稲葉篤紀

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稲葉 篤紀
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基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県北名古屋市
生年月日 1972年8月3日(42歳)
身長
体重
185 cm
94 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手一塁手
プロ入り 1994年 ドラフト3位
初出場 1995年6月21日
最終出場 2014年10月20日(パ・リーグ クライマックスシリーズファイナルステージ)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 北海道日本ハムファイターズ (2013)
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 2008年
WBC 2009年2013年

稲葉 篤紀(いなば あつのり、1972年8月3日 - )は、愛知県北名古屋市出身の元プロ野球選手外野手内野手)。

ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞5回、2006年日本シリーズMVP、2007年首位打者を獲得。 日本代表に3回選ばれ2009WBCでは4番も務めた。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

愛知県北名古屋市(旧・西春日井郡師勝町)出身。右頬に特徴的な大きな痕があるが、自著によると原因不明とのことである。

少年時代から通っていた隣町の豊山町バッティングセンターで、中学生にとっては速球といえる120km/h前後の球をポンポンと打ち返す同年代の左打者をよく見かけ、「すごいなあ」と感心していた。その打者は現在のイチローである。当時両者の間に会話こそなかったものの、野球界を代表する好打者二人が同じバッティングセンターに通っていたことになる。時を経て2009年のワールド・ベースボール・クラシックではチームメイトとなり、経験豊かなベテランである両者が日本代表をまとめ、優勝に貢献した。

中京高校(現・中京大中京高校)3年夏の愛知大会決勝で、そのイチローのいた愛工大名電高校に5-4で敗れた。卒業後は法政大学に進んだ。法政大では1年春から試合に出ており、先発出場時は中軸を打つこともあった。しかし、2学年上に当時四番を打つ鈴木秀範一塁手がおり、また、故障を抱えていたこともあり、一塁手に定着したのは3年春(1993年)からであった。特に2年春(1992年)は左翼手としての先発起用も検討されていた[1]が、故障のため不出場に終わった。法政大はこの1992年春のシーズンでは、最終カードである明治大学との直接対決で勝ち点を挙げた方が優勝という展開に持ち込んでおり、それだけに法政大のファンは稲葉の欠場を残念がった(結局、明治大が2勝1敗で法政大を下して完全優勝を果たした)。1993年(3年時)の春から一塁手としてレギュラーに定着。同年の第22回日米大学野球の代表に選ばれた。4年時には四番打者として法政大を秋季リーグ戦優勝に導いた。東京六大学野球の春季リーグでのベストナイン、第23回日米大学野球の代表にも選ばれた。リーグ通算成績は86試合出場、307打数86安打、打率.280、本塁打6、打点50であった。

1994年のプロ野球ドラフト会議ヤクルトスワローズに3位指名され、入団した。当時のヤクルトの監督だった野村克也は、息子の野村克則(当時、明治大学3年)の試合を観戦した際に、対戦相手である法政大の稲葉のプレー(この試合で本塁打を打っている)を目にとめ、ドラフト当日3位の枠が空いていてその時の野村監督の「あの法政の左はどうなっとんのや」という発言によって獲得に至った。野村曰く、「後で聞いたらどこからも誘いはなかった[2]、枠が空いていたヤクルトが稲葉を指名することとなり、結果プロになりたかった稲葉は大変感謝していた」[3]。とする一方で、稲葉本人は「近鉄バファローズから指名される予定だった」「ヤクルトが指名しなければもっと早い段階で梨田昌孝監督のもとで野球をしていたかもしれない」[4]と語っている。[5]

ヤクルト時代[編集]

