ビートたけし
ビートたけし(本名:北野 武(きたの たけし)、1947年1月18日 - )は、日本のお笑いタレント、司会者、映画監督、俳優、芸術家、東京芸術大学大学院映像研究科特別教授。学士(工学)。漫才師。日本国外では本名名義の映画監督「北野武」としての知名度が高い。
東京都足立区島根出身。オフィス北野所属。
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概要 [編集]
1980年代初頭に起こった漫才ブームの中で社会風刺を題材としたシニカルな笑いツービートで人気を獲得、フジテレビTHE MANZAIやその後継であったオレたちひょうきん族らに出演し番組が大ヒット、お笑い芸人のみならず、日本のテレビ界を代表するタレントとなる。
タモリ、明石家さんまと共にお笑いビッグ3として君臨している。
一般人、芸能人(特に後輩芸人)問わず発言や行動に多大な影響力をもつ人物の一人である。
現在では司会業や映画監督業が中心で、中には20年以上続く番組がある。司会者として、聞き手に回りながらも、相手の何気ない一言を即席の持ちネタにし、話の節目やオチで効果的に連呼し、使用する特徴がある。
映画監督時や『平成教育委員会』(フジテレビ系列)などの番組では本名の「北野武」名義を用い、その他の番組、映画で出演するときは芸名の「ビートたけし」でタレント活動している。これに関して、2010年(平成22年)5月9日放送『平成教育委員会』では、「アカデミックな場所では『北野武』または『マス北野』、芸人として出る時は『ビートたけし』で使い分けている」との旨を述べた。日本国外では基本的に本名である『takeshi kitano(北野武)』だが、『beat takeshi kitano(ビートたけし北野)』と、いう、本名と芸名を併せた名義を使うこともある。
また、絵画では「ビートたけし・北野武」と言う名義で活躍もしている。
立川談志一門でもあり、高座名「立川錦之助」を持つ[4]。
来歴・経歴 [編集]
幼少時代 [編集]
東京都足立区島根町(当時)にて、塗装職人の父(北野菊次郎)と、母(北野さき)の五男(幼少時に夭折した兄が一人いるため、実質は四男として育つ)として生まれ、「竹のようにどんなものにも耐えてすくすく伸びてほしい」との願いから、「武(たけし)」と命名された。1982年「週刊サンケイ」の小林信彦との対談では「生まれたのは浅草で、すぐ移って、物心ついた時には足立区にいたんです」と話している[5]。色白で細面、小柄だが俊敏で友人からは「ターチ」と渾名された。兄姉とは年が離れていたため、祖母に非常に可愛がられて育った(家族構成は、「家族・縁戚」を参照)。母親からは厳しく接せられた。
足立区立梅島第一小学校に入学。一年生のときは黒田先生だった。二年生のときは藤崎先生だった。教育熱心だった母の薫陶が功を奏し成績は優秀で、特に算数と図画工作が得意だった。小学校卒業後は、母親が進学校を希望したため、近隣の中学ではなく、遠く離れた足立区立第四中学校へ越境入学した。中学卒業後、東京都立足立高等学校に入学。なお、小・中・高といずれも野球部に所属(高校は、軟式野球部)したが、高校時期にヨネクラジムでボクシングを習っていたという。なお、演芸場時代は、漫才師の野球チーム「メダトーズ」に加入していた。また未成年時代に飲酒していたことも自身の著書で明かしている。
大学時代 [編集]
1965年(昭和40年)に高校を卒業し、母親の薦めで、明治大学工学部(後の理工学部)機械工学科に現役合格し入学。しかし、大学での生活には適応できず、いわゆる五月病を患うようになり、大学2年の時には、家出同然に一人暮らしを始め、新宿界隈で当ての無い日々を送るようになる。
学生運動にも参加したが熱心ではなく、ジャズに傾倒する。“LeftyCandy”や「新宿ACB(アシベ)」、「風月堂」などに入り浸った。また、ジャズ喫茶のボーイもしていて、ジャズの見識は一部で有名であった。新宿のジャズ喫茶「ビザール」では、若松孝二、小水一男らと知り合う。また「ビザール」のボーイの後輩に萩原朔美がいた。ヴィレッジヴァンガードで、遅番のボーイとして働いていた時は、連続射殺事件の永山則夫が早番のボーイとして働いていた。「ジャズ・ビレッジ」の壁に書かれていた文章「強く生きよと母の声、死ねと教えし父の顔、何のあてなき人生なり」が心に残ったという[6]。
この頃は青春の葛藤期でもあり、友人の下宿に居候しアルバイト三昧の青春時代を過ごし、ジャズ喫茶以外にも、菓子の計り売りや実演販売員、ビルの解体工、クラブのボーイなどを転々とする。東京国際空港では、ジャズ喫茶の常連客だった中上健次と共にガルーダ航空の荷役として働いた。後に通訳になろうと思い立ち、留学費用を稼ぐ目的でタクシーの運転手を務めるも半年で退社、ガソリンスタンドでアルバイトをした。この間、若松との縁で『新宿マッド』『腹貸し女』など、幾つかの若松プロ初期作品に端役ながら出演[7]したり、学生演劇に参加したが、ヴォードヴィルのような軽演劇で、舞台役者ではなく構成に携わっていたという。
大学は140単位のうち106単位まで取得していたにも拘らず、結局通学せずに除籍。のち、2004年(平成16年)9月7日、明治大学より「特別卒業認定証」[8]及び知名度アップに貢献したとして「特別功労賞」を受けた[9]。これにより、最終学歴は明治大学工学部卒業となり、学校教育法第104条および学位規則第2条の規定に従って「学士(工学)」の学位が与えられた。
前座時代 [編集]
学生運動が収束に向かったこともあって、自身も去就を模索する必要に迫られた。芸能に興味はあったが、アングラ演劇には馴染めず、「理工系なので文学的なものはわからない、しかし演芸なら自分にも理解できるだろう[10]」という理由で、いつしか芸人を志望するようになった。ただ、当時の一般認識として卑しい仕事に見られていた面もあり、子供の勉学に厳しく大学にまで入らせて芸人の道を志した息子に、母は怒り嘆き、子供の頃から厳しい勉強を強いられて窮屈な思いをしていた武は、これに猛反発。北野家においても、近所の体裁を考えて「芸人を目指した北野家の武」という存在は無かった事になっていた。[11]
1972年(昭和47年)夏、浅草のストリップ劇場・浅草フランス座で、芸人見習い志願としてエレベーターボーイを始める。当時、たけしと思しき人物を見た井上ひさしは「不機嫌そうな青年[12]」と、その印象を述べている。やがて、同劇場の経営者兼座長であった深見千三郎に師事し、前座芸人・北千太としてコント(軽演劇)を学ぶ。初舞台は、痴漢のコント。幕間コントに出演して腕を磨き、芸人としてタップダンスの修業にも励む。座員の多くが深見を近付き難い存在として見ていたが、たけしは物怖じしなかったため、深見から気に入られた。深見に師事するものの舞台に関係の無い一般の場所で周囲の状況を考慮せず予告無しで深見はギャグ(ボケ)を連発、間髪入れずに師を即興で罵倒という技術を仕込まれ、この特異な芸の仕込みに北野は深見に四六時中振り回される形となり芸を習得、模索する事になる。この指導もあり舞台ではアドリブを駆使し、言葉の拾い方に独特の斬新さがあったため一目置かれ、後に誕生する漫才コンビ・ツービート独自の芸風の基礎として取り入れられ漫才ブームで駆使し一気に開花する。
長じて、フランス座の新人芸人とコントコンビを組むことを考える。舞台(コント)が活動の主軸を旨としていた深見は、漫才での活動を望んだ弟子の北野を即刻破門(後に解除)[13]、漫才を主軸に活動の場を放送媒体に移す。
ツービート結成 [編集]
詳細は「ツービート」を参照
コントでの芸能界デビューを模索した一方、フランス座に出入りしていた2年先輩の兼子二郎からも漫才コンビを組むよう誘いを受けた。
コントにこだわった武は漫才コンビに慎重だったが、当時フランス座は経営難で、給料の支払いすら事欠くようになっていたことや、コントコンビを組む予定の相方の病気もあり、また、背広一つで稼ぐことができる漫才に魅力を感じていたことから、「松鶴家次郎」の芸名で舞台に上がることを了承した(兼子の芸名は「松鶴家二郎」)。
当初は、兼子がツッコミの正統派の掛合い漫才で全く芽が出ず、フランス座にいた頃よりも貧窮した。兼子が一時コロムビア・ライトの付き人をして生活を凌いでいたため、その縁で空たかし・きよし(コロムビア・トップ・ライトの一門は皆「青空」の家号を名乗るが、片方の弟子なので「空」だけとなった。)と名乗り、営業に出たこともあった。また、当時はツッコミ担当で、ネタはきよしが作成していた。演芸場のギャラは安いため、地方キャバレーなども回るようになるが、たけしは酔客相手の仕事を嫌い、出番をすっぽかしたり、酩酊して舞台に上がることが多かった。また、店を誹謗したり、客やホステスに喧嘩を吹っ掛けたので、度々舞台から降ろされたため、兼子は場繋ぎに使う奇術ネタを用意していたという。そして、この頃から「暴走ネタ・危険ネタ」へシフトしていき、ボケとツッコミの役割も入れ替わったのはこのころである。
紆余曲折の後、2人はコンビ名を「ツービート(two beat)」へと変更し、たけしは「ビートたけし」、兼子は「ビートきよし」を芸名とした。
この頃、大阪で頭角を現して来たB&Bのスタイルに触発され、スピードを早めて喋りまくるスタイルへ変貌した。 服装もタキシードに蝶ネクタイからアイビー・ルックに変えて、古臭い漫才師の様式から脱却を図った。当初ツービートは、代演で松竹演芸場の舞台に上がっていたが、支配人に認められてからは出演回数も安定するようになる。毒舌の限りを尽くした掟破りのたけしのツッコミネタもさることながら、ボーイズグループの楽器を拝借して現れたり、座布団の上に座って漫才を行なうなど型破りな舞台が多く、ツービートが漫才を始めると(他の芸人が観に行くので)楽屋が空っぽになると評判になった。
漫才ブームまで [編集]
演芸場での人気とは裏腹に、その破壊的な芸風は一部の関係者に受け入れられず激しい抑圧を受け、漫才協団から脱退を求める声すら起きたという[14]。1976年(昭和51年)協団が主催するNHK新人漫才コンクールにツービートは3年連続で出場したが最優秀賞を獲得することは出来なかった。
1978年(昭和53年)、新宿区高田馬場の芳林堂書店前で持ちネタの全てを披露する漫才ライブを開催したが、この企画をした高信太郎との繋がりでたけしも、高平哲郎や赤塚不二夫、タモリなどと一時期交友関係を持った。その後、「酒を飲んで軽いジョークを言いあったりする、あのシャレた笑い」が肌に合わず、直に離れた。
1979年(昭和54年)、女流漫才師「ミキ&ミチ」の内海ミキと結婚。犬吠埼(千葉県)にて新婚旅行[15]を済ませた後、亀有のアパートで生活を始める。
