多村仁志

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多村 仁志 (多村 仁)
福岡ソフトバンクホークス #6
Hitoshi Tamura 2010.jpg
2010年9月20日 福岡ヤフードーム
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県厚木市(神奈川県愛甲郡清川村生まれ)
生年月日 1977年3月28日(34歳)
身長
体重
180cm
82kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1994年 ドラフト4位
初出場 1997年4月4日
年俸 1億1,000万円+出来高(2012年)
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
WBC 2006年

多村 仁志(たむら ひとし、本名:多村 仁(読み同じ)、1977年3月28日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手外野手)。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

横浜高時代は斉藤宜之紀田彰一クリーンナップを組み3年生の春夏連続(1994年)で甲子園に出場。 第66回選抜高等学校野球大会の一回戦で、赤星憲広が所属する大府高校と対戦した。

この当時はとてもやんちゃで、練習中に野球部長の小倉清一郎と衝突したり、監督の渡辺元智が怒るとすぐに帰ってしまうこともあった。「普通の高校生になりたい」と学校にすら来なくなってしまったことがあったが、多村の野球の才能を買っていた兄や同じ野球部の友人たちの励ましもあり、3年間野球を全うしていた。後に渡辺は多村のことを「純粋なところもあるが長続きせず、調教してるようだった」と語っている。

[編集] 横浜時代

1994年のドラフト4位で横浜ベイスターズに入団。このときの登録名は本名の多村 仁

1997年4月4日、レギュラーシーズン開幕戦の対中日戦で公式戦初出場。この試合はナゴヤドーム初の公式戦で、多村は7回表に横浜の開幕投手盛田幸妃代打として登場。相手の開幕投手山本昌と対戦したプロ初打席は外野フライに終わった。4月8日、対阪神戦で田村勤から初安打を放った。オフに1年目から痛めていた右肩を手術した。翌年のキャンプには間に合うという判断であったが、思ったよりも右肩の状態が酷くボルトを埋め込んだ。

1998年、右肩リハビリのため、一・二軍とも試合出場なし。翌年も二軍のみの出場。

2000年、主に代打、途中出場で一軍定着する。84試合出場で打率.257、7本塁打。

2003年、91試合の出場で打率.293、18本塁打、46打点と開花の兆しが見えだす。

2004年、初めて開幕レギュラーの座をつかむと、一気に開眼。強靭なリストを生かした打撃でホームランを量産し、8月15日に横浜・大洋通じて日本人打者として田代富雄以来23年ぶりとなる30本塁打を達成。10月6日に日本人打者として球団初の40本塁打を達成。3割・40本・100打点は球団初の記録。

2005年、開幕直前にインフルエンザにかかり開幕カードは欠場するが、4月5日の対巨人戦から復帰し、ダン・ミセリからプロ初となるサヨナラタイムリーを放つ。そこから打棒が爆発し、6月18日の試合終了時点で打率.344、21本塁打で暫定的に二冠王に立っていた。6月22日にぎっくり腰による腰痛で登録抹消。症状は重くはなく、登録抹消期間の10日間で一軍に復帰する予定だったが、6月29日に自ら愛車のポルシェを運転してベイスターズ総合練習場での二軍練習に向かう際、横浜横須賀道路朝比奈IC付近でスリップして防音壁に激突するという事故(単独)を起こしてしまう。車は大破し多村も検査入院となった。検査では脳には異常が無かったが、全治3日の左肩挫傷、全治2週間の左外傷性複視、網膜震盪症と診断され、復帰には倍かかるという状態だった。このためそのまま前半戦は欠場した。7月29日の対広島戦から復帰したものの、交通事故前に見せていた打撃は発揮できなかった。シーズンを通しては2年連続の3割30本を達成したが、交通事故による欠場への懲戒的措置として現状維持での契約更改を余儀なくされた。

