寺原隼人

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寺原 隼人
福岡ソフトバンクホークス #20
HAWKS11-TERAHARA.jpg
2013年4月24日 福岡ヤフオク!ドーム
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮崎県宮崎市
生年月日 1983年10月9日(31歳)
身長
体重
180 cm
86 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 2001年 ドラフト1巡目
初出場 2002年4月16日
年俸 8,500万円(2014年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

寺原 隼人(てらはら はやと、1983年10月9日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手投手)。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

宮崎県宮崎市出身。幼少時は亀山努のファンだったと新聞紙面に記述があった。野球を始めたのは小学3年。軟式の少年野球チームに入団し、小学5年の頃にはエースになっていた。赤江東中学に進学した時に、父親はリトルリーグへの入団も検討するも「硬式で無理をさせたくない」という判断を下し、同中学の軟式野球部への入部を決めた。中学1年の春休みに、学校の許可を得て「体を鍛えたいんです、新聞配達をさせてください。」と自宅近くの新聞販売店でアルバイトした。約60段の階段を登る5階建ての市営住宅6棟など約90軒を担当し、2年生の2月までの約1年間朝刊を配った。当時、2度の県大会優勝を経験し、第20回全国中学校軟式野球大会に出場している[1]。赤江東中学時代の野球部仲間と文化祭でバンドを組みドラムを担当していた。

日南学園高等学校ではエース投手として活躍。宮崎県内では同学年の神内靖と並ぶ評判の投手で、ライバル関係を築いていた。井手正太郎は高校時代の同期生。

3年夏の全国高等学校野球選手権宮崎大会の3回戦(7月18日・対日南振徳商戦)でノーヒットノーランを記録。予選決勝(7月25日・対宮崎日大戦)では完投勝利投手となり、日南学園を3年ぶり3度目の甲子園出場に導く。第83回全国高等学校野球選手権大会の2回戦(8月16日・対玉野光南高戦)では当時最速となる154km/hを記録。この時、ボストン・レッドソックスのスカウトの速度計は98マイル(約157.7km/h)を示した。その後準々決勝では横浜高校相手に好投するも、9回に決勝点を奪われて敗れたが、チームをベスト8に導き全国的な注目を浴びた。当時、「僕は9回でも150km/hの球を投げることができる」と発言したり、プロ入り直後には「松坂投手との剛球対決が楽しみです」などの強気の発言も多かった。また、眉毛を細く整えていたことでも注目されていた。その後、国際野球連盟主催の第34回IBAFワールドカップ日本代表に出場。予選リーグ第1戦のフィリピン戦、最終戦のオランダ戦で中継ぎで登板した。プロ・アマ合同の同大会で高校生が日本代表として選出されたのは史上初であった。

2001年のドラフト会議で、4球団(ダイエー中日・巨人・横浜)から1位指名を受けるが抽選の末、3番目に引いた王貞治が率いるダイエーが交渉権を獲得。それまで意中の選手の交渉権を引き当てられずに嘆いていた王は、利き手である左手ではなく、IBAFワールドカップ開会式後に寺原と初対面した際に握手を交わした右手で初めてクジを引いた。王は引いたクジを握り締めたまま、左右を確認しながらゆっくりと手元にあるクジを確認すると、すぐさま満面の笑みと安堵の表情を見せながら右手を掲げた。一方、会議の様子を見ていた寺原は「交渉権はダイエー」の一報に表情を強張らせ、ドラフト後の取材でも「ダイエーに行くかどうか分からない」と進学・社会人行きの含みを持たせた心情を洩らした。地元・九州出身で、甲子園で全国的に注目を浴びた寺原の獲得のため、球団社長の高塚猛の要望で、指名の挨拶には王と中内正オーナーが訪れた。オーナーが自ら挨拶に赴くことは球団史上初で、寺原は「九州の星になりたいです」とダイエー入団を決めた。

ダイエー・ソフトバンク時代[編集]