11月、『花王名人劇場』(関西テレビ)において、人気落語家・月の家円鏡(8代目・橘家圓蔵)の共演者に抜擢される。古典派から「邪道」と言われた円鏡と、「邪道漫才師」ツービートを競演させ、「円鏡 VS ツービート」と銘打って放送されたこの企画が好感触を得たことで、「花王名人劇場」での「激突!漫才新幹線」制作への布石となり、後の漫才ブームへ繋がった。
漫才ブーム [編集]
1980年(昭和55年)、「マンザイブーム」(旧来の“漫才”と区別される為にカタカナ表記)が起こり、ツービートは毒舌漫才と毒舌ネタを売り物に、B&Bやザ・ぼんち等と共に一躍知名度を上げた。
速射砲さながらに喋りまくり、時おり弾倉を交換するかのごとく首を「くっ」と捻るたけしの姿は、個性派揃いの漫才師の中でも異彩を放った。その毒舌が織りなすネタの主題となったのは、ジジイ・ババア・ブス・カッペ(田舎者)で、さらにウンコとヤクザとガキが頻繁に登場した。また、金属バット殺人事件や深川通り魔殺人事件といった時事性の高い話題をいち早くギャグに取り入れた。これらの不謹慎ネタは「残酷ギャグ」等と批判を受けることもあったが、それに対してたけしは「たかが漫才師の言う事に腹を立てるバカ」と言ってのけた。日本船舶振興会のCMを皮肉って作られた「注意一秒ケガ一生、車に飛び込め元気な子」「気をつけよう、ブスが痴漢を待っている」「寝る前にきちんと絞めよう親の首」「赤信号みんなで渡れば恐くない」等の一連の標語ネタは「毒ガス標語」と言われ、ブーム初期の定番ネタとなった。
1980年(昭和55年)6月、ネタ本『ツービートのわッ毒ガスだ』を発刊し、年末までに約85万部の売上となったが、当初事務所側はせいぜい3万部程度の売り上げと見込み、印税全額を2人が受け取る契約を結んでいたため、大金が転がり込んだという。
この時期に、ツービートとして出演していた『スター爆笑座』(TBS)の司会であったせんだみつおと楽屋で雑談中に、たけしの代表的ギャグとして知られる「コマネチ!」のギャグが生まれた[16]。
1981年(昭和56年)1月、TBSで『二百三高地』の連続ドラマが製作され、ツービートは兵卒役として出演したが、たけしは乱戦の最中「コマネチ!」で自己主張をはかり、監督以下の顰蹙を買った。なお後年、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した際には、『コマネチ!』という記念本に寄せてコマネチ本人から祝福の手紙が贈られた。
1980年(昭和55年)10月、漫才師による昼の帯番組『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ)で、ツービートは火曜日のレギュラーとなった。1982年(昭和57年)10月、ブームの終焉と共に番組も終了したが、最終回でたけしは客に対し「何でもゲラゲラ笑いやがって! 本当はお前らみたいな客、大っ嫌いだったんだよ!」と語った(なお、フジテレビからオファーのあった後番組の司会をたけしは断り、代わりに『森田一義アワー 笑っていいとも!』が開始された)。
1982年(昭和57年)の夏にはブームは完全に収まったが、“タレント・ビートたけし”として漫才以外でも世間に知られるようになる。以降、単独で司会をする番組を多く持つようになった。
漫才ブーム以後 [編集]
漫才ブームを生き残ったたけしは、自身のスタイルを大きく転換させる。毒舌家というパブリックイメージはそのままに、ネタに依存する消耗度の高い喋りを捨て、パーソナリティを軸とした芸風に移行していく。
また、1981年(昭和56年)元旦からニッポン放送・NRN系のラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』、同年5月からフジテレビ系の『オレたちひょうきん族』がそれぞれ開始された。
1982年(昭和57年)から1984年(昭和59年)にかけて、番組出演中に弟子志願者(正式な門下は取らない主義の為“ボーヤ”と呼ばれる)が押しかけ、相当の数が集まった事(たけし軍団)から、集団で行うバラエティを模索。日本テレビ『スーパージョッキー』、TBS『笑ってポン!』等が始まった。また、博識が評価されて、毎日放送『世界まるごとHOWマッチ』等で文化人的な出演要請も増えた。
- スーパージョッキー(日本テレビ)
- 天才・たけしの元気が出るテレビ!!(日本テレビ)
- ビートたけしのスポーツ大将(テレビ朝日)
- 痛快なりゆき番組 風雲!たけし城(TBS)
- OH!たけし(日本テレビ)
- 世界まるごとHOWマッチ(毎日放送)
- オレたちひょうきん族(フジテレビ)
- オールナイトニッポン(ニッポン放送)
上記は、1985年(昭和60年)当時のレギュラー番組すべてであるが、このうち日本テレビ、テレビ朝日、TBS、フジテレビの20時台番組ですべて最高視聴率をマークした。なお、『たけし城』『元気』『スポーツ大将』は、全て実質ビートたけし本人の企画・構成によるものである。
その他、放送以外に歌手としてのレコードリリースとライブ活動、文学小説の出版、ファミリーコンピュータのゲーム企画も行った。この頃より、タモリ・明石家さんまと共に、「日本のお笑いタレントBIG3」と称されることとなった。
現在では漫才を披露する事はほとんどないが、まれに相方ビートきよしと共演し、漫才を披露することがある[17]。
人物 [編集]
自称は「俺」「僕」「オイラ」。それぞれ場の雰囲気に合わせ使い分けている。「オイラ」は下町・職人言葉の位置づけで、自身が育った島根町が職人街だったことと関連するとしている。かつて足立区の広報誌から受けたインタビューでは、「足立は東京の下町だね。その足立の下町が島根だというの。島根は下町の中の下町。足立の中の足立だって思うんだよね」とコメントした。
たけしのものまねをする際の動作として定番化している頻繁に首をひねる動作(しかし、たけし本人は1990年代以降はあまり見せなくなっている)は癖ではなく、ツービート時代に「トランポリンで飛び跳ねながら漫才をやってくれ」と頼まれ、稽古中に頭から落下してしまい頚椎を負傷、以後しばらくの年月に渡り首に違和感があったためと『週刊ポスト』の連載コラムで述べている。
たけしが司会のバラエティ番組などにおいて、他の出演者(主に女優や子供タレント、たけしより先輩のタレント等)がくだらないことを言ったり、話が噛み合わなかったりなどちょっとしたミスをするとたけしの近くにいるタレント(例:「世界まる見え!テレビ特捜部」の所ジョージ)やたけし軍団などの後輩芸人をたけしがピコピコハンマーやハリセン、メガホンで叩いて笑いに変えることがある(例:たけし「あいつを何とかしろ!ピコッ!)。これは、たけしが過去に出演した映画「戦場のメリークリスマス」において監督の大島渚が、たけしがNGを出した場合、本業が俳優でないたけしへの配慮として助監督が代わりに叱られるというものから来ている(詳しくは戦場のメリークリスマスの『エピソード』欄を参照)。このたけしのやり方によって、普段はなかなかツッコめない女優や先輩タレント相手または、ロケなどでちょっと離れた場所にいるタレントにも(間接的ではあるが)結果的にツッコむことができるので、このツッコミをマネする芸人もいる。
また番組冒頭で「というわけで…。」というセリフと共に司会を始めるたけしのスタイルは、元々は他の出演者に「どういうわけだよ!」とツッコミを貰うためのボケにすぎなかったが、現在ではバラエティ番組などで当たり前のように常用されている。
1999年(平成11年)8月に母が死去した際には通夜の後に記者会見で、「オレを産んで良かったと思って欲しい…」と絶句し、泣き崩れる場面を見せた。
ディスカバリーチャンネルやヒストリーチャンネルなど、広くドキュメンタリー番組が好きでよく見ている。これに関連するエピソードとして、2003年(平成15年)、偶然に見ていた浅草喜劇について扱ったヒストリーチャンネル制作のドキュメンタリー「20世紀のファイルから-証言・あの時、あの人-(第40話)お笑い人生ここにあり」で、たけしが若い頃によく通っていた浅草の居酒屋が番組に登場し、この店では多数の芸人がサインを壁に直接書いているが、たけしのサインが無かったため、店の主人が他の芸人が壁をサインで埋め尽くしてしまわないように店の壁の真ん中の箇所に額を掛けて、長い間、たけしのサインのためのスペースを空けて待っているということを番組を見て初めて知り、この番組の初回放送の終了直後に、弟子を連れてこの居酒屋を訪ねて店の壁にサインをしている。後日、このエピソードを知った番組制作スタッフが浅草に出向いて居酒屋を改めて取材し、同番組のアンコール放送の際に、後日談として本編終了後に付け加える形で放送された。
トーク番組の最終回に、スペシャルゲストとして招かれることも多い(『たかじんnoばぁ〜』1996年7月13日放送、『すてきな出逢い いい朝8時』2001年9月29日放送、『クメピポ! 絶対あいたい1001人』2009年7月29日放送等)。
ニッポン放送『オールナイトニッポン』にて、日本テレビから同局が「チャリティー番組」として放送し、募金活動も行っている『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』への出演オファーを受けたが、拒否したことを明かしている。さらに、「ヨダレ垂らした芸能人どもがめちゃくちゃ高いギャラ稼ぐくせに、これ以上貧乏人から金巻きあげんな。チャリティーっていうくらいならお前ら全員ノーギャラで出ろよ!」と発言し、偽善番組とも述べている。
2009年(平成21年)10月3日放送分のTBS系『オールスター感謝祭』で総合司会の島田紳助が「番組開始前に自身の楽屋に挨拶に来なかった」として解答者の東京03に激怒したとされる件に関し、同年10月27日付けの東京スポーツに「紳助が『あいさつがない』とかって若手の東京03ってのを怒ったものだから、出番前にタレントがいちいちオレんとこにあいさつに来て、うるさくってしょうがないよ」とのコメントを発した。
紳助引退後のオールスター感謝祭2011秋からは乱入して問題を出す。非常にマイナーな問題で回答者を混乱させることが多い(例:ベルヌーイの定理を問う問題、「TBSのざるそばはどれ?」、「和田アキコさんの秘密はどれ?」)。毎回、「二階堂栄さんはどれでしょう?」が出題される。難しすぎるため、たけし軍団などが乱闘するそぶりを見せ、それに加わった太田光を袋叩きにしている。
IMALUがアシスタントしていた時のTBS系『A-Studio』の2010年(平成22年)6月11日放送分にゲスト出演した際、「TBSで、自分(たけし)、鶴瓶、さんまで『32時間テレビ』をやろう」と鶴瓶に持ちかけた。
