とんねるず

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とんねるず
TUNNELS
メンバー 石橋貴明
木梨憲武
結成年 1980年
事務所 アライバル
活動時期 1980年 -
出身 お笑いスター誕生!!
影響 タモリビートたけし矢沢永吉
出会い 帝京高等学校
旧コンビ名 貴明&憲武
現在の活動状況 テレビ中心
芸種 コント
ネタ作成者 石橋貴明
現在の代表番組 レギュラー番組
とんねるずのみなさんのおかげでした
スペシャル番組
とんねるずのスポーツ王は俺だ!!
とんねるず×さまぁ〜ずの一文無しジャーニー2×2
過去の代表番組 夕焼けニャンニャン
ねるとん紅鯨団
とんねるずの生でダラダラいかせて!!
同期 コロッケ小柳トム
公式サイト TN Lounge offical website
受賞歴
1982年 お笑いスター誕生!!10週勝ち抜きグランプリ
1985年 第23回ゴールデン・アロー賞芸能賞新人賞
1985年 第18回日本有線大賞最優秀新人賞
1985年 第18回全日本有線放送大賞最優秀新人賞
1985年 第14回FNS歌謡祭特別賞
1985年 第11回全日本歌謡音楽祭話題賞
1985年 第18回全日本有線放送大賞上半期新人賞
1986年 第14回銀座音楽祭特別賞
1986年 第5回メガロポリス歌謡祭特別賞
1986年 第12回全日本歌謡音楽祭特別賞
1987年 第10回日本アカデミー賞話題賞
1988年 第26回ゴールデンアロー賞芸能賞
1989年 第6回ATP賞タレント部門賞、番組部門賞
1991年 第22回日本歌謡大賞大賞
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とんねるず
基本情報
出身地 日本の旗 日本
ジャンル J-POP
活動期間 1981年 -
レーベル バップ(1981年)
徳間ジャパン(1982年)
ビクター音楽産業(1984年 - 1986年)
ポニーキャニオン(1986年 - )
事務所 オフィスAtoZ(1983年 - 1994年)
アライバル(1994年 - )
共同作業者 秋元康
後藤次利
見岳章
メンバー
石橋貴明
木梨憲武

とんねるず(TUNNELS)は、石橋貴明木梨憲武の2人からなるお笑いコンビ音楽デュオ所属事務所アライバル

目次

概要[編集]

1980年結成。高校の同級生コンビ。1982年に『お笑いスター誕生』でグランプリを獲得。1980年代初頭の「漫才ブーム」衰退後、今日に至るまで日本のお笑い界をけん引。1980年代半ば『オールナイトフジ』、『夕やけニャンニャン』などの出演によって、若者から絶大な支持を得て爆発的ブレイク。1989年から1994年にかけてバラエティ総合年間平均視聴率1位を『とんねるずのみなさんのおかげです』でほぼ独占するなど、1980年代後半から1990年代初頭には社会現象を巻き起こすまでの絶頂期を迎える。歌手としても実績を残しているお笑い界では希少な存在である。若手芸人やお笑いタレントで彼らに憧れる人は数知れない。

メンバー[編集]

名前 生年月日 出身 身長 体重 愛称
石橋貴明(いしばし たかあき) 1961年10月22日(52歳) 日本の旗 日本東京都板橋区成増 182cm 74kg 貴(タカ)さん
木梨憲武(きなし のりたけ) 1962年3月9日 (52歳) 日本の旗 日本東京都世田谷区千歳台 178cm 60kg 憲(ノリ)さん

人物[編集]

コンビ名[編集]

現在のコンビ名「とんねるず」は、NTVプロデューサー(当時)・井原高忠が貴明のTと憲武のNをもじった「とんまとのろま」と「とんねるず」を提案し、本人たちに選ばせた。「とんねるず」というコンビ名に関して井原は(脱線トリオてんぷくトリオに続く)次代のお笑いスターになって欲しいという願いと、素の二人を見て「暗い奴ら」と思ったのをかけたという[1]

芸風[編集]

コンビ芸人だがボケとツッコミの役割が特に分れていないスタイルである。デビュー当時のプロフィールには「カリスマ芸人」と記載していた。デビュー当初はまだ素人芸の延長線上という感じだったが、二度目の下積み時代(新宿御苑のパフォーマンスバー「昆」時代など)を経て破天荒な芸風へと変わっていった[2]。ボケとツッコミの別れていないスタイルはとんねるずに影響を受けたバナナマン次長課長などにも見られる。その後は、ボケとツッコミがはっきりしないコンビ、ボケとツッコミが頻繁に入れ替わるコンビも多数みられるようになった。

オールナイトフジ』出演以降に若さとエネルギー全開「ナ!わけだァ!」節炸裂の過激トークや、スタジオで所狭しと暴れるなど度胸と勢いのある行動が日常的だった。そのためか、テレビを観ている視聴者はおろか共演者すらも笑顔がひきつるようなハプニングもしばしばだったが、同時に爆発的人気を獲得することとなった。特に出世番組とも言われる「夕やけニャンニャン」ではアイドルによって態度が激しく違うため、自分が好みのアイドルが不本意なイジられ方をすると「あの石橋や木梨の態度は絶対に許さない」とアイドルファンからの不満を買った。一方でスタジオ観覧の若者が「とんねるずに蹴られた」ことを自慢する時代でもあった。

とんねるずのトークの中にはその時代の流行を反映した言葉が多く用いられている。例えば「○○みたいな。」と語尾に「みたいな」を付ける言葉は若者中心に使われているが、これは主に東京近郊の女子大生が使う言葉を敢えてとんねるずがテレビで誇張して用いることで、全国的に広まった。とんねるずにとっては、親交の深い放送作家、玉井貴代志の口癖である「みたいなみたいな」を真似ていただけだったらしい。

ほかにも『ねるとん紅鯨団』から端を発した「ねるとんパーティ」「ツーショット」、『ねる様の踏み絵』で使われた「元サヤ」など、彼らが発信元となった言葉は数多い。また、今では普通に使われる「○○系」「○○状態」や、「人間関係・恋愛関係」などの正規の使い方ではなく、テレビ関係・スポーツ関係等ジャンルを括る場合などに用いる「~関係」なども彼らが発信源である[3]

また芸能界・テレビ界でよく使われる専門用語、いわゆる「業界用語」を多用して広めた経緯があり、今では一般でも使われている事がある。

バラエティ番組の中でお笑いタレントが「出演アイドルを面と向かって呼び捨てにする」という場面は現在では珍しくはないが、この点もとんねるずが元祖と言ってよい。詳しくは後述する。

内輪ネタ」もとんねるずの特徴である。ただし、これは一部の放送関係者だけに理解できる発言であることも多く、その発言内容は一般視聴者にはわかりづらいものである事も多かった(古くは『オレたちひょうきん族』でもこの傾向は見られ、当時は「楽屋落ちネタ」と呼ばれた)。また、「とんねるずのオールナイトニッポン」ではトーク内容がほとんどスタッフ(放送作家マネージャープロデューサー、高校時代の友人など)の話題で占めるため、ハガキ職人の書くネタの内容もその話題を受ける格好で放送関係者絡みのネタが目立ち、常連のリスナー以外が番組になじみづらいという側面もあった。ただそこに、「自分達も元は一般人」「放送業界は別の世界ではない」「視聴者も自分達の内輪に巻き込む」という、共有性・共感性を隠し持つのがとんねるずの「内輪」の真骨頂である。

業界の慣例だった製作会社社員・スタッフに支給される弁当とタレントの弁当にあった区別をとんねるずが取っ払ったというのは有名な話だが、そのスタイル「各業界に壁などない」「スタッフ、素人が同じ舞台に居る」という形が「ねるとん紅鯨団」、「野猿」の結成であり、その「一般人、スタッフネタ」から生まれた番組企画、コントも多数企画された。

とんねるずを育んだもの[編集]

2人とも、幼少時から超の付くテレビっ子であり、特に「8時だョ!全員集合」のザ・ドリフターズをはじめ「カックラキン大放送!!」の堺正章井上順ラビット関根や、「ベンジャミン伊東」の伊東四朗、「小松の親分」の小松政夫コント55号萩本欽一、密室芸で有名なタモリなど、マンザイブーム以前のバラエティ番組全盛の時代の影響が強い。漫才ブームの時期は共に部活動に忙しかったこともあり、ツービートで一世を風靡したビートたけし以外に、受けた影響は少なく、独特の個性を持つコンビとなった。

デビュー当初は喜劇俳優である由利徹と絡む事が多く、共演時のとんねるずは素人時代に戻ったかのように彼の芸を心から笑ってしまう場面も多々あり、前にあまり出ることはしなかった(時代背景としてあまり前に出られなかった環境でもあった)。ただ、そうして若手の時代に由利徹やクレイジーキャッツハナ肇植木等ら大御所のエンターテイナーや喜劇俳優と共演する機会を得た事や、美空ひばり堺正章らに公私共に可愛がられた事は、師匠を持たなかったとんねるずにとって、芸や本質的な礼儀礼節、伝統を学び得るかけがえのない経験だったとも言える。

バラエティ以外で影響を受けた者としては矢沢永吉アントニオ猪木、「傷だらけの天使」の萩原健一らが挙げられる。

経歴[編集]

学生時代[編集]

共に東京都出身で帝京高等学校を卒業。在学中、石橋は野球部、木梨はサッカー部に所属。全国的な強豪として知られるこの2つの部の交流は盛んで、部室内でのモノマネや一発芸などの披露を通じ、それぞれの部の「一番面白いヤツ」とお互い認識したのが出会いのきっかけ。当時は主に先輩や先生のモノマネなどで、共に校内の人気者だったという[4]

石橋は高校在学中から「ぎんざNOW!」(TBS)や「TVジョッキー」(日本テレビ)をはじめとした、素人参加番組の常連であり、アントニオ猪木のモノマネやスポーツ選手の形態模写をはじめとする芸で一部の視聴者から注目されていた[4]。なお同時代のライバルには竹中直人がおり、「TVジョッキー」のザ・チャレンジ(素人お笑い勝ち抜きコーナー)の第1回グランドチャンピオン大会では、第3代チャンピオン石橋と初代チャンピオン竹中が対決している。このときの勝者は石橋であり、見事初代グランドチャンピオンに輝いている。また、木梨も第5代チャンピオンに輝いている。木梨が出場した第2回グランドチャンピオン大会には、石橋も出演している。

石橋ほどの頻度ではないが主に和田アキ子モノマネで素人参加番組に顔を出していた木梨を、高校卒業の記念として石橋が誘い、所ジョージ司会の「ドバドバ大爆弾」(テレビ東京)に出演[4]したのがコンビとして初めてのテレビ出演となる。「お笑いスター誕生!!」の出演までは、賞金を合計で多く得るために、意図的にバラバラで出演することもあったという[4]

お笑いスター誕生への挑戦[編集]

帝京高校卒業後、石橋はホテルセンチュリーハイアット、木梨はダイハツと2人とも一般企業に就職するものの、「お笑いスター誕生!!」へのチャレンジ決意を機に再会[4]。当時のコンビ名は「貴明&憲武」。漫才ではなく、モノマネ一発ギャグアニメ魔法使いサリーサンダーバードのパロディ、学校やアイドルタレントの一コマを演じるコントなど面白いものは何でもエネルギッシュに演る多彩さで、素人ながら4週目まで勝ち抜く。それを契機に2人は勤務先を退社し、プロデビューへと意志を固める[4]

