稲葉篤紀
| 北海道日本ハムファイターズ #41 | |
|---|---|
北京五輪での稲葉篤紀(2008年)
|
|
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 愛知県西春日井郡師勝町(現:北名古屋市) |
| 生年月日 | 1972年8月3日(39歳) |
| 身長 体重 |
185cm 94kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| ポジション | 外野手、一塁手 |
| プロ入り | 1994年 ドラフト3位 |
| 初出場 | 1995年6月21日 |
| 年俸 | 2億円+出来高(2012年) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
|
|
| 国際大会 | |
| 代表チーム | |
| 五輪 | 2008年 |
| WBC | 2009年 |
|
この表について
|
|
稲葉 篤紀(いなば あつのり、1972年8月3日 - )は、北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(外野手)。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] プロ入り前
愛知県北名古屋市(旧・西春日井郡師勝町)出身。右頬に特徴的な大きな痕があるが、自著によると原因不明とのことである。
少年時代から通っていた隣町の豊山町のバッティングセンターで、中学生にとっては速球といえる120km/h前後の球をポンポンと打ち返す同年代の左打者をよく見かけ、「すごいなあ」と感心していた。その打者は現在のイチローである。当時両者の間に会話こそなかったものの、野球界を代表する好打者二人が同じバッティングセンターに通っていたことになる。時を経て2009年のワールド・ベースボール・クラシックではチームメイトとなり、経験豊かなベテランである両者が日本代表をまとめ、優勝に貢献した。
中京高校(現・中京大学附属中京高等学校)3年夏の愛知大会決勝で、そのイチローのいた愛知工業大学名電高等学校に敗れた。卒業後は法政大学に進んだ。法政大では1年春から試合に出ており、先発出場時は中軸を打つこともあった。しかし、2学年上に当時四番を打つ鈴木秀範一塁手がおり、また、故障を抱えていたこともあり、一塁手に定着したのは3年春(1993年)からであった。特に2年春(1992年)は左翼手としての先発起用も検討されていた[1]が、故障のため不出場に終わった。法政大はこの1992年春のシーズンでは、最終カードである明治大学との直接対決で勝ち点を挙げた方が優勝という展開に持ち込んでおり、それだけに法政大のファンは稲葉の欠場を残念がった(結局、明治大が2勝1敗で法政大を下して完全優勝を果たした)。1993年(3年時)の春から一塁手としてレギュラーに定着。同年の第22回日米大学野球の代表に選ばれた。4年時には四番打者として法政大を秋季リーグ戦優勝に導いた。東京六大学野球の春季リーグでのベストナイン、第23回日米大学野球の代表にも選ばれた。リーグ通算成績は86試合出場、307打数86安打、打率.280、本塁打6、打点50であった。
1994年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズに3位指名され、入団した。当時のヤクルトの監督だった野村克也は、息子の野村克則(当時、明治大学3年)の試合を観戦した際に、対戦相手である法政大の稲葉のプレー(この試合で本塁打を放っている)を目にとめ「是非稲葉が欲しい」と獲得に至った。野村曰く、「後で聞いたらどこからも誘いはなかった」[2]、とする一方で、稲葉本人は「近鉄さんから指名される予定だった」と語っており、当時のドラフトではヤクルト→近鉄のウェーバー順だったので、ヤクルトが指名しなければもっと早い段階で梨田監督のもとで野球をしていたかもしれないとも語っている。[3]「枠が空いていたヤクルトが稲葉を指名することとなり、結果プロになりたかった稲葉は大変感謝していた」[4]。なお、法政大では経営学部で学んだが、単位不足で卒業はしていない。
[編集] ヤクルト時代
