小久保裕紀

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小久保 裕紀
野球日本代表 監督 #90
Hiroki Kokubo-Retirement ceremony.jpg
引退セレモニーでの小久保
(2012年10月8日、福岡Yahoo!JAPANドーム)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県和歌山市
生年月日 1971年10月8日(43歳)
身長
体重
182 cm
87 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手一塁手二塁手
プロ入り 1993年 ドラフト2位(逆指名)
初出場 1994年4月9日
最終出場 2012年10月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム Flag of Japan.svg 日本
五輪 1992年
オリンピック
男子 野球
1992 野球

小久保 裕紀(こくぼ ひろき、1971年10月8日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手内野手)。野球日本代表(侍ジャパン)監督、野球解説者野球評論家「ミスターホークス」と呼ばれた。

現役時代は福岡ソフトバンクホークス(福岡ダイエーホークス)読売ジャイアンツに所属しており、両球団で主将を務めた。2005年から2009年まで社団法人日本プロ野球選手会の第10代理事長を務めていた。

2013年からはNHKの野球解説者と野球日本代表(侍ジャパン)の監督を務める。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

1971年に和歌山市で生まれる。和歌山市立砂山小学校から和歌山市立西和中学校へ進学し、野球部に所属。中学校卒業後は和歌山県立星林高等学校に進学し、1989年青山学院大学へ進学。東都大学リーグでは通算40試合に出場して打率.291、8本塁打、23打点を記録する。1993年には小久保が主将となり、青山学院大学史上初の大学野球日本一に貢献した。

1992年にはバルセロナオリンピック野球日本代表に大学生で唯一選出され、予選リーグで2本塁打を放つ。のちにメジャーリーグベースボールでプレーするノマー・ガルシアパーラジェイソン・ジアンビを擁するアメリカ合衆国との試合に勝利して銅メダルを獲得したが、小久保は先制打を含む2本のタイムリー二塁打で勝利に貢献した。

読売ジャイアンツ福岡ダイエーホークスとの競合の末、ダイエーを逆指名し、1993年のドラフト会議で2巡目で指名され、入団。背番号は9年俸は1200万円、契約金は最高額の1億6000万円であった(以下、金額は推定)。

ダイエー時代[編集]

1994年には春季キャンプから高畠康真の指導を受け、オープン戦はまずまずの成績を残し、同年4月9日の対オリックス・ブルーウェーブ戦(グリーンスタジアム神戸)に6番・右翼手として初出場を果たす。チームは17得点で大勝するも小久保は6打数0安打と散々なデビュー戦となった。4月10日のオリックス・ブルーウェーブ戦(グリーンスタジアム神戸)で野田浩司からプロ初安打を放つもその後は振るわず、同年7月5日の対千葉ロッテマリーンズ戦(北九州市民球場)で、34試合目・67打席目で園川一美からようやくプロ初本塁打を放った。最終的には打率.215・6本塁打と不本意なルーキーイヤーとなったため、この現状を打破すべく「ハワイ・ウインター・ベースボール」に参加し、首位打者とMVPに輝いた。そして、本人曰く「ものすごく緊張した」という、翌年から福岡ダイエーホークスの監督に就任する王貞治の目の前で本塁打を放ち、優勝へ導いた。

1995年には二塁手のレギュラーに定着すると全試合出場を達成、28本塁打を放ってパシフィック・リーグ本塁打王に輝いたほか、リーグ1位の9三塁打と長打率.548を記録した[1]1995年のオールスターゲームにもファン投票トップで初選出され、第2戦目に古溝克之から広島市民球場の右翼へ本塁打を含む3安打を放った。シーズンの打順に関しては、4月は1試合を除く全試合で8番を打っていた。初めて4番を任されたのは、5月26日の対近鉄バファローズ戦である。

1996年津野浩(ロッテ)からプロ初の満塁本塁打や、2年連続の20本塁打以上を記録するが、不調期間が長く安定感に欠き、打率.247に終わった。チームも3年ぶりに最下位となる。

1997年になると、8月末から一塁手を、最後の9試合で三塁手を守るようになる。2年ぶりに全試合に出場し、打率.302・36本塁打・114打点の好成績を挙げ、ドミンゴ・マルティネス西武)との争いに勝利して打点王を獲得。二塁打37本、長打率.588、塁打310はそれぞれリーグ1位を記録し、野球体育博物館では、「セの松井秀喜、パの小久保」としてポスターのモデルにもなった。 しかし、オフにプロ野球脱税事件が発覚、自身も主犯格の1人として懲役1年、執行猶予2年、罰金700万円の有罪判決が言い渡され[2]、コミッショナーからは1998年の開幕戦から8週間の出場停止と制裁金400万円の処分を受ける[3]

1998年浜名千広井口忠仁を二遊間としてレギュラーで固定するため、前年ベストナインに選出されたものの二塁を守らなくなる。出場停止期間から復帰した5月30日に4番・三塁手で2安打を放ったが、1ヶ月も経たずに右肩関節唇損傷の重傷で離脱し、わずか17試合の出場、2本塁打・打率.225に終わる。

1999年、痛めた肩に苦しみ、不振だったが王に一年を通して4番を任される。前半戦は全く打てず、打率.185であった。しかし9月に入って、4試合で4本塁打を放つなど、後半には3割を超える高打率を記録。優勝決定戦では7回裏、日本ハム金村暁から推定飛距離140メートルの同点本塁打を放つなど、福岡移転後初のリーグ優勝に貢献した。最終的には打率.234、24本塁打、77打点まで巻き返し、本塁打と打点はチーム内トップであった。日本シリーズでも中日ドラゴンズ相手に全試合4番・三塁手を任される。序盤はヒットすら打てなかったが、第3戦にようやく初ヒットを打つと、第4戦のナゴヤドームで前年までダイエーに所属していた武田一浩から本塁打を放つなどして、日本一に貢献。

2000年から本格的に三塁手として固定され、同時にチームの選手会長に就任するなど、チームに欠かせない存在となる。開幕から6試合で6本塁打と順調な滑り出しを切ると、古傷の親指を痛めながら小倉恒から逆転サヨナラ本塁打を放ち、同年6月20日の対オリックス・ブルーウェーブ戦から同年7月4日の対千葉ロッテマリーンズ戦にかけての10試合連続打点[4]や、21試合連続安打などで打率.390を記録し、6月は初の月間MVPを獲得した。同年8月30日の試合後時点で首位の西武ライオンズに3.5ゲーム差を付けられていたが、チームの選手会長として試合前や試合後に選手だけを集めてミーティングや決起集会を招集するなど、チームが一丸になるよう努めた。その結果チームは勝ち星を重ねて9月5日に首位を奪い返すと、マジック1で迎えた同年10月7日の対オリックス・ブルーウェーブ戦(福岡ドーム)で金田政彦から決勝本塁打を放ち、リーグ連覇に貢献した。2000年の日本シリーズ(対読売ジャイアンツ戦)に進出する前は4番打者として責任重大と考え、相当な練習量を行ったが、逆にオーバーワークになったことで脇腹を痛め、極度の不振・途中離脱となった。シリーズ敗退の決まった第6戦もスタメンで出られずに敗退し、屈辱を味わった。それでも契約更改では31本塁打(リーグ5位)・105打点(リーグ3位)とシーズン連覇貢献を高く評価され、満30歳にして初めての1億円プレイヤーとなった。