2006年ワールド・ベースボール・クラシックの日本代表に選出され、好守や特大本塁打で初代世界一に大きく貢献。3本塁打、9打点はチーム本塁打王・打点王だった。公式戦に入っても4月4日の対中日戦(横浜スタジアム)で9回裏に岩瀬仁紀から起死回生の同点2ランを放つなど活躍していたが、4月20日から左肋軟骨挫傷の為、ひと月ほど戦線離脱。復帰して半月ほど経った6月7日の対楽天戦(フルキャストスタジアム宮城)にて本塁突撃時のクロスプレーの際に肋骨を4本折る重傷で長期離脱。シーズンの大半を棒に振ってしまった。オフには持病の腰のヘルニアにブロック注射を打ち再起を誓うも、シーズン終了後、一部の新聞で多村がトレード要員だと報道され、その真否から具体的なトレード先に至るまでいくつかの憶測報道が飛び交った。12月5日にWBCでも監督を務めた王貞治率いるソフトバンクに、寺原隼人と1対1での交換トレードでの入団が成立したことが発表された。12月12日の入団発表会見で、背番号は横浜時代と同じ6と発表された。

[編集] ソフトバンク時代

2007年、開幕戦に3番で出場し2本塁打を放つなど3安打猛打賞で最高のスタートをきった。初めてシーズン中に一度も二軍に落ちることなく、当時自己最高の132試合に出場したが、試合中の小さな違和感や疲労での途中交代が多かった。7月3日から9月6日まで本塁打が出ないなど、打率.271・13本塁打・68打点と打撃に関しても思うような結果が得られなかった。最終候補に残り背番号1が与えられていた北京オリンピック野球代表候補に関しても、腰痛のためオーストラリアとの強化試合に出られず、そのままメンバーから外された。

2008年は開幕から3番センターでスタメン出場していたが、腰痛のため4月18日から4試合欠場。4月23日から復帰したものの、4月25日の対ロッテ戦で3回表の守備中に大塚明の左中間への打球を追ってレフト長谷川勇也と交錯し右足腓骨を骨折、前半戦を棒に振った。9月上旬から復帰し、2試合連続で猛打賞を記録するなど活躍を見せる。足の状態が万全ではなかったこともあり、9月下旬に再び登録を抹消され、そのままシーズンを終えた。

2009年オープン戦の試合中、牽制球で帰塁する際右肩を痛めたため、開幕は二軍スタートとなった。5月22日に一軍に復帰した際、登録名を多村 仁志(読みは同じ)に変更[1]。復帰後は好調な打撃でチームを引っ張るが、8月以降は疲労や故障による欠場や途中交代が目立つようになり、打撃の調子も失速。最終的な成績は打率.282・17本塁打・57打点にとどまった。クライマックスシリーズは腰痛のため第1戦、第2戦ともに欠場した。海外移籍も可能となるFA権を取得したが、権利を行使せず残留することが、自身のブログ(現在は閉鎖)で明らかにされた。

2010年はシーズン通しての活躍と、故障中や不調時のパフォーマンスの安定を狙い持久力とメンタル面での強化を行い臨んだ。5月8日の対西武戦の6回にプロ通算150号本塁打を記録。5月26日には小久保裕紀の怪我もありプロ入り初の4番スタメン出場を果たした。交流戦では史上最高打率の.415で首位打者を獲得。7月23日にはファン投票により16年目にして初のオールスター出場を果たし、福岡Yahoo! JAPANドームで開催された第1戦ではオールパシフィックの4番を担った。8月24日の対オリックス戦では1回裏に近藤一樹から6年ぶりの満塁本塁打を打った。シーズン通してコンスタントに出場し続け、自己最高の140試合・打率.324・33二塁打・166安打・出塁率.374を記録。100試合以上出場したシーズンでは初めて三振数が3桁を切った。外野手では最高得票を獲得してベストナインに輝いた。11月15日にメジャーリーグ移籍も視野に入れてFA権を行使したが、11月24日に残留を表明し、2011年1月28日に年俸1億8000万円プラス出来高の単年契約を結んだ。球団からは4年契約の提示も受けていたが、「これまでずっと1年契約だった。自分にはその方が自分のパフォーマンスが出ると思った」として単年契約に決めたという[2]