「とんねるず」結成、プロデビュー[編集]

退社後の1980年に正式にコンビ結成[4]。コンビ名も「とんねるず」と改め「お笑いスター誕生!!」にプロとして再挑戦して挑むが、10週目で落選してしまう。またこの時期、同番組担当の日本テレビ・赤尾プロデューサーの紹介で、赤坂のクラブ「コルドンブルー」におぼん・こぼんの後釜として所属。しかし、今でいえば古風なものを好んでいたクラブの客層に芸風がまったく合わず、受けなかった 。

「お笑いスター誕生!!」では、1981年に開催されたゴールデンルーキー賞の15組にエントリー。決勝まで進むが、アゴ&キンゾーに敗れて、特別敢闘賞(事実上の第2位)に終わった。1982年4月10日には見事10週目に合格、グランプリを獲得した。その後も1983年末まで歌合戦などの企画や、グランプリ受賞者のネタ披露コーナーなどへ定期的に出演した。

1981年には西城秀樹司会の朝の情報番組「モーニングサラダ」(日本テレビ)にレギュラー出演したが、ささいなことから赤尾プロデューサーと衝突。一貫して日本テレビ系番組出演タレントだったとんねるずは同局から完全に干されることになる[4]。この間は新宿御苑のパフォーマンスバー「昆」(後にKONと改名)に出演するなど、下積み時代を過ごした。また、この頃は同じショーパブ系タレントであるビジーフォー(いそがしバンド)やアゴ&キンゾーらと交流を持ち、グッチ裕三宅に居候していたこともある。 スーパーの駐車場やデパートの屋上などで木箱をステージ代わりにして営業回りをしていたこともあった。しかし営業は結構いいお金稼ぎになり、食べていくには苦労しなかったと明かしている。 さらにこのころ既にオールナイトフジへの出演が決まっていたので、夜は連日豪遊していた。

その後、西城秀樹の初代マネージャーだった秦野嘉王が設立した新事務所「オフィスAtoZ」の所属第一号タレントになり再浮上の機を窺うことになった[4]。秦野は、当時のお笑い芸人には無縁だったスタイリストをとんねるずに付け、派手なブランドの代名詞でもあったK-FACTORYの衣装をコンセプトとするなど、イメージプロデュース戦略を図った。また現在に至るまでとんねるずの重要なブレーンであり、彼らの楽曲の作詞を行っている秋元康との出会いもこの時期である[4]

人気の爆発[編集]

こうして周囲の環境も整え、エネルギーも充分に蓄えたとんねるずは1983年12月、深夜の人気番組『オールナイトフジ』(フジテレビ)を皮切りにテレビ復帰。当初は番組後半に5分のコーナー「とんねるずの見栄講座」をもらったものの、番組内での些細なトラブル(石橋曰く「誤解によるもの」)によって、1984年1月に一旦降板。半年後の同年6月にレギュラーへと復帰している。その後「とんねるずの何でもベストテン」「とんねるずなっわけだぁ!」とコーナーや番組内の放送時間が早まるにつれ、学生を中心とした若者から爆発的な支持を集め、翌1984年に放送した同番組の「女子高生スペシャル」の発展形としてスタートした『夕やけニャンニャン』(フジテレビ、1985年-1987年)では片岡鶴太郎吉田照美を脇役に追い立てるほどパワーと存在感を示した。

その後も『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)『深夜劇場・トライアングル・ブルー』(テレビ朝日)などレギュラー番組を順調に増やしていく。『とんねるずのオールナイトニッポン』(1986年-1992年)では火曜1部を担当し、数々の伝説コーナーを輩出。オールナイトニッポンを代表するパーソナリティとなる。『トライアングル・ブルー』は深夜ドラマの草分けともいえ、可愛かずみ川上麻衣子前田耕陽などと共演する。

またこの頃、『新・ど根性ガエル』(日本テレビ)のテーマ『ピョン吉・ロックンロール』の後にリリースされた『ヤバシびっちな女(め)デイト・ナイト』以来のシングル「一気!」をリリース。『ザ・ベストテン』(TBS)でのコーナー「今週のスポットライト」に登場して視聴者に大きなインパクトを与え、大ヒットを記録する。この出演をきっかけに、深夜番組だけでなく、本格的にとんねるずが世に知られることとなった。同曲は『オールナイトフジ』のコーナーでも毎回歌われ、勢い余ってセットの高所や吊り下げられた照明によじ登ったり、1500万円のテレビカメラを壊すなどの行動や、自ら勝手に「カリスマ芸人」と名乗るなど、インパクトある行動や言動で視聴者に強烈な印象を与えた。1985年には、「一気!」のあまりの人気に、断交状態にあった日本テレビが動き、ビートたけし司会の『スーパージョッキー』に歌手としてとんねるずを呼ぶことで、当時の関係者だけが知る「確執の事実上の“手打ち”」となった。この際、大御所になりつつあったビートたけしと新進気鋭のとんねるず(特に石橋)はお互いに意識しあい打ち解けるような雰囲気ではなく、緊張感が漂っていたという。後にこの2人は番組で共演することになる。

この当時は『新春かくし芸大会』(フジテレビ)にも出場しており、映画『南極物語』のパロディに、ペンギンの着ぐるみ姿で顔すら判別しにくい状態でセリフなしの数秒のチョイ役出演や、中森明菜と体を張ったカマヌンチャク芸を披露したりとまだまだ若手としての扱いを受けていた。彼らは不遇な扱いを受けていた頃を皮肉る時に「あの時はペンギンでした」と例にとって挙げることがある。

1980年代、巷でタレントショップブームが巻き起こった際には彼らも、「セシカ」や、当時の番組「ねるとん紅鯨団」(関西テレビ)とのタイアップショップ「バレンタインハウス」を原宿や京都に出店しており、関連グッズが飛ぶように売れている。

二人とも当時のお笑い芸人としては珍しくルックスが良く、都会的で洗練された雰囲気も持ち合わせていたことから、女性からの人気も獲得した。『ザテレビジョン』(角川書店)や『明星』(集英社)などさまざまな雑誌の表紙を飾るなどアイドル的な人気も集める一方、『コラーッ!とんねるず』(日本テレビ)や『夕やけニャンニャン』などで披露するコントにお笑いファンからも注目されるようになる。

安定期(1987年〜1995年)[編集]

当時はこの人気も一時的なものと見る向きもあったが、勢いはさらに増していきスターの座を不動のものにしていく。彼らが出演する番組、歌、CM、発する数多くの新語は若者の心を掴み社会現象になり、今日に至るまでの多大な影響を与えていった。1980年代初頭まで巻き起こっていた漫才ブームが去ってからのお笑い新世代を代表するコンビとなっていく。

1987年10月「上海紅鯨団が行く」を引き継ぐ形でスタートした「ねるとん紅鯨団」(関西テレビ制作、フジテレビ系)が爆発的大ヒット番組となる。当時IVSテレビ制作で番組の企画・総合演出などをしていた伊藤輝夫(現:テリー伊藤)や後藤喜男と出会ったのがこの時期。一般参加者による集団お見合い形式の企画が大好評に。今では集団お見合いパーティーそのものが『ねるとんパーティー』と呼ばれることもある。また1986年から火曜ワイドスペシャルで数回特番を行い、のちに彼らの代表番組となる「とんねるずのみなさんのおかげです(フジテレビ)」が、1988年10月に満を持してレギュラー放送を開始。番組放送スタート当初から大反響を呼んでいく。『仮面ノリダー』『保毛尾田保毛男』をはじめとする数多くの人気キャラクターを生んだ名作コントやパロディを輩出した。1989年3月のスペシャル時には番組シリーズで過去最高29.5%の視聴率を記録した。この頃には抱えるCM契約数がお笑いとして類を見ない13本に。波に乗る彼らは1991年10月に『闘牛』『カートグランプリ』『PK対決』などロケ主体の名物コーナーが大人気を博した「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」(日本テレビ)を開始するなど、日本のバラエティ史に名を残す伝説番組を次々と生みだしていった。1995年には、一時期疎遠状態になっていたTBSでの初のレギュラー番組「ねる様の踏み絵」を開始。1997年3月「とんねるずのみなさんのおかげです」が完全終了し、同年6月に「とんねるずのみなさんのおかげでした」とリニューアルしている。

レギュラー番組をこなしながら、並行して音楽活動にも精力的に臨み、「情けねえ」「ガラガラヘビがやってくる」をはじめとする国民的ヒットソングを生み出し、また1995年まで毎年全国コンサートツアーも開催する。1991年大晦日には「NHK紅白歌合戦」に初出場を果たした。

テレビ、ラジオ、歌、CMなどメディア上での活躍の傍らで、1991年から2000年にかけての10年間、苗場プリンスホテルブリザーディウムにて、とんねるず単独コントライブ「こんと いん なえば」を開催し、一お笑いコンビとして生で客を笑わせることも重視していたが、コンビとしてのコントライブはその後行われていない。

1994年には独立し個人事務所「アライバル」を設立。石橋が社長、木梨が副社長を務めている。当時の事務所に向かっていた途中、六本木・星条旗通りでお互い運転していた車を降り、「独立すればもっと正しい方向に向かう」と考えた石橋が、立ち話で木梨に独立の話を持ちかけた。木梨は「貴明がいいならいいよ。」と二つ返事で了承したというエピソードがある。なお、1980年に就職が決まっていた時期に、石橋が渋谷パルコパート2の2階の喫茶店で「プロでやろうと思うけどどう思う?」と持ちかけた際も、木梨の「貴明がいいならいいよ。」という一言で決まったという[5]

転換期(1996年〜1999年)[編集]

1990年代後半(特に1996年以降)に差し掛かるとソロ活動が活発になり始める。

木梨は1996年5月にデビューした演歌ユニット「憲三郎&ジョージ山本」でヒットし、同年のNHK紅白歌合戦出場を果たしている。また1998年1月にはドラマ「甘い結婚」(フジテレビ)で個人初主演を果たした。

一方石橋は、1996年10月に初の単独司会によるレギュラー音楽番組「うたばん」(TBS)の放送が始まり、2010年3月まで13年半続く長寿番組となった。また1997年2月に工藤静香とのユニット「Little Kiss」がヒット。1998年7月には三谷幸喜脚本のドラマ「今夜、宇宙の片隅で」(フジテレビ)に主演した。

2人揃っての活動としては、フジテレビの番組スタッフと組んだ『野猿』で1998年4月にデビューし、2001年までCDリリースやコンサートなど積極的な活動を展開した。2人が音楽活動で揃うのは1996年にシングル「おまえが欲しい」を発売して以来2年ぶりとなった。

2000年代[編集]

2000年代以降も、石橋は得意分野の知識を生かしたレギュラー番組や特番の司会、木梨もレギュラー番組や自身のキャラを生かしたCM出演、お笑いの舞台・絵画の個展を主催するなど、コンビとしてもソロとしても両名は順調に活動の幅を広げている。個人の活動歴に関しては、石橋貴明木梨憲武を参照のこと

2000年1月3日に始まった、とんねるずが一年を通して活躍した話題のプロスポーツ選手を迎えて様々な競技で対決する「夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル」(テレビ朝日)は、正月恒例番組となっている。10周年を迎えた2009年以降は5時間の大型特番化して放送されている。

