小久保裕紀

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小久保 裕紀
福岡ソフトバンクホークス #9
基本情報
国籍 日本
出身地 和歌山県和歌山市
生年月日 1971年10月8日(37歳)
身長
体重
182cm
86kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 一塁手三塁手
プロ入り 1993年 ドラフト2位(逆指名)
初出場 1994年4月9日
年俸 3億円+出来高(2009年)
※2006年からの4年契約中
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム 日本
五輪 1992年
オリンピック
男子 野球
1992 野球

小久保 裕紀(こくぼ ひろき、1971年10月8日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手内野手)。

一本足打法から放たれる豪打が持ち味の長距離砲。球界でも屈指のリーダーシップの持ち主と言われ、福岡ドーム時代以降の「ミスターホークス」と称される。

目次

[編集] 経歴

1989年和歌山県立星林高等学校から青山学院大学に進学。

1992年、プロ入り後もチームメイトとなる佐藤真一らとバルセロナオリンピック野球日本代表として銅メダル獲得に貢献。

[編集] ダイエー時代

1993年プロ野球ドラフト会議で2位指名(逆指名)され青山学院大学から福岡ダイエーホークスに入団。背番号は9高畠康真大田卓司両打撃コーチの薫陶を受け、主力打者としての基礎を叩き込まれる。レギュラーの関係でこの年はライトでの出場が多かった。

1995年二塁手のレギュラーに定着すると、全試合出場を達成し、28本塁打を放って本塁打王のタイトルを獲得。オリックスイチロー(25本塁打)の六冠王を3本差で阻止することとなった。またリーグ1位の三塁打9本と長打率.548を記録した。

1997年になると三塁手一塁手も守るようになる。2年振りに全試合に出場、打率.302、36本塁打、114打点の好成績で打点王のタイトルを獲得。二塁打37本、長打率.588、塁打310はそれぞれリーグ1位を記録した。しかしこの年のオフにプロ野球脱税事件が発覚。主犯格の1人として懲役1年、執行猶予2年の有罪判決が言い渡され、また8週間出場停止などの処分を受ける。小久保自身はこの年のオールスターゲームファン投票にノミネートされたが、この件について球団・監督が非難された。

1998年、出場停止期間と、また右肩関節唇損傷の怪我により17試合の出場に留まる。

1999年、痛めた肩に苦しみながらも、打率.234、24本塁打、77打点とシーズンを通して4番を務め、福岡ダイエーホークス初のリーグ優勝、日本一に貢献。

2000年も古傷の親指を痛めながらも31本塁打を放ち、松中信彦らとともにチームのリーグ連覇に貢献。しかしシーズン終盤わき腹を痛めて日本シリーズを棒に振る。

2001年、44本塁打で自身初の40の大台に乗せた。この年、松中信彦が36本塁打、城島健司が31本塁打、井口資仁が30本塁打で、パ・リーグ初の30本カルテットを形成。日本人のみの30本カルテットはプロ野球史上初である。チームは近鉄の快進撃の前に2位に終わる。

2002年、背筋痛や肉離れと戦いながら3年連続の30本超えとなる32本塁打を放つなど活躍したが、チームは2年連続の2位。

2003年3月6日西武とのオープン戦でホームにスライディングした際に椎木匠捕手と交錯。右膝の前十字靭帯断裂、内側靭帯損傷外側半月板損傷脛骨大腿骨挫傷という重傷を負う。
完治まで最低6ヶ月と診断され、アメリカ・アリゾナのリハビリ施設でトレーニングに励んだ。公式戦には出場できなかったものの、ビールかけには参加、キャッチボールなども再開していた。しかしシーズン終了後、無償トレード巨人に移籍することとなった。

詳細は小久保無償トレード問題を参照

[編集] 巨人時代

2004年、故障箇所にサポート器具を装具、膝関節も曲がりきらないというシーズンを迎えるが、シーズン後半にはアテネ五輪で離脱した高橋由伸に代わって4番に座り、巨人の右打者としては史上初のシーズン40本塁打を達成。

