中嶋聡

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中嶋 聡
北海道日本ハムファイターズ 選手兼任コーチ #27
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 秋田県北秋田郡鷹巣町(現:北秋田市
生年月日 1969年3月27日(42歳)
身長
体重
182cm
82kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1986年 ドラフト3位
初出場 1987年10月18日
年俸 3,200万円(2011年)
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴
  • 北海道日本ハムファイターズ (2007 - )

中嶋 聡(なかじま さとし、1969年3月27日 - )は、北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手捕手2007年からバッテリーコーチ兼任)。以前の愛称は「サメ」、現在はファンから「コーチ」、「お父さん」などと呼ばれている。

妻はモデル中嶋愛。岳父は漫画家制野秀一

2011年現在、阪急ブレーブスに在籍した経験のある唯一の現役選手である。

目次

[編集] 経歴

[編集] 阪急〜オリックス時代

秋田県立鷹巣農林高校から、1986年のプロ野球ドラフト会議で阪急ブレーブスに3位指名され入団。

1988年10月23日、阪急としての西宮球場最終戦にて、ダメ押しとなる3ラン本塁打[1]を放ち、同郷である山田久志[2]の引退試合に花を添えた。

1989年に球団名がオリックス・ブレーブス[3]に変わってからは、正捕手だった藤田浩雅の不調により正捕手を獲得。球界随一の強肩もさることながら、優れた打撃センスも持ち合わせていたため、一時は「メジャーリーグに一番近い捕手」とまで言われた。四番打者を務めたこともある。しかし、90年代中盤あたりから徐々に打撃が低迷し、藤田とのトレードで読売ジャイアンツ(巨人)から移籍してきた高田誠三輪隆との併用となっていった。

1990年10月6日の対ロッテオリオンズ戦では、満塁インフィールドフライをわざと落球し併殺を狙ったが、逆にロッテに点を与えてしまった[4]

[編集] 西武・横浜時代

1997年オフ、フリーエージェント宣言し、メジャーリーグ挑戦を表明。アナハイム・エンゼルスの入団テストを受けたが、エンゼルス側がマイナー契約を提示したためメジャーリーグ移籍を断念し、西武ライオンズに移籍。正捕手の座に挑むも、長年西武一筋で信頼感のある伊東勤に勝つことは出来なかった。その後、1999年に入団した松坂大輔専用の捕手として起用されることが増えたが、打撃の低迷に加えて西武が若手捕手育成の方針を取ったため次第に出場機会が減少していった。

2000年和田一浩背番号を交換したが、中嶋によると「(当時の)背番号5は、捕手の番号でない様な気がするから」という理由により、当時は捕手登録ながら、既に外野手としての出場が多かった和田に持ちかけたものだという[5]。また、同年5月20日長野オリンピックスタジアムで初めて行われたプロ野球公式戦の対オリックス戦で、2回裏に同スタジアムの公式戦第1号本塁打を左翼スタンドに放っている(投手はテリー・ブロウズ)。

2002年には大半を二軍で過ごし、同年オフに石井義人細見和史との交換トレードで富岡久貴と共に横浜ベイスターズへ移籍。2003年開幕戦では先発マスクを被ったが、故障もあり結果を残せないままオフに金銭トレードで北海道日本ハムファイターズに移籍した。

[編集] 日本ハム時代

2004年9月、横浜球団のキャンペーンガールをしていたモデルの制野愛(現在は中嶋愛)と入籍。

2005年は当初3番手の控え捕手のはずだったが、正捕手高橋信二の度重なる故障と實松一成の不調もあり、捕手でチーム最多の出場機会を得た。

2006年は先発出場は僅か2試合と激減したが、ストッパー・マイケル中村との相性の良さから、試合後半を任される「抑え捕手」の地位を獲得。以後、マイケルが巨人へ移籍する2008年シーズン終了までマイケルの専属捕手のような状態だった。[6]結局、2006年は捕手としてはチーム最多の79試合に出場し、チームのリーグ優勝と日本シリーズ優勝に貢献した。また、6月19日の対阪神タイガース戦の試合前に行われたスピードガンコンテストで球速146km/hを叩き出し、中嶋より遥かに若い阪神・日本ハムの選手達を抑え優勝。強肩健在ぶりを大いにアピールした。[7]