2004年の「FNS27時間テレビ」(フジテレビ系)内で放送された『笑わず嫌い王決定戦』で、久しぶりにコンビ漫才を披露した。

2004~2007年、木梨は歌・コント・フリートークを交えたソロライブ「NORITAKE GUIDE LIVE」を開催した。

2008年10月、フジテレビの木曜9時枠で冠番組をスタートさせてから丸20周年を迎えた。なお、同枠は1988年10月に「とんねるずのみなさんのおかげです」が正式なレギュラー番組として産声をあげて以来、途中ドラマ出演による半年間の充電期間や「ラスタとんねるず'94」「とんねるずの本汁でしょう!!」などを挟み、現在放送中の「とんねるずのみなさんのおかげでした」まで続いており、充電期間等を考慮すると、厳密には2009年3月で20周年となる。現代のテレビ界でゴールデンタイムで個人名義のいわゆる『冠番組』で、20年以上枠を守り続けている。(2013年10月現在、26年目)

2008年9月25日、同年5月から「とんねるずのみなさんのおかげでした」の企画として始動していた『矢島美容室』をDJ OZMAと結成する事を発表し10月29日にデビュー、ヒットを飛ばしている。2人が揃って音楽活動するのは2001年に野猿が解散して以来であり、実に7年半ぶり。CDリリースやライブもさることながら、2010年には当ユニット名義の映画を公開した。

2010年代[編集]

2010年、コンビ結成30周年を迎えた。ちなみに石橋は美空ひばりに『(結成年数は)売れてから数えなさい』と言われて以来、「雨の西麻布」がヒットした1985年からカウントすることがある。

2012年3月、木梨は5年ぶりとなるソロライブ「NORITAKE GUIDE 5.0」を開催。最終日には石橋がサプライズ出演し、1995年のコンサートツアー以来のとんねるずとしての客前歌披露を行った。

2012年9月10日、視聴者参加型特別番組「ハレバレとんねるず 略してテレとん」(テレビ東京)が放送される。テレビ東京へのコンビでの出演は、同じく素人参加番組だった「ドバドバ大爆弾」以来32年ぶりとなり、プロになってからは初めての同局での冠番組となる。

2013年10月、「とんねるずのみなさんのおかげでした」(フジテレビ)が放送25周年を迎える。2013年11月7日の放送では、放送25周年を記念して、とんねるずvs矢沢永吉の「新・食わず嫌い王決定戦」が行われた。

2014年1月14日、「笑っていいとも!」(フジテレビ)放送8000回のテレフォンショッキングにて不定期に番組にレギュラー出演することが決定した。不定期とはいえ、自身がメインではない番組でのTVでのレギュラー番組は「夕やけニャンニャン」の終了時(1987年)以来27年ぶりとなる。またテレフォンショッキングの史上最長記録は1984年以来、長らく黒柳徹子(46分)が最長となっていたが、番組終了を目前にして彼らが48分22秒で更新した。

交流関係[編集]

戦友・仲間[編集]

石橋貴明は素人時代にTVジョッキー竹中直人と知り合いそれ以後親交が続いている。また『お笑いスター誕生!!』の出演者らとも交流を深めた。特にシティボーイズとはお互いネタを見せ合い評論し合う仲だった。他に小柳トム(現:BGBブラザートム)やコロッケや草野球友達としてツーツーレロレロ等と交流があった。バブルガムブラザーズや同い年のTRFSAMとはディスコ仲間でもある。1983年の再デビューまではショーパブ出演で知り合ったビジーフォーなどと親交を深めた。特に、石橋とグッチ裕三との関係は、仲が非常に良く、妻・鈴木保奈美と含めて家族ぐるみの付き合いをしている。大木こだまとはお笑いスター誕生以来の交友がある。

元々師匠も持たず、お笑いとは言え、漫才でもなくコントと言っても従来のスタイルではないとんねるずは基本的に他のお笑いタレントと共演することを選ばず、主に番組の中にコーナーを設けて個別に好きなことをさせてもらえる環境を選び、新しいタイプのタレントの価値を模索することになる。そのため表面上はマンザイブーム系のタレントとの共演はあまりなく、同業者の交流も前出のお笑いスター誕生系タレントが中心だった。ただし同年代のタレントとは盛んに交流を深め、水谷豊田原俊彦久保田利伸チェッカーズなどはプライベートでも会う友人である。

先輩[編集]

BIG3タモリビートたけし明石家さんま)や笑福亭鶴瓶所ジョージ関根勤といったお笑い第二世代との共演は比較的多い。島田紳助との共演はあまりなく、このことは紳助が『26時間テレビ』内で放送された『笑っていいとも!増刊号』の『テレフォンショッキング』にゲスト出演した際に語っている。紳助とは『オレたちひょうきん族』や『歌のトップテン』などで頻度は少なかったものの共演経験はある。2000年代以降、さんまと共演することもほとんどなくなっていたが、2014年3月31日放送の『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』で、約15年ぶりの共演を果たした。

また、横山やすしとは「うちの子にかぎってパート2」の第2話で最初で最後の共演を果たしている。また、やすしと同学年の田村正和関口宏とも共演した。奇しくもやすしが演じた居作新太郎が経営する新聞配達店の店員の青年役を演じた。なお、やすしの相方の西川きよしとは「ぐうたらママ」で共演を果たしている。

後輩[編集]

若手芸人との共演は、当時無名芸人だった、ナインティナインよゐこココリコネプチューン原田泰造(ネプチューン結成以前の素人時代)がねるとん紅鯨団出演を境に積極的になり、年々増加傾向にある。その後、岡村隆史1997年3月の「とんねるずのみなさんのおかげです」最終回の「仮面ノリダー最終回スペシャル」にてノリダーの分身役を演じた。

また、1990年代からは吉本興業所属の芸人とも共演が多くなり、「ダウンタウンファミリー」と呼ばれるココリコ今田耕司東野幸治130Rとも、共演する機会がある。爆笑問題さまぁ〜ず、ナインティナイン、ロンドンブーツ1号2号、ネプチューン、タカアンドトシおぎやはぎバナナマンらは自らも語る通り、とんねるずの影響を直接受けた世代であり、彼らの多くはとんねるずの番組には多く出演するなどしている。ネプチューンがうたばんに出演した際に石橋は「ウッチャンナンチャン派でしょ?」と茶化しながらも、「ウッチャンナンチャンは(後輩の育成もちゃんとやって)偉いよ」と発言している。

一方で、ダウンタウン浜田雅功松本人志)との共演はほとんどなく、共演したのはダウンタウンがパーソナリティを担当していたヤングタウンと1994年10月3日放送の『FNS番組対抗!なるほど!ザ・秋の祭典スペシャル』のみだった(絡む機会はなかったが春祭にも両コンビが出演している年がある)。どちらも多少ではあるが絡みがあり、対立をしていた様子はなかった。そしてどちらもそれぞれ看板番組を持てる力量のメジャータレントなので、番組で共演させる意味は業界的にほとんどなく、実際の所はお互い特別な感情は持っていない。事実、ダウンタウン松本は自身のラジオにて「向こうのが先輩だし、年上やし、絡みもないので不仲と言われても何のことだかよく分からん。」と不仲説を否定するほか、「Re:Japanが『うたばん』に出てもいいし、野猿が『HEY!HEY!HEY!』に出てもいい。何かこの世界も、派閥でもないんですけど暗黙の了解というか、何の了解やねんと思うし。」と語っている。また、おぎやはぎの矢作が、酒の席で石橋に「とんねるずって、ダウンタウンと仲悪いんですか?」と聞いたところ石橋は「それよぉ、全然仲悪くないんだよな」と周りが遠ざけていると語り、「俺たちを会わせちゃいけないって。俺からしてみれば、ダウンタウンって後輩なんだよ。後輩なんだけど、周りが凄いピリつくんだよなぁ」と語っていた事をラジオ[6]で明かした。2014年3月31日放送の『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』で、約20年ぶりの共演を果たした。後日談として、ダウンタウン浜田が『HEY!HEY!HEY![7]のSMAPとのトークにて「何で仲悪いと思われてんのか(わからへん)絡んだことないのに仲悪いもなにもないやん」と笑顔で語った。

ウッチャンナンチャン内村光良南原清隆)とはお笑い第三世代の括りで並べられるものの、厳密には年齢、デビュー年、デビュー後の経緯を見るととんねるずの方が先輩にあたる。共に「お笑いスター誕生」出身者であり、とんねるずの印象が強い「オールナイトフジ」「夕焼けニャンニャン」にも数回ではあるが新人のウッチャンナンチャンは出演していた。ちなみに初共演はオールナイトフジである。その後「ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン」がスタートするにあたり、1989年4月11日放送の「とんねるずのオールナイトニッポン」に飛び入り出演し、先輩後輩関係を象徴するやりとりを展開している。また1990年4月「とんねるずのみなさんのおかげです」半年間休止のピンチヒッターとして『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』で彼らが抜擢されたのがきっかけで、続編『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』に繋がっていき全国区の人気を獲得していくことになる。また「とんねるずのみなさんのおかげです」の再開予告CMの終わりに石橋が「ウッチャンナンチャンさん、ありがとうございました。」と感謝の礼を述べ親身な一面を見せた。1980年代・1990年代は頻繁にしていた共演はその後少なくなってしまったが、はっぱ隊が『うたばん』に出演する等単独ではたびたび共演している。ダウンタウンと同じく『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』にて、久しぶりにコンビ揃っての共演を果たした。

美空ひばり[編集]

とんねるずの2人は美空ひばりとも生前は親交が非常に深く「お嬢」「タカ」「ノリ」と呼び合う間柄だった。

両者の出会いのきっかけは、とんねるずの大ファンだったひばりの息子・加藤和也(現:ひばりプロ社長)の誕生会に2人が呼ばれたことである。その後も『とんねるずのオールナイトニッポン』に、ひばりがアポなしで飛び入り出演した、とんねるずが出演していた同番組の生放送中にひばり本人から電話が入るなど、彼らのエピソードは枚挙にいとまがない。そのためか晩年の闘病の際、親交の深かった芸能人の見舞いにさえ「面会謝絶」の姿勢を崩さなかったひばりも、とんねるずと島倉千代子にだけは面会を許したという。

結果的にひばりの生涯最後のシングルとなった「川の流れのように」は、奇しくもそのとんねるずが歌った「一気!」「雨の西麻布」「歌謡曲」などと同じ作詞・秋元康、作曲・見岳章のコンビによって作られた。

彼らが出演していたテレビ番組を見ていた美空ひばりから放送終了後2人に電話がかかってきて、深夜にもかかわらずひばりの自宅に呼び出され、夜11時頃から番組内での行き過ぎた歌パフォーマンスに対して説教を受けたことがあり、美空ひばりのコンサートビデオを終わるまで観させられ、ひばりが席をはずすなり石橋がビデオを早送りにして何とか観終わったと思いきや、そのビデオは上巻だったらしく続けて下巻のビデオを結局朝5時頃まで見させられたというエピソードがある。

ひばりも、とんねるずの2人のことを想っていたのか、ある時、とんねるずが某スタジオで収録の為スタッフ数名と集まった際に、それを聞きつけたひばりが、付き人も伴わず自分一人でお蕎麦の差し入れを手配したということがあった。ひばりがたった1人でお蕎麦を乗せた台車を押しスタジオ玄関で待っていると、そこへ石橋貴明が収録の為にスタジオへ入ろうと通り過ぎたので、ひばりが呼び止めたところ、石橋が、たった1人で差し入れを積んだ台車を押しスタジオの玄関で佇んでいた「天下の大スター美空ひばり」の存在に気づかなかったスタッフたちに、「何で気がつかないんだ!」と激怒し、説教を喰らわせた。その後、ひばりは、「じゃぁね~頑張ってね」と言葉を残し帰っていき、石橋はスタッフと共に、有り難く頂こうと食べ始めたが、高級店の蕎麦を食べ慣れないスタッフの1人がその蕎麦を口にして吐き出したため、再び石橋が激怒することとなった。