ヤクルトに入団後、外野手としての練習を始める。1年目の1995年から一軍で出場し、同年6月21日の広島東洋カープ戦(広島市民球場)にて一塁手としてプロ初出場、初打席初本塁打を打ったほか、9月9日の読売ジャイアンツ(巨人)戦(東京ドーム)ではテリー・ブロスノーヒットノーラン達成を好捕で助けている。1996年からは中軸を打ち、守備力でもチームの優勝に貢献した。1997年にはチーム2位の21本塁打を記録し、2001年には25本塁打、自己最多の90打点OPS.912という成績を残して初のベストナインに選ばれ、2003年7月1日の横浜ベイスターズ戦(松本市野球場)では史上56人目のサイクル安打を達成した(後述)。

しかし、1998年から2000年2002年から2004年は度重なる怪我に苦しみ、不本意なシーズンが続いた。

2004年オフにフリーエージェント(FA)宣言。ピーター・グリーンバーグを代理人としメジャーリーグへの移籍を希望したがオファーがなく、一時はトライアウトを受けることも考えたが断念する。

日本ハム時代[編集]

2005年
2月に北海道日本ハムファイターズへ移籍。背番号は58。本来日本ハム球団はFA宣言選手の獲得には消極的で、稲葉以外に日本ハムにFA宣言して移籍した選手はいない(2013年現在)。当時のGM高田繁は「もし稲葉のメジャー移籍が叶わなかった場合は真っ先に入団交渉というつもりでいた」と語った。入団直後はファイターズの楽しむ野球に何度も驚かされ、キャンプ合流直後には新庄剛志から「楽しんで」と声をかけられたという[6]。この年は主軸として127試合に出場、打率.271の成績を残した。
2006年
背番号をヤクルト時代の41に変更。この年より日本ハム一軍打撃コーチに就任した淡口憲治の指導のもと長打力の強化に取り組み、自己3番目の打率.307、打点75と自己最多の26本塁打を記録、チームのリーグ優勝と日本シリーズ制覇に貢献、プレーオフでは斉藤和巳福岡ソフトバンクホークス)から優勝を決めるサヨナラ適時打、日本シリーズではMVPを獲得するなど勝負強さを見せつけた。日本シリーズMVPにはスポンサーから賞品として自動車が贈呈されたが、翌年から賞品が廃止されたため最後の賞品獲得者となった。この年は主に五番打者を務めたが、秋のアジアシリーズではフェルナンド・セギノールの欠場により四番を打った。打撃ではヤクルト時代以来5年振りのベストナイン、守備面でも初のゴールデングラブ賞を受賞した(ともに、以後2009年まで4年連続)。
2007年
三番打者を務め、チームの主要打撃成績は軒並みリーグ最下位でありながら自身は好調でオールスターゲームにも6年振りに出場。プロ入り13年目にして初の個人打撃タイトルとなる首位打者打率.334)、最多安打(176安打)を獲得、また得点圏打率.350、リーグ3位の87打点、同3位のOPS.892を記録するなど球団初の連覇に貢献した。しかし、前年まで相性が良かった日本シリーズでは二塁打1本に終わるなど大不振だった。北京オリンピック野球アジア予選では七番・右翼手として全試合に出場し、韓国戦では8回に貴重な適時打を打つなど打率.500を残しオリンピック出場権獲得に貢献した。
2008年
5月頃から臀部の痛みに悩まされるも、7月15日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で通算1500試合出場と通算1500安打を同時に達成した。北京オリンピック野球日本代表にも選ばれ、本戦では五番に座り、日本の4勝のうち2勝は稲葉が決勝打だった。9月26日の埼玉西武ライオンズ戦の初回に通算200本塁打を達成した。打率は前年を下回ったが、2年ぶりの20本塁打を記録。しかしクライマックスシリーズでは、ふくらはぎの肉離れを起こし先発出場が2試合と、ほぼ1年間怪我に悩まされる年であった。シーズン途中に自身2度目のFA権を取得したが、契約交渉ではFA権を行使せず2年契約で更改した。
