票にわずか1票及ばず殿堂入りを逃した(選出されれば競技者部門のプレーヤー表彰だった)。
- アニメ好きであり、多数の作品も視聴している。中でもガンダムは30年来のファンで、テレビ放送分全話とOVA全巻を視聴している。ガンプラも大変好み、現役を引退した直後には余暇を持て余して飲まず食わずでゲルググを8体製作するなどしており、落合博満野球記念館に展示されているガンプラの大半は落合博満本人が作ったとも言われている。その為、2008年1月15日にバンダイから静岡市の同社の施設「バンダイホビーセンター」に招待され、この場において前年の日本一を記念して特別仕様の1/60ガンダムエクシアのプラモデルが贈られた。ちなみに1番好きな機体はウイングガンダムゼロであると語っており、マスコミに落合の一番好きなガンダムは、「ウイングガンダム」と報道された際に、正確にはOVAの続編に出てくる「ウイングガンダムゼロカスタム」であると、息子の福嗣が真面目に反論した。
- 信仰上の理由から、中日監督就任以降の球団主催の必勝祈願(犬山成田山や熱田神宮)には一切参加していない。
監督としての落合
- 2003年10月に中日ドラゴンズの監督に就任した。「この1年は補強を凍結し、個々の選手の能力を10%底上げして日本一を獲る」という公約を掲げた。
- 監督就任時は前述の公約通り、補強は控えていたが、2005年シーズンに向けては凍結を解除し、阪神タイガースなどと競合して横浜ベイスターズのタイロン・ウッズを獲得。一方、関川浩一、酒井忠晴、小山伸一郎、紀藤真琴の4人を東北楽天ゴールデンイーグルスに無償放出した。
- マスコミに対して選手の個人名を出して批判する事はほとんどしない。これは選手時代の気持ちを忘れないようにしている配慮である。しかしそれゆえ、負けが込んでくると貝になってしまうこともある。
- 就任当初は感情をあらわにする事もあったが、2006年頃から寡黙になり、ベンチ内やグラウンドで喜怒哀楽を見せることは非常に珍しくなった。2008年はままならぬチーム事情ゆえ、「何もないよ。何があるんだよ、こんな試合(7月12日)」「(監督に就任して)5年目で最悪の試合だ。見てりゃ分かるだろ。(清水昭信がプロ初黒星を喫したことに関し)お前ら(マスコミ)がチヤホヤするからだ(9月12日)」と、苛立ちを隠せないことが多くなっている。
- 現役時代の天才的バットコントロールを生かしたノックの腕前もまた天才的である。
- 采配に関しては、自身が選手として現役時代を過ごした時の監督である、前述の高木守道の采配を参考としている。
- 2005年の日本シリーズでこの年リーグ2位だった千葉ロッテマリーンズが日本シリーズを制した際、「(ロッテは)日本一じゃなくてプレーオフチャンピオンだろ」「2位で日本一なんかになったって俺はちっとも嬉しくないし、俺が当事者だったら釈然としない」とコメントした。2年後に自身がその当事者になってしまったが、「リーグ優勝できなかったことに不満はある」と語っている。
- 2006年9月20日の横浜スタジアムでの試合後、監督室に置いてあった財布・お守りなどが入っていたセカンドバッグが盗まれた。その際お守りは家族3人お揃いのものだったため、「お守りだけでもいいから返してほしい」と悲痛な叫びを訴えた。
- 2度目のリーグ優勝を成し遂げた2006年10月10日の東京ドームにおける勝利監督インタビューにおいて、こらえきれずに泣き出してしまった。実は延長12回の優勝を決定付けるウッズの満塁本塁打の直後からすでに泣いていた。普段は本塁打を打った選手を出迎えることなどは一切無いが、満面の笑顔でウッズを出迎え、抱き合い、その直後から何度もタオルで涙をぬぐう姿が見られた。「今日は絶対に泣くまいと思っていましたが、最初に泣いたのは私でした」、「1位で走ってる球団の方が、追いかける球団よりも楽に決まっている」とインタビューで度々答えていたものの、優勝決定直後には「(一時は圧倒的なゲーム差を付けるも、終盤に驚異的な追い上げを見せた阪神に対して)あそこまで追い込まれるとは思わなかった」と本音を漏らした。
