細川亨
| 福岡ソフトバンクホークス #27 | |
|---|---|
2011年4月16日 福岡 Yahoo! JAPAN ドーム
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 青森県東津軽郡平内町 |
| 生年月日 | 1980年1月4日(32歳) |
| 身長 体重 |
183cm 95kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 捕手 |
| プロ入り | 2001年 自由獲得枠 |
| 初出場 | 2002年9月22日 |
| 年俸 | 7,100万円+出来高(2012年) ※2011年から4年契約(年俸変動制) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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細川 亨(ほそかわ とおる、1980年1月4日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(捕手)。青森県東津軽郡平内町出身。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] プロ入り前
青森県立青森北高等学校では主将を務め、県大会では1年次から出場。強肩強打の捕手として活躍したが、甲子園出場はなかった。同級生には歌手のSONOMIがいる。
青森大学では捕手として異例の1番打者として活躍し、先頭打者本塁打も記録。全日本大学野球選手権大会ではベスト4に進んでいる。当時のメンバーには工藤隆人(ロッテ)がいた。2001年のドラフト会議で、西武ライオンズに自由獲得枠で入団。
[編集] 西武・埼玉西武時代
2002年は伊東勤や野田浩輔の活躍もあって一軍での試合は2試合のみだったが、2003年、兼任コーチでもあった伊東は「二人は使わない。二人使うと二人とも死ぬ」と細川と野田のいずれか一人を正捕手として育成する考えを示した。同年93試合に出場し、この年で現役を引退した伊東の73試合出場を超えて事実上正捕手として頭角を現す。2004年には監督に就任した伊東の下、ポジションを争っていた野田の負傷もあり、116試合に出場。伊東は「アマチュアでついた癖はなかなか直しにくいが、細川はのびのびやっていたからよかった」と名指しで評価している。また、同年4月4日の対日本ハム戦でプロ野球史上63度目のサイクル安打を達成(プロ野球史上59人目、捕手としては4人目の記録)。5月12日にサンマリンスタジアム宮崎で開催された対ダイエー戦では同球場におけるNPB公式戦第1号となる本塁打を記録。
2005年、リード面では一定の信頼を得たものの、リーグ最多の捕逸数を記録し、更に企図数は少ないものの盗塁阻止率もリーグワースト2位と捕手としての評価を下げる結果を残した。
2006年、前年の守備難もあり、開幕戦スタメンを高卒新人・炭谷銀仁朗に明け渡す結果となり、苦しい立場でのスタートとなった。しかし春季キャンプで伊東監督から「スナップスローを心がけてみろ」と指導を受けた結果、盗塁阻止率が12球団最高の.469を記録すると同時に、年間通じて捕逸無しとこちらも向上。前年リーグ最下位・準最下位の辛酸を嘗めた両部門で一転リーグトップに転じるという長足の進歩を見せた。更に打撃でもフォーム改造(後述)の奏功もあって終盤好調を維持するなど改善の兆しを見せ、また最大の懸案であったリードも伊東監督に「落ち着いてリード出来るようになった」と信頼を得るなど、全面において大きく評価を上げた一年となった。松坂大輔が登板するときは炭谷ではなく細川がバッテリーを組み、またシーズン終盤には涌井秀章が先発登板した試合にもスタメンマスクを被るなど(シーズン当初、涌井が先発する試合では銀仁朗がスタメンで起用されることが多かった)、レギュラー争いを一応は制した格好となった。12月29日、伊東監督の現役時代の背番号27を受け継ぐことが決まった。
2007年、一年を通して正捕手の座を手放すことなく活躍し、捕手ではリーグ最多となる139試合に出場した。打撃もわずかではあるが向上し、自己最高の打率.239、打点43、3年ぶりの2桁本塁打を記録した。2年連続で12球団トップとなる盗塁阻止率.405を記録した。9月は若手起用の方針から銀仁朗のスタメン起用が多かったが、その際には8・9回の守備を担当する「抑え捕手」として出場した。打率.239は自己最高であるが、規定打席到達者の中でリーグ最低であった。リーグ6位の21犠打で、4年連続20犠打を記録した。追い込まれると弱く、1ストライクまでの打率は.288と高かったが2ストライク後の打率は1割台だった。10月1日に1試合だけ7番で、10月5日の最終戦で2番に起用されたが、8・9番以外の打順で起用されるのはプロ6年目で初めてだった。