2009年
監督の梨田昌孝より直々に主将の座に就くことを命じられた。第2回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出され、四番・指名打者代打として9試合中8試合に出場した。成績は22打数7安打、打率.318。同大会の決勝戦の10回表には、先頭の内川聖一が安打で出塁した後、自身3年ぶりとなる犠牲バントを決めた。同大会ではイチローが不調であり、日本代表選手の中で唯一の先輩であった稲葉はイチローが凡退した後に、ベンチで励ましの言葉を度々駆けていて、メンタル面でイチローを陰で支えていた。
シーズンでは、4月8日の千葉ロッテマリーンズ戦(東京ドーム)で自身初となる3打席連続本塁打を打った。同じ日に金本知憲も3打席連続本塁打を打ち、複数の選手が3打席連続本塁打を同じ日に記録したのはプロ野球史上初。5月3日の西武戦(札幌ドーム)で延長12回裏にヤクルト時代以来8年ぶりのサヨナラ本塁打を打ち、ヒーローインタビューで感極まり涙を流した[7]。5月25日に出身地の北名古屋市より市民栄誉賞が送られた。オールスターゲームではファン投票両リーグ最多の498,353票を集め、選手間投票では同じく両リーグ最多の484票を集めた。シーズン終盤やや調子を落としたが最終的には打率3割でシーズンを終えた。四死球は自己最多の79で、出塁率はキャリアハイの.391をマークした。
2010年
2月放送のすぽると!で、現役プロ野球選手100人が選ぶ『この選手が凄い・バッター編』の「勝負強さ部門」1位、「バットコントロール部門」4位、「外野守備部門」2位にそれぞれ選ばれた。シーズンでは5月まで打率.227、OPS.688と不振に陥り、一時は5年ぶりに七番で出場するなど苦しんだ。6月以降は打率.316、OPS.870と調子を戻したが、シーズンを通しては5年振りに打率3割を切った。また、この年は高橋信二の頭部死球による離脱や陽岱鋼の台頭によって外野手としての出場は減り、一塁手として34試合の出場に留まった。
2011年
肩を痛めた影響もあり、開幕戦を初の指名打者で迎えた。右翼手に陽が定着したことから、指名打者に他の選手が入る際には主に一塁手として起用された。打撃は開幕直後は好調を維持していたが、6月には月間打率.169に終わるなど不振に陥る。7月には月間MVPを獲得するなど調子が上向き、7月24日のオールスターゲーム第3戦では2点本塁打を含む3打点の活躍で初のMVPを獲得したが、シーズン終盤に再び不振に陥り、打撃三部門とも日本ハム移籍後では最低の数字に終わった。特に左投手に対し打率.211と苦しみ、先発を外れることもあった。また勝利打点が5位の12と奮闘した。
2012年
開幕を2000年以来12年ぶりとなる2番で迎え、プロ18年目にして初となる開幕戦における3安打猛打賞を記録した。開幕からは6戦連続で2番に座ったが、その後は主に5番打者として活躍し、打率はリーグ7位の.290、得点圏打率はリーグ6位の.306、長打率はチームトップの.421を記録し、チーム3年ぶりとなるリーグ優勝に貢献した。守備面ではレギュラーシーズンでは一塁手または指名打者としての出場のみで、外野手としての出場はプロ入り後初めてゼロとなっていたが、日本シリーズ第2戦にて、中田翔が死球を受け4回裏に途中交代した際、それまで稲葉が守っていた一塁手にマイカ・ホフパワーが入ったため、4回裏よりこの年初めて右翼手を守った。