芸名(愛称) [編集]
愛称は「たけし」、多くの芸能人からは「たけしさん」と呼ばれるが、タモリや和田アキ子からは「たけちゃん」、たけし軍団やたけしを慕っている後輩芸人からは「殿」と呼ばれており、所ジョージからは「北野さん」や「おじさん(おいさん)」と呼ばれ、明石家さんまからはたまに「おっさん」[18]と呼ばれる。笑福亭鶴瓶からは「兄さん」とも呼ばれている。
友人関係 [編集]
「世界まる見え!テレビ特捜部」や「奇跡体験!アンビリバボー」で共演している所ジョージと非常に仲が良く、毎週日曜日に(多い時は週4、5回)所の遊び場兼事務所である「世田谷ベース」へ遊びに行く。料理が得意な夫人の手料理を肴に、趣味の話などを酒とともに酌み交わすことが楽しみの一つとなっている。 元々、たけし自身も車好きではあったが、近年では所の見立てでフェラーリ・599(跳ね馬のエンブレムを自身のギャグであるコマネチポーズをしている馬のエンブレムに作り変えている)やフェラーリ・458イタリア(「成金号」と命名)[19]、ランボルギーニ・ガヤルドといった高級車を購入したり、ポルシェ・911を、かつて所持していたポルシェ・959に見立てて改造したポルシェ979K、軽自動車のスバル・R1やR2をベースにフェラーリ風モディファイを加えたフェラリーADACHIKU(足立区)とフェラリーMINAMIURAWA(南浦和)をプロデュースするなどしている。また、たけしが番組などで使った衣装や小道具を世田谷ベースに持ち込み、所と一緒にお遊びでとった写真をベースにして、雑誌『FAMOSO』が発刊された、その模様を年2回位「たけし・所の二人テレビ」で放映している。 2011年(平成23年)からは「所さんの世田谷ベース」と似たコンセプトの姉妹番組「たけしの等々力ベース」がスタート。
たけし・逸見の平成教育委員会などで共演した逸見政孝とも親交が深かった。お笑いBIG3シリーズにおける活躍はもちろん、数学を得意としたたけしと国語・社会は得意であったが数学を苦手としていた逸見、巨人ファンのたけしと阪神ファンの逸見といったように対照的であるが故に、お互いに無いものを補い合えると認めあう仲だった。逸見からガンの再発で再入院する事実を告げられたたけしは、その日から告別式の日まで酒を断ったという。「いい人ばかり先に死んじゃうんだ。俺がもっと悪いことを教えてあげればよかった」と涙ながらに語り、告別式の間は終始、参列者席で号泣し続けていたことは語り草になっている。
逸見の長男・太郎は、1998年の映画HANA-BIで俳優デビューをしている。父の死後、留学を取りやめてデビューすることを強く望み、周囲に力添えを貰えるよう相談していた。だが、たけしは反対を示し、逸見の希望通り留学を全うし卒業することを勧めた。太郎はその意見に従いエマーソン大学を卒業してから帰国。改めて芸能界に臨んだ。 また、芸名を“TARO”にしようと考え、たけしに告げた際に「犬じゃねぇんだから」と一蹴。現在まで本名の逸見太郎で活動している。その後もたけしやたけし軍団との交流が続いている。
B&Bの島田洋七とは、漫才ブームで出会って以来の親友。洋七が芸能界を引退しようとした話を聞いたたけしは、「芸人をやめるなら友達づきあいをやめるぞ!」と洋七に一喝した。洋七は一度は解雇された吉本に頭を下げて復帰を許され、生涯一漫才師を誓い、洋八と再びB&Bを復活させ、こつこつと仕事をこなすようになり、その後、「佐賀のがばいばあちゃん」シリーズなどで、再び人気が出るようになった。一方で洋七の友人でもある島田紳助との交友は少なく、「漫才ブームの時ぐらいしか知らない」と述べている[20]。
横山やすしを大変尊敬し、葬儀の時には駆けつけた時には、「雲の上にいるような人だった。やすしさんには芸も色気も敵わない。もう少し漫才を続けてほしかった」とコメントし、やすしの全盛期を懐かしむなど、親交があった。この縁から、やすしの最後の弟子である横山ひとしが、一時期オフィス北野に所属したことがあった。
漫才師の中田カウス・ボタンの中田カウス、歌手のやしきたかじん、和田アキ子などとも親交がある。ただし前出の『週刊文春』のインタビューにてたけしはある芸能人に仕組まれ山口組5代目組長に会わされたことがあることを明かしている。たけし自身は名前を伏せたものの、文春は中田カウスであるとしている[21]。詳しくは当該項目を参照のこと。
90年代初めにはオウム真理教の教祖麻原彰晃の宗教観に深く陶酔し、自ら対談を申し込む[22][23][24]など、一時期交友関係を持ったが、麻原が一連の殺人事件で逮捕されて以来、たけしは重く口を閉ざしたままである。
家族・縁戚 [編集]
父の叔母で実質の祖母である北野うし(1877年生)は、明治時代に娘義太夫の花形であった。
兄弟は2人の兄と1人の姉がおり、長兄は技術者で宇野製作所の取締役である北野重一(2012年没)、次兄はタレントで明治大学教授、淑徳大学客員教授、工学博士の北野大である。なお、たけしが生まれる前に夭折した兄(重一と大の間の兄)は、勝という名前である。
妻は、元漫才師の北野幹子(旧姓・松田)。また、レーシングドライバーの松田秀士は、義弟(幹子の実弟)である。
子供は妻との間に2人、長男、長女の井子。愛犬はシェパード犬の「ミケ(メス)」。
1990年(平成2年)には愛人との間に二女が誕生(翌年、認知しており養育費の支払いもしている)。その母親が1986年のフライデー襲撃事件の原因となった女性である。
また孫も1人(井子の娘)授かっているが、井子の離婚後に養子縁組を行ったため戸籍上はたけしの子(三女)となっている。
前述のように、たけしが芸人を志した時、北野家の誰もが反対したが、重一の妻(たけしにとっては義姉)だけは「武さんは必ず出世する」と断言したという。
映画監督「北野武」 [編集]
監督としての経歴 [編集]
『その男、凶暴につき』(1989年)は、監督:深作欣二 主演:ビートたけしで映画化を予定し、配給の松竹は両者の間で交渉を進めたが、スケジュールや条件で合致せず、深作が監督を辞退した。そこで松竹は人物的魅力と話題性から、たけし(以下、映画の項目では映画監督での活動名(本名)での「北野」で表記)に監督を依頼したところ、テレビの仕事と両立させることを前提として承諾。1週間おきの撮影という珍しい形態が採用された。映画監督・北野武としてのデビュー作『その男、凶暴につき』は、1989年(平成元年)に予定通り公開された。
1997年(平成9年)、映画『HANA-BI』が、第54回ヴェネツィア国際映画祭で日本作品として40年ぶりとなる金獅子賞を受賞した。発表直後、北野は「異分野出身者でも大きな賞を取れると示すことができ、これから映画を目指す者に刺激になったと思う」と語った。授賞式では「また日伊同盟を組んで他国を攻めよう(With Italy let's go to America to war)」と英語でスピーチ。帰国時の記者会見で、現地の土産物屋で購入した金獅子像のミニチュア(約280円)を披露して、笑いをとった。
第52回カンヌ国際映画祭(1999年)コンペティション部門に正式参加した映画『菊次郎の夏』で、約5分間のスタンディングオベーションを受けた。
2005年(平成17年)4月、フランスの『カイエ・デュ・シネマ』創刊600号記念号の特別編集長を務める。カイエ・デュ・シネマは300号から100号毎に映画人を編集長に招いて記念号を発行しており、過去に記念号の編集長を務めた映画監督は、ジャン=リュック・ゴダール[25]。 (300号)、ヴィム・ヴェンダース(400号)、マーチン・スコセッシ(500号)などがいる。
2005年(平成17年)4月、東京芸術大学で新設された大学院映像研究科の教授および映画専攻長に就任した(監督領域の教授は北野含めて2名のみ)。北野大も淑徳大学教授であったので、兄弟で教授となった。
2007年(平成19年)5月、カンヌ国際映画祭60周年特別記念企画「To Each His Own Cinema」(それぞれのシネマ)に世界5大陸25ヶ国から選出された35名の著名な映画監督の中で唯一の日本人として名を連ねた。
2007年(平成19年)8月、第64回ヴェネツィア国際映画祭にて、北野の映画監督作『監督・ばんざい!』に基づき「GLORY TO THE FILMMAKER」賞が新設され、表彰式に出席した。
2008年(平成20年)6月19日、第30回モスクワ国際映画祭で「特別功労賞」 (Life-time Achievement Award) を受賞。2003年(平成15年)の新藤兼人に次ぐ2人目の日本人受賞者となった。20日の会見では「ロシアの人は自分(北野)を過大評価している」「数々の芸術家が出ているロシアで表彰されるのは恥ずかしい」と語った。
2011年秋公開予定だった『アウトレイジ2』について「宮城県」でクランクインの準備していたら「東日本大震災」に遭遇しロケが取り止めとなり「6000万円以上損害が出た」と語っている[26]。なお『アウトレイジ2』は、『アウトレイジ ビヨンド』として2012年10月6日に公開。
お笑いタレントと映画監督 [編集]
フランスと日本の文化観の違いとして「芸人という立場が映画監督としては悪影響を及ぼす、なんて気はなくて、フランス人の見方は、もっと才能があるんだっていう。この人はまだいろんなことがやれるんだって感じがあって。だからギャング映画撮っても問題ないし、バカバカしいことをやってもそれはそれとして見てくれる。映画は映画、バラエティはバラエティって分けてくれるんで、ありがたい。気が楽になった」とコメントしている。
「日本は漫才師が映画撮った、みたいな雰囲気があって、松本人志が映画撮ると、“かつて映画を撮ったお笑い人”の中に必ず俺が入っている」と、異業種の人間に対する偏見が強い日本の見方には苦言を呈している[27]。また、海外メディアが(監督・北野武としての)彼にインタビュー取材を行った際に、彼が映画製作に使う専用のオフィスへ海外メディアクルーを招き、オフィス内部の紹介やインタビューに応じる姿があった。なお、日本のメディアに対してはオフィスは基本的に非公開であったが、この海外メディアによるドキュメンタリーを扱った日本のテレビ番組で放送された際に、初めて明かされている。
人間は「振り子」である、すなわち「思い切り悪いことのできる奴は思い切りいいこともできる、思い切りバカなことのできる奴は思い切り真面目なこともできる」として、映画監督として評価を得た後もバラエティ番組に出演することにはそうした理由もある、と『新潮45』の連載内などで述べている[28]。また監督業のみならず、芸人が司会業や他の仕事を幅広く受けられるようになったマルチタレント化の先人には、度々萩本欽一の名前を挙げている。
