稲葉篤紀
| 北海道日本ハムファイターズ 選手兼コーチ #41 | |
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2013年WBCでの稲葉篤紀
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 愛知県北名古屋市 |
| 生年月日 | 1972年8月3日(40歳) |
| 身長 体重 |
185 cm 94 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| ポジション | 外野手、一塁手 |
| プロ入り | 1994年 ドラフト3位 |
| 初出場 | 1995年6月21日 |
| 年俸 | 2億円+出来高(2013年) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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| 国際大会 | |
| 代表チーム | |
| 五輪 | 2008年 |
| WBC | 2009年、2013年 |
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この表について
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稲葉 篤紀(いなば あつのり、1972年8月3日 - )は、北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(外野手、内野手、2013年から打撃コーチ兼任)。
目次 |
経歴 [編集]
プロ入り前 [編集]
愛知県北名古屋市(旧・西春日井郡師勝町)出身。右頬に特徴的な大きな痕があるが、自著によると原因不明とのことである。
少年時代から通っていた隣町の豊山町のバッティングセンターで、中学生にとっては速球といえる120km/h前後の球をポンポンと打ち返す同年代の左打者をよく見かけ、「すごいなあ」と感心していた。その打者は現在のイチローである。当時両者の間に会話こそなかったものの、野球界を代表する好打者二人が同じバッティングセンターに通っていたことになる。時を経て2009年のワールド・ベースボール・クラシックではチームメイトとなり、経験豊かなベテランである両者が日本代表をまとめ、優勝に貢献した。
中京高校(現・中京大中京高校)3年夏の愛知大会決勝で、そのイチローのいた愛工大名電高校に5-4で敗れた。卒業後は法政大学に進んだ。法政大では1年春から試合に出ており、先発出場時は中軸を打つこともあった。しかし、2学年上に当時四番を打つ鈴木秀範一塁手がおり、また、故障を抱えていたこともあり、一塁手に定着したのは3年春(1993年)からであった。特に2年春(1992年)は左翼手としての先発起用も検討されていた[1]が、故障のため不出場に終わった。法政大はこの1992年春のシーズンでは、最終カードである明治大学との直接対決で勝ち点を挙げた方が優勝という展開に持ち込んでおり、それだけに法政大のファンは稲葉の欠場を残念がった(結局、明治大が2勝1敗で法政大を下して完全優勝を果たした)。1993年(3年時)の春から一塁手としてレギュラーに定着。同年の第22回日米大学野球の代表に選ばれた。4年時には四番打者として法政大を秋季リーグ戦優勝に導いた。東京六大学野球の春季リーグでのベストナイン、第23回日米大学野球の代表にも選ばれた。リーグ通算成績は86試合出場、307打数86安打、打率.280、本塁打6、打点50であった。
1994年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズに3位指名され、入団した。当時のヤクルトの監督だった野村克也は、息子の野村克則(当時、明治大学3年)の試合を観戦した際に、対戦相手である法政大の稲葉のプレー(この試合で本塁打を打っている)を目にとめ、ドラフト当日3位の枠が空いていてその時の野村監督の「あの法政の左はどうなっとんのや」という発言によって獲得に至った。野村曰く、「後で聞いたらどこからも誘いはなかった」[2]、とする一方で、稲葉本人は「近鉄バファローズから指名される予定だった」「ヤクルトが指名しなければもっと早い段階で梨田昌孝監督のもとで野球をしていたかもしれない」[3]と語っている。[4]「枠が空いていたヤクルトが稲葉を指名することとなり、結果プロになりたかった稲葉は大変感謝していた」[5]。
ヤクルト時代 [編集]
ヤクルトに入団後、外野手としての練習を始める。1年目の1995年から一軍で出場し、同年6月21日の広島東洋カープ戦(広島市民球場)にて一塁手としてプロ初出場、初打席初本塁打を打ったほか、9月9日の読売ジャイアンツ(巨人)戦(東京ドーム)ではテリー・ブロスのノーヒットノーラン達成を好捕で助けている。1996年からは中軸を打ち、守備力でもヤクルトの3度の日本シリーズ優勝に貢献した。1997年にはチーム2位の21本塁打を記録し、2001年には25本塁打、自己最多の90打点、OPS.912という成績を残して初のベストナインに選ばれ、2003年7月1日の横浜ベイスターズ戦(松本市野球場)では史上56人目のサイクル安打を達成した(後述)。