その他にも日本シリーズでは、稲葉は打率.391で首位打者に輝くなどの活躍を魅せ、敢闘選手賞を獲得した。この年は2009年以来3年ぶりにゴールデングラブ賞を獲得したが、一塁手部門としては自身初となった。パ・リーグの選手としては内野・外野の両方でゴールデングラブ賞を獲得したのは西村徳文(1985年二塁手部門、1990年外野手部門で獲得)以来であり、一塁手部門としては初。外野手から内野手の順でゴールデングラブ賞を受賞したのは、高田繁に続き2人目である。11月15日札幌市在住で元モデルの怜奈と再婚。12月4日から内野手登録となった[8]
このシーズンは満40歳という節目を迎える稲葉にとって記録ラッシュの年となった。4月28日の楽天戦(日本製紙クリネックススタジアム宮城)にて、出場1976試合目で史上39人目となる通算2000安打を達成。その6日後の5月4日にはヤクルトに同期入団の宮本慎也も通算2000安打を達成し、奇しくも宮本も出場1976試合目での達成であり、同年に同期入団選手が同試合数で通算2000安打を達成したのはそれぞれ史上初のことであった。5月4日オリックス・バファローズ戦では史上58人目となる通算250本塁打、5月19日広島戦では史上11人目となる通算400二塁打を達成。5月23日には札幌ドームにて「稲葉篤紀2000本安打メモリアルナイター」が開催され、試合前のセレモニーでは山田久志名球会理事よりブレザーが贈呈され、相手チームのDeNAからは元同僚の森本稀哲より花束が贈呈された。この日の試合、稲葉は3打数2安打1打点と活躍し、自らのメモリアルナイターを勝利で飾った。5月31日のヤクルト戦では史上44人目となる通算2000試合出場に到達。8月8日のソフトバンク戦では史上38人目となる通算1000打点、9月27日のロッテ戦では13年連続となる2桁本塁打をそれぞれ達成した。
2013年WBCでの稲葉篤紀
2013年
一軍打撃コーチ兼任となる。第3回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選ばれ、オリンピック、WBCを通じて40代の選手が日本代表に選ばれるのは史上初[9]。2次ラウンドのオランダ戦では本塁打を放ち、大会最年長記録となった。ペナントレースでは「5番・一塁」で開幕スタメンを果たすも、15試合で打率1割以下と極度の不振に陥る(50打数4安打1打点)。チーム全体も3年ぶりの単独最下位を記録するなど苦戦していたこともあり、24日に自ら2軍落ちを志望した。故障以外で登録抹消されるのは日本ハム移籍後初となる。5月に一軍復帰した後のセ・パ交流戦では調子を取り戻すが、リーグ戦再開後に再び調子を落としスタメンから外れる試合も多くなる。6月29日の西武戦ではレギュラーの左翼手である中田翔が指名打者で出場したため、13年ぶりに左翼手として先発出場した。8月26日の二度目となる一軍登録抹消後は、コーチとして一軍に帯同。9月8日に再度一軍登録されるも、チームのAクラス入りが難しくなったため27日に三たび登録を抹消され、そのままシーズンを終えた。規定打席未到達と3桁安打未達成は2003年以来であり、最終成績は打率.203で3本塁打、OPS.563と復調を果たすことができず、前年まで続いていた2桁本塁打の記録も途絶えてしまった。
2014年
この年は選手専任となる。4月に左膝関節軟骨損傷のクリーニング手術を行い、7月に復帰したが、9月までに23試合出場に留まり、9月2日に今季限りでの現役引退を表明した[10]

