伊良部秀輝
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| ロングビーチ・アーマダ | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 兵庫県尼崎市 |
| 生年月日 | 1969年5月5日(40歳) |
| 身長 体重 |
193cm 108kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 投手 |
| プロ入り | 1987年 ドラフト1位 |
| 初出場 | NPB / 1988年5月7日 MLB / 1997年7月10日 |
| 最終出場 | 2004年6月11日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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伊良部 秀輝(いらぶ ひでき、1969年5月5日 - )は、アメリカ独立リーグ・ゴールデンベースボールリーグのロングビーチ・アーマダに所属するプロ野球選手(投手)。
千葉ロッテマリーンズ、ニューヨーク・ヤンキース、阪神タイガースなどでプレーした。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] プロ入り前
常光寺小、若草中学を卒業後香川県に引越し、尽誠学園高等学校に進学。1986年と1987年、夏の甲子園に出場。1学年下に在籍した横浜ベイスターズの佐伯貴弘は「(87年夏の甲子園出場経験は)伊良部さんに連れて行ってもらったようなもの」と感謝の意を示すコメントをしている。
その後、1987年のドラフトでロッテオリオンズから1位指名され入団。
[編集] プロ入り後
[編集] ロッテ時代
1年目から一軍のマウンドを経験。村田兆治、前田幸長と共にチームの弱小投手陣を支えた。
1993年、日本ハムファイターズの大沢啓二監督がマスコミ相手に「幕張の浜で伊良部クラゲに刺された、イテテテ…」と言ったことから「伊良部クラゲ」の異名がつく。同年5月3日、西武清原和博との対戦時に158km/hをマーク。そのボールを清原はファウルし、次の157km/hのボールを右中間に二塁打される。以後、清原和博との対決は「平成の名勝負」とうたわれる。
1994年、最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得。ボビー・バレンタイン監督時代の1995年にも小宮山悟、エリック・ヒルマンとともに先発投手陣三本柱として、チームの2位躍進に貢献。最優秀防御率と2年連続の最多奪三振のタイトルを獲得。1996年、2年連続で最優秀防御率、3年連続最多奪三振のタイトルを獲得。
1996年オフ、メジャーへの移籍希望を表明。近鉄を退団してドジャースに移籍した野茂英雄の活躍に触発されたことや、高校の時より世界最高と言われるメジャーリーグに憧れその舞台で自分の実力を果たしたいとの思いからメジャー移籍を希望した。ロッテを退団した理由は当時の広岡達朗GMとの確執だと言われていたが、実際のところ2人は仲が悪いわけではなく、むしろ親しい関係だった。伊良部の「(広岡の)オッサン」発言も、実は普段から広岡のことを「オッサン」と呼んでいただけにすぎないと言われている。(球界では監督や大先輩の事をオヤジ乃至はオッサンと呼ぶ事は通例である。)
伊良部は代理人団野村と共に、ニューヨーク・ヤンキースへの移籍を直訴するも、FAの権利を有していなかったため、球団側は保有権を主張し拒否。その後、球団側はパドレス球団に伊良部選手の保有権を永久的に譲渡するとの契約を交わした。それに対し伊良部側は、当時、日米のコミッショナー事務局の合意では、日本プロ野球選手が日本で任意引退した場合、MLBではFA選手として取り扱うとされていたので任意引退を希望、しかし球団側は任意引退にする事も拒否する。(野茂選手は近鉄を任意引退選手として退団しFA選手としてLAドジャースと契約した。)最終的に、一度パドレスにトレード後、更にヤンキースにトレード、という三角トレードで解決。この騒動が、日本球界における「ポスティングシステム」の確立に繋がることになる。
[編集] メジャーリーグ時代
1997年5月にヤンキースへ入団。1年目から期待通りの活躍をし、ジョージ・スタインブレナーオーナーから「和製ノーラン・ライアン」と称された。しかし、次第に成績が下降線になると、いつの間にか「太ったヒキガエル」、「IRABOO」(BOOとはブーイングの事)と罵倒された。めった打ちにされた試合でベンチへ戻る際に、ファンに唾をかけたことから「ビッグ・チャイルド」とまで言われる始末だった。しかし後年のインタビューで伊良部本人は、あれは審判に対してした事でファンに対してではないと語っている。3年間で29勝を挙げたにも関わらず、2005年12月18日『ニューヨーク・タイムズ』に「ヤンキースで活躍できなかった投手」のトップに挙げられた。
2年目の1998年にはシーズンを通してヤンキースのローテーションの一角を担い、13勝9敗という好成績を残してヤンキースのプレーオフ進出に貢献。プレーオフ、ワールドシリーズでの登板はなかったがチームは世界一となり、アジア選手として初めてチャンピオンリングを獲得。3年目の1999年には11勝7敗と2年連続2桁勝利を挙げた。
1999年オフ、エクスポズへトレードにより移籍。相次ぐ故障に泣かされ、2年間で2勝に終わり、自由契約に。その後、レンジャーズとマイナー契約を結び、メジャーに昇格後、クローザーとして活躍。3勝6敗16セーブとチームの戦力になっていた2002年7月に肺血栓が見つかり離脱。オフにレンジャーズを退団。
