アイルトン・セナ

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アイルトン・セナ
F1での経歴
国籍 ブラジル
生年月日 1960年3月21日
没年月日 1994年5月1日(満34歳没)
所属チーム '84トールマン
'85-'87ロータス
'88-'93マクラーレン
'94ウィリアムズ
活動時期 1984 - 1994
出走回数 161
優勝回数 41
通算獲得ポイント 614
表彰台(3位以内)回数 80
ポールポジション 65
ファステストラップ 19
初戦 1984年ブラジルGP
初勝利 1985年ポルトガルGP
最終勝利 1993年オーストラリアGP
最終戦 1994年サンマリノGP
タイトル 3(1988,1990,1991)
  

アイルトン・セナ・ダ・シルバAyrton Senna da Silva, 1960年3月21日 - 1994年5月1日)は、ブラジル人のレーシング・ドライバー1988年1990年1991年の3度F1ワールドチャンピオン

イギリスF1 Racing」誌において、史上最速のF1ドライバー史上最高のF1ドライバーに共に1位で選出された。[※]

日本では通称音速の貴公子」として知られている[1]。若い頃には「ハリー」の愛称でも呼ばれた。

母国ブラジルにおいては、サッカー選手ペレジーコと並んで、特に偉大なスポーツ選手の一人とされている。

目次

[編集] F1以前

[編集] 出生・幼少期

ブラジルサンパウロ市地主で農場・牧場・零細商店・自動車修理工場などブラジル国内でも有数の多角経営者ミルトンの長男として誕生。4歳のとき父からレーシングカートを与えられると、たちまちそれに夢中となり、その才能を磨き、父の豊富な資金と環境がドライビング技術の向上を支えた。ただし、学業の成績に悪影響があれば、カートを辞めることが常に条件として課されていたという。

[編集] カートレース

13歳になるとレースを始め、1977年には南アメリカのカート選手権を制した。また、1978年には当時の日本国内カートレースの最高峰「ジャパンカートレース(ジャパンカートグランプリ)」に参戦するために来日し、4位入賞。団体戦では増田二三四・平野晴男とともに5位入賞。1980年のシーズンオフには、幼馴染のリリアンと結婚。この頃から各メディアへのPR活動を始め、自ら資金調達を行うようになる。

[編集] ジュニア・フォーミュラ

1981年ヨーロッパに渡り、ジム・ラッセル・レーシングスクールを受講し、イギリスのフォーミュラ・フォード1600に参戦して優勝するが、父親との約束があったことに加え活動資金が不足したため引退を発表しブラジルに帰国。しかしレースへの情熱は冷めがたく、ブラジルでの生活を強く主張した妻リリアンと離婚。1982年には再びイギリスに渡り、フォーミュラ・フォード2000に転向し、チャンピオンとなる。1983年にはイギリスF3に参戦し、20戦中12勝という当時の最多勝記録を打ち立て、7勝を挙げたマーティン・ブランドルを下し、チャンピオンを獲得した。

この年、初の「F3世界一決定戦」として開催されたマカオGPも制した。この年のマカオGP予選でセナが記録したタイムは、1990年にミカ・ハッキネンミハエル・シューマッハが更新するまで、7年間にわたりコースレコードであった。

この頃から、父方の姓「ダ・シルバ」ではなく母方の姓「セナ」を表向き名乗るようになる。

[編集] F1

[編集] トールマン時代

トールマンTG184・ハート
1984年

トールマンからF1デビュー。初戦はターボトラブルでリタイアに終わったものの、第2戦南アフリカGPで6位に入り、初の入賞を記録。大雨となった第6戦モナコGPでは、予選13位から追い上げ2位でフィニッシュ。自身とトールマンに初の表彰台をもたらすと同時に、自身初のファステストラップを記録した。最終戦ポルトガルGPを3位表彰台で締めくくり、この年は3度の表彰台を含む計5度の入賞を獲得。ランキングではロータスナイジェル・マンセルと並び、9位と健闘した。また、この年はF1以外にポルシェ・956で耐久レースにも参戦した。

