黒田博樹

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黒田 博樹
Hiroki Kuroda
ロサンゼルス・ドジャース #18
投球する黒田(2008年)
基本情報
国籍 日本
出身地 大阪府大阪市住之江区
生年月日 1975年2月10日(34歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4cm
210 lb =約95.3kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1996年 ドラフト2位(逆指名)
初出場 NPB / 1997年4月25日
MLB / 2008年4月4日
年俸 $7,433,333[1](2008年)
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム 日本
五輪 2004年
オリンピック
男子 野球
2004 野球

黒田 博樹(くろだ ひろき、1975年2月10日 - )は、ロサンゼルス・ドジャースに所属するプロ野球選手投手)。

父は元プロ野球選手の黒田一博

目次

[編集] 持ち球

スライダーシュートカットボールツーシームフォークチェンジアップ(2009年、スプリングキャンプ)

[編集] 経歴

[編集] 日本

上宮高から専修大学へ進学。上宮高では控え投手だったが、大学にて力をつけエースに君臨。チームは4年生春から東都大学1部リーグに昇格する。同年から大学野球でのスピードガン場内表示が始まった神宮球場において、黒田は大学生で初めて球速150km/hを計時し注目を浴びた。1部リーグ通算6勝4敗。1996年ドラフト逆指名2位で広島東洋カープに入団。1999年シドニーで行われたインターコンチネンタル杯に日本代表として出場し韓国戦で勝利、台湾戦で完封勝利を収める。同年ドラフト逆指名1位の澤崎に遅れること3年、ついにカープの先発ローテに名を連ねる。

オールスターゲーム初出場の2001年より3年連続2ケタ勝利を達成、日本プロ野球を代表する本格派右腕に成長した。当時、同い年の読売ジャイアンツの主砲松井秀喜との互いに相譲らない力と力の真っ向勝負は名勝負となった。特に2002年9月7日東京ドームでの巨人 - 広島26回戦、8回2アウト一塁一打逆転という場面での11球勝負はテレビ解説者や当時の山本浩二監督もうなったほどの名勝負。結果はフォークのすっぽ抜けにタイミングが合わず見逃し三振。

2003年にはそれまでのエース・佐々岡真司に代わって開幕投手となる。2003年の前半は不調で勝てない時期が続いたが、後半から本来の調子を取り戻し、最終的に13勝を挙げた。同年のアテネオリンピック野球アジア予選、2004年のアテネオリンピックでは野球日本代表中継ぎとして2勝し、銅メダル獲得に貢献した。

2005年にはオールスターゲームにファン投票で選出され4年ぶりの出場果たし、リーグ最多勝利で初タイトルを獲得。タイトル料込みで年俸2億円に達する。

2006年の国別対抗戦WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)には広島から新井貴浩とともに選出され、岩村明憲福留孝介と共に「無名の注目選手」とされるも、2月24日の12球団選抜との練習試合で打球を右手に受け負傷。出場辞退を余儀なくされる。

同年はシーズン前半も不調だったが、オールスターゲーム出場直前の7月2日の中日戦からは負け無しの8連勝。7月の月間MVPをチームメイトの栗原健太とダブル受賞した。さらに8月の月間MVPも連続受賞し、球団史上初の2か月連続月間MVP受賞となった。この時、「広島カープの歴史に名前を残せて嬉しい」と発言、広島への強い愛着を伺わせた。しかし、シーズン終盤は右ひじを痛めて長期離脱。10月16日の中日戦で救援で復帰登板、プロ初セーブを記録した。この年、13勝6敗1S・防御率1.85で最優秀防御率のタイトルを獲得。1点台でのタイトル獲得は1992年赤堀元之近鉄)以来、セリーグでは1989年斎藤雅樹以来の快挙となった(広島市民球場をホームとする投手の防御率1.85という数字は驚異的なものである)。この年はパリーグ斉藤和巳ソフトバンク)も防御率1.75と1点台でタイトルを獲得しており、セパ両リーグで1点台でのタイトル獲得は1969年江夏豊木樽正明まで遡る。また同年、スピードアップ賞を受賞。これはテンポのよい投球が評価されてのものだった。