2005年FA権を取得したが、入団時に2年+1年(球団側に選択権がある)オプションの最高3年契約を結んでおり、球団がこのオプションを行使し、巨人に残留した。

2006年、巨人代表清武英利に巨人軍第17代目の主将を依頼される。主将制度は1998年の吉村禎章(現巨人二軍監督)以来8年ぶりに復活されたが、移籍選手の主将指名は初。小久保のユニフォームの右袖には15×80mmのキャプテンマークが縫い付けられていた。

6月2日の西武戦で古傷の右手親指内側側副靭帯を剥離骨折し、長期にわたり登録抹消となる。8月18日中日戦にて一軍に復帰。最終的に本塁打数は19本、二塁打数はわずか5本に終わった。

11月11日にFAによりホークス復帰が決定した(詳細は#ホークス復帰参照)。12月10日、小久保の人的補償として吉武真太郎が巨人に移籍した。

[編集] ソフトバンク時代

2007年ホークス復帰。松中信彦多村仁と共にクリーンアップを組みTMK砲と呼ばれるものの3人がいるケースが少なかったり予想したほどの破壊力は感じることはない。8月21日西武ライオンズ(当時)戦にて左脇腹下部に死球を受け左第11肋骨骨折と診断され、ペナントレース佳境の時期に離脱することとなってしまう。今シーズン絶望的と見られる中、驚異的な回復力で9月11日に復帰し、最終的にチームトップとなる25本塁打、82打点を挙げるもチームはプレーオフ4度目となる敗退に終わる。

同年オフ、肋骨検査時に判明していた三角線維軟骨複合体の損傷の治療の為左手首を手術したために2008年シーズン開幕には間に合わなかったが、4月8日に1軍復帰した。チャンスで凡打のケースが多かったり、打率が低いなど結果を残せず入団以来最低な成績となった。