また、シーズン途中にロータスへの移籍をチームに無断で発表したことにより、チームから第14戦イタリアGPを欠場させられた。


[編集] ロータス時代

1985年

名門チーム、ロータスに移籍。デビュー17戦目となる第2戦ポルトガルGP予選において初のポールポジション(以下:PP)を獲得する。大雨となった決勝では、スタートからトップを独走し、念願のF1初優勝を果たす。ポルトガルGPと同じく大雨に見舞われた第13戦ベルギーGPでは、予選2位から2勝目をあげた。

この年は、計7回のPPを獲得したものの、マシントラブルやガス欠などにより、PP数に対し優勝は2回と少ないものとなった。しかし、チームメイトで実質エースドライバーのエリオ・デ・アンジェリスをおさえて、ランキング4位となる。

「予選」と「雨」に強さを見せることとなったが、ダーティーな走りが問題にされることもあった。特に第4戦モナコGP予選では、他者のタイムアタックを妨害したとして、ミケーレ・アルボレートニキ・ラウダらに非難され、後にセナは謝罪した。

1986年

予選では前年を上回るシーズン16戦中8度のPPを獲得するも、決勝においては前年同様2勝にとどまる。しかし、混戦のシーズンで前半は手堅くポイントを獲得したことにより、自身初のチャンピオン争いを経験する。特に第2戦スペインGPでは、背後に迫るマンセルを0.014秒という僅差で抑えきる活躍を見せた。

しかし、中盤以降はエンジンを中心にトラブルが続き、ランキング4位に終わった。またウィリアムズホンダ勢との争いの中、その強さを身をもって体感したことで、ホンダエンジンを手にしたいとの思いを抱くようになった。

1987年

ロータスとセナは念願のホンダエンジンを獲得。開発途上のアクティブサスペンション[2]を実戦に投入したものの不具合が多発し、苦戦を強いられた。市街地で行われた第4戦モナコGP・第5戦デトロイトGPでは、タイヤの磨耗が少ないというアクティブサスペンションの利点を生かし、タイヤ無交換で走り切り2連勝を果たすが、その後はシーズンが進むに従って成績が下降していった。

第7戦イギリスGPでは、4位に入ったチームメイトの中嶋とともにホンダエンジン勢1-4位独占の一角を占めるものの、2位のウィリアムズのピケに周回遅れとされる。第11戦イタリアGPでは、久々に優勝のチャンスが巡って来たが、レース終盤、首位走行中に最終コーナーでコースアウト。2位に終わり、この時点でチャンピオン争いから脱落した。

初めて鈴鹿サーキットで開催された第15戦日本GPで、セナは予選7位から2位でフィニッシュし、ホンダエンジンに母国での初表彰台をもたらした。続く最終戦オーストラリアGPでも2位でゴールしたものの、ブレーキダクトのサイズ違反により失格となり、ドライバーズランキング2位のマンセルを上回ることができなかった。

この年はウィリアムズホンダによって支配されたシーズンだったが、優勝2回、PP1回を獲得した。


[編集] マクラーレン時代

マクラーレンMP4/4・ホンダ
1988年

マクラーレンに移籍し、当時すでに2度のタイトルを獲得していたアラン・プロストとコンビを組むこととなる。セナの移籍に伴い、この年よりマクラーレンにもホンダエンジンが搭載されることとなり、チームは開幕から連勝を重ねた。またチームはジョイントNo.1体制[3]を取ったために、第5戦カナダGP、第7戦フランスGP、第10戦ハンガリーGP等において、2台のマクラーレンによる激しいバトルが行われた。

2人のポイントが分散したため、コンストラクターズタイトルが第11戦ベルギーGPで決定したのに対し、ドライバーズタイトル争いはシーズン終盤までもつれ込んだ。セナはベルギーGP以降一時不調に陥るも、第15戦日本GPでスタート失敗による転落から追い上げて優勝し、自身初のタイトルを獲得した。この年は、16戦中8勝・13PPという、いずれも当時の史上最多記録を更新する活躍を見せた。

「ホンダRA168E」を搭載した「MP4/4」と2人のドライバーにより15勝を上げ、10度の1-2フィニッシュを記録。特に第2戦サンマリノGP、第6戦デトロイトGPでは、3位以下を周回遅れにしての1-2フィニッシュなど、マクラーレン勢が他を圧倒した記録的なシーズンとなった。しかし、第13戦ポルトガルGPでのプロストへの幅寄せ行為以降、2人の関係には溝が出来始めていた。

