若松勉

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若松 勉
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 北海道留萌市
生年月日 1947年4月17日(67歳)
身長
体重
168 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1970年 ドラフト3位
初出場 1971年4月11日
最終出場 1989年10月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • ヤクルトスワローズ (1986 - 1989, 1993 - 2005)
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 2009年
選出方法 競技者表彰

若松 勉(わかまつ つとむ、1947年4月17日 - )は、北海道留萌市出身の元プロ野球選手外野手)・野球指導者・監督野球解説者野球評論家

現役時代はヤクルトアトムズ・スワローズで19年の長きに亘り活躍し、引退後はヤクルトで打撃コーチ・二軍監督・監督を務めた。2009年野球殿堂入り。

小柄な体格ながら巧みなバッティングを披露し、数々の記録を打ち立てた事から「小さな大打者」の異名を持つ。

経歴[編集]

北海高校を卒業後、電電北海道を経て、1970年のドラフト3位でヤクルトアトムズに入団。公称168cm(自称166cmだったという[1])という小柄な体型のため、プロ入り時はプロ選手としてやっていく自信がなかった。夫人に「ダメだったら北海道に帰って二人で焼き鳥屋でもやろう」と言って入団を決意したという[2]ただし、ベースボールマガジン1981年3月号のインタビューでは、「お茶漬け屋でも開こうかと思った」という旨の発言をしている。またラーメン屋という説もあり、真偽は不明である。その後は小柄な体型ながら、プロ入り前から若松の素質に目をつけていた中西太ヘッド兼打撃コーチとのマンツーマントレーニングの成果もあり[3]、1年目より左翼手のレギュラーに定着、2年目の1972年には首位打者を獲得し、リーグを代表する外野手となる。

1977年より中堅手にコンバートされ2度目の首位打者を獲得、1978年セ・リーグMVPを獲得し、ヤクルト初の日本一に貢献した。1986年からコーチ兼任となる[4]。選手兼打撃コーチ時代当時監督だった土橋正幸栗山英樹をスイッチヒッターへの転向を進言し栗山はセンターのレギュラーに定着した[5]。晩年は代打の切り札として活躍し、1989年に現役引退、ヤクルト一筋19年、42歳まで現役を全うした。プロ通算打率の.31918は日本人選手としては歴代最高記録である(NPBの最高記録はレロン・リーの.320)。

引退後は、1990年1992年テレビ朝日文化放送日刊スポーツの解説者を務め、1993年1994年ヤクルト二軍打撃コーチ、1995年1996年二軍監督、1997年1998年一軍打撃コーチ、1999年2005年監督を歴任し、2001年にはリーグを優勝し日本シリーズでは近鉄を制して日本一に輝く。スワローズで唯一、選手・コーチ・監督としてリーグ優勝、日本一を経験している。尚、ヤクルトの生え抜き監督で優勝したのは、2013年終了時点で若松ただ一人である。

監督就任にあたってはスローガンに「データ+スピード&パワー」を掲げた。これは選手の地力(スピード&パワー)を向上させることで、「ID野球」を主唱した前監督野村克也時代のようなデータ重視の野球だけではなく、根本からチーム力を底上げしようと図ったものであった。若松は在任中にこの目標を完全に達成することはできなかったが、日本一に加えて球団史上初の4年連続Aクラス入りを果たした。

野手の起用においては、生え抜き組・移籍組を問わずベテラン選手を多く起用する傾向があったものの、一方で岩村明憲青木宣親らのように若松の下で大きく成長した若手選手もおり、新旧交代に著しい支障をきたすことは無かった。投手起用に関しては率直に自らの本分ではないことを認め、おおむね伊東昭光投手コーチに一任していた。

2006年より、フジテレビジョン2008年まで)・北海道文化放送ニッポン放送解説者・サンケイスポーツ評論家に就任。

現役時代に付けていた背番号1を永久欠番にとの署名が多く集まり、以降背番号1は池山隆寛・岩村明憲・青木宣親といったチームの顔となる生え抜き選手のみに着用が許される番号となった。

日本プロ野球名球会会員。2009年1月13日、2009年度野球殿堂表彰者選考に於いて競技者部門のプレーヤー表彰で選出され、野球殿堂入りした。同年7月12日神宮球場で行なわれたヤクルト対横浜戦は皇太子徳仁親王一家が観戦した台覧試合となり、ヤクルトOBの若松が解説役を務めた。12月3日には若松の野球殿堂入りを祝うパーティーが行われ加藤良三コミッショナー、王貞治、長嶋茂雄、金田正一、中西太、古田敦也、岩村明憲、五十嵐亮太、青木宣親ら約1,100人が出席した。2011年、ヤクルトの浦添キャンプで臨時打撃コーチを務める[6]

