梨田昌孝
2009年11月3日
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 島根県浜田市 |
| 生年月日 | 1953年8月4日(58歳) |
| 身長 体重 |
178cm 75kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 捕手 |
| プロ入り | 1971年 ドラフト2位 |
| 初出場 | 1972年7月2日 |
| 最終出場 | 1988年10月19日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督・コーチ歴
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この表について
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梨田 昌孝(なしだ まさたか、本名:梨田 昌崇(読み同じ)、1953年8月4日 - )は、島根県浜田市出身の元プロ野球選手(捕手)、プロ野球監督、野球評論家。1984年より登録名を「昌孝」としている。愛称は「ナッシー」。
2004年シーズンをもって消滅した大阪近鉄バファローズ最後の監督であり、選手・監督両方で同球団の優勝を経験した唯一の人物である。2008年から2011年まで北海道日本ハムファイターズの監督を務めた。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] アマチュア時代
島根県立浜田高校時代、3年生の春・夏に甲子園に連続出場(第43回選抜大会、第53回選手権大会)するが、ともに1回戦で敗退した。1971年のドラフト2位で近鉄バファローズに入団。
[編集] 選手時代
1年目(1972年)から強肩を武器に頭角を現すも打撃で伸び悩み、一時は有田修三に正捕手の座を奪われるが、打席で両腕をクネクネと動かすフォーム『コンニャク打法』を開発すると勝負強い打撃を発揮し、正捕手の座を奪回。1979年には球団初のパシフィック・リーグ優勝を経験し、1981年まで3年連続ベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)を受賞するなど、長きに渡って近鉄の捕手として活躍した。
1986年以降は、肩や打撃面の衰えから山下和彦、古久保健二、光山英和にマスクを譲る機会が多くなる。1988年に引退。現役最後の安打は、伝説となった『10.19』のダブルヘッダー第1試合で放った決勝適時打である。
- 梨田の現役時代、阪急ブレーブスには『世界の盗塁王』の異名を取る福本豊が居た。福本の盗塁にはどの球団も頭を悩ませており、当時プロ野球界で一、二を争う強肩だった梨田も例外ではなかった。梨田は考えに考え、福本が一塁に出ている際はあらかじめ右足を引いて構え、更に投球を捕ってからミットの中のボールを右手で抜き取り送球するのではなく、ミットでボールを後ろに受け流しそのまま右手で捕球することによって送球にかかる時間の短縮を図った。この工夫の甲斐あって、梨田は、福本がいたにもかかわらず5割を超える盗塁阻止率を記録した。
- 西本幸雄監督時代から、有田との併用が多く見られた。この2人は『ありなしコンビ』と呼ばれ、当時は「2人とも他球団に行ったらレギュラーは間違いない」と言われており、オフシーズンになると近鉄に「どちらかをトレードしてほしい」との希望が殺到していたという。この状態は有田が読売ジャイアンツに移籍する1985年まで続いた。『ありなしコンビ』の成功以降、複数捕手の併用が近鉄の戦術の特徴となり、近鉄で規定打席に到達した捕手は1985年の梨田以降は一人も現れなかった。
- 近鉄のリーグ連覇時(1979年と1980年)の正捕手だが、当時のエースだった鈴木啓示とは主に有田がバッテリーを組んだ。鈴木が通算300勝を達成した試合では梨田がマスクを被っていた。
- 大阪府藤井寺市で、1985年に梨田が新居を建築しようとした際に、大阪に人が住んでいた最古の遺跡とされ、日本国内でも最古の部類に入る遺跡が発見され、「はさみ山遺跡梨田地点」(はさみやまいせき なしだちてん)と命名された。
[編集] 引退後、野球評論家へ
1989年にNHKの野球評論家に就任し、近鉄に復帰するまで務めていた。
- 1989年、ワールドシリーズの取材のためオークランド・アスレチックスの本拠地のオークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムを訪れていた梨田はロマ・プリータ地震に遭遇、急遽現地の被害状況のリポーターを務めた。