1989年

初めてカーナンバー1を付け挑んだ1989年シーズンは、第2戦サンマリノGPでシーズン初勝利を記録。しかし、このレースでセナは「1コーナーを制した者が優勝の権利を有する」というプロストとの紳士協定を破り、1周目の2コーナーでプロストを追い抜いてしまう。これは両者の見解の相違であったが、このことで前年に兆候があった2人の溝は決定的なものとなり、チームは大きな問題を抱えることとなった。

この年、セナは予選では前年同様13度のPPを獲得。特に第5戦アメリカGPで記録した34度目のPPは、それまでジム・クラークが保持していた当時の最多記録を、21年ぶりに更新するものであった。決勝でも6勝を挙げたがリタイヤも多く、優勝以外でも堅実な走りを見せたプロストがチャンピオン争いをリード。第15戦日本GPにおいて、両者が接触したのちセナが失格処分となったことを受けて、タイトルはプロストの手に渡った。

決定劇が、チームメイト同士の接触という後味の悪いものとなったことに加え、セナは当時、FIAの会長であったジャン=マリー・バレストルから「危険なドライバー」と見なされ、スーパーライセンスが発行されないという危機に陥る。ライセンスが発行されたのは、年が明けた後だった。

1990年

前述のライセンスの問題から引退危機に晒され、本人も後に「もう走らないつもりだった」と語る状態だったが、最終的にセナが謝罪という形により、開幕直前の2月にライセンスが発行。この年の参戦が決定した。

開幕戦アメリカGPでは、予選での電気系トラブルにより5番グリッドとなるも、決勝は優勝。前年にデビューしたティレルジャン・アレジと繰り広げたバトルは、「歴史に残る名バトル」の1つとして後々まで語られることとなった。

この年もタイトル争いは、セナとフェラーリに移籍したプロストとで争われ、3年連続両者の争いとなった。セナは予選では10度のPPを獲得しており、特に第14戦スペインGPでは、自身が目標としていた通算50回目のPPを獲得。決勝でも6勝を挙げ、5勝のプロストを押さえ2度目のチャンピオンに輝くが、決定劇は第15戦日本GPにおいて、スタート直後に両者が接触するという後味の悪いものとなった。

翌1991年、セナはこの接触が故意によるものだったと認めている。セナは前年の同GPでの接触をプロストの故意によるものと捉えており、報復の意図があったことを示したが、大きな批判を受けた。

1991年
1991年アメリカGP

当時の新記録となる開幕4連勝を記録。特に第2戦ブラジルGPでは念願の母国初優勝を達成した。ギアボックストラブルにより、終盤に6速のみでの走行を余儀なくされた中での勝利だった。しかし、第5戦カナダGP以降はウィリアムズ勢が巻き返し、マンセルとのチャンピオン争いを繰り広げることとなる。

第10戦ハンガリーGPでは、直前に本田宗一郎が死去。弔い合戦となり喪章を付けて挑んだこのレースで、セナはポールトゥーウィンを達成、6戦ぶりにポディウムの頂点に立った。続く第11戦ベルギーGPでも優勝するが、その後はウィリアムズが3連勝を記録し、再び苦しいレースを強いられた。迎えた第15戦日本GPは、それまでとは打って変わりマクラーレン勢が優勢となり、チームメイトのゲルハルト・ベルガーがPPから先行し、セナはタイトルを争うマンセルを抑えて2位を走行。10周目、セナに急接近したマンセルは1コーナーでコースアウトしてリタイア。この時点で、セナの3度目のチャンピオンが決定した。その後、豪雨で大幅短縮となった最終戦オーストラリアGPを制し、7勝でシーズンを終えた。

この年限りでマクラーレンを離れ、ウィリアムズへ移籍することを決めていたが、ホンダ側からの熱心な説得により、翌1992年も残留することに決まった。しかし、後にセナは「僕はウィリアムズに行くべきだった。僕のミスだ。」と語ったという[4]