人物[編集]

人柄[編集]

人柄は温厚で腰が低く、誰に対しても礼儀正しく接するため、年俸交渉でも球団ともめることがほとんどなく、球界を代表する打者として毎年高成績を残し名球会入りするほどの選手であったにも関わらず、現役時代の推定最高年俸が5,200万円(1988年・当時のヤクルト球団の日本人最高年俸)であった。

現役時代の監督でありヤクルトを日本一に導いた広岡達朗を尊敬しており、広岡が球団と対立し監督を辞めた時、「どうして辞めてしまうんですか?」と泣きながら電話してきた唯一人の主力選手といわれる。野村監督の退任を受けてヤクルト監督に就任した時も、「果たして僕に監督ができるのでしょうか」と広岡に相談している。

現役引退を発表した記者会見では終始涙ながらの会見となり、発言内容よりも号泣する若松にその純粋な人柄が強く映し出され、非常に印象深いものとなった。また当時「FNNスーパータイム」のスポーツコーナーを担当していた有賀さつき(当時フジテレビアナウンサー)からインタビューを受けて、既に引退が決まっていたにもかかわらず「来年も頑張ってください」と声を掛けられてしまった。

現役引退後にヤクルトの打撃コーチや二軍監督を務めた頃は、生真面目な性格のためか選手やチームのことを考えすぎてストレスを壊したり、腰痛に悩まされることも多かった。

また一軍監督時代には、シーズン終盤になってようやく当年初の一軍昇格を果たした選手に対して「遅くなってごめんな」と声を掛けてしまい、一軍チーフコーチの渡辺進から「もっと毅然と接しないと・・」と窘められたこともあった。

また監督時代には自前の戦力が中心ながらその隙間を埋めるような形でトレードを行っていたがいずれも球団主導で、若松自身は監督退任後に「私は誰も、チームからは出したくなかった」と明らかにしている[7]

純朴ゆえに口下手でもあり、若松と行動を共にすることの多かった現ヤクルト監督の小川淳司によれば、イベント等でのあいさつが終わる度に「今のでよかったか?オレ、変なこと言ってなかったか」と尋ねられていた[8]という。

若松の口下手で実直な人柄を最も印象づけたのが、2001年10月に監督として初のリーグ優勝を達成した際のインタビューで発した「ファンの皆様、本当にあの〜、あの…、おめでとうございます」という一言[注 1]であるが、むしろ場内は大爆笑に包まれて和やかなムードになり、この年の流行語大賞にも選ばれた。

さらにシーズン本拠地最終戦でのファンへの挨拶では「一戦、一戦、頑張りますので、オールスターでも、いや、日本シリーズでも皆様のご声援よろしくお願いします」と言ってしまい、またしても会場は大ウケとなった。

そして日本シリーズ優勝を達成した際のインタビューでは「本当にファンの皆様、改めまして、日本一、おめでとうございます!!」と堂々とファンに叫んだ(先のリーグ優勝の後に「いや、元々からおめでとうございますって言おうと思ってたんだよ」とうそぶいていたが、今度は緊張せずにしゃべることができた)。

2005年10月14日、本拠地神宮球場でのシーズン最終戦対横浜試合終了を以って、7シーズンに亘って務めた監督を退任したが、辞任の記者会見では「1度しか日本一になれず申し訳なかった」と発言した。

一度でも日本シリーズを制覇すれば自身の実績として大いに誇ってもいいところであるが、前任が在任中4度のリーグ制覇と3度の日本シリーズ制覇を達成した野村克也なだけにこのような発言になってしまったのは致し方なく、むしろ実直でチーム一人ひとりへの思いやりが強い若松ならではの一言と、好意的に受け止められた。

温厚で選手たちからも慕われており、古田敦也は「この人を勝たせてあげないといけないと思ってしまう監督」と語っている[9]

北海道が誇る大スター[編集]

1978年留萌市民栄誉賞1981年道民栄誉賞を受賞するなど、北海道での若松の人気は非常に高い。

2004年まで年に一回札幌ドーム(開場以前は札幌市円山球場)で開催されていたヤクルト主催試合は、道内での若松人気に加えて、当時は佐藤真一五十嵐亮太米野智人など北海道に縁のある選手が多数在籍していたこともあり、巨人戦や阪神戦に次いで多くの観客で埋まっていた(日本ハムの札幌移転とセ・パ交流戦開始に伴い打ち切り)。