2001年も好調を維持し、44本塁打(リーグ4位、40本以上は自身初)・123打点(リーグ4位)を記録。福岡ドームを本拠地にしての選手としては初の大台となった。この年は松中信彦が36本塁打(リーグ6位)、城島健司が31本塁打(リーグ9位)、井口資仁が30本塁打(リーグ12位)で、パシフィック・リーグで初めて同一球団から4名のシーズン30本塁打以上となる打者を輩出した。全員日本人なのはプロ野球史上初だった。

2002年は背筋痛や肉離れと戦いながら、3年連続の30本超えとなる32本塁打を放つ。自身の通算1000本安打を通算1000試合出場と同時に達成するなど活躍したが、チームは2年連続の2位に終わった。守備ではオールスターで右翼手を、日米野球で二塁手を守ったりと過去の守備位置に就いた。シーズン最終戦となった同年10月12日の対大阪近鉄バファローズ戦(福岡ドーム)で大塚晶則から9回に同点に追い付く32号本塁打を放ったが、この翌年の試合中に重傷を負ったことでシーズンを全休したため、この試合が自身の「福岡ダイエーホークス」最後の出場となる。

2003年は選手会長を松中に譲り、打撃に専念してキャンプを消化していたが、同年3月6日のオープン戦(対西武ライオンズ戦)でホーム生還時スライディングの体勢で椎木匠と交錯し、右膝の前十字靭帯断裂・内側靭帯損傷外側半月板損傷脛骨大腿骨挫傷という重傷を負う。そのまま退場し、完治まで最低6ヶ月と診断されたことでアリゾナ州のリハビリ施設でトレーニングに励んだ。自身は同年の試合に全く出場できなかったが、チームは3年ぶりのリーグ優勝と4年ぶりの日本一を達成、優勝決定戦では自身も一時帰国し、胴上げに参加した。その後もリハビリ生活を耐え、キャッチボールや屋内での打撃練習は再開していた。

突然の無償トレード(小久保事件)[編集]

2003年のシーズン終了後、多くのファンから来季の活躍を期待されていた小久保が、読売ジャイアンツへ前代未聞の無償トレードで移籍することとなった(小久保事件)。

移籍の理由は、当時の球団社長である高塚猛と意見が合わなかったことや、アメリカでの治療費・渡航費である約2000万円が球団から一切支払われなかったことが挙げられ、小久保はアメリカから一時帰国した2003年6月中旬に球団に対して自由契約の意思を伝えていた。無償トレードとなったのは、当時のオーナーである中内正が、金銭トレードの分を小久保の年俸に上乗せするよう巨人側へ伝えたからとされる[5][6]

だが、この一件はチームメイトやダイエーファンのみならず、球界全体に大きな衝撃を与えた。最終的には優勝旅行のボイコットという事態にまで発展する結果となった[7]

巨人時代[編集]

2004年、故障箇所にサポート器具を装具、膝関節も曲がりきらないというシーズンを迎えるが、3番・三塁手で阪神との開幕戦に出場すると、翌試合に福原忍から東京ドームのライトスタンド中段へ移籍後初安打・初本塁打を記録。その後は成績が上がらない状態になる。しかし徐々に膝への不安が減り、5月には負担の少ないすり足打法から元の一本足打法に戻すと、本塁打を量産。前半戦最後の3連戦で4本塁打を放つなど活躍し、7月度の月間MVPに輝いた。シーズン後半にはアテネ五輪で離脱した高橋由伸に代わって巨人軍第69代4番に座り、長嶋茂雄原辰徳落合博満清原和博らも達成できなかった巨人の右打者としては史上初のシーズン40本塁打以上(41本塁打)を達成。アレックス・ラミレスが後に記録するも2011年終了時点で、いまだに日本人での巨人右打者40本塁打以上は小久保のみである。打率では、自己新の.314を記録した。

2005年交流戦初年度に12本を放ち、交流戦本塁打王になる(タイで4人受賞)。レギュラーシーズンでは不調期間が長く安定感には欠けたが、5月3日から、1試合を除く全試合に4番で出場。横浜土肥義弘からプロ入り初の3打席連続本塁打を放つなど、シーズンでは34本塁打を記録し、低迷するチームの中で孤軍奮闘の活躍をみせた。FA権を取得したが、入団時に2年+1年(球団側に選択権がある)オプションの最高3年契約を結んでおり、球団がこのオプションを行使し、巨人に残留した。

2006年、巨人代表清武英利に巨人軍第17代目の主将を依頼される。主将制度は1998年の吉村禎章以来8年ぶりに復活されたが、移籍選手の主将指名は初。小久保のユニフォームの右袖には15×80mmのキャプテンマークが縫い付けられていた。年俸は3億円に達した。

6番・三塁手で開幕戦出場すると、4月に打棒を爆発。3試合連続を含む、9本塁打を記録し、チームは首位を独走。その後、調子を落としたがチャンスになると送りバントを積極的に行うなど、何とか首位を守り、6月1日の日本ハム戦では札幌ドームで延長12回に武田勝から決勝本塁打を放った。しかし、その翌日の6月2日、対西武戦で和田一浩の打球を処理する際、古傷の右手親指内側側副靭帯を剥離骨折し、長期にわたり登録抹消となる。チームもそこから極度の不振に陥った[8]。リハビリも思うようにいかず、8月18日の中日戦にてようやく一軍復帰。打撃面でも怪我前に比べて精彩を欠いてしまう。最終的に4番での出場は9月3日対中日戦の1試合のみ、打率は.256、二塁打数はわずか5本。そして結局チームは2年連続Bクラスに終わってしまう。

11月11日にFAにより福岡ソフトバンクホークス[9]に復帰が決定した(詳細は#ホークス復帰参照)。12月10日、小久保の人的補償として吉武真太郎が巨人に移籍した。

ソフトバンク時代[編集]

2007年には、恩師である王貞治を胴上げすべく並々ならぬ思いでキャンプを迎え、同時に禁酒も決意した。さらに右足の状態も改善したことからサポート用具を外し、開幕戦を5番・三塁手で先発出場。キャンプ中に決意したことを早速開幕で示し、9本塁打・26打点、得点圏打率.375で同年3・4月の月間MVPを受賞する。交流戦では逆転満塁本塁打を放つなど好調を維持したが、夏場に疲労から調子を一気に下げ、8月末には死球により肋骨を骨折したため離脱した。それでも自身は最終的にチームトップの25本塁打・82打点を挙げ、後半戦には犠牲バントを2度決めるなど、チームに貢献した。しかしチーム自体は思うように成績が伸びず、2年連続の3位に終わり、2007年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズでも4度目となる敗退に終わった。

