岡村浩二

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岡村 浩二
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 香川県丸亀市
生年月日 (1940-11-10) 1940年11月10日
没年月日 (2023-01-29) 2023年1月29日(82歳没)
身長
体重
175 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1961年
初出場 1961年4月30日
最終出場 1974年6月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

岡村 浩二(おかむら こうじ、1940年昭和15年〉11月10日 - 2023年令和5年〉1月29日)は、中国天津市生まれ、香川県丸亀市[1]出身のプロ野球選手捕手)。

1972年登録名岡村 幸治1974年の登録名は岡村 浩司(ともに読み同じ)。

経歴[編集]

プロ入りまで[編集]

中国天津市生まれで、6歳の時に丸亀に引き揚げ[1]高松商業高校では同期の石川陽造とバッテリーを組み、甲子園に2回出場を果たす。1957年には春の選抜に出場。準々決勝で倉敷工渡辺博文に完封を喫する[1]

3年生時の1958年春季四国大会決勝に進み、エース板東英二を擁する徳島商と対戦。石川、板東が互いに無失点で投げ合い延長25回に進むが、最後は岡村の適時打などで2-0と勝ち越し優勝を飾る。同年夏の県予選決勝で高松一高を降し、夏の選手権に出場。この大会でも準々決勝まで進むが、作新学院に1-2で惜敗[1]。同年の富山国体にも出場、決勝まで進むがまたも作新学院に敗れる(日程が雨天順延で遅れ、決勝はオープン戦となり記録上は二校優勝)。

現役時代[編集]

石川とは立教大学でもチームメイト同士であったが、岡村は2年で中退し、1961年阪急ブレーブスに入団[1]。プロ入り3年目の1963年にはレギュラーに定着、規定打席(28位、打率.234)にも到達し、打率こそ低いが一発長打を秘めたバッティングを武器に活躍した。1964年にはオールスターゲームに出場。この頃には野村克也南海)の影に隠れながらも、パ・リーグを代表する捕手の一人となっていた。しかし怪我や故障による欠場も多く、1965年以降の3年間は規定打席に到達していない。

1967年からのリーグ3連覇にも、主力捕手として貢献した。同年の巨人との日本シリーズでは最終第6戦に城之内邦雄から本塁打を放つなど、18打数6安打2打点と活躍。1969年には自己最高の打率.262(リーグ24位)を記録、ライバル・野村を押しのけて初のベストナインを受賞する。だが同年の日本シリーズ第4戦では、球審・岡田功の判定に激怒し、岡田を殴って日本シリーズ史上初の退場処分を受けている[1](※後述)。

1971年7月17日にオールスター第1戦(阪急西宮スタジアム)にて江夏のオールスター9連続奪三振の8番目の三振を喫し、江夏の速球を「スピード違反」と表現した[2]。この年もリーグ優勝を経験したが、同年オフに種茂雅之との珍しい「正捕手+立教大学出身同士」の交換トレードで、阪本敏三佐々木誠吾と共に東映フライヤーズへ移籍[1](阪急へは種茂と共に大橋穣も移籍)。ここでは加藤俊夫の控えに回るが、日拓ホーム時代には高橋直樹とバッテリーを組んでノーヒットノーランを達成している(1973年6月16日対近鉄戦、後楽園球場)[3]。移籍後は腰痛悪化で出場機会が次第に減り、チームの親会社が日本ハムに変わった1974年のシーズン途中で現役引退した[1]

引退後[編集]

引退後は、故郷に近い高松市の古馬場で、「野球鳥・おかむら」という名の飲食店を経営していた[1]。店長は次男に任せ[4]、自身は高松市内にスナック『29(ツーナイン)』を開業し、実業家として活動した。次男の名前は野村克也に了承を貰って克也と命名した[5]

2023年1月29日肺がんのため、高松市内の病院で死去[6][7]。82歳没。死去から3か月後の4月29日に高松市内のホテルで、高松商業高校野球部OB回主催による「お別れの会」が実施[8]

