寺原隼人

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寺原 隼人
福岡ソフトバンクホークス #20
HAWKS11-TERAHARA.jpg
2013年4月24日 福岡ヤフオク!ドーム
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮崎県宮崎市
生年月日 1983年10月9日(31歳)
身長
体重
180 cm
86 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 2001年 ドラフト1巡目
初出場 2002年4月16日
年俸 4,500万円(2015年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

寺原 隼人(てらはら はやと、1983年10月9日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手投手)。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

1983年10月9日宮崎市で生まれた[1]。職場で野球をやっていた父や6歳上の兄の影響で宮崎市立本郷小学校3年生の時に軟式野球のワールドボーイに入団して野球を始めて小学校5年生になると6年生を押しのけてエースとなった[2][3]宮崎市立赤江東中学校では軟式野球部に入り、1年目は制球難を克服するため下半身を鍛え、2年秋には宮崎県大会決勝戦で完封勝利を果たした[4]。3年夏には4番・エースとして県大会で優勝し[5][6]、九州大会でも2位となって宮崎県勢15年ぶりの全国大会に出場となったが、初戦で東海代表の長泉北中に敗れた[7][8]

日南学園高等学校では入学時に球速135km/hを超えていた。1年春の九州大会では対瓊浦高等学校戦で中継ぎ登板したが2回3失点のデビューだった[8]。甲子園を目指すため小川茂仁監督の下でアーム式の投法から肘を上げるフォームへの変更に取り組んだ。2年夏には最速140km/h台となったが夏の県大会では準決勝で宮崎日大に敗れて敗退[9]、2年秋の県大会は優勝し、九州大会では最速147km/hを記録したが準々決勝で神崎高校に1対4で敗れた[10][11]。この頃急激な成長に捕手が追いつけずバッテリーエラーを繰り返していた。

2001年、3年春から捕球の巧い中原幸広捕手に変更し、春の県大会では準決勝の対延岡学園戦で後の同僚・神内靖と投げ合い球速153km/hを記録した[12]。決勝戦は2安打に抑えながらも1対2で宮崎日大に破れた[11]。6月にサンマリンスタジアム宮崎で行われた市立船橋との練習試合で当時の高校生最高球速となる155km/hを記録した[12]。3年夏の県大会[13]の3回戦(7月18日・対日南振徳商戦)では新たに覚えた120km/h後半の高速カーブを交えて15奪三振でノーヒットノーランを達成した[11]。決勝戦では9回3失点の完投勝利で宮崎日大を破って3年ぶり3度目の甲子園出場に導いた[14]。同級生の井手正太郎も3番打者で同大会7打点と寺原を支えた。

8月7日に右手中指の靭帯炎症がで練習を中断していたが[15]第83回全国高等学校野球選手権大会は8月11日の四日市工との1回戦では先発して8回を1失点に抑え、ニューヨーク・メッツスカウトのスピードガンで初球に153km/h、22球目に155km/hを計測したがテレビ中継画面の表示は甲子園タイ記録の151km/hだった[16]8月16日岡山県立玉野光南高等学校との2回戦では前夜に発熱していたものの同点の5回裏から登板し、2イニング目の6回にアトランタ・ブレーブススカウトのスピードガンで157.68km/h(98マイル)を計測、テレビ中継では154km/hと表示され当時の甲子園記録を塗り替え、6イニングを3失点にまとめて延長戦で勝利した[17]。8月17日に大阪市内の病院で点滴を受けブルペン待機となったが、チームは20安打15得点の完封リレーで3回戦を突破した[18]。8月19日に行われた準々決勝の対横浜高校戦では最速150km/hは出たものの、2回以降の直球の約8割が130km/h台と苦しみ、同点で迎えた9回に3四球で満塁とした所で決勝打を浴びて敗れ、ベスト8に終わった[19]。翌日8月20日に大阪市内の病院で検査の結果、右足内転筋の肉離れと診断され[20]AAAアジア野球選手権大会日本高校選抜を辞退した[21]

