辻発彦

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辻 発彦
中日ドラゴンズ コーチ #85
CD-Hatsuhiko-Tsuji.jpg
2008年6月26日、阪神鳴尾浜球場
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 佐賀県小城市
生年月日 1958年10月24日(55歳)
身長
体重
182 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手
プロ入り 1983年 ドラフト2位
初出場 1984年4月3日
最終出場 1999年10月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

辻 発彦(つじ はつひこ、1958年10月24日 - )は、佐賀県小城市出身の元プロ野球選手内野手)。愛称ハツはっちゃん二塁手として歴代最多の8度のゴールデングラブ賞を受賞している。

2014年シーズンより中日ドラゴンズ内野守備走塁コーチを務める。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

佐賀市立昭栄中学校を卒業した時点では身長が161cmと小柄で高校での硬式野球をあきらめようとも思ったが[1]佐賀東高校では強い情熱で練習を積んだ。高校卒業後の身長は182cmに達し、日本通運浦和に進んで社会人野球でプレーした。レベルの高さにプレッシャーを感じたが[1]、やがて中軸打者として4番を打つようになり、守備では三塁手を務めていた。1983年のドラフト会議では2位で指名され、西武ライオンズに入団。

指名の経緯については、身体能力の高さ、1983年の1年間に40回盗塁を企図して失敗0だった走塁センス、そして野球への熱意を評価した[2]根本陸夫は述べている。都市対抗野球大会では1試合だけ二塁手を務めており、これを見たスカウトからは大型二塁手としての素質を評価されていた[3]。社会人時代には目立った実績がなく、上位指名に対して驚きの声もあった[2]

プロ入り後[編集]

入団直後の1984年メサでの春季キャンプでは監督の広岡達朗から激しいノックを受け、守備を鍛えられた[2]。新人ながら41試合に出場し、その内29試合は三塁手、4試合は二塁手だった。オフに二塁手のレギュラーだった山崎裕之が引退し、遊撃手には石毛宏典一塁手にはスティーブ・オンティベロス(三塁手兼任)や片平晋作、三塁手には秋山幸二がいたため、チーム方針で辻は二塁手を目指すことになった[3]。当時について、広岡が自らグラブを持って手本を示したため厳しい指摘にも反論できなかった、と後に述懐している。

プロ2年目の1985年には出場した110試合中90試合で二塁手を務め[3]、出場機会は大幅に増えた。日本シリーズ第2戦、7回裏一死一・三塁の場面でセーフティースクイズを敢行するが、阪神の一塁手・ランディ・バースのファインプレーにあい、三塁走者の秋山幸二がホームでタッチアウトになる。「フライを恐れたがもっと強いバントをすべきだった」と反省している。オフの11月19日には郭泰源通訳と同乗して西武球場へ練習に行く途中、所沢市内で追突されて全治1週間のむち打ち症となったが、大事には至らなかった[4]

1986年は二塁手として全試合に出場し、初めてゴールデングラブ賞ベストナインに選出された。日本シリーズでは第1戦の7回に二盗と三盗を成功させ、シリーズ史上6人目となる1イニング2盗塁を達成した[5]。この年は2試合だけ遊撃手のポジションにも入っている[3]

1987年、3月31日の阪神とのオープン戦中田良弘シュートを踏み込んで打ちに行って投球が当たり、右手人差し指を開放骨折した[6]。飛び出た骨が見えるほどの重症で、一軍登録されたのは7月30日だった。この年は51試合の出場に終わっている。巨人と戦った日本シリーズ第6戦では8回裏2アウトから安打で出塁し、続く秋山幸二がセンター前ヒットを放つと、捕球したウォーレン・クロマティの緩慢な返球と、中継に入った川相昌弘が打者走者の二塁進塁を警戒して三塁側が死角になったことに乗じて、一気に一塁から生還して駄目押しのホームを踏んだ。優勝目前の9回表2アウトの場面ではタイムをかけ、泣いていた一塁手の清原和博を慰めている。