しかし、1998年から2000年と2002年から2004年は度重なる怪我に苦しみ、不本意なシーズンが続いた。
2004年オフにフリーエージェント(FA)宣言。ピーター・グリーンバーグを代理人としメジャーリーグへの移籍を希望したがオファーがなく、一時はトライアウトを受けることも考えたが断念する。
日本ハム時代 [編集]
2005年2月に北海道日本ハムファイターズへ移籍。背番号は58。本来日本ハム球団はFA宣言選手の獲得には消極的で、稲葉以外に日本ハムにFA宣言して移籍した選手はいない(2012年現在)。当時のGMの高田繁は「もし稲葉のメジャー移籍が叶わなかった場合は真っ先に入団交渉というつもりでいた」と語った。入団直後はファイターズの楽しむ野球に何度も驚かされ、キャンプ合流直後には新庄剛志から「楽しんで」と声をかけられたという[6]。この年は主軸として127試合に出場、打率.271の成績を残した。
2006年、背番号をヤクルト時代の41に変更。この年より日本ハム一軍打撃コーチに就任した淡口憲治の指導のもと長打力の強化に取り組み、自己3番目の打率.307、打点75と自己最多の26本塁打を記録、チームのリーグ優勝と日本シリーズ制覇に貢献、プレーオフでは斉藤和巳(福岡ソフトバンクホークス)から優勝を決めるサヨナラ適時打、日本シリーズではMVPを獲得するなど勝負強さを見せつけた。日本シリーズMVPにはスポンサーから賞品として自動車が贈呈されたが、翌年から賞品が廃止されたため最後の賞品獲得者となった。この年は主に五番打者を務めたが、秋のアジアシリーズではフェルナンド・セギノールの欠場により四番を打った。打撃ではヤクルト時代以来5年振りのベストナイン、守備面でも初のゴールデングラブ賞を受賞した(ともに、以後2009年まで4年連続)。
2007年は三番打者を務め、チームの主要打撃成績は軒並みリーグ最下位でありながら自身は好調でオールスターゲームにも6年振りに出場。プロ入り13年目にして初の個人打撃タイトルとなる首位打者(打率.334)、最多安打(176安打)を獲得、また得点圏打率.350、リーグ3位の87打点、同3位のOPS.892を記録するなど球団初の連覇に貢献した。しかし、前年まで相性が良かった日本シリーズでは二塁打1本に終わるなど大不振だった。北京オリンピック野球アジア予選では七番・右翼手として全試合に出場し、韓国戦では8回に貴重な適時打を打つなど打率.500を残しオリンピック出場権獲得に貢献した。
2008年5月頃から臀部の痛みに悩まされるも、7月15日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で通算1500試合出場と通算1500安打を同時に達成した。北京オリンピック野球日本代表にも選ばれ、本戦では五番に座り、日本の4勝のうち2勝は稲葉が決勝打だった。9月26日の埼玉西武ライオンズ戦の初回に通算200本塁打を達成した。打率は前年を下回ったが、2年ぶりの20本塁打を記録。しかしクライマックスシリーズでは、ふくらはぎの肉離れを起こし先発出場が2試合と、ほぼ1年間怪我に悩まされる年であった。シーズン途中に自身2度目のFA権を取得したが、契約交渉ではFA権を行使せず2年契約で更改した。
2009年、監督の梨田昌孝より直々に主将の座に就くことを命じられた。第2回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出され、四番・指名打者や代打として9試合中8試合に出場した。成績は22打数7安打、打率.318。同大会の決勝戦の10回表には、先頭の内川聖一が安打で出塁した後、自身3年ぶりとなる犠牲バントを決めた。同大会ではイチローが不調であり、日本代表選手の中で唯一の先輩であった稲葉はイチローが凡退した後に、ベンチで励ましの言葉を度々駆けていて、メンタル面でイチローを陰で支えていた。
シーズンでは、4月8日の千葉ロッテマリーンズ戦(東京ドーム)で自身初となる3打席連続本塁打を打った。同じ日に金本知憲も3打席連続本塁打を打ち、複数の選手が3打席連続本塁打を同じ日に記録したのはプロ野球史上初。5月3日の西武戦(札幌ドーム)で延長12回裏にヤクルト時代以来8年ぶりのサヨナラ本塁打を打ち、ヒーローインタビューで感極まり涙を流した[7]。5月25日に出身地の北名古屋市より市民栄誉賞が送られた。オールスターゲームではファン投票両リーグ最多の498,353票を集め、選手間投票では同じく両リーグ最多の484票を集めた。シーズン終盤やや調子を落としたが最終的には打率3割でシーズンを終えた。四死球は自己最多の79で、出塁率はキャリアハイの.391をマークした。
