板東英二

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ばんどうえいじ
板東 英二
本名 板東 英二
別名 バンちゃん
生年月日 1940年4月5日(69歳)
出生地 満州国生まれ
日本 徳島県板野郡板東町育ち
(現:鳴門市
職業 プロ野球選手司会者野球解説者
活動期間 1959年 -
配偶者 あり

板東 英二ばんどう えいじ1940年4月5日 - )は、旧満州国生まれ、徳島県板野郡板東町(現鳴門市)育ちの元プロ野球選手野球解説者ニッポン放送毎日放送と契約、かつては中部日本放送)、野球評論家タレント司会者

スターダストプロモーション系列の芸能事務所オフィスメイワーク社長でもある。愛称は「板ちゃん」。福岡藩家老の子孫の旧男爵家の出身で常陸宮妃華子とは学習院女子短期大学時代の学友。5歳年上の姉さん女房。「東」は誤記。

目次

[編集] 経歴

中学卒業後1956年徳島商高に入学。その年の夏の甲子園に出場するも1回戦で敗退。1958年、再び夏の甲子園に出場。秋田商高(エースは後に国鉄→サンケイで活躍した石戸四六)、八女高を下して迎えた準々決勝·魚津高戦。18回で25の三振を奪うが相手投手・村椿輝雄も譲らず、0対0のまま引き分け再試合となった(「18回引き分け再試合」が適用された最初の試合。詳細は魚津対徳島商延長18回引き分け再試合を参照)。この再試合も完投し勝利。準決勝では作新学院高を破ったが、決勝で力尽き柳井高に敗れた。この大会で記録した83奪三振は高校野球の一大会における通算奪三振の最多記録であり、現在も破られていない。この記録に関しては自らも相当誇りに思っている様子で、斎藤佑樹のハンカチ王子フィーバーの際も出演番組で「甲子園の奪三振の記録は僕の方が上なんだから!」と何度も語っていた(斎藤佑樹の一大会の奪三振記録は78個)。

1959年中日ドラゴンズに入団。プロ入り同期には王貞治巨人)、張本勲東映)、村山実阪神)、足立光宏阪急)、河村保彦(中日)、田中俊幸(南海)、江藤愼一(中日)がいる。「巨人キラー」として活躍し、プロ11年間で77勝65敗の成績を残す。とりわけ1960年代後半には、「投手分業制」を提唱する近藤貞雄コーチの勧めで抑え投手となり、中日の初代リリーフエースとなった。オールスターゲームにも3回出場している。

プロ野球時代の目立った記録としては1961年に21歳で開幕投手となっており、現在も中日の開幕投手の最年少記録として残っている。また、1966年8月26日の巨人戦にリリーフ登板し、塩原明を1球でショートゴロに打ち取って降板。これによりセ・リーグで初の1球勝利投手に輝いている。1968年に右肘軟骨除去手術を受けるも、翌年1969年限りで現役を退き、その後は野球解説者、タレントとして活躍。現在に至る。