- 1990年、1991年には日曜夜のスポーツニュース「サンデースポーツ」の司会も務めた。
[編集] 近鉄コーチ・監督
1993年に一軍作戦兼バッテリーコーチとして近鉄に復帰。1996年からは二軍監督を務め、2000年に一軍監督に就任。近鉄は当時コーチだった小林繁、真弓明信と梨田の三人を『近鉄男前三人衆』として売り出し、この三人を起用した近鉄百貨店の広告が近鉄沿線の駅ポスターや車内中吊りに掲げられた。モロゾフのホワイトデー・イメージキャラクターになったこともある。
監督就任1年目の2000年は最下位に終わったが、2年目の2001年に近鉄球団を史上4度目、球団最後のパ・リーグ優勝に導いた。同一監督の下で前年最下位から優勝を果たしたのは1975年の最下位から翌年の1976年に優勝した長嶋茂雄率いる読売ジャイアンツ以来。2001年の日本シリーズの前に、対戦相手であるヤクルトスワローズの若松勉監督とともに写真撮影に臨み、緊張の色の隠せない若松とは対照的にカメラに向けて笑顔を見せたが、1勝4敗で敗退してしまった。2002年は2位、2003年は3位とまずまずの成績を残した。
2004年シーズン中、同年シーズン限りで近鉄がオリックス・ブルーウェーブと合併し、消滅することが決定した。シーズン最終戦の前日に、選手に向けて「みんな胸を張ってプレーしろ。お前たちが付けている背番号は、すべて近鉄バファローズの永久欠番だ」という言葉を残している。合併の際、近鉄のカラーを残すべく配慮したオリックス側からヘッドコーチへの転任を打診され、監督となった仰木彬からも慰留されるが「選手・スタッフやファンがばらばらになり、その進路も決まらないうちに自分一人が残るのは望ましくない」と辞退。あくまで「近鉄の梨田」としてユニフォームを脱ぐことを望んだため、球団解散前の10月15日付けで退団した。仰木からの残留要請を断り、結果的に関西球界で根強い人気を持つ仰木の下につかなかったことに対し、一部から批判的な意見もあったが、当の仰木は梨田の立場や胸中に理解を示しており、梨田自身も恩師の一人である仰木の力にもなりたかったと、仰木の死後に回顧した。
近鉄で1シーズン以上務めた歴代監督16人の中で、通算成績で勝ち越しているのは三原脩、西本幸雄、仰木彬、そして梨田の4人である。
- 近鉄のコーチとして復帰した1993年はかつてのエースである鈴木啓示が監督に就任した年でもあったが、自らの現役時代に築いたスタイルを貫こうとする鈴木と各自独特のスタイルを持つ選手との間で悩み続けた模様が自著「戦術眼」(ベースボール・マガジン社新書)から読み取ることができる。同書にはその一例として鈴木が自らの経験から投手陣のランニングの際にスパイクの着用を義務付けたことについて書かれている。この件について当時コンディショニングコーチを務めていた立花龍司が足を痛める原因になると反対し、梨田自身もランニングシューズの機能が発達しトレーニング科学も進歩していた中でさほど重要な意味を持たないと考えていたが、同時に組織とは最終的にはトップの決断で動くべきものという考えを持っていた梨田は何とか鈴木の考えを投手陣に納得させてやらせる方法はないかと考え、ランニングとスパイクを履かざるを得ない投内連係(投手と内野手の連係を確認する守備練習)を組み合わせることで調整を図ったという。
- 物腰が柔らかくジョーク好きな温厚な人物として知られているが、近鉄の二軍監督時代に、ノックアウトされてベンチにグラブを叩きつけ荒れていた前川勝彦を殴り倒したこともあった。
- 近鉄の監督時代は、外国人選手に対する事前評価が実際とは正反対の結果になることが多かった。例えば、監督就任1年目に開幕投手に起用したボブ・ウォルコットは3勝4敗、防御率6点台で1年で解雇、2年目のキャンプで投球を見て「15勝は期待できる」と高評価したウィル・フリントは1勝も出来ずシーズン途中で解雇、更にバッティングを見て「ブーマー・ウェルズに似ている」と絶賛したフレッディ・ガルシアは打率1割台、1本塁打でシーズン半ばに解雇され、「すごい投手が来た」と評したケビン・バーンも平凡な成績しか残せなかった。近鉄2年目の優勝にはショーン・バーグマンやジェレミー・パウエルの活躍があったが、彼らは球団アドバイザーだったトミー・ラソーダの推薦で入団したものである。
[編集] 野球評論家復帰