2002年の高知春季キャンプは、「寺原フィーバー」で連日堅調に集客数を伸ばし、終わってみれば集客数10万9850人と球団史上過去最高(当時)の集客数だった。このキャンプでファンから贈られたバレンタインチョコの数302個(球団1位の獲得数)にもフィーバーぶりが現れた。また、宮崎市観光協会の依頼で観光PRのCMに出演(放送エリアは宮崎、福岡、鹿児島、熊本、大阪)した。開幕は2軍で迎えるが、4月には早くも昇格し、4月16日の対日本ハムファイターズ戦で初登板初先発し、高卒新人のプロ初登板初先発は、井上祐二以来21年ぶりチーム2人目。また、高卒新人の投手が1年目から1軍で登板するのは12人目だった。4月28日の対オリックス・ブルーウェーブ戦で2度目の先発、6回を3安打7奪三振に零封し、プロ初勝利。4月中の高卒新人の勝利は史上5人目となった。10月2日の対オリックス戦で6勝目を挙げ、ドラフト制導入後のホークスの高卒新人勝利数を更新した。

2003年4月18日、対大阪近鉄バファローズ戦でプロ初の完投勝利。前試合までの杉内俊哉新垣渚和田毅に続いての完投勝利を挙げ、球団初となる4試合連続完投勝利を記録した。前半戦に6連勝を記録するなど、チームの快進撃に貢献。斉藤和巳Saitoh)、和田(Wada)、新垣(Arakaki)、寺原(Terahara)の4投手のローマ字頭文字を取って「SWAT」というグループを結成していた。ネーミングは、当時公開された映画S.W.A.T.に由来。球団が4人を若手先発投手陣を売り出そうとしただけで、4人が揃って何らかの活動を行っていたわけではないが、4投手に因んだメガホンやポスターなどがホークスグッズの新ブランド「SWAT」として、福岡ドームやホークスグッズ専門ショップハリーズで販売されていた。7月にはローソンの企画で九州出身の選手を県別に分けて、各県の名物を具にした「ホークス応援おにぎり」が発売された。宮崎県は「チキン南蛮おにぎり」で寺原を応援していた。横浜移籍前まではあまり知られていなかったがパスタも好物の一つで、ローソンのホークス応援弁当で「寺原の好物はナポリタン」と紹介されていた。また、2002年から2003年にかけて、日刊スポーツ九州のホームページに「寺原日記」が設けられ、ほぼ毎日更新されていた。内容はピッチングに関することから、プライベートに至るまで、率直な言葉で書き綴られており、好評を博していた。しかし、その後は故障に苦しみ7勝5敗に終わり、同年の日本シリーズでの登板機会はなかった。12月8日に高校の1年後輩の女性と入籍した。

2004年2005年も故障に苦しみ、勝利を挙げることができなかった。同年オフには過去に斉藤和巳や小久保裕紀らのトレーナー経験がある山尾伸一と個人契約を結び、2006年4月13日、シーズン初登板(初先発)で2003年8月22日以来、965日ぶりとなる勝利を挙げた。その後、7月16日のプロ初完封や10月9日のプレーオフ第2ステージ進出に貢献する好投などの活躍を見せたが、12月5日多村仁とのトレードで横浜ベイスターズへ移籍した。

横浜時代[編集]

横浜時代(2007年9月15日)
勝利投手となり、ファンにハイタッチする。

2007年の横浜移籍後初となる春季キャンプ初日、選手の乗ったバスを先回りして出迎え、全員に挨拶して回った場面がテレビで紹介された。その返礼は2007年4月3日、移籍後初勝利の際に横浜投手陣による出迎えの拍手だった。5月10日の対東京ヤクルトスワローズ戦でプロ初安打(同時にプロ初打点)を放ち、移籍後初の完投勝利を記録。9月4日に初めて規定投球回に到達すると、9月15日には初の二桁勝利を記録。最終的にチーム最多の12勝、防御率3点台前半と活躍を見せた。