芸事は日々進化していくものであり、お笑い芸人としては「ひょうきん族」時点で半分降りたつもりの自らの昔の漫才よりも現在旬であるタレントの漫才の方が面白いと述べている[29]。「爆笑レッドカーペット」や「あらびき団」、「M-1グランプリ」など若手芸人が多数出演する番組も観ているという。特にM-1グランプリに関しては、「漫才が進化している」「観てるこっちが緊張してくる」と絶賛している。そうした新世代の称揚という意識は「北野演芸館」という番組としても結実した。
キタノブルー [編集]
「キタノ映画」のビジュアル面での特徴として、画面全体のトーン、小道具の色などに青が頻繁に使われるというものがあり、気品があるとして「キタノブルー」と呼ばれる[30]。特に『ソナチネ』など中盤までの作品において顕著で、ヨーロッパで高い評価を得た。突然の雨により画面が青一色になったのがきっかけとされる。極力余計な色を使用しないようにしていたことから、以降青を意識するようになったという。ただし『Dolls』以降はキタノブルーの傾向は薄れている。
北野のファンを公言している著名人 [編集]
蓮實重彦、淀川長治、町山智浩、山根貞男、黒澤明、ジョン・ウー、クエンティン・タランティーノ、リュック・ベッソン、ジュード・ロウ[31]、サミュエル・L・ジャクソン[32]、フライング・ロータス、松本人志、太田光、ウッチャンナンチャン、さまぁ〜ず、香取慎吾、蜷川幸雄、トータス松本、糸井重里など。
北野が影響を受けた映画監督 [編集]
黒澤明、深作欣二、大島渚、小津安二郎、フェデリコ・フェリーニ、ジャン=リュック・ゴダール、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、マーティン・スコセッシなど。
監督作品 [編集]
映画(太文字は北野が、出演している作品)
- その男、凶暴につき(1989年)
- 3-4X10月(さんたいよんえっくすじゅうがつ)(1990年)
- あの夏、いちばん静かな海。(1991年)
- ソナチネ(1993年)
- みんな〜やってるか!(1995年)
- キッズ・リターン(1996年)
- HANA-BI(1998年)
- 菊次郎の夏(1999年)
- BROTHER(2001年)
- Dolls(2002年)
- 座頭市(2003年)
- TAKESHIS'(2005年)
- 監督・ばんざい!(2007年)
- アキレスと亀(2008年)
- アウトレイジ(2010年)
- アウトレイジ ビヨンド(2012年)
ショートムービー
- それぞれのシネマより「素晴らしき休日」(2007年)
ミュージック・ビデオ
- Begin(北野井子、1998年)
事件・事故 [編集]
フライデー襲撃事件 [編集]
詳細は「フライデー襲撃事件」を参照
1986年(昭和61年)12月9日に、たけし軍団と共にタクシー3台にそれぞれ4人ずつ分乗して講談社に行き、フライデー襲撃事件を起こし逮捕。翌年6月10日に懲役6か月、執行猶予2年の判決が下された(東京地裁、確定)。当時のレギュラー番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』『スーパージョッキー』への出演については、執行猶予判決が確定するまでの約8か月間謹慎することとなった。なお、当時たけしと交際していたといわれた女子大生に暴行で告訴された記者は、罰金10万円の判決を受けた。
1987年(昭和62年)、映画監督・深作欣二は、謹慎中の身にあったたけしと京都において初対面。その印象を「非常に鋭い顔をしている。笑っていても目は笑わんし、顔立ちが独特だ。いろんな人間とシビアな闘争をしてきた男の顔だ」と語った。
バイク事故 [編集]
ビートたけしは1994年(平成6年)8月2日午前1時40分、原付バイクで東京都新宿区の安鎮坂付近を走行中に自損事故を起こして重傷を負った。事故後は東京医科大学病院に救急搬送されて一命を取り留めたものの[33]、長期の入院などにより約半年間に渡ってテレビ出演が出来なくなった。また、事故は酒気帯び運転によるものであったために書類送検され、起訴猶予処分を受けた。
退院時、暫くは顔面の半分が麻痺した状態であった。リハビリにより回復したが、退院会見では「頭にボルトが入っていて飛行機の金属探知機に引っかかる」「顔面麻痺が治らなかったら芸名を顔面マヒナスターズにします」と、自らの怪我をネタにした。翌年3月4日の平成教育委員会でテレビ復帰し[34]、その後レギュラー番組にも復帰した。
テレビ朝日『やじうまワイド』で、大島渚は「僕は彼の心情を想うと、友人として何も言う気にはなれない」とコメントした。
この事故で生死の境を彷徨っていた時、たけしの夢の中に、事故の前年に亡くなった親友の逸見政孝が出てきたという。たけしは、「あれは、まだ俺は死んじゃいけない。って逸見さんが言いに来てくれたんじゃないかな」と、退院後のインタビューで答えた。
ジョージアのCMへの出演が決定していたが、この事故の為に撮影が中止された[35]。
価値観 [編集]
映画 [編集]
「究極の映画とは、10枚の写真だけで構成される映画であり、回ってるフィルムをピタッと止めたときに、2時間の映画の中の何十万というコマの中の任意の1コマが美しいのが理想だと思う。例えば女性のヌードを撮影するってのも、ただ裸の女が出てるだけではなく、ストーリーの中で女が脱いでいくというものであり、グラビアは映画の原型みたいなものだと思う」と語っている[36]。また「たった1枚の絵画だけで20分も30分もその場に人を釘付けにできるのだとしたら、映画も少ないカットでそういう事ができるのを感覚的に目標にしている」と語っている。[37]
また自らが俳優として数々の作品に出演する際の姿勢として撮影方針に口出ししないようにしているため、監督を務める際にも撮影方針に意見をする俳優は嫌いだと発言している[38]。また有名俳優でも撮影後気に入らないと出演シーンを編集でカットすることもある一方で、大杉漣や寺島進など北野作品に多く出演したことで名前が知られた俳優もいる。
数学 [編集]
「幼少時代」にもあるように教育熱心だった母親は、日本が高度経済成長期であったことを踏まえ「算数を勉強しておけば将来働き口に困らないだろう」という考えから、たけしが子供の頃から算数などの理数系に力を入れて勉強するきっかけとなった[39]。 理系学部出身であったことからも分かるように、数学に対する造詣は深く、「もし道を間違えなかったら、数学の研究者になりたかった」とも語った。1980年代の民放番組の司会進行中に、「自分は漫才師になったので今がある、物理学の道に進んでいたら、もう既にノーベル賞を取っている」と真剣な面持ちで話し、編集されなかったこともあった。数学好きが高じ『たけしのコマネチ大学数学科』をスタートさせ、その才能を発揮させている。
『ここがヘンだよ日本人』では、「数学というものは哲学であって、全ての事象は数学に支配されており数学で説明できる」と発言している。『たけし・逸見の平成教育委員会』では「数学は答えさえ合っていれば良い」という独自の考えで、正解ながらも解の論拠が間違っている生徒を優秀生徒に選出した事がある。
社会風刺 [編集]
ツービート時代からの漫才はもとより、『週刊ポスト』連載の「毒針巷談」(その後「世紀末毒談」を経て「21世紀毒談」)や『新潮45』連載、さらには『ビートたけしのTVタックル』などのテレビ番組で世相を風刺する発言も多く行っており、それが話題となることもある。例えば、1990年代に「『北野党』を立ち上げる」と冗談で発言したことが大きく取り上げられたこともあった。
別の一例としては、1992年(平成4年)に『新潮45』の連載にて「『地球にやさしく』なんかできない」のタイトルで、「地球に優しくしたいなら人間殺さないといけない」と、当時の政財界やマスコミによる「エコロジーブーム」の欺瞞性および浅薄さを皮肉った[40]。この「『地球にやさしく』- 」は、同年6月18日付けの朝日新聞に「ビートたけしと地球環境」と題した、環境問題への無関心を戒める社説が掲載されるなど反響を呼んだ。なお、この文章は1996年(平成8年)の山形大学教育学部の入学試験の小論文試験の出題にも使用された。
ただし、たけし本人はこういった発言があまり大きく取り上げられることに対し、「芸人の言っていることを一々真面目に取り上げるな」などの反応を示すことが多い。また、後述の佐高信には「床屋政談」と評されたこともあった。
原発問題 [編集]
『新潮45』2010年6月号の「達人対談」で、「原子力発電を批判するような人たちは、すぐに『もし地震が起きて原子炉が壊れたらどうなるんだ』とか言うじゃないですか。ということは、逆に原子力発電所としては、地震が起きても大丈夫なように、他の施設以上に気を使っているはず。だから、地震が起きたら、本当はここへ逃げるのが一番安全だったりする(笑)。でも、新しい技術に対しては『危険だ』と叫ぶ、オオカミ少年の方がマスコミ的には ウケがいい」 と述べている。
護憲派 [編集]
2009年9月15日の「緊急!世界サミット”たけしJAPAN”2009日本を考えるTV」で「アジアと欧米人では生きることの意味が違うんだよね。日本はかつて特攻隊まで行ったわけだから。死んでもかまわないという精神の問題になると、お前より俺の方が強烈な武器があると言って抑え込んでも駄目なんだよね。日本の神道なんかは、死んだらみんなで靖国神社で会いましょうということで戦争に行ったわけだから。だから最終的には外交なんですよ。生きる死ぬでは抑えられないということになるんで、変な言い方をすれば日本のこの平和憲法ぐらい世界に誇れるものはないと思っている。世界の情勢の中でいつまで腰抜けな憲法を守ってるんだと言われるんだけど、それが意外に究極の力をもつ可能性がないではない」[41]と述べている。
スポーツ [編集]
野球をこよなく好む。幼少の頃からプロ野球・読売ジャイアンツファンで、特に長嶋茂雄を敬愛している。草野球チーム(「たけし軍団」)では、投手を務めることもある。野球をする時のたけしは真剣であり、川崎球場での番組収録中、グラウンドに男性アイドルが登場したため女性ファンの歓声により、試合どころではなくなってしまった。その際に誰よりも早く「ここはグラウンドで野球をやってるんだぞ! コンサートじゃねえんだ!」とスタッフを一喝した。
神宮外苑の軟式球場が一種のホームグラウンドで、最盛期は年間70試合近くも行い、1991年(平成3年)の阪神タイガース・ファン感謝デーならびに1992年(平成4年)の千葉ロッテマリーンズ・ファン感謝デーで、軟式ルールながら阪神・ロッテに勝利した。作家・伊集院静が連載していたエッセイ『二日酔い主義』の中には、たけしと一緒にプレーをした記憶に触れる回が幾つかあり、『たけしのグローブ』(伊集院静『あの子のカーネーション』文藝春秋、1989年)では、たけしの使い込まれたグローブに強かな野球少年の面影を重ねて描かれていた。