[編集] 野球関連のエピソード

板東 英二
基本情報
国籍 日本
出身地 日本徳島県板野郡板東町(現・鳴門市
(出生地: 満州国
生年月日 1940年4月5日(69歳)
身長
体重
170cm
70kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1959年
初出場 1959年
最終出場 1969年
経歴(括弧内は在籍年)
  • 前述のように魚津高との試合で「延長18回引き分け再試合」が初めて適用されたが、このルールが導入されるきっかけを作ったのも板東である。魚津高との試合のおよそ4ヶ月前、春季四国大会が行われたが、この時板東は徳島商高のエースとして、高知商高戦で16回、さらに翌々日の高松商高戦で25回[1]を1人で投げ抜いた(この時の高松商業の石川陽造投手(後に東映に入団)も25回を投げきった)。この事態を重く見た高野連はこの年の夏の甲子園から「延長18回を終えて引き分けの場合はその時点で試合を終了し、後日再試合を行う」ことを決定した。また、この延長戦の際、あまりの悲壮な投げ合いに、球審が感極まり、途中から声を出せなくなり、動作のみでコールし、「無声延長戦」と呼ばれた(試合は2-1で高松商業の勝利)。
  • 当時の徳島商業高校の練習は非常に厳しく(監督は須本憲一)、流感や台風による休校時も年中無休で夜11時頃まで行われていた。また「試合前には近くの高校で300球を投げ、試合直前のブルペンでも150球を投げていた」と『ジャンクSPORTS』で語っている。前述の延長18回を完投した翌日の再試合も300球の投げ込みを行ってから登板した。また、延長18回の投げ合いについても「練習に比べると、試合は半分(攻撃時)は座ってるから水も飲める。それに野球が2時間や3時間で終わるなんて天国だ」と語っている。
  • 延長18回引き分け再試合になった理由を、後に板東は「四国のピッチャーは速球派でガンガン来るタイプがほとんどで、魚津高の村椿君のような、打たせて取る軟投派のピッチャーとは対戦がなかったため、タイミングが合わず、戸惑ったまま試合をしたから」と発言している。なお延長18回で決着がつかず、翌日再試合が決まった日の夜、村椿は宿舎に帰るやいなや、食事も摂らず、すぐ横になり眠ってしまったのに対し(後のインタビューで村椿はこれを否定)、板東は宿舎に戻った後、しっかり食事をし、風呂に入った上で寝たという。
  • 太田幸司同様甲子園での投げ過ぎで選手生命が縮まったと言われる事が多い。
  • 中日に入団した動機について、「母親が契約金に釣られたから」「球団職員が高額紙幣を使わずにわざと半端な紙幣を使って札束の山を大きく見せ、そんなもの見たことがない徳島の親を買収したから」と講演会で冗談交じりに告白している。王、長嶋よりも高額だった契約金(著書の中で2000万円と公表している。王、長嶋はともに1800万円と言われる)であった。
  • 板東がリリーフとしてマウンドに登場するとネット裏にいた観客から、板東自身と板東を起用した近藤コーチに対し「くそたわけ」などと野次る声が聞こえた。怒った板東はきっちり抑えると一目散にネット裏に向かい、ネットをよじ登って野次の主のいる方向へ散々唾を吐きかけた。ふと隣で同じようにネットによじ登って唾を吐き飛ばしている者がいることに気づき、横を見るとそれは近藤コーチであったという。なおこの事件に対して、制裁金5万円が課された。
  • 現役時代からしゃべりがうまいことでも知られ、同期入団でバッテリーを組んだ元ヤクルトの名スカウト片岡宏雄は著書で板東のあまりのおしゃべりで具合を悪くしたと回想している。
  • 入団2年目の1960年オールスターゲームに監督推薦で選出され、後楽園での第2戦に全セの4番手として登板。先頭は田宮謙次郎大毎)だったが、田宮のネームバリューに圧倒され板東自らの意思で敬遠、小柄である次打者のカールトン半田南海)に対しおちょくったつもりで甘い球を投げたところを痛打され、球宴史上初のランニング本塁打を献上する結果となってしまい、一死もとれずに降板した。更にベンチに戻ると全セの水原茂監督(巨人監督)に「板東、もう名古屋へ帰れ。お前を選んだ俺がバカだった」とダメ出しされた。ちなみに板東は2007年のMLBオールスターイチローが同大会史上初のランニング本塁打を記録した際にも「日本のオールスター史上初のランニング本塁打を献上したのは僕なんですよ」とあらゆる放送番組語っている。
  • 現役時代の武器はフォークボール。入団当時の監督杉下茂に伝授された。ほかにシュートスライダーチェンジアップも投げたが、カーブは苦手だった。前述の1球勝利の際はこのカープを試しで投げたところたまたま初球から打者が手を出したためである。
  • 板東は「プロ入りした時点ですでに肘にネズミ(遊離軟骨)があり、肘に自転車のチューブを薄く切ったものを巻き付けた状態で投げていたので、長いイニングを投げるのが苦痛になっていた」と語っている。
  • 板東が現役だった当時の日本では「リリーフ=敗戦処理」の考えが根強く、抑え投手の重要性がそれほど認識されていなかったこと、また同じ時期に「8時半の男」として注目を集めていた宮田征典(巨人)の陰に隠れてしまったことは、板東にとって不幸であった。現役時代の映像がほとんど残っていないのは、板東にとってトークのネタであると共に悔恨事でもある。そのため島田紳助からは「板東さんは『僕はプロ野球で77勝した』なんて言っているが、ほとんどがオープン戦やら高校時代の勝ち星で、本当はプロで4勝ぐらいしかしなかった」とネタにされている。板東自身は「当時セーブ制度があれば100セーブはしていた」と語ったこともある。
  • 現役時代の映像が少ない中で、打者としてバッターボックスに立つ映像が残っている。また辛うじて写真がベースボール・マガジン社の「週刊ベースボール」別冊に写っている。
  • 巨人が2000勝を達成した1965年7月25日中日球場での中日戦で先発、8回1死まで巨人打線を無得点に抑えていたが柴田勲に逆転2ランを浴び、敗戦投手となる。巨人が5000勝を達成した2007年には日テレのプロ野球中継の中で放送されたほか、日テレの子会社であるバップが同年に発売した「ジャイアンツ栄光の5000勝 永久不滅版」に収録された。
  • オープン戦ながら後のヤンキースの名物コーチとなったドン・ジマー(当時東映)とも対戦したことがある。
  • アニメ『巨人の星』で、中日・星一徹コーチが名を挙げて賞賛したことでも知られる。実際は、大リーグから来日して日本野球をバカにしていたアームストロング・オズマに日本野球を知らしめるために、板東・星野仙一山中巽にオズマを討ち取らせて、彼の傲慢な心を折る役目を果たした。
  • 1967年は好調で巨人戦のリリーフも殆ど成功していたが下位のサンケイ戦で再三打ち込まれ 特にジャクソン、ロバーツを苦手として、サンケイのJR砲は巨人のON砲より上だと公言していた。
  • 現役引退は権藤博と同時期であった。このとき板東はスカウト、権藤はマネージャー転身を勧められたが2人とも自分に合わないと断っているが、2人とも勧められた仕事が逆であれば球団に残ったと語っている。これが縁というわけでもないだろうが、この2人は仲がよく現在も交流が続いている。
  • 現役引退については球団から板東自身に言い渡される前に新聞で見て知ったと著書で語っている。
  • 引退の直接の引き金になったといわれる肘の状態は相当悪く、現在も肘がまっすぐに伸びない。引退後20年以上経ってテレビ番組で腕相撲への参加を勧められたときも、肘の故障を理由に断っている。
  • 1974年当時野球解説をしていたCBCラジオで昼ワイド番組『ばつぐんジョッキー』のパーソナリティも担当。大いに好評を博し、他の曜日の担当者・上岡龍太郎と中日対阪神で盛り上がる。そしてこの年、この番組に当時愛知県在住の大学生だった山本正之が「燃えよドラゴンズ!」を録音テープで投稿し大きな人気を呼んだため、急遽番組企画としてレコードを吹き込んだところ、中日の優勝も相まって大ヒットを記録した。未だに同球団の正式な球団歌は知らなくとも、この歌は知っているというドラゴンズファンは多い。
  • CBCラジオで野球解説を担当していた時代は数多くの事業に手を出し、不眠不休の生活を送っていた。このため、野球解説のときにしばしば居眠りをしていたという。当時のテレビによる野球中継ではバックネット側からの画面が映し出されるのが当然の時代であったため、あるときテレビカメラには通常映し出されないバックネット側のラジオ中継ブースで油断してデスクの上に足を放り出して眠っていたところ、当日のテレビ中継がたまたまセンター側からの映像で中継されていたため、ふてぶてしい姿で爆睡する板東の姿が全国ネットの野球中継で流されてしまったことがある。
  • 日本で初めて野球帽、球団マスコット、ユニフォームパジャマを考案する。[要出典]
  • タレント活動が全盛期だったころは、毎日放送の解説者として契約しながら、出演はゲスト扱いの1試合のみ、という年もあった。活動が落ち着いてきた現在は他の解説者同様に出演するほか、近年ではニッポン放送とも契約し、達川光男同様関東・関西をまたにかけ活躍している。また、解説に関しては、「東京では巨人ファン、中京圏では中日ファン、関西では阪神ファンになっている」と揶揄された事もある。
  • 板東が元プロ野球選手であったことを知らない者が若い世代には多く、テレビの野球解説でもっともらしい解説を板東が行ったことに対し、視聴者から「板東はタレントにすぎないではないか。何故偉そうに解説しているのか」等の抗議電話が相次いだことがあるらしい。また苦情電話の相手に対し直接電話に出て逆ギレしたこともあり、前述の爆睡事件と続けて問題を起こしたという理由でCBCラジオの契約をシーズン途中で打ち切られてしまった。
  • 引退時の中日監督であった水原茂について著書で「名将といわれるが、監督として優れたものは何一つなかった。あったのは頑固さだけだ」と語っている。
  • 現役時代に自宅の庭で娘と写っている写真に自生していたモルヒネ阿片の原料となるケシの花も写っていた。その写真が新聞に載ると警察が自宅に来てケシの花を抜いていったという。
  • 中日時代に当時は珍しい、たった一球(1/3回)で勝利投手になった事がある。[2][3]