選手としての特徴[編集]

打撃[編集]

北京五輪時の稲葉のスイング

規定打席に達したシーズンで6度の3割を記録し2007年には首位打者を獲得するなど巧打に長け、腕をコンパクトにたたんだ体に巻きつくようなスイングで内角を打つのがうまく[11][12]新庄剛志からは「稲葉君は内角打ちの天才」と評された[6]。ヤクルト時代にはストレートに滅法強く、変化球には弱かったが、日本ハム移籍後は変化球に強くなり、2009年には曲がる系のボールに対して内角の打率.359、同じく真ん中で.568を誇った[11]。特にカーブを得意とし、森本稀哲曰く「世界一カーブが好きな男性」だという[13]。また、ヤクルト時代には通算打率.232と左投手を苦手としていたが、日本ハム移籍後には2010年までの通算打率.295と克服している。この理由については「具体的には、引っ張らずに左方向に打ったり…。現役中は、これ以上は言えません」と語っている[6]。四球率は通算で8.0パーセントを記録し、2008年にはボール球のスイング率12.3パーセント(リーグ平均26パーセント)を記録するなど選球眼にも優れる[14]

守備・走塁[編集]

走塁面では盗塁の試行数は少ないが、一塁到達3.96秒、三塁到達11.45秒を記録するなど全力疾走を怠らない[15]

守備では右翼手として2006年から2009年までゴールデングラブ賞を4年連続で獲得している。最多補殺を3度記録しているが、遠投は80メートル程度でプロの外野手としては肩は強くない[6]。本人は「もともと一塁手だった為、大きく腕を振ることができないが、ボールを捕ってから投げるまでが速いため強肩に見えるのではないか」と話している[16]。ポジショニングも良く、2010年4月27日のオリックス・バファローズ戦の8回表の守備においては、右翼手前に転がってきた安打性の打球を素早く一塁に送球し、打者走者をアウトにした(所謂「ライトゴロ」)。打者だった塩崎真は「普通はあんな場所、守らない。安打1本、損した」と述べた(ただしこの場面は、試合終盤で守備側のリードがわずか1点であり、かつ二死で走者が二塁に居たため、外野手が前進守備を敷く体制を取るのは珍しい事ではない)[6]。2006年8月13日の千葉ロッテマリーンズ戦では右翼フェンス上部に当たりそうな打球に対し捕球の体勢を取って、二塁走者の西岡剛のスタートを遅らせて得点を阻止するトリックプレーを行った。

近年は若手外野手の台頭と自身の年齢を考慮され、負担を少なくする為に再び一塁手として起用される場面が増え、2012年にゴールデングラブ賞を獲得。

その他[編集]

攻守交代時にはベンチと守備位置の間を常に全力疾走で移動する。これによってヤクルト時代にセ・リーグからスピードアップ賞及びスワロー・エクスプレス賞の表彰を受けている。

入場曲[編集]

2013年現在、本拠地札幌ドームで流れる自身の入場曲はEXILE銀河鉄道999を使用している。

応援[編集]

日本ハムでは得点圏に走者を置いた状態で稲葉の打席を迎えると、ファンファーレに合わせて一斉にファンが飛び跳ねる、通称「稲葉ジャンプ」と呼ばれる応援が定着している。

ファンファーレは2006年のシーズン前に私設応援団が制作した。当初は曲に合わせてメガホンを叩くだけのものだったが、春先にフルキャストスタジアム宮城(現・日本製紙クリネックススタジアム宮城)で開催された試合で一部のファンが寒さに耐えかねジャンプしたのがきっかけとなり、札幌ドームにおいても外野スタンドの一角からジャンプが発生、それがどんどん規模を増していつの間にか球場全体が飛び跳ねるようになった。但し一部の野球場(京セラドーム大阪スタルヒン球場など)においては、稲葉ジャンプは危険行為として禁止されており、そのような野球場では飛ばずに膝を曲げて身体を上下させる「稲葉スクワット」が取り入れられている。札幌ドームの内野席は本来、飛び跳ねることはおろか立ち上がっての応援行為自体が禁止されているが、稲葉ジャンプの時だけは黙認されている(ジャンプが終わると内野席の観客は速やかに着席する)。

札幌ドームはサッカー用の天然芝フィールドをドームに隣接する敷地で育成・維持している関係上、バックスクリーンにあたる位置のスタンド・構造物が可動式で柔構造になっている。そのため、稲葉ジャンプによる振動は震度3~4の地震に相当する大きさと言われている(2006年の日本シリーズの実況アナウンサーの発言より)。札幌ドームで行われる試合のテレビ中継では稲葉ジャンプにより映像が大きく揺れることがある。

2011年は、シーズン開幕前に発生した東北地方太平洋沖地震による被災者への配慮として、レギュラーシーズン中は稲葉ジャンプが行われなかったが、2011年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズのファーストステージ(西武戦)で解禁された。[17]