2006年にFA権を取得するが、広島に残留。オフ、渡米しブラウン監督の奨めで右肘関節のクリーニング手術(数か月で投球可能となる軽い手術)を行った。

2007年も開幕投手となり、長谷川良平以来球団2人目の5年連続開幕投手となる。またデーゲームは大の得意で、2003年7月6日から2007年6月3日の楽天戦まで13連勝を記録した。2007年7月14日の東京ドームでの巨人戦にて通算100勝を達成した(ちなみにプロ初勝利も東京ドームでの巨人戦だった)。オールスターゲームに2度目のファン投票選出で4度目の出場。ただ、前年のオフの右肘手術の影響か、シーズン後半ではクオリティ・スタートすら守れない試合が続く等得意としているはずの夏場で、過去2年の黒田らしい試合を支配する投球が出来なかった。12勝8敗、防御率3.56と、大型契約の初年度としては物足りない成績に終わった。

[編集] アメリカ

2008年4月4日、サンディエゴ・パドレス戦でMLBデビュー、初勝利を収める[1]。6月6日にシカゴ・カブス戦でMLB初完封を記録[2]。7月7日にはドジャー・スタジアムアトランタ・ブレーブスを相手に9回1安打無四球完封勝利。7回終了時点までは完全試合の内容[3]で、最終的にも走者は8回に出した1人しか許さなかった。MLBにおいて新人投手が8回途中まで完全試合を続けるのは、1984年オーレル・ハーシハイザー以来初めて[4]で、もし完全試合を達成していれば、サンディ・コーファックスに次ぐドジャース史上2人目の快挙となるはずだった[5]。打線の援護に恵まれない機会が多く9勝10敗でシーズンを終了したが、より重要視されるQSWHIP防御率全てでリーグ20傑にランクインし、先発投手として高い評価を受けた。

2009年は実績が評価され、野茂松坂についで日本人史上3人目の開幕投手として4月6日に登板。チームは4-1で勝利し2003年の野茂以来となる勝利投手となった。

[編集] プレースタイル

現在のプロ野球を代表する先発完投型の本格派右腕である。完投の多さから「ミスター完投」の異名を持つ。一方で完封数は年に1回程度。11年間に74完投を記録しているが、完封に関しては14回に留まっている。

試合を作っても援護点に恵まれない投手としても有名であり、2005年シーズンには互いが完封リレーを行い0-0というスコアで引き分けてしまうという試合(4月15日対横浜戦、相手投手は三浦)もあった。また、味方が大量得点をとると急に打ち出される傾向も否めないので、接戦でこそ燃える投手の部類に入る。

松井との名勝負で巨人キラーとして名を上げ、実際巨人戦になると「燃える」というが、2005年の横浜・土肥義弘のように巨人打線と相性が合って得意にしているというタイプではなく、広島の好投手、全盛時の川口大野の系譜を継いでいる。最速157km/hのストレートに140km/h前半から後半を計測する高速フォークさらには130km/hから140km/hの高速スライダー、2005年からは150km/hを計測することもあるシュートを投げるようになった。江川卓が「調子がいい時の彼のストレートは、ど真ん中に放っても打たれない」と自著で評価したり、チームが完封された中日落合博満監督が「今日の(2006年7月2日、3安打完封)黒田はオレが現役の時でも打てない。だからウチの選手が打てる訳がない」と評した。

野手としての守備力も松坂大輔などに匹敵する評価を受けている。打撃は苦手分野であり、連続無安打の記録を作ったこともある。しかし1999年には甲子園での阪神戦で、満塁で決勝のセーフティバントを成功させたことがある。

[編集] 2006年FA去就

2006年5月31日にFA権を取得。本人は「これを機に他球団の評価も聞いてみたい」と語った。

父に「巨人にだけは負けてはならない」と言われ続けたこともあってか黒田本人は生来の巨人キラーであり、黒田自身も巨人戦に登板すると「燃える」としている。そのためポスティング移籍を希望していた松坂大輔井川慶の穴を埋める投手として、西武や阪神が積極的に触手を伸ばす。また、資金力が豊かなソフトバンクが積極的な獲得姿勢を示し、同年FA宣言した小笠原道大中心に動いていたが中日と巨人も意思は示したとされる。