2010年、2月放送のすぽると!で、現役プロ野球選手100人が選ぶ『この選手が凄い・バッター編』の「勝負強さ部門」1位、「バットコントロール部門」4位、「外野守備部門」2位にそれぞれ選ばれた。シーズンでは5月まで打率.227、OPS.688と不振に陥り、一時は5年ぶりに七番で出場するなど苦しんだ。6月以降は打率.316、OPS.870と調子を戻したが、シーズンを通しては5年振りに打率3割を切った。また、この年は高橋信二の頭部死球による離脱や陽岱鋼の台頭によって外野手としての出場は減り、一塁手として34試合の出場に留まった。
2011年は肩を痛めた影響もあり、開幕戦を初の指名打者で迎えた。右翼手に陽が定着したことから、指名打者に他の選手が入る際には主に一塁手として起用された。打撃は開幕直後は好調を維持していたが、6月には月間打率.169に終わるなど不振に陥る。7月には月間MVPを獲得するなど調子が上向き、7月24日のオールスターゲーム第3戦では2点本塁打を含む3打点の活躍で初のMVPを獲得したが、シーズン終盤に再び不振に陥り、打撃三部門とも日本ハム移籍後では最低の数字に終わった。特に左投手に対し打率.211と苦しみ、先発を外れることもあった。また勝利打点が5位の12と奮闘した。
2012年は開幕を2000年以来12年ぶりとなる2番で迎え、プロ18年目にして初となる開幕戦における3安打猛打賞を記録した。開幕からは6戦連続で2番に座ったが、その後は主に5番打者として活躍し、打率はリーグ7位の.290、得点圏打率はリーグ6位の.306、長打率はチームトップの.421を記録し、チーム3年ぶりとなるリーグ優勝に貢献した。守備面ではレギュラーシーズンでは一塁手または指名打者としての出場のみで、外野手としての出場はプロ入り後初めてゼロとなっていたが、日本シリーズ第2戦にて、中田翔が死球を受け4回裏に途中交代した際、それまで稲葉が守っていた一塁手にマイカ・ホフパワーが入った為、4回裏よりこの年初めて右翼手を守った。その他にも日本シリーズでは、稲葉は打率.391で首位打者に輝くなどの活躍を魅せ、敢闘選手賞を獲得した。この年は2009年以来3年ぶりにゴールデングラブ賞を獲得したが、一塁手部門としては自身初となった。パ・リーグの選手としては内野・外野の両方でゴールデングラブ賞を獲得したのは西村徳文(1985年二塁手部門、1990年外野手部門で獲得)以来であり、一塁手部門としては初。外野手から内野手の順でゴールデングラブ賞を受賞したのは、高田繁に続き2人目である。11月15日に札幌市在住で元モデルの怜奈と再婚。12月4日から内野手登録となった[8]。
この年は稲葉にとって記録ラッシュの年となった。4月28日の楽天戦(日本製紙クリネックススタジアム宮城)にて、出場1976試合目で史上39人目となる通算2000安打を達成。その6日後の5月4日にはヤクルトに同期入団の宮本慎也も通算2000安打を達成し、奇しくも宮本も出場1976試合目での達成であり、同年に同期入団選手が同試合数で通算2000安打を達成したのはそれぞれ史上初のことであった。5月4日のオリックス・バファローズ戦では史上58人目となる通算250本塁打、5月19日の広島戦では史上11人目となる通算400二塁打を達成。5月23日には札幌ドームにて「稲葉篤紀2000本安打メモリアルナイター」が開催され、試合前のセレモニーでは山田久志名球会理事よりブレザーが贈呈され、相手チームのDeNAからは元同僚の森本稀哲より花束が贈呈された。この日の試合、稲葉は3打数2安打1打点と活躍し、自らのメモリアルナイターを勝利で飾った。5月31日のヤクルト戦では史上44人目となる通算2000試合出場に到達。8月8日のソフトバンク戦では史上38人目となる通算1000打点、9月27日のロッテ戦では13年連続となる2桁本塁打をそれぞれ達成した。
2013年から一軍打撃コーチ兼任となる。第3回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選ばれ、オリンピック、WBCを通じて40代の選手が日本代表に選ばれるのは史上初[9]。2次ラウンドのオランダ戦では本塁打を放ち、大会最年長記録となった。ペナントレースでは「5番・1塁」で開幕スタメンを果たすも、15試合で打率1割以下と極度の不振に陥る(50打数4安打1打点)。チームが3年ぶりの単独最下位を記録するなど苦戦していたこともあり、24日に自ら2軍落ちを志願した。故障以外で登録抹消されるのは日本ハム移籍後初となる。イースタンリーグでは27日のDeNA戦で「4番・指名打者」でスタメン出場。先制打を放ち、連敗記録を「14」で止める勝利に貢献。ちなみにこの試合に負けた場合、イースタンリーグのワースト連敗記録を更新していた[10]。29日のDeNA戦では本塁打を放った。
選手としての特徴 [編集]
打撃 [編集]