ヤクルトに入団後、外野手としての練習を始める。1年目の1995年から一軍で出場し、同年6月21日の対広島戦(広島市民球場)にて一塁手としてプロ初出場、初打席初本塁打を放ったほか、9月9日の対巨人戦(東京ドーム)ではテリー・ブロスのノーヒットノーラン達成を好捕で助けている。1996年からは中軸を打ち、守備力でもヤクルトの3度の日本シリーズ優勝に貢献した。1997年にはチーム2位の21本塁打を放ち、2001年には25本塁打、自己最多の90打点、OPS.912という成績を残して初のベストナインに選ばれ、2003年7月1日の対横浜15回戦(松本市野球場)では史上56人目のサイクルヒットを達成した。(後述)
しかし、1998年から2000年と2002年から2004年は度重なる怪我に苦しみ、不本意なシーズンが続いた。
2004年オフにフリーエージェント(FA)宣言。ピーター・グリーンバーグを代理人としメジャーリーグへの移籍を希望したがオファーがなく、一時はトライアウトを受けることも考えたが断念。翌年2月に北海道移転2年目となる北海道日本ハムファイターズへ移籍した。日本ハム球団は基本的にFA宣言選手の獲得には消極的であるため異例の入団となり、現在も稲葉は球団史上唯一のFA宣言による入団選手となっている。
当時の高田繁日本ハムGMが、「もし稲葉のメジャー移籍が叶わなかった場合は真っ先に入団交渉というつもりでいた」と語っていた。
[編集] 日本ハム時代
移籍初年度の2005年は主軸として127試合に出場、打率.271の成績を残した。この年のみ背番号は58。
2006年、背番号をヤクルト時代の41に変更。この年より日本ハム一軍打撃コーチに就任した淡口憲治の指導のもと長打力の強化に取り組み、自己2番目の打率.307、打点75と自己最多の26本塁打を記録、チームのリーグ優勝と日本シリーズ制覇に貢献、プレーオフでは斉藤和巳から優勝を決めるサヨナラタイムリー、日本シリーズではMVPを獲得するなど勝負強さを見せつけた。日本シリーズMVPにはスポンサーから賞品として自動車が贈呈されていたが、翌年から賞品が廃止されたため、最後の賞品獲得者となった。この年は主に五番打者を務めたが、秋のアジアシリーズではフェルナンド・セギノールの欠場により四番を打った。打撃ではヤクルト時代以来5年振りのベストナイン、守備面でも初ゴールデングラブ賞を受賞した。
2007年は3番に定着し、チームの主要打撃成績はリーグ最下位ながらも、自身は好調でオールスターゲームにも6年振りに出場。9月にはオリックス戦で5打数5安打や楽天戦9回田中将大から同点タイムリーなど目覚ましい活躍を見せ最終的には打率リーグトップだったリック・ショートの打率の追い越しプロ入り13年目にして初となる個人タイトル・首位打者(打率.334)、リーグ最多安打(176安打)を獲得、また得点圏打率では.350、リーグ3位の87打点、同3位のOPS.892を記録するなど球団初の連覇に貢献した。しかし、前年まで相性が良かった日本シリーズでは二塁打1本に終わるなど大不振だった。北京オリンピック野球アジア予選では7番ライトとして全試合出場し、韓国戦では8回に貴重なタイムリーヒット放つなど打率.500を残しオリンピック出場権獲得に貢献した。
2008年は、5月あたりから、臀部の痛みに苦しみながらもチームの主軸として出場し、2008年7月15日の楽天戦の9回に代打で出場し1500試合出場と1500安打を同時に達成した。北京オリンピック野球日本代表にも選ばれ、本戦では5番に座り、日本の4勝の内の2度の決勝打を放つなど活躍した。9月26日の西武戦の初回に通算200本塁打を達成した。打率は前年を下回ったが、2年ぶりの20本塁打を記録。しかしクライマックスシリーズでは、ふくらはぎの肉離れを起こしスタメン出場が2試合と、ほぼ1年間怪我に悩まされる年であった。シーズン途中に自身2度目のFA権を取得したが、契約交渉ではFA権を行使せず2年契約で更改した。
2009年、監督の梨田昌孝直々に主将の座に就くことを命じられた。第2回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出され、四番・指名打者や代打として9試合中8試合に出場した。成績は22打数7安打、打率.318。同大会の決勝戦の10回表には、先頭の内川聖一が安打で出塁した後、自身3年ぶりとなる犠牲バントを決めた。当大会では、イチローが不調であり日本代表選手メンバーの中では唯一の先輩であった稲葉がイチローが凡退した後に、ベンチで励ましの言葉を度々駆けていて、メンタル面でイチローを陰で支えていた。