2008年からは松田宣浩が頭角を現したこともあり、守備の負担が少ない一塁手に転向した。前年オフには三角線維軟骨複合体の治療のため左手首を手術し、キャンプ・オープン戦に全く出られず、ウエスタン・リーグでの調整を経て、同年4月8日にようやく自身の開幕戦を5番・一塁手で迎える。この試合では2安打を放つと、交流戦でも対横浜ベイスターズ戦(北九州市民球場)では吉見祐治から場外本塁打を放ったり、球団初の交流戦優勝のウイニングボールを掴むなど、同年限りで勇退する王貞治のために貢献したが、終盤にチームごと大失速[10]し、12年ぶりの最下位に終わった。自身も2年連続20本塁打を記録するが、打率.253・56打点、得点圏打率.260の成績に終わった。

2009年は前年後半の大不振を受けて、肉体改造を決意した。過食で体重を激増させてウエイトトレーニングを再開、そして新たに監督へ就任した秋山幸二の新体制の下、キャプテンに任命された[11]。故障者の多いチーム事情の中で唯一の全試合中軸として先発出場(12年ぶりは前田智徳と並んで史上最長記録)し、そのうち138試合を一塁手として出場した。交流戦では史上最速で優勝(連覇)を成し遂げ、レギュラーシーズンでも一度も同一カード3連敗を受けることなく3位にまで躍進、打撃でも4番に定着してチームを支えた。100試合以上出場して初めて20本塁打を割ったが、チャンスでは右方向への軽打を見せるなど得点圏打率は.336を記録、チームトップの81打点を挙げた。しかし、2年ぶりに出場した2009年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズでは打棒が振るわず、チームも東北楽天ゴールデンイーグルスに2連敗して5度目の敗退を喫する。

2010年には8年ぶりに開幕4番で出場すると、同年4月2日から11試合連続安打を記録した。その後は首痛・肩痛によって一気に数字を落とし、さらに1ヶ月の離脱を余儀なくされた。離脱中のチームは6連敗など首位と最長の5.5ゲーム差に広がるなど窮地に陥った[12]が、前倒しで同年7月10日に復帰した際には3試合目で早くも4番に戻ると、一気に9連勝と波に乗った。チーム内ではホセ・オーティズに次ぐ勝利打点9、殊勲打もリーグ2位の25、併殺打も僅か4だった。同年9月18日の対埼玉西武ライオンズ戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)では自ら犠牲バントを決めるなど優勝への執念を見せ、最後はブライアン・シコースキーからサヨナラ本塁打を放った。その後もチームは5連勝で7年ぶりの優勝を決めた。勝負所の8・9月の全試合は4番で出場し、打率.303、併殺打は0だった。チーム長年の課題である2010年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズでは、最終ステージで打率1割台・0本塁打・3打点と大不振で、チームも敗退した。シーズン終了後には2度目のゴールデングラブ賞を一塁手として受賞し、初受賞より15年ぶりの史上最長ブランクとなった。

2011年は開幕戦(対オリックス・バファローズ戦)で木佐貫洋から死球を受け、右手第一末節骨剥離骨折。それでも僅か10日間で一軍復帰し、初安打が自身3年連続10度目のサヨナラ打となった。同年5月12日には史上16人目(大卒選手では史上5人目)の通算400本塁打を達成した。シーズンでも8年連続の二桁本塁打も記録するなどしたが、後半は度重なる故障や年齢もあり、6月までは.298を記録した打率は7月 - 9月間では.228と急降下、同年8月4日の対オリックス・バファローズ戦では高宮和也から死球を受け、左第9肋骨を骨折、同年9月17日にも持病の首痛で出場選手登録を抹消されている[13]2011年の日本シリーズでは全試合に出場し、打率.320、第4戦と5戦の2試合連続先制打、守備でも無失策とチームとして8年ぶりの日本一に貢献し、日本シリーズMVPを獲得した。40歳1ヶ月での日本シリーズMVPも2011年現在で最年長記録である(それまでの最年長記録は1999年の秋山)[14]

2012年は長年悩まされていた首の痛みを取る手術を受けたものの開幕には間に合わせ、5番・一塁手で出場している。しかし、通算2000安打まであと1安打とした後の5月25日午前中に受けた検査で腰椎の椎間板ヘルニアが判明し、出場選手登録を抹消された[15]。同年6月24日に復帰すると、同日の対北海道日本ハムファイターズ戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)において、ブライアン・ウルフから中前安打を放って、史上41人目の2000安打を達成した[16][17][18]。同年8月14日の対千葉ロッテマリーンズ戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)の試合後に記者会見を開き、同年限りでの現役引退を表明した[19]。引退表明後も出場を続け、同年9月30日の対北海道日本ハムファイターズ戦、福岡Yahoo!JAPANドームでは10年ぶりとなる二打席連続本塁打を放っている[20]。これで大怪我から復帰した2004年以降続いている1試合2本塁打を9年連続達成した。41歳の誕生日を迎えた同年10月8日、シーズン最終戦の対オリックス・バファローズ戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)に4番・一塁手で先発出場した。この前日、小久保は「直球だけ(で勝負する)とかは止めてほしい」とコメント[21]していたが、オリックスの先発だった西勇輝は真剣勝負で挑み、この試合でノーヒットノーランを達成した。そのため小久保も無安打で終わり、最終打席は遊撃ゴロに抑えられた。試合後には引退セレモニーが行われている[22][23]2012年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズにはファイナルステージ第2試合を除いて先発出場するが、最終出場となった10月19日の対北海道日本ハムファイターズ戦(ファイナルステージ第3戦)の9回2死ランナー一塁で小久保に打席が回るが、遊飛に倒れて試合終了、ソフトバンクの敗退が決まり、これが小久保の現役最後の打席となっている[24]。試合後には両チーム選手による胴上げが行われた[25]。同年11月29日、任意引退選手公示が行われた[26]。その功績により、背番号9番は当面の間、欠番となる。

引退後[編集]

2013年からはNHKの野球解説者を務める。公式サイトも開設し、全て自身の手で書き綴った自叙伝が1月30日発売された[27]。10月9日に、過去の成績やリーダーシップを評価され、常設化された野球日本代表の監督に任命された。11月に行われた2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイで監督として初の試合に臨んだ。

なお、野球日本代表は基本的に、シーズンオフ(10-11月)と、IBAFプレミア12ワールド・ベースボール・クラシックが行われる時期が中心でペナントレース期間に支障をきたさない範囲であることが多く、NHK解説者としての活動も並行して行う。

プレースタイル[編集]

小久保の打撃フォーム

打撃[編集]