1988年は前任の石毛宏典に代わって選手会長に任命され、オフには年俸が1,500万円増の4,300万円(推定)となった[7]。同年から7年連続して二塁手でゴールデングラブ賞を受賞し、1990年まで3年間連続で全試合出場を果たした。1990年の日本シリーズでは第1戦から3試合連続で先頭打者として安打を放ち、4連勝での日本一に大きく貢献している。1991年オフには年俸が1億1,100万円となり、初めて1億円の大台を超えた。1992年の日本シリーズ最終戦では、7回裏一死満塁の一打出ればヤクルトが勝ち越す場面で、杉浦享の放った強烈なゴロを捕り本塁で広沢克己を補殺。大ピンチを救うプレーで日本一に貢献した。

1993年は腰痛で出遅れたチームも4月は低調だった[8]が、上半身の力を抜き下半身でタイミングを取るような打撃フォームにした事もあり[9]、初の打撃タイトルとなる首位打者を獲得。年俸は3,900万円増の1億7,200万円(推定)となっている[10]。こうしてチームとともに円熟期を迎えたが、1995年には腰痛もあって前半戦の出場機会が減り、成績も低迷した。当時2億円(推定)[11]の高年俸がネックとなった事や、若返りを図るチーム事情から戦力外通告を受けた。近鉄バファローズとの最終戦前日に監督の東尾修と本部長の浦田直治から監督室に呼ばれ、本人の意思を全く確認せずに二軍守備走塁コーチ就任を打診された経緯もあり[12]、現役続行を希望して自由契約となった。

西武退団後は、ヤクルトスワローズ監督の野村克也千葉ロッテマリーンズGMの広岡達朗から、それぞれ入団を誘われた。ヤクルトは5,000万円、ロッテは8,000万円の年俸を提示してきたが、先に声を掛けられていたことと野村の下で野球を勉強したい気持ちからヤクルトへの入団を決めた[13]

移籍1年目の1996年はキャンプから若手と同じメニューをこなし、オープン戦にも2月25日の初戦から出場した。しかし疲労などからオープン戦の打率は.227と低調で、更に4月7日には対横浜戦の試合前の練習で右手人差し指を骨折してしまった[13]。復帰した5月10日の対中日戦で猛打賞を記録すると以後は安打を量産する。規定打席には達しないながらも6月上旬には4割近い打率で、オールスターゲームにも出場した。後半戦規定打席到達後は徐々に打率を下げ、自己最高の.333を記録するものの7厘差でアロンゾ・パウエルに及ばず、セ・パ両リーグでの首位打者はならなかった。

1997年以降は代打なども経験しつつ、稲葉篤紀に打撃理論、宮本慎也に守備を助言するなど若手選手をサポートする役割も担った[13]1998年には一塁手を4試合務めて12年ぶりに二塁手以外の守備に就いた。しかし、1999年はキャンプで左肩を痛め、その後も左わき腹や左太ももなどの故障が続いてプロ入り以来最少の17試合出場に終わり、同年限りで引退した。

現役引退後[編集]

引退後は2000年から2年間ヤクルトで二軍守備走塁コーチを担当した。2002年からは横浜ベイスターズで守備走塁コーチを2年間務め、二塁手の種田仁や遊撃手の石井琢朗の控えだった内川聖一の守備などを鍛えた[14]2004年は二軍打撃コーチを務めた。2005年からはテレビ埼玉NHK・BS野球解説者および日刊スポーツ野球評論家を務めた。

2006年には、2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表内野守備走塁コーチ(三塁ベースコーチ)を務めた。大会期間中はノックだけでなく打撃投手なども行っていた[15]。同大会で守備が印象に残った遊撃手として朴鎮萬の名を挙げている[16]。11月1日に中日ドラゴンズの二軍監督に就任した。