規定打席に達したシーズンで6度の3割を記録し2007年には首位打者を獲得するなど巧打に長け、腕をコンパクトにたたんだ体に巻きつくようなスイングで内角を打つのがうまく[11][12]、新庄剛志からは「稲葉君は内角打ちの天才」と評された[6]。ヤクルト時代にはストレートに滅法強く、変化球には弱かったが、日本ハム移籍後は変化球に強くなり、2009年には曲がる系のボールに対して内角の打率.359、同じく真ん中で.568を誇った[11]。特にカーブを得意とし、森本稀哲曰く「世界一カーブが好きな男性」だという[13]。また、ヤクルト時代には通算打率.232と左投手を苦手としていたが、日本ハム移籍後には2010年までの通算打率.295と克服している。この理由については「具体的には、引っ張らずに左方向に打ったり…。現役中は、これ以上は言えません」と語っている[6]。四球率は通算で8.0パーセントを記録し、2008年にはボール球のスイング率12.3パーセント(リーグ平均26パーセント)を記録するなど選球眼にも優れる[14]。
守備・走塁 [編集]
走塁面では盗塁の試行数は少ないが、一塁到達3.96秒、三塁到達11.45秒を記録するなど全力疾走を怠らない[15]。
守備では右翼手として2006年から2009年までゴールデングラブ賞を4年連続で獲得している。最多補殺を3度記録しているが、遠投は80メートル程度でプロの外野手としては肩は強くない[6]。本人は「もともと一塁手だった為、大きく腕を振ることができないが、ボールを捕ってから投げるまでが速いため強肩に見えるのではないか」と話している[16]。ポジショニングも良く、2010年4月27日のオリックス・バファローズ戦の8回表の守備においては、右翼手前に転がってきた安打性の打球を素早く一塁に送球し、打者走者をアウトにした(所謂「ライトゴロ」)。打者だった塩崎真は「普通はあんな場所、守らない。安打1本、損した」と述べた(ただしこの場面は、試合終盤で守備側のリードが僅か1点であり、かつ二死で走者が二塁に居たため、外野手が前進守備を敷く体制を取るのは珍しい事ではない)[6]。2006年8月13日の千葉ロッテマリーンズ戦では右翼フェンス上部に当たりそうな打球に対し捕球の体勢を取って、二塁走者の西岡剛のスタートを遅らせて得点を阻止するトリックプレーを行った。
近年は若手外野手の台頭と自身の年齢を考慮され、負担を少なくする為に一塁手として起用される場面が増え、2012年にゴールデングラブ賞を獲得。
その他 [編集]
攻守交代時にはベンチと守備位置の間を常に全力疾走で移動する。これによってヤクルト時代にセ・リーグからスピードアップ賞及びスワロー・エクスプレス賞の表彰を受けている。
入場曲 [編集]
2013年現在、本拠地札幌ドームで流れる自身の入場曲はEXILEの銀河鉄道999を使用している。
応援 [編集]
日本ハムでは得点圏に走者を置いた状態で稲葉の打席を迎えると、ファンファーレに合わせて一斉にファンが飛び跳ねる、通称「稲葉ジャンプ」と呼ばれる応援が定着している。
ファンファーレは2006年のシーズン前に私設応援団が制作した。当初は曲に合わせてメガホンを叩くだけのものだったが、春先にフルキャストスタジアム宮城(現・日本製紙クリネックススタジアム宮城)で開催された試合で一部のファンが寒さに耐えかねジャンプしたのがきっかけとなり、札幌ドームにおいても外野スタンドの一角からジャンプが発生、それがどんどん規模を増していつの間にか球場全体が飛び跳ねるようになった。但し一部の野球場(京セラドーム大阪、スタルヒン球場など)においては、稲葉ジャンプは危険行為として禁止されており、そのような野球場では飛ばずに膝を曲げて身体を上下させる「稲葉スクワット」が取り入れられている。札幌ドームの内野席は本来、飛び跳ねることはおろか立ち上がっての応援行為自体が禁止されているが、稲葉ジャンプの時だけは黙認されている(ジャンプが終わると内野席の観客は速やかに着席する)。
札幌ドームはサッカー用の天然芝フィールドをドームに隣接する敷地で育成・維持している関係上、バックスクリーンにあたる位置のスタンド・構造物が可動式で柔構造になっている。そのため、稲葉ジャンプによる振動は震度3~4の地震に相当する大きさと言われている(2006年の日本シリーズの実況アナウンサーの発言より)。札幌ドームで行われる試合のテレビ中継では稲葉ジャンプにより映像が大きく揺れることがある。
2011年は、シーズン開幕前に発生した東北地方太平洋沖地震による被災者への配慮として、レギュラーシーズン中は稲葉ジャンプが行われなかったが、2011年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズのファーストステージ(西武戦)で解禁された。[17]
ヤクルト時代ではチャンス法政(法政大学応援歌)も使われていた(1997年まで)。1998年からは杉浦享の応援歌が使用された。
エピソード・その他 [編集]
2005年9月19日の西武戦(札幌ドーム)試合前に新庄剛志、森本稀哲、小谷野栄一、石本努との5人で同じかぶりもの(新庄の顔を模った仮面で「5人のツヨシくん」と命名)を被ってシートノックを受ける。2006年シーズンオフには、札幌グランドホテルで開催された選手ディナーショーに出演し自慢のノドを披露し、球団のファン層拡大に寄与した。