一本足打法の長距離砲。松中信彦がボールに逆回転を与えて飛距離を出しているのとは対照的に、安定感には欠けるものの、アッパースイングで打球を高く上げてホームランを放つ[28]。自身は「ヒットの延長がホームランではなく、自分のスイングの延長にホームランがある」という見解を持っている[29]。松中と同じ試合で本塁打を打つMKアベック弾を放った試合では34勝5敗で勝率8割7分2厘と高勝率を誇り、ビジターでアベック弾を放った試合では2008年4月22日の楽天戦で敗れるまで無敗であった。

満塁に強く、歴代1位の王貞治に2本差の13本塁打を放っている。過去12勝1敗と勝率も高い。珍しいエピソードとしては、1999年8月20日に史上7人目の満塁ランニング本塁打を放っている。このイニングに秋山幸二がスタンドインによる満塁弾を打ち、史上2回目となる「1イニング2本の満塁本塁打」の快挙を達成している。2011年も本塁打こそ0だったが満塁打率.429を記録した。

守備・走塁[編集]

守備では捕球・スローイング共に比較的安定していたが、ヒザを故障して以降は反応がやや鈍くなっている[30]。試合中は積極的に投手に声をかける[31][32]

大学時代のポジションは三塁手で、プロ1年目は主に右翼手として出場し、1995年から1997年シーズン途中までは二塁手を務めた。当時より一塁での出場経験もあり、ゴールデングラブ賞を二塁手、一塁手でも受賞した。

プロ入り当初は2桁盗塁やリーグ最多三塁打を記録したこともあった。しかし膝の故障を発症してからは脚力の衰えが顕著となり、一塁到達タイムは4.62秒と平均を下回るようになったが、全力疾走は怠らない[28]

人物像[編集]

幼少期は柔道部であったが、母親がきっかけになり野球を始める。小学1年生で野球部に入部したものの、非常に厳しい野球部で辞めることを決意していたが、幼少の頃に両親が離婚、甘えさせてはいけないと、母は嫌がる小久保を無理やりグラウンドに連れて行ったという[33]。プロを目指したのは小学2年生で、そこからその目標はぶれなかった。高校卒業後は社会人野球を目指していたが、大学進学に急きょ変更した。これも母の強い勧めである。その地元への恩返しに、2005年オフから和歌山市民球場で軟式少年野球大会を行い、トーナメントで優勝を決める、いわゆる「小久保裕紀杯」を開催している。表彰式でメダルを渡すのはもちろん、試合前ノックや、始球式にも打者として出るなどサービスも行っている[34]

学生時代は文武両道で、授業中寝たことも宿題を忘れたこともなく、常に成績はクラスで5番以内だったという。青山学院大学時代も3年時で単位を取得。4年生では野球に完全集中できるほどだった[35][36]。野球教室でも野球だけではなく、勉強もするように勧める[37]。その成果か非常に話が上手く、遠藤久美子と番組で共演した際には絶賛されていた[38]。芸能界にも親友は多く、2007年シーズン中に森田一義アワー 笑っていいとも!の人気コーナー、テレフォンショッキングに友達紹介として、中村橋之助から出演のオファーがあったが、出演日が試合と重なったため実現しなかった[39]

歌が好きで、歌唱力も高い。主に、大学の先輩でもあるサザンオールスターズや、コブクロEXILEなどを好む。nobodyknows+とも親交があり、特にcrystalboyとは名古屋遠征の際、よく食事を共にする[40]。ソフトバンク復帰後の打席に入る際のBGMはSMAPの『ありがとう』。2007年交流戦で仲が良い高橋尚成に抑えられ、試合終了後電話がかかってきて、皮肉たっぷりに歌われたという[41]。2011年のみ東日本大震災の影響もありがんばりましょうに変更した。巨人時代の入場曲は『希望の轍』(桑田佳祐が自身の母校青学大の先輩ということから)。

読書家としても知られ、1996年に「プロ2年目でたまたまタイトルを取れて有頂天になっていた」と絶不調に陥っていた際に船井幸雄の本を目にし、船井の著作物を読みあさって以降、20代から30代にかけて貪るように自己啓発本を読み、40代が間近となった現在は歴史小説に傾倒しているという[42]。もっとも尊敬しているのは稲盛和夫で、その中にある「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」は小久保を支える言葉となっている[43]。ちなみに愛読書は水滸伝である。印象深い言葉にはメモをつけている。小説すばる8月号で北方謙三と初対談を果たした。自身も本を書いてみないか、というオファーはあるものの、時期尚早と考え拒否している[44]

エコロジーにも関心があり、2009年からいわゆる「My箸」を持参している。2011年4月15日から自身の折れたバットを箸に加工し、限定400膳を販売している[45]。ネット利用にも積極的である。2009年に球団から配布された自身の全打席を見ることができるiPhoneを有効に使った[46]

ダイエー若手時代、小久保のエラーが一因となり敗れた試合後、エラーの場面について幾度も質問してきた記者に辟易した小久保は「私にはこれが精一杯ですから」と発言し、それがそのまま翌日の新聞に掲載された。記事を見た監督の王はすぐに小久保を呼び出し、「我々の仕事はファンに夢を見せる事だ。このような発言をすると、ファンは小久保裕紀という人間に対して夢を見る事ができなくなる。今後2度とこのような発言はするな」と叱責した。後日、小久保本人がこのエピソードに関して、王貞治という人間を師匠として尊敬する要因になった一番の出来事だと語っている[47]

巨人に移籍した際にも、「プロ野球人としての手本になる選手だからジャイアンツにとってもいい刺激になる。」と語っている[48]。因みに2012年6月24日に2000本安打を達成し、7月14日にセレモニーが行われたが名球会からは「名球会ブレザー」が贈呈された。その際、ブレザーを直々に贈呈したのはホークス監督として小久保とプロ野球人生を歩み、小久保を見守り続けた王貞治(名球会・会長)であった。

座右の銘は「一瞬に生きる」。2002年に内観でこの言葉と出会う。内観は、2002年から4年に1度、栃木県の山奥で行っている。一畳も満たないところに一日15時間座り、感謝や謝罪、してもらったこと、してかえしたことを延々と思い浮かべるという。3日間の断食ありの1週間、修行をおこなっている[49]。この年からメンタルトレーニングを行うようになり、2003年の大怪我などトータル8度の手術を行いながらも第一線で活躍した。この座右の銘を題材に2010年オフに福岡の小学校で先生として授業を行った。トレーニングには非常に積極的で、30歳過ぎたころから目のトレーニングも行っている[50]