2008年、本塁でブロックした際に利き手を縫う怪我をするなど133試合の出場に留まったが本塁打、打点共にプロに入って最高成績を記録し、打率も前年のベストに近い数字を出し、自身初のベストナインに選出される一方、三振数が129と前年よりも増えてしまった。日本シリーズで第4戦まではスタメンマスクを被っていたが、第5戦の1回表で一塁に滑り込んだ際に右肩を脱臼し、そのまま負傷交代するアクシデントが起こる。銀仁朗が以後を引継ぎ見事に日本一を達成、細川は負傷した右肩の治療に専念するため、アジアシリーズにも出場しなかった。北京オリンピック野球日本代表最終候補選手に選出されるも、最終メンバーには選出されなかった。オールスターゲームには自身初となるファン投票1位での初出場を果たした。リーグ3位でチームトップとなる23犠打で5年連続20犠打を記録し、守備面では捕逸をリーグワーストの8個記録したものの、捕手として12球団トップの133試合に出場し、自身初となるゴールデングラブ賞を受賞。
2009年、2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表候補に選ばれたが、最終メンバーから漏れた。選手とコミュケーションを取りたいと細川の意向で、キャンプ中に「細川バー」を開業した。開幕戦(4月3日)は息子の誕生日で、前日に息子に本塁打を打つ約束をしていたが、実際に決勝となる逆転本塁打を放って約束を果たした。しかしその後は前年に負傷した右肩の影響で46試合の出場にとどまった。
2010年、開幕スタメンを争っていた銀仁朗の離脱もあり開幕からほぼスタメンマスクを被る。5月5日には素早い一塁牽制でピンチを救い、その裏の1イニング10得点を呼び込む。6月18日~20日の対ソフトバンク戦(西武ドーム)ではプロ入り初となる3試合連続本塁打(ダメ押し満塁弾・逆転3ラン・逆転満塁弾)を放つなど、好調を維持していたが、主砲の中村剛也が怪我で離脱しチームの攻撃力が低下したことや、自身の不調も重なって中盤以降は打撃の良い上本達之にスタメンマスクを譲ることが多くなった。9月は打撃好調でスタメンの機会も増えたが、最終的な打率は2割に届かなかった。一方、盗塁阻止率は.361で3年ぶりにリーグ1位となった。
11月8日にFA権を行使。福岡ソフトバンクホークス、横浜ベイスターズ、オリックス・バファローズと交渉の末、同月23日にソフトバンクと4年契約で合意した。
[編集] ソフトバンク時代
12月6日に正式に契約を交わし、横浜からFA移籍した内川聖一と共に入団会見を行った[1]。年俸は総額2億5000万~8億円(推定)で背番号は西武時代と同じ27に決定。
2011年は開幕から和田毅、杉内俊哉の両エースとのコンビは勝ち星が伸びず、スタメンマスクを山崎勝己に譲った(後に和田先発時のスタメンマスクは取り戻す)。しかし、最多勝を獲得したD.J.ホールトン、先発転向1年目の攝津正、若手で台頭した山田大樹、岩嵜翔、大場翔太、大隣憲司などを好リードし、チームの連覇に大きく貢献した。2度の怪我による離脱もあったが97試合に出場し、打撃では打率.201、1本塁打、20打点と低調ではあったが、自己最多の34犠打を記録。守備では盗塁阻止率こそ.183だったが無失策を記録し、3年ぶりにベストナインとゴールデングラブ賞を受賞。
ポストシーズンでは古巣西武とのクライマックスシリーズファイナルステージでは無安打だったが、1,2戦で和田、攝津を好リードし、ホークス悲願のCS突破に貢献。中日との日本シリーズでは杉内が先発登板した第2,7戦以外で先発出場し、第3戦では本塁打を含む3安打猛打賞。第5戦でも貴重な追加点をバスターの構えから放ち攻守に活躍。ホークス8年ぶりの日本一に大きく貢献した。
[編集] プレースタイル
[編集] 守備
2010年にはリーグトップの守備得点を記録するなど捕手としての総合力が高い[2]。打者の苦手コースを突く慎重なリードを持ち味とし[3]、野村克也からは「パ・リーグで一番キャッチャーらしいキャッチャー」と高く評価されている[4]。2008年の日本シリーズ第7戦で先発投手の西口文也の投げたスライダーを銀仁朗が捕逸で失点してしまった場面では「これは細川なら取れていた」とコメントし[5]、ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の選抜においては原辰徳は城島健司を正捕手として起用したが、野村は細川が適任であると考えていたという[6]。非常に頑丈な身体でブロックも上手く、本塁での相手選手からの体当りにもボールを離さない。