- 週刊新潮の2006年11月9日号によるとスズキ自動車の鈴木修はドラゴンズの応援をやめたとされる。日米経済界から手腕を認められるこの大物は広報を通して「私はビジネスマンは良き社会人でなければならないと考えますが、落合さんは違うようです」とコメントしている。浜松の河合楽器製作所の硬式野球部(2001年に休部)出身者の山井大介を応援するなど郷土への強い愛着で知られる鈴木会長は、同時に現実主義者でもあり落合が財界や有力者への挨拶を嫌い周囲の反発を招いた事を批判したものとされる。地方球団としてのあり方について落合にも一言あるのかも知れないが、「ジジ転がし」の達人とされた星野以降は減収が続く球団では営業部の落合批判は公然とされていると記事はまとめている。
- 2007年よりセントラル・リーグにもプレーオフ制が導入されたが、落合は常々プレーオフ制度には反対の意向を示しており、「あくまでペナントレースの優勝に価値がある」と自論を展開している。そんな落合いわく、「日本シリーズは今年(2006年)で最後」と発言している。
- 2007年にオリックス・バファローズとの契約交渉がこじれて自由契約になった中村紀洋を、育成選手(後に支配下登録)として獲得した(中村紀洋と近鉄時代から交流があり、また落合とも親友の梨田昌孝が間をとった)。
- だが同年、投手として入団した2年目の金本明博を野手へ転向させる事を決断。それにより今年中の一軍昇格は無理だと判断した事と、もしもの時に備えて70人ギリギリの選手枠に空きを作りたいという事を理由に、ウェーバーにかけた後に他球団から獲得の意思が無ければ育成選手として再契約する事を決めた。だが選手会はこの件に関して、「育成選手の意味を都合良く解釈するな」と猛抗議。落合もこれにひるむ事無く真っ向から反論。「本人と十分に話し合って同意を得た上で、決められたルールに従ってやった事だ。本来なら金本は、8月には整理リストに入っていても(解雇の候補に挙がっても)おかしくない選手。育成選手枠の存在があるからこそ、金本は今も中日のユニフォームを着ていられるんだ」と発言している。
- 2007年5月1日、セ・リーグの豊蔵一会長は、金本のウェーバー公示の取り消しを中日球団に通告。「総合的に判断して決めた。ウェーバー公示の一方的な取り消しは規約違反だと分かってはいるが、承知の上」と弁明。だが落合は「正規のルールに従ってやっている事なのに、何故そういう事になるのか」と激怒。球団に全て任せるとしているが、中日球団は法廷闘争も辞さない構えを見せていたが、結局はこの取り消しを承諾。金本は投手から内野手に再登録して支配下登録のまま中日に身を置いていたが、同年10月29日球団から戦力外通告を受けた。
- 2007年10月4日、公式戦最後の地元ナゴヤドームでの試合に先立ち、長男、福嗣との約束であり、中日ドラゴンズファンへの公約でもあった「2年連続セントラルリーグ優勝」を果たせなかったとして、ドラゴンズファンへのお詫びの気持ちとクライマックスシリーズを勝ち抜く決意を込めて頭を丸刈りにした。
- 2007年11月1日、北海道日本ハムファイターズとの日本選手権シリーズ第5戦で平田良介が打った犠牲フライによる1点を守りきり、球団として53年間達成できなかった日本一を成し遂げた。その一方で8回表まで完全試合投球を続けていた先発の山井大介を9回表に岩瀬仁紀へ交代させた采配には、他球団ファンや在京マスコミを中心として賛否両論が巻き起こった(翌日のほとんどの全国ネットのテレビ番組で取り上げられたが、一方で東海地方の放送局は在京放送局に比べると大げさに取り上げることもなく、それより53年ぶりの日本一達成を取り上げることが多かった)。詳しくは2007年の日本シリーズを参照のこと。
- 2007年11月13日、プロ野球界最高の賞である正力松太郎賞を選考委員会の満場一致で受賞した。その際、選考委員長であった川上哲治は、「正力さんはいつも『勝負に私情をはさんではいかん』と言っておられた。日本シリーズでも勝敗に徹して、そういう強い信念が感じられた」とコメントし、賞の選考において同年の日本シリーズにおける先述の采配を肯定的に評価したことを明言している。
- 2008年8月4日、山本昌が完投で通算200勝を達成した際には先述の日本シリーズの件を引き合いに「代えられません! 日本シリーズとは違います。日本シリーズはチームの記録。きょうのは本人の記録です。」と発言して記者たちの笑いを誘った。
タイトル・表彰・記録
タイトル
- MVP:2回(1982年、1985年)※優勝チーム以外から2度以上の選出は王貞治(1964年、1974年)に続いて2人目。
- 三冠王:3回(1982年、1985年、1986年)※史上最多。
- 首位打者:5回(1981年 - 1983年、1985年、1986年)