ファンとの交流を大事にしていたため、ヤフードームで試合がある日は、試合直前までサインをしていた[51]。さらに自身の公式ファンサイト「K'Project」で2004年から毎年オフに、100人以上のファンと間近でふれあう。主にトークと歌のディナーショー形式である。様々なサプライズがあり、諸事情で参加できないと言いながら、本当は隠れて待っていたり、和服姿やドラキュラ姿で参加したりした[52]。2010年オフはリーグ優勝を果たしたこともあり、ファンと炭酸ファイトを行った。その際イベントでオークションなどを行い、ポケットマネーと合わせて24時間テレビ 「愛は地球を救う」、宮崎の口蹄疫に義援金を送った。2011年東北地方太平洋沖地震もK'Projectを通して2011年3月26日にトークショーを行い、急きょだったにも関わらず、ホークスの1軍選手ほぼ全員、被災地東北の球団である楽天の選手も、嶋基宏岩隈久志田中将大らが参加した。終了後に募金を行い、総額375万円を贈った[53][54]

2005年4月8日の中日戦で、川上憲伸から、シーズン初のホームラン(その試合を決定づける満塁本塁打)を打った時、TVカメラに向かって「約束を果たしたよ」と手話を送った。前年のシーズンオフに高橋由伸と訪問したろう学校にて、第1号の本塁打を打ったら手話でメッセージを送る約束をしていたとスポーツニュースで報道される。この手話は2006年4月1日の対横浜戦の土肥義弘からソロ本塁打を打った際も行い、この事については、カルビープロ野球チップス・2005年第2弾のカードに書かれている。

2005年12月から2009年12月まで第10代目の社団法人選手会理事長を務めた。キャッチボールプロジェクトとして、公園でも気軽にできるよう「ゆうボール」を作るなど、貢献した。4年間在位は岡田彰布立浪和義に続いて3人目だった[55]。後任は井端弘和である。

自身の最後の目標は教師である。コーチ、監督などやるべきことを全てを全うしての目標だが、その気持ちは熱い。理由は、自身の恩師である高畠康真の影響である。ホークス、ロッテなどでコーチを30年も務めたが、通信教育で教職の免許を取り、58歳にして教師の道に進んだものの、わずか1年後膵臓癌により故人となってしまう。その高畠が目標としていたのは甲子園で指揮をとることであった。果たせなかった夢を小久保は目指している。その第一歩として2010年オフに福岡市内の小学校で授業をおこなった[56]

通算4番出場試合数は歴代10位の1329試合を務めている。本塁打は両リーグで40本塁打以上を達成。これは日本人では落合、田淵幸一に次ぐ史上3人目の記録。その反面、三振も多い。4番打者像として「三振数が少ない選手」と語っている[57]が、ツーストライクからの打率は悪いわけではないものの、実際には歴代11位の1516三振を喫している。オールスター戦でも2本塁打放っているが21三振と歴代11位である。主に、外角のスライダーに空振りしてしまうケースが多く、「僕自身、多いんですがね(笑)」と話している[57]

通算413本塁打を放っており、また、史上6人目となる200人以上の投手から本塁打を放っている。2012年8月8日帯広の森野球場で行われた日本ハム戦で本塁打を放ち、史上8人目の30球場制覇を達成した。[58] チーム内でのあだ名は「こく」「キャップ」[59]

実弟の小久保隆也は、腹話術師いっこく堂のマネージャーであり、智弁和歌山高校で投手として1年夏、3年夏に甲子園に出場している。

主将として[編集]

学生時代からチームを引っ張っており、小、中、大学と主将であった(高校時代は投手だったため副主将)[60]。ルーツは中学生時代である。野球は団体競技であり、全体の責任はキャプテンにあると徹底的に叩き込まれたため、チームとしてどう動くべきかという全体を見る目を自然と持てるようになったという[61]。怒られることは自身のプレーではなく、チームとしてであった。プロでも、巨人で2006年に外様初の主将となり、古巣復帰後も2009年に主将就任。前年最下位だったチームは3位となり、2010年にはリーグ優勝。2011年にはパリーグ連覇、CS制覇、日本一を果たす。秋山監督にも信頼され「自分が監督を務めている間は主将は絶対に変えない」と言われている[62]

チームの士気を上げるため、強気な発言をすることが多い。2011年、長年苦しめられてきたクライマックスシリーズ前日には、「1つも負けるつもりはないです。最後(6戦目)までチケットを買ってくれたファンのみなさんには申し訳ない」[63]と発言した。日本シリーズでも、打撃で最年長記録を次々と塗り替え、守備では積極的に投手に声をかけ、第7戦前には円陣で選手に手を重ねるよう指示する[64]など、日本一に大きく貢献した栄誉を称えられ、日本シリーズMVPを獲得。4月11日、ペナントレース前日に「今年は必ず日本一をとります」と宣言したとおり、見事有言実行を果たしてみせた[65]

青山学院大学の練習方法を変えた選手でもある。「自分たちで練習する時間が欲しい」という小久保の提言によって全体練習を減らした。大学4年で初の大学野球優勝をもたらし、以後定着した青学大の伝統である[66]。恩師である河原井正雄は小久保ほど部員を引っ張ってくれた選手はいないとコメントしている[67]

1993年のプロ野球ドラフト会議から逆指名制度ができ、リーダーシップの強いスラッガーを、常勝球団巨人とダイエーが獲得に名乗りを上げた。悩みに悩んだ末、ダイエーを逆指名。理由はスカウトから、「うちはこれからのチーム。生え抜きとしてチームを常勝球団に導いてくれ」との言葉に心を動かされたからである。(鷹盤DVD〜小久保裕紀特集〜[68]より)

巨人2007年2009年V9以来の3連覇達成時のエンブレムは、原監督、小久保、高橋由伸が決めたものである[69]。今や恒例となった、巨人の全選手がキャンプ前に読売ジャイアンツ球場に集まる合同自主トレも、2006年、主将就任した小久保と選手会長の高橋由が発案である[70]

毎年、自主トレは大所帯で行っている。主にアリゾナで行っているが、稀に、奄美大島でやることもある[71]。ソフトバンクのチームメイトである斉藤和巳は毎年恒例で、過去には高校の後輩である吉見祐治林孝哉、チームメイトの松中信彦、村松有人川崎宗則明石健志長谷川勇也岩嵜翔なども参加。巨人時代は、二岡智宏木佐貫洋の同行を球団に依頼された。車好きでもあり、国際免許を持っている。アリゾナ州ではチームメイトを乗せ、自らハンドルを持つことが多い[72]。ただし、2011年は、斉藤がコーチになったことと、昨年自身がオーバーワークで離脱した反省を踏まえ、プロ入り初めて一人で自主トレを消化した[73]

キャンプの全体ランニングでは常にトップを走る。ダイエー新人時代から「選手の中で一番早く球場入りして、試合後一番遅くまで残っている」と言われるほど練習熱心である。入団時から守備・走塁コーチであった定岡智秋は「小久保には厳しい練習に耐えられる体の強さがあり、努力を継続させる強い意志も持っていた。だからこそ、球界を代表する選手に成長できた」と語っている[74]。後輩である松中信彦斉藤和巳などの信奉する選手も多く[75]、同期であり、元ダイエー、現高校野球監督の大越基は生徒に模範すべき選手と語っている[76]。自身は成績の上下に関わらず4番打者として長らく起用してもらった王監督に絶対の信頼を置く[30]。松中とは、師弟・ライバルと呼べる関係である。