2014年限りで現役引退を表明した9月2日以降の試合では、稲葉が打席に立つと、日本ハムファンだけでなく相手チームのファンも一緒に立ち上がり、両チームのファンが稲葉ジャンプで稲葉を応援する光景が見られた。

ヤクルト時代ではチャンス法政法政大学応援歌)も使われていた(1997年まで)。1998年からは杉浦享の応援歌が使用された。

人物・エピソード[編集]

2005年9月19日の西武戦(札幌ドーム)試合前に新庄剛志、森本稀哲、小谷野栄一石本努との5人で同じかぶりもの(新庄の顔を模った仮面で「5人のツヨシくん」と命名)を被ってシートノックを受ける[18]。2006年シーズンオフには、札幌グランドホテルで開催された選手ディナーショーに出演し自慢のノドを披露した[19]

ヤクルト時代にレーシック手術を行った事で、以後コンタクトレンズを使わなくなった[20]

通算死球136は左打者では歴代1位である。

愛称は日本ハムで同僚だった新庄剛志からは「アツ」。ヤクルトに所属していた同期入団の宮本慎也からは「ナッパ」と呼ばれている[21]。ヤクルトのマスコットであるつば九郎も「なっぱ」と呼んでいる[22]

少年時代は少しでも悲しい事が起こるとすぐに泣きだすような気が弱い性格で、そのこともあり小中ではいじめに遭っていた。中学時代には上級生にたばこを買いに行かされ、学校を抜け出してたばこを買いに行っている事が父親に知らされると父親に殴られ、稲葉本人に「強くならなければならない」という感情が芽生えた。ちなみにその上級生とは話し合いの場を作って意思疎通を図り、これを境にいじめは無くなった。[23]

個人よりもチームプレーを重視するタイプで、2000本安打を達成したときには「気負うことはなかったし、チャンスだったからとにかくランナーを返そうという一心だった。」とコメントしている。さらに「2000本を打つために今シーズンやっているわけじゃないんでね。あくまでも監督を胴上げするためにやってるんでね。とにかく頑張りたいと思います。」、「個人成績は二の次ですから。」というコメントを残している。2000本安打を達成した時のウイニングボールは行方不明になった[24]

ポテトチップスが大好物であり、シーズンオフには食べ過ぎて体型を崩すこともある。自身が進退を懸けていると公言したシーズン20年目を控える2014年1月にはポテトチップスの食べすぎが原因で平常体重の94kgから100kg超まで増えてしまい、正念場を迎える立場から注目を浴びた。それに対してカロリーオフのポテトチップスを食べることで少しでも摂取カロリーを少なくすることを試みている。[25]