ヤクルト時代に、同僚の土橋勝征の紹介でレーシック手術を行った事で、以後コンタクトレンズを使わなくなった。
通算死球135は左打者では歴代1位である。
山田大樹(福岡ソフトバンクホークス)を苦手投手としており、山田が先発するときに限りスタメンから外れる傾向がある。
ヤクルト時代の野村克也、若松勉、日本ハムではトレイ・ヒルマン、梨田昌孝、栗山英樹と、「今まで自分が所属した時のチーム監督5人すべてをリーグ制覇で胴上げした」と語っている。
愛称は日本ハムで同僚だった新庄剛志からは「アツ」。ヤクルトに所属する同期入団の宮本慎也からは「ナッパ」と呼ばれている。
個人よりもチームプレーを重視するタイプで、2000本安打を達成したときには「気負うことはなかったし、チャンスだったからとにかくランナーを返そうという一心だった。」とコメントしている。さらに「2000本を打つために今シーズンやっているわけじゃないんでね。あくまでも監督を胴上げするためにやってるんでね。とにかく頑張りたいと思います。」、「個人成績は二の次ですから。」というコメントを残している。2000本安打を達成した時のウイニングボールは行方不明になった。
詳細情報 [編集]
年度別打撃成績 [編集]
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1995 | ヤクルト | 67 | 248 | 215 | 22 | 66 | 10 | 0 | 8 | 100 | 40 | 3 | 2 | 2 | 1 | 25 | 2 | 5 | 33 | 5 | .307 | .390 | .465 | .855 |
| 1996 | 125 | 496 | 436 | 63 | 135 | 26 | 3 | 11 | 200 | 53 | 9 | 5 | 7 | 7 | 38 | 0 | 8 | 66 | 9 | .310 | .370 | .459 | .829 | |
| 1997 | 130 | 494 | 439 | 71 | 117 | 24 | 4 | 21 | 212 | 65 | 9 | 6 | 10 | 1 | 37 | 4 | 7 | 67 | 6 | .267 | .333 | .483 | .816 | |
| 1998 | 88 | 280 | 258 | 29 | 72 | 17 | 2 | 5 | 108 | 23 | 4 | 2 | 2 | 1 | 13 | 1 | 6 | 42 | 2 | .279 | .327 | .419 | .746 | |
| 1999 | 68 | 142 | 132 | 15 | 35 | 11 | 1 | 2 | 54 | 22 | 3 | 1 | 1 | 1 | 7 | 2 | 1 | 26 | 3 | .265 | .305 | .409 | .714 | |
| 2000 | 87 | 290 | 274 | 36 | 77 | 13 | 0 | 11 | 123 | 30 | 0 | 0 | 4 | 2 | 8 | 0 | 2 | 42 | 2 | .281 | .304 | .449 | .753 | |
| 2001 | 138 | 601 | 527 | 94 | 164 | 32 | 5 | 25 | 281 | 90 | 5 | 4 | 13 | 2 | 43 | 0 | 16 | 89 | 6 | .311 | .379 | .533 | .912 | |
| 2002 | 116 | 488 | 448 | 59 | 119 | 19 | 3 | 10 | 174 | 39 | 3 | 1 | 8 | 4 | 21 | 1 | 7 | 77 | 2 | .266 | .306 | .388 | .695 | |
| 2003 | 69 | 289 | 260 | 46 | 71 | 8 | 3 | 11 | 118 | 30 | 4 | 1 | 3 | 1 | 18 | 0 | 7 | 48 | 6 | .273 | .336 | .454 | .790 | |
| 2004 | 135 | 473 | 437 | 61 | 116 | 20 | 3 | 18 | 196 | 45 | 6 | 3 | 5 | 2 | 23 | 2 | 6 | 85 | 3 | .265 | .310 | .449 | .758 | |
| 2005 | 日本ハム | 127 | 441 | 414 | 55 | 112 | 28 | 4 | 15 | 193 | 54 | 3 | 3 | 1 | 1 | 21 | 2 | 4 | 82 | 5 | .271 | .311 | .466 | .778 |
| 2006 | 128 | 518 | 473 | 66 | 145 | 20 | 2 | 26 | 247 | 75 | 5 | 5 | 6 | 2 | 27 | 2 | 10 | 74 | 6 | .307 | .355 | .522 | .878 | |