1992年

マンセルが開幕から5連勝するなど、ウィリアムズ・ルノーが前年以上の強さを見せ、マクラーレンは劣勢を強いられた。そんな中でも、第6戦モナコGPでは、6連勝目前だったマンセルのタイヤ交換の際にトップに立つと、そのまま押さえ切り同GP4連覇を記録。第10戦ドイツGPでも、終盤にリカルド・パトレーゼの追走を抑え、2位を得るなど、時折存在をアピールした。

しかし、優勝3回・PP1回に留まり、リタイヤはF1参戦中デビュー年である1984年に次ぐ多さとなる7回を記録。ランキングはウィリアムズの2人に加え、ミハエル・シューマッハにも敗れて4位に終わるなど、シーズンを通すと不本意な結果となった。この年は得意とする雨のレースでも結果を残せず、第5戦スペインGPでは、2位走行中の終盤にスピンでストップ。第12戦ベルギーGPでは、雨の中レインタイヤに交換せずにスリックタイヤで卓越したドライビングを披露したが、この戦略は裏目に出て5位に終わっている。

また、セナに6年間エンジンを提供し続けてきたホンダが、この年をもってF1活動を一時休止を表明。休止発表の直後に行われた第13戦イタリアGPでは優勝[5]。しかし、ホンダの母国ラストレースとなった第15戦日本GPでは、ヘルメットに日の丸をペイントして挑んだものの、僅か3周目にそのホンダのエンジンにトラブルが発生してリタイヤ。最終戦オーストラリアGPでは、予選から好調を維持しながら、首位争いの中でマンセルと接触。ホンダでのラスト2戦をリタイヤで終えた。

1993年
1993年イギリスGP

ホンダ撤退に伴い、この年のマクラーレンは、カスタマー仕様のフォードHBV8エンジンを搭載[6]。ウィリアムズ・ルノー陣営と比べ、不利と見られていた。ウィリアムズの加入を意図しながら、叶わなかったセナは、マクラーレンチームに不満を抱いており、1993年の休養も仄めかしていた。ライバルであるナイジェル・マンセルがCARTに転向したことから、セナもCART転向も考えるようになる。

シーズン前には同胞の先輩であるエマーソン・フィッティパルディペンスキーをテストドライブしていた。しかし、最終的には開幕直前にマクラーレンに残留する。第7戦カナダGPまでは1戦ごとの契約で走った後、第8戦フランスGPにて正式にシーズン契約を結び、最終的には全戦に出走した。

開幕戦南アフリカGPでは予選2位から、一時はトップを走行しての2位。続く第2戦ブラジルGPではレース途中の豪雨も味方となり、デイモン・ヒルを追い抜いて優勝。更に続く第3戦ヨーロッパGP(ドニントンパーク)でも、大雨の中オープニングラップで4台抜きを見せてトップに立ち、2連勝した。第6戦モナコGPでは、グラハム・ヒルを上回るモナコ6勝目を達成し、1989年からのモナコGP連勝記録を5に伸ばした。

しかし、モナコGP以後ウィリアムズが復調を見せ、セナは表彰台にも立てないレースが続き、プロストにポイント差を広げられていった。序盤の好成績から、第9戦イギリスGPよりベネトンと同じ最新スペックのエンジンを手に入れることに成功したが、ベネトンが序盤には未搭載だったアクティブサスペンショントラクションコントロールを装備することで、マクラーレンと互角の戦闘力を得ていたためセナの成績向上には至らず、シーズン中盤以降にはヒルやシューマッハとの争いにも敗れることも多くなっていた。

第13戦イタリアGPでのリタイアで、セナはタイトル獲得の可能性を失い、続く第14戦ポルトガルGPでプロストのタイトルが決定した。このポルトガルGPでは、同レースからチームメイトとなったミカ・ハッキネンに予選で敗れる出来事もあった。第15戦日本GPではプロストに次ぐ予選2位を獲得し、久々にチャンスが巡ってくることとなる。セナは決勝前のフリー走行時に、自分のグリッド側を何度も走ってライン上の埃を払い除け、不利とされるイン側ながらスタートを決めて首位を奪取。中盤以降に降った雨もセナには追い風となり、そのまま首位でゴールし、久々の勝利を挙げた。最終戦オーストラリアGPではこの年初となるPPを獲得。レースでもタイヤ交換時以外はトップを譲らずにシーズン5勝目を記録したが、これが生涯最後の勝利(通算41勝)となった。