格闘技では、自身もジムに通った経験を持つボクシングを好み、映画『キッズ・リターン』を作った。映画の中で人を殴るシーンや『座頭市』における逆手斬りのフォームには影響が垣間見える。浅草時代を知る石倉三郎は、「タケちゃんのケンカはボクシングスタイルで結構パンチも早かった」と述べている。なお、たけし自身は1963年(昭和38年)の高山一夫 vs 勝又行雄戦、1971年(昭和46年)の金沢和良 vs ルーベン・オリバレス戦をベストマッチに挙げている。その一方で、1987年(昭和62年)のたけしプロレス軍団にまつわる騒動において苦い経験もした。また、空手で骨折し、拳の一部が変形している。
キムヨナの表現力を高く買っており、「役者として演技力がうまいな。技術は真央ちゃんと変わらないし、ジャンプは難しいことやっていないのに、演技力が圧倒的だった」「真央ちゃんは芝居を勉強したらいいよ」と述べている[42]
他にもサッカーに詳しく、Jリーグ開始以前の国内・海外選手に特に詳しい。また、相撲にも造詣が深く、自身がメインキャスターを務める『情報7days ニュースキャスター』の番組内で、その博識ぶりを発揮している。
一方で、鉄棒の逆上がりや跳び箱といった器械体操の類は不得意であり、後にたけしの出演番組内でもネタにされ、『たけしの跳び箱オリンピック』と題した苦手克服企画が、1988年(昭和63年)の年末に放送された。
タップダンス・ピアノ・音楽 [編集]
漫才ブームが過ぎ、次代に生き残るための材料を思索していた時期、たけしはテレビの更なるバラエティショー化が進むと予想し、「タップとピアノ位はやれないとみっともねえだろ」と考え[43]、たけし軍団でもタップ・楽器・太神楽(ジャグリング)が必修科目となった。その中で、太神楽は海老一染之助・染太郎を師匠として学んだが、染之助の技は花柳流名取であったことに由来すると知り、日本舞踊も習うようになった。
タップダンスに対する思い入れは深く、毎日練習を欠かさず行なう。映画『座頭市』の撮影では踊るシーンが無いのにも関わらず練習をしていた。海外に渡航する際ですらタップシューズを持参するという。
ピアノを弾くのはバイエル、ツェルニー、そしてソナチネ(教本のレベルとしては、いずれも一般的な小学生程度のものであり、決して高くはない)までで、それ以上の域に到達する必要はないと言う。これは、さらに上を目指すのは本末転倒で、タップもピアノも「真剣にやろうと思えばやれる」ところまで到達し、それ以降はいかにアレンジして見せるかを考えるのが芸人の仕事だとする、彼の考えに由来する。
オフィス北野の社長である森昌行の証言によると、技巧的なものよりシンプルな物を好みレコーディングでも何度もやり直すのも苦手で、譜面どおりにやる事よりも自分が気持ちよいと思わなければOKを出さないとの事で、ロックで言えばビートルズよりもストーンズのような物を好んでいるという[44]。また、ヘヴィメタルのような音楽は好んでおらず[45]、過去にLOUDNESSの高崎晃[46]がたけし側に曲を依頼されてデモテープを製作したが[47]最終的に使われることが無かった。
たけしの挑戦状 [編集]
1986年12月に発売され、たけしが監修したファミコン用ソフト『たけしの挑戦状』(タイトー)は「今までにない独創的な発想を入れたい」という意図が反映され、言葉通りその斬新さと理不尽きわまりない内容で多くのユーザーに衝撃を与え、伝説のクソゲーとして名を残すこととなった。たけし自ら、「今までのゲームと同じレベルで考えるとクリアー出来ない」とコメントしている。2009年にもWiiのバーチャルコンソールで配信されており、たけしの全盛期を知らない世代でも楽しむことができる。
元々このゲームの開発にはたけしは乗り気では無く、メーカースタッフとの打ち合わせの際に普通ゲームでは考えられないような内容のアイディアを次々と語った。長時間の打ち合わせの中、酔っぱらいながらたけしが言った冗談のアイデアまでメーカースタッフは書き留めていたという。「ここまで無茶苦茶な内容ならばゲームは作らないだろう」と思っていたのだが、後日、予想を裏切ってたけしのアイディアをほぼ取り入れるような形でゲームが製作されてしまった。
世界観は極めて退廃的であり、主人公は薄汚れた町並みの中に住む世帯持ちのしがないサラリーマンである。台詞は、罵言暴言など汚い言葉遣いが多い。店の看板は極道的な内容で、路上にはヤクザが蔓延り、否応なしに主人公に殴りかかってくる(また、これを逆に攻撃して倒すこともできる。これに限らず、敵味方なくすべての登場人物を殴ることもできる)。
「離婚届を出す」「退職届を出す」「恩人を倒す」「カルチャークラブで技能を修得する」他にも「パチンコの最中にIIコントローラーのマイクで叫ぶ」「宝の地図を出す際に『5分経過後から10分経過する前にIIコントローラのマイクに向かって叫ぶ』か『1時間待つ』」など、通常では思い付き難い操作が要求される上に、ハンググライダーを使う場面では、上に自由に移動できないなどの独特の操作性のため、難易度の高いシューティングゲームとなる。
メーカーにはクリア方法に関する問い合わせが殺到、苦肉の策として急ごしらえの攻略本を発売するも、今度は攻略本を出版した太田出版に「内容が分かりにくい」など攻略本の内容に関する苦情や質問が増大、太田出版は攻略本を読み解くためのガイド本(つまり攻略本の攻略本)という前代未聞の奇本を発売するに至った。しかしそれでも問題は解決せず「攻略本通りにやったのにクリアできない」やそれに類似する電話が多く寄せられ攻略本製作者に直接電話口で対応にさせていたが、一向に鎮静化しない事態に対応しきれず最終的には「担当者は死にました」で対処した。
多くの書籍などでクソゲーの代表格とされることが多い一方で、過去の名作ランキングでは必ず上位にランクされるほど非常に印象深い作品となり、現在では、「北野映画に通じるところがある」「早すぎたグランド・セフト・オート」など、ゲーム内容を再評価する声もある[48]。
暴力団に対して [編集]
2011年8月に島田紳助が暴力団との親密な交際を理由に芸能界を引退したことに関連し、たけしは『週刊文春』にて暴力団との関わりについて語っている[21]。インタビューによると、フライデー襲撃事件からの復帰直後に時期尚早であると右翼団体から街宣を掛けられたものの当時の事務所である太田プロダクションには対処してもらえず自ら幹部の元に出向き謝罪し事を収めたこと、2002年当時の稲川会総裁からの度重なる面会要請があり、『新潮45』2002年5月号で対談することになったことや、たけしと親交のある関西の芸人に無理矢理組長に会わされたことなどを明かし、芸能界が暴力団とのつながりを断つことの難しさについて語っている。その上でたけしは暴力団に仲介の依頼や金銭の供与を行ったことはなく、「タレントとしてそういうのを上手くやって逃げるのも本人の“芸”だって言ってるんだけど、紳助は“芸”がなかった」と紳助との違いを強調しており、2011年10月からの東京都での暴力団排除条例施行もむしろ歓迎すると述べている。一方で同記事では暴力団幹部の葬儀の際に供花した例などがあることを指摘している。
こうした暴力団との関わりに対してはたけしの事務所は記事が関係の全てであり、正当化はしていないがそうせざるを得なかった、供花についてはあくまで仕事でお世話になったからだとしている[49]。
また自らの映画作品に暴力団が登場することについては「暴力団を賛美した表現をしたことはなく、拳銃を使った人間は幸せになれないようなシナリオにしている」と述べている。
評価 [編集]
1981年(昭和56年)、文芸評論家の鶴見俊輔は『広告批評』誌上における座談の中で、「ツービートはがきデカの位置に似ている」と評し、文芸評論家・高澤秀次はこの評を絶賛した。
1983年(昭和58年)、吉本隆明は栗本慎一郎との対談集の中で、たけしの話芸を「自分を異化することによって自然の流れとしてしまう芸風」と評した[50]。この本は、著名な知識人がお笑い芸人を真正面から評論したという点で各方面の反響を呼んだ。のちに吉本が「海燕」誌上で埴谷雄高と論争(1985年)になった際、たけしは『もっと阿呆になれ、吉本!』という文章を発表し「吉本さんは言い回しが難解」と指摘した。
加藤茶は、インタビューで「…たけし君が映画監督で評価されている。でも、お笑いに帰ってくると、必ずバカなことするじゃないですか。バカをやる、という素晴らしさの原点を知っているんです。だから大好き」と、評価している[51]。
色川武大は「才能は切れるが、それだけにいいところを一人占めしようとしすぎる」とし、榎本健一・藤山寛美・萩本欽一と並べて「自分の手足を切ってゆく」タイプの芸人に分類した(対極として、古川ロッパ・森繁久彌・タモリの名を挙げた)[52]。
一方で否定的な論評の一例としては1981年(昭和56年)、ルポライター・鎌田慧が「ツービートの残酷ギャグはファシズムの兆し」と批判した[53]。また、ルポライター・吉岡忍は、ツービート(ビートたけし)をジョン・レノン射殺事件の犯人マーク・チャップマンに重ねて論じるほど忌諱していた(が、後に吉岡はその認識を変え、北野映画のルポルタージュを執筆するほど関心を寄せるようになった)。
それ以外にも、辛淑玉や佐高信、諸井薫が、たけしの軍団に対する態度を「権威主義的で弱い者いじめをしている」と、それぞれコラムなどで述べている。これら批判的な論評について、たけしは「冗談と本気の区別が付かない奴らがいる」と評している。
田中康夫は、たけしを自らと同じく「価値紊乱者」(既存の権威への挑戦者)として評価しつつも、1980年代中盤には『感覚の倫理学』および『ファディッシュ考現学』にて立川流への入門や軍団創設を「肩書きや権威など精神的ブランドに頼るようになり(当時、たけしがなりたいと語っていた)日本のレニー・ブルースになりそこねた」と評した。一方で、たけしの過激な言動に隠された内面の繊細さもまた指摘し、フライデー襲撃事件の際にはフライデーの取材姿勢を批判、たけしを擁護する立場を取った[54]。その後、田中はたけしとテレビ番組で度々共演するなど交流も持ったが、その後も「ドナルドダックのように嫌われることも厭わず本音で周囲に毒を吐く存在であったはずが、嫌われることを恐れ人気者であり続けようとミッキーマウスのように無難な優等生的発言しか行わなくなりつつある」といった意味の論評も『神なき国のガリバー』や『ニッポンご託宣』にて並行して行っている。また、バイク事故直後に、あえて顔面麻痺状態で会見に臨んだことに関しては評価したが、その後の本格復帰については「芸能界の一線からは退いた方が良かったのではないか、取り巻きや軍団を養うためだとすれば自活を促すべきだった」と評した。