台湾で行われた第34回IBAFワールドカップ日本代表として出場した。プロ・アマ合同の同大会で高校生が日本代表として選出されたのは史上初であった[22]。11月7日第1戦の対フィリピン戦では15点リードの5回から2番手で登板して2イニングを無失点4奪三振に抑えた[23]。11月13日に下痢と発熱で体調を崩したが[24]、11月14日第7戦の対オランダ戦では8回3点リードから2番手で登板し、8回はダーク・ファンクルースターの打球が右足首を直撃しながらも無失点で抑え、9回にライリー・レヒトに2点タイムリー打を浴びたが後続を断ってセーブを記録し、チームは予選リーグ全勝で終えた[25][26]ドラフト会議の為、3位決定戦を前に帰国した[22]

11月19日に行われた2001年のドラフト会議で、4球団(ダイエー中日巨人横浜)から1位指名を受けるが抽選の末、3番目に引いた王貞治が率いるダイエーが交渉権を獲得した[27][28]。なお、これまで王が4度引いたドラフトのくじで初めて交渉権を獲得した選手となった[29]。11月20日の指名挨拶には王と中内正オーナーが訪れ[30][31]、11月27日にダイエーへの入団を表明した[32]。12月4日に井手・神内らと共に入団会見を行い、背番号は20に決まった[33]。12月5日のメディカルチェックでは右肩の可動域の狭さを指摘された[34]

ダイエー・ソフトバンク時代[編集]

2002年

高知県での春季キャンプは「寺原フィーバー」で集客数を伸ばし[35]、10万9850人と球団史上過去最高(2002年当時)の集客数だった[36]。2月16日のシート打撃では島田誠守備走塁コーチに牽制時のクセを見破られて3盗塁を許した[37]。数日風邪による発熱で離脱したが[38]、紅白戦で無失点と結果を残し[39]、一軍のままキャンプを終えた。オープン戦は巨人戦登板と予告されるとチケットが球団史上最速の1時間30分で完売した[40]。しかしあまり結果が出ず[41][42]、投球フォームなどにも課題があり[43][44]、開幕は二軍で迎えた。 また、3月のオープン戦期間中に岡本克道永井智浩に連れられキャバクラ飲酒し球団から厳重注意処分を受けた[45][46]

4月16日に一軍選手登録されて同日の対日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)で先発してプロ初登板を果たした。3回に井出竜也に先制ソロ本塁打を浴び、6回に逆転したその裏に捕まり5回0/3を投げ4失点のデビューだった[47][48]。4月28日の対オリックス・ブルーウェーブ戦で本拠地・福岡ドーム初先発を果たすと、4回までパーフェクトの6イニング3安打無失点、7奪三振の好投でプロ初勝利を挙げた[49][50]。5月12日の対千葉ロッテマリーンズ戦では6番手として9回7点ビハインドから初のリリーフ登板だったが1イニングを3人で抑えた[51]。5月15日には台北市立天母棒球場での海外公式戦でも4番手で2イニングを無失点に抑えた[52]。5月29日にはプロ入り前から比較された西武ライオンズ松坂大輔との初対決も制して3勝目を挙げた[53]。しかし続く6月6日の対オリックス戦で2回1/3の最短KOを喫し、6月11日の試合前練習で左太もも裏に違和感を覚えて6月13日に登録抹消[54]、7月30日に再昇格すると、負ければ借金突入という同日の対オリックス戦で試合を作ってチームの連敗を止めた[55]。これまでは城島健司とバッテリーを組んでいたが同試合では田口昌徳が先発マスクを被った。8月2日の投球練習中に右内転筋を傷めて8月4日に抹消されたが[54]、9月27日に再昇格して以降はリリーフとなった。9月29日の対西武戦では7回同点の場面から4イニングを無失点に抑えて初の救援勝利・サヨナラ勝利で5勝目を挙げた[56]。10月2日の対オリックス戦では4回2点リード一死一塁から3イニングを無失点で切り抜けて6勝目を挙げ、これはドラフト制導入後の1984年南海ホークス加藤伸一がマークした高卒新人最多勝利を塗り替えて球団新記録となった[57]。10月6日の対千葉ロッテ戦・秋山幸二の引退試合で7回5点リードから登板して3イニングを1失点にまとめてプロ初セーブを記録した[58][59]。1年目は先発7試合で3勝2敗、防御率4.28、QS率57.1パーセント、中継ぎ7試合では2勝0敗1S、防御率2.04、WHIP1.13だった。10月9日のメディカルチェックで右肩炎症が発覚して秋季キャンプの11月2日まで投球を控え、11月10日のパ・リーグオールスター東西対抗で西軍の先発として実戦復帰した[54][60][61]