自身がジャイアンツに移籍した直後に感じた孤独を他の選手には覚えさせてはいけないと、新入団選手にも気を配る。読売ジャイアンツから復帰してすぐの2007年には不振に喘いでいたプロ2年目の松田宣浩を食事に誘ってアドバイスを送り[77]、2011年からソフトバンクにFA移籍してきた内川聖一もキャンプから積極的に食事に誘わった。その年の8月に小久保自身が骨折で離脱した際には内川が小久保のバッティンググローブを借りて出場、「尊敬する小久保さんがいない間、心配をかけたくない。僕が頑張る」と語っている[78]

川﨑宗則とは、他の選手よりも深い話をすることが多かった。まだ芽が出る前の2002年に一緒に自主トレをしていたり、一緒に三遊間を組んでいたこともあって、川﨑は小久保を尊敬している[79][80]

ホークス復帰[編集]

無償トレードにより福岡ダイエーホークスから読売ジャイアンツへ移籍したため、小久保が数年後にFA権を行使して福岡ソフトバンクホ-クス(2004年に福岡ダイエーホークスを買収)に復帰するのではないかという噂や期待が絶えることはなかった[81]。小久保が着用した背番号「9」は小久保のジャイアンツ在籍中は準永久欠番の扱いとなり、誰も着用しなかった。

また、各選手のインタビューでは松中信彦は「球団にふざけるな!と言いたい。このチームは勝ちたくないんでしょうかね?」、柴原洋は「チームをまとめていたのは小久保さんだったんでチームにとっても大打撃」、斉藤和巳は「今は、頭が真っ白です」、城島健司は「普通じゃない」、和田毅は「シーズン中何度も励ましてくれた。来年いないなんて信じられない。」監督である王も「チームが崩壊する」と、その他各選手らが怒りを露にした[82][83]11月6日ダイエー中内正オーナーが球場に来た際にも、すれ違う選手がいる中、挨拶をした選手は0という異例中の異例な出来事が起こった[84]

2006年1月1日西日本スポーツ1面で、「小久保2007年ホークス復帰決定」と報じられ、巨人側から抗議が出るという事態が起きた。同じ時期に東京スポーツ紙面にて、ロサンゼルス・ドジャース移籍説もあった。理由としては日米野球では本塁打を放つなど、以前はメジャーを目指していたこともあることから。

2006年10月17日に古傷の検査のため渡米する前の空港で、小久保はFA権を行使する考えを示した。11月7日に正式にFA権の申請。帰国時の会見での「次に着るユニフォームの球団でユニフォームを脱ぐという思いもある」という発言や、巨人側との交渉での契約年数に関する条件面の開きがあると予想されたことから、小久保の復帰はほぼ確実ではないかと言われていた。球団オーナーである孫正義もどうにかしてホークスに戻したいとシーズン中に語っている。ソフトバンク側は、交渉解禁直後の11月9日に王監督も参加しての最初の交渉を行い、11月11日、4年総額12億円+出来高の契約に合意し、古巣への復帰が決定した。最大の理由は王監督が胃の全摘出手術でやせ細っている中、わざわざ交渉の席に駆けつけてきたことである[85]。復帰会見で王監督は「ジャイアンツに行く話になった時が一番ショックでしたから、一日でも早く(ホークスへ)帰ってきたらいいなという気持ちを、毎日のように思っていました」と語った[86]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1994 ダイエー 78 191 177 18 38 6 0 6 62 20 2 1 4 2 8 0 0 31 5 .215 .246 .350 .596
1995 130 538 465 72 133 20 9 28 255 76 14 4 5 6 50 7 12 94 16 .286 .366 .548 .914
1996 126 539 478 73 118 26 3 24 222 82 7 3 0 6 48 1 7 95 13 .247 .321 .464 .785
1997 135 588 527 88 159 37 3 36 310 114 4 3 0 5 52 2 4 112 16 .302 .366 .588 .954
1998 17 75 71 7 16 3 1 2 27 11 0 0 0 0 3 1 1 19 1 .225 .267 .380 .647
1999 130 538 465 60 109 24 2 24 209 77 4 2 3 6 62 1 2 103 8 .234 .323 .449 .773
2000 125 520 473 87 136 26 3 31 261 105 5 2 0 6 31 2 10 85 13 .288 .340 .552 .892
2001 138 605 535 108 155 32 1 44 321 123 6 1 0 5 62 3 3 97 6 .290 .364 .600 .964
2002 136 579 507 89 148 25 0 32 269 89 8 1 0 3 63 3 6 90 10 .292 .375 .531 .905
2004 巨人 125 508 462 85 145 24 2 41 296 96 0 0 0 2 42 1 2 101 6 .314 .372 .641 1.013
2005 142 592 524 77 147 25 0 34 274 87 1 1 0 1 62 0 5 114 11 .281 .361 .523 .884
2006 88 344 308 37 79 5 0 19 141 55 1 0 2 2 31 3 1 68 6 .256 .325 .458 .782
2007 ソフトバンク 124 514 466 70 129 26 0 25 230 82 2 4 2 2 41 4 3 103 9 .277 .338 .494 .831
2008 106 434 383 45 97 21 0 20 178 56 1 1 0 3 42 0 6 95 11 .253 .334 .465 .799
2009 144 605 533 64 142 27 0 18 223 81 2 2 0 6 50 4 16 101 13 .266 .344 .418 .762
2010 112 469 427 60 119 22 0 15 186 68 1 2 1 3 34 0 4 69 4 .279 .335 .436 .771
2011 98 372 342 31 92 21 0 10 143 48 0 1 0 2 22 0 6 72 7 .269 .323 .418 .741
2012 103 357 331 20 79 11 0 4 102 34 0 0 3 3 20 0 0 67 6 .239 .280 .308 .588
通算:18年 2057 8368 7474 1091 2041 381 24 413 3709 1304 58 28 20 63 723 32 88 1516 161 .273 .342 .496 .840
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更

年度別守備成績[編集]


一塁 二塁 三塁 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1994 - 9 3 7 0 1 1.000 15 6 13 0 4 1.000 51 69 3 2 0 .973
1995 - 130 304 372 9 75 .987 - 1 0 0 0 0 ----
1996 1 0 0 0 0 ---- 123 291 338 4 81 .994 5 2 4 0 0 1.000 -
1997 21 153 13 0 7 1.000 106 268 278 6 60 .989 11 7 14 1 0 .955 -
1998 6 3 0 0 1 1.000 - 15 9 21 4 7 .882 -
1999 72 500 27 1 38 .998 - 59 36 79 5 8 .958 -
2000 1 9 2 1 0 .917 - 119 78 196 4 14 .986 -
2001 - - 135 110 229 5 25 .985 -
2002 - - 135 101 199 7 16 .977 -
2004 - - 121 79 195 8 15 .972 -
2005 - - 142 102 248 4 21 .989 -
2006 - - 87 57 144 6 17 .971 -
2007 6 58 5 1 2 .984 - 106 58 175 10 27 .959 -
2008 83 673 47 2 48 .997 - - -
2009 138 1134 74 8 86 .993 - - -
2010 108 815 52 2 62 .998 - - -
2011 75 560 29 1 54 .998 - - -
2012 90 654 47 3 44 .996 - - -
通算 607 4559 296 19 342 .996 368 866 995 19 217 .990 950 645 1517 54 154 .976 52 69 3 2 0 .973