[編集] ウィリアムズ時代

1994年

念願だった前年のチャンピオンチームであった、ウィリアムズ・ルノーへ移籍を果たす。しかし、新車FW16は前年までのウィリアムズの武器であったアクティブサスペンショントラクションコントロールなどのハイテク技術がこの年のルール変更により禁止され、開幕直前まで完成を待たなければならず、当時のデザイナーであるエイドリアン・ニューウェイの指揮の元、空力を重視したマシンは非常にナーバスなマシンに仕上がっていた。

特にアクティブサスペンションはニューウェイの作りだすマシンの空力的に神経質な部分を補っていたため、禁止はウィリアムズにとって大きな打撃になった。1994年第3戦サンマリノGPにはセナはベルガーに、「ゲルハルト、マシンをドライブするなんてことはできないよ。マシンには空力的にドライブが難しい部分があったようだ。パフォーマンスは最悪で、まだ乗りこなせていない。」と語っている[7]

開幕戦ブラジルGPではPPからスタートするも、ピット作業でシューマッハに逆転され、追走中にスピンを喫しリタイヤ。第2戦パシフィックGPでも2戦連続のPPを獲得するも、スタート直後にハッキネンに追突されてリタイヤ。開幕2戦を消化した時点でのノーポイントは、デビュー以来初のことだった。

[編集] 事故死

イモラ・サーキットのレイアウトとタンブレロコーナーの位置

そんな中迎えた第3戦サンマリノGPは、予選から重大事故が多発。まず予選1日目には、親密な間柄であった同胞のルーベンス・バリチェロが大クラッシュを起こし、病院に搬送された。結果的には鼻骨を骨折という軽傷であったものの、一時は安否を心配されるほどの大きな事故であった。そして翌4月30日の予選2日目には、ヴィルヌーヴ・コーナーでクラッシュしたローランド・ラッツェンバーガーが死亡。グランプリ中の死亡事故の発生は、F1では12年ぶりのことだった。

これら一連のアクシデントの中で、セナは心理的に不安定な状態となり、電話で恋人アドリアーナに「走りたくない」と話していたことが後に語られている。夜には落ち着きを取り戻していたという。

迎えた決勝日の5月1日。セナは開幕から3戦連続のポール・ポジション(PP)からスタートし、1コーナーでも首位をキープしたが、後方での事故によりセーフティーカーが導入される。そして再スタートが切られた後の7周目(現地時間午後2時17分)に超高速・左コーナー「タンブレロ」において、時速312kmで走行中に突如マシン・コントロールを失い、そのまま直進してコースアウトし、コース右脇のコンクリートウォールに激突(激突寸前、時速210km~220kmまで急減速していた)、セナが駆るマシン・FW16は大破した。

セナは、蘇生処置を施されつつヘリコプターでイタリア・ボローニャ市内のセント・マジョーレ病院に搬送される。事故後、コース脇に横たわる保温ブランケットに包まれたセナを救急チームが担架に乗せると、セナが横たわっていた跡には、ヘリコプターの空撮映像からでもハッキリと確認出来るほどの大きな血だまりが残っていた[8]

セント・マジョーレ病院に緊急搬送されたセナであったが、現地時間午後6時3分には脳死状態に陥り、事故発生から約4時間後の午後6時40分に死亡した。享年34。

[編集] 事故原因

事故発生の瞬間、タンブレロ・コーナーでセナのマシンがそのまま直進するようにコンクリートウォールに激突した事から、セナのドライビングミスによる説は早くから否定され、ステアリング系統などセナの車にトラブルが発生し、コントロール不能に陥ったという説が有力視されている。その中で下記の2つが推測されている。

事故当時、セナのFW16には、パワーステアリングが搭載されていた。事故原因がこの装置の故障によるものと疑念を持ったウィリアムズのエンジニアらは、セナの事故後に再開されたレースでは、もう一方のFW16であるデイモン・ヒル車のパワーアシスト(ステアリング)装置の機能を解除して出走させている。
  • ステアリングコラム・シャフト破損説
後の調査で、セナがFW16のコクピット環境に大きな不満(コクピット内が狭かったため、大径ステアリングを好んで使用していたセナにとってはドライビングがしづらい等)を持っており、常々ウィリアムズのエンジニアらに改善を要求していた。事故が発生したサンマリノGPのレース直前には、FW16のモノコック(コクピット)内における足元のクリアランス確保のためにステアリングコラム・シャフトの改造が行われていた。しかし、これが不適切な素材との溶接であり、それがタンブレロ・コーナー通過時に無理な力による金属疲労を起こし、事故直前に破断したことが原因とされている。