[編集] 年度別投手成績




































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H
I
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1959 中日 33 1 1 1 4 4 .500 411 97.0 89 6 29 4 69 3 0 37 34 3.15 6.40 1.22
1960 44 6 0 3 10 11 .476 703 174.2 145 17 35 1 126 0 0 57 51 2.62 6.49 1.03
1961 47 8 4 2 12 10 .545 795 193.1 166 14 48 4 108 2 0 65 56 2.60 5.03 1.11
1962 28 2 1 0 2 9 .182 364 88.2 85 10 25 3 56 3 0 44 42 4.25 5.68 1.24
1963 30 2 1 1 3 1 .750 314 73.2 77 2 26 2 39 3 1 32 25 3.04 4.76 1.40
1964 53 2 0 0 6 7 .462 600 140.1 144 13 44 3 73 3 0 60 48 3.09 4.68 1.34
1965 55 0 0 0 12 7 .632 617 156.1 120 11 45 3 87 3 1 47 39 2.25 5.01 1.06
1966 60 0 0 0 13 5 .722 520 133.0 103 14 30 1 91 5 0 44 38 2.57 6.15 1.00
1967 51 0 0 0 14 6 .700 485 119.2 110 11 28 2 72 4 0 37 34 2.55 5.42 1.15
1968 18 0 0 0 1 4 .200 108 21.2 29 3 11 0 12 2 0 23 16 6.55 4.98 1.85
1969 16 0 0 0 0 1 .000 102 22.1 23 1 11 1 15 2 0 11 9 3.68 6.04 1.52
通算:11年 435 21 7 7 77 65 .542 5019 1220.2 1091 102 332 24 748 30 2 457 392 2.89 5.52 1.17

[編集] 背番号

  • 30(1959年 - 1960年、1963年 - 1964年)
  • 14(1961年 - 1962年、1965年 - 1969年)