2003年

春季キャンプからオープン戦まで投球フォームが固まらずに出遅れたが、4月2日に一軍へ昇格して開幕6枚目の先発として同日の対大阪近鉄バファローズ戦に先発して7回途中2失点の好投で開幕5連勝していた近鉄に勝利した[62]。4月18日の対近鉄戦では9回を4安打2失点に抑えてプロ初完投勝利を果たし、これで1977年南海以来・ダイエーとしては初となるチーム4試合連続完投勝利を達成した[63][64]。6月15日の対近鉄戦で先発したが右肩違和感により5回1失点で降板 [54]、開幕から10試合で無傷の先発6連勝を記録したものの、翌日6月16日に福岡市内の病院で右肩関節炎と診断され、6月17日に登録を抹消された[65]。7月11日に再昇格して7月23日の対日本ハム戦で先発したが4回途中でKOされ、2年間の本拠地「福岡ドーム不敗神話」が崩れた[66]。8月1日の対オリックス戦ではチームが29得点を挙げて得点・得点差ともにパ・リーグ新記録を打ち立てたが、自身は8回25点リードから2番手で登板して9回に代打・副島孔太にタイムリー打を浴びて唯一の失点を許した[67][68]。先発3連敗を喫していたが8月22日の対千葉ロッテ戦では制球に苦しみながらも自己最多となる7勝目を挙げた[69]。8月29日の対千葉ロッテ戦で先発したが1回1/3で4失点と最短KOを更新し、点灯していた2度目の優勝マジックを消滅させた[70]。続く9月7日の対西武戦では9回4点ビハインドの場面から登板した直後に5連打3失点を喫して一死も取れずに降板させられ[71][72]、翌日9月8日に二軍へ降格した。二軍で結果を出して9月28日の対近鉄戦で登板したがまたも2回途中KOでレギュラーシーズンを終えた[73]日本シリーズではベンチ入りしたものの登板は無かったが、オフには日本代表との壮行試合や台湾選抜との親善試合に登板した[74][75]

また同年8月に米国で公開されたアメリカ警察特殊部隊を題材とした映画『S.W.A.T.』になぞらえて球団広報により斉藤和巳Saitoh)、和田毅Wada)、新垣渚Arakaki)、寺原(Terahara)の若手4投手のローマ字頭文字を取って「SWAT」というグループが結成されてグッズが販売された[76][77]。オフの12月8日に高校の1年後輩の女性と入籍した[78][79]

2004年

教育リーグの最終テストで開幕ローテ枠には入ったものの[80]、開幕5戦目となる3月31日の対西武戦で初回・2回と満塁のピンチを作ったため王監督により自己ワーストタイの1回1/3で降板させられ[81]、翌日4月1日に二軍降格し、以降二軍のローテーションへ入った。7月19日にようやく一軍に昇格して7月24日の試合で8回3点ビハインドから2回を無失点に抑えたが、以後の中継ぎ登板4試合で4試合連続ホームランを浴び、先発の機会を得る前に8月11日に二軍降格となりそのままシーズンを終えた。二軍ではウエスタン・リーグ2位の防御率[82]、1位の奪三振数を記録した[83]。二軍先発15試合で5勝5敗、防御率2.84、中継ぎ4試合で0勝2敗、防御率9.00だった。秋季キャンプはB組となり杉本正二軍投手コーチの下でフォーム固めに取り組んだ[84]

2005年

春季キャンプでは尾花高夫投手コーチの下でテークバックで昨年よりも肘を上げるフォームへ改造した[85]韓国ロッテ東京ヤクルトスワローズ広島二軍と先発無失点を続けていたが最終テストで炎上し[86]、開幕ローテから漏れた。二軍公式戦では先発で4連敗するなど調子が上がらず、5月22日に昇格して同日の対阪神タイガース戦に先発したが3回でKOされた[87][88]。続く5月27日に中継ぎ登板で1イニングを3者凡退に抑えたが、馬原孝浩の一軍復帰により6月3日に二軍降格となった[89]。降格後は二軍の先発として調子を上げ4試合連続で好投していたが、7月5日の試合で3回KOされ、7月15日に西戸崎室内練習場での練習中にノックのボールを踏んで左足首を痛め、同日福岡市内の病院で検査の結果、左足首靭帯の断裂と診断され[90]、7月22日に福岡市内の病院で縫合手術を受けた[91]。秋季キャンプから小久保裕紀の個人トレーナーだった山尾伸一と個人契約を結んで肉体改造を行った[92]