1988年に東京ドームの単独コンサート第一号として、美空ひばり伝説の不死鳥コンサートが行われ、政界・芸能界から、沢山の有名人が見にかけつけていた中、とんねるずの2人も来ていた。石橋は、隣に居た木梨に感動で泣くところを見られたくなかったので、必死に我慢していたが、ついに堪え切れず涙腺が崩壊しそうになり、「ヤバい」と隣の木梨を見たところ、木梨の方が先に号泣していた。後に、ひばりの親友の中村メイコが食わず嫌い王に出演した際に語ったところによると、俳優の勝新太郎も、コンサートで声を震わせて号泣していたとのことである。

タモリ[編集]

とんねるずが素人時代に『お笑いスター誕生!!』へ出演した際、あまりに突飛なネタで他の審査員からの評価は芳しくなかったが、審査員の一人のタモリは「お前らなんだかわからねえけど面白い」と評価したことからとんねるずは好印象を抱いている。この当時、とんねるずを評価していたのはタモリとその世話人の赤塚不二夫だけだった。これは、タモリもまた特定の師匠に付かずに素人芸を極めて芸人となった経緯を持ち、特定のカテゴリーに収まりきれない芸風だったことによる理解が大きい。タモリに誘われて「タモリのオールナイトニッポン」の見学にとんねるずの二人が行った際、このままお笑い芸人として本格的に活動するべきかどうかタモリに相談を持ちかけて、「やりたかったらやってみればいい」というタモリの言葉に後押しされて本格的にプロの道に進む決心をしたという逸話もある。2007年10月4日放送の「とんねるずのみなさんのおかげでした」でタモリと共演した際にとんねるずは、「タモさんがお笑いスター誕生の審査員じゃなかったら僕たちはこの世に出てなかった」と語っている。またその話を聞いたタモリは、『(ここまで伸びるとは思わなかったから)あの時つぶしとけばよかった』とユーモアをこめて話している。その時の食わず戦の相手が大ファンの松田聖子で、勝負に負け罰ゲームで約30年ぶりにイグアナとコンドルの着地のものまねを披露した。その後、木梨は2008年に「オールナイトニッポン40周年SPタモリのオールナイトニッポン」にゲスト出演をしたり、タモリの誕生日のお祝いもしている[8]2014年1月14日、『笑っていいとも!』放送8000回のゲストでコンビとして29年ぶりに出演し、放送終了の3月までの不定曜日レギュラーを射止めた。

ビートたけし[編集]

『お笑いスター誕生』時代に草野球の助っ人要員としての始まりで交流のあったビートたけしを元祖マルチタレントの先輩として尊敬している。このことはとんねるずの著書に記載されている。若手の頃、お笑いスター誕生出演後、偶然飲み屋で会ったたけしから「東京芸人、頑張れよ!」と激励されたことがある。この言葉には「当時はたけし後の東京の漫才師で大ブレークした者が大阪芸人に比べ少なかったため、とんねるずには東京芸人の火を消さないように」とのメッセージが込められていた。ブレイク後、オールナイトニッポンの第一部担当パーソナリティー全員が集まるスペシャル番組で共演した際には、恐縮して静かなとんねるずに対して、たけしは歌を披露し「歌だして、とんねるずの人気を落としてやろうと思ったけど、俺はムリだな」と発言し、とんねるずを苦笑させている。現在も交流はつながっており、年1回程度、『とんねるずのみなさんのおかげでした』スペシャルで共演している。

また、たけしの最初の弟子であるそのまんま東(東国原英夫宮崎県知事)とは、彼がまだたけし軍団に入る前に組んでいたツーツーレロレロで同時期に「お笑いスター誕生」に出場していた戦友であるため、深い交流関係にある。「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」の元レギュラーでもあった。

なお、たけしが得意とする毒舌漫才、もしくは、映画監督北野武からの影響はほとんど受けていない。

2012年秋、『日曜ゴールデンで何やってんだテレビ』では、レギュラー番組としてたけしと石橋が共演を果たした。

志村けん[編集]

石橋の中学生素人時代の相方(島崎伸一・現制作プロダクション経営)がドリフターズの付き人になったことから、志村けんは当初石橋と付き合いが深かった。しかし後に木梨との付き合いが深まり、木梨自身もキャラクター設定、コントの作り方などで志村から多大な影響を受けたこともあり、一時は「コンビ結成」の噂が立つほどだった。この件について石橋自身が志村本人に抗議して終息した。ただこの付き合いの過程の中で、とんねるずはイザワオフィスとつながりを強めることに成功。後の独立へとつながる。

『とんねるずのみなさんのおかげでした』の「食わず嫌い王決定戦」等でも共演している。

エピソード[編集]

日本テレビ系番組でのエピソード・ハプニング[編集]

  • 歌のトップテン」にて、「やぶさかでない」の歌唱中にカメラを強奪するというハプニングがあった。当時の司会者徳光和夫石野真子、さらには番組スタッフに迷惑をかけてしまい、のちのマネジャーが番組終了後に謝罪した。先にカメラを強奪したのは木梨だが、石橋もつられて強奪。木梨が石橋の局部を映していた。
  • 正月の特別番組『とんねるずの仁義なき花の芸能界全部乗っ取らせていただきます』では馬風師匠(鈴々舎馬風)と石橋との遺恨が勃発し(もちろん演出)、銭湯で石橋の襲撃を受けた馬風師匠は逃げる石橋を裸で追った(この他にも、ドッキリ企画で相模湖に落とされたことがある)。「おい、石橋ぃ!」と石橋の名を叫びながら追う姿は伝説となっている。なお、この番組では笑福亭鶴光マイケル富岡なども同じ企画で湖に落とされている。

TBS系番組でのエピソード・ハプニング[編集]

ザ・ベストテン[編集]

  • 「一気!」の歌唱中にテレビカメラを倒している。当時の司会者黒柳徹子らも顔面蒼白になり、石橋は弁償を考えたが、テレビ局にとってはこのようなアクシデントもそう珍しいことではなく、また故意にやったわけではないと判断され、結局は保険によって解決された。
  • 1985年10月17日の400回記念、日本平静岡市清水区、当時は清水市)からの生放送に出演。とんねるずがスタッフの担ぐ御輿の上に乗り、客席の間の通路を通ってステージに向かう演出だったが、神輿に観客が殺到して衣装を引っ張るなどしたために石橋が御輿に乗れず、激高して観客に掴みかかる事態にまでなった。その状況に司会の小西博之は愛想笑いをするしかなかった。ステージ上でも石橋は怒りが収まらず「ふざけんじゃねぇぞ!この野郎!!」、「てめぇら最低だ!!」と吐き捨てて衣装の飾りを客席に投げつけたり、怒鳴り声で『雨の西麻布』を歌った。なお、この放送翌々日に放送された「オールナイトフジ」にて、番組宛に数百本の苦情電話が寄せられたことを石橋が明かしている。当時の「オールナイトフジ」は静岡にもネットされており、地元の視聴者への謝罪も同様に本人達から行われていた。
  • 1987年10月1日の500回記念、仙台からの生放送に出演した時、この500回記念出たさに、シングル「おらおら」が初登場時にランクインするよう発売日を合わせたことを公言している。当時出演していたラジオ番組オールナイトニッポンでも、リスナーにランクインできるよう、レコードの購入と番組宛てにリクエストを送るよう求めていた。
  • 当時TBSアナウンサーで同番組の司会をしていた松下賢次に向かって、登場直後の石橋が跳び蹴りをしたこともある。番組で披露される松下のダジャレを快く思わなかったところに、とんねるずの曲を批判したのが引き金になったと言われている。その後、一緒に食事に行くなどして和解している。

うたばん[編集]

  • 木梨が番組内で獲得した商品をカメラにぶつけ転倒させている。木梨は「大丈夫ですか?保険に入っていますよね?」とマネジャーの尾崎に確認し、逃げるように撤収した。カメラは無事だった。中居正広が観客を煽ったことで、場内は「オールナイトフジ以来!」コールになった。なお、当該放送回はスペシャルのため、番組名は「とくばん」である。

時間ですよふたたび[編集]

  • 寺内貫太郎一家」で樹木希林西城秀樹がみせた“ばあちゃんがご飯を息子の茶碗に放り投げて入れる“芸(?)”を、同番組内で披露した。森光子がご飯をよそい、直接石橋の茶碗に放り投げたが、石橋はただ茶碗を持っていただけでほとんど森光子一人で成功したようなものだった。

クイズダービー[編集]

  • 1986年、ギャンブラーとして出場したとき、番組史上初めて第1問でいきなり持ち点3000点全部をはらたいらに賭けようとした。はらは確実に答えると見てこの行動に出たが、司会の大橋巨泉が「おまえらふざけるんじゃないぞ、少しは番組のことを考えろ、はずれたらなくなっちゃうからやめなさい!」と怒られたため、賭けることはできなかった。なお、番組の歴史上第1問で3000点を賭けようとしたのはとんねるずと若山富三郎(とんねるずとは逆で、番組に参加する気が全くなかったという理由)のみである。
    なお、とんねるずは後にとんねるずのみなさんのおかげでした(フジテレビ)で、クイズダービーのパロディである「トークダービー」の企画を始めることになる。

フジテレビ系番組でのエピソード・ハプニング[編集]

オールナイトフジ[編集]

  • 1985年1月19日「一気!」の歌唱中、エキサイトした石橋が1台1500万円するテレビカメラの雲台を強く握って揺さぶっているうちに、雲台がバランスを崩し横倒しに。正直に石橋の悪ふざけと申請したため、カメラはフジテレビが掛けていた保険では修繕されなかった。それから数年はフジテレビのNG名場面集番組などでその場面が、倒したカメラを前におののく二人の姿と共に、繰り返しオンエアされている。また同番組では「青年の主張」を歌いながら、建物2階分程度の高さのセットの上や、天井から吊り下げられていた照明によじ登るなどのパフォーマンスを行い、1989年3月26日の放送では登場時にフロアサブへよじ登ろうとして転倒、親指を突き指している。セットの上によじ登った際は、カメラクレーンに乗り移り、救助されている。
  • 1986年4月3日、石橋は泥酔状態で出演した作家の野坂昭如から平手打ちをされそうになる。石橋が後ろに大きく仰け反ったので、当たったかは不明。さらに、野坂が石橋の家庭環境を持ち出してなじり始めたことが発端で、暫くはお互いが睨み合っていた。なお補足として、実際には平手打ちでは無く拳を握ってのパンチで当たっていたが、若い石橋は当たる瞬間に上体を逸らし除けたこともあり、さらに生放送で石橋が司会進行中ということもあって、その場はとりあえず取り繕って進行されたものの、CM中に野坂はスタジオ外へ退出した。
  • 1989年には菊花賞の予想を行い、この際木梨が予想から外した馬(レインボーアンバー)を石橋が推すという珍予想になった。なお、その年の優勝馬は南井克巳騎手騎乗のバンブービギンだった。

夕やけニャンニャン[編集]