[編集] タイトル・表彰

[編集] 芸能人として

現役引退後は名古屋を中心に野球解説の他、タレント活動もしていたが中日時代の後輩(詳細不明)にCBCの野球解説者を追い落とされて収入が無くなり、上岡龍太郎と上岡に紹介された横山ノックを頼って名古屋から一時関西を拠点中心にタレント活動を行う。東京進出で全国的に知名度が上がって以降、名古屋からの出演依頼が舞い込む様になった。[4]

1979年頃に関西ローカル局朝日放送ABCテレビ)の深夜の視聴者参加型ビンゴゲーム番組『THE ビッグ!』メイン司会者を担当したのが、事実上の芸能界デビュー、「ビンゴシュート!」の掛け声とともに投球フォームを披露した。当時中京エリアだけでのローカルタレントであった板東を上岡龍太郎が関西に呼び寄せたのは、前述の事情とテレビ局スタッフから「面白いタレント居らへんか?」というオファーがあったから。この時上岡は板東に「君のセールスポイントは元気なところやから、常に全力で、大きな声で番組をやっていけ!」とアドバイスしていた。 この時の恩から「上岡さんは恩人であり師匠でもある」と語っている。[5]

これ以降、関西地区の各メディアの番組に多数出演するようになる。1980年代関西テレビ土曜昼に放送されていた『ノンストップゲーム』では司会として横山ノック桂文珍と共に人気を博す。

1984年に当時のプロ野球や自分の現役時代の裏話を集めた『プロ野球知らなきゃ損する』『プロ野球これだけ知ったらクビになる』を執筆。それぞれその年の1位、2位のベストセラーとなり、以後人気シリーズとなる。

また、1984年にはTBS金曜日の妻たちへII 男たちよ、元気かい?』でドラマ初出演し、俳優デビューを果たした。翌1985年には人気ドラマ『毎度おさわがせします』に中山美穂の父役で出演し、その後、金妻シリーズの第3作目『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』にも小川知子演じる山下由子の夫、山下宏治役で出演して好評を得た。そしてこの金妻シリーズは板東が後に俳優としての道を歩む大きな一歩になったのは言うまでもないであろう。1989年には、向田邦子原作の映画『あ・うん』で高倉健と共演し、翌年の第13回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞しており、その演技は高く評価されている。高倉とは『鉄道員』でも共演する。2007年1月から3月まで放送していたTBSの『華麗なる一族』の第4話で水谷通産大臣役として出演。

演じている役のほとんどが関西出身の設定である事から関西弁で演じることが多い。また、金妻シリーズや『金曜日には花を買って』『毎度おさわがせします』で共演した縁で香坂みゆき篠ひろ子佐藤B作とは現在でも親交が深く、後に始まった『土曜大好き!830』で香坂は女性アシスタントとして板東とタッグを組み、篠はこの番組の第1回と最終回の放送で記念ゲストとして、B作もこの番組のゲストとして何度も迎えられている。後述するが、2009年3月で放送が終了するひるドラCBC製作「オーバー30」と、愛の劇場大好き!五つ子完結編」という、TBS系の2つの帯ドラマの最終作品にもレギュラー出演した。

1980年代以降クイズ番組司会および解答者として多く出演(『クイズのりもの講座』、『わいわいスポーツ塾』、『マジカル頭脳パワー!!』、『スーパークイズスペシャル』、『クイズ!純粋男女交遊』など)、解答者の意見を一方的に遮断する威圧的な司会術で人気を博す。番組内容によって関西弁と標準語を使い分ける。『マジカル』終了後はクイズ番組の司会者としての仕事はあまりない。

黒柳徹子とは『世界・ふしぎ発見!』で初めて共演したが、始めから黒柳を「オバン!」呼ばわりし(関西弁で「おばさん」という意味。黒柳曰く、神戸出身ながら「オバハン!」を聞きなれないため、こんばんはの意味の「おばん」と解釈した)、黒柳を驚かせたという。「オバン!」以外には「お母さん」と呼ぶこともある。黒柳は関西での板東の番組のゲストに名乗り出ることもあり、正しくない関西弁で板東の素顔を語っている。黒柳は野球に対する知識がまったくないが、内容を吟味しているのか、会話が混乱することはない。

1990年代には、司会を務めた日本テレビ系のクイズ番組『マジカル頭脳パワー!!』において、パネラー達との絶妙なやりとりが人気となり、ピーク時には毎週20%を超え、時には30%台に達することもあるなど驚異的な高視聴率番組となった。ちなみに、みのもんた明石家さんま島田紳助などは、レギュラー番組で30%越えは一度も記録したことがなく、いかに人気を誇ったかが伺える。

1984年、『パネルクイズアタック25』(朝日放送・テレビ朝日系)の司会を務めている児玉清が盲腸の破裂に因る急性腹膜炎で入院した結果出演できなくなった時、代理司会として10月14日21日の2週にわたり抜擢されたこともある。児玉清以外にこの番組の司会を務めたのは、2009年現在板東ただ一人である。その他、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』などでも代理司会として担当したこともあり、前述の通り、クイズ番組の司会担当は多かった。なお板東は後年『クイズ!紳助くん』で行われた「アタック25」のパロディに解答者として出演している。