2008年3月28日の対阪神タイガース戦で、初の開幕投手を務める。その後、抑えに予定していたトラビス・ヒューズが不調なために抑えに抜擢され、4月27日の対広島東洋カープ戦では自身初となるセントラル・リーグでのセーブを記録。以降も抑えを務めたが、100敗の可能性すら囁かれる低迷状態に陥った横浜では抑え投手が登板するような展開に持ち込むことすら難しく、登板間隔が大きく空いた調整不足から打ち込まれる場面も見られ、9敗を喫して防御率3.29と、抑えとしては平凡なものに終わった。それでも22セーブ、WHIP0.97と低迷するチームの中で気を吐き、監督推薦でオールスターゲームに初出場を果たす。それまでは数度のフレッシュオールスター推薦を負傷で辞退するなど、オールスターゲームは縁遠いものであった。シーズン途中に真田裕貴(巨人が寺原の交渉権を獲得できなかったことによる外れ1位)が入団したため、寺原、秦裕二と共に2001年のドラフト1位指名選手が同チームに3人いるという珍事が起きた。

2009年からは再び先発に復帰したが、2度の怪我に泣いて13試合の登板で2勝に終わる。2010年3月9日、登録名を「寺原 早人」に変更することが発表された[2]5月4日の対広島戦で右肘に違和感を覚え降板。その後戦線離脱し復帰後は右肩を痛め戦線離脱した牛田成樹の代役セットアッパーを務めたが、打ち込まれたり、故障再発で戦線離脱の繰り返しで20試合の登板で4勝に終わった。2010年12月5日高宮和也と共に山本省吾喜田剛との交換トレードでオリックス・バファローズへ移籍。登録名を「寺原 隼人」、背番号をダイエー・ソフトバンク在籍時代の「20」に戻し、およそ5年ぶりにパシフィック・リーグのチームに復帰した。

オリックス時代[編集]

オリックス時代

2011年は、開幕2戦目である4月13日の対ソフトバンク戦の先発を任され、古巣相手に2007年以来の完封勝利を飾った[3]。 春先は好投とKOを繰り返していたが、5月23日の巨人戦からは7連勝。この試合では、8回まで1失点に抑えると、9回表2死無走者の自身の打席で、粘りを見せて越智大祐から執念で四球を選んで出塁。その後山崎浩司の3ランが飛び出し、その裏を無失点に抑えて1失点完投勝利を収め、自身にとって初の巨人戦勝利となった。また、巨人同様に横浜時代全く勝てなかった阪神戦も、6月6日の対戦で完投勝利を挙げて対阪神初白星を収めた。これにより近鉄を含む12球団勝利を達成し、東北楽天ゴールデンイーグルスから勝利すれば工藤公康以来、史上2人目となる13球団勝利も見えたがこの年の楽天戦に2戦登板するも勝ち星はつかず、記録は来シーズンに持ち越しとなった。オールスターゲームの初戦(7月22日ナゴヤドーム)にて初先発し、3回を被安打1、自責点0で敢闘選手賞に選ばれた。7月29日埼玉西武ライオンズ戦で10勝目を挙げたが、右肘の違和感を訴え8月4日に登録抹消。8月14日に復帰したが、序盤に失点するケースが多く、復帰後は2勝5敗とやや苦闘した。しかし、最終的には12勝10敗、防御率3.06の成績を収め、チームの勝ち頭となり、4年ぶりの2桁勝利を挙げた。

2012年は開幕第3戦で先発を任されたが、その後腰痛を発症したため4月7日に登録抹消。5月4日に一軍復帰を果たし、5月26日の対広島戦で7回無失点の好投でシーズン初勝利。その後も6月30日の対ロッテ戦で完封勝利をあげる等、先発ローテーションの一角を担いまずまずの投球をしてきたが、8月25日に右肘に張りを訴えて登録抹消。この年は故障の影響で16試合の先発に終わり、6勝8敗、防御率3.92の成績を残した。12月4日に、行使した国内FA(フリーエージェント)権で、古巣の福岡ソフトバンクホークスに移籍した。背番号は、前年のFAで西武からソフトバンクに移籍した帆足和幸が1シーズンのみ着用していた「11」になった。なお帆足は、西武時代の「47」に戻った。