  • 「ニャンニャン腕相撲」で、恒例の木梨の「ロッキー!」の掛け声をきっかけにした大騒ぎに乗じて石橋に跳び蹴りをした観客の一人を、石橋とマネジャーのボブ市川がはがい締めにしたことがある。
  • 同じく「ニャンニャン腕相撲」で、石橋の服に観客からケチャップをかけられ、番組終了後に観客を全員残してVTRを確認した後にスタッフと共に説教を行ったことがある(ケチャップ事件)。
  • 高井麻巳子の実家と木梨の実家が同じ自転車屋である事が判明した。

夜のヒットスタジオ[編集]

番組リニューアル直後の1985年4月17日放送に「一気!」で初登場。以来、1989年にかけて、20回以上にわたり番組に出演し、さまざまな話題を提供した。石橋・木梨ともに「ベストテン」と同様に「夜ヒット」に対しても相当の思い入れがあり、「みなさんのおかげでした」など自身の番組ではこの番組に関連したエピソードをよく紹介している。

  • 名物コーナー・オープニングメドレーではヒッピー風、羽織袴姿などといった怒髪天な衣装で登場し、次に登場する歌手の持ち歌をあえて音程を全て外して歌ったり、DJ風のアナウンスで次の歌手の紹介を行うなど、自由奔放とも言える振舞いを行っていた。しかし、上記記事でも触れられている、彼らの本質とも言えるその裏での体育会系の対応が功を奏してか、下手に自分の歌を歌われると明らかに不機嫌な表情を浮かべることが多い大御所の演歌歌手に至るまで、このことにつき注意・批判を行う者はいなかった。
  • オープニングメドレー終了後に行われる季節の風物詩を紹介するセクションで、価格にしてウン十万ともウン百万とも言われる高級胡蝶蘭を紹介した際、木梨がいきなりこの花びらを食べてしまい、司会の芳村真理に真剣に注意されたことがある(当時、この番組で使う植物の大半は、芳村のコネクションを活用して提供されていたと伝えられている)。また同様にカブトムシを紹介した際にはそのカブトムシを生で木梨が食べようとしたところ、口にハサミの部分が挟まってしまい、唇から出血したこともある。
  • 疋田拓プロデューサー時代はよく彼の言動に関連した小ネタ(「今日は疋田ちゃん、○○なんだよ~」(例:「時間が押しちゃってて不機嫌なんだよ〜」など)を披露していた。
  • 番組を見ていた美空ひばりから放送終了後2人に電話がかかってきて、深夜であるにもかかわらずひばりの自宅に呼び出され、番組内での行き過ぎたパフォーマンスなどに対して説教を受けたことがある。
  • 「オールナイトフジ」同様のカメラいじりパフォーマンスを画策したものの、プロデューサーの疋田拓の持つあまりの威圧感に萎縮してしまい、カメラ転倒パフォーマンスを行うことはできず、石橋がカメラに近づき、木梨が「危ねえぞ!」と注意するに留まっている。
  • 1986年6月、「やぶさかでない」での出演時に、歌が佳境に差し掛かった辺りで意図的な演出として、共演していた大勢の女性バックダンサーに一斉に襲いかかられ、石橋はズボンを脱がされ、下半身はブリーフパンツ一枚という姿になり、その姿のままスタジオを走り回って歌を締めくくるという「オチ」が付いた。これには、視聴者から賛否両論の意見があったようで、番組史上に残る「迷」シーンの一つとして後年の総集編でも定番ネタとなっていた。
  • 1987年3月、「嵐のマッチョマン」で初の番組トリで歌を披露。この際、郷ひろみら他の出演者が途中から歌に参加して、一気にヒートアップし、賑やかに番組を締めくくった。
  • 1987年10月、マンスリーゲストとして出演していた久保田利伸五木ひろしが後ろから何度も蹴りを入れているのを見兼ねた石橋・木梨の二人は、久保田をかばってすかさず仲裁に入り、事態は収束した。久保田はこの一件以降、とんねるずの二人に対し深い恩義を感じ、親交を持つようになった。
  • 1987年12月、つのだ☆ひろの作品「メリー・ジェーン」をそのままもじった「ジャニー・ジェーン」なる歌を披露。この際、サプライズゲストとしてつのだ本人が階段から「メリー・ジェーン」を歌いながら登場し、さすがの2人も珍しく動揺の色を隠せなかった。また、歌い終わった後、スタジオ内が微妙な空気になっているのを察知してか、木梨が「終わりました?」となぜかスタッフの一人に確認する様子が映し出されていた。

新春スターかくし芸大会[編集]

1984年の第21回以降一時期常連のように出場しており、1996年の第33回で司会を務めたこともあった。

  • 1984年の第21回
南極物語-二人でペンギンの衣装を着て出演した。ちなみに、当時のプロデューサー王東順にセリフもない台本読みに呼ばれたことが相当悔しくて、ラ・ポルトのサンドイッチが食えなかったそう。これを売れていなかった時代の汚点として、以後、かくし芸に出るたびに「○年前はペンギンでした」と発言している。後に、仮面ノリダーの「ペンギン男」の回では石橋が第2制作部(当時)に乗り込み、王から謝罪を勝ち取っている。
  • 1987年の第24回
    • ワンスアポンアタイムインジャパン - 田原俊彦中森明菜、とんねるず、中山美穂中村繁之前田美波里
      • とんねるずの石橋が最後のシーンで「今、夜中の4時です。~3年前はペンギンでした。」と、ロケのための待ち時間を嘆くコメントを言っていた。
    • 曲芸PartII カマヌンチャク - 中森明菜、とんねるず
      • とんねるずの石橋はここで右手にカマのかすり傷を負ってしまった。「3年前はペンギンでした。」をここでも連発していた。 中森明菜は蛍光灯の上に乗ったまま静止する芸等をやった。

森田一義アワー 笑っていいとも![編集]

2014年にレギュラーに。『笑っていいとも!』が終了する直前でもある。以降、石橋、木梨共に出演中。(番組終了までの記録

  • 1月14日放送にて、名物コーナー「テレフォンショッキング」に黒柳徹子が1984年3月に記録した46分を上回る48分22秒出演。その中でタモリに直訴し、番組レギュラーになった。なお、その未公開シーン(19日)で、「(残り)10週なんで、2人で5週ずつ」と宣言した[9]
  • 1月23日放送にて、笑福亭鶴瓶が話そうとした瞬間にスタジオの天井からワイヤで降下し、彼の首を絞め上げる、という登場シーンでレギュラーとして木梨が初登場をした。司会のタモリによると、(この登場方法は)いいとも史上初めて、とのことである[10]
  • 1月29日放送にて、石橋がレギュラー初出演、水曜日のレギュラーコーナーに次々と参加した。「爆笑問題太田光より「転校生を紹介します。帝京高校をタバコを吸って退学になった石橋貴明君です」と紹介、それに対し「迷惑かけないようにします」とあいさつ[11]
  • 2月3日放送にて、木梨が2度目の出演。今度は、月曜日に突然箱の中から現れる登場シーンをした[12]
  • 2月6日放送にて、歌手の郷ひろみも出演のテレフォンショッキングのコーナーで、「お嫁サンバ」のブラジルサンバの踊り子に紛れ込んで木梨が3度目の出演。『郷は「実は2日前にのりちゃんに電話して…」というと「手伝えって電話が来た」と木梨が返し「2日間打ち合わせしました」』ということである[13]
  • 2月14日放送にて、石橋が2度目の出演。タモリが「貴明、金曜日はどう?」と質問すると「いいですね。金曜日。俺、金曜日にします」と金曜日出演が決まった[14]
  • 2月18日放送にて、木梨の仮面をかぶった10人の中から本物を当てるクイズを実施。ところが、そこにはおらず、実際には「noon boyz」の野澤祐樹に扮し4度目の登場した[15]
  • 2月24日放送にて、石橋が3度目の出演、転んだ時に骨折したというアンケートで7連続クリアを果たした。
  • 3月7日放送にて、木梨がハワイからの出演となった。
  • 3月13日放送にて、石橋が4度目の出演、タモリ(福岡)、鶴瓶(大阪)、石橋の3人のフリートークコーナーの東京都代表として出演していた。
  • 3月18日放送にて、石橋が5度目の出演。インフルエンザで欠席のバナナマン日村勇紀に代わり、コーナーの司会をした。
  • 3月20日放送にて、木梨が岡村[16]と2人で、スパイダーマンになって、鶴瓶にドッキリを仕掛けた。
  • 3月31日放送「グランドフィナーレ特大号」ではダウンタウン浜田雅功松本人志)と約20年ぶりに共演を果たした。他に舞台上にはタモリ明石家さんまウッチャンナンチャン爆笑問題ナインティナインがいた。

その他番組[編集]

  • 2001年の「FNS27時間テレビ」では、石田弘(通称ダーイシ)に扮した石橋が港浩一(通称小港)に扮した木梨とのゴルフパター対決で、石橋がわざと大振りでスイングしたゴルフボールが大型モニターに直撃し大きく割って破壊している。しかしこの時はオールナイトフジのようには動じず石田と港のキャラを演じつづけ笑いをとっていた。
  • 2008年10月29日、矢島美容室が「笑っていいとも!」に出演した際、「曜日対抗いいとも!選手権」にて、ストロベリーが競技中に風船を割ってしまうハプニングが発生した。生放送であるため番組放送内に再度行うことができなくなり、放送終了後に再チャレンジすることとなった。

テレビ朝日系番組でのハプニング[編集]

高卒キャラ[編集]

番組のスタッフはほぼ大半が大卒者である。自分たちが高卒でありながら芸能界で大成功したことを「むしろ出世だ」とギャグとして強調することが、特に石橋は多かった。弟子に東大生(現在タレント・医師の吉田たかよし)がいたのも「東大生が高卒の俺たちの弟子だぜ」とギャグとして使用。

ただし「ザ・ベストテン」(TBS)出演時に高卒発言をした際には、共演者の小泉今日子に「あたしは中卒」(実際には高校中退)、吉川晃司に「ボクは高校中退ですよ」などと切り返される場面もあり、思わずとんねるずは沈黙してしまった。司会の黒柳徹子は「中学卒業でも偉い人はたくさんいるんだから威張らないで!!」と、とんねるずを叱責した。

舎弟軍団“もっこりーず&ぺにーず”[編集]

オールナイトフジ」のとんねるずコーナーで募集を行った舎弟軍団。応募条件は大学生。ここでも高卒が大学生を自由に扱う下克上美学が炸裂。当初は4チーム存在していたが、途中で突然解散を告げられ『もっこりーず&ぺにーず』だけが残る。

石橋曰く「俺達のガンバルマンズだ!」との通り、カニを口でくわえたりさせられたり体力型の試練ゲームをチーム対戦型で『憲武チーム』と『貴明チーム』に振り分けて展開した。メンバーは古賀薬局、ボッキー潮田等。ユニフォームはもっこりーずが上半身裸で赤いタイツ、ぺにーずが同じく黒いタイツ。双方登場のテーマ曲があり、もっこりーずが『♪も、も、も、も、もっこり〜ず〜♪』とボッキー潮田がフォークギターを弾きながら本日のテーマに合わせた歌詞にアレンジして熱唱しつつ皆で組み体操のような振り付けを決める。というもの。対してぺにーずは宴会ノリで『♪ぺぺぺい、ぺぺぺい、ぺぺぺいぺい♪ぺにーずの、ちょっといいとこ見てみたい♪(アレンジが入り最後に)あんたはお強い♪』である。特定のメンバーはそのまま夕ニャンにも出演。このメンバーの中にはそのままオールナイターズと結婚したメンバーもいる。オールナイトフジの最終回に可能な限りのメンバーを集め一度だけ再結成された。