タレント業が波に乗る以前、板東は2代目桂枝雀の弟子になりたいと門を叩いたことがあるが、激怒されたらしい(詳細不明)。そのため、板東は枝雀を恐れていた。島田紳助が駆け出しのころ、板東のラジオに出演した際破格のギャラを提示し躊躇う紳助に対し「売れて返してくれたらいい」と答え紳助は粋に感じたという。その後珍プレー特集の司会者として長年紳助と共演した。

1983年、フジテレビが主催する「昭和58年度 第12回 日本放送演芸大賞」で、最優秀ホープ賞を受賞している(余談だがホープ賞はコント赤信号片岡鶴太郎桂文福斎藤ゆう子三遊亭小遊三山田邦子で、大賞はタモリが受賞しているなど、逸材が揃っていた)。

1980年代、それゆけ金曜!!板東英二放送中に「板東の母です!」 「お願いですから英二を黙らせて下さい!」「あの子はホンマに嘘ばっかり吐いて…」「英二の言う事は信じんといて下さい!」「皆さんにはご迷惑ばっかりお掛けしまして」と、放送が始まると毎週実のお母さんから毎日放送に苦情の電話が入っていた。あまりにしつこいのでスタジオに繋いだ事も複数回あり、放送中に板東は怒られ、共演者はひたすら謝られていた。

この頃電話コーナー『おばあちゃんと喋ろう』スタート。

  • 聴視者から田舎のおばあちゃんを紹介してもらい、板東が事前連絡なしで直接電話をする。
  • 板東は絶対に名乗らず、名前を聞かれると「僕やがな〜!」「忘れたんかいな!かなんな〜!」「名乗るほどの者でもございませんが…○○さんのおばあちゃんですね?」を繰り返しながら巧みにおばあちゃんの近況を聞き出したり、電話口で十八番を唄ったりという電話のやりとりをそのまま放送。
  • 20分程度喋ったところで「(名産品やお金を)送って〜な!」とねだりだす。
  • 最後に「わたくし板東と申しますが〜!」と正体を明かすが、声で早々に判る人や最後まで信じない人も居た(名乗りそびれも複数回あった)。
  • このコーナーで話したおばあちゃんが感激し、【生きたニワトリ100羽】を当時千里丘にあった毎日放送に送ってきた事があり、大混乱の末送り返した事は語り草。
  • オレオレ詐欺が流行し始めると所轄の警察幹部から「オレオレ詐欺の考案者は板東さんですよ!!」と怒られ、板東英二金曜生BAN BAN等で複数回ネタにしている。(これ以降、事前連絡が入る様になる)
  • このコーナーは好評で、金曜生BAN BANが終了した2009年7月現在も【板東英二のおばあちゃんと話そう】という番組で存続している。

1990年代後半になるとテレビでニコニコしながら司会を務める『良い板東』と、おばあちゃんから物をせびったり、他人の悪口を放送で言う『悪い板東』というキャラクターが金曜生BAN BANを中心に関西で定着しかけるが「どっちも俺やから!」の一言でこの呼称は消えた。

2000年に元付き人で、自分の番組で共演もしていた桂春彦から7億円を脅し取られそうになったが、春彦が逮捕されて未遂に終わった。

詳細は「桂春彦」を参照

2003年の正月前後(詳細不明)、板東・星野仙一明石家さんまの3人でゴルフをした際にさんまが坂東のイカサマを発見!!指摘するさんまに「イカサマしてでも勝ちたいんや!!」と言い放った。その場で爆笑を取ったフレーズを星野が気に入り「勝ちグセつけんかい!!」と共に同年シーズン中に多用したのがきっかけで全国的に有名になる。 故にメディアを中心に世間では星野考案とされている「勝ちたいんや!」というフレーズは不名誉なエピソードながら板東が発案したと言える。[6]

  • 余談ではあるが「ゴルフは負けるわ俺の言葉が流行語になるわってホンマ最低やで!」と、金曜生BAN BANで数十回ボヤき、おばあちゃんと話そうのコーナーで話すおばあちゃんにも「星野って知っとるやろ?あれがやな…」と度々ボヤいていた。
  • 2007年頃からは「(孫のため、再度芸能界で)ブレークしたいんや!」とも口にするようになる。『ネプリーグ』ではクイズに間違えてこれを見ていた娘が帰ったことがある。

2008年秋に東京ヤクルトスワローズ監督就任を目指すも失敗。 その後スワローズ監督に就任した高田繁にゴマをすってみたがコーチでの入閣も失敗。 2009年のワールド・ベースボール・クラシック代表監督に立候補するも門前払いされてしまった。[7]

[編集] 事業家として

野球選手時代から芸能界で言う「サイドビジネス」にも手をかけており、サウナの経営に始まり、これまでに株取引や通販事業などを手がける。事業によって成功・失敗は様々だが、テレビやラジオでは失敗談を話のネタにしている。