2007年からは選手と一軍バッテリーコーチを兼任。以後は選手としての一軍登録抹消時はコーチ専任で一軍に帯同する事になる。開幕直後に一軍登録を抹消されるも、調子の上がらないマイケルをサポートするため再度昇格し、そのまま最後まで一軍で抑え捕手として活躍。この年唯一放った安打は、9月15日の対ソフトバンク戦で放ったダメ押しの3ランだった。2008年も、シーズン後半からではあるが再度一軍昇格し、抑え捕手を務めた。また、不調に陥った多田野数人をサポートするために、1試合のみではあるが2年ぶりに先発出場を果たした。

2009年大野奨太の入団とマイケルの巨人への移籍があって、捕手は鶴岡慎也と大野の併用が多くなったために出場機会がなかった。7月18日に一度登録されるも、試合の雨天中止により、出場しないまま登録抹消された。しかし大野がインフルエンザに感染したため8月16日に急遽一軍登録され、その日の対埼玉西武ライオンズ戦(札幌ドーム)の9回からマスクを被りシーズン初出場を果たした。また、8月21日の対福岡ソフトバンクホークス戦では、ダルビッシュ有の先発捕手として出場し、自身も1安打を放った。そして、同年の日本シリーズでもマスクを被った。同年オフの高木晃次の引退により、阪急ブレーブスでのプレー経験がある唯一の現役選手となった[8]

2010年4月2日に一軍登録され、西武1回戦(札幌ドーム)に7回途中から出場し、実働年数が24年となった。これは歴代3位タイで、捕手では野村克也南海ロッテ西武)の26年に次ぎ単独2位の年数である。4月23日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦では、カーライルの先発捕手として出場した。

2011年は鶴岡が開幕直前に離脱した事もあり、2007年以来4年ぶりに開幕戦から選手として一軍登録される。4月13日の西武2回戦(札幌ドーム)に9回表から出場、実働年数が25年となった。

2012年も選手兼任コーチとしての契約が決まった。

[編集] 人物

アマチュア球界でも中嶋の強肩は知れ渡っていて、古田敦也(当時トヨタ自動車硬式野球部)がプロ野球ドラフト会議の指名候補選手になった際、レギュラー獲りへの不安からか、地元球団ではあったが「中嶋選手のいるオリックスだけは遠慮したい」と語っていた。

星野伸之は120キロ台の速球と80キロ台のスローカーブを武器にする投手で、1990年9月20日の対日本ハム戦(東京ドーム)で星野の投じたすっぽ抜けたカーブを中嶋が右手で直接捕球し、星野を超える球速で返球したことで失笑が起こった。ベンチに帰り星野は「素手で取るなよ。ミットが動いてなかったぞ」と機嫌を悪くしていたが、中嶋は「ミットが届かなかったんです」と誤魔化し事態は収まった[9]

  • 星野は後に著書『真っ向勝負のスローカーブ』でこのときの“素手でキャッチ事件”を振り返り、“今となってはいい思い出である”と述べているほか、“中嶋はいい捕手だった”とも述べている。
  • この「素手キャッチ」は星野が投球練習をする時にもしばしば見られたことである。当時は「星野が中嶋に投げる球より、中嶋が星野に返す球の方が速い」とまで言われていた。