それから時を経て、2005年9月に放送されたみなさんのおかげでしたの特番「とんねるずの石田さんのおかげでしたオールスター大感謝祭」に古賀とボッキーが出演。とんねるずの二人と再会を果たすが、その際木梨に「懐かしすぎて誰かわかりません」と言われた。なお、ボッキー潮田のみ現在音楽活動を東京都内を中心に継続している。

過去の出演作品・CDなどについて[編集]

版権についてはかなり厳しく、例として2004年に発売された『夕やけニャンニャン』のDVDでは出演箇所はモザイクで消され、CSで再放送されている番組(『ひょうきん族』など)でも彼らのシーンはカットされるか、放送されない回も多い。TBS「王様のブランチ」の瞬間最高視聴率ランキングでも、うたばんでの石橋部分を極力カットするなど名残が残っていた。また自身の冠番組の再放送や、外部への二次使用的な映像放出も少ない。

これは一説に、版権管理に厳しいイザワオフィス傘下で独立し事務所を構えたことや、それまでにも所属事務所を転々としてきたため版権関係が複雑化しているのが原因とされている。実際、ベストアルバムが発売される際には「○○所属時代のベストアルバム」と分類されることがほとんどである。記載されている通り過去映像などはほぼ再放送はされていなかったが、2012年1月1日から1月3日までCS放送のホームドラマチャンネルとんねるずがデビュー当時に出演していた日本テレビの「お笑いスター誕生!!」の選りすぐりの3本を放送した「お笑いスター誕生!! セレクション」の1月3日に放送されたとんねるずが10週勝ち抜きグランプリを獲得した放送分が放送された。

秋元康との出逢い[編集]

1983年に新事務所所属となった頃、とんねるずを面白いとテレビ局の一室に呼ぶよう手配した人物がいた。それが当時新進の放送作家だった秋元康であり、ネタ見せ後そのネタからつかこうへいの影響を洞察した秋元は本人らにこれを確認するが、彼らはつかこうへいの名前すら知らなかった。その事実が秋元を驚かせ、それを機に秋元はとんねるずに可能性を感じ、以後彼らの筆頭ブレーンとして番組構成や作詞をはじめとした様々なアイデアをとんねるずと共に形にしていくこととなる。今では、特に石橋は秋元とは心許せる夫婦のようであり良きプライベート仲間である。

下克上タレント[編集]

とんねるずに関しての初期文献広告批評とんねるず特集では、彼らを“下克上タレント”と評している。芸人間では通常上下関係に関しては非常に厳しいが、とんねるずは“生意気”“成り上がり”“下克上”など媚びぬことをスタンスに定めている部分があり、志村けん笑福亭鶴瓶などの大物芸人相手にすら、番組中志村けんへ突然攻撃を仕掛けたり、鶴瓶へ「ねぇ、笑福亭」と屋号だけで名前を呼ぶなど、なかば意図的に芸人の礼儀を裏切ることがある。しかしとんねるずは誰もが認める体育会系であり、控え室では「志村さん」「鶴瓶師匠」と呼びきちんと礼を踏まえている。

元祖アイドル呼び捨て芸人[編集]

近年、お笑いタレントがバラエティ番組の中で出演アイドルを面と向かって呼び捨てにする場面は珍しくはない。しかしこの点もとんねるずが元祖と言ってよい。

それまでは礼儀として、また業界の暗黙のルールとしても“御法度”だった。これは旧世代の芸人/漫才師のあり方に由来する。彼らの仕事は演歌歌手の前座が多く、正月の隠し芸大会などでもあくまで歌手や人気アイドルを引き立てる幇間であり、“歌手のおかげで食べさせてもらえる”という色物意識が強かった時代の名残である。萩本欽一タモリはもちろん、毒舌と言われたビートたけしでさえも、誰かを呼び捨てにするのは、本やラジオ、テレビの各メディアで本人がいない場所に限られていた。これは明石家さんまを含めた漫才ブーム系芸人でも同様に守られており、呼び捨てはあくまでも芸人の先輩後輩や仲間の“同業者間”でのみ許されるものだった。これを侵せば業界から抹殺されかねないほどの約束事とも言え、対スポーツ選手でもこれは同様だった。

この状況の変化は、ビートたけしの登場から始まっている。大学生活を経験したという意味で、当時の芸人としては異色の存在だったビートたけしは、歌手やアイドルが実は間抜けで頭が悪いという面をどんどんネタにすることと、本格的な哲学をも怖じずに知的に語る活躍によって、お笑いタレントの地位を徐々に上げていった。たけしが開拓したマルチタレントカテゴリに位置するとんねるずのルールは明快で、体育会系のルールをそのまま芸能界へ持ち込み“年齢が上か下か”という点にのみ基準を置いている。年下は問答無用で呼び捨て、そしてスタッフや関係者には目上であっても“ちゃん”付けかあだ名を付けて呼ぶというものである。素人系のオールナイターズからおニャン子までは躊躇なく呼び捨て、アイドルに対しても、当初から比較的絡む率が高かったシブがき隊辺りから、「薬丸、テメー!」のような呼び捨てもハッキリと確認されるようになる。それ以後は、必要に応じて呼び捨てにしている。

傍若無人とも取れる行為であるが、とんねるずの場合は過去の風習も充分承知した上でのことであり、自己プロデュースの一環とも言える。

出演作品[編集]

とんねるずとしての出演作品を記載。個別での出演作品は石橋貴明の出演作品木梨憲武の出演作品を参照。

現在の出演作品[編集]

テレビ番組[編集]

レギュラー番組
スペシャル番組

過去に出演したテレビ/ラジオ/CM/映画/舞台[編集]

受賞歴[編集]

素人時代

  • TVジョッキーザ・チャレンジ第3代チャンピオン獲得(石橋)
  • TVジョッキーザ・チャレンジ第1回グランドチャンピオン大会にて初代グランドチャンピオン獲得(石橋)
  • TVジョッキーザ・チャレンジ第5代チャンピオン獲得(木梨)

デビュー後

音楽活動[編集]

お笑い界で成功を収めた彼らは、音楽界でもトップクラスの実績を誇る。昔からお笑いタレントがオリジナル曲を歌ってCD(レコード)を出すことは珍しくはなかったが、職業歌手並みに継続的なリリースを行いコンスタントなセールス結果を出し、歌手としてコンサートツアーを行ったお笑いタレントは前例がなかった。ちなみにオリコン調べのお笑いタレントの歴代シングル・アルバム総売上枚数(企画ユニット系も全て含む)は、歴代1位を誇る。

1980年代[編集]

とんねるずとしてもまだデビュー間もない新人の彼らが、1981年にいきなり抜擢されて歌った最初の曲は、アニメ『新・ど根性ガエル』の主題歌「ピョン吉・ロックンロール」である。翌年、1982年には徳間ジャパンに移籍して企画物シングル「ヤバシびっちな女(め)デイト・ナイト」をリリース。その後コンビの人気が開花し始めた時期に、ビクター音楽産業に籍を置き、1984年12月リリースの「一気!」(一気ブームを巻き起こす)を皮切りに音楽活動が本格始動していく。この曲で強烈なインパクトを残した彼らは、その後サクセスストーリーを歩んでいくこととなり、自身最初のオリコンTOP10入り(5位)となった「雨の西麻布」で歌手としての知名度も一段と上がり、ランキングの上位常連となっていった。

評価を受けた彼らは、数々の音楽賞レースにノミネートされ、賞を獲得していった。(受賞歴 を参照。)

当時は多くの音楽番組にも出演していき『ザ・ベストテン』(TBS)、『夜のヒットスタジオ』『FNS歌謡祭』(フジテレビ)、『トップテン』(日本テレビ)、『ミュージックステーション』(テレビ朝日)などで繰り広げる2人のパフォーマンスは、いくつもの名(迷)場面を残していった。

86年5月リリースの「やぶさかでない」から、レコード会社をビクター音楽産業からキャニオンレコード(現:ポニーキャニオン)に移籍している。

音楽活動開始初期(ビクター在籍時からキャニオン移籍初期)は「一気」を代表とするおふざけ全開のコミックソングのような曲を歌っており、「雨の西麻布」「歌謡曲」「迷惑でしょうが…」などの日本歌謡、「嵐のマッチョマン」「炎のエスカルゴ」などの1980年代を彷彿とさせるラテン系ディスコソングなど、ジャンル問わず幅広く網羅していた。

1990年代[編集]

セールス的に大きく飛躍したのはシングル「情けねえ」をリリースした1991年以降である。以前は初登場で上位にランクインするものの、数週でのランクダウンという売り上げ推移傾向は否めなかったが、「情けねえ」では数か月もの間オリコンチャートの上位に位置するロングヒットを記録。同曲にてその年の第22回日本歌謡大賞の大賞受賞、ついには第42回NHK紅白歌合戦に初出場し、パンツ1丁で出演して「受信料を払おう」というペインティングをして話題になり、歌手別視聴率2位を記録した。なお1位は大トリの谷村新司だった。

次のシングル「ガラガラヘビがやってくる」では初のオリコン1位を獲得し、ミリオンセラーを記録する自身最大のヒット曲となった。1992年度年間シングルチャート6位。何週にも渡り浜田省吾の「悲しみは雪のように」と1位の座を争った。当初この楽曲は「とんねるずのみなさんのおかげです」のオープニングテーマ用としてサビのみ書き下ろされ、CD化されるにあたり、その後サビ以外の部分も作曲して発売された。番組オープニングで曲といっしょに映像で流れていたクレイアニメーションは、その後「がじゃいも」等々で使われる。

この後も快進撃を続け、「一番偉い人へ」では2週連続1位を獲得。「がじゃいも」では共に初登場組だったZARDの代表曲「負けないで」を上回り、1位を獲得した。続く「フッフッフッってするんです」もヒットし、『歌手・とんねるず』が世間に浸透した時期である。1990年代に入ってからは「ガラガラヘビがやってくる」や「がじゃいも」などのコミカルソングの一方で、「情けねえ」や「一番偉い人へ」などの社会風刺を含んだメッセージ色の強い曲が主体になっていく。

活動休止後(企画ユニット時代)[編集]

1996年シングル「おまえが欲しい」のリリースを最後に、「とんねるず」名義での音楽活動は事実上休止してしまっている。しかし歌手活動そのものを辞めたわけではなく、以降も様々なスタイルのユニットを組み、音楽界に話題を振りまいている。

  • 生ダラ発ユニット(1996 - 1997年)

木梨は1996年山本譲二との演歌デュオ「憲三郎&ジョージ山本」を結成。北島三郎(原譲二名義)作詞作曲による『浪漫-ROMAN-』で、売上23万枚のヒットを飛ばし、その年の第47回NHK紅白歌合戦に出場を果たしている。歌手別視聴率では堂々4位を記録した。一方石橋は、自らがプロデューサーとなってヒットを生みだすと意気込んで始まった企画で、1997年工藤静香とのデュオ「Little Kiss」を結成する。三貴・カメリアダイヤモンドのコマーシャルソングとなった『A.S.A.P.』はオリコンランキングでトップ3入りし、売上50万枚の大ヒットを記録した。また定岡正二デビット伊東との3人組バンドで、作曲に佐野元春が参加した「ANDY'S」(当初のユニット名は「生殺(なまごろし)」だったが、神戸連続児童殺傷事件の影響で改名)も結成しており、シングル『FREEDOM』をトップ10入りさせるなどヒットさせている(全て「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」内で結成)。1997年暮れには、当番組で結成した全ての音楽ユニット(CD発売されなかった「サーフノリダーズ」などを含む)が集結し、合同コンサートを渋谷公会堂で開き完結した。その後、音楽系の企画は「とんねるずのみなさんのおかげでした」に引き継がれていく。生ダラでのユニットは全て石橋か木梨のどちらか一方のみが参加するというユニット形態での音楽活動だった。