| 2007 | 137 | 579 | 527 | 61 | 176 | 39 | 0 | 17 | 266 | 87 | 6 | 3 | 0 | 4 | 35 | 7 | 13 | 69 | 10 | .334 | .387 | .505 | .892 | |
| 2008 | 127 | 513 | 448 | 71 | 135 | 25 | 5 | 20 | 230 | 82 | 2 | 3 | 0 | 5 | 56 | 9 | 4 | 85 | 9 | .301 | .380 | .513 | .894 | |
| 2009 | 135 | 587 | 500 | 78 | 150 | 37 | 4 | 17 | 246 | 85 | 5 | 1 | 2 | 6 | 65 | 11 | 14 | 96 | 4 | .300 | .391 | .492 | .883 | |
| 2010 | 137 | 591 | 530 | 68 | 152 | 36 | 4 | 16 | 244 | 79 | 3 | 0 | 1 | 5 | 43 | 1 | 12 | 86 | 5 | .287 | .351 | .460 | .811 | |
| 2011 | 137 | 518 | 473 | 49 | 124 | 22 | 3 | 12 | 188 | 54 | 4 | 2 | 7 | 3 | 27 | 2 | 8 | 71 | 4 | .262 | .311 | .397 | .709 | |
| 2012 | 127 | 497 | 449 | 46 | 130 | 23 | 3 | 10 | 189 | 61 | 0 | 0 | 8 | 3 | 32 | 2 | 5 | 70 | 3 | .290 | .342 | .421 | .762 | |
| 通算:18年 | 2078 | 8045 | 7240 | 990 | 2096 | 410 | 49 | 255 | 3369 | 1014 | 74 | 42 | 80 | 51 | 539 | 49 | 135 | 1208 | 90 | .290 | .348 | .465 | .813 | |
- 2012年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績 [編集]
| 年 度 |
一塁 | 外野 | ||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
| 1995 | 2 | 16 | 1 | 1 | 2 | .944 | 63 | 89 | 3 | 0 | 0 | 1.000 |
| 1996 | 2 | 14 | 1 | 0 | 1 | 1.000 | 122 | 213 | 10 | 3 | 4 | .987 |
| 1997 | 9 | 30 | 0 | 0 | 3 | 1.000 | 127 | 224 | 5 | 5 | 5 | .979 |
| 1998 | 20 | 146 | 9 | 2 | 13 | .987 | 70 | 87 | 0 | 5 | 0 | .946 |
| 1999 | 6 | 36 | 4 | 2 | 0 | .952 | 25 | 41 | 1 | 0 | 0 | 1.000 |
| 2000 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 76 | 129 | 5 | 0 | 2 | 1.000 |
| 2001 | - | 137 | 278 | 12 | 4 | 1 | .986 | |||||
| 2002 | - | 115 | 215 | 5 | 0 | 1 | 1.000 | |||||
| 2003 | - | 69 | 145 | 6 | 1 | 0 | .993 | |||||
| 2004 | - | 130 | 248 | 3 | 2 | 0 | .992 | |||||
| 2005 | 1 | 2 | 0 | 0 | 1 | 1.000 | 125 | 244 | 14 | 2 | 7 | .992 |
| 2006 | - | 126 | 275 | 7 | 3 | 1 | .989 | |||||
| 2007 | 2 | 2 | 1 | 0 | 2 | 1.000 | 123 | 255 | 4 | 2 | 1 | .992 |
| 2008 | - | 98 | 194 | 5 | 0 | 3 | 1.000 | |||||
| 2009 | - | 119 | 217 | 5 | 3 | 1 | .987 | |||||
| 2010 | 34 | 258 | 15 | 2 | 30 | .993 | 83 | 128 | 2 | 2 | 0 | .985 |
| 2011 | 70 | 564 | 47 | 4 | 45 | .993 | 9 | 8 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