- 本塁打王:5回(1982年、1985年、1986年、1990年、1991年)※両リーグ本塁打王は史上初。
- 打点王:5回(1982年、1985年、1986年、1989年、1990年)※両リーグ打点王は史上初、現在も唯一。
- 最多勝利打点:3回(1982年、1985年、1988年)
- 最高出塁率:7回(1982年、1985年 - 1988年、1990年、1991年)
- ベストナイン:10回(1981年、1982年=二塁手 1983年、1988年、1990年、1991年=一塁手 1984年 - 1986年、1989年=三塁手)
表彰
- 月間MVP:6回(1985年9月、1986年5月、1988年8月、1989年8月、1990年5月、1991年8月)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回(1991年)
- 優秀JCB・MEP賞:1回(1990年)
- オールスターMVP:2回(1983年第3戦、1995年第1戦)
記録
- シーズン打率:.367(1985年)※右打者歴代3位。
- シーズン本塁打:52(1985年)※右打者の日本人歴代最多タイ記録。
- シーズン打点:146(1985年)※パ・リーグ記録。
- シーズン長打率:.763(1985年)※パ・リーグ記録。
- シーズン得点:118(1985年)※右打者のパ・リーグ記録。
- シーズン塁打:351(1985年)※右打者のパ・リーグ記録。
- シーズン得点圏打率:.492(1985年)※日本記録。
- シーズン出塁率:.487(1986年)※パ・リーグ記録。
- シーズン打率3割以上:11回(1981年 - 1987年、1989年、1991年、1995年、1996年)※歴代5位タイ。
- シーズン打率.360以上:2回(1985年、1986年)※日本タイ記録、右打者では史上唯一。
- シーズン50本塁打以上:2回(1985年、1986年)※歴代2位タイ。
- シーズン30本塁打以上:9回(1981年、1982年、1984年 - 1986年、1988年 - 1991年)※歴代3位タイ。
- 17年連続シーズン100安打以上(1981年 - 1997年)※歴代4位タイ。
- 2年連続シーズン50本塁打以上(1985年 - 1986年)※史上初。
- 両リーグ1000安打以上(パ1096本、セ1275本)※史上2人目。
- 両リーグ200本塁打以上(パ247本、セ263本)※史上唯一。
- 1試合6四球(1991年10月13日)※日本記録。
- 5試合連続本塁打(1989年10月10日 - 10月14日)
- 通算打率:.3108(1979年 - 1998年)※右打者の日本人歴代最高打率、5000打数以上では右打者最高打率。
- 通算長打率:.564(1979年 - 1998年)※右打者歴代1位。
- 通算350本塁打到達スピード:1257試合(1990年5月8日)※史上最速記録。
- 通算1000打点到達スピード:1284試合(1990年6月12日)※史上最速記録。
- オールスター出場:15回(1981年 - 1991年、1993年、1995年 - 1997年)
- オールスター通算打率:.365 ※100打数以上では、歴代1位タイ。
- オールスター通算本塁打:11本 ※歴代4位。
- オールスター通算打点:27 ※歴代3位タイ。
- 初出場 1979年5月29日南海戦(川崎)※代打
- 初安打 1979年5月30日南海戦(川崎) 森口益光から
- 初本塁打・初打点 1979年5月31日南海戦(川崎) 山内新一から
- 1000本安打 1987年6月2日大洋戦(ナゴヤ) 高橋一彦から本塁打
- 1500本安打 1990年9月5日巨人戦(東京ドーム) 桑田真澄から本塁打
- 2000本安打 1995年4月15日阪神戦(甲子園) 久保康生から本塁打
年度別打撃成績
| 年度 | 球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
失 策 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1979 | ロッテ | 36 | 69 | 64 | 7 | 15 | 3 | 1 | 2 | 26 | 7 | 1 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 12 | 2 | 1 | .234 | .290 | .406 | .696 |