『たけしの誰でもピカソ』で島田洋七がゲスト出演した際に、たけしは「漫才では洋七に勝てない、しゃべりではさんまに勝てない、司会では紳助に勝てない。でも芸能人としてのトータルでは良い所には行くと思う」と、漫才ブームを共にした芸人達と比較した上で、自己評価をしている。
たけしに影響を受けた芸能人は多く、ダウンタウン、爆笑問題、さまぁ~ず、とんねるず、ウッチャンナンチャン、ダイノジなどが挙げられる。その理由は、「たけしの芸風に直接影響を受けた」、「映画監督として尊敬している」、「マルチタレントとしての先輩として尊敬している」など、その理由はさまざまである。特に爆笑問題の太田光は漫才のネタにたけしが得意とする「ブラックユーモア」を積極的に取り入れたりしている他、映画監督としても尊敬しているのでことから、たけしに最も影響を受けた人物であるといえる。
たけしは石原慎太郎をほとんど評価していない[55]。2012月11月の週刊ポストでも「新銀行東京の失敗をマスコミが追及しないのはおかしい」「五輪の東京招致を放りだして逃げた」「橋下徹は石原に利用されている」などと述べている。
フランス芸術文化勲章の「シュヴァリエ」を1999年(平成11年)に授与され、2010年(平成22年)に「コマンドゥール」を授与された際に、フランス文化省から「映画監督としての活動は言うまでもなく、1つの才能を持った人ではない。人々を笑わせること、感動させることができ、怖がらせることもできる。あらゆる面で支持者を持つ。類を見ない自由さをもってモノづくりを進める直感的才能に対し、賞を贈る」と評された。なお、この「コマンドゥール」受賞をレジオンドヌール勲章の「オフィシエ」を受賞した黒澤明を超えたとする報道もあったが、レジオンドヌール勲章はフランスでは最高位の勲章であり、芸術文化勲章との勲位の比較は意味がない。
政治 [編集]
2013年4月19日、安倍晋三政権が首相官邸で開く「アジア文化交流懇談会」に参加し、自身の映画が日本映画として初めて大韓民国で一般上映されるなど東アジアとは縁のあるたけしが、東アジアとの関係強化を目指しているとも言われる安倍に文化面からの政策助言を行った[56]。たけしは、大韓民国などと野球のアジアリーグを創設することや竹島・尖閣諸島で政治的なぶつかり合いを避けることなどを提案したという[57]。
受賞歴 [編集]
- 1990年 トリノ国際映画祭・特別賞
- 1990年 日本映画監督協会新人奨励賞
- 1993年 タオルミナ国際映画祭・カリッディ金賞
- 1993年 コニャック国際映画祭・批評家賞
- 1997年 ヴェネツィア国際映画祭・金獅子賞
- 1998年 ニューヨーク国際映画祭・国際映画賞
- 1998年 サンパウロ国際映画祭・批評家賞
- 1999年 芸術文化勲章・シュヴァリエ章[58]
- 2002年 ダマスカス国際映画祭・最優秀作品賞
- 2003年 ヴェネツィア国際映画祭・銀獅子賞
- 2003年 シッチェス・カタロニア国際映画祭・グランプリ
- 2003年 トロント国際映画祭・グランプリ
- 2004年 明治大学特別功労賞
- 2006年 ガリレオ2000賞・文化特別賞
- 2007年 ヴェネツィア国際映画祭・監督ばんざい!賞
- 2008年 モスクワ国際映画祭・特別功労賞
- 2008年 テッサロニキ国際映画祭・ゴールデン・アレクサンダー名誉賞
- 2009年 ソフィア国際映画祭・観客賞
- 2010年 フランス芸術文化勲章・コマンドゥール章
現在の出演番組(2012年現在) [編集]
レギュラー番組 [編集]
- 世界まる見え!テレビ特捜部(日本テレビ系列 / 月曜日 19:56 - 20:54)
- ビートたけしのTVタックル(テレビ朝日系列 / 月曜日 21:00 - 21:54)
- たけしのコマネチ大学数学科(フジテレビ系列 / 月曜日 25:10 - 25:40)
- たけしの健康エンターテインメント!みんなの家庭の医学(朝日放送制作・テレビ朝日系列 / 火曜日 20:00 - 20:54)
- ビートたけしPresents 奇跡体験!アンビリバボー(フジテレビ系列 / 木曜日 19:57 - 20:54)
- たけしの等々力ベース(BSフジ / 木曜日 23:00 - 23:55)
- たけしのニッポンのミカタ!(テレビ東京系列 / 金曜日 22:00 - 22:54)
- 情報7days ニュースキャスター(TBS系列 / 土曜日 22:00 - 23:24)
単発・不定期番組 [編集]
- 平成教育委員会スペシャル(フジテレビ系列 / 1月・5月・8月・11月に放送)
- たけしの日本教育白書 → たけしのニッポン人白書(フジテレビ系列 / 年1回放送)
- 名球会VSビートたけし&芸能界ドリームチーム(テレビ朝日系列 / 正月特番)
- ビートたけしの禁断の大暴露!!超常現象(秘)Xファイル(テレビ朝日系列 / 年1回放送)
- ビートたけしの教科書に載らない日本人の謎(日本テレビ系列 / 年1回放送)
- 緊急!ビートたけしの独裁国家で何が悪い!(日本テレビ系列 / 年1回放送)
- ビートたけしの絶対見ちゃいけないTV(TBS系列 / 年2回位放送)
- 緊急!世界サミット“たけしJAPAN”(朝日放送制作・テレビ朝日系列 / 不定期特番)
- ビートたけしの今まで見たことないテレビ(日本テレビ系列 / 不定期特番)
- さんま&所の大河バラエティ!超近現代史!人間は相変わらずアホか!?(日本テレビ系列 / 不定期特番、特別ゲスト出演)
- 朝までたけし軍団 → 朝までたけし的ショー → たけスポ(テレビ朝日系列 / 原則年1回放送)
- たけし・所の二人テレビ(テレビ朝日、日本テレビ、TBS系列 / 年2回春・秋位放送)
- 古代文明ミステリー たけしの新・世界七不思議(テレビ東京系列 / 正月特番)
- FNSの日『さんま・中居の今夜も眠れない』(フジテレビ系列 / 2008年 - 2009年、2011 - 2012年度の中継特別ゲスト)
- たけしが鶴瓶に今年中に話しておきたい5〜6個のこと(TBS系列 / 不定期特番)
- THE MANZAI 2011(フジテレビ系列 / 年1回放送、大会最高顧問)
- KAMIWAZA〜神芸〜(朝日放送制作・テレビ朝日系列 / 年1回放送、番組ゼネラルマネージャー)
- ビートたけしの勝手にスポーツ国民栄誉SHOW2011 豪華アスリート総登場 5時間半生放送SP(TBS系列 / 2011年12月31日)
- ビートたけしのガチバトル(TBS系列 / 年末年始特番)
- たけしの人体科学SP 人はなぜ老いるのか(TBS系列 / 2012年1月5日)
- 北野演芸館〜たけしが本気で選んだ芸人大集結SP〜(毎日放送製作・TBS系列 / 不定期特番、2011年9月28日・2012年2月8日「水曜エンタ!」枠)
- オールスター感謝祭(TBS系列)-2011秋以降出題者として[59]
過去の出演番組(レギュラー番組のみ) [編集]
- 北野武の宵越しスーパートーク(1998年元旦、井上ひさし・諏訪内晶子・市川猿之助との対談)[60]
- 第51回NHK紅白歌合戦(氷川きよしの応援)
- 第52回NHK紅白歌合戦(同上)
- たけしアート☆ビート(NHKBSプレミアム / BS放送)
特記のないものは日本テレビ製作
- テレビに出たいやつみんな来い!!
- わっ!!ツービートだ
- OH!たけし
- 蝶々・たけしの21世紀まで待てない!!(読売テレビ制作)
- スーパージョッキー
- 天才・たけしの元気が出るテレビ!!
- ビートたけしの全日本お笑い研究所→番組の途中ですが…再びたけしです
- ビートたけしのお笑いウルトラクイズ
- 新橋ミュージックホール(読売テレビ制作)
- 世界超偉人伝説
- たけしとひとし(「金曜スーパープライム内」 / 不定期特番、2010年12月10日)
- たけしの超新説研究所 最新科学が歴史を暴く( 2012年3月20日)
- ビートたけし特別主催 おバカンヌNo.1映像祭(不定期特番)
特記のないものはTBS製作
- たけしのお笑いサドンデス
- たけしのホッカホッカタイム
- 笑ってポン!
- 世界まるごとHOWマッチ!!(毎日放送制作)
- ギミア・ぶれいく
- たけし・所のドラキュラが狙ってる(毎日放送制作)
- 痛快なりゆき番組 風雲!たけし城
- たけしの頭の良くなるテレビ
- ここがヘンだよ日本人
- 総天然色バラエティー 北野テレビ
- 乱!衆議院・参院選( 衆議院選挙もしくは参議院選挙実施時にスペシャルコメンテーターとして出演)
- 日曜ゴールデンで何やってんだテレビ[61]
特記のないものはフジテレビ製作
- オレたちひょうきん族
- たけし・逸見の平成教育委員会
- FNSの日
- FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島(1987年、1990年)→FNSスーパースペシャル1億2000万人のテレビ夢列島'91→平成教育テレビ→FNSの日[62]
- FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!
- ビートたけしのつくり方
- たけしのここだけの話(関西テレビ制作)
- 北野ファンクラブ
- 北野富士
- 足立区のたけし、世界の北野
- たけしの斉藤寝具店
- タモリ・たけし・さんまBIG3 世紀のゴルフマッチ
- たけし・さんまの有名人の集まる店
- たけしの日本教育白書
- 北野タレント名鑑
- チャンネル北野eX(フジテレビ721)
- チャンネル北野NEO(フジテレビ721)
- 熱血!平成教育学院
- スター千一夜(1980年~1981年)
- ビートたけしの21世紀毒談(フジテレビONE / CS放送)
- 所さんの世田谷ベース(BSフジ / 不定期出演ゲスト)
特記のないものはテレビ朝日製作
- アイドルパンチ
- '83サマースペシャル
- ビートたけしのスポーツ大将
- スポーツシャワー〜ヒーローに花束を〜(朝日放送制作)
- 有名人の皆様ゴメンなさい…ビートたけしの超国民的バラエティ噂のあの人この事件 そこまでバラすか! ウワサの真相 年内決着スペシャル
- 神出鬼没!タケシムケン
- ビートたけしのD-1グランプリ
- たけしの万物創世紀(朝日放送制作)
- たけし・所のWA風が来た!(朝日放送制作)
- ビートたけしの!こんなはずでは!!