シーズンでは、4月8日の対ロッテ戦(東京ドーム)で自身初となる3打席連続本塁打を放った。同じ日に金本知憲も3打席連続本塁打を放ち、複数の選手が3打席連続本塁打を同じ日に記録したのはプロ野球史上初となった。5月3日の対西武戦(札幌ドーム)で延長12回裏にヤクルト時代以来(8年ぶり)のサヨナラ本塁打を放ち、ヒーローインタビューで感極まり涙を流した[5]。5月25日に出身地の北名古屋市より市民栄誉賞が送られた。オールスターではファン投票両リーグトップの498,353票を集め、選手間投票では同じく両リーグトップの484票を集めた。8月16日の対西武戦9回裏に小野寺力から同点3ランを放つなど、チームを引っ張っていたがシーズン終盤やや調子を落とした。それでも最終的には打率3割でシーズンを終えた。四死球は自己最多の79で、出塁率はキャリアハイの.391をマークした。ベストナインとゴールデングラブ賞(外野手部門)を4年連続で受賞。
2010年は4月17日の対西武戦でヤクルト時代以来9年振りの逆転満塁本塁打を打ち、この日の先発で5失点のダルビッシュ有を救い、5月8日の対楽天戦でダルビッシュ有と岩隈久志による両投手が9回を無失点に抑えた投手戦の10回裏に、代わった小山伸一郎からサヨナラタイムリーを放つなど活躍する機会もあったが、5月まで打率.227、OPS.688と不振に陥り、一時は5年ぶりに7番で出場するなど苦しんでいた。6月以降は打率.316、OPS.870と本来の調子を戻して行ったが、シーズンを通しては5年振りに打率3割を切った。また、この年は高橋信二の頭部死球の影響による離脱や陽岱鋼の台頭によって一塁で34試合出場した。
2011年は肩を痛めた影響もあり、開幕戦を初のDHで迎えた。右翼手に陽岱鋼が定着したことから、指名打者に他の選手が入る際には主に一塁手として起用された。 打撃は開幕直後は好調を維持しており、5月28日の広島戦でデニス・サファテからサヨナラタイムリー放つなどしていたが、6月には月間打率.169に終わるなど不振に陥る。7月には月間MVPを獲得するなど調子が上向き、7月24日のオールスター第3戦では2ランホームランを含む3打点の活躍で初のMVPを獲得するなど活躍していたものの、シーズン終盤に再び不振に陥り、打撃三部門とも日本ハム移籍後では最低の数字に終わった。特に左投手に対し打率.211と苦しみ、スタメンを外れることもあった。また勝利打点が5位の12と奮闘した。
[編集] プレースタイル・人物
[編集] 打撃
打撃フォームは高校時代に1学年上の元木大介(当時上宮高等学校)のフォームを真似たもので、速球や横の変化球(スライダーやシュート)には横振りで対応し、落ちる変化球(フォークボールやカーブ、シンカー等)には縦振りで対応するという[要出典]。
規定打席に達したシーズンで6度の3割を記録し2007年には首位打者を獲得するなど巧打に長け、腕をコンパクトにたたんだ体に巻きつくようなスイングで内角を打つのがうまく[6][7]、2009年の日本シリーズ第2戦では解説の新庄剛志から「稲葉君は内角打ちの天才」と評された。ヤクルト時代にはストレートに滅法強く、変化球には弱かったが[要出典]、日本ハム移籍後は変化球に強くなり、2009年には曲がる系のボールに対して内角の打率.359、同じく真ん中で.568を誇った[6]。特にカーブを得意とし、2010年まで日本ハムで同僚だった森本稀哲曰く「世界一カーブが好きな男性」だという[8]。2008年にはボール球のスイング率12.3パーセント(リーグ平均26パーセント)を記録するなど選球眼にも優れ[9]、走塁面でも盗塁の試行数は少ないが、一塁到達3.96秒、三塁到達11.45秒を記録するなど全力疾走を怠らない[10]。
勝負強い打者であり、杉内俊哉、馬原孝浩、藤川球児など球界を代表する投手から評されている[要出典]。
[編集] 守備
外野手としての守備は、2006年から2009年までゴールデングラブ賞を4年連続で獲得している事からも分かる通り定評がある。最多補殺を3度記録していることから肩が強い印象があるが、遠投は80メートル程度であるという。本人は「もともと一塁手だった為、大きく腕を振ることができないが、ボールを捕ってから投げるまでが速いため強肩に見えるのではないか」と話している[11]。
ポジショニングも良く、2010年4月27日にはオリックス戦でライトに抜ける安打性の打球を素早く一塁に送球しライトゴロでアウトにした。打者だった塩崎真は「普通はあんな場所、守らない。安打1本、損した」と述べた(ただしこの場面は、オリックスがゲーム終盤に1点ビハインドの2死2塁だったため、外野手が前進守備を敷く体制を取るのは珍しい事ではない)。2006年8月13日のロッテ戦でライトフェンス上部に当たりそうな打球にもかかわらず、捕球の体勢を取って、二塁走者の西岡剛のスタートを遅らせて得点を阻止するトリックプレーを行った。