2005年からは12年ぶりにNHK・大阪日刊スポーツの野球評論家に復帰、かんさいニュース1番の金曜日のスポーツコーナーにレギュラー出演した他、プロ野球・メジャーリーグ野球解説などを担当。週刊ベースボールにも連載を持っていた。他にも、2005年7月にアニメ『プレイボール』(関西テレビ放送)で声優を務め(タイヤキ屋のおやじ役)、京橋グランシャトービルやアーククエストなどの関西ローカルのCMにも出演。2006年6月1日には大阪産業大学の客員教授にも就任し、実業家としても個人芸能事務所「トゥルーマサ」を運営するなど多方面で活躍している。
- 2007年、契約交渉で揉めてオリックスを自由契約になったかつて近鉄時代の教え子の中村紀洋から相談を受けて、同級生で親友でもある落合博満に獲得を打診した。最初は断られるものの、最終的に中村は中日に育成選手として入団した(落合の項も参照)。この事は中日が優勝した2007年・年末にNHK-BSで放送された特番で梨田が落合とのやりとりなどエピソードを話すと、落合が笑いながら「それをばらしちゃうか、お前」と返した。
[編集] 日本ハム監督
2008年に北海道日本ハムファイターズの監督として4年ぶりに現場復帰。前年11月25日に札幌ドームで行われた日本ハム・ファンフェスティバルにて、前監督・トレイ・ヒルマンから梨田への背番号88の継承式が行われた。就任1年目のシーズンは3位でリーグ戦を終了。クライマックスシリーズ第1ステージをオリックス・バファローズと戦い2連勝して第2ステージへ駒を進めたが、埼玉西武ライオンズに2勝4敗(リーグ優勝チームに与えられるアドバンテージを含む)で敗れ、日本シリーズ進出はならなかった。
2009年、就任2年目で日本ハムを2年ぶりのリーグ優勝に導く。近鉄監督時代も就任2年目でチームをリーグ優勝に導いている。リーグ戦終了後に行われたクライマックスシリーズでは福岡ソフトバンクホークスとの第1ステージを制した東北楽天ゴールデンイーグルスを札幌ドームに迎えて第2ステージを戦い、4勝1敗(リーグ優勝チームに与えられるアドバンテージを含む)で見事勝利。現役時代を含めて4回目の出場となった日本シリーズでは読売ジャイアンツに2勝4敗で敗れ、自身初の日本一はならなかった。
2010年1月、一軍投手コーチに就任したばかりの小林繁が心不全により急逝。近鉄監督時代の2004年にも、二軍打撃コーチだった鈴木貴久を急性気管支炎で失っている。この年はほぼ中継ぎ経験しかないブライアン・ウルフをシーズン途中に先発に転向させなければならなかったり、二軍で野手が9人しかいなくなる程ケガ人が続出し、一時借金14の最下位と低迷しながらシーズン終盤にはクライマックスシリーズへの出場権をかけた3位争いを演じるところまで浮上。全日程を終了した時点では3位だったが、千葉ロッテマリーンズが最後の3試合を全勝すれば3位浮上という状況の中で全勝したため、最終的には4位、日本ハム5年ぶりのBクラスでシーズンを終えた。この年4位になったことで、梨田は監督として全順位を経験することになった。
2011年は開幕カードとなった対西武2連戦(札幌ドーム)を連敗でスタートしたものの4月を10勝5敗で乗り切るなど好調な滑り出しを見せ、シーズン前半は福岡ソフトバンクホークスと2強を形成し首位争いを演じたが、終盤に来て9月を6勝18敗1分と大きく負け越すなどチームの調子が急降下し、最終的には首位と17.5ゲーム差の2位でシーズンを終えた。クライマックスシリーズ第1ステージは埼玉西武ライオンズとの対戦となったが、シーズン終盤の不振をそのまま引きずった格好となり2連敗で敗退した。シーズン終盤になって一部メディアで騒がれた自身の去就については、9月15日に2011年を最後に監督を退任することを記者会見で表明した[1]。シーズン前から4年目の2011年で降りようと決めていたという。
2011年10月16日時点で、阪神タイガースが真弓明信監督の退任とともに次期監督候補として梨田の名をリストアップしていたが[2]、その後球団が一軍打撃コーチを務めていた和田豊の昇格を決定し、梨田の招聘は見送られた。現在は再び日刊スポーツ新聞西日本専属の野球評論家に戻っている。
[編集] 人物
- ジョークやダジャレ好きであり、しばしばコメントの中に取り入れている。一例として「タダの(多田野)投手じゃなかった」(多田野数人に対して)、「リードが単調(丹頂)になってはダメ」(鶴岡慎也の結婚披露宴に出席した際の祝辞)、「円陣を組んでエンジンをかけたのがよかった」(2010年5月19日に行われた日本ハム対巨人の試合後コメント。この試合は途中まで巨人にリードを許しながら6回に円陣を組み逆転に成功)、「ユ~キを固めていきたいですね」(2011年さっぽろ雪まつりのPRイベントにて。雪だるまを触りながらこの年のルーキー・斎藤佑樹とかけてコメント)など。