ソフトバンク復帰[編集]

2013年は、そこそこの働きはしたが、成績は以前よりもさらに低下した。2014年シーズンから、背番号をかつて付けていた「20」に戻した。

プレースタイル[編集]

高めのスリークォーターから平均球速146km/h[4]、最速157km/hのストレートとシュートカットボールに近い高速スライダーを軸に、最速132km/hでやや斜めに割れる高速カーブフォークボールを投げ分け、打たせて取るピッチングスタイルである。

人物[編集]

2002年から2004年まで福岡ドームなどでチキン南蛮をメインにしたノリ弁タイプの「寺原弁当」と丼タイプの「寺原どん」が販売されていたが、好きな食べ物は地元・宮崎県名物のチキン南蛮。プロレスファンでもある。好きなプロレスラーは武藤敬司。嫌いな動物はカエル。ホークス入団直後に出演した福岡のテレビ番組で「5勝できなかったらカエルを食べる」という罰ゲームを課せられた(結局5勝はクリアしたため事無きを得る)[誰によって?]

特技はデッサン。「野球より絵の才能のほうがあるじゃないか」とチームメイトから言われていた、と本人の弁。2003年オフに日本テレビの番組にて腕前を披露している[出典無効]水島新司の漫画「ドカベン プロ野球編」では、実在選手としては唯一、裏表紙に描かれたことがある(44巻)。

家族・交友関係[編集]

家族は夫人と一男一女。愛妻家の子煩悩として知られている。夫人は高校時代の後輩にあたり、寺原が甲子園で注目を浴びる前より交際していた。プロ入り後は福岡 - 宮崎間で遠距離恋愛しており、電話は必要不可欠なものだった。元々ファンには快く応対していたが、期待された結果が付いてこないことから、辛辣な言葉を浴びせるファンをいつしか敬遠するようになっていたが、当時交際中だった夫人に「ファンは大切にしてほしい」という言葉を受け、それ以降はファンから求められる写真や握手やサインには積極的・謙虚な態度で応じるようになっている。その後もプロで伸び悩み苦しんでいた寺原を励ましたり、叱咤するなど陰ながら支えている。2006年オフの突然のトレードでは、戸惑っていた寺原を勇気付ける言葉で後押しし、家族揃って横浜に転居している。

4人兄弟の二男で6歳上の兄と3歳上の姉、10歳下の弟がいる。弟も野球をしており、福岡ソフトバンクホークスの二軍の試合で始球式を行ったことがある。弟の野球用具は寺原が惜しみなく買い与えているとのこと。現在は兄と同じ日南学園高校に所属する左腕投手で第93回全国高等学校野球選手権大会に出場した。また同級生にはかつてのチームメイトだった井手正太郎の弟も所属している[5]。姉は宮崎県の空手道の名門高校(宮崎第一高校)に進学し1年生からレギュラーを勝ち取った腕前。

ソフトバンク時代、新垣渚和田毅は寺原に先発の5番手の枠に居座る活躍を望んでいたようで常に気にかけていた。特に新垣とは公私にわたる付き合いで、積極的に練習に付き合ってもらったり、食事や買い物に誘うなど面倒を見てもらっていた。2006年オフ、横浜へのトレードが決まった日の会見で気丈に受け答えし、トレードを前向きに捉えていたが、兄貴分の新垣に対して複雑な胸の内を語り、落ち込んでいた様子を九州ローカルの番組で明かされた。新垣自身もこのトレードに関してショックであることを語っていたが、現在は寺原に電話などで激励を続けており、師弟関係は継続中である。元チームメートで同級生の神内靖とは高校時代からのライバルでお互いに意識し競い合える間柄と認め合っており、神内は寺原のトレード移籍に関して、「これからも一緒にやっていけると思っていただけに残念」とコメントした。[6]