フィールディングも上手く、2011年6月6日の巨人戦では、阿部慎之助がライト戦に放った二塁打性の打球に対し、フェンスでのクッションボールを上手く利用し素早く内野に返球する事で、打者の二塁進出を躊躇させ、単打止まりにさせた[12]。
一塁手としての守備は、2010年より若手外野手の台頭と自身の年齢を考慮され、負担を少なくする為に起用される場面が増えてきているが、ルーキー時代などの経験もあり、堅実にこなしている。
[編集] その他
攻守交代時にはベンチと守備位置の間を常に全力疾走で移動する。これによってヤクルト時代にセ・リーグからスピードアップ賞及びスワロー・エクスプレス賞の表彰を受けている。
ヤクルト時代に、同僚の土橋勝征の紹介でレーシック手術を行った事で、以後コンタクトレンズを使わなくなった。
入団してから、主力ながら全試合出場したことがない。
死球130個は左打者では歴代1位である。
『すぽると!』の現役プロ野球選手100人が選ぶ、この選手が凄い!バッター編で勝負強さ部門1位、バットコントロール部門4位、外野守備部門2位に選ばれた。
2006年シーズンオフには、札幌グランドホテルで開催された選手ディナーショーに出演し自慢のノドを披露し、チームのファン層拡大に寄与した。
2010年に行われたファンフェスティバルのトークショーにて、喫煙していた事と3月からタバコをやめた事を明かした。
[編集] 応援
日本ハムでは得点圏に走者を置いた状態で稲葉の打席を迎えると、ファンファーレに合わせて一斉にファンが飛び跳ねる、通称「稲葉ジャンプ」と呼ばれる応援が定着している。
ファンファーレは2006年のシーズン前に私設応援団が制作した。当初は曲に合わせてメガホンを叩くだけのものだったが、春先にフルキャストスタジアム宮城(現・クリネックススタジアム宮城)で開催された試合で一部のファンが寒さに耐えかねジャンプしたのがきっかけとなり、札幌ドームにおいても外野スタンドの一角からジャンプが発生、それがどんどん規模を増していつの間にか球場全体が飛び跳ねるようになった。但し一部の野球場(京セラドーム大阪、スタルヒン球場など)においては、稲葉ジャンプは危険行為として禁止されており、道内地方球場では飛ばずに膝を曲げて身体を上下させる「稲葉スクワット」が基本的に取り入れられている。札幌ドームの内野席は本来、飛び跳ねることはおろか立ち上がっての応援行為自体が禁止されているが、稲葉ジャンプの時だけは黙認されている(ジャンプが終わると内野席の観客は速やかに着席する)。
札幌ドームはサッカー用の天然芝フィールドをドームに隣接する敷地で育成・維持している関係上、バックスクリーンにあたる位置のスタンド・構造物が可動式で柔構造になっている。そのため、稲葉ジャンプによる振動は震度3~4の地震に相当する大きさと言われている(2006年日本シリーズの実況アナウンサーの発言より)。札幌ドームで行われる試合のテレビ中継では稲葉ジャンプにより映像が大きく揺れることがある。
2011年は東日本大震災による被災者への配慮として、しばらくの間ジャンプを自粛する事となった。結果的にレギュラーシーズン中は最後まで自粛となったが、クライマックスシリーズのファーストステージ・対西武戦で解禁された。[13]
ヤクルト時代ではチャンス法政(法政大学応援歌)も使われていた(1997年まで)。1998年からは杉浦享の応援歌が使用された。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1995 | ヤクルト | 67 | 248 | 215 | 22 | 66 | 10 | 0 | 8 | 100 | 40 | 3 | 2 | 2 | 1 | 25 | 2 | 5 | 33 | 5 | .307 | .390 | .465 | .855 |
| 1996 | 125 | 496 | 436 | 63 | 135 | 26 | 3 | 11 | 200 | 53 | 9 | 5 | 7 | 7 | 38 | 0 | 8 | 66 | 9 | .310 | .370 | .459 | .829 | |
| 1997 | 130 | 494 | 439 | 71 | 117 | 24 | 4 | 21 | 212 | 65 | 9 | 6 | 10 | 1 | 37 | 4 | 7 | 67 | 6 | .267 | .333 | .483 | .816 | |
| 1998 | 88 | 280 | 258 | 29 | 72 | 17 | 2 | 5 | 108 | 23 | 4 | 2 | 2 | 1 | 13 | 1 | 6 | 42 | 2 | .279 | .327 | .419 | .746 | |