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1999年4月29日、対日本ハムファイターズ6回戦(東京ドーム)、3回表に岩本勉から左越2ラン ※史上202人目
  • 150本塁打:2000年9月24日、対大阪近鉄バファローズ26回戦(大阪ドーム)、10回表に大塚晶文から右越3ラン ※史上116人目
  • 200本塁打:2002年4月9日、対大阪近鉄バファローズ1回戦(福岡ドーム)、7回裏に関口伊織から左中間へ同点ソロ ※史上75人目
  • 1000試合出場:2002年9月17日、対オリックス・ブルーウェーブ25回戦(福岡ドーム)、4番・三塁手として先発出場 ※史上382人目
  • 1000本安打:2002年9月27日、対西武ライオンズ25回戦(福岡ドーム)、1回裏に後藤光貴から左越先制2ラン ※史上211人目
  • 250本塁打:2004年7月2日、対広島東洋カープ16回戦(広島市民球場)、3回表に佐々岡真司から左越満塁本塁打 ※史上46人目
  • 300本塁打:2005年9月10日、対中日ドラゴンズ18回戦(東京ドーム)、3回裏にルイス・マルティネスから左越2ラン ※史上31人目
  • 1000三振:2006年9月23日、対阪神タイガース19回戦(東京ドーム)、3回裏に下柳剛から ※史上40人目
  • 1000打点:2007年7月18日、対北海道日本ハムファイターズ14回戦(札幌ドーム)、5回表にブライアン・スウィーニーから左翼線適時二塁打 ※史上30人目
  • 1500本安打:2007年9月15日、対北海道日本ハムファイターズ20回戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)、9回裏に江尻慎太郎から左前安打 ※史上94人目
  • 1500試合出場:2008年4月13日、対埼玉西武ライオンズ6回戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)、5番・一塁手として先発出場 ※史上157人目
  • 3000塁打:2008年7月22日、対オリックス・バファローズ13回戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)、1回裏に近藤一樹から左前安打 ※史上43人目
  • 350本塁打:2008年4月30日、対埼玉西武ライオンズ8回戦(西武ドーム)、2回表に石井一久から左越先制ソロ ※史上21人目
  • 300二塁打:2008年9月7日、対千葉ロッテマリーンズ20回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、7回裏に小宮山悟から左中間へ2点適時二塁打 ※史上50人目
  • 1000得点:2010年5月3日、対オリックス・バファローズ7回戦(スカイマークスタジアム)、1回表に岸田護から左越2ランで達成 ※史上37人目
  • 350二塁打:2011年4月24日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(藤崎台県営野球場)、1回裏に光原逸裕から左翼線適時二塁打 ※史上31人目
  • 400本塁打:2011年5月12日、対オリックス・バファローズ6回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、4回裏にアルフレッド・フィガロから左越ソロ ※史上16人目
  • 3500塁打:2011年5月15日、対埼玉西武ライオンズ6回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、4回裏に帆足和幸から右中間適時二塁打 ※史上25人目
  • 2000本安打:2012年6月24日、対北海道日本ハムファイターズ9回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、4回裏にブライアン・ウルフから中前安打 ※史上41人目
  • 2000試合出場:2012年6月28日、対オリックス・バファローズ12回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、6番・一塁手として先発出場 ※史上46人目
  • 1500三振:2012年8月22日、対埼玉西武ライオンズ17回戦(西武ドーム)、4回表に菊池雄星から ※史上11人目
その他の記録
  • 10試合連続打点(2000年6月20日 - 7月4日)
  • 210守備機会連続無失策(2001年5月13日 - 9月9日) ※三塁手としてのパ・リーグ記録。
  • 通算満塁本塁打:13本(歴代4位タイ)
  • ゴールデングラブ賞による再獲得するまでのインターバル最長記録(15年・1995年 - 2010年)
  • 2000本安打までの1本によるインターバル最長記録(33日・2012年5月22日 - 6月24日)
  • オールスターゲーム選出:13回。出場:11回(1995年 - 1997年、2000年 - 2002年、2004年、2007年 - 2009年、2011年)。※1998年、2006年にもファン投票で選出されているが、負傷のため欠場。

背番号[編集]

現役選手時代[編集]

  • 9 (1994年 - 2003年、2007年 - 2012年)
  • 6 (2004年 - 2006年)
    • 8 (1993年バルセロナ五輪)

日本代表監督[編集]

  • 90 (2013年 - )

脚注[編集]