また日本ハムの札幌移転決定を受けて道民に初代監督としてふさわしい人物をアンケートしたところ、当時まだヤクルト監督だった若松が、日本ハムの次期監督就任が決まっていたトレイ・ヒルマンを差し置いて、最も多くの支持を集めてしまったこともあった。

2005年5月28日には円山球場開場70年を記念して行われた日本ハムvsヤクルト戦の始球式で打者として打席に立った。現役監督が公式戦の始球式に参加するのは異例だが、ビジターであったにもかかわらず若松には大声援が送られた。

胴上げに関するエピソード[編集]

日本シリーズ優勝の際に、体重が軽いため胴上げの際に宙返りになった事も話題となった[注 2]。監督時代の晩年は腰痛に悩まされたが、本人曰く「胴上げで宙返りしてからひどくなった」という。

監督としての最終試合前に退任セレモニーで選手達による胴上げが企画されているのを知り、上記理由により固辞する旨を公言していたが、いざセレモニー終了後、次期監督の古田敦也から説得され胴上げを受け入れる。なお、この時の胴上げは腰に負担をかけないように低く、体が回転しない様に足首を押さえながらの胴上げだった。

野球人生ただ一度の退場処分[編集]

普段から外見通り物静かで、抗議に出ようとしてもコーチからベルトを引っ張られてベンチに下がることもあったぐらいであるが、唯一2004年6月9日の対横浜戦では7回に横浜・佐伯貴弘の一塁ゴロの判定に激怒して一塁塁審を突き飛ばし、若松にとって野球人生唯一の退場処分を受けた。

エピソード[編集]

  • 「三顧の礼」という言葉があるが、プロ入りを嫌い逃げ回る若松のもとにはスカウトが7度も訪れた。最後には中西太までもが足を運んだという[10]。また、指名の第一報は球団のスカウトから伝えられたがその声が所属チームの監督そっくりだったらしく、「監督、何を冗談言ってるのですか」と信じなかったという(本人は社会人入りして5年経過しても声が掛からなかったこともあって、プロ入りはないと決め込んでいたらしい)[7]
  • プロ入り時、所属していた日本電信電話公社・北海道野球部の応援団からヤクルトの応援団に、応援歌が譲り渡された[2]。現在、この応援歌は専用応援歌の無い左打者用の汎用テーマ「でんでんマーチ」として使用されている。若松の個人応援歌(ペレス・プラード「闘牛士のマンボ」。2011年までの青木宣親専用のチャンステーマとして使用)とは別物。
  • 東京から実家の北海道留萌市公衆電話をかけていたが、当時10円玉しか使えない上に遠距離の通話料も高かった時代、チームの先輩が「電話機を倒すと、10円玉が落ちるスピードが遅くなるぞ」と言った冗談聞いて、電電公社に勤務した経験を持っていながらそれを真に受けて本当に電話機を横倒しにして通話していたことがある。
  • 1980年代前半、ヤクルト本社の「ヤクルト野菜ジュース」のコマーシャルモデルに起用された(その時のキャッチコピーは「クリーンヒット」と緑黄色野菜を絡ませて「グリーンヒット」)他、ストライカースポーツドリンク。現在は終売)のラベルのイラストのモデルを務めたともされている。
  • プロ野球再編問題_(2004年)では、大阪近鉄バファローズオリックス・ブルーウェーブへの吸収合併に反対して、選手会の署名活動に署名している。
  • 団塊の世代にあたる。1978年日本一当時のスワローズ主力選手では安田猛松岡弘大矢明彦昭和22年度生まれの同級生。中でも大矢は親友で現役当時から公私共に親しい関係。他に昭和22年度生まれを代表するプロ選手は、谷沢健一中日)、堀内恒夫巨人)、藤田平阪神)、江本孟紀(阪神他)、平松政次大洋)、門田博光南海他)、福本豊阪急)、鈴木啓示近鉄)といった顔ぶれで、強烈な個性を持った投手が多い。また、若松自身も含め名球会入りした選手や「プロ野球ニュース」の歴代解説者が多い。
  • ヤクルトには170cm前後の身長で体つきが小さい選手が入団することが多く、その場合“若松2世”と呼ばれる。代表的なのが荒井幸雄真中満(入団当初の岩村明憲も)。若松は広岡達朗の監督就任で中堅手コンバートされたが(その後も左翼手を務めたシーズンはある)、若松の引退後は直後の1シーズンだけ中堅手を務めた杉浦亨(強打者だが鈍足で守備も上手くなかったためこの起用は酷評された)を除き、歴代レギュラーは前記した二人も含め身長が175cm以下のプロとしては小柄な選手であり、ほぼチームの伝統となっている(他に栗山英樹飯田哲也青木宣親)。