[編集] 阪神時代
2002年のオフ、「日本球界に復帰してもいい」という情報を掴んでいた阪神タイガースと交渉し入団。星野仙一監督(当時)は伊良部にクローザーを任せたかったが、本人が先発を希望したため、先発要員となる。
2003年は13勝を挙げ、阪神の18年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献。オールスター第二戦では古巣ロッテの本拠地千葉マリンスタジアムで好投するなど活躍。しかし、後半戦は球のキレが落ち、野手陣の故障もあって勝ち星は伸びなかった。9月15日の優勝決定日の試合も好投したが、サヨナラ勝ちの試合に途中降板したため勝利投手にはなっていない。日本シリーズでは第2戦と第6戦の2試合で先発するも、機動力抜群の福岡ダイエー(現福岡ソフトバンク)の前に翻弄され、全く活躍できなかった。
開幕早々に前年の日本シリーズで露呈した欠点を衝かれ、登板数は3試合のみ、防御率は13.11という不調もあって、オフに戦力外通告を受けた。
2005年3月上旬に、現役を引退。この事実が岡田彰布監督によって明らかにされたのは4月6日である。引退の原因は、持病のひざの痛みによるとのこと。
[編集] 引退後
現役引退後に再び渡米し、グリーンカード(外国人永久居住権)を取得して実業家に転身。高校時代の友人と共同で、カリフォルニア州ロサンゼルスでうどんのフランチャイズチェーン「SUPER UDON」を開業。当初は人気店だったが、土地所有者との賃貸契約が終了した為、閉店した。
2007年9月13日にTBSの番組「波瀾万丈ドキュメント 俺たちはプロ野球選手だった」で、アメリカでの悠々自適の生活が紹介された。過去の自分を振り返り、読書に親しむ姿や、アメリカのブックオフで星野監督の著作を買う姿、久しぶりにキャッチボールをし、相手に捕手役を頼んでマウンドから現役時代を彷彿とさせるフォームで投球練習をする姿などが見られた。2008年7月15日に放送されたJ SPORTS STADIUMの中継(千葉マリンスタジアムのロッテ対オリックス戦)にてゲスト解説を務め、久しぶりに日本のメディアに登場した。
2008年8月20日、大阪市北区のバーで、クレジットカードで支払いをしようとしたところ30分以上待たされスキミングされていると思い店長からカードを奪い返そうともみ合いになった。その際、ホステスが警察官を呼びに行き店長を暴行したとして現行犯で逮捕されたが、店長は暴行の事実を否定している。逮捕されたにも係わらず数時間の拘留で釈放された。(通常は48時間拘留)飲食代金は現金で支払った。後日、カード会社から数十万円の不正請求が来た。尚、同店は深夜営業にも係わらず女性を雇用し客に接客させ大阪の風俗営業の条例違反を同騒動で判明し直ぐに閉店した。10月16日に書類送検されたが、不起訴処分となった。
[編集] 現役復帰
2009年4月27日、アメリカ独立リーグ・ゴールデンベースボールリーグのロングビーチ・アーマダと契約(月給1,500ドル)。5年ぶりに現役に復帰した。
[編集] 日本最速投手の1人として
「日本プロ野球史上最速の投手は誰か」といった議論の際に、必ずといって良いほど名を挙げられる投手である。1993年の5月3日の西武戦で伊東と対戦した際の158km/hは日本人投手が日本国内の球場設置のスピードガンで計測したものとしては今なお最速のものである。ただし、スピードガンは国や球場、使っている球の種類よってバラつきが出る上、球速には公認記録や公式記録といった扱いはない。なお、他に投球がバットにあたらずに球場、テレビ設置のスピードガンが160km/h以上を記録したのは、NPBの選手ではマーク・クルーンが記録した162km/h、林昌勇の160km/h、日本国外での参考記録としては松坂大輔がアテネ五輪で記録した160km/h、ダルビッシュ有が2009 ワールド・ベースボール・クラシックで記録した161km/hがある。
日本では速球派の代表格であり、「イラブーくん」などのネーミングが付けられている速球マシンを置くバッティングセンターが現在でも多数存在している。
ただし、速球が武器であったがそれに頼る投球は年を重ねると共に変化していった。無骨に見えて理論派であり、その投球理論には球界を代表する技巧派投手・小宮山悟やコンディショニングの第一人者・立花龍司も舌を巻くほどと言われる。牛島和彦も「投球フォームの腕を上げる高さから足を下ろす位置、それによる球の軌道までをミリ単位といえる細やかさで考えているのが伊良部という投手」と語っている。
[編集] 人物
阪神在籍時には若手投手を積極的に指導するなど、親身になる人間のようである。井川慶を「野茂さん以来の天才」と評し、また下柳剛や広澤克実は「嫌な奴に見えるけど、こんなに面白くて良い奴はなかなかいない」と話している。ジーターは伊良部が逮捕された際、「あいつならいつかはやると思っていたんだよ」とあきれ顔で話していたという[1]。(左記報道は東京スポーツしか報道していない、尚、同社はヤンキースに記者を送っていない。) しかし、2009年のワールド・ベースボール・クラシックの準決勝が行われたドジャー・スタジアムで再会した際には、2人はネット越しに握手を交わし、和やかに談笑していた[2]。
打席ではゆったりと構えており、特に犠牲バントの際にはやる気のなさそうな様子で立っていたが、非常に成功率が高く、在籍当時の阪神では同い年の久慈照嘉と共にその上手さが際立っていた。また、バッティングもここぞという場面では優れており、高校時代は代打本塁打をしばしば放っていたという。