2007年には就任1年目にしてウエスタン・リーグ優勝とファーム日本選手権制覇を果たし、9月29日ファーム日本選手権巨人を破り日本一になる。2008年は振るわなかったものの、2009年シーズンでは山本昌井上一樹らのベテラン勢、一軍を多く経験した若手の活躍もあり、2年ぶりにウエスタン・リーグとファーム日本選手権を制覇した。

2010年は一軍の総合コーチに異動し、作戦面で監督の落合博満を支えることになった。2011年シーズン途中からは三塁コーチャーを務め、連覇に貢献した。シーズン終了をもって契約満了により退団した。

2012年からは再びテレビ埼玉およびNHK・BSの解説を担当、2013年からはビーエスFOXFOX SPORTS ジャパン)の解説者としても出演している。

2013年10月22日、2014年シーズンより内野守備走塁コーチとして中日ドラゴンズに復帰することが発表された[17]

プレースタイル[編集]

打撃[編集]

社会人野球では4番を務めたが、西武ライオンズではAKD砲の脇を固めるつなぎ役(1980年代は主に9番、1990年代に入ってからは主に1番)となり、首位打者も獲得している。

1kg以上もある重いバットを短く持ち、気持ちで打ちに行くタイプだったと自ら評価している[18]。ヤクルト在籍時に監督の野村克也が嘆いたほどバントは苦手で、バントの代わりとしてインコースでも右方向にゴロを打てる技術を磨いた[19]

現役時代、「パ・リーグの投手は2・3番手でも球威があるのに対し、セ・リーグの投手は変化球を主体に低めに投げてくる」と語っている。この傾向については、当時のセ・リーグの方が球場が狭くホームランが出やすいためではないかと分析していた[20]

守備[編集]

二塁手として歴代最多の8度のゴールデングラブ賞を受賞し、守備は日本プロ野球史上でも屈指のレベルに有る。守備の際は投手が打ち取った当たりを安打にせず確実にアウトを取ることが野手の責任と考え[21]、基本的には浅めに守っていた[14]。前方の弱いゴロへのダッシュなどは、三塁手時代の経験が活かされたという[14]。ゴロについては「とにかく前にでて取りに行く」スタンスの持ち主である。理由は「ボールがバウンドする数が減るほどイレギュラーの確率が下がるから」で、今も自身が守備を指導するときは必ずそう説く。

極端なポジショニングは好まなかったが、打者の打球傾向や捕手のサインから常に打球の方向は予測していた[21]。絶好調の時には打つ寸前のバットの角度から打球の方向が判断できたという[21]。肩はそれほど強くなく、西武での晩年に強肩の松井稼頭央が遊撃手に入る場合は右中間の打球でも松井が中継に入るほどであったが[22]、出足や判断力でカバーしていた。

二塁手というポジションについては、送球方向が左右にわたり、盗塁の際にはタイミングを見極めて塁に入り、さらに外野手の守備位置によって打球を追う範囲が変わってくるなど、高い集中力と瞬間的な判断力が要求されると述べている[21]。打球へ常に集中していたため、現役引退後に打撃練習で守備についていても条件反射で声が出たという[14]。内野のコミュニケーションのためには二遊間を固定すべきと考えており[23]、自身と合わせるのがうまかった遊撃手として宮本慎也や奈良原浩の名を挙げている[24]。現役当時重要視されたサイン盗みについて近藤昭仁に技術を学び、プレイ中に守備位置で味方に知らせていた[18]。辻と石毛で完成させる6-4-3、4-6-3の二遊間のダブルプレーは文化放送ライオンズナイターでは「はっちゃんダブル」と形容された[25]

プレイヤーの目から見たもっとも良い球場として当時内野が土だった[26]グリーンスタジアム神戸を挙げている[27]。土の内野では二遊間へ飛んだ打球に対し、右足を滑らせて減速しながら正面で取れるが、人工芝ではスパイクが止まるため、なるべく前でシングルで補るか逆シングルで補球する機会が増えたという[28]