広島球団はこれまで、年俸高騰の理由からFA権を行使しての残留を一切認めておらず(これはかつて同チームの主砲を務めていた金本知憲(現・阪神)本人から相当譲歩したFA残留条件に対しても例外ではなかった)、宣言選手は引き止めないという方針であった。しかし、脆弱な投手陣が下位低迷の大きな原因となっている中で、安定した成績を残している大黒柱の黒田が去る事になれば、チームにとっては死活問題になるため、今回ばかりは黒田が宣言をしても残留交渉に動くということで注目され「5年10億円」契約提案説などが出ていた。

10月15日、球団は「4年10億円+生涯保障、指導者手形」という条件を提示。本格的に何が何でも黒田を引き止める方針であることを明らかにした。年俸だけを単年ベースでみると、1年2億5000万円であり、2006年の年俸が2億円であることから、タイトル奪取などの活躍とFA宣言をもってしても5000万円のみの昇給で、以後3年は現状維持だが、カープで従来2億円超えを経験した選手は前田智徳金本知憲のみであり、破格の条件と言えた。そして2006年11月6日に4年契約12億円(基本年俸2億5000万円+単年最大5000万円の出来高込。当初の条件に出来高を上乗せしている)でFA宣言せずそのまま広島に残留することを表明した。

なおこの契約は、4年の契約期間内でも自由にメジャーリーグ挑戦できるようになっていた。また黒田は「今後も国内他球団の移籍はない」と明言して、国内なら「生涯広島」を宣言した。経営資源に劣る広島球団側にはじわじわと条件を上げつつ説得という選択肢しかなかったとは言え、経営健全化に取り組むチームが増える中でもとかくインフレ的条件の乱れ飛びがちなFA戦線にあって異色の結果となった。

FA権を行使せずに残留を決めたこと、残留会見での発言(「僕が他球団のユニフォームを着て、広島市民球場でカープのファン、カープの選手を相手にボールを投げるのが自分の中で想像がつかなかった」「僕をここまでの投手に育ててくれたのはカープ。そのチームを相手に僕が目一杯ボールを投げる自信が正直なかった」)は各方面に主に好意的な反響を呼んだ。また、2006年の選手会のベストエピソード賞に選ばれ、黒田の野球用具を担当するSSKは、社を挙げて黒田をキャンペーンすることを決定した。そして市民に感動を与えたことが評価され、広島市は「広島市民表彰」を黒田に授与すると発表した(球団4人目)。

2006年シーズン終盤、FA移籍の情報が各スポーツ紙を賑わせている真っ只中、長いカープの低迷と共にファンの熱も冷めてしまったと評されたファンが動き、完成させたのが広島市民球場外野席に突如現れた巨大横断幕である。それには多くのファンからのメッセージ、そして大きな文字で「我々は共に闘って来た 今までもこれからも… 未来へ輝くその日まで 君が涙を流すなら 君の涙になってやる Carpのエース 黒田博樹」と記されていた。さらに黒田のシーズン最終登板試合には満員のファンが黒田の背番号15の赤いプラカードを掲げ球場を赤色に染め上げた。「あのファンの気持ちは大きかった」と黒田も述べていた。この一連のエピソードは2007年7月に『誰がために〜黒田博樹物語〜』(漫画:吉原基貴、原案協力・取材:戸塚啓)として漫画化され、ヤングアニマル白泉社)に掲載された。

[編集] 2007年FA去就

2007年日本シリーズ終了後の10月18日、FA権を行使する事を明らかにした。MLB球団は以前から黒田をマークしており、特にテキサス・レンジャーズジョン・ダニエルズGMが興味を示した発言をしていた。シアトル・マリナーズ2006年オフ、松坂争奪戦に加わる様に見せて、黒田を水面下で狙っていたと言われている。2007年シーズン終盤に再び黒田のメジャー移籍がスポーツ紙で囁かれ始め、財政難の球団を助けるためポスティング制度による移籍を推測する声もあったが、結果、自分で自由に移籍先を選択できるFA宣言での移籍を選択した。