2011年7月20日、福岡ドームにて

2011年は開幕当初は不振だったが5月に入ってからは調子を上げてきていた。しかし6月8日の対巨人戦で左手小指に死球を受け裂傷を負い、手術が必要と診断され登録抹消となる。7月15日の対ロッテ戦から復帰するが、復帰後は成績が低迷し1ヶ月近くスタメン出場がない時期もあった。さらに10月6日のロッテ戦では自打球で左足小指を骨折するなど1年を通して故障に苦しめられた。初めての出場となった日本シリーズでは第3戦で2点本塁打を放ち、第5戦では2打点を挙げるなどの活躍をした。

[編集] プレースタイル

強く柔軟なリストを活かしたアッパースイングから広角に長打を打ち分ける打撃を持ち味とし[3]、ボールを手元まで引きつけて右方向に長打を放つ技術に加え[4]、ソフトバンク移籍後2010年までの通算得点圏打率.322と状況に関わらず自分の打撃ができる柔軟さも兼ね備える[5]。球界屈指の身体能力の高さを誇り、優れた打球判断を生かした広い守備範囲にも定評があり[3]、2010年にはリーグの右翼手中2位のUZR2.3を残した他[6]、50メートルを5.57秒、一塁到達まで4.13秒を記録する俊足も兼ね備える[7]強肩と評価されることも多いが、本人曰く現在もボルトが埋まっているせいで100%の力では投げることはできず、送球はその分技術で補っている[要出典]。身体能力は高いが故障の多さがたたりタイトルには恵まれていなかったが、2010年には交流戦史上最高打率.415を記録して交流戦首位打者を獲得し、パ・リーグのベストナインにも初選出された。

入団当初より走攻守三拍子揃った選手と注目されていたものの、肝心なときに怪我をすることが多く飛躍のきっかけを掴めなかった。2003年より頭角を現し、2004年には40本塁打を放ちブレイクを果たした。この頃から打席では力を抜いた構えにし始め、成績を上げていく。当時、横浜の投手コーチであった小谷正勝による投手目線からのアドバイスで、佐伯貴弘の構えを参考にしているという。この活躍は、「多少痛くても『痛い』と言わないこと」を覚えたのが最大の要因といわれる[要出典]。彼の怪我は野球の試合や練習中にとどまらず、ポスター撮影中にジャンプして右足関節を捻挫したり、プロ野球再編問題に伴うストライキの際に握手会で左掌の炎症を起こしたりしている。あまりの故障の多さからソフトバンク移籍後も、松中信彦がインタビューなどで多村の話題が出ると必ず「彼は怪我が多いので」と話しており、本人も移籍を機に意識改革を行った。それまではそれ程でもなかった走り込みを徹底して行い、下半身強化に努めたなど、インタビューで語っている。

[編集] 人物

高校時代の同期に矢野英司斉藤宜之紀田彰一ゆず北川悠仁(歌手)がいる。

家族は妻と3人の娘。福岡への移籍に際して、家族そろっての転居も考えたが、「学校のことを考えると、引っ越しは難しかった」と語り、家族を横浜に残し単身赴任している[8]。2005年の交通事故の際には「スリップした瞬間に諦めてハンドルから手を離そうとしたが、家族の顔が頭に浮かんだため、最後まで手を離すことはなかった」と述べている。

子供の頃から地元神奈川の球団、大洋ホエールズのファンであり、憧れていた野球選手はカルロス・ポンセであった。家族や親戚も大洋ファンであったため、ドラフトで横浜から指名がかかったときは家族中で大喜びしたという[9]

出身地を「神奈川県厚木市」とされることが多いが、生まれてから幼少期までを過ごした場所は県のなかでも唯一の村である清川村である。山の中の自然に囲まれた環境で育ったが宮ヶ瀬ダム建設に伴い厚木市に引っ越している。生まれ育った生家は今もダムの底にある。