  • 野猿(1998 - 2001年)

1998年、『とんねるずのみなさんのおかげでした』内で番組スタッフと結成した「野猿(やえん)」で、2年ぶりに2人揃って音楽活動を再開することになる。当時番組のコーナーでとんねるずがKinKi Kidsのパロディをした際、バックダンサーとして踊っていた番組スタッフが2人の目に止まり、「CDデビューあるか?」と話が盛り上がりスタートした。元々スタッフのみで結成する予定だったが、ボーカルを決めるオーディションを行った際、まともに歌えるメンバーが少なかったために、ボーカル面で不安を感じた秋元の助言で、一緒に審査していたとんねるずが急遽歌収録に参加することになり、そのまま加入する運びとなった。当初は1曲のみの限定で始まったが反響が大きく、最終的には企画物としては異例の長期活動(98年~01年までの約3年間)となった。この野猿では、メンバーの脱退や加入など、曲リリース毎に繰り広げられる様々な展開も見所となった。活動期間内には11枚のシングル、3枚のアルバム、DVDなどがリリースされ、秋元康&後藤次利コンビによって生み出された楽曲は、当時の最新の音楽トレンドが取り入れられ、クオリティも非常に高かった。その結果、全てのCD、DVDでオリコントップ10入りを果たす。NHK紅白歌合戦にも1999年と2000年に2年連続で出場。また1999年には横浜アリーナ2000年には武道館3Days、2001年にはコンサートツアー「撤収」を開催し大阪城ホール名古屋レインボーホール国立代々木競技場第一体育館3Days、更に「完全撤収」と題して同所で追加公演2Daysと大きな会場でのライブも行われた。この代々木でのライブを最後に野猿は解散(『撤収』と呼んでいる)した。そして撤収して10年の節目を迎えた2011年3月9日には、全ての楽曲(全50曲)の着うた配信を開始した。

野猿撤収後は、再びそれぞれが単独で音楽活動を継続する。(単独での音楽活動は石橋貴明木梨憲武を参照。

  • 矢島美容室(2008年 - 2010年、2012年3月)

2008年、『とんねるずのみなさんのおかげでした』内でDJ OZMAと「矢島美容室」を結成。実に7年以上の月日を経て2人が揃って音楽活動を再開。「矢島工務店」を見てバンドを始めたというDJ OZMAと話が盛り上がり企画がスタートした。とんねるずとDJ OZMAのプロデュースで、ネバダ州から来た母娘による3人ユニットである。楽曲は作詞が脚本家・放送作家の遠藤察男が担当、作曲はDJ OZMA自らが担当している。デビュー曲『ニホンノミカタ -ネバダカラキマシタ-』は、音楽配信で170万ダウンロードを記録。オリコンCDチャートでトップ3入りのヒットを飛ばす。同年12月20日には国立代々木競 技場第一体育館でライブを開催。その後も活動は継続され、計5枚のシングル、2枚のアルバムがリリースされている。2010年にはスクリーンデビューを果たす。彼女達がデビューを果たすまでを描いた映画『矢島美容室 THE MOVIE 〜夢をつかまネバダ〜』が4月29日から全国公開。昨今邦画界ではテレビ局が主導でドラマやアニメ、コミック、小説などから映画化されるケースが主流になっているが、バラエティ番組の一企画のキャラから映画化されたのは珍しい試みであり新たな成果を収めた。全国上映に先駆けて3月22日東京国際フォーラム4月11日に建設中の東京スカイツリーで初めてのイベントとなった映画公開イベントを開催。また舞台挨拶が東京、福岡、大阪、名古屋で開催された。 その後、フジテレビ社屋移転15周年音楽番組「とんねるずが生放送!音楽番組全部見せます!~名曲で元気になろう!」にて復活。「ニホンノミカタ」を披露した。

NHK紅白歌合戦出場歴[編集]

西暦 回数 歌手名 曲目
1991年 第42回 とんねるず 情けねえ
1996年 第47回 憲三郎&ジョージ山本(木梨) 浪漫~ROMAN~
1999年 第50回 野猿 Be cool!
2000年 第51回 野猿 Chicken guys

※木梨は3回初出場をしており、NHK紅白歌合戦最多『初出場』記録を持っている。後に、後藤真希もこれに並んでいる。

作家陣[編集]

バックで支える作家陣はそうそうたる面子で、とんねるずや関連ユニット(野猿など)全般の楽曲の作詞を担当している秋元康、作曲を担当している後藤次利のゴールデンコンビを中心に、のちに美空ひばりの「川の流れのように」を秋元と共に生みだすことになる見岳章や、友人の有名アーティスト(高見沢俊彦玉置浩二藤井フミヤ久保田利伸)らが楽曲を提供している。これは、ビクター時代から一貫しており、「バックの音源をしっかり作って、その中でとんねるずを自由に暴れさせる」という音楽制作コンセプトがあったためである。

1995年にリリースしたアルバム「おまえ百までわしゃ九十九まで」では歌謡活動10周年を記念するアルバムとあって武豊野茂英雄畑正憲由利徹所ジョージ落合信子落合博満の妻)、アントニオ猪木というユニークな面々が詞を提供している。これは「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」の企画として制作から完成までの過程が放映されていた。

またアルバム収録の「ブラックキャッツ!」では石橋と木梨の共作での作詞・作曲、シングル「YAZAWA」のカップリング「かき氷は宇治金時」では作詞石橋、作曲木梨(実際は後藤次利が作曲の大部分をサポートしているがクレジットはされていない。しかしこの件に関して後藤は了承している)という自作曲も少ないながら存在する。

その他[編集]

  • 音楽活動時のツアーバックバンドにはDREAMS COME TRUE結成前の吉田美和(1988年参加)と中村正人(1985-1988年参加)の二人が在籍していた。中村は当時デビュー前の吉田に、大勢の観客との一体感、雰囲気を体感させるため、バックコーラスとしてとんねるずのライブツアーに同行させた。
  • 石橋が自身のラジオ番組で、CDが一時期売れなくなったタイミングと相反して、ちょうど巷では光GENJIが大人気で、歌番組で歌いながら踊っている彼らの圧倒的なパフォーマンスを目の当たりにして、「俺らは歌を諦めてお笑い一本で頑張るしかない」と思ったきっかけになったらしく、その後TBSザ・ベストテン」の真裏で「とんねるずのみなさんのおかげです」を始めることもあり、今後「ザ・ベストテン」に一生出られなくなることを覚悟でお笑いだけの道を歩み始めたことを語ったことがある。番組は開始と同時に大成功し、約1年後「ザ・ベストテン」は打ち切りになる。(ちなみに「とんねるずのみなさんのおかげです」と「ザ・ベストテン」が被っていた期間は、シングルの発売をしばらく控えるなど配慮していた。)
  • 2007年11月8日放送の「とんねるずのみなさんのおかげでした」内で、石橋が秋スペシャル(詳細は番組記事参照)で久しぶりに「一番偉い人へ」を披露した際に手ごたえを感じ、石田弘と相談した結果、音楽活動再開を検討していると語った。また、同じフジテレビ発の3人組ユニットでもある羞恥心を半ばネタではあるものの敵対視している節もあり、2008年10月30日にナインティナインのオールナイトニッポンに出演した際も、石橋は「羞恥心をやっつける」とまで発言していた。因みに、羞恥心とは活動のタイミングもあってか、曲発表で被ったことはないが、後輩ユニットの「矢口真里×AIR BAND」、「サーターアンダギー」、「フレンズ」とは発売日が被った事があり、オリコン1週目の売上では、前1つは矢島が、後2つはサーターアンダギー・フレンズが上まっている。

ディスコグラフィー[編集]

とんねるず名義以外のコンビ参加系ユニットでの作品については野猿のディスコグラフィー矢島美容室のディスコグラフィーを参照。

ソロ系ユニットでの作品については石橋貴明の音楽作品木梨憲武の音楽作品を参照。

シングル[編集]

発売日 タイトル 販売形態 規格品番 備考
1 1981年8月25日 ピョン吉・ロックンロール
 /夢行きチケット
EP 10007-07
10214-07
企画シングル。
新・ど根性ガエル』(日本テレビ)の主題歌。
2 1982年 ヤバシびっちな女(め)デイト・ナイト
 /さよならMissヒロイン
EP JAS-2036 企画シングル。
ビクター音楽産業(現ビクターエンタテインメント)
3 1984年12月5日 一気! EP SV-7459 メジャーデビューシングル。
4 1985年4月21日 青年の主張 EP SV-9009
5 1985年9月5日 雨の西麻布 EP
8cmCD
SV-9054
VIDL-10391
6 1986年1月21日 歌謡曲 EP SV-9088
キャニオンレコード(現ポニーキャニオン)
7 1986年5月28日 やぶさかでない EP
8cmCD
7A-0587
S10A-0073
8 1986年8月5日 寝た子も起きる子守唄 EP
8cmCD
7A-0612
S10A-0074
9 1986年10月21日 人情岬 EP
8cmCD
7A-0643
S10A-0075
10 1987年2月25日 嵐のマッチョマン EP
8cmCD
7A-0693
S10A-0076
11 1987年4月5日 迷惑でしょうが… EP
8cmCD
7A-0721
S10A-0077
12 1987年6月5日 大きなお世話サマー EP
8cmCD
7A-0734
S10A-0078
13 1987年9月17日 おらおら EP
8cmCD
7A-0768
S10A-0079
14 1988年2月25日 炎のエスカルゴ EP
8cmCD
7A-0816
S10A-0006
15 1988年7月6日 YAZAWA EP
8cmCD
7A-0864
S10A-0104
16 1990年8月8日 どうにかなるさ 8cmCD PCDA-00104
17 1991年5月29日 情けねえ 8cmCD PCDA-00191
18 1992年1月24日 ガラガラヘビがやってくる 8cmCD PCDA-00279 自身最大ヒットシングル。
19 1992年9月3日 一番偉い人へ 8cmCD PCDA-00355
20 1993年1月28日 がじゃいも 8cmCD PCDA-00397
21 1994年2月24日 フッフッフッってするんです 8cmCD PCDA-00515
22 1994年12月7日 ガニ 8cmCD PCDA-00683 ※アルバム未収録
23 1996年2月12日 おまえが欲しい 8cmCD PCDA-00829 ※アルバム未収録

アルバム[編集]

オリジナルアルバム[編集]

発売日 タイトル 販売形態 規格品番
ビクター音楽産業(現ビクターエンタテインメント)
1 1985年3月21日 成増 LP
12cmCD
12cmCD
SJX-30265
VICL-18112
VDR-1018
2 1985年11月1日 仏滅そだち LP
12cmCD
12cmCD
SJX-31280
VICL-18113
VDR-1096
キャニオンレコード(現ポニーキャニオン)
3 1986年12月28日 キャニオン初 LP
12cmCD
C28A-0544
D32A-00263
4 1987年10月21日 河口湖 LP
12cmCD
C28A-0598
D32A-0318
5 1988年4月29日 428 LP
12cmCD
C28A-0635
D32A-0360
6 1989年5月17日 市川と宮嶋 12cmCD D29A-1011
7 1990年6月27日 ほのちゃんにはがはえた。 12cmCD PCCA-00089
8 1991年7月10日 みのもんたの逆襲 12cmCD PCCA-00284
9 1992年7月24日 がむしゃら 12cmCD PCCA-00381
10 1993年9月17日 悪い噂 12cmCD PCCA-00484
11 1994年9月15日 Arrival 12cmCD PCCA-00632
12 1995年7月5日 おまえ百までわしゃ九十九まで 12cmCD PCCA-00778