  1. ^ 三塁打と本塁打の両部門でリーグトップとなるのは、1947年大下弘以来48年ぶり2人目の記録である。
  2. ^ 朝日新聞、1998年1月12日付夕刊 (15面)
  3. ^ 朝日新聞、1998年2月10日付朝刊 (31面)
  4. ^ ベースボールマガジン社 『2001 ベースボール・レコード・ブック』89頁 2000年度主要記録集「小久保が10試合連続打点」より。10試合連続以上の打点は小久保で10人目。
  5. ^ 小久保 巨人へ「移籍」 - 西日本新聞
  6. ^ なぜだ…小久保裕紀、巨人へ無償トレード - スポニチ
  7. ^ 優勝旅行ボイコットへ ダイエー選手会が表明”. 47NEWS (2003年11月9日). 2013年12月31日閲覧。
  8. ^ 2006年試合結果 - 読売巨人軍公式ホームページ
  9. ^ 2004年にダイエーから買収
  10. ^ 2008年9月試合結果 - 福岡ソフトバンクホークス公式ホームぺージ
  11. ^ ホークスの主将制度は、2002年の秋山幸二以来7年ぶりに復活したものである。
  12. ^ 2010年6月試合結果- 福岡ソフトバンクホークス公式ホームぺージ
  13. ^ 小久保 首痛で登録抹消「スイング自体が厳しい」”. スポニチ (2011年9月17日). 2011年11月6日閲覧。
  14. ^ ソフトB小久保MVP最年長40歳/日本S
  15. ^ 小久保抹消 「最短で戻る」 腰椎椎間板ヘルニア判明 - 西日本新聞、2012年5月26日
  16. ^ 【ソフトB】小久保が2000安打達成 - nikkansports.com、2012年6月24日
  17. ^ 2000本安打までのあと1本でのインターバル33日間はプロ野球での史上最長記録となった。
  18. ^ 400本塁打と2000安打を現役中において両方達成したのは史上14人目で、大卒では長嶋茂雄、山本浩二金本知憲に次ぐ史上4人目となった。
  19. ^ 小久保が現役引退表明 6月に通算2千安打達成 産経新聞 2012年8月14日閲覧
  20. ^ 「ありえへん」小久保10年ぶり2打席連発ニッカンスポーツ 2012年10月9日閲覧
  21. ^ 小久保今日引退試合「ちゃんと勝負して」ニッカンスポーツ 2012年10月9日閲覧
  22. ^ 小久保の“ガチで来い”に応えた 西「どう喜んでいいのか」スポーツニッポン 2012年10月9日閲覧
  23. ^ 【ソフトB】小久保41歳誕生日に引退試合ニッカンスポーツ 2012年10月9日閲覧
  24. ^ 2012年10月19日北海道日本ハム対福岡ソフトバンクソフトバンク球団公式サイト
  25. ^ 朝日新聞 2012年10月20日
  26. ^ コミッショナー公示(29日)スポーツナビ、2012年11月29日閲覧。
  27. ^ )書籍|小久保裕紀 小久保裕紀オフィシャルサイト
  28. ^ a b 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2009』 アスペクトムック、2009年、224-225、234頁。ISBN 978-4-7572-1628-0
  29. ^ スポーツ千夜一夜 - 時事ドットコム
  30. ^ a b 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2008』 アスペクトムック、2008年、340-341頁。ISBN 978-4-7572-1439-2
  31. ^ 自主トレメッセージリレー第2弾〜細川選手・馬原投手・小久保選手〜 - 夢空間スポーツ
  32. ^ 小久保裕紀 「野球とは、」 - 夢空間スポーツ
  33. ^ 「一瞬に生きる」 - 読売教養講座
  34. ^ 小久保選手、ヒットよりアーチだ! - 福岡ソフトバンクホークス公式ホームぺージ
  35. ^ 野球漬けでも授業も真剣=福岡ソフトバンクホークス選手・小久保裕紀さん - 毎日新聞
  36. ^ 有名人スポーツワンポイント講座 - JS日本の学校
  37. ^ チャリティー祝賀会 - 山本華世の人生旅行騒動記
  38. ^ “遠藤久美子のHappy new day”. http://enkumi.at.webry.info/200912/article_2.html 
  39. ^ 笑っていいとも - 小久保選手からのmessage
  40. ^ 福岡ソフトバンクホークス小久保選手 - crystal boyオフィシャルブログ
  41. ^ SMAP - 小久保選手からのmessage
  42. ^ 小久保裕紀の読書遍歴 『野球小僧』6月号、白夜書房、雑誌18801-6、94-99項。
  43. ^ 良いお年を・・・ - 小久保選手からのmessage
  44. ^ - 小久保選手からのmessage
  45. ^ 小久保選手のバットを再利用した「My箸」&「靴べら」が遂に登場!! - 福岡ソフトバンクホークス公式ホームページ
  46. ^ 松っちゃんのスポーツの現場〜iPhoneの秘密〜 - 夢空間スポーツ
  47. ^ 2006年11月26日放送J-SPOより
  48. ^ 王監督と選手たちの絆 - 夢空間スポーツ
  49. ^ 修行 - 小久保選手からのmessage(写真館)
  50. ^ スポーツ選手は目も鍛えなきゃ 〜 心、技、体そして目 - menosite.com
  51. ^ エンタメ - パシフィック・リーグ公式サイト
  52. ^ 小久保、ドラキュラ姿でファンサービス - 日刊スポーツ
  53. ^ 鷹&楽天が合同チャリティーイベント - サンスポ
  54. ^ ソフトバンク選手ら、震災チャリティー企画に参加 - 朝日新聞(2011年3月26日)
  55. ^ 社団法人日本プロ野球選手会歴代理事長 - 日本プロ野球選手会 公式ホームページ
  56. ^ “小久保先生”初授業で明かした「最後は高校野球の監督に」 - スポニチ
  57. ^ a b 『プロ野球4番打者―データが明かす最強バッターの凄さ』 別冊宝島、2000年
  58. ^ 小久保30球場制覇 帯広で快カ~ン2号 - 西日本スポーツ
  59. ^ 小久保裕紀プロフィール
  60. ^ 小久保裕紀「野球とは、」 - 夢空間スポーツ
  61. ^ 青山学院スタイル・インタビュー - 読売新聞
  62. ^ 小久保3億円現状維持 来季も一塁死守 - スポニチ
  63. ^ 鷹・小久保「1つも負けるつもりない」
  64. ^ 【ソフトB】Vへ円陣からの~?/日本S
  65. ^ 小久保主将が語る。「今年は必ず日本一」
  66. ^ 座談会 青学スポーツの「強さ」と「魅力」 - 青山学院大学
  67. ^ 河原井正雄著書「感涙の闘将」より
  68. ^ 2007年 vol.1「小久保裕紀特集」 - 福岡ソフトバンクホークス公式ホームページ
  69. ^ 新エンブレムの“巨人”の名前は「G-KING」 - 読売巨人軍公式ホームページ
  70. ^ キャンプ目前、合同自主トレ開始 - 読売巨人軍ホームページ
  71. ^ いよいよです - 小久保選手からのmessage
  72. ^ Arizona2007 - 小久保選手からのmessage(写真館)
  73. ^ 小久保が宣言!開幕サヨナラ弾!! - 日刊スポーツ
  74. ^ FD定岡監督 鷹のまな弟子語る - 高知新聞
  75. ^ チームリーダー66〜斉藤和巳〜 夢空間スポーツ
  76. ^ 高校野球指導の元プロ選手 女生徒気になる球児の意識を指摘 - NEWSポストセブン
  77. ^ 小久保の背中を追って。松田宣浩、成長の理由。 - Number Web
  78. ^ 内川会心の逆転弾、守備も2か月ぶり完全復活 - 読売新聞
  79. ^ 400号の鷹・小久保に仲間が最敬礼 - サンスポ
  80. ^ 川崎 小久保になったつもりで逆転の2点適時打 - スポニチ
  81. ^ 激震の11月3日 小久保裕紀特集
  82. ^ 「勝ちたくないのか」 - 西スポ
  83. ^ 王監督「チーム崩壊する」 - 西スポ
  84. ^ 中内オーナー 移籍騒動 釈明に必死 王監督と会談2時間「沈静化させる」 西スポ
  85. ^ おかえりなさい小久保ホークス - 日刊スポーツ号外PDF
  86. ^ 小久保裕紀 4年ぶり復帰 夢空間スポーツ
  87. ^ 東京ドームMVP賞 - 東京ドームシティ公式サイトより
  88. ^ 小久保氏にパ功労賞 - 日刊スポーツ

関連項目[編集]

外部リンク[編集]