[編集] 打撃
安定感はないものの、ボールにバックスピンをかけて飛距離を出す長打力が持ち味[7]打球方向の殆どがレフト方向へ向かうプルヒッター。2006年シーズン中盤からランナーの有無に関係なくバントの構えからヒッティングに切り替えるバスター打法を取り入れた。フォーム改造後は三振を大幅に減らし、本塁打も増え「恐怖の8番打者」として注目を集めたが、シーズン打率は1割台に終わった。翌年は通常の打法に戻し、以降は打法の変更を繰り返す。2010年には再びバスター打法に取り組むが、打率の低迷により取りやめると打率が向上し、3試合連続本塁打を記録する好調を招いた。この打法は細川の登場曲に引っかけて「ズンドコ打法」と呼ぶこともあり、嶋基宏・山崎勝己・本多雄一が一時期取り入れるなど、球界に静かなブームを呼んだ[要出典]。[8]文化放送ライオンズナイターの斉藤一美は細川に「バスターでドカン」というニックネームをつけている。また、5年連続20犠打を記録するなどチームプレイに徹することもできる。
[編集] 人物
愛称は「キヨシ(顔が氷川きよしに似ていることから)」。伊東勤が名付け親で、本拠地試合での登場曲には、細川本人が自前で購入した「きよしのズンドコ節」が使われており、登場時の掛け声「キヨシ!」は名物化している。
男っぽい風貌から浜田雅功に「若頭みたいやな」と突っ込まれている。[9]
文化放送などのゲストに呼ばれたとき、インタビュー内容が全て釣りの内容になることもあるほど釣り好きとして知られる。
父の日に「親父」の刺繍入りの水色リストバンドをチームメイトに配り着用した。
西武時代は、銀仁朗などライバルが多かった事に加え腰痛持ちであるため、フル出場を果たした事は一度もない。捕手争いでは有利とされるソフトバンクにおいても、腰痛持ちであることが唯一の不安とされている。
月刊ホークスのコーナーで、内川聖一に「細川さんは痛みに強いですが、どうやったらケガに強くなれますか」と質問された際、「ある程度我慢したら出場できる」とコメントした。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2002 | 西武 | 2 | 4 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
| 2003 | 93 | 216 | 195 | 21 | 39 | 12 | 1 | 5 | 68 | 14 | 1 | 2 | 9 | 0 | 9 | 0 | 2 | 64 | 4 | .200 | .243 | .349 | .591 | |
| 2004 | 116 | 366 | 313 | 34 | 68 | 21 | 1 | 11 | 124 | 39 | 2 | 1 | 23 | 1 | 22 | 0 | 6 | 104 | 5 | .217 | .281 | .396 | .677 | |
| 2005 | 113 | 348 | 289 | 25 | 56 | 12 | 1 | 8 | 94 | 32 | 0 | 0 | 27 | 1 | 29 | 1 | 2 | 86 | 4 | .194 | .271 | .325 | .596 | |
| 2006 | 99 | 312 | 266 | 22 | 53 | 13 | 1 | 7 | 89 | 27 | 0 | 0 | 26 | 1 | 15 | 1 | 4 | 68 | 3 | .199 | .252 | .335 | .586 | |
| 2007 | 139 | 448 | 393 | 39 | 94 | 20 | 0 | 10 | 144 | 43 | 2 | 2 | 21 | 5 | 20 | 2 | 9 | 96 | 8 | .239 | .288 | .366 | .654 | |
| 2008 | 133 | 446 | 404 | 42 | 96 | 20 | 1 | 16 | 166 | 58 | 0 | 0 | 23 | 3 | 12 | 1 | 3 | 129 | 11 | .238 | .263 | .411 | .674 | |
| 2009 | 46 | 114 | 102 | 8 | 18 | 5 | 0 | 4 | 35 | 13 | 0 | 0 | 6 | 0 | 6 | 0 | 0 | 44 | 1 | .176 | .222 | .343 | .565 | |