[編集] 人物像・エピソード

  • 前回のホークス時代から「選手の中で一番早く球場入りして、試合後一番遅くまで残っている」と言われるほど練習熱心ないわゆる「練習の虫」である。監督の王とは、成績の上下に関わらず4番打者として長らく起用してもらった師弟関係であり、巨人移籍後は、ホークスの一部のファンや松中信彦斉藤和巳などの選手からも慕われていること、選手会長も務めていたことなどで小久保のホークス復帰の噂が絶えなかった。松中とは、師弟・ライバルと呼べる関係である。
  • 原辰徳は「彼が3年間で積み上げたスピリットは大きい」とのちに、ホークス復帰を果たしたとき、コメントしている。
  • ホークスのチームメイトである斉藤和巳、高校の後輩である吉見祐治らとはオフの自主トレを共にする仲であり、巨人時代も二岡智宏木佐貫洋の同行を球団に依頼された(過去には林孝哉川崎宗則、松中なども)。
  • 青山学院大学1年の秋に投手から野手へと転向した。転向前には若田部健一から本塁打を打たれたことがある。また、清原幸治清原和博の実弟)とチームメイト(4年生の時には小久保が主将、清原が副主将)であり、そのつながりで清原和博とも親交が厚い。
  • 大学時代のポジションは三塁手、プロ1年目には主に外野手(特に右翼)として出場、1995年から1997年シーズン途中までは、二塁手のレギュラーだった。少ないが一塁手の守備の経験もあり、過去に1度獲得しているゴールデングラブ賞(1995年)は二塁手としての受賞である。
  • 本塁打王を獲得した1995年のシーズンオフには、当時ダイエー系列だったローソンのCMに出演、その他、福岡銀行のCMにも出演した。(因みに、ローソンのCMには、1996年に村松有人、1997年に城島健司と、ホークスの選手が3年続けて起用された。)
  • 1999年8月20日には史上7人目の満塁ランニング本塁打を放った。
  • ホークス復帰後の打席に入る際のBGMはSMAPの『ありがとう』。巨人時代は『希望の轍』(サザンオールスターズ桑田佳祐が自身の母校である青学大の先輩ということから)。
  • ダイエー時代、小久保のエラーが一因となり敗れた試合後、エラーの場面について幾度も質問してきた記者に辟易した小久保は「私にはこれが精一杯ですから」と発言し、それがそのまま翌日の新聞に掲載された。記事を見た監督・王はすぐに小久保を呼び出し、「我々の仕事はファンに夢を見せる事だ。このような発言をすると、ファンは小久保裕紀という人間に対して夢を見る事ができなくなる。今後2度とこのような発言はするな」と叱責した。後日、小久保本人がこのエピソードに関して、王貞治という人間を師匠として尊敬する要因になった一番の出来事だと語っている。
  • チームの中軸が多いが、チーム事情により犠打をすることもあり、バントも器用にこなす。1999年2000年の日本シリーズでは4番でありながら犠打を記録している。
  • 2005年4月8日の中日戦で、川上憲伸から、シーズン初のホームラン(その試合を決定づける満塁本塁打)を打った時、TVカメラに向かって「約束を果たしたよ」と手話を送った。前年のシーズンオフに高橋由伸と訪問したろう学校にて、第1号の本塁打を打ったら手話でメッセージを送る約束をしていたとスポーツニュースで報道される。この手話は2006年4月1日の対横浜戦の土肥義弘からソロ本塁打を打った際も行い、この事については、カルビープロ野球チップス・2005年第2弾のカードに書かれている。
  • 2005年に東京ドーム日産自動車の車の看板に直撃する本塁打を放ち、2006年には東京ドームの日産の前年と同じ場所の看板のコピー文章で、「去年は、小久保選手にぶつけられました」と載り、下には小さく「今年は、もっとお願いします」と書かれた看板が設置されていた。ちなみに、ウィングロードのドアの窓が野球のホームランボールに当たって壊れた、という絵が貼られている。
  • 松中と同じ試合でホームランを打つMKアベック弾を放った試合は25勝3敗で、勝率は8割9分3厘(2007年4月30日現在)と高勝率を誇る。ちなみに、ビジターでアベック弾を放った場合は2008年4月22日の楽天戦で敗れるまで無敗であった。
  • 中日の中田賢一に強く、2007年6月24日の対戦を終えた時点で12打数7安打5本塁打、対戦打率.583という数字を残している。
  • リハビリのかいもあってか右足のパフォーマンスも良化し、ホークスに再び移籍した2007年からはサポート用具も外している。
  • 13年間結婚生活をともにした妻とは、2008年に離婚

[編集] ホークス復帰

  • 無償トレードという不可解な形によりホークスからジャイアンツへ移籍したため、小久保が数年後にFA権を行使してホークスに復帰するのではないかという噂や期待が絶えることはなかった。
  • また、松中信彦はこのトレード決定後の記者へのコメントで、「このチームは勝ちたくないんでしょうかね?」とかなりの不満を露にした。
  • 大きな負債を抱えていたダイエーからソフトバンクへと球団が譲渡され、新オーナーの孫正義が就任時に「(金銭的に)いくらかかろうが、絶対に小久保をホークスに呼び戻す」、「小久保を呼び戻すにはどうすればいいんだ?」などと発言するなど、期待はさらに高まっていた。球団側も小久保の背番号9を欠番状態としており、王貞治や松中信彦が事あるごとに小久保の名前を出すなど、受け入れやすい状態も作っていた。
  • 2006年1月1日西日本スポーツ1面で、「小久保2007年ホークス復帰決定」と報じられ、巨人側から抗議が出るという事態もあった。
  • 2006年10月17日に古傷の検査のため渡米する前の空港で、小久保はFA権を行使する考えを示した。11月7日に正式にFA権の申請。帰国時の会見での「次に着るユニフォームの球団でユニフォームを脱ぐという思いもある」という発言や、巨人側との交渉での契約年数に関する条件面の開きがあると予想されたことから、小久保のホークス復帰はほぼ確実ではないかと言われていた。ホークス側は、交渉解禁直後の11月9日には最初の交渉を行い、11月11日、4年総額12億円+出来高の契約に合意し、古巣・ホークスに復帰が決定した。

[編集] 出囃子(テーマソング)