選手としての特徴[編集]

岡村はダンカンとの対談で「野村さんに勝てるのは顔だけだった」と冗談で振り返っているが[9]、当の野村は高卒の名捕手として岡村の名前を挙げている[10]。なお、岡村は立教大中退である[11]

日本シリーズでの退場[編集]

1969年10月30日に行われた読売ジャイアンツ(以下、巨人)対阪急ブレーブス(以下、阪急)の日本シリーズ第4戦(後楽園)での事。

4回裏・巨人の攻撃、無死一・三塁の場面で、一塁走者・王貞治と三塁走者・土井正三がダブルスチールを敢行。阪急の二塁手・山口富士雄がホームに返球し、土井は岡村のブロックに跳ね飛ばされた形となった事からアウトと思われたが、球審・岡田功は「セーフ」の判定を下した。激昂した岡村は岡田を殴って、日本シリーズ史上初の退場処分となった(なお、2012年多田野数人危険球で岡村以来、史上2人目の退場処分を受けている)[12]

モニターの映像でもアウトと思われたが、土井の足は岡村にブロックされて跳ね飛ばされる前にホームを踏んでいる写真が新聞社から出て、岡田の判定が正しいことが判明した。ただし岡村は、後に放送された特番で「今でもあれはアウトだと思っている。長い事プロで活躍したのに、あの場面ばかり出されるのは無念だ」と述べている。ただ、奇しくも岡村と土井(余談だが、送球した山口は中退、阪急監督の西本幸雄走塁の際に打席に立っていた長嶋茂雄も)は大学では先輩後輩(岡村は2年で中退だが二つ上)の関係にあり、岡村は「大学の後輩と言う事で、土井に対して甘くなってしまった。」とも語っている[要出典]

巨人の川上哲治監督(当時)も、同年11月3日付読売新聞掲載の手記で[注 1]、「瞬間的に、判定に不満をいだいた岡村浩二君の行為はわからないではない」と認めている。また、当時巨人の選手であった瀧安治でさえも、『暴れん坊列伝 - プロ野球乱闘史』の中で、「たった一度の間違いで彼を評価してはならない。幾多もの苦労を乗り越え、あのブロックを作り上げ、あれほどまでにナインから全幅の信頼を置かれた姿こそが岡村の本当の姿である」と評している[13]

人物[編集]

フランク永井と仲が良かった[14]。現役時代にEPレコード『夜の大阪別れ雨』をリリースしている[15]。同い年の張本勲は「歌が抜群に上手く、声も歌い方もフランク永井さんとそっくりだった」と評している[14]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1961 阪急 90 203 187 14 34 3 3 0 43 10 1 0 4 0 11 0 1 55 4 .182 .231 .230 .461
1962 40 66 58 2 7 0 0 0 7 5 1 0 5 2 1 1 0 7 4 .121 .131 .121 .252
1963 136 466 428 31 100 16 0 8 140 34 3 3 5 1 26 1 6 83 12 .234 .286 .327 .613
1964 148 508 456 30 104 20 1 9 153 52 1 1 10 7 30 0 5 70 15 .228 .279 .336 .615
1965 107 283 248 16 44 7 0 6 69 22 0 3 5 4 23 0 3 58 9 .177 .252 .278 .530
1966 105 290 258 16 59 7 0 3 75 19 3 1 1 2 26 0 3 69 4 .229 .304 .291 .595
1967 103 333 306 21 68 7 0 11 108 34 0 1 6 4 14 2 3 61 11 .222 .260 .353 .613
1968 123 449 405 36 99 12 0 15 156 48 0 1 4 2 33 4 5 45 14 .244 .308 .385 .693
1969 121 443 404 39 106 12 0 15 163 61 1 3 5 2 26 3 6 59 9 .262 .315 .403 .719
1970 114 361 327 23 75 9 0 7 105 35 0 2 6 0 23 1 5 37 9 .229 .290 .321 .611
1971 125 452 401 33 89 13 0 7 123 50 4 5 4 1 37 5 9 44 19 .222 .301 .307 .608
1972 東映
日拓
日本ハム
65 138 126 3 25 7 0 1 35 12 0 0 2 2 6 0 2 14 6 .198 .243 .278 .520
1973 72 185 159 11 33 4 0 3 46 13 0 3 0 1 23 2 2 20 6 .208 .314 .289 .603
1974 21 32 30 0 5 2 0 0 7 0 0 0 0 0 0 0 2 6 0 .167 .219 .233 .452
通算:14年 1370 4209 3793 275 848 119 4 85 1230 395 14 23 57 28 279 19 52 628 122 .224 .284 .324 .608
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更