- たけしのポリスアカデミー(朝日放送制作)
- 最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学(朝日放送制作)
特記のないものはテレビ東京製作
- 世界おもしろネットワーク
- 気分はパラダイス
- たけしの誰でもピカソ
低迷した作品・番組 [編集]
- 2013年4月10日、とんねるず・石橋貴明の共演で昨年10月からスタートしたTBS系『日曜ゴールデンで何やってんだテレビ』がひっそりと打ち切りになっていたことがわかった。公式のアナウンスもないまま打ち切られるのは非常に珍しいことである。通常は3月末で打ち切りとなるところを3月3日で強制終了になった[63]。
- 北野井子のプロモーションビデオを作製したが、「Begin」「薔薇と緑」の2作のみで引退。
- 笑ってポン!は12回で打ち切りになった。ただし番組名に関しては後年『THEわれめDEポン』『パネルでポン』『ミルモでポン!』など様々な所で用いられており好評である。
CM [編集]
多数のテレビCMに出演している。大橋巨泉と共演のCM「アサヒ生ビール」は撮影終了後、フライデー襲撃事件の影響で放映されなかった(なお、CMのスナップショットは大橋の自伝『ゲバゲバ70年!』の中で見る事が可能)。1984年(昭和59年)、「スーしませう」のキャッチコピーで発売された「白仁丹」や、ペプシの比較CMをパロディ化した『デミュートサンスター』では企画・演出に関わった。
2007年(平成19年)からロシアCIS地域でPanasonicブランドの薄型テレビのCMに出演。同CM広告担当者によると、「日本の有名人が単独で海外の国々でCMモデルになるのは初めてではないか」との事。
- ポカリスエット
- ECC
- ACジャパン(2009年、公共広告機構時代は実兄の北野大が出演していた)
- トヨタ自動車(2011年、豊臣秀吉役。以前はビスタ(初代後期・昭和59年)カローラ(120系・平成12年)のCMにも出演していた。2012年には同役で新型クラウンのCMに出演し、ジャン・レノと共演。) 他多数
ドラマ [編集]
【主演】は主演ドラマ。★印は連続ドラマ。
- 刑事ヨロシク(1982年、TBS)【主演】★
- 昭和四十六年 大久保清の犯罪(1983年、TBS) - 大久保清役【主演】
- 学問ノススメ(1984年、TBS)【主演】★
- イエスの方舟(1985年、TBS)【主演】
- 雨の降る駅(1986年、TBS)【主演】
- 立体ドラマ5時間 1987年の大晦日「昭和大つごもり」(1987年、フジテレビ) - 脚本:倉本聰【主演】
- 御存知!鞍馬天狗(1989年、フジテレビ)
- ビートたけし殺人事件(1989年、TBS)
- ビートたけし殺人事件~失われた魔人の伝説(1989年、TBS)
- 美空ひばり物語(1989年、TBS) - 田岡一雄役
- 高円寺純情商店街(1990年、テレビ朝日)★
- 浮浪雲(1990年、TBS)★ - 視聴率的には振るわず、自身でもしばらくの間「はずれ雲」とネタにしていた。
- 忠臣蔵(1990年、TBS) - 大石内蔵助役【主演】
- 実録犯罪史シリーズ 金(キム)の戦争 ライフル魔殺人事件(1991年、フジテレビ)- 金嬉老役【主演】
- 説得 エホバの証人と輸血拒否事件(1993年、TBS)【主演】
- 兄弟(1999年、テレビ朝日) - 原作:なかにし礼【主演】
- 百年の物語 第2夜「戦後編・愛は哀しみをこえて」(2000年、TBS) - 戸倉耕作役
- 三億円事件〜20世紀最後の謎〜(2000年、フジテレビ)【主演】
- 明智小五郎対怪人二十面相(2002年、TBS)【主演】
- 火曜サスペンス劇場・松本清張スペシャル 鬼畜(2002年、日本テレビ)【主演】
- 松本清張没後10年記念 張込み(2002年、テレビ朝日)【主演】
- 大河ドラマ 武蔵 MUSASHI(2003年、NHK) - 新免無二斎役
- 松本清張 点と線(2007年、テレビ朝日) - 鳥飼重太郎役【主演】
- あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機 第2部ドラマ(2008年、TBS) - 東条英機役【主演】
- こちら葛飾区亀有公園前派出所(2009年、TBS) - 第1回ゲスト
- 歸國(2010年、TBS)【主演】
- 検事・鬼島平八郎(2010年、ABC・テレビ朝日)★
映画出演作品 [編集]
この項目は、他監督の作品として出演した映画の一覧である。「戦場のメリークリスマス」で注目され、「JM」でハリウッド映画出演も果たした。自らが映画監督の立場としては俳優に撮影方針を意見されることを好まないため、俳優として他監督の作品に出演する際にも同様にしているという。
- ゆけゆけ二度目の処女(1969年、エキストラ出演)[要出典]
- まことちゃん(1980年、アニメ映画に声優で本人役カメオ出演)
- すっかり…その気で!(1981年、初主演作品)
- マノン(1981年)
- 夏の秘密(1982年、川上裕通監督)
- 戦場のメリークリスマス(1983年、大島渚監督)
- 十階のモスキート(1983年、崔洋一監督)
- 哀しい気分でジョーク(1985年、瀬川昌治監督)
- 夜叉(1985年、降旗康男監督、高倉健主演)
- コミック雑誌なんかいらない!(1986年、滝田洋二郎監督、内田裕也主演)
- ほしをつぐもの(1990年)
- 教祖誕生(1993年、天間敏広監督、たけし原作)
- Johnny Mnemonic(1995年、ロバート・ロンゴ監督)
- GONIN(1995年、石井隆監督)
- Tokyo Eyes(1998年、ジャン・ピエール・リモザン監督)
- 御法度(1999年、大島渚監督)
- バトル・ロワイアル(2000年、深作欣二監督)
- バトル・ロワイアル 【特別篇】(2001年、深作欣二監督)
- バトル・ロワイアルII 【鎮魂歌】(2003年、深作欣二・深作健太監督)
- 血と骨(2004年、崔洋一監督)
- IZO(2004年、三池崇史監督)
- ギララの逆襲/洞爺湖サミット危機一発(2008年、河崎実監督)
- あなたへ(2012年8月25日、降旗康男監督)
著作物 [編集]
連載コラムや著書の文章のほとんどは、本人が多忙であるため、北野武が口述し、それをライターに文章として起こしてもらっている(『コマネチ!2』にて、本人のコメントによる)。
北野武名義 [編集]
- 余生(2001年2月25日、ロッキング・オン)
- 孤独(2002年7月26日、ロッキング・オン)
- 時効(2003年9月、ロッキング・オン)
- 異形(2004年12月、ロッキング・オン)
- 光(2005年11月、ロッキング・オン)
- 生きる(2007年5月、ロッキング・オン)
- 女たち(2008年9月、ロッキング・オン)
- 武がたけしを殺す理由 全映画インタヴュー集(2003年9月、ロッキング・オン)
- イチロー北野武キャッチボール(2003年7月、ぴあ)
- 全思考(2007年3月、幻冬舎)
- 超思考(2011年2月、幻冬舎)
ビートたけし名義 [編集]
- たけし! オレの毒ガス半生記(1981年11月20日、講談社)
- ビートたけしのごっくん日本史(1982年10月25日、リヨン社)(ゴーストライター作と言われている[64])
- ビートたけしの変態志願(1982年12月5日、KKベストセラーズ)
- 恐怖びっくり毒本(1983年8月5日、KKベストセラーズ)
- ビートたけしの幸せ独り占め(1981年12月5日、オールナイト・ニッポン サンケイ出版)
- ビートたけしの幸せになってしまいました(1982年10月20日、オールナイト・ニッポン サンケイ出版)
- ビートたけしの三国一の幸せ者(1982年12月5日、オールナイト・ニッポン サンケイ出版)
- ビートたけしの無条件幸福(1983年12月20日、オールナイト・ニッポン リビングマガジン)
- ビートたけしのニッチもさっちも(1984年12月15日、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
- ビートたけしの幸か不幸か(1985年12月16日、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
- ビートたけしの不幸中の幸い(1986年12月16日、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
- ビートたけしの全面幸福(1988年5月9日、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
- ビートたけしのその男幸せにつき(1990年1月5日、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
- ビートたけしの幸せ丸十年(1990年11月22日、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
- ビートたけしのウソップ物語(1983年9月1日、話の特集)
- ビートたけしのしまいにゃ笑うぞ(1983年4月10日、スコラ/講談社)高田文夫との共著
- ビートたけしのみんなゴミだった(1983年11月27日、飛鳥新社)
- 午前3時25分(1983年12月10日、太田出版)
- ギャグ狂殺人事件(1984年2月25日、作品社)(ゴーストライター作と言われている[65])高田文夫との共著
- たけしくん、ハイ!(1984年5月1日、太田出版)
- たけし吼える!(1984年9月23日、飛鳥新社)
- あのひと(1985年8月20日、飛鳥新社)
- 午前3時25分増補改訂版(1986年6月13日、太田出版)
- 新・坊ちゃん(1986年6月19日、太田出版)
- KID RETURN(1986年12月8日、太田出版)
- 少年(1987年11月12日、太田出版)
- 浅草キッド(1988年1月24日、太田出版)
- 教祖誕生 第一部(1990年12月10日、太田出版)
- 仁義なき映画論(1991年11月25日、太田出版)
- 場外乱闘(1992年9月12日 太田出版)
- こんな時代に誰がした! 場外乱闘2(1993年10月17日、太田出版)
- 漫才病棟(1993年5月30日、文藝春秋)
- 落選確実選挙演説(1994年6月15日、新潮社)
- 顔面麻痺(1994年12月9日、太田出版)
- 女につける薬(1993年2月10日、祥伝社)
- 女は死ななきゃ治らない(1994年、祥伝社)
- それでも女が好き(1995年8月5日、祥伝社)
- 愛でもくらえ(1999年2月10日、祥伝社)
- 毒針巷談 (北野武名義)(1984年8月10日、太田出版)
- 続毒針巷談(1985年9月30日、太田出版)
- 続々毒針巷談(1986年10月1日、太田出版)
- 新毒針巷談(1988年7月31日、太田出版)
- ビートたけしの世紀末毒談(1991年11月10日、小学館)
- ビートたけしの世紀末毒談 目には目を毒には毒を(1992年5月20日、小学館)
- ビートたけしの世紀末毒談3 (1996年5月1日、小学館)
- だから私は嫌われる(1991年6月10日、新潮社)
- やっぱり私は嫌われる(1991年12月20日、新潮社)
- 浅草キッド (1992年1月、新潮文庫)
- みんな自分がわからない(1993年5月25日、新潮社)
- たけしの死ぬための生き方(1995年3月25日、新潮社)
- みんな〜やってるか!(1995年1月、扶桑社)
- たけしの20世紀日本史(1996年2月29日、新潮社)
- 草野球の神様(1996年10月20日、新潮社)
- ザ・知的漫才 ビートたけしの結局わかりませんでした(1996年9月25日、集英社)
- 私は世界で嫌われる(1998年2月20日、新潮社)
- たけしの「号外」!!(1998年5月11日、洋泉社)
- コマネチ!ビートたけし全記録 (1999年6月、新潮文庫)
- 菊次郎とさき(1999年12月5日、新潮社)
- 偽善の爆発 時事問題講義(2000年10月30日、新潮社)
- 頂上対談(2001年10月20日、新潮文庫)
- コマネチ!2 −BROTHER大特集(2001年12月8日、新潮社)
- ビートたけしの黙示録(2001年11月30日、徳間書店)
- 日本の差法 ※身障者芸人:ホーキング青山との対談(2002年、新風舎)
- 悪口の技術 (2005年1月、新潮文庫)
- 巨頭会談(2005年11月、新潮文庫)
- コマ大数学科特別集中講座 ビートたけし・竹内薫(2006年12月27日、扶桑社)