- 日本ハムの中では選手の一人である榊原諒と誕生日が同じである。近鉄監督在任時の選手では最後の1年だけ在籍した福盛和男も同じ誕生日である。
- 現役選手時代、フジテレビにてプロ野球選手が出演する特別番組の中の「ベルサイユのばら」のパロディドラマで角三男や中畑清と共演した事があり、本番で「アントワネット!!」と答えるところを「マリオネット!!」と答えてしまい、同局のNG集として使用されたことがある。
- ドラフト会議ではくじ運に全く恵まれなかった。近鉄時代は1999年のドラフト会議では3分の1で河内貴哉を、2002年のドラフト会議では2分の1で高井雄平を逃した。日本ハムで再び監督に就任後も、2007年のドラフト会議の大学・社会人ドラフトで6球団が競合した大場翔太を外したうえ、外れ1巡目で再び3球団が競合した服部泰卓まで取り損ね、2009年のドラフト会議では6球団競合した菊池雄星の当たりを引けなかった。2010年のドラフト会議では斎藤佑樹が4球団競合となり、当時の球団社長の藤井純一がくじを引いて、斎藤との交渉権を得ることが出来た。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1972 | 近鉄 | 9 | 3 | 3 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .667 | .667 | .667 | 1.333 |
| 1973 | 60 | 149 | 142 | 12 | 28 | 2 | 0 | 2 | 36 | 5 | 1 | 0 | 2 | 0 | 4 | 0 | 1 | 20 | 3 | .197 | .224 | .254 | .478 | |
| 1974 | 115 | 280 | 247 | 14 | 48 | 10 | 0 | 2 | 64 | 18 | 2 | 4 | 6 | 0 | 22 | 2 | 5 | 41 | 1 | .194 | .274 | .259 | .533 | |
| 1975 | 45 | 86 | 69 | 5 | 11 | 2 | 0 | 2 | 19 | 9 | 0 | 0 | 5 | 4 | 7 | 0 | 1 | 15 | 3 | .159 | .235 | .275 | .510 | |
| 1976 | 48 | 57 | 48 | 7 | 13 | 1 | 1 | 3 | 25 | 10 | 1 | 1 | 3 | 0 | 5 | 0 | 1 | 13 | 1 | .271 | .352 | .521 | .873 | |
| 1977 | 80 | 210 | 190 | 15 | 47 | 5 | 0 | 0 | 52 | 10 | 2 | 2 | 8 | 1 | 8 | 0 | 3 | 29 | 3 | .247 | .287 | .274 | .561 | |
| 1978 | 58 | 141 | 120 | 17 | 32 | 4 | 2 | 7 | 61 | 30 | 3 | 2 | 7 | 3 | 9 | 0 | 2 | 15 | 1 | .267 | .321 | .508 | .829 | |
| 1979 | 114 | 400 | 357 | 39 | 97 | 14 | 0 | 19 | 168 | 57 | 2 | 4 | 12 | 3 | 25 | 0 | 3 | 44 | 6 | .272 | .322 | .471 | .793 | |
| 1980 | 118 | 404 | 360 | 55 | 105 | 26 | 2 | 15 | 180 | 55 | 1 | 0 | 10 | 4 | 27 | 0 | 3 | 58 | 14 | .292 | .343 | .500 | .843 | |
| 1981 | 106 | 411 | 374 | 44 | 102 | 16 | 0 | 17 | 169 | 48 | 5 | 3 | 1 | 4 | 29 | 0 | 3 | 47 | 12 | .273 | .327 | .452 | .779 | |
| 1982 | 91 | 306 | 279 | 31 | 81 | 8 | 0 | 10 | 119 | 35 | 6 | 0 | 3 | 2 | 22 | 0 | 0 | 42 | 8 | .290 | .340 | .427 | .766 | |