プレースタイル[編集]

打っては、入団当時の三原脩監督や中西太ヘッド兼打撃コーチの指導と、本人曰く「野球を楽しいと思ったことは一度もない」と言う程の猛練習で培われたバットコントロール、ミートの上手さは後述のように高く評価されている。三振が非常に少なく、特に1977年にはシーズンを通じてわずか14三振という驚異的な数字を残している。

野村克也曰く、「軸をブラして打てるのはイチローか若松くらい」。

同年9月3日の、王貞治が756号本塁打を打った試合ではヤクルトのスターティングメンバーの一人。打順は3番、守備位置は中堅手。 なお、中日水原茂監督や巨人川上哲治監督(いずれも1971年当時)も若松のバッティングについて高く評価している。

規定打席に到達した14シーズン中、実に12シーズンが打率3割以上というミートの達人。シーズン打率3割を12回達成は歴代3位タイの記録で、通算打率.31918は日本人歴代1位である(2010年シーズン終了時点)。

走っては、50m5秒台の俊足で盗塁成功率も非常に高い。しかし、彼の全盛期時代にヤクルトは後続の打者に大杉勝男チャーリー・マニエル杉浦亨などリーグ屈指の打撃陣を有していたため彼に盗塁のサインが出ること自体が少なかった。そのためあまり盗塁数は増えなかった(プロ野球ニュースの本人談より)。

守っては、ベストナイン(1972〜1980年のうち1976年を除く8度)とダイヤモンドグラブ賞(当時・1977、78年の2年連続)も数度に亘り受賞している。

このように走攻守の三拍子が揃ったプレイヤーとして、長らくヤクルトの顔だった選手であったが、1987年、対中日戦(神宮)にて左中間のフライを追いかけた際に中堅手のマーク・ブロハードと交錯して激突、右太腿を故障して長期欠場を余儀なくされた。

さらに追い打ちをかけるように、代役の荒井幸雄がこの年の新人王を獲得するほどの大活躍をみせ、同時期からは遊撃手から外野に転向した栗山英樹も台頭。関根潤三監督(当時)が若手を積極的に起用する方針だったこともあって彼らの起用を優先するようになったことで、若松不在による不安を感じさせなくなってしまった。

これにより復帰後もレギュラーからは外れ、以後は引退まで勝負どころにおける代打の切り札というポジションに活躍の場が限定された。

このため、この交錯アクシデントによって若松の選手生命が事実上絶たれたと捉えているファンも多い。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1971 ヤクルト 112 305 274 40 83 18 1 3 112 15 6 8 8 1 15 0 7 28 1 .303 .354 .409 .762
1972 115 408 365 54 120 17 4 14 187 49 20 6 11 1 25 1 6 32 4 .329 .380 .512 .893
1973 128 486 438 59 137 29 2 17 221 60 12 8 10 1 32 8 5 43 4 .313 .366 .505 .870
1974 130 500 477 80 149 30 4 20 247 74 18 9 0 4 45 9 4 31 8 .312 .374 .518 .891
1975 123 500 453 55 132 16 3 8 178 48 6 4 4 2 37 4 4 30 12 .291 .349 .393 .742
1976 127 542 485 80 167 20 4 17 246 70 9 5 3 6 43 5 5 25 7 .344 .399 .507 .906
1977 122 503 441 95 158 30 5 20 258 70 13 4 4 5 46 3 7 14 9 .358 .423 .585 1.008
1978 120 530 460 100 157 30 5 17 248 71 12 7 5 7 49 4 8 24 3 .341 .408 .539 .948
1979 120 492 438 81 134 30 1 17 217 65 8 4 2 2 45 7 5 38 6 .306 .376 .495 .871
1980 116 474 427 62 150 36 1 15 233 63 16 5 0 1 45 17 1 31 5 .351 .414 .546 .959
1981 95 358 323 49 94 12 2 13 149 37 5 3 4 3 24 4 4 24 11 .291 .345 .461 .806
1982 112 428 390 50 121 12 2 11 170 38 6 6 4 6 25 4 3 27 0 .310 .351 .436 .787
1983 112 451 413 61 139 21 1 15 207 60 11 1 9 1 27 2 1 21 11 .337 .378 .501 .879
1984 114 449 397 49 129 22 2 9 182 50 6 1 8 4 38 4 2 26 6 .325 .383 .458 .842
1985 114 485 443 52 133 13 1 12 184 34 2 1 8 3 31 1 0 30 14 .300 .344 .415 .759
1986 119 439 400 38 110 14 2 6 146 39 1 3 6 6 26 3 1 29 7 .275 .316 .365 .681
1987 55 81 69 6 26 2 2 3 41 16 0 0 1 1 10 2 0 7 2 .377 .450 .594 1.044
1988 73 75 66 1 23 2 1 1 30 18 0 0 0 2 7 3 0 1 2 .348 .400 .455 .855
1989 55 54 49 3 11 1 0 2 18 7 0 0 0 0 4 2 1 2 0 .224 .296 .367 .664
通算:19年 2062 7590 6808 1015 2173 355 43 220 3274 884 151 75 87 56 574 83 64 463 112 .319 .375 .481 .856
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]