| 1999 | 68 | 142 | 132 | 15 | 35 | 11 | 1 | 2 | 54 | 22 | 3 | 1 | 1 | 1 | 7 | 2 | 1 | 26 | 3 | .265 | .305 | .409 | .714 | |
| 2000 | 87 | 290 | 274 | 36 | 77 | 13 | 0 | 11 | 123 | 30 | 0 | 0 | 4 | 2 | 8 | 0 | 2 | 42 | 2 | .281 | .304 | .449 | .753 | |
| 2001 | 138 | 601 | 527 | 94 | 164 | 32 | 5 | 25 | 281 | 90 | 5 | 4 | 13 | 2 | 43 | 0 | 16 | 89 | 6 | .311 | .379 | .533 | .912 | |
| 2002 | 116 | 488 | 448 | 59 | 119 | 19 | 3 | 10 | 174 | 39 | 3 | 1 | 8 | 4 | 21 | 1 | 7 | 77 | 2 | .266 | .306 | .388 | .695 | |
| 2003 | 69 | 289 | 260 | 46 | 71 | 8 | 3 | 11 | 118 | 30 | 4 | 1 | 3 | 1 | 18 | 0 | 7 | 48 | 6 | .273 | .336 | .454 | .790 | |
| 2004 | 135 | 473 | 437 | 61 | 116 | 20 | 3 | 18 | 196 | 45 | 6 | 3 | 5 | 2 | 23 | 2 | 6 | 85 | 3 | .265 | .310 | .449 | .758 | |
| 2005 | 日本ハム | 127 | 441 | 414 | 55 | 112 | 28 | 4 | 15 | 193 | 54 | 3 | 3 | 1 | 1 | 21 | 2 | 4 | 82 | 5 | .271 | .311 | .466 | .778 |
| 2006 | 128 | 518 | 473 | 66 | 145 | 20 | 2 | 26 | 247 | 75 | 5 | 5 | 6 | 2 | 27 | 2 | 10 | 74 | 6 | .307 | .355 | .522 | .878 | |
| 2007 | 137 | 579 | 527 | 61 | 176 | 39 | 0 | 17 | 266 | 87 | 6 | 3 | 0 | 4 | 35 | 7 | 13 | 69 | 10 | .334 | .387 | .505 | .892 | |
| 2008 | 127 | 513 | 448 | 71 | 135 | 25 | 5 | 20 | 230 | 82 | 2 | 3 | 0 | 5 | 56 | 9 | 4 | 85 | 9 | .301 | .380 | .513 | .894 | |
| 2009 | 135 | 587 | 500 | 78 | 150 | 37 | 4 | 17 | 246 | 85 | 5 | 1 | 2 | 6 | 65 | 11 | 14 | 96 | 4 | .300 | .391 | .492 | .883 | |
| 2010 | 137 | 591 | 530 | 68 | 152 | 36 | 4 | 16 | 244 | 79 | 3 | 0 | 1 | 5 | 43 | 1 | 12 | 86 | 5 | .287 | .351 | .460 | .811 | |
| 2011 | 137 | 518 | 473 | 49 | 124 | 22 | 3 | 12 | 188 | 54 | 4 | 2 | 7 | 3 | 27 | 2 | 8 | 71 | 4 | .262 | .311 | .397 | .709 | |
| 通算:17年 | 1951 | 7548 | 6791 | 944 | 1966 | 387 | 46 | 245 | 3180 | 953 | 74 | 42 | 72 | 48 | 507 | 46 | 130 | 1138 | 87 | .290 | .348 | .468 | .816 | |
- 2011年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] 年度別守備成績
| 年 度 |