表彰[編集]

記録[編集]

節目の記録
  • 1000試合出場:1970年5月22日 ※史上145人目
その他の記録

背番号[編集]

  • 39 (1961年)
  • 29 (1962年 - 1971年、1973年 - 1974年)
  • 23 (1972年)

登録名[編集]

  • 岡村 浩二 (1961年 - 1971年、1973年)
  • 岡村 幸治 (1972年)
  • 岡村 浩司 (1974年)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 巨人軍5000勝の記憶付属のDVDでも触れられていた。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、118ページ
  2. ^ 筒居一孝 (2022年7月26日). “【オールスター好プレー3選】江夏豊の有言実行の「9者連続三振」、王貞治を苦しめた野村克也、新庄剛志の“お祭り男”ぶり”. THE DIGEST. 2023年11月16日閲覧。
  3. ^ [1]
  4. ^ 野球鳥おかむらスタッフ紹介
  5. ^ 【追悼岡村浩二さん】ノムさんと渡りあった「重戦車」 息子に付けた名前は… - サンスポ
  6. ^ “岡村浩二さん死去 元阪急捕手、高松商高出 82歳”. 四国新聞. (2023年2月1日). https://www.shikoku-np.co.jp/dg/amp/article.aspx?id=K2023020100000013100 2023年2月1日閲覧。 (Paid subscription required要購読契約)
  7. ^ “元阪急捕手・岡村浩二さん、肺がんで死去 82歳 日本シリーズ史上初の退場処分 ノムさん制しベストナインも”. スポーツ報知. (2023年2月2日). https://hochi.news/articles/20230202-OHT1T51162.html?page=1 2023年2月2日閲覧。 
  8. ^ “元阪急捕手・岡村浩二さんお別れの会が4・29に高松で開催…高松商OB会が主催”. スポーツ報知. (2023年3月17日). https://hochi.news/articles/20230317-OHT1T51071.html?page=1 2023年3月25日閲覧。 
  9. ^ “【ダンカンが訪ねる 昭和の侍】 岡村浩二さん「心のスキ」が招いた伝説の生還(2/3ページ)”. サンケイスポーツ. (2016年12月26日). https://www.sanspo.com/article/20161226-FR4MBCY3SJOKPJ5ZGF3VMJDRME/2/ 2018年11月18日閲覧。 
  10. ^ 野村克也氏 「大学出身のキャッチャーは信用していない」
  11. ^ 岡村浩二:週刊ベースボール
  12. ^ 【10月30日】1969年(昭44) カメラは見ていた…ブロック名人岡村浩二の股下から左足
  13. ^ 『暴れん坊列伝 - プロ野球乱闘史』pp.91-99(文藝春秋社・文春文庫ビジュアル版 1988年 ISBN 9784168108075)。
  14. ^ a b 週刊ベースボール 2023年3月13日号 連載『張本勲の喝!!』(41頁)
  15. ^ “【ダンカンが訪ねる 昭和の侍】 岡村浩二さん「心のスキ」が招いた伝説の生還(3/3ページ)”. サンケイスポーツ. (2016年12月26日). https://www.sanspo.com/article/20161226-FR4MBCY3SJOKPJ5ZGF3VMJDRME/3/ 2023年2月4日閲覧。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]