12月1日、鈴木清明球団本部長へ退団を申し入れ、メジャーリーグのチームへ移籍する事を明らかにした。その一方で記者会見では「評価されるのもカープのおかげで、また日本に帰ってプレーするならこのチームしかない」とも語っており、将来日本球界に復帰する場合は広島に戻ってくる事も示唆している。

12月15日、ロサンゼルス・ドジャースと3年3,530万ドルで契約を結んだことをAP通信が明らかにした。これにより、カープ初の日本人メジャーリーガー誕生となった。背番号は18(なお会見場で08番を着けていたがこれは18のユニフォームが間に合わなかったためであり、マイナー契約された日系アメリカ人ロバート・ブースが先に背番号08番を着けた)ドジャースから提示された条件は4年契約だったが、カープに復帰することも視野に入れた黒田は契約を3年に短縮することを球団側に申し出た。選手から契約短縮を申し出るのは異例である。

[編集] タイトル

[編集] 個人記録

[編集] エピソード

  • アメリカで常に広島カープの試合を細かくチェックしている。自宅ではカープの試合をインターネットで見られるように契約し、視聴も出来る環境にした。
  • アメリカに居ても、カープの広池浩司大竹寛、巨人(現オリオールズ)の上原浩治らと頻繁にメールを交わしている。
  • ドジャースの入団会見では、背番号は18に決まっていたが、作成に間に合わなかったため入団会見の背番号は08になっている。
  • 上記のFA去就の言動が好意的にとられていること。初のカープ出身メジャーリーガーということもあり、現在でも広島の地方ニュースやローカルのスポーツニュースでは黒田の登板試合は毎回報道されている。

[編集] 年度別投手成績

年度 球団








































1997年 広島 15 23 23 4 1 0 0 6 9 0 .400 601 135.0 147 17 63 4 64 8 1 72 66 4.27 4.40
1998年 18 6 0 0 0 3 1 4 0 .200 199 45.0 53 5 24 1 25 1 0 34 33 5.00 6.60
1999年 21 16 2 1 0 1 5 8 0 .385 406 87.2 106 20 39 3 55 4 0 70 66 5.68 6.78
2000年 29 21 7 1 0 3 9 6 0 .600 623 144.0 147 21 61 1 116 3 0 73 69 7.25 4.31
2001年 27 27 13 3 3 0 12 8 0 .600 786 190.0 175 19 45 8 146 7 0 72 64 6.92 3.03
2002年 23 23 8 2 1 0 10 10 0 .500 671 164.1 166 16 34 1 144 1 0 69 67 7.90 3.67
2003年 28 28 8 1 4 0 13 9 0 .591 827 205.2 197 18 45 3 137 5 1 77 71 6.01 3.11
2004年 21 21 7 1 1 0 7 9 0 .438 639 147.0 187 17 29 2 138 1 0 81 76 8.45 4.65
2005年 29 28 11 1 3 0 15 12 0 .556 852 212.2 183 17 42 7 165 7 0 76 75 7.00 3.17
2006年 26 25 7 2 3 1 13 6 1 .684 744 189.1 169 12 21 7 144 5 0 49 39 6.85 1.85
2007年 26 26 7 1 2 0 12 8 0 .600 738 179.2 176 20 42 5 123 1 0 78 71 6.18 3.56
2008年 LAD 18 31 31 2 2 2 0 9 10 0 .474 183.1 181 13 42 7 116 5 0 85 76 5.70 3.73
NPB:11年 271 244 74 14 17 8 103 89 1 .536 7086 1700.1 1706 182 445 42 1257 43 2 751 697 6.65 3.69
MLB:1年 31 31 2 2 2 0 9 10 0 .474 183.1 181 13 42 7 116 5 0 85 76 5.70 3.73
通算成績 302 275 76 16 19 8 112 99 1 .536 7086 1883.2 1887 195 487 49 1373 48 2 836 773 6.56 3.69

太字はリーグ最高。

[編集] ドラマ出演

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

[編集] 外部リンク

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