| 1983 | 111 | 357 | 313 | 34 | 84 | 14 | 0 | 8 | 122 | 42 | 7 | 1 | 5 | 3 | 35 | 1 | 1 | 37 | 9 | .268 | .341 | .390 | .731 | |
| 1984 | 84 | 273 | 241 | 29 | 60 | 9 | 2 | 7 | 94 | 29 | 4 | 3 | 5 | 1 | 22 | 0 | 4 | 26 | 6 | .249 | .321 | .390 | .711 | |
| 1985 | 118 | 420 | 373 | 41 | 92 | 15 | 3 | 11 | 146 | 51 | 3 | 4 | 10 | 2 | 32 | 0 | 3 | 46 | 14 | .247 | .310 | .391 | .701 | |
| 1986 | 79 | 227 | 199 | 24 | 43 | 8 | 0 | 6 | 69 | 25 | 2 | 0 | 6 | 3 | 17 | 0 | 2 | 27 | 5 | .216 | .281 | .347 | .627 | |
| 1987 | 35 | 71 | 64 | 4 | 15 | 5 | 0 | 2 | 26 | 7 | 1 | 3 | 1 | 2 | 4 | 0 | 0 | 19 | 0 | .234 | .271 | .406 | .678 | |
| 1988 | 52 | 71 | 65 | 4 | 14 | 2 | 0 | 2 | 22 | 8 | 1 | 1 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 13 | 2 | .215 | .282 | .338 | .620 | |
| 通算:17年 | 1323 | 3866 | 3444 | 375 | 874 | 141 | 10 | 113 | 1374 | 439 | 41 | 29 | 84 | 32 | 274 | 3 | 32 | 492 | 88 | .254 | .312 | .399 | .711 | |
[編集] 年度別守備成績
| 年度 | 試合 | 企図数 | 許盗塁 | 盗塁刺 | 阻止率 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1972 | 1 | 1 | 1 | 0 | .000 |
| 1973 | 60 | 47 | 28 | 19 | .404 |
| 1974 | 115 | 86 | 52 | 34 | .395 |
| 1975 | 45 | 20 | 11 | 9 | .450 |
| 1976 | 45 | 16 | 8 | 8 | .500 |
| 1977 | 77 | 57 | 35 | 22 | .386 |
| 1978 | 53 | 30 | 16 | 14 | .467 |
| 1979 | 108 | 69 | 32 | 37 | .536 |
| 1980 | 102 | 48 | 25 | 23 | .479 |
| 1981 | 98 | 80 | 47 | 33 | .413 |
| 1982 | 67 | 50 | 27 | 23 | .460 |
| 1983 | 82 | 76 | 47 | 29 | .382 |
| 1984 | 70 | 56 | 38 | 18 | .321 |
| 1985 | 114 | 104 | 77 | 27 | .260 |
| 1986 | 77 | 64 | 44 | 20 | .313 |
| 1987 | 27 | 13 | 8 | 5 | .385 |
| 1988 | 25 | 5 | 5 | 0 | .000 |
| 通算 | 1166 | 822 | 501 | 321 | .391 |
[編集] 年度別監督成績
[編集] リーグ公式戦
| 年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2000年 | 近鉄 | 6位 | 135 | 58 | 75 | 2 | .436 | 20.0 | 125 | .262 | 4.66 | 47歳 |
| 2001年 | 1位 | 140 | 78 | 60 | 2 | .565 | - | 211 | .280 | 4.98 | 48歳 | |