映画『探偵はBARにいる2』の中で現在の北海道の大打者として名前が登場する。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1995 ヤクルト 67 248 215 22 66 10 0 8 100 40 3 2 2 1 25 2 5 33 5 .307 .390 .465 .855
1996 125 496 436 63 135 26 3 11 200 53 9 5 7 7 38 0 8 66 9 .310 .370 .459 .829
1997 130 494 439 71 117 24 4 21 212 65 9 6 10 1 37 4 7 67 6 .267 .333 .483 .816
1998 88 280 258 29 72 17 2 5 108 23 4 2 2 1 13 1 6 42 2 .279 .327 .419 .746
1999 68 142 132 15 35 11 1 2 54 22 3 1 1 1 7 2 1 26 3 .265 .305 .409 .714
2000 87 290 274 36 77 13 0 11 123 30 0 0 4 2 8 0 2 42 2 .281 .304 .449 .753
2001 138 601 527 94 164 32 5 25 281 90 5 4 13 2 43 0 16 89 6 .311 .379 .533 .912
2002 116 488 448 59 119 19 3 10 174 39 3 1 8 4 21 1 7 77 2 .266 .306 .388 .695
2003 69 289 260 46 71 8 3 11 118 30 4 1 3 1 18 0 7 48 6 .273 .336 .454 .790
2004 135 473 437 61 116 20 3 18 196 45 6 3 5 2 23 2 6 85 3 .265 .310 .449 .758
2005 日本ハム 127 441 414 55 112 28 4 15 193 54 3 3 1 1 21 2 4 82 5 .271 .311 .466 .778
2006 128 518 473 66 145 20 2 26 247 75 5 5 6 2 27 2 10 74 6 .307 .355 .522 .878
2007 137 579 527 61 176 39 0 17 266 87 6 3 0 4 35 7 13 69 10 .334 .387 .505 .892
2008 127 513 448 71 135 25 5 20 230 82 2 3 0 5 56 9 4 85 9 .301 .380 .513 .894
2009 135 587 500 78 150 37 4 17 246 85 5 1 2 6 65 11 14 96 4 .300 .391 .492 .883
2010 137 591 530 68 152 36 4 16 244 79 3 0 1 5 43 1 12 86 5 .287 .351 .460 .811
2011 137 518 473 49 124 22 3 12 188 54 4 2 7 3 27 2 8 71 4 .262 .311 .397 .709
2012 127 497 449 46 130 23 3 10 189 61 0 0 8 3 32 2 5 70 3 .290 .342 .421 .762
2013 91 285 261 25 53 16 0 3 78 24 0 0 1 1 21 0 1 48 6 .203 264 .299 .563
2014 44 89 77 6 18 3 0 3 30 12 0 0 0 0 10 0 2 13 3 .234 337 .390 .727
通算:20年 2213 8419 7578 1021 2167 429 49 261 3477 1050 74 42 81 52 570 49 138 1269 99 .286 .345 .459 .806
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績[編集]


一塁 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1995 2 16 1 1 2 .944 63 89 3 0 0 1.000
1996 2 14 1 0 1 1.000 122 213 10 3 4 .987
1997 9 30 0 0 3 1.000 127 224 5 5 5 .979
1998 20 146 9 2 13 .987 70 87 0 5 0 .946
1999 6 36 4 2 0 .952 25 41 1 0 0 1.000
2000 1 0 0 0 0 ---- 76 129 5 0 2 1.000
2001 - 137 278 12 4 1 .986
2002 - 115 215 5 0 1 1.000
2003 - 69 145 6 1 0 .993
2004 - 130 248 3 2 0 .992
2005 1 2 0 0 1 1.000 125 244 14 2 7 .992
2006 - 126 275 7 3 1 .989
2007 2 2 1 0 2 1.000 123 255 4 2 1 .992
2008 - 98 194 5 0 3 1.000
2009 - 119 217 5 3 1 .987
2010 34 258 15 2 30 .993 83 128 2 2 0 .985
2011 70 564 47 4 45 .993 9 8 0 0 0 1.000
2012 103 912 50 3 65 .997 -
2013 64 514 27 2 46 .996 7 14 0 1 0 .933
通算 314 2494 155 16 208 .994 1624 3004 87 33 26 .989
  • 2013年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他記録
  • サイクル安打1回:2003年7月1日、対横浜ベイスターズ15回戦(松本市野球場) ※史上56人目[27]
  • 両リーグ100本塁打:2010年5月12日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、9回表に西村憲から左中間へ2ラン ※史上10人目
  • 2球団で100本塁打:同上 ※史上16人目
  • 外野手最多補殺:3回(2001年、2005年、2006年)
  • オールスターゲーム出場:8回(1997年、2001年、2007年 - 2012年)
  • 日本シリーズ(5試合制)最多打点(打点7):2006年。シリーズタイ記録。

背番号[編集]

  • 41 (1995年 - 2004年、2006年 - )
  • 58 (2005年)

登場曲[編集]