2006年

4月13日に一軍へ昇格すると同日の対千葉ロッテ戦で5回を1失点に抑えて965日ぶりの勝利を挙げた[93]。5月6日の対西武戦で完投勝利したが、交流戦で3連敗して5月28日に二軍降格となった[94]。6月28日に昇格すると準本拠地・北九州市民球場で初先発し、4回まで1安打無失点と抑えたが、5回先頭から3安打と崩れて3点目を奪われた所で降板となった[95]。7月16日の対日本ハム戦(福岡 Yahoo! JAPANドーム)では初回に3連続四球があったものの9イニングを2安打に抑えてプロ入り初完封勝利を挙げ、病床の王監督から祝福の電話を受けた[96][97]。8月5日の対千葉ロッテ戦では初の10奪三振を記録した[98]。8月19日以降の先発で3試合連続5回持たず3連敗を喫して9月4日へ二軍降格となりそのままレギュラーシーズンを終えた。同年は城島健司の移籍により山崎勝己とのコンビで復活を果たしたが援護に恵まれない事も多く13試合で3勝5敗、的場直樹と組んだ2試合はいずれも5回持たずKOされ2敗だった。プレーオフでは虫垂炎で離脱した新垣渚に代わって、10月9日の第1ステージ第3戦で急遽先発して5回イニングを投げ3安打、中村剛也に許したソロ本塁打の1失点のみの好投でステージ突破に貢献した[99][100]

12月5日多村仁とのトレード横浜ベイスターズへの移籍した[101][102]

横浜時代[編集]

横浜時代(2007年9月15日)
勝利投手となり、ファンにハイタッチする。

12月7日に入団会見を行い[103][104]、12月15日に背番号が24に決まった[105]

2007年の横浜移籍後初となる春季キャンプ初日、選手の乗ったバスを先回りして出迎え、全員に挨拶して回った場面がテレビで紹介された。その返礼は2007年4月3日、移籍後初勝利の際に横浜投手陣による出迎えの拍手だった。5月10日の対東京ヤクルトスワローズ戦でプロ初安打(同時にプロ初打点)を放ち、移籍後初の完投勝利を記録。9月4日に初めて規定投球回に到達すると、9月15日には初の二桁勝利を記録。最終的にチーム最多の12勝、防御率3点台前半と活躍を見せた。

2008年3月28日の対阪神タイガース戦で、初の開幕投手を務める。その後、抑えに予定していたトラビス・ヒューズが不調なために抑えに抜擢され、4月27日の対広島東洋カープ戦では自身初となるセントラル・リーグでのセーブを記録。以降も抑えを務めたが、100敗の可能性すら囁かれる低迷状態に陥った横浜では抑え投手が登板するような展開に持ち込むことすら難しく、登板間隔が大きく空いた調整不足から打ち込まれる場面も見られ、9敗を喫して防御率3.29と、抑えとしては平凡なものに終わった。それでも22セーブ、WHIP0.97と低迷するチームの中で気を吐き、監督推薦でオールスターゲームに初出場を果たす。それまでは数度のフレッシュオールスター推薦を負傷で辞退するなど、オールスターゲームは縁遠いものであった。シーズン途中に真田裕貴(巨人が寺原の交渉権を獲得できなかったことによる外れ1位)が入団したため、寺原、秦裕二と共に2001年のドラフト1位指名選手が同チームに3人いるという珍事が起きた。

2009年からは再び先発に復帰したが、2度の怪我に泣いて13試合の登板で2勝に終わる。2010年3月9日、登録名を「寺原 早人」に変更することが発表された[106]5月4日の対広島戦で右肘に違和感を覚え降板。その後戦線離脱し復帰後は右肩を痛め戦線離脱した牛田成樹の代役セットアッパーを務めたが、打ち込まれたり、故障再発で戦線離脱の繰り返しで20試合の登板で4勝に終わった。2010年12月5日高宮和也と共に山本省吾喜田剛との交換トレードでオリックス・バファローズへ移籍。登録名を「寺原 隼人」、背番号をダイエー・ソフトバンク在籍時代の「20」に戻し、およそ5年ぶりにパシフィック・リーグのチームに復帰した。