事故時にセナが搭乗していたFW16は、イタリア検察庁に事故原因究明の証拠品として押収され、司法の手により当時のウィリアムズの関係者(フランク・ウィリアムズパトリック・ヘッドエイドリアン・ニューウェイ)ら数名が事故についての過失責任を問われることとなる。しかしこれは「レース中の事故に法的責任を問えるのか?」といった論点も絡めて、責任の所在を求めることは混迷を極めた。

事故から10年以上を経た2005年5月30日、イタリアの裁判所は過失を問われていた当時の関係者全員について、ようやく過失責任なしという判断を下し、無罪を確定させた。これにより、セナの事故原因は不明のまま幕を閉じた。

事故に至った原因は、今なお究明されていない。しかし事故が発生したサンマリノGP前の1994年3月上旬にイモラ・サーキットで開催されたFOCA主催合同テストにおいて、セナがタンブレロ・コーナーの粗悪さ(アスファルト路面の補修状態が悪く、凹凸が非常に激しかった等)をイモラ・サーキット施設管理・関係者に問いただす映像が残されており、まさにそのコーナーが事故現場となったことから、セナの指摘に対して何の対策もとらなかった大会関係者に対する非難も高まった。更に、ウイリアムズチームが事故直後に重要な証拠となりうる車載のマイクロチップ(FW16の車体状況のデータが記録されている)をイタリア警察が車体押収する前に抜き取った事実もあった。

またタンブレロ・コーナーは、1987年ネルソン・ピケがコンクリート壁に激突し負傷、1989年にはゲルハルト・ベルガーが当事故現場至近で大クラッシュしマシンが炎上する事故が発生するなど、大きな事故が度々発生していたにも関わらず、サーキット全体の安全対策が見直されていなかった事も批判を集めた。

[編集] 死因

セナのヘルメット

死因に対しては、「頭部以外には致命的な損傷がなかった」と当時担当した医師は証言している事と事故発生後からしばらくしてマスコミなどに公開された事故当時にセナが着用していたヘルメットの状態などから、激突して大破したFW16の破片(サスペンションアーム)が、セナのヘルメットのバイザーを貫通してセナの頭部を弾丸のように直撃したことが致命傷(前頭部及び側頭部・頭蓋骨を複雑骨折しており、脳器官に深刻なダメージを受けていた)となったという見方が有力視されている。

但し、偶然にも遺体安置室に招き入れられセナの遺体と対面することになったジャーナリストの尾張正博によれば、頭部にサスペンションが刺さったような形跡はなく、サスペンションアームが頭部に刺さったとの説は「絶対に違う」と述べている[9]

[編集] 死後

セナが眠るモルンビー墓地

[編集] ブラジル国内の反応

セナが事故死した1994年5月1日にはサンパウロにてサッカーサンパウロFCパルメイラスの試合が開催されていたが、開催者はこの試合開始直後に試合を止め、セナの死去をアナウンス、黙祷を行った。当日のレースのテレビ中継を担当していたブラジルのテレビ局は事故後、一日以上セナ関連の番組を放送し続け、事故を掲載した新聞、雑誌は即日完売、葬儀を放送したテレビ番組の視聴率は60%を超えた。
セナの亡骸がイタリアから母国ブラジルに搬送されるに際しては、ヴァリグ・ブラジル航空の定期便のマクドネル・ダグラスMD-11ファーストクラスの客席が用いられ、空からはブラジル空軍機が出迎えた。地上では100万人以上のブラジル国民が沿道に会して、その亡骸を迎えたといわれる。