年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1999年 平成11年 ヤクルト 4位 135 66 69 0 .489 15 141 .264 4.23 52歳
2000年 平成12年 4位 136 66 69 1 .489 12 137 .264 3.62 53歳
2001年 平成13年 1位 140 76 58 6 .567 148 .274 3.41 54歳
2002年 平成14年 2位 140 74 62 4 .544 11 142 .263 3.69 55歳
2003年 平成15年 3位 140 71 66 3 .518 15.5 159 .283 4.12 56歳
2004年 平成16年 2位 138 72 64 2 .529 7.5 181 .275 4.70 57歳
2005年 平成17年 4位 146 71 73 2 .493 17.5 128 .276 4.00 58歳
通算:7年 975 496 461 18 .509 Aクラス4回、Bクラス3回
  • ※1 太字は日本一
  • ※2 1999年から2000年までは135試合制
  • ※3 2001年から2004年までは140試合制
  • ※4 2005年からは146試合制

タイトル[編集]

  • 首位打者:2回 (1972年、1977年) 
  • 最多安打(当時連盟表彰なし):1回 (1977年) ※1994年より表彰

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1978年4月14日、対中日ドラゴンズ1回戦(明治神宮野球場)、1回裏に三沢淳から先制ソロ ※史上95人目
  • 1000本安打:1978年6月21日、対広島東洋カープ14回戦(広島市民球場)、5回表に北別府学から右前安打 ※史上111人目
  • 1000試合出場:1979年5月12日、対阪神タイガース6回戦(長崎市営大橋球場)、3番・左翼手として先発出場 ※史上207人目
  • 150本塁打:1981年4月15日、対読売ジャイアンツ2回戦(後楽園球場)、9回表に西本聖から右越ソロ ※史上60人目
  • 1500本安打:1982年5月4日、対読売ジャイアンツ3回戦(明治神宮野球場)、1回裏に西本聖から中前安打  ※史上43人目
  • 1500試合出場:1983年8月14日、対阪神タイガース16回戦(平和台球場)、3番・左翼手として先発出場  ※史上76人目
  • 300二塁打:1983年10月3日、対横浜大洋ホエールズ26回戦(横浜スタジアム)、8回表に門田富昭から左中間適時二塁打 ※史上25人目
  • 200本塁打:1985年5月8日、対横浜大洋ホエールズ6回戦(横浜スタジアム)、6回表に関根浩史からソロ  ※史上45人目
  • 3000塁打:1985年8月27日、対横浜大洋ホエールズ13回戦(明治神宮野球場)、9回裏に斉藤明雄から左前安打 ※史上27人目
  • 2000本安打:1985年10月9日、対阪神タイガース22回戦(阪神甲子園球場)、5回表にリチャード・ゲイルから右前安打 ※史上21人目
  • 1000得点:1986年9月5日、対広島東洋カープ21回戦(明治神宮野球場)、3回裏に広沢克実の適時打で生還  ※史上20人目
  • 350二塁打:1986年9月19日、対阪神タイガース21回戦(明治神宮野球場)、1回裏に仲田幸司から ※史上17人目
  • 2000試合出場:1988年9月14日、対阪神タイガース20回戦(明治神宮野球場)、6回裏に荒井幸雄の代打・平田薫の代打として出場、工藤一彦から2点適時二塁打 ※史上26人目
その他の記録
  • サイクルヒット:1976年7月9日、対中日ドラゴンズ15回戦(明示神宮野球場) ※史上29人目
  • シーズン打率3割以上:12回(1972年 - 1974年、1976年 - 1980年、1982年 - 1985年)※歴代3位タイ
  • 打撃ベストテン入り:12回(1972年 - 1980年、1982年 - 1984年)※歴代5位
  • 1試合5安打:1976年6月24日、対中日ドラゴンズ14回戦(ナゴヤ球場)
  • 18試合連続安打3回(1976年9月14日 - 1976年10月10日、1980年4月22日 - 1980年5月18日、1984年7月17日 - 1984年8月14日)
  • 2試合連続4安打2回(1972年5月14日 - 5月15日、1982年9月2日 - 9月4日)
  • 3打席連続本塁打:1978年5月6日、対横浜大洋ホエールズ7回戦(横浜スタジアム)、5回表に根本隆・6回表に関本充宏・7回表に田中由郎から
  • 通算代打本塁打:12本 ※歴代18位タイ
  • 通算サヨナラ本塁打:8本 ※セ・リーグタイ記録
  • 通算代打サヨナラ本塁打:3本 ※歴代1位タイ
  • 2試合連続代打サヨナラ本塁打 ※史上2人目
    • 1977年6月12日、対広島東洋カープ12回戦(明治神宮野球場)、10回裏に渡辺進の代打として出場、池谷公二郎からソロ
    • 1977年6月13日、対広島東洋カープ13回戦(明治神宮野球場)、9回裏に渡辺進の代打として出場、松原明夫から2ラン
  • 1試合11守備機会:1980年9月19日、対阪神タイガース21回戦(明治神宮野球場) ※外野手としての日本記録
  • オールスターゲーム出場:11回 (1972年 - 1980年、1983年、1984年)
  • オールスターゲーム先頭打者本塁打(1973年第3戦)※史上5人目