ソフトバンク時代にバッテリーを組んだ城島健司とは、自主トレ仲間で釣りの師弟関係。毎年オフは釣りと城島の実家がある長崎県佐世保市で練習を行うのが恒例であった。2010年からは同じく釣り仲間である馬原孝浩が開いている合同自主トレに参加している。2013年初春の合同自主トレ中に、2012年オフの自身のFA移籍に伴う人的保障が馬原であることが発表されたことで、動揺する寺原だったが、馬原に労われたことで、古巣での活躍を新たに誓った。 2013年からチームメイトになった攝津正は、釣りと上記の馬原の合同自主トレで、移籍前から交流がある。

横浜移籍後にプロ初安打を放った時の相手・藤井秀悟とは、2001年の野球W杯の台北遠征でお揃いのTシャツを購入するほどの仲である。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
2002 ダイエー
ソフトバンク
14 7 0 0 0 6 2 1 -- .750 237 57.2 53 5 15 0 1 41 4 0 24 23 3.59 1.18
2003 18 16 1 0 0 7 5 0 -- .583 417 92.0 95 12 47 0 5 60 1 0 59 56 5.48 1.54
2004 6 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 41 8.1 13 4 5 0 0 7 0 0 7 7 7.56 2.16
2005 2 1 0 0 0 0 0 0 0 ---- 19 4.0 6 1 1 0 0 2 0 0 4 4 9.00 1.75
2006 16 15 2 1 0 3 7 0 0 .300 335 76.2 90 6 19 0 2 35 4 0 43 36 4.23 1.42
2007 横浜 27 27 4 2 1 12 12 0 0 .500 762 184.2 171 20 46 0 4 163 7 0 78 69 3.36 1.18
2008 41 4 0 0 0 3 9 22 1 .250 282 71.0 57 4 12 0 2 66 4 0 26 26 3.29 0.97
2009 13 13 2 0 0 2 7 0 0 .222 362 83.0 89 8 23 1 1 77 4 1 43 36 3.90 1.35
2010 20 7 0 0 0 4 3 0 0 .571 237 54.0 54 5 24 1 1 42 4 0 25 22 3.67 1.44
2011 オリックス 25 25 7 3 1 12 10 0 0 .545 705 170.1 162 4 43 0 3 112 7 2 67 58 3.06 1.20
2012 16 16 1 1 0 6 8 0 0 .429 441 101.0 114 7 31 0 3 61 6 0 49 44 3.92 1.44
2013 ソフトバンク 16 16 2 0 0 4 7 0 0 .364 398 93.0 97 9 30 0 1 56 5 0 51 48 4.65 1.37
通算:12年 214 148 19 7 2 59 70 23 1 .457 4236 995.2 1001 85 296 2 23 722 46 3 476 429 3.88 1.30
  • 2013年度シーズン終了時
  • ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更

表彰[編集]

記録[編集]

投手記録
打撃記録
節目の記録
  • 1000投球回:2014年4月2日、対北海道日本ハムファイターズ2回戦(福岡 ヤフオク!ドーム)、4回表1死目に大引啓次の盗塁死で達成 ※史上336人目
その他の記録

背番号[編集]

  • 20 (2002年 - 2006年、2011年 - 2012年、2014年 -)
  • 24 (2007年 - 2010年)
  • 11 (2013年)

登録名[編集]

  • 寺原 隼人(てらはら はやと)(2002年 - 2009年、2011年 - )
  • 寺原 早人(てらはら はやと)(2010年)

登場曲[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ その時の優勝チームは、後に同期でプロ入りすることとなる北野良栄が主将をしていた星稜中学校であった。
  2. ^ 2010年度 登録名および投打変更のお知らせ [リンク切れ]
  3. ^ 寺原が4季ぶり完封勝利 スンちゃんダメ押し3ラン - スポーツニッポン(2011年4月13日)
  4. ^ 『2012プロ野球オール写真選手名鑑』 日本スポーツ企画出版社、2012年、53頁。ISBN 978-4-905411-04-8
  5. ^ 日南学園・寺原&井手 兄の8強超えるぞ - 日刊スポーツ(2011年8月6日)
  6. ^ なお、神内は多村仁志吉村裕基を含む大型トレードによって、すれ違いで2013年より横浜DeNAベイスターズへ移籍している。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]