ベストアルバム[編集]

発売日 タイトル 販売形態 規格品番 備考
1 1986年5月21日 自歌自賛 ザ・ベスト・オブとんねるず LP
12cmCD
SJX-30293
VDR-1205
2 1986年12月16日 紅白! 12cmCD VDR-1313 非公式
3 1987年12月5日 とんねるずベスト 12cmCD D32P-6158
D35A-0503
非公式
4 1989年3月21日 CD FILE とんねるず 12cmCD VDR-25032 非公式
5 1994年6月17日 とんねるずベスト 足跡 12cmCD PCCA-00606
6 2005年3月24日 COLEZO! とんねるず 12cmCD VICL-23107 非公式
7 2009年9月16日 GOLDEN☆BEST とんねるず 〜ビクター・イヤーズ・コンプリート 12cmCD VICL-63425-6 非公式

ミニアルバム[編集]

発売日 タイトル 販売形態 規格品番
1 1988年1月1日 御年賀 LP C15A-0619
2 1992年5月5日 無痛音楽教育 3才からのとんねるず 12cmCD PCCA-00367

企画アルバム[編集]

発売日 タイトル 販売形態 規格品番
1 1986年8月21日 そろばんずく LP
12cmCD
28P-6568
D32A-0216
2 1987年3月21日 真塩 CT 28P-6647

映像[編集]

ライブ[編集]

発売日 タイトル 販売形態 規格品番
1 1986年2月21日
1986年3月21日
とんねるずの裏ビデオ in 武道館 VHS
VHD
VTM-93
0DM-1037
2 1986年10月21日 気分は盆と正月 VHS V88M1430
3 1990年12月27日 とんねるずの手打ちライブ PART1 VHS PCVP-10131
4 1991年3月21日 とんねるずの手打ちライブ PART2 VHS PCVP-10132
5 1996年2月21日 おまえ百までわしゃ九十九まで 〜歌謡活動十周年記念コンサート〜 VHS PCVP-51852
6 2002年6月30日 とんねるずのコント1 〜こんと いん なえば 10年の凝縮LIVE〜 VHS ZMVJ-1088
7 2002年6月30日 とんねるずのコント2 〜こんと いん なえば 10年の凝縮LIVE〜 VHS ZMVJ-1089

テレビ・映画[編集]

発売日 タイトル 販売形態 規格品番
1 1986年11月21日
2002年3月20日
そろばんずく VHS
DVD
V128F1429
PCBC-50194
2 1997年1月1日 ウルトラマンゼアス VHS JVS-25011
3 1997年10月22日
1998年8月21日
ウルトラマンゼアス2 VHS
VHD
SRVD-1949
SVWV-3015
4 2004年8月27日 ウルトラマンゼアス1&2 DVD BCBS-1964
5
6
7
2010年12月3日 とんねるずのみなさんのおかげでした 博士と助手 細かすぎて伝わらないモノマネ選手権
vol.1 「リカコと過ごした夏」 EPISODE1 - 5
vol.2 「ヴァ~ヴァヴァンヴァヴァヴァヴァヴァ~ヴァ~ヴァン」 EPISODE6 - 8
vol.3 「平泉の乱」 EPISODE9 - 10
DVD ――――――
AVBD-91823
AVBD-91824
AVBD-91825
8
9
10
2010年12月17日 とんねるずのみなさんのおかげでした 博士と助手 細かすぎて伝わらないモノマネ選手権
vol.4 「部屋と優香とリアルゴリラ」 EPISODE11 - 12
vol.5 「エイシャラエイシャー!」 EPISODE13 - 14
vol.6 「シーズン1ファイナル~穴と哀しみの果てに~」 EPISODE15
DVD ――――――
AVBD-91826
AVBD-91827
AVBD-91828
5
6
7
2011年12月21日 とんねるずのみなさんのおかげでした 博士と助手 細かすぎて伝わらないモノマネ選手権Season2
vol.1「デオデオデオデオ」
vol.2 「紅白モノマネ合戦~深夜3時の奇跡編」
DVD ――――――
AVBF-49396
AVBF-49397
8 2012年12月21日 とんねるずのスポーツ王は俺だ!!
「超一流アスリートに土下座させるぜ!日本代表にだって絶対に負けられない戦いがここにはあるの巻」
DVD TCED-1638

その他[編集]

タイトル 生産番号 備考
1 ウルトラまいどCD DC-0157 非売品CD。
2 これが出光のまいどCDだ。 DC-0121
DC-0142
当時出光興産のガソリンスタンドのキャンペーン利用客のみが入手できたCD。
3 うなちん 「とんねるずのみなさんのおかげです」オープニングテーマ曲。
当初発売予定だったが、諸事情により中止となった。

ライブ・コンサートツアー[編集]

ライヴ・コンサートツアーも積極的にこなし、主な大規模会場としては、“アーティストの聖地”と呼ばれている日本武道館1986年から1995年までに掛けて、計6回の武道館ライブを行っている。また1989年には東京ドームで5万人以上もの観客を前にライブを行った。お笑いタレント単独の東京ドーム公演は後にも先にも彼らだけである。

公演日 タイトル 会場
1985年 とんねるず世直し行脚コンサート (公演日・会場等不明)
1985年5月3日 カリスマとんねるずと1万3千人と信者たち よみうりランドEAST
1986年1月4日 ダフ屋も並べ 日本武道館
1986年 俺たちは眠らない (公演日・会場等不明)
1986年8月10日 気分は盆と正月 横浜スタジアム
1987年 心の旅路 (公演日・会場等不明)
1987年12月6日 - 1988年1月3日 世界大とんねるず博
1988年5月15日 - 10月30日 歓迎とんねるず様御一行ツアー
1988年7月2日 LOVE STAR DAY 日比谷野外音楽堂
1989年5月26日 - 8月27日 とんねるずがやってくる ヤア!ヤア!ヤア!
1989年11月7日 とんねるずの手打ち 東京ドーム
1990年8月2日 - 10月30日 ROCK SHOW
1991年7月27日 - 10月7日 日産に乗るのが夢だった
1992年8月17日 - 10月6日 あなたに会えてよかった状態
1993年10月10日 - 11月4日 ナイアガラ ドロップ キック ツアー[17]
1994年10月2日 - 12月17日 Arrival
1995年7月8日 - 9月14日 おまえ百までわしゃ九十九まで
1995年 (野外コンサート関係)

書籍[編集]

  • 天狗のホルマリン漬け(1985年7月、発売元:集英社ISBN 4087800865
  • とんねるずのおいにい鼻にツーン(1986年7月、ニッポン放送出版、扶桑社ISBN 4893530984
  • とんねるず 大志(1988年6月、ニッポン放送出版、扶桑社)ISBN 4594002927
    とんねるずの生い立ちを第1章~第4章に分けてまとめたもの。
  • とんねるずのおいにい2~ん(1989年12月、ニッポン放送出版、扶桑社)ISBN 459400508X

関連人物[編集]

  • 秋元康(放送作家、作詞家、作家、プロデューサー)
  • 後藤次利(ミュージシャン、作曲家)
  • 井原高忠(日本テレビ、元第一制作局長/現株式会社井原高忠事務所取締役)
  • 中島銀兵(日本テレビ、元プロデューサー/1996年死去)
  • 土屋敏男(日本テレビ編成局専門局長)
  • 日枝久(フジテレビ代表取締役会長)
  • 石田弘(フジテレビ、エグゼクティブプロデューサー)
  • 港浩一(フジテレビ、編成制作局バラエティ制作局長/常務取締役)
  • 松村匠(フジテレビ、元ディレクター、事業局企画部長/現株式会社AKSコンテンツビジネス本部・本部長)
  • 吉野晃章(放送作家、元帝京高校サッカー部)
  • 遠藤察男(放送作家、脚本家)
  • 菊原共基(放送作家)
  • 後藤喜男(TV制作、プロデューサー)
  • 中島信也 (東北新社取締役、CMディレクター、映画監督)
  • テリー伊藤(TV制作、タレント)
  • 堤幸彦(元TBSディレクター、テレビ・映画監督)
  • 杉本清(元:関西テレビアナウンサー、競馬関連)
  • 尾崎充(元マネージャー件付き人、現HKT48劇場支配人/株式会社AKS)
  • 関口正晴(元マネージャー、放送作家)
  • 宮本幸一 (ニッポン放送常務取締役)
  • 吉岡雄二 (プロ野球選手、とんねるずの後輩)
  • 太田一平(フジテレビ、編成制作局バラエティ制作局)
  • マッコイ斎藤(演出家、ディレクター)
  • 安西義裕(演出家、ディレクター)
  • 佐々木敦規(演出家、ディレクター)
  • 真璃子(歌手)

脚注[編集]

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  1. ^ 小林信彦著「時代観察者の冒険」より
  2. ^ 西条昇『東京コメディアンの逆襲』(光文社文庫)
  3. ^ テレビ東京系列 『ソロモン流』 2008年5月11日放送回
  4. ^ a b c d e f g h i j とんねるず 『とんねるず 大志』 1988年6月7日発行
  5. ^ 2010年4月26日放送SMAP×SMAPの「ビストロSMAP」ゲスト石橋貴明
  6. ^ 2014年04月03日放送TBS系ラジオ『おぎやはぎのメガネびいき
  7. ^ 2014年4月7日放送、『笑っていいとも!グランドフィナーレ』の翌日に収録
  8. ^ ヒロミオフィシャルブログ「何年ぶりかな」(2012年8月22日)
  9. ^ 『石橋貴明 いいとも出演プラン披露!残り10週、交互に5週ずつ』スポニチ 1月19日 15時30分配信
  10. ^ 『木梨憲武、『いいとも!』に“降臨” タモリ「いいとも史上初めて」』オリコン 1月23日(木)12時28分配信
  11. ^ 『石橋貴明 「いいとも」レギュラー初出演はおとなしく「迷惑かけないように」』スポニチ 1月29日13時07分配信
  12. ^ 『木梨憲武、「いいとも」で再びサプライズ 箱から登場し三村・さしこら仰天』オリコン 2月3日(月)12時25分配信
  13. ^ 『木梨「いいとも!」今週2度目サプライズ登場 サンバダンサーになりきる』スポニチ 2月6日 12時39分配信
  14. ^ 『石橋貴明 2度目のいいともレギュラー出演「俺、金曜日にします」』スポニチ 2014年2月14日 13時52分配信
  15. ^ 『「いいとも!」4度目サプライズ登場は“10人の木梨憲武”本物は誰?』スポニチ 2月18日 12時37分配信
  16. ^ 同じく不定期レギュラー
  17. ^ ツアー名の「ナイアガラドロップキック」は、とんねるずの生でダラダラいかせて!!で石橋が定岡正二とのPK対決の際に定岡がその場で考えたシュート名であり、そのままツアー名に使われた。また、定岡は同番組の石橋との闘牛対決の罰ゲームで、同コンサートツアーの日本武道館にて前説を行なっている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]