オリックス時代[編集]

オリックス時代

2011年は、開幕2戦目である4月13日の対ソフトバンク戦の先発を任され、古巣相手に2007年以来の完封勝利を飾った[107]。 春先は好投とKOを繰り返していたが、5月23日の巨人戦からは7連勝。この試合では、8回まで1失点に抑えると、9回表2死無走者の自身の打席で、粘りを見せて越智大祐から執念で四球を選んで出塁。その後山崎浩司の3ランが飛び出し、その裏を無失点に抑えて1失点完投勝利を収め、自身にとって初の巨人戦勝利となった。また、巨人同様に横浜時代全く勝てなかった阪神戦も、6月6日の対戦で完投勝利を挙げて対阪神初白星を収めた。これにより近鉄を含む12球団勝利を達成し、東北楽天ゴールデンイーグルスから勝利すれば工藤公康以来、史上2人目となる13球団勝利も見えたがこの年の楽天戦に2戦登板するも勝ち星はつかず、記録は来シーズンに持ち越しとなった。オールスターゲームの初戦(7月22日ナゴヤドーム)にて初先発し、3回を被安打1、自責点0で敢闘選手賞に選ばれた。7月29日埼玉西武ライオンズ戦で10勝目を挙げたが、右肘の違和感を訴え8月4日に登録抹消。8月14日に復帰したが、序盤に失点するケースが多く、復帰後は2勝5敗とやや苦闘した。しかし、最終的には12勝10敗、防御率3.06の成績を収め、チームの勝ち頭となり、4年ぶりの2桁勝利を挙げた。

2012年は開幕第3戦で先発を任されたが、その後腰痛を発症したため4月7日に登録抹消。5月4日に一軍復帰を果たし、5月26日の対広島戦で7回無失点の好投でシーズン初勝利。その後も6月30日の対ロッテ戦で完封勝利をあげる等、先発ローテーションの一角を担いまずまずの投球をしてきたが、8月25日に右肘に張りを訴えて登録抹消。この年は故障の影響で16試合の先発に終わり、6勝8敗、防御率3.92の成績を残した。12月4日に、行使した国内FA(フリーエージェント)権で、古巣の福岡ソフトバンクホークスに移籍した。背番号は、前年のFAで西武からソフトバンクに移籍した帆足和幸が1シーズンのみ着用していた「11」になった。なお帆足は、西武時代の「47」に戻った。

ソフトバンク復帰[編集]

2013年は、16試合に登板したが4勝7敗に終わった。2014年シーズンから、背番号をかつて付けていた「20」に戻した。

プレースタイル[編集]

高めのスリークォーターから平均球速146km/h[108]、プロでの最速157km/h[109]のストレートが持ち味である。

球種はプロ1年目の時点でスライダー、高速カーブ(120km/h後半)、チェンジアップがあり[110]、チェンジアップは2001年のワールドカップで藤井秀悟から教わった[111]。2003年からスローカーブ(100km/h台)とカットボールを使用し始めた[112]。2004年は横滑りと大きく曲がる2種類のスライダーを使った[113]

投球フォーム[編集]

1年目は下半身の筋力不足から肩の開きも早かった[43]。自身のフォームを忘れやすく、2004年1月の和田毅との自主トレでは和田風のフォームへと変更してしまい[114]、春季キャンプで修正する事になった[115]。同年の秋季キャンプでも肩の開きは改善されず[116]、2005年の春季キャンプで尾花コーチから高校時代のフォームを見せられマンツーマンで修正に取り組み一旦は成果を上げたが[117]、二軍から戻ると重心の高いフォームとなりリリースポイントもバラバラになっていた[88]。2006年はキャッチボールの基本動作から矯正してスムーズな体重移動へと変わった[93]

またプロ1年目から牽制、一塁へのベースカバー、バント処理などのフィールディングが課題だった[118]

人物[編集]

中学校時代は大人しい性格を克服するために生徒会長に立候補し、文化祭ではバンドを組みドラムを担当した[16][4]

プロ1年目の高知キャンプでは302個(チーム1位)のバレンタインチョコが届いた[119][120]

2002年3月にウィズン(We'SN)から「寺原弁当」・「寺原どん」の2種類の弁当が発売された[121]