1999年にはメジャーリーグで開幕8連勝を挙げ、月間最優秀防御率で月間MVPにも輝いた。しかし後半戦は3勝7敗に終わった。
歌唱力は高く、2003年の阪神優勝時に選手会がチーム首脳陣を代表して星野監督を招いて大阪市内で開かれた宴席の席上、カラオケでアニメソングを歌ったところ、選手はおろか星野監督にまで大絶賛された。なお、宴席を終えた星野監督は曲目について、「それは言えない。言ったら殺されるぞ。」とコメントした。広澤克実は、自ら『元祖天才バカボン』を選曲し、伊良部を指名して歌わせたと後に語っている。
好物はプリンで、上に胡麻をかけて食べるのが好きらしい。これは若手投手にも勧めたという話もある。
漫画家・山上たつひこの代表作「がきデカ」の主人公、こまわり君に酷似していることでも知られ、彼に関する説明の際にしばしば引合いに出されることもある。
ボキャブラ天国で尾崎豊の「I LOVE YOU」を「あ、伊良部~」ともじったネタに映像出演した。
[編集] タイトル・表彰
- 最多勝:1994年
- 最多奪三振:1994年 - 1996年
- 最優秀防御率:1995年、1996年
- ベストナイン:1994年、1995年
- ア・リーグ月間MVP:1998年5月、1999年7月
[編集] 年度別投手成績
| 年度 | 所属 | 背番号 | 試合 | 投球回 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 勝率 | 奪三振 | 与四死球 | 被安打 | 自責点 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1988 | ロッテ | 18 | 14 | 39.1 | 2 | 5 | 1 | .286 | 21 | 18 | 30 | 17 | 3.89 |
| 1989 | 33 | 51.0 | 0 | 2 | 9 | .000 | 50 | 27 | 37 | 20 | 3.53 | ||
| 1990 | 34 | 123.2 | 8 | 5 | 0 | .615 | 102 | 72 | 110 | 52 | 3.78 | ||
| 1991 | 24 | 100.2 | 3 | 8 | 0 | .273 | 78 | 70 | 110 | 77 | 6.88 | ||
| 1992 | 28 | 77.0 | 0 | 5 | 0 | .000 | 55 | 37 | 78 | 33 | 3.86 | ||
| 1993 | 32 | 142.1 | 8 | 7 | 1 | .533 | 160 | 58 | 125 | 49 | 3.10 | ||
| 1994 | 27 | 207.1 | 15 | 10 | 0 | .600 | 239 | 94 | 170 | 70 | 3.04 | ||
| 1995 | 28 | 203.0 | 11 | 11 | 0 | .500 | 239 | 72 | 156 | 57 | 2.53 | ||
| 1996 | 23 | 157.1 | 12 | 6 | 0 | .667 | 167 | 59 | 108 | 42 | 2.40 | ||
| 1997 | NYY | 35 | 13 | 53.1 | 5 | 4 | 0 | .556 | 56 | 20 | 69 | 42 | 7.09 |
| 1998 | 29 | 173.0 | 13 | 9 | 0 | .591 | 126 | 76 | 148 | 78 | 4.06 | ||
| 1999 | 32 | 169.1 | 11 | 7 | 0 | .611 | 133 | 46 | 180 | 91 | 4.84 | ||
| 2000 | MON | 14 | 11 | 54.2 | 2 | 5 | 0 | .286 | 42 | 14 | 77 | 44 | 7.24 |
| 2001 | 3 | 16.2 | 0 | 2 | 0 | .000 | 18 | 3 | 22 | 9 | 4.86 | ||
| 2002 | TEX | 45 | 38 | 47.0 | 3 | 8 | 16 | .273 | 30 | 16 | 51 | 30 | 5.74 |
| 2003 | 阪神 | 41 | 27 | 173.0 | 13 | 8 | 0 | .619 | 164 | 47 | 186 | 74 | 3.85 |
| 2004 | 3 | 11.2 | 0 | 2 | 0 | .000 | 7 | 4 | 26 | 17 | 13.11 | ||
| NPB通算(11年) | 273 | 1286.1 | 72 | 69 | 11 | .511 | 1,282 | 558 | 1,136 | 508 | 3.55 | ||
| MLB通算(6年) | 126 | 514.0 | 34 | 35 | 16 | .493 | 405 | 175 | 547 | 294 | 5.15 | ||
- 太字はリーグ最優秀成績
[編集] 脚注
- ^ 【東京スポーツ 2008年8月21日 19面】
- ^ http://www.sanspo.com/baseball/news/090324/bsr0903240504006-n1.htm
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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