| 1980 | 57 | 188 | 166 | 28 | 47 | 7 | 0 | 15 | 99 | 32 | 1 | 0 | 2 | 2 | 17 | 1 | 23 | 5 | 5 | .283 | .349 | .596 | .946 | |
| 1981 | 127 | 502 | 423 | 69 | 138 | 19 | 3 | 33 | 262 | 90 | 6 | 3 | 1 | 4 | 68 | 6 | 55 | 17 | 9 | .326 | .423 | .619 | 1.043 | |
| 1982 | 128 | 552 | 462 | 86 | 150 | 32 | 1 | 32 | 280 | 99 | 8 | 2 | 0 | 4 | 81 | 5 | 58 | 11 | 7 | .325 | .428 | .606 | 1.034 | |
| 1983 | 119 | 497 | 428 | 79 | 142 | 22 | 1 | 25 | 241 | 75 | 6 | 5 | 0 | 3 | 64 | 2 | 52 | 14 | 7 | .332 | .419 | .563 | .982 | |
| 1984 | 129 | 562 | 456 | 89 | 143 | 17 | 3 | 33 | 265 | 94 | 8 | 1 | 0 | 4 | 98 | 4 | 33 | 14 | 16 | .314 | .436 | .581 | 1.017 | |
| 1985 | 130 | 568 | 460 | 118 | 169 | 21 | 1 | 52 | 351 | 146 | 5 | 1 | 0 | 4 | 101 | 3 | 40 | 16 | 19 | .367 | .481 | .763 | 1.244 | |
| 1986 | 123 | 522 | 417 | 98 | 150 | 11 | 0 | 50 | 311 | 116 | 5 | 1 | 0 | 1 | 101 | 3 | 59 | 15 | 10 | .360 | .487 | .746 | 1.232 | |
| 1987 | 中日 | 125 | 519 | 432 | 83 | 143 | 33 | 0 | 28 | 260 | 85 | 1 | 4 | 0 | 4 | 81 | 2 | 51 | 10 | 9 | .331 | .435 | .602 | 1.037 |
| 1988 | 130 | 557 | 450 | 82 | 132 | 31 | 1 | 32 | 261 | 95 | 3 | 4 | 0 | 6 | 98 | 3 | 70 | 11 | 10 | .293 | .418 | .580 | .998 | |
| 1989 | 130 | 559 | 476 | 78 | 153 | 23 | 1 | 40 | 298 | 116 | 4 | 3 | 1 | 6 | 75 | 1 | 69 | 11 | 6 | .321 | .410 | .626 | 1.036 | |
| 1990 | 131 | 570 | 458 | 93 | 133 | 19 | 1 | 34 | 256 | 102 | 3 | 3 | 0 | 8 | 100 | 4 | 87 | 7 | 7 | .290 | .416 | .559 | .975 | |
| 1991 | 112 | 478 | 374 | 80 | 127 | 17 | 0 | 37 | 255 | 91 | 4 | 2 | 0 | 5 | 95 | 4 | 55 | 9 | 5 | .340 | .473 | .682 | 1.155 | |
| 1992 | 116 | 481 | 384 | 58 | 112 | 22 | 1 | 22 | 202 | 71 | 2 | 3 | 0 | 6 | 88 | 3 | 74 | 12 | 3 | .292 | .425 | .526 | .948 | |
| 1993 | 119 | 504 | 396 | 64 | 113 | 19 | 0 | 17 | 183 | 65 | 1 | 2 | 0 | 8 | 96 | 4 | 69 | 13 | 4 | .285 | .423 | .462 | .885 | |