中日入団時から現役引退後を見すえていたのか、現役時代からサウナの経営やジュークボックスの販売をしていたほどで、財テクに長けていたことでも知られている。ちなみにプロ野球時代から牛乳の宅配業をサイドビジネスで行っているなど、早くから事業には熱心であった(ただし、この牛乳屋は板東自ら宅配を行うなどの営業努力もむなしく失敗したことをTVなどでよく披露していた。他にも引退後多数事業を営んだが、ほとんどが後一歩のところで失敗したという)1990年代前半のバブル崩壊に伴い大きな経済的損失を出し、自身が還暦を向かえた頃にようやく借金が完済したと打ち明ける。1996年の『スーパークイズスペシャル』で「板東・板東・バブルで弾けた」とネタにされた。(2008年テレビ東京の『やりすぎコージー』でも語っている)。

大阪・西天満にビルを所有し、日産・プレジデントトヨタ・istを購入したという。また、バブル絶頂期、島田紳助に財テクを教え込んだとも言われている(紳助はその後、不動産などの面でも大きな収益を得ている)。

1990年代から通販事業を開始。最初は通販番組に出演するだけだったが、自ら運営に携わるようになる。

[編集] 現在

  • 中部地方限定のローカル番組である『そこ知り板東リサーチ』において、毒舌ぶりを発揮しながら東海三県を渡り歩く番組は好評で、現在も名古屋の顔として定着してきている。確定申告の時期になると、名古屋国税局に出向く姿がイメージキャラクターとして映像が使われている。
  • 2005年3月12日放送の『晴れ・どきドキ晴れ』で愛知万博のアクセス口・名古屋市名東区藤が丘に現在住んでいることを公表したが、現在では名古屋地区のレギュラーが減少して東京や大阪(特に東京)の仕事が増えており、名古屋より東京や大阪の滞在時間が長いようである。また、現在はニッポン放送MBSラジオの野球解説者(いずれも本数契約)とサンケイスポーツ専属の野球評論家として活躍している。彼が試合の解説・評論をする時には早くから球場に入って、両軍の選手・監督・解説者にまで精力的に取材を行う。
  • 解説は的確であるが「もうこんだけ負けてたら聞かんでも良いです!今日は寝ましょう!」や「もう帰りたい」等、試合展開によってバラエティ色が強くなる。
  • タレント業もさることながら、自身(の事務所メイワーク)が運営するECサイト「板東商店.com」や、テレビ・プラス社との共同事業で運営するこだわりの食材ECサイト「美味!ニッポン」などを手がけるなど、手広く事業を行っている。特に「美味!ニッポン」は放送番組との連動企画で、この番組に関連したブログを執筆するなど、積極的な姿勢で取り組んでいる。
  • 奥さんは「神聖にして侵すべからずですから」と語り、名古屋に帰るのを嫌がっている。
  • 大阪滞在時は「お前の店高いねん!」「ボッタクリやで!」と言いつつ仲の良いリリアンの店に飲みに行き、カラオケ(2009年4月時点では吾亦紅)を練習している。