| 2002年 | 2位 | 139 | 73 | 64 | 2 | .533 | 16.5 | 177 | .258 | 3.93 | 49歳 | |
| 2003年 | 3位 | 140 | 74 | 64 | 2 | .536 | 8.5 | 187 | .274 | 4.30 | 50歳 | |
| 2004年 | 5位 | 133 | 61 | 70 | 2 | .466 | 17.0 | 121 | .269 | 4.46 | 51歳 | |
| 2008年 | 日本ハム | 3位 | 144 | 73 | 69 | 2 | .514 | 4.0 | 82 | .255 | 3.54 | 55歳 |
| 2009年 | 1位 | 144 | 82 | 60 | 2 | .577 | - | 112 | .278 | 3.65 | 56歳 | |
| 2010年 | 4位 | 144 | 74 | 67 | 3 | .525 | 3.0 | 91 | .274 | 3.52 | 57歳 | |
| 2011年 | 2位 | 144 | 72 | 65 | 7 | .526 | 17.5 | 86 | .251 | 2.68 | 58歳 | |
| 通算:9年 | 1263 | 645 | 594 | 24 | .521 | Aクラス6回、Bクラス3回 | ||||||
[編集] ポストシーズン
| 年度 | チーム | 大会名 | 対戦相手 | 勝敗 |
|---|---|---|---|---|
| 2001年 | 近鉄 | 日本シリーズ | ヤクルトスワローズ (セ・リーグ優勝) |
1勝4敗(敗退) |
| 2008年 | 日本ハム | パ・リーグ クライマックスシリーズ 第1ステージ |
オリックス・バファローズ (パ・リーグ2位) |
2勝0敗(第2ステージ進出) |
| 同 第2ステージ |
埼玉西武ライオンズ (パ・リーグ優勝) |
2勝4敗(敗退) (※1) |
||
| 2009年 | パ・リーグ クライマックスシリーズ 第2ステージ(※2) |
東北楽天ゴールデンイーグルス (パ・リーグ2位) |
4勝1敗(日本シリーズ進出) (※2) |
|
| 日本シリーズ | 読売ジャイアンツ (セ・リーグ優勝) |
2勝4敗(敗退) | ||
| 2011年 | パ・リーグ クライマックスシリーズ 第1ステージ |
埼玉西武ライオンズ (パ・リーグ3位) |
0勝2敗(敗退) |
- 勝敗の太字は勝利。
- クライマックスシリーズ第1ステージは3試合制であり、先に2勝したチームが第2ステージ進出。リーグ2位チームにはアドバンテージ無し。
- クライマックスシリーズ第2ステージは6試合制であり、先に4勝したチームが日本シリーズ進出。リーグ優勝チームには予め1勝分のアドバンテージが与えられている。
- (※1) リーグ優勝チームの西武に与えられた1勝分のアドバンテージによる1敗を含む
- (※2) 1勝分のアドバンテージを含む
[編集] 表彰
- ベストナイン:3回 (1979年 - 1981年)
- ダイヤモンドグラブ賞:4回 (1979年 - 1981年、1983年)
- オールスターゲームMVP:1回 (1983年 第2戦)
[編集] 記録
- オールスターゲーム出場:6回 (1979年 - 1981年、1983年、1985年、1986年)
- 通算1000試合出場:1984年6月14日(246人目)
[編集] 背番号
- 52 (1972年 - 1973年)
- 8 (1974年 - 1988年)
- 73 (1993年 - 2004年)
- 88 (2008年 - 2011年)
[編集] 登録名
- 梨田 昌崇(なしだ まさたか) (1972年 - 1983年)
- 梨田 昌孝(なしだ まさたか) (1984年 - )
[編集] 関連情報
[編集] 著書
- 梨田昌孝の超野球学 フィールドの指揮官(ベースボール・マガジン社) 2006年6月 ISBN 4583039034
- 戦術眼(ベースボール・マガジン社) 2008年3月 ISBN 4583100833
[編集] 脚注
- ^ “梨田監督、今季限り=日本ハム「後任は白紙」-プロ野球”. 時事ドットコム. (2011年9月15日)
- ^ “阪神 来季監督に梨田昌孝氏招へい 真弓監督が後を託す人物としては最適”. スポーツニッポン. (2011年10月17日)
[編集] 関連項目
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