一塁 | 外野 | ||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
| 1995 | 2 | 16 | 1 | 1 | 2 | .944 | 63 | 89 | 3 | 0 | 0 | 1.000 |
| 1996 | 2 | 14 | 1 | 0 | 1 | 1.000 | 122 | 213 | 10 | 3 | 4 | .987 |
| 1997 | 9 | 30 | 0 | 0 | 3 | 1.000 | 127 | 224 | 5 | 5 | 5 | .979 |
| 1998 | 20 | 146 | 9 | 2 | 13 | .987 | 70 | 87 | 0 | 5 | 0 | .946 |
| 1999 | 6 | 36 | 4 | 2 | 0 | .952 | 25 | 41 | 1 | 0 | 0 | 1.000 |
| 2000 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 76 | 129 | 5 | 0 | 2 | 1.000 |
| 2001 | - | 137 | 278 | 12 | 4 | 1 | .986 | |||||
| 2002 | - | 115 | 215 | 5 | 0 | 1 | 1.000 | |||||
| 2003 | - | 69 | 145 | 6 | 1 | 0 | .993 | |||||
| 2004 | - | 130 | 248 | 3 | 2 | 0 | .992 | |||||
| 2005 | 1 | 2 | 0 | 0 | 1 | 1.000 | 125 | 244 | 14 | 2 | 7 | .992 |
| 2006 | - | 126 | 275 | 7 | 3 | 1 | .989 | |||||
| 2007 | 2 | 2 | 1 | 0 | 2 | 1.000 | 123 | 255 | 4 | 2 | 1 | .992 |
| 2008 | - | 98 | 194 | 5 | 0 | 3 | 1.000 | |||||
| 2009 | - | 119 | 217 | 5 | 3 | 1 | .987 | |||||
| 2010 | 34 | 258 | 15 | 2 | 30 | .993 | 83 | 128 | 2 | 2 | 0 | .985 |
| 2011 | 70 | 564 | 47 | 4 | 45 | .993 | 9 | 8 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
| 通算 | 147 | 1068 | 78 | 11 | 97 | .990 | 1617 | 2990 | 87 | 32 | 26 | .990 |
- 2011年度シーズン終了時
[編集] タイトル
[編集] 表彰
- ベストナイン:5回(セ・リーグ外野手部門:2001年、パ・リーグ外野手部門:2006年 - 2009年)
- ゴールデングラブ賞:4回(パ・リーグ外野手部門:2006年 - 2009年)
- 日本シリーズMVP:1回 (2006年)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1997年)
- スピードアップ賞:2回(2000年、2001年) ※2001年はスワロー・エクスプレス賞(セ・リーグ会長特別表彰)として
- 月間MVP:4回(2006年7月、2007年9月、2009年5月、2011年7月)
- 札幌ドームMVP賞:1回 (2007年)
- オールスターゲームMVP:1回 (2011年 第3戦)
[編集] 記録
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1995年6月21日、対広島東洋カープ13回戦(広島市民球場) - 八番・一塁手
- 初安打・初本塁打・初打点:同上 - 2回表、投手:紀藤真琴
- 初盗塁:1995年8月3日、対阪神タイガース21回戦(阪神甲子園球場) - 6回表、投手:藪恵壹、捕手:木戸克彦(二盗)
- 節目の記録
- 1000試合出場:2004年9月9日、対阪神タイガース23回戦(阪神甲子園球場)に七番・右翼手として先発出場し達成。史上398人目。
- 1500試合出場:2008年7月15日、対東北楽天ゴールデンイーグルス12回戦(東京ドーム)で、9回裏に代打で出場し達成。
- 1500本安打:同上の試合で9回裏に安打を放ち達成。