[編集] トピックス

  • 王貞治よりも入団時の契約金が高かった(小切手に「1」だけ書き込まれ、「後は好きなだけ0を書いてください」と言われた、と話したこともある)ことをいまだにトーク番組で自慢しており、最近ではフジテレビの『ジャンクSPORTS』に出演したときもそのことを語った。王とは「同学年で甲子園のスーパースター」という共通点があったこともあり仲が良く、巨人と中日が対戦する前日には2人で夕食を食べに行くほどだった。また板東が金妻シリーズに出演していた当時、巨人監督だった王は「俺も1度出てみたいよ」とうらやましがったという。
  • 1982年のペナントレースは中日と巨人が熾烈な優勝争いを展開したが、日本テレビ徳光和夫アナウンサー(当時)が『ズームイン!!朝!』で「もし、万が一読売巨人軍が優勝できなかったら私は丸坊主になります」と発言。同じく同番組に出演していた広島テレビ脇田義信アナウンサーも広島が優勝しなかった場合の丸坊主を公約した。結局中日が優勝し、徳光と脇田は中京テレビのリポーター・きくち教児ローカルタレント)と板東から丸坊主にされた。
  • 1985年のペナント開幕前に上岡龍太郎と、当時上岡が司会をしていたKBS京都の番組『タイガースフィーバー』内で「阪神タイガースが優勝したら番組視聴者をハワイ旅行へペアでプレゼントする」と発言。その年阪神は日本一に輝き、テレビ視聴者にハワイ旅行をペアでプレゼントした。同様に島田紳助も「タイガースが優勝したら丸坊主にする」と約束したが、紳助は「仕事上丸坊主はまずいので勘弁してください」ということで、放送関係者などに「日清どん兵衛」を配った。
  • NHKの『ええにょぼ』では戸田菜穂が演じるヒロインの父親役を演じたが、自らがガンで息を引き取るシーンでその日が終了した直後、朝8:30に自ら司会を務める『土曜大好き!830』の冒頭に大アップで登場し、にこやかに自分の臨終を報告したのが、彼の芸域の広さを物語っている。
  • 阪神の星野仙一シニアディレクターは板東より年齢が7歳も年下(学年は6つ下)であり、中日の先輩後輩にも関わらず、板東は星野のことを「監督!」と呼び、敬語でしゃべる(板東は著書の中で星野の人となりについても「闘志あふれる男と言われるがあれは星野の実像ではない。交替も自分から変えてくれと言った方が多いのではないか。ホントは気の小さい男なのだ。」「巨人相手に投げるのが生き甲斐だなんて言っているが広島戦の方がよっぽど一生懸命投げていた。その方が勝星につながるからだ」などの記述が見られる)。また星野は板東に対し「板ちゃん」と呼び、敬語を使わない。これについて明石家さんまからは「板東さん、チームの先輩だから『星野』って呼んだらいいのに」とネタにされるが本人は変える気はない。だがソフトバンクの王監督のことは同学年のライバル・親友であることから「王監督」とは言っておらず、「王」と呼び捨てにしている。更に10歳年下の和田アキ子にも「板ちゃん」と呼ばれているが、板東は和田を「アッコ」と呼んでいる(ちなみに年下である明石家さんまや島田紳助などからは「板東さん」と呼ばれるが、同じ年下であるやしきたかじんなどからは「板ちゃん」と呼ばれている)。
  • ずるいゴルフをすることも知られ、周りとしゃべりながら自分のボールをクラブで引きずるなど、ルール違反もはなはだしいゴルフを展開する。2003年の正月にはオーストラリアで板東・さんま・星野の3人でゴルフをし、何時も通りのせこいプレイをしていた上にスコアを改ざんするという暴挙が見つかり、突っ込まれた時に、その返答として板東が発した「勝ちたいんや」という言葉がその後、阪神優勝の合言葉として使用されることになった。板東は自分の発した言葉が想像以上にヒットし、「勝ちたいんやドリンク」などの商品名にも使われ始めたことから、当時さんまに会う度、「あれは僕の言葉なのに……」とか「あの(ゴルフの)こと、もっとテレビでしゃべってほしい」とせがんでいたのである。その後、「勝ちたいんや」は流行語となった。上方芸人が多数参加する、お笑い芸人を対象としたゴルフ大会に何故か毎年参加している。また、90年代に東西の芸人が集結し、数度に渡って行われていたコンペ「素人名人会」でも他の出場者から「部外者」「出場資格なし」とネタにされながら「オブザーバー」出場を認められていた。
  • 関西のテレビ番組・『ちちんぷいぷい』において、渡邉恒雄巨人軍会長を「もうボケたじじぃが出てくんな! プロ野球のことも大して知らんくせに偉そうなことばかりほざくなっちゅうねん!」と発言し、この番組を見ていた視聴者から板東の発言を絶賛する投書が多く寄せられた。余談だが、板東と同じく番組に出演していた元NHKアナウンサー宮川俊二に至っては「もう、お亡くなりになられた方がいいですね」と発言をしスタジオを凍りつかせてしまった。
  • めちゃ×2イケてるッ!』の1コーナー「やべっち寿司」に出演したときにカレービビンバを食べ、「これは商品化したほうがいい!」と本気で矢部に勧めていた。
  • お酒を飲む際、小指を立てながら飲むのはあまりにも有名な話である。
  • ある日、板東は島田紳助と株式投資の相談をしていた。そのとき、当時の横山ノック大阪府知事が、板東らに「養命酒、いけるぞ~!!」と通りかがりに発言した。板東と紳助は、ノックの一言が「政治家が投資関連の情報をもっていて、政治家の立場上はっきり言えないのでヒントを与えてくれた」と思い込んだ。早速、板東と紳助は養命酒製造株式会社の株式を購入したが、養命酒の株価は下落して、結果的に投資は失敗した。後日、紳助が「養命酒(の株を買ったが失敗したので)でエライ目(酷い目)にあいましたよ、養命酒はいいと教えてくれたのはどこの誰ですか?」とノックに言ったが、ノックの方は「身体に一番いいんだ!」と返答した。ノックはただ養命酒が健康に良いと言ったつもりだった。
  • 2007年12月12日放送の『笑っていいとも!』にて、巨人の原辰徳監督より2008年の投手コーチ就任を要請されていたが、当時の巨人軍コーチの年俸が8000万円の上限でそれ以上出せないと言われたため、板東は1億円以上じゃないと引き受けないと固辞したことを明かした。
  • 20年近く徳島県からは彼以外に芸能人として成功した人物が現れなかったために、徳島県で有名人を一人挙げろといわれると県民はほぼ確実に板東英二を挙げる。また、このことから、「徳島人はコケる」というありがたくないジンクスを生んでしまっていた。しかし、近年になり大杉漣アンジェラ・アキチャットモンチーが全国区の知名度になったこともあり、県内では「板東英二以来の芸能人」として話題になっている。
  • 高校野球時代の自分の実績に強く誇りを持っており、プロ野球選手時代の自分を笑いのネタにすることは多いが、高校野球時代をネタにすることは全くと言っていいほどない。
  • 2008年3月12日放送の『クイズ!ヘキサゴンII』で司会者の島田紳助、同チームの渡辺正行、別チームで水落ち担当の優木まおみ(実際は救われた)に薦められて水に落ちる最高年齢記録を更新したが、3ヶ月ほどで村田満に更新されてしまった(2008年8月6日放送で初共演した)。
  • 徳島ヴォルティスサポーターが、「勝ちたいんや!」との言葉が添えられた板東の顔を模した横断幕を掲げている。
  • 最近は島田紳助ら共演者に「親指みたいな顔の人」とおちょくられることも多い。
  • 持ち歩く現金は財布ではなく、ジップロックに入れている。あまりにも見栄えが良くないため、島田紳助からルイ・ヴィトンの手提げタイプの大きな財布を貰う。だが相変わらず現金をジップロックに入れており、紳助から貰った財布はカード入れとなっている。しかもカードの殆どが病院の通院カードである。
  • 2009年3月12日、大阪の毎日放送で番組の収録をしていた時、新譜の告知で同局を訪れていたMr.Bigのボーカル、エリック・マーティンに、サインを頼まれる。