| 2012 | 103 | 912 | 50 | 3 | 65 | .997 | - | |||||
| 通算 | 250 | 1980 | 128 | 14 | 162 | .993 | 1617 | 2990 | 87 | 32 | 26 | .990 |
- 2012年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル [編集]
表彰 [編集]
- ベストナイン:5回 (外野手部門:2001年、2006年 - 2009年)
- ゴールデングラブ賞:5回 (外野手部門:2006年 - 2009年 一塁手部門:2012年)
- 月間MVP:5回 (2006年7月、2007年9月、2009年5月、2011年7月、2012年4月)
- JA全農Go・Go賞:3回 (好捕賞:1996年6月 最多二・三塁打賞:1996年8月 強肩賞:2005年9月)
- スピードアップ賞:2回 (2000年、2001年) ※2001年はスワロー・エクスプレス賞(セ・リーグ会長特別表彰)として
- 札幌ドームMVP:1回 (2007年)
- オールスターゲームMVP:1回 (2011年第3戦)
- 日本シリーズMVP:1回 (2006年)
- 日本シリーズ敢闘選手賞:1回 (2012年)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1997年)
- 日本シリーズ特別賞:1回 (プロ野球ドリームナイン賞:2012年)
記録 [編集]
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1995年6月21日、対広島東洋カープ13回戦(広島市民球場)、8番・一塁手で先発出場
- 初打席・初安打・初本塁打・初打点:同上、2回表に紀藤真琴から右越2ラン ※史上34人目の初打席初本塁打[18]
- 初盗塁:1995年8月3日、対阪神タイガース21回戦(阪神甲子園球場)、6回表に二盗(投手:藪恵壹、捕手:木戸克彦)
- 節目の記録
- 100本塁打:2003年6月12日、対読売ジャイアンツ13回戦(東京ドーム)、2回表に桑田真澄から右中間ソロ ※史上228人目
- 1000試合出場:2004年9月9日、対阪神タイガース23回戦(阪神甲子園球場)、7番・右翼手で先発出場 ※史上398人目
- 1000本安打:2005年5月7日、対阪神タイガース2回戦(札幌ドーム)、12回裏に吉野誠から右前安打 ※史上230人目
- 150本塁打:2006年7月8日、対西武ライオンズ10回戦(インボイスSEIBUドーム)、10回表に松坂大輔から右越ソロ ※史上143人目
- 1500試合出場:2008年7月15日、対東北楽天ゴールデンイーグルス12回戦(東京ドーム)、9回裏に鶴岡慎也の代打で出場 ※史上160人目
- 1500本安打:同上、9回裏に川岸強から中前安打 ※史上98人目
- 200本塁打:2008年9月27日、対埼玉西武ライオンズ24回戦(札幌ドーム)、1回裏に岸孝之から右越先制2ラン ※史上91人目
- 300二塁打:2009年5月6日、対千葉ロッテマリーンズ5回戦(千葉マリンスタジアム)、3回表に渡辺俊介から左翼線へ2点適時二塁打 ※史上51人目
- 1000三振:2010年4月24日、対東北楽天ゴールデンイーグルス5回戦(日本製紙クリネックススタジアム宮城)、9回表に岩隈久志の前に見逃し三振 ※史上48人目
- 350二塁打:2010年7月6日、対福岡ソフトバンクホークス10回戦(東京ドーム)、1回裏に杉内俊哉から左中間二塁打 ※史上28人目
- 3000塁打:2011年4月19日、対オリックス・バファローズ1回戦(ほっともっとフィールド神戸)、1回表に木佐貫洋から左前先制適時打 ※史上49人目
- 2000本安打:2012年4月28日、対東北楽天ゴールデンイーグルス4回戦(日本製紙クリネックススタジアム宮城)、1回表にケルビン・ヒメネスから右前適時打 ※史上39人目
- 250本塁打:2012年5月4日、対オリックス・バファローズ7回戦(札幌ドーム)、5回裏に古川秀一から右越ソロ ※史上58人目
- 400二塁打:2012年5月19日、対広島東洋カープ1回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、2回表に野村祐輔から右中間二塁打 ※史上11人目
- 2000試合出場:2012年5月31日、対東京ヤクルトスワローズ2回戦(明治神宮野球場)、5番・一塁手で先発出場 ※史上44人目
- 1000打点:2012年8月8日、対福岡ソフトバンクホークス16回戦(帯広の森野球場)、3回裏に攝津正から右前適時打 ※史上38人目
- その他記録
- サイクル安打1回:2003年7月1日、対横浜ベイスターズ15回戦(松本市野球場) ※史上56人目[19]
- 両リーグ100本塁打:2010年5月12日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、9回表に西村憲から左中間へ2ラン ※史上10人目