グラブ[編集]

プロ入り後、山崎裕之に紹介されたのを契機に久保田運動具店福岡支店長の江頭重利にグラブ作製を依頼し、引退まで関係は続いた。現役時代の16年間で練習には多くのグラブを使ったが、試合で用いたのは5個程度で、平均3-4年、長ければ5年使用したグラブもある[29]

捕球後すぐ投げるために手のひらで打球を受けることを基本とし、感覚を重視してグラブの手のひら部分は通常よりかなり薄くなっていた。他のプロ野球選手から見ると痛そうなほどの薄さだったという[30]ライナーやタッチプレーの時はディープポケットでつかみ、場合によっては土手の部分で捕るなど面の全てが使えることを理想とし、親指と小指の芯を硬くした以外は軟らかくしていた[29]。サイズが小さめだった他は形状へのこだわりは少なく、正しい捕球を重ねる内に適当な形になったという[29]。現役最後の2年間は守備範囲の減少をカバーするために大きめのグラブを用いた。

取り扱いには注意を払い、新品のグラブはボールを中に入れてタコ糸で縛り、水につけてから陰干しにして油を塗る工程を繰り返し、軟らかくなったものを練習で慣らし、およそ半年かけて使える状態にしていた[31]。熱を持った人工芝で軟化したり雨で濡れることを嫌い、地面になるべく接さずに型を崩さないよう、指の部分を下に向けて立てていた[29]。グラブが重くなるため油はあまり塗らず、雨の日の試合の翌日に限り、乾燥ボックスに一晩入れたあとで塗っていた[29]

捕球面を広く使うために、小指のヒンジ部分に3本のヒモを入れる独特のヒモの通し方は名前を冠して「辻トジ」と呼ばれ、福良淳一馬場敏史トニー・バナザード今岡誠など様々な選手が同じ形状のグラブを使用した。現在でも久保田運動具店はこの名称を使用している。

評価[編集]

1980年代後半から1990年代前半の西武ライオンズ黄金時代において石毛宏典とともに鉄壁のディフェンスを支えた象徴的選手である。かつて野村克也は過去現在を含めた日本プロ野球におけるベストナインを問われた時、名だたる大選手を押しのけ辻を正二塁手に挙げた。千葉茂は、守備が上手くサインが盗める俊足のムードメーカーであり最高のプロ好みの仕事人、と評している[18]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1984 西武 41 108 91 13 19 5 0 3 33 10 2 1 6 0 9 0 2 13 3 .209 .294 .363 .657
1985 110 310 251 45 69 11 4 5 103 35 27 3 15 5 29 0 10 26 2 .275 .366 .410 .776
1986 130 497 425 65 126 19 5 7 176 57 35 15 23 5 36 0 8 63 7 .296 .359 .414 .773
1987 51 136 125 9 25 5 1 2 38 9 10 1 4 0 5 0 2 21 2 .200 .242 .304 .546
1988 130 460 419 45 110 19 1 3 140 39 13 12 9 1 28 0 3 51 5 .263 .313 .334 .647
1989 130 490 437 58 133 12 5 3 164 52 33 7 9 5 33 1 6 33 9 .304 .358 .375 .733
1990 130 498 421 59 112 17 2 3 142 39 31 9 22 2 45 0 8 38 4 .266 .347 .337 .684
1991 129 571 498 61 135 27 2 8 190 43 16 6 20 2 44 0 7 48 13 .271 .338 .382 .719
1992 123 553 474 66 135 23 4 6 184 48 23 7 11 1 59 0 8 38 6 .285 .373 .388 .761
1993 110 501 429 68 137 26 5 3 182 31 14 6 10 5 51 1 6 37 4 .319 .395 .424 .819
1994 105 458 412 63 121 21 1 4 156 45 9 5 2 5 35 1 4 51 4 .294 .351 .379 .730
1995 107 370 307 31 73 8 2 2 91 20 7 8 13 1 45 0 4 30 4 .238 .342 .296 .638
1996 ヤクルト 103 456 400 59 133 9 2 2 152 41 9 3 1 2 48 1 5 46 16 .333 .409 .380 .789
1997 85 308 279 33 73 10 1 2 91 18 6 2 6 1 17 1 5 37 12 .262 .315 .326 .641
1998 61 182 168 20 51 5 0 3 65 18 6 1 0 2 8 0 4 17 0 .304 .346 .387 .733
1999 17 58 51 4 10 0 0 0 10 5 1 0 1 0 6 0 0 7 2 .196 .281 .196 .477
通算:16年 1562 5956 5187 699 1462 217 35 56 1917 510 242 86 152 37 498 5 82 556 93 .282 .352 .370 .721
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録