水島新司の漫画「ドカベン プロ野球編」では、実在選手としては唯一、裏表紙に描かれたことがある(同作44巻)。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
2002 ダイエー
ソフトバンク
14 7 0 0 0 6 2 1 -- .750 237 57.2 53 5 15 0 1 41 4 0 24 23 3.59 1.18
2003 18 16 1 0 0 7 5 0 -- .583 417 92.0 95 12 47 0 5 60 1 0 59 56 5.48 1.54
2004 6 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 41 8.1 13 4 5 0 0 7 0 0 7 7 7.56 2.16
2005 2 1 0 0 0 0 0 0 0 ---- 19 4.0 6 1 1 0 0 2 0 0 4 4 9.00 1.75
2006 16 15 2 1 0 3 7 0 0 .300 335 76.2 90 6 19 0 2 35 4 0 43 36 4.23 1.42
2007 横浜 27 27 4 2 1 12 12 0 0 .500 762 184.2 171 20 46 0 4 163 7 0 78 69 3.36 1.18
2008 41 4 0 0 0 3 9 22 1 .250 282 71.0 57 4 12 0 2 66 4 0 26 26 3.29 0.97
2009 13 13 2 0 0 2 7 0 0 .222 362 83.0 89 8 23 1 1 77 4 1 43 36 3.90 1.35
2010 20 7 0 0 0 4 3 0 0 .571 237 54.0 54 5 24 1 1 42 4 0 25 22 3.67 1.44
2011 オリックス 25 25 7 3 1 12 10 0 0 .545 705 170.1 162 4 43 0 3 112 7 2 67 58 3.06 1.20
2012 16 16 1 1 0 6 8 0 0 .429 441 101.0 114 7 31 0 3 61 6 0 49 44 3.92 1.44
2013 ソフトバンク 16 16 2 0 0 4 7 0 0 .364 398 93.0 97 9 30 0 1 56 5 0 51 48 4.65 1.37
2014 5 5 0 0 0 1 4 0 0 .200 116 27.2 26 8 11 0 2 14 0 0 17 15 4.88 1.34
通算:13年 219 153 19 7 2 60 74 23 1 .448 4352 1023.1 1027 93 307 2 25 736 46 3 493 444 3.90 1.30
  • 2014年度シーズン終了時
  • ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更

表彰[編集]

記録[編集]

投手記録
打撃記録
節目の記録
  • 1000投球回:2014年4月2日、対北海道日本ハムファイターズ2回戦(福岡 ヤフオク!ドーム)、4回表1死目に大引啓次の盗塁死で達成 ※史上336人目
その他の記録

背番号[編集]

  • 20 (2002年 - 2006年、2011年 - 2012年、2014年 -)
  • 24 (2007年 - 2010年)
  • 11 (2013年)

登録名[編集]

  • 寺原 隼人(てらはら はやと)(2002年 - 2009年、2011年 - )
  • 寺原 早人(てらはら はやと)(2010年)

登場曲[編集]

関連情報[編集]

CM[編集]

  • 宮崎市観光協会 (2002年6月、大阪地区、福岡、熊本、宮崎、鹿児島限定)[122][123]

脚注[編集]

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  1. ^ 1.ポジションはもちろん投手 兄の影響で小3から野球チーム 以来、道は“一筋” 2011年11月22日 西日本スポーツ新怪物伝説 寺原隼人
  2. ^ 夢の160キロへ 寺原ストーリー(1) 泣き声も“剛速球”な赤ん坊 日刊スポーツ九州
  3. ^ 夢の160キロへ 寺原ストーリー(2) 体格も技術も図抜けた小学生 日刊スポーツ九州
  4. ^ a b 夢の160キロへ 寺原ストーリー(3) 中学では生徒会長に 日刊スポーツ九州
  5. ^ 3.県大会V  仲間とのきずな深めた自主トレ 2011年11月24日 西日本スポーツ新怪物伝説 寺原隼人
  6. ^ 日南学園寺原・松坂超えだ 「進化」続ける155キロ右腕 2001年7月2日 日刊スポーツ九州
  7. ^ 4.宣言  甲子園目指し日南学園へ 2011年11月25日 西日本スポーツ新怪物伝説 寺原隼人
  8. ^ a b 夢の160キロへ 寺原ストーリー(4) 大きかった小川監督との出会い 日刊スポーツ九州
  9. ^ 日刊スポーツ・野球・第82回全国高校野球・地区予選・宮崎結果
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]