横浜入団同期で同い年の相川亮二(現ヤクルト)とは若手時代から共に励まし合ってきた親友同士である。多村が試合に休まず出場するようになった年も相川は「もう少し頑張ろう」と励まし続け、一方の多村は相川にバッティングのアドバイスをしていた。多村の愛娘(長女)は相川の大ファンであるが、相川にだけは絶対嫁にやらないと言っている[10]

横浜時代の背番号6の前任者中根仁は多村より10歳上で多村の素質を評価しており、「多村が一人前になったら引退する」と公言していた[11]

2001年の春季キャンプで落合博満の臨時コーチをうけ、落合にコースに逆らわず打ち返す広角打法を伝授され、さらに落合が見張る前で2時間に1000回以上バットを振らせ、 多村の当時の「ロバート・ローズを模したフォーム」から、「多村自身が楽に振れる、自然に力の抜けたフォーム」へと変わっていったことで打撃開眼したと落合自身が著した本に掲載され、多村自身も2011年日本シリーズ第3戦においてホームランを打った際「自分の打撃をつくってくれた人。そんな落合さんの前でホームランを打ててうれしい」とコメントしている。

2005年12月5日、NTVスポーツうるぐす「2005アンラッキー王決定戦」の収録に西口文也普天王とともに参加。釣り対決を行った。釣れたのは魚の「ウロコ」のみ(西口は1匹も釣れなかったため、普天王1匹・多村ウロコ1枚・西口0匹で、ウロコの差で西口に勝利した)。最後に神社でお祓いしてもらったものの、おみくじで「凶」を引いてしまった。

外野守備や走塁・さらにファッションにもこだわりがあり、用具にも刻まれている「6TOOLS(6ツール)」は、5TOOLS(5ツール=打撃技術、パワー、足、守備、肩)+ファッションを意味しており、公式サイト名(現在は閉鎖)にもなっていた(当初は"S"が無く、「6TOOL」だった)。公式サイトによると、2009年よりファッションをメンタリティに変更したとしている[12]

2009年までオールスターゲーム出場経験は無かった。2010年のオールスターゲームにファン投票で選出され、初出場を果たす事となった。

ソフトバンクでは神奈川県出身の高橋徹福田秀平やチームスタッフらと「神奈川県人会」を結成している。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1997 横浜 18 27 26 2 7 1 0 1 11 4 0 0 0 1 0 0 0 9 0 .269 .259 .423 .682
2000 84 245 226 21 58 6 1 7 87 29 2 0 0 2 13 3 4 64 3 .257 .306 .385 .691
2001 33 54 43 8 7 2 0 1 12 2 0 0 0 0 8 2 2 15 1 .163 .321 .279 .600
2002 81 196 183 23 43 8 0 5 66 16 3 1 2 0 9 1 2 54 1 .235 .278 .361 .639
2003 91 260 242 29 71 12 0 18 137 46 14 7 1 0 12 1 5 65 7 .293 .340 .566 .906
2004 123 492 449 80 137 19 2 40 280 100 10 7 1 1 39 0 2 126 8 .305 .363 .624 .986
2005 117 499 450 71 137 26 2 31 260 79 2 4 0 1 43 1 4 108 6 .304 .369 .578 .947
2006 39 145 127 24 35 3 0 8 62 20 5 1 0 1 14 2 3 29 5 .276 .359 .488 .847
2007 ソフトバンク 132 553 509 61 138 28 3 13 211 68 3 2 2 1 38 0 3 117 8 .271 .325 .415 .739
2008 39 158 149 17 45 6 1 3 62 15 0 1 0 1 6 0 2 29 6 .302 .335 .416 .752
2009 93 338 308 39 87 17 1 17 157 57 0 1 0 4 22 1 4 66 11 .282 .334 .510 .844
2010 140 559 513 74 166 33 1 27 282 89 2 2 0 3 33 2 10 93 11 .324 .374 .550 .924
2011 100 356 323 28 78 16 0 4 106 36 1 1 0 1 29 0 3 66 11 .241 .309 .328 .637
通算:13年 1090 3882 3548 477 1009 177 11 175 1733 561 42 27 6 16 266 13 44 841 78 .284 .340 .488 .828
  • 2011年度シーズン終了時