  • 必殺仕事人より『荒野の果てに』 ※ヤクルトスワローズ時代に使用。
  • QUEENI Was Born To Love You
  • EXILE 『銀河鉄道999 feat.VERBAL (m-flo)』 ※2008年3月28日より使用。得点圏に走者がいる場合には、『I Was Born To Love You』を使用している。
  • DJ OZMA 『超!』 ※親友でもある元同僚の稲田直人が登場曲として使用していた曲。稲田が横浜ベイスターズにトレードされたのを受けて2010年から使用。
  • 佐野有美 『歩き続けよう』 ※2012年8月3日より使用。
  • 岡村孝子 『夢をあきらめないで』[28]

関連情報[編集]

著書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 当時の週刊ベースボール増刊『東京六大学野球特集号』より。
  2. ^ スポーツナビ、2006年6月30日付。
  3. ^ 2007年10月、日本ハム対中日ドラゴンズ日本シリーズ)のテレビ中継にゲスト解説者として参加した際の野村の発言より。
  4. ^ 後に日本ハムの監督に就任する梨田は1994年当時、近鉄のコーチを務めていた。また、同年の同会議における3位指名のウェーバー順位は、ヤクルトのほうが近鉄より高かった。
  5. ^ FFFFF』(北海道テレビ放送)より[いつ?]
  6. ^ a b c d e 『週刊プロ野球データファイル』2011年2号、ベースボール・マガジン社、雑誌27743-4/20、11-12頁。
  7. ^ 2009年5月11日放送の『SMAP×SMAP』特別編にてこのシーンが用いられた。
  8. ^ 稲葉選手ポジション変更のお知らせ - 北海道日本ハムファイターズ公式サイト2012年12月4日
  9. ^ これまでの過去最高齢は2008年の北京オリンピックにおける矢野燿大(39歳)
  10. ^ 稲葉 引退表明「自分の打撃できなくなった 悔いはまったくない」スポーツニッポン2014年9月2日配信
  11. ^ a b 『野球小僧 世界野球選手名鑑2010』 白夜書房、2010年、91頁。ISBN 978-4-86191-595-6
  12. ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2010』 アスペクトムック、2010年、266-267頁。ISBN 978-4-7572-1744-7
  13. ^ 夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル』(テレビ朝日系)2010年1月2日放送分
  14. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2009』 白夜書房、2009年、45頁。ISBN 978-4-86191-508-6
  15. ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2009』 アスペクトムック、2009年、114-115頁。ISBN 978-4-7572-1628-0
  16. ^ ファイターズマガジンのインタビュー記事より。
  17. ^ 【日本ハム】稲葉ジャンプ復活!/CS - 日刊スポーツ 2011年10月29日
  18. ^ 2005年9月20日 日刊スポーツより。
  19. ^ 2006年12月10日 日刊スポーツより。
  20. ^ 視力回復手術で失敗?レーシック体験談(http://www.yokumieruyo.com/)
  21. ^ 2012年4月29日 日刊スポーツより
  22. ^ おめでとう、なっぱ。(つば九郎オフィシャルブログ)
  23. ^ 日刊スポーツ「ファミスポ 家族の力」2012年5月2日付。
  24. ^ STV公式サイト「特集ぞっこん!ファイターズ~稲葉選手2000本安打まであと1本! 」
  25. ^ ハム稲葉に低カロリーポテチ無料提供 nikkansports.com 2014年1月23日11時11分 紙面から
  26. ^ 初打席本塁打を記録した選手で通算200本塁打を達成したのは、高木守道と稲葉の2人のみ。また、初打席本塁打を記録した選手で2000本安打を記録したのは高木・駒田徳広・稲葉の3人のみ。
  27. ^ 第1打席から順に三塁打(1回)、本塁打(4回)、単打(5回第1打席)、二塁打(5回第2打席)で達成。5回までに達成したのは史上最速、降雨コールドゲームでの達成も史上初。同じ日に当時福岡ダイエーホークスに所属していた村松有人もサイクル安打(史上57人目)を達成。(達成時間は稲葉のほうが早い)1日に2選手がサイクル安打を達成したのも史上初。
  28. ^ 球団公式ホームページより

関連項目[編集]

外部リンク[編集]