| 1994 | 巨人 | 129 | 540 | 447 | 53 | 125 | 19 | 0 | 15 | 189 | 68 | 0 | 0 | 0 | 6 | 81 | 6 | 56 | 13 | 8 | .280 | .393 | .423 | .815 |
| 1995 | 117 | 483 | 399 | 64 | 124 | 15 | 1 | 17 | 192 | 65 | 1 | 0 | 0 | 8 | 73 | 3 | 87 | 17 | 5 | .311 | .414 | .481 | .895 | |
| 1996 | 106 | 448 | 376 | 60 | 113 | 18 | 0 | 21 | 194 | 86 | 3 | 0 | 0 | 2 | 67 | 3 | 53 | 11 | 6 | .301 | .408 | .516 | .924 | |
| 1997 | 日本ハム | 113 | 466 | 397 | 35 | 104 | 14 | 0 | 3 | 127 | 43 | 3 | 0 | 0 | 5 | 61 | 3 | 60 | 16 | 3 | .262 | .361 | .320 | .680 |
| 1998 | 59 | 192 | 162 | 11 | 38 | 6 | 0 | 2 | 50 | 18 | 0 | 1 | 0 | 2 | 26 | 2 | 22 | 12 | 0 | .235 | .344 | .309 | .652 | |
| 通算:20年 | 2236 | 9257 | 7627 | 1335 | 2371 | 371 | 15 | 510 | 4302 | 1564 | 65 | 35 | 4 | 88 | 1475 | 63 | 1135 | 236 | 140 | .311 | .422 | .564 | .987 | |
| 16位 | 11位 | 20位 | 7位 | 10位 | 17位 | - | 6位 | 8位 | 5位 | - | - | - | 7位 | 2位 | - | 23位 | - | - | 8位 | - | 4位 | - | ||
- 各年度の太字はリーグ最高
- 順位は2008年度シーズン終了時
監督としてのチーム成績
リーグ公式戦
| 年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 得点 |
チーム 失点 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2004年 | 平成16年 | 中日 | 1位 | 138 | 79 | 56 | 3 | .585 | (7.5) | 111 | .274 | 623 | 558 | 3.86 | 50歳 |
| 2005年 | 平成17年 | 2位 | 146 | 79 | 66 | 1 | .545 | 10 | 139 | .269 | 680 | 628 | 4.13 | 51歳 | |
| 2006年 | 平成18年 | 1位 | 146 | 87 | 54 | 5 | .617 | (3.5) | 139 | .270 | 669 | 496 | 3.10 | 52歳 | |
| 2007年 | 平成19年 | 2位 | 144 | 78 | 64 | 2 | .549 | 1.5 | 121 | .261 | 623 | 556 | 3.59 | 53歳 | |
| 2008年 | 平成20年 | 3位 | 144 | 71 | 68 | 5 | .511 | 10 | 140 | .253 | 535 | 556 | 3.53 | 54歳 | |
- ※1 2001年から2004年までは140試合制(2004年は選手会ストライキのため2試合が行われなかった)
- ※2 2005年から2006年までは146試合制
- ※3 2007年から144試合制
- ※4 優勝年のゲーム差は2位とのゲーム差
- ※5 順位の太字は日本シリーズ優勝
ポストシーズン
| 年度 | チーム | 大会名 | 対戦相手 | 勝敗 |
|---|---|---|---|---|
| 2004年 | 中日 | 日本シリーズ | 西武ライオンズ | 3勝4敗 |
| 2006年 | 日本シリーズ | 北海道日本ハムファイターズ | 1勝4敗 | |