- 300二塁打:2009年5月6日、対千葉ロッテマリーンズ5回戦(千葉マリンスタジアム)の第2打席で達成。
- 3000塁打:2011年4月19日、対オリックス・バファローズ1回戦(ほっともっとフィールド神戸)-1回表に左前適時打。史上49人目。
- その他記録
- 初打席本塁打:上記「初記録」の「初出場」の試合で記録。史上34人目。なお、初打席本塁打を記録した選手で通算200本塁打を達成したのは高木守道と稲葉のみ。
- 最多補殺:3回(2001年、2005年、2006年)
- オールスターゲーム出場:7回(1996年、2001年、2007年-2011年)
- サイクル安打1回:2003年7月1日、対横浜ベイスターズ15回戦(松本市野球場)史上56人目。
- 第1打席から順に三塁打(1回)、本塁打(4回)、単打(5回)、二塁打(5回)で達成。5回まででの達成は史上最速、降雨コールドゲームでの達成も史上初。同じ日に村松有人もサイクル安打(史上57人目)を達成しており同日に2選手がサイクルヒットを達成したのも史上初。
- 日本シリーズ(5試合制)最多打点(打点7):2006年。7打点はシリーズタイ記録。
- 両リーグ100本塁打:2010年5月12日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)の第4打席(9回表)で達成。
[編集] 背番号
- 41 (1995年 - 2004年、2006年 - )
- 58 (2005年)
[編集] 登場曲
- 必殺仕事人より『荒野の果てに』※ヤクルトスワローズ時代に使用
- QUEEN『I Was Born To Love You』
- EXILE『銀河鉄道999 feat.VERBAL (m-flo)』※2008年3月28日より使用。得点圏に走者がいる場合には、『I Was Born To Love You』を使用している。
- DJ OZMA『超!』 - 親友でもある元チームメイトの稲田直人が登場曲として使用していた曲。稲田が横浜ベイスターズにトレードされたのを受けて2010年から使用。
[編集] 関連情報
[編集] 著書
- 『HOP STEP 稲葉JUMP! いつも心に太陽を』(KKロングセラーズ:2009年4月) ISBN 9784845421473
- 『躍る北の大地』(ベースボール・マガジン社:2011年3月) ISBN 9784583103433
[編集] 脚注
- ^ 当時の週刊ベースボール増刊『東京六大学野球特集号』より。
- ^ スポーツナビ、2006年6月30日付。
- ^ 北海道テレビ放送製作「FFFFF」より
- ^ 2007年10月、北海道日本ハムファイターズ対中日ドラゴンズ(日本シリーズ)のテレビ中継にゲスト解説者として参加した際の野村の発言より。
- ^ 2009年5月11日放送の『SMAP×SMAP』特別編でそのVTRでもこのシーンが用いられた。
- ^ a b 『野球小僧 世界野球選手名鑑2010』 白夜書房、2010年、91頁。ISBN 978-4-86191-595-6。
- ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2010』 アスペクトムック、2010年、266-267頁。ISBN 978-4-7572-1744-7。
- ^ 『夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル』(テレビ朝日系)2010年1月2日放送分
- ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2009』 白夜書房、2009年、45頁。ISBN 978-4-86191-508-6。
- ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2009』 アスペクトムック、2009年、114-115頁。ISBN 978-4-7572-1628-0。
- ^ ファイターズマガジンのインタビュー記事より。
- ^ 同日の試合では、中田翔も谷佳知の左中間の二塁打性の打球に対し、ほぼ同様のプレーで単打止まりにさせている。
- ^ 【日本ハム】稲葉ジャンプ復活!/CS - 日刊スポーツ 2011年10月29日
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
|
|||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||
|
|||||