[編集] ゆで卵にまつわるエピソード

  • ゆで卵が大好きで、売店で売ってるとついつい買ってしまい地下鉄車内でも食べてしまうという(マネージャー発言)。また、地下鉄車内で化粧をしていた女子高生を注意した際に、逆にゆで卵を食べている事を注意された事もある。2009年6月12日放送の『快傑えみちゃんねる』でこの事についての真相を語った際に、ゆで卵を食べている事を注意されたのは車掌だったことを明かした。さらに、その駅売店で売っているゆで卵が最近2個入りで味がついている事に不満を漏らしていた。
  • 新大阪でゆで卵を6つ買い、東京に着くまでの新幹線車内で全部食べてしまうほど(2007年10月20日放送のフジテレビ『めちゃイケ』のコーナー「やべっち寿司」での本人談)。SMAP中居正広ナインティナイン岡村隆史にこのことをよく物真似される。また、地下鉄でゆで卵食べていたら、駅員に「車両の中で、物は食べないで下さい」と指摘を受けたと2008年4月9日に放送された日テレの『ザ!世界仰天ニュース4時間30分スペシャル』で話していた。また、2008年4月21日放送『笑っていいとも』のテレフォンショッキングに出演した際、タモリへのお土産として、やはり大量のゆで卵を持参した。
  • ここまでゆで卵を好む理由として、終戦により旧満州から着の身着のままで難民同然に日本へと帰る際、空腹のあまり夜中に中国人の農家の鶏小屋から卵を盗んだが、見つかってしまう可能性があるため火も焚けず、生のまますすり飲むことで命を保った経験から、当時食べたくても食べられなかったおいしいゆで卵に特別の思い入れがある、と読売新聞のインタビューに答えている。
  • ゆで卵が好物であることが知れ渡った現在では、テレビ番組に出演する度に大量のゆで卵が板東の目の前に用意され、本番中でもゆで卵を黙々と食べるシーンが放送されている。ゆで卵にサインを書いて見に来た観客に渡すこともある。
  • 卵は黄身よりも白身が好き。
  • 全国にゆで玉子好き好きが知れ渡った2009年春頃、ロケで訪れた四国で軽トラック一杯の玉子を差し入れされ、処分に困ったと最終回直前の板東英二金曜生BAN BANで語り「頂きながら失礼なんですが、いや、有り難いんですけどね、限度っちゅうもんがあるやろう!」と怒っていた。

[編集] 現在の出演番組

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[編集] 過去の出演番組

[編集] テレビ

[編集] 単発ゲスト

[編集] ドラマ

[編集] ラジオ

[編集] 出演した映画

[編集] 出演したCM

[編集] 評論家

[編集] 著書

  • 赤い手
  • プロ野球知らなきゃ損する
  • プロ野球これだけ知ったらクビになる
  • プロ野球殺られても書かずにいられない
  • プロ野球ここを喋る奴はウチから出て行け
  • プロ野球この極秘事項を知ったら100倍面白い
  • プロ野球とても言えなかった機密事項
  • 板東英二のもっと言わせろ、プロ野球!
  • プロ野球ことしは黙ってられないゾ
  • アッコとバンちゃんの言いたい放題

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 徳島県高等学校野球連盟・記録
  2. ^ 板東英二金曜生BAN BANで複数回語っている。
  3. ^ 2009年7月13日放送の痛快!明石家電視台でクイズの問題になった。
  4. ^ 板東英二金曜生BAN BANで「あの時が一番苦しかった。仕事の大切さを知ったからオファーは断らない」と振り返っていたが「副業(財テク)の重要さを更に肝に命じたけど、これが上手い事いかんねや〜!」とも語っている。
  5. ^ 金曜生BAN BANで板東本人が語っている。
  6. ^ 痛快!明石家電視台等複数番組の番組で(経緯を聞かれた場合や時間のある場合)星野本人も証言しているが、スポーツマンシップの観点から公にはしにくい。
  7. ^ 金曜生BAN BANでは『板東ジャパン』というキャッチフレーズまで披露し、本気で狙っていたが(本人は大真面目でも)「全部ネタ扱いやで!」と怒っていた。

[編集] 外部リンク


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