| 2010 | 112 | 341 | 293 | 28 | 56 | 10 | 2 | 8 | 94 | 33 | 1 | 1 | 23 | 0 | 20 | 1 | 5 | 84 | 4 | .191 | .255 | .321 | .576 | |
| 2011 | ソフトバンク | 97 | 264 | 219 | 16 | 44 | 7 | 1 | 1 | 56 | 20 | 1 | 0 | 34 | 1 | 7 | 0 | 2 | 55 | 1 | .201 | .230 | .256 | .486 |
| 通算:10年 | 950 | 2859 | 2478 | 235 | 524 | 120 | 8 | 70 | 870 | 279 | 7 | 6 | 192 | 12 | 140 | 6 | 33 | 731 | 41 | .211 | .262 | .351 | .613 | |
- 2011年度シーズン終了時
[編集] 年度別守備成績
| 年 度 |
試 合 |
企 図 数 |
許 盗 塁 |
盗 塁 刺 |
阻 止 率 |
同 順 位 |
捕 逸 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2002 | 2 | ||||||
| 2003 | 92 | 36 | 24 | 12 | .333 | 3 | 5 |
| 2004 | 116 | 50 | 36 | 14 | .280 | 6 | 3 |
| 2005 | 113 | 60 | 45 | 15 | .250 | 6 | 7 |
| 2006 | 99 | 49 | 26 | 23 | .469 | 1 | 0 |
| 2007 | 139 | 79 | 47 | 32 | .405 | 1 | 6 |
| 2008 | 133 | 97 | 62 | 35 | .361 | 2 | 8 |
| 2009 | 46 | 25 | 17 | 8 | .320 | - | 2 |
| 通算 | 744 | 396 | 257 | 139 | .351 | - | 31 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 太字年はゴールデングラブ賞受賞年
[編集] 表彰
[編集] 記録
- 初出場・初先発出場:2002年9月22日、対千葉ロッテマリーンズ26回戦(千葉マリンスタジアム)、8番・捕手として先発出場
- 初安打:2003年4月2日、対オリックス・ブルーウェーブ3回戦(西武ドーム)、7回裏に吉井理人から左中間二塁打
- 初打点:2003年4月4日、対大阪近鉄バファローズ1回戦(西武ドーム)、5回裏にジェレミー・パウエルから左越適時二塁打
- 初本塁打:2003年4月21日、対オリックス・ブルーウェーブ4回戦(札幌ドーム)、6回裏に具臺晟から右越2ラン
- 初盗塁:2003年6月29日、対福岡ダイエーホークス16回戦(福岡ドーム) 、5回表に二盗
- サイクルヒット:1回 (2004年4月4日、対日本ハムファイターズ戦、札幌ドーム) ※史上59人目
[編集] 背番号
- 47 (2002年 - 2005年)
- 30 (2006年)
- 27 (2007年 - )
[編集] 脚注
- ^ 内川「九州に帰ってきた」日刊スポーツ、2010年12月6日。
- ^ 捕手の総合力比較SMR Baseball Lab
- ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2007』 アスペクトムック、2007年、76頁。ISBN 978-4-7572-1338-8。
- ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2009』 アスペクトムック、2009年、45頁。ISBN 978-4-7572-1628-0。
- ^ 2008年11月10日放送分のJ-SPO(TBS系列)にて
- ^ 野村克也『あぁ監督―名将、奇将、珍将』角川書店、2009年、124ページ、ISBN:9784047101838。
- ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2008』 アスペクトムック、2008年、424頁。ISBN 978-4-7572-1439-2。
- ^ Template:ホークス公式ホームページ、 http://www.softbankhawks.co.jp/event/allthats/2007/vol5.php
- ^ 2009年1月25日「ジャンクスポーツ」にて。
[編集] 関連項目
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