| 2007年 | セ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ |
阪神タイガース(セ・リーグ3位) | 2勝0敗 | |
| セ・リーグ クライマックスシリーズ 2ndステージ |
読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝) | 3勝0敗 | ||
| 日本シリーズ | 北海道日本ハムファイターズ | 4勝1敗 | ||
| 2008年 | セ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ |
阪神タイガース(セ・リーグ2位) | 2勝1敗 | |
| セ・リーグ クライマックスシリーズ 2ndステージ |
読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝) | 1勝1分2敗 |
- ※ 2008年のクライマックスシリーズ2ndステージでは、セ・リーグ優勝の読売ジャイアンツに1勝のアドバンテージが与えられたが、ここではアドバンテージ分は除いた勝数を示した
背番号
著書
- なんと言われようとオレ流さ(講談社 1986年4月 ISBN 4062026295)
- 勝負の方程式(小学館 1994年6月 ISBN 4093871213)
- 激闘と挑戦 巨人軍・落合博満が闘った奇蹟の136試合(鈴木洋史との共著、小学館 1995年6月 ISBN 4093871574)
- 不敗人生 43歳からの挑戦(鈴木洋史との共著、小学館 1997年2月 ISBN 4093872120)
- 野球人(ベースボール・マガジン社 1998年12月 ISBN 4583035691)
- プロフェッショナル(ベースボール・マガジン社 1999年12月 ISBN 4583036213)
- 落合にきけ!( 朝日新聞社 2000年3月 ISBN 402257478X)
- コーチング―言葉と信念の魔術 (ダイヤモンド社 2001年9月 ISBN 4478720215)
- 落合博満の超野球学(1)バッティングの理屈(ベースボール・マガジン社 2003年5月 ISBN 458303749X)
- 落合博満の超野球学(2)続・バッティングの理屈(ベースボール・マガジン社 2004年3月 ISBN 4583037910)
- 落合戦記―日本一タフで優しい指揮官の独創的「采配&人心掌握術」(ダイヤモンド社 2004年11月 ISBN 4478960917)
CM
ディスコグラフィー
- サムライ街道/そんなふたりのラブソング(1986年)「そんなふたりの…」は信子夫人とデュエット。5万5000枚を売り上げた[8]
- 男のララバイ(1987年)
- めぐり逢い(1989年12月22日)
- 恋の広小路(1990年12月12日)中村美律子とデュエット
- 落涙(1991年12月24日)
- 縁歌酒(1992年9月21日)多岐川舞子とデュエット
- 息子へ(1993年1月8日)
- 夜明川(1994年1月15日)
- 涙 渇くまで(1996年2月21日)林るり子とデュエット
- 抱かれて乾杯(1997年3月20日)若山かずさとデュエット
- 霧の別れ(1998年3月21日)若山かずさとデュエット
- サムライ街道/男のララバイ(2004年2月11日)
- 旅路のひと
落合博満役を演じた俳優
ドラマ
脚注
関連項目
- 秋田県出身の人物一覧
- 千葉ロッテマリーンズの選手一覧
- 中日ドラゴンズの選手一覧
- 読売ジャイアンツの選手一覧
- 北海道日本ハムファイターズの選手一覧
- 落合博満野球記念館
- ジャイアント落合 - 甥にあたる格闘家。練習中の怪我が元で亡くなっている。
- 欠端光則
関連人物
- 牧田知丈(バラエティ番組・とんねるずのみなさんのおかげでした内の細かすぎて伝わらないモノマネ選手権で落合のモノマネを行い、有名になった製薬会社勤務の男性。第9回の優勝がきっかけで2006年末のドラゴンズ納会にゲストで招待され、選手・スタッフに大好評だった。また地元のピザチェーン・アオキーズ・ピザのTVCMにも落合選手役で出演したこともある。ちなみに落合は、とんねるずのみなさんのおかげでしたの食わず嫌いに出演した際、罰ゲームとして現役時代のバッティングフォームをやった)
外部リンク
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