- ビートたけしの21世紀毒談(週刊ポスト:連載コラム)
- 貧格ニッポン新記録 (2008年10月1日、小学館101新書)
- 下世話の作法 (2009年3月30日、祥伝社)
- 漫才(2009年5月25日、新潮社)
- 達人に訊け! (2009年5月28日、新潮文庫)
- 1084(to-san-ya-yo) MANZAI2 two beat(2010年9月15日、ネコ・パブリッシング)
- 間抜けの構造 (2012年10月17日、新潮文庫)
写真集 [編集]
- 武風 たとえば風のように(写真集)(1986年頃、O.P.F.C)
- たけし軍団(写真集)(1987年11月18日、太田出版)
論文 [編集]
音楽制作 [編集]
歌唱作品 [編集]
- 俺は絶対テクニシャン(来生えつこ作詞・遠藤賢司作曲)
- BIGな気分で歌わせろ(柳川英巳作詞・大沢誉志幸作曲)
- いたいけな夏(教重清隆作詞・加瀬邦彦作曲・伊藤銀次編曲)
- OK!マリアンヌ(大津あきら作詞・鈴木キサブロー作曲)
- 抱いた腰がチャッチャッチャッ(大津あきら作詞・大沢誉志幸作曲)
- TAKESHIの、たかをくくろうか(谷川俊太郎作詞・坂本龍一作曲)
- I'll be back again...いつかは(TAKESHI&HIROKI名義、関口敏行・伊藤輝夫(テリー伊藤)作詞・BABA作曲)
- 浅草キッド(ビートたけし作詞・作曲)
- GOD BLESS YOU〜神の御加護を〜(ビートたけし&ザ・常夏's名義、ダンカン作詞・奥野敦士作曲)
- 嘲笑(ビートたけし作詞・玉置浩二作曲)
- 友だちじゃないか(ぢ・大黒堂名義、トータス松本作詞・作曲)
作詞提供 [編集]
- チポップ(宮沢りえ)
参加作品 [編集]
- モンゴル子守唄 所ジョージ(間奏のラジオアナウンス)
- ニワトリは飛んでいかない 所ジョージ(曲中のニワトリの鳴き声)
- 二曲共アルバム「コケコッコゥ~七色の声色~」収録、また上記の二曲だけではなく、ジャケット写真でもギターを持って所と写っている。
参加したコンピュータゲーム [編集]
- たけしの挑戦状(タイトー)
- たけしの戦国風雲児 (タイトー)
- ファミリートレーナー 突撃!風雲たけし城(バンダイ)
- オールナイトニッポンスーパーマリオブラザーズ(任天堂)
写真家 [編集]
- バイク事故直前に撮った(雑誌は事故後発売)、写真家としての処女作品。
- 「海から来た、おんな」(2002年、小学館発行、2002年2月1日号「週刊ポスト」掲載)
その他 [編集]
- 東京スポーツ新聞社客員編集長、東京スポーツ映画大賞審査委員長
- フランス芸術文化勲章(シュヴァリエ章,Chevalier)授与(1999年)
- 明治大学特別功労賞授与(2004年)
- イタリアの第10回ガリレオ2000賞・文化特別賞を受賞(2006年)
- 日本数学会出版賞を受賞 (2008年)[66]
- 『タイム』誌アジア版2001年2月12日号の表紙を飾った。2002年には同誌の「アジアのヒーロー」の一人として選出された[67]。
- フランス芸術文化勲章(コマンドール章,Commandeur)授与(2010年)[68]
関連項目 [編集]
脚注 [編集]
- ^ “ビートたけし”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 講談社. 2010年3月21日閲覧。
- ^ “北野監督に芸術文化勲章授与=仏”. 時事ドットコム(時事通信). (2010年3月10日) 2010年3月11日閲覧。
- ^ パリ=林路郎 (2010年3月10日). “「まさか、夢のよう」北野武さんに仏勲章授与”. YOMIURI ONLINE(読売新聞) 2010年3月11日閲覧。
- ^ たけしがファンであった初代中村錦之助に因む。
- ^ 「週刊サンケイ」 1982年1月7日・14日号、64頁
- ^ 後年、これに続けて「死に場所探して生きるもよし」と加えた詞を作り、『死んだ犬』として発表した(作曲:泉谷しげる)
- ^ 小水は『ほしをつぐもの』(1990年)で、若松は『エロティックな関係』(1992年)で、再びたけしを撮った
- ^ 100単位以上を取得しながら、何らかの理由で通学できなくなった人物に与える制度。
- ^ 北野武氏へ明治大学特別卒業認定証ならびに特別功労賞を贈呈、2004年9月
- ^ 『驚きももの木20世紀 - 伝説の浅草芸人・深見千三郎と最後の弟子』朝日放送、1996年
- ^ このエピソードについて、兄の北野大はテレビ番組で「武、ごめんな」と笑顔で謝罪している。
- ^ ビートたけし『浅草キッド』新潮社〈新潮文庫〉、1992年(文庫版解説) ISBN 978-4101225128
- ^ これにより芸人としての師弟関係は途絶するが、個人的な付き合いは継続。深見の下に立ち寄った北野に対して「タケ手前、馬鹿野郎、何しに来やがった! ラーメンでも食っていくか?」と粗雑ながら甲斐甲斐しくもてなされていた。
- ^ ビートたけし『午前3時25分!』 『平凡パンチ』平凡出版株式会社、1983年 ISBN 978-4900416000
- ^ ビートたけし『たけし! オレの毒ガス半世紀』(講談社 171頁)
- ^ せんだみつお『ナハ』東京書籍、2002年 ISBN 4487797144
- ^ 近年では『とんねるずのみなさんのおかげでした』フジテレビ系列 2010年9月30日放送など
- ^ 特に毎年、フジテレビで放送されている、FNS27時間テレビが顕著に出ている。
- ^ 『所ジョージの世田谷ベース 15』 有名人&芸能人の愛車データベース 2011年2月21日閲覧
- ^ “たけし、紳助さん引退「全然分からない」”. 日刊スポーツ (朝日新聞社) 2011年9月25日閲覧。
- ^ a b 『週刊文春』2011年9月29日号「ビートたけし「暴力団との交際」すべて語った」
- ^ ビートたけしのテレビタックル・デラックス テレビ朝日 1991年12月30日
- ^ 『特別対談 ビートたけし 麻原彰晃』 Bart 1992年6月22日号 集英社
- ^ 『麻原彰晃 – 『TIME』の表紙を飾った最後の日本人』 JAPA+LA(ジャパラ) 2012年6月28日
- ^ 「ここ4、5年、私が素晴らしいと思っている、北野武の映画があります。『HANA-BI』という作品です。私が『HANA-BI』を好きなのは、それが日本映画だからではなく、普遍的な映画だからです。そこに登場するほとんどの人物たちが一重瞼の細い目をしていることに気づかないほど、普遍的な映画だと思います」と言及された事がある(『週刊読書人』 2002年11月22日号)
- ^ TVタックルより
- ^ たけし帰国会見 仏芸術文化勲章最高章は「黒澤さんが貰ったやつ、すげえ」 -cenemacafe.net 2010年3月13日
- ^ 『だから私は嫌われる』など『新潮45』の連載をまとめた書籍に繰り返し登場。
- ^ 『たけしの場外乱闘』、『余生』など。
- ^ “キタノヨウゴ” (日本語). SmaSTATION. テレビ朝日. 2010年12月25日閲覧。
- ^ インタビュー本 Kitano par Kitano 北野武による「たけし」
- ^ “サミュエル・L・ジャクソン、実はビートたけしの大ファン!世界のキタノを『アベンジャーズ』に召集!?”. cinematoday. 2012年4月26日閲覧。
- ^ 東京医大病院、教授同士が法廷闘争 『週刊ポスト』(小学館) 1999年7月16日号
- ^ 正確には、前日の北野ファンクラブのEDトークに飛び入り出演している
- ^ 日本コカ・コーラ取締役会長・魚谷雅彦(Part4)――数千万円のキャンセル料を支払ってジョージアのCMを作りました(3)|CEOへの道|投資・経済・ビジネスの東洋経済オンライン チームと広告代理店といろんな案を出し、日本のサラリーマンを描くべく、当時タレント人気ナンバーワンだったT軍団に全員出演してもらうことになりました。ところが、契約もできて撮影日も決まった段階で、Tさんがなんと不幸にも交通事故に。通常3カ月ほどかかる企画と制作を1カ月でゼロからやり直すことになりました。
- ^ 「週刊ポスト」 2002年2月1日号
- ^ 「This is 読売」北野武監督対談蓮實重彦 1998年2月号 読売新聞社
- ^ “北野武監督がズバリ語る、嫌いな俳優&好きな俳優” (日本語). Walkerplus (2009年11月23日). 2010年12月25日閲覧。
- ^ たけしの日本教育白書(第6回 2010年11月20日放送)より本人談
- ^ 『みんな自分がわからない』1993年(平成5年)、新潮社 ISBN 978-4103812036
- ^ [1]
- ^ [2]デイリースポーツ 2010年3月1日
- ^ 景山民夫『極楽TV』JICC出版局、1985年 ISBN 978-4880631363
- ^ 酒井康著『虹色の音詞』175~176p
- ^ 酒井康著『虹色の音詞』176p
- ^ かつて森はLOUDNESSのライブビデオや海外ツアーのディレクターとして共に仕事をした事がある。
- ^ ロッキンf 1988年7月号 72p
- ^ “北野映画”に通じる先見性があった」伝説のクソゲー“たけ挑”制作秘話(ORICON STYLE、2009年08月08日)
- ^ たけし「暴力団との関係全告白」 紳助と違い、これはセーフなのか
- ^ 栗本慎一郎・吉本隆明『相対幻論』冬樹社、1983年(1985年に角川文庫に収録) ISBN 978-4041501054(角川文庫版)
- ^ 朝日新聞夕刊『人生の贈りもの』2008年12月5日より
- ^ 色川武大『なつかしい芸人たち』新潮社、1989年 ISBN 978-4103311041(「銀座百点」掲載、1987年)
- ^ 「ファシズムみんなで進めば怖くない」『朝日ジャーナル』朝日新聞社、1981年
- ^ 『たけし事件 - 怒りと響き』太田出版、1987年 ISBN 978-4900416284
- ^ ビートたけし「大物政治家メッタ斬り」痛快語録週刊大衆12月24日号
- ^ 「世界のキタノ」政府会議のメンバーに 文化面から提言朝日新聞 2013年4月19日
- ^ 北野武さんら官邸入り ぶつかり合いダメ。俺が言うのも変?産経新聞 2013年4月20日
- ^ “ビートたけし”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 講談社. 2010年3月21日閲覧。
- ^ 1991秋では、回答者として出演していた。実兄と共演。
- ^ 井上ひさしとの対談は(井上ひさし『浅草フランス座の時間』文春ネスコ、2001年。ISBN 4890361235)に再録
- ^ デイリースポーツ2012年10月11日号
- ^ 1992年 - 1996年は総合司会として参加、1987年はゲスト出演
- ^ ビートたけしと石橋貴明のTBSバラエティ『日曜ゴールデン』が、ひっそりと打ち切られていた!サイゾー 2013年4月10日
- ^ ビートたけしのオールナイト・ニッポン本人談
- ^ ビートたけしのオールナイト・ニッポン本人談
- ^ 日本数学会 広報委員会 2008年度日本数学会賞出版賞
- ^ TIMEasia.com Asian Heroes - Takeshi Kitano
- ^ 「まさか、夢のよう」北野武さんに仏勲章授与(2010年3月10日閲覧)
参考文献 [編集]
- コマネチ! - ビートたけし全記録(新潮45 別冊2月号、新潮社、1998年)
- ユリイカ - 北野武そして/あるいはビートたけし(2月臨時増刊、青土社、1998年)
- 阿部嘉昭『北野武 VS ビートたけし』(筑摩書房、1994年)ISBN 4480871772
- 世良利和『その映画に墓はない 松田優作, 金子正次, 内田裕也, そして北野武』(吉備人出版、2000年)ISBN 4906577547
- Gerow,Aaron(2007).Kitano Takeshi.British Film Institute.ISBN 1844571661(英語)
外部リンク [編集]
- OFFICE-KITANO WEB SITE
- オフィス北野によるプロフィール
- 日本映画データベース 北野武
- 明大広報546号(明治大学:特別企画 北野武氏座談会 −知られていなかった明大時代を語る-)
- 明大広報547号(明治大学:特別企画 北野武氏座談会(続) -「粋」に生きていこう−)
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