背番号[編集]

  • 57 (1971年)
  • 1 (1972年 - 1989年)
  • 75 (1993年 - 2005年)

関連情報[編集]

出演番組[編集]

CM出演[編集]

著書[編集]

漫画・アニメ[編集]

  • 野球狂の詩 水原勇気とのドリームボール対決をしていた。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 本当は「ファンの皆様、ありがとうございます」と言うつもりだったのだが、元来の緊張屋が顔を出してしまった。
  2. ^ ちなみにこれは、石井一久の策略であったらしい。

出典[編集]

  1. ^ 若松勉 『背番号1の理論 小さな体でもホームランが打てる!』 ベースボール・マガジン社〈ベースボール・マガジン社新書 ; 04〉、2010年ISBN 9784583102658
  2. ^ “若松氏「3年で駄目なら焼き鳥屋さんの思い…」”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2009年1月13日). オリジナル2009年12月6日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20091206070610/http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20090113083.html 
  3. ^ 上村祐作「若松勉 北海道が生んだ偉大なる大打者」(OCNスポーツ野球コラム)。
  4. ^ 徳永喜男著『ヤクルトスワローズ球団史』ベースボールマガジン社、P444-P447
  5. ^ 難病と闘った江戸っ子エース・土橋正幸さん ゆかりの人々からあふれる思い出話 - 2013年9月6日
  6. ^ “燕臨時C・若さん、浜中&武内再生させる!”. SANSPO.COM (産経デジタル). (2011年1月22日). オリジナル2011年1月25日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20110125165120/http://www.sanspo.com/baseball/news/110122/bsf1101220505000-n1.htm 
  7. ^ a b SEGA「プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2」スペシャルインタビュー[1]
  8. ^ “ヤクルト小川監督を襲う代行の利かない“スピーチ地獄””. ZAKZAK (産経デジタル). (2010年10月13日). オリジナル2010年10月16日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20101016045230/http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20101013/bbl1010131620009-n1.htm 
  9. ^ 『日本プロ野球平成の名将―1989ー2012 : "平成"を戦い抜いた83人の監督列伝』〈B.B.MOOK ; 869. スポーツシリーズ ; No.739publisher=ベースボールマガジン社〉、2012年、76頁。ISBN 9784583619118
  10. ^ 『東京ヤクルトスワローズ40年史: 1969-2009ツバメの記憶』 ベースボール・マガジン社〈B.B.mook ; 610. スポーツシリーズ ; no.483〉、2009年ISBN 9784583616018

関連項目[編集]