背番号[編集]

  • 5 (1984年 - 1995年)
  • 8 (1996年 - 1999年)
  • 84 (2000年 - 2001年)
  • 85 (2002年 - 2004年、2007年 - 2011年、2014年 - )

関連情報[編集]

出演[編集]

著書[編集]

  • 『プロ野球勝つための頭脳プレー』(2000/07/01 青春出版社
  • 『プロ野球 勝ち続ける意識改革』(2012/08/02 青春出版社)

脚注[編集]

  1. ^ a b 朝日新聞 2002年01月17日付朝刊、佐賀地方面 P.25
  2. ^ a b c 潮、1991年2月号、P.271
  3. ^ a b c d 週刊ベースボール、2002年8月12日号、P.27
  4. ^ 朝日新聞、1985年11月20日付朝刊 社会面、P.23
  5. ^ 読売新聞、1986年10月17日付朝刊、P.19
  6. ^ 週刊ベースボール、1988年4月11日号、P.128
  7. ^ 読売新聞、1988年12月12日付朝刊、P.18
  8. ^ 毎日新聞、1993年4月26日付夕刊、P.3
  9. ^ 読売新聞、1993年9月29日付夕刊、P.3
  10. ^ 毎日新聞、1993年12月20日付朝刊、P.17
  11. ^ 週刊ベースボール 1996年8月2日号、P.26
  12. ^ 週刊ベースボール 1995年12月14日号、P.110
  13. ^ a b c 週刊ベースボール 1996年11月11日号、P.120
  14. ^ a b c d 週刊ベースボール、2002年8月12日号、P.29
  15. ^ 週刊ベースボール、2006年6月19日号、P.5
  16. ^ 週刊ベースボール、2006年6月19日号、P.7
  17. ^ 来季のスタッフについて
  18. ^ a b c 潮、1991年2月号、P.273
  19. ^ 週刊ベースボール 1996年11月11日号、P.119
  20. ^ 週刊ベースボール 1996年8月26日号、P.26
  21. ^ a b c d 週刊ベースボール 2005年7月25日号、P.21
  22. ^ 二塁手に高木浩之らが入るようになってもこの方法は引き継がれている。
  23. ^ 週刊ベースボール 2001年5月28日号、P.27
  24. ^ 週刊ベースボール 2005年7月25日号、P.22
  25. ^ 石毛のニックネームのハチと、辻の名前を掛けてである。
  26. ^ 後に天然芝となった
  27. ^ 『球場物語―この1冊で球場のすべてが分かる! (B.B.mook―スポーツシリーズ (338)』、2005年 (川口和久との対談)
  28. ^ 週刊ベースボール 2005年7月25日号、P.20
  29. ^ a b c d e 週刊ベースボール 2000年6月19日号、P.19
  30. ^ 週刊ベースボール 1999年11月1日号、P.110
  31. ^ 潮、1991年2月号、P.272

関連項目[編集]

外部リンク[編集]