- 2球団で100本塁打:同上 ※史上16人目
- 外野手最多補殺:3回(2001年、2005年、2006年)
- オールスターゲーム出場:8回(1996年、2001年、2007年 - 2012年)
- 日本シリーズ(5試合制)最多打点(打点7):2006年。シリーズタイ記録。
背番号 [編集]
- 41 (1995年 - 2004年、2006年 - )
- 58 (2005年)
登場曲 [編集]
- 必殺仕事人より『荒野の果てに』 ※ヤクルトスワローズ時代に使用。
- QUEEN 『I Was Born To Love You』
- EXILE 『銀河鉄道999 feat.VERBAL (m-flo)』 ※2008年3月28日より使用。得点圏に走者がいる場合には、『I Was Born To Love You』を使用している。
- DJ OZMA 『超!』 ※親友でもある元同僚の稲田直人が登場曲として使用していた曲。稲田が横浜ベイスターズにトレードされたのを受けて2010年から使用。
- 佐野有美 『歩き続けよう』 ※2012年8月3日より使用。
- 岡村孝子 『夢をあきらめないで』[20]
関連情報 [編集]
著書 [編集]
- 『HOP STEP 稲葉JUMP! いつも心に太陽を』(KKロングセラーズ:2009年4月) ISBN 9784845421473
- 『躍る北の大地』(ベースボール・マガジン社:2011年3月) ISBN 9784583103433
脚注 [編集]
- ^ 当時の週刊ベースボール増刊『東京六大学野球特集号』より。
- ^ スポーツナビ、2006年6月30日付。
- ^ 後に日本ハムの監督に就任する梨田は1994年当時、近鉄のコーチを務めていた。また、同年の同会議における3位指名のウェーバー順位は、ヤクルトのほうが近鉄より高かった。
- ^ 『FFFFF』(北海道テレビ放送)より[いつ?]。
- ^ 2007年10月、日本ハム対中日ドラゴンズ(日本シリーズ)のテレビ中継にゲスト解説者として参加した際の野村の発言より。
- ^ a b c d e 『週刊プロ野球データファイル』2011年2号、ベースボール・マガジン社、雑誌27743-4/20、11-12頁。
- ^ 2009年5月11日放送の『SMAP×SMAP』特別編にてこのシーンが用いられた。
- ^ 稲葉選手ポジション変更のお知らせ - 北海道日本ハムファイターズ公式サイト2012年12月4日
- ^ これまでの過去最高齢は2008年の北京オリンピックにおける矢野燿大(39歳)
- ^ 14連敗は1965年のサンケイ(現・東京ヤクルト)に並ぶワースト記録。
- ^ a b 『野球小僧 世界野球選手名鑑2010』 白夜書房、2010年、91頁。ISBN 978-4-86191-595-6。
- ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2010』 アスペクトムック、2010年、266-267頁。ISBN 978-4-7572-1744-7。
- ^ 『夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル』(テレビ朝日系)2010年1月2日放送分
- ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2009』 白夜書房、2009年、45頁。ISBN 978-4-86191-508-6。
- ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2009』 アスペクトムック、2009年、114-115頁。ISBN 978-4-7572-1628-0。
- ^ ファイターズマガジンのインタビュー記事より。
- ^ 【日本ハム】稲葉ジャンプ復活!/CS - 日刊スポーツ 2011年10月29日
- ^ 初打席本塁打を記録した選手で通算200本塁打を達成したのは、高木守道と稲葉の2人のみ。また、初打席本塁打を記録した選手で2000本安打を記録したのは高木・駒田徳広・稲葉の3人のみ。
- ^ 第1打席から順に三塁打(1回)、本塁打(4回)、単打(5回第1打席)、二塁打(5回第2打席)で達成。5回までに達成したのは史上最速、降雨コールドゲームでの達成も史上初。同じ日に村松有人もサイクル安打(史上57人目)を達成しており(達成時間は稲葉のほうが早い)、1日に2選手がサイクル安打を達成したのも史上初。
- ^ 球団公式ホームページより
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
- 稲葉篤紀 Aiプロジェクト公式ホームページ
- 稲葉篤紀 公式ブログ
- 稲葉篤紀 独占インタビュー ― 高校野球ドットコム
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