[編集] 年度別守備成績


外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1997 7 5 1 0 0 1.000
2000 72 130 5 1 1 .993
2001 27 27 2 0 0 1.000
2002 69 84 3 1 1 .989
2003 85 122 2 2 1 .984
2004 119 243 6 3 2 .988
2005 115 240 5 3 1 .988
2006 34 58 0 1 0 .983
2007 126 223 2 2 1 .991
2008 36 71 0 1 0 .986
2009 79 120 3 1 1 .992
2010 136 226 3 2 0 .991
2011 83 136 2 2 0 .986
通算 988 1685 34 19 8 .989

[編集] 表彰

[編集] 記録

初記録
節目の記録
本塁打に関する記録
  日付 対戦球団 球場 相手投手
1 1997年4月29日 中日4回戦 横浜スタジアム 5回裏 前田幸長
2 2000年6月20日 ヤクルト9回戦 明治神宮野球場 5回表 石井一久
3 7月9日 広島15回戦 広島市民球場 6回表 ネイサン・ミンチー
4 8月10日 巨人21回戦 東京ドーム 4回表 工藤公康
5 9月24日 阪神26回戦 横浜スタジアム 3回裏 井川慶
6 2005年5月9日 楽天1回戦 フルキャストスタジアム宮城 4回表 山村宏樹
7 5月21日 西武2回戦 横浜スタジアム 3回裏 河原純一
8 5月25日 ソフトバンク2回戦 横浜スタジアム 4回裏 斉藤和巳
9 6月11日 オリックス5回戦 横浜スタジアム 2回裏 川越英隆
10 2006年6月2日 日本ハム4回戦 横浜スタジアム 1回裏 橋本義隆
11 2007年10月3日 ロッテ24回戦 千葉マリンスタジアム 5回表 成瀬善久
12 2009年6月2日 横浜1回戦 福岡Yahoo!JAPANドーム 4回裏 トム・マストニー

[編集] 背番号

  • 52 (1995年 - 1999年)
  • 55 (2000年 - 2003年)
  • 6 (2004年 - )

[編集] 登録名

  • 多村 仁(たむら ひとし)(1995年 - 2009年5月21日)
  • 多村 仁志(たむら ひとし)(2009年5月22日 - )

[編集] 脚注

  1. ^ http://www.zakzak.co.jp/spo/200905/s2009052220.html
  2. ^ ソフトB多村単年1億8000万で更改日刊スポーツ、2011年1月29日。
  3. ^ a b 小関順二、西尾典文、石川哲也、場野守泰 『プロ野球スカウティングレポート2011』 廣済堂出版、2011年、34-35頁。ISBN 978-4-331-51519-8
  4. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2005』 白夜書房、2005年、27頁。ISBN 4-86191-015-3
  5. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2011』 白夜書房、2011年、132頁。ISBN 978-4-86191-710-3
  6. ^ Baseball Lab守備評価~Right FielderSMR Baseball Lab
  7. ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2007』 アスペクトムック、2007年、7頁。ISBN 978-4-7572-1338-8
  8. ^ 男の野球道 Vol.23 多村仁志『週間ベースボール』2009年42号、ベースボール・マガジン社、雑誌20443-9/21、36-39項。
  9. ^ 多村仁オフィシャルサイト内 massageより、2005年2月25日
  10. ^ 横浜ランドマークプラザ主催 多村仁、相川亮二トークショーでの発言、2005年1月3日。
  11. ^ 2003年月刊ベイスターズ 中根仁インタビュー。
  12. ^ [1]

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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