普段は近視のためコンタクトレンズを着用しているが、2005年シーズンの一時期だけ眼鏡を掛けてプレーしていた。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1987 阪急
オリックス
2 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
1988 74 145 135 7 24 8 1 2 40 14 1 1 3 2 3 0 2 34 1 .178 .204 .296 .501
1989 121 373 320 31 75 9 2 5 103 26 2 2 15 1 35 0 2 67 6 .234 .313 .322 .635
1990 95 318 286 46 81 9 4 12 134 39 8 2 8 2 19 0 3 62 4 .283 .332 .469 .801
1991 129 471 430 49 109 22 3 12 173 48 4 5 7 1 30 0 3 85 3 .253 .306 .402 .708
1992 115 408 342 44 85 13 0 6 116 33 5 4 16 5 37 2 8 68 15 .249 .332 .339 .671
1993 55 174 148 7 22 3 0 0 25 4 1 1 8 0 16 0 2 41 5 .149 .241 .169 .410
1994 37 107 94 11 30 6 0 4 48 19 0 0 2 2 9 0 0 23 2 .319 .371 .511 .882
1995 101 345 303 33 81 13 1 3 105 33 0 1 7 2 33 1 0 61 8 .267 .337 .347 .684
1996 98 292 257 17 57 6 1 1 68 24 1 0 12 3 18 0 2 59 4 .222 .275 .265 .540
1997 73 195 169 15 37 6 0 2 49 14 2 2 9 0 14 0 3 44 4 .219 .290 .290 .580
1998 西武 60 124 106 8 25 4 1 2 37 7 0 3 6 0 7 0 5 24 4 .236 .314 .349 .663
1999 72 193 155 10 30 4 0 0 34 16 2 1 12 5 20 0 1 31 8 .194 .282 .219 .501
2000 78 217 182 19 43 6 0 2 55 26 0 0 13 3 17 0 2 33 7 .236 .304 .302 .606
2001 65 154 123 7 25 6 0 1 34 14 0 1 15 2 14 1 0 34 4 .203 .281 .276 .557
2002 49 85 74 7 12 1 0 1 16 2 1 0 3 0 7 0 1 22 2 .162 .244 .216 .460
2003 横浜 19 60 56 4 12 1 0 0 13 3 0 0 1 0 2 0 1 10 2 .214 .254 .232 .486
2004 日本ハム 39 72 66 4 13 3 0 0 16 7 0 0 3 1 2 0 0 17 2 .197 .217 .242 .460
2005 79 186 171 8 32 4 0 1 39 11 0 0 7 1 7 0 0 38 4 .187 .218 .228 .446
2006 79 30 29 0 6 2 0 0 8 5 0 0 0 0 0 0 1 6 1 .207 .233 .276 .509
2007 60 15 15 1 1 0 0 1 4 3 0 0 0 0 0 0 0 5 0 .067 .067 .267 .333
2008 22 4 4 1 3 0 0 0 3 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .750 .750 .750 1.500
2009 3 4 3 1 1 0 0 0 1 0 0 1 1 0 0 0 0 1 0 .333 .333 .333 .667
2010 7 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
2011 10 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
通算:25年 1542 3975 3471 330 804 126 13 55 1121 349 27 24 148 30 290 4 36 767 86 .232 .295 .323 .618
  • 2011年度シーズン終了時
  • 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更

[編集] 表彰

[編集] 記録

初記録
節目の記録
その他記録

[編集] 背番号

  • 53 (1987年 - 1988年)
  • 27 (1989年 - 1997年、2011年 - )
  • 5 (1998年 - 1999年)
  • 22 (2000年 - 2002年)
  • 35 (2003年)
  • 32 (2004年 - 2010年)

[編集] 脚注

  1. ^ この本塁打が阪急球団最後の本塁打となった。
  2. ^ 山田の出身地・秋田県能代市は、中嶋の出身地・北秋田市と隣接している。
  3. ^ 1991年にオリックス・ブルーウェーブに名称変更。
  4. ^ インフィールドフライが宣告された時点で打者走者は自動的にアウトとなるため、他の走者はフォースの状態ではなくなる。よって、満塁の場面でも本塁に触れただけでは三塁走者をアウトには出来ない。同様のミスは、達川光男広島)も1991年に犯している。
  5. ^ベースボールマガジン』より。
  6. ^ 一例として、2007年9月24日の対福岡ソフトバンクホークス戦(札幌ドーム)の4-4で迎えた9回表二死、一打負け越しのピンチの場面で日本ハムはマイケルを起用した。しかし9回裏には打力のある捕手・高橋信二に打順が回るため、高橋はそのままにして中嶋が一球毎にベンチから高橋にサインを送った。結果はマイケルが打者1人を打ち取ってこのピンチを凌ぎ、予定通り高橋は次打席終了をもって中嶋と交代した。
  7. ^ 1995年のオールスターゲームでも146km/hを記録している。
  8. ^ ブレーブスと同じ1988年に球団を譲渡した南海ホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)に在籍していた選手は2010年に大道典嘉が引退し、一人もいなくなった。
  9. ^ 別冊宝島 プロ野球「絶対エース」の豪腕伝説より

[編集] 関連項目

個人用ツール
名前空間
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案内
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ツールボックス