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績
































O
P
S
1994 ダイエー 78 191 177 18 38 6 0 6 62 20 2 1 4 2 8 0 0 31 5 .215 .246 .350 .596
1995 130 538 465 72 133 20 9 28 255 76 14 4 5 6 50 7 12 94 16 .286 .366 .548 .914
1996 126 539 478 73 118 26 3 24 222 82 7 3 0 6 48 1 7 95 13 .247 .321 .464 .785
1997 135 588 527 88 159 37 3 36 310 114 4 3 0 5 52 2 4 112 16 .302 .366 .588 .954
1998 17 75 71 7 16 3 1 2 27 11 0 0 0 0 3 1 1 19 1 .225 .267 .380 .647
1999 130 538 465 60 109 24 2 24 209 77 4 2 3 6 62 1 2 103 8 .234 .323 .449 .773
2000 125 520 473 87 136 26 3 31 261 105 5 2 0 6 31 2 10 85 13 .288 .340 .552 .892
2001 138 605 535 108 155 32 1 44 321 123 6 1 0 5 62 3 3 97 6 .290 .364 .600 .964
2002 136 579 507 89 148 25 0 32 269 89 8 1 0 3 63 3 6 90 10 .292 .375 .531 .905
2004 巨人 125 508 462 85 145 24 2 41 296 96 0 0 0 2 42 1 2 101 6 .314 .372 .641 1.013
2005 142 592 524 77 147 25 0 34 274 87 1 1 0 1 62 0 5 114 11 .281 .361 .523 .884
2006 88 344 308 37 79 5 0 19 141 55 1 0 2 2 31 3 1 68 6 .256 .325 .458 .782
2007 ソフトバンク 124 514 466 70 129 26 0 25 230 82 2 4 2 2 41 4 3 103 9 .277 .338 .494 .831
2008 106 434 383 45 97 21 0 20 178 56 1 1 0 3 42 0 6 95 11 .253 .334 .465 .799
通算:14年 1600 6565 5841 916 1609 300 24 366 3055 1073 55 23 16 49 597 28 62 1207 131 .275 .346 .523 .869
  • 2008年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更

[編集] 年度別守備成績

年度 一塁 二塁 三塁 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1994 - 9 3 7 0 1 1.000 15 6 13 0 4 1.000 51 69 3 2 0 .973
1995 - 130 304 372 9 75 .987 - 1 0 0 0 0 -
1996 1 0 0 0 0 - 123 291 338 4 81 .994 5 2 4 0 0 1.000 -
1997 21 153 13 0 7 1.000 106 268 278 6 60 .989 11 7 14 1 0 .955 -
1998 6 3 0 0 1 1.000 - 15 9 21 4 7 .882 -
1999 72 500 27 1 38 .998 - 59 36 79 5 8 .958 -
2000 1 9 2 1 0 .917 - 119 78 196 4 14 .986 -
2001 - - 135 110 229 5 25 .985 -
2002 - - 135 101 199 7 16 .977 -
2003 - - - -
2004 - - 121 79 195 8 15 .972 -
2005 - - 142 102 248 4 21 .989 -
2006 - - 87 57 144 6 17 .971 -
2007 6 58 5 1 2 .984 - 106 58 175 10 27 .959 -
2008 83 673 47 2 48 .997 - - -
通算 196 1396 94 5 96 .997 368 866 995 19 217 .990 950 645 1517 54 154 .976 52 69 3 2 0 .973

[編集] タイトル・表彰・記録

[編集] 個人記録

[編集] 背番号

  • 9(1994年 - 2003年、2007年 - )
  • 6(2004年 - 2006年)

[編集] 関連項目

先代:
R.ブライアント
パ・リーグ本塁打王
1995年
次代:
T.ニール
先代:
T.ニール
パ・リーグ打点王
1997年
次代:
N.ウィルソン
先代:
ロベルト・ペタジーニ
読売ジャイアンツ4番打者
第69代
次代:
李承燁
先代:
平井正史
鈴木健
セ・リーグカムバック賞
2004年
※2005年~2007年は該当者なし
次代:
平野恵一
他の言語