墓碑

ブラジル政府はセナの死に対して国葬の礼をもってあたり、アラン・プロストゲルハルト・ベルガーミケーレ・アルボレートティエリー・ブーツェンエマーソン・フィッティパルディジャッキー・スチュワートデイモン・ヒルロン・デニスフランク・ウィリアムズらが式に参列して、サンパウロ市にあるモルンビー墓地に葬られた。また、Deutsche Presse-Agenturによると、ミハエル・シューマッハは葬儀には参列しなかった。墓碑銘は「NADA PODE ME SEPARAR DO AMOR DE DEUS(神の愛より我を分かつものなし)」。
ブラジル政府は、セナの命日に当たる5月1日を交通安全の日と制定。サンパウロ州政府は、サンパウロ市内からグアルーリョス国際空港を経てリオデジャネイロ方面へ伸びる道路のひとつで、かつて「トラバリャドーレス」と呼ばれた州道70号線を、「アイルトン・セナ高速道路」(Rodovia Ayrton Senna)に名称変更し、故人を記念した。その他、リオデジャネイロ市ネルソン・ピケ・サーキットにアクセスする道路の一つをセナの名に改称するなど、他のブラジル国内の偉人に並んで、セナの名を冠した道路やサーキットなどが各地で生まれ偲ばれている。

[編集] 日本国内の反応

ホンダ

死亡当時、セナが3度のF1ワールドチャンピオンを獲得した際にエンジンを供給していたホンダ(本田技研工業株式会社)は、既にF1から撤退しており、セナとは何の正式な契約・関係もなかった。しかし、セナとの「お別れ」をする日本のファンのために、セナが1992年にドライブしていたマクラーレンMP4/7A・ホンダとヘルメット(ロータス時代)を青山の本社1階に展示した。
その際、その3年前に死去していた創業者の本田宗一郎の「自動車メーカーの経営者が車の渋滞を起こすような社葬などしてはいけない」との生前からの言葉に合わすように、通常は一般に開放していない本社地下の駐車場を、車で訪れたファンに対して無料で開放するなど、最大の配慮を持ってセナの死を悼んだ。

フジテレビ

セナの事故は、フジテレビではF1グランプリ中継の前番組である「スポーツWAVE」で報じられ、続いてF1グランプリ中継がイモラサーキットからの生中継で開始された。放送は、その後一旦決勝レースの録画放送になったが、それから約20数分後にセナの訃報がニュース速報として字幕スーパーで伝えられてから、レースシーンの放映を中断。再び生中継に変わり、既にレースが終わって夕刻を迎えていたイモラサーキットから、このレースの実況担当の三宅正治アナウンサーと解説の今宮純、ピットリポートの川井一仁が、視聴者にセナの死を涙を堪えながら伝えた。
その後は即席のセナ追悼放送に切り替わり、その場にフェラーリの後藤治が通りかかり、ホンダ時代のセナとの思い出を語るとともに、「苦しまずに逝ったことが救い」と沈痛な面持ちで答えていた。後日に深夜放送枠で、司会古舘伊知郎森脇基恭中嶋悟をゲストに迎え、前出の3人もイモラから衛星放送で参加する形で追悼放送が行われた。その後に、本放送時にほとんど放送されなかった決勝レースの全編が改めて放送された。これは民放の地上波でありながら、CF無しのノーカットでの放送だった。
尚、当時F1中継のノーカット放送を行っていた衛星放送のWOWOWでは、1週間後の5月8日に決勝レースの模様とセナの追悼映像を放送した。

[編集] その他

1994年の第4戦モナコGPでは、前戦で事故死したセナとラッツェンバーガーのために、レースに際してグリッドの最前列をあけ、PPのグリッドにセナの母国ブラジル国旗が、セカンドグリッドにはラッツェンバーガーの母国オーストリア国旗がペイントされた。

セナを偲んでニキ・ラウダは「去年、セナがドニントン(1993年第3戦ヨーロッパGP)で勝った時、すぐに彼に電話したんだ。私は『これまで見た中で、君の最高のレースだ。F1史上最高のレースかもしれない』と言ったんだ。セナは本当にマジックだよ。私が一番印象深いのは、彼のモチベーションだ。常に自分の能力の限界を求め続けた。そして過去に誰も成しえなかった技術と完璧さを持った、最高のドライバーだった。それを我々は失った。今後彼のようなドライバーが出てくるかどうかは分からない。」と語った[10]

[編集] 特筆すべきレース

1984年第6戦モナコGP

予選を13位で通過。大雨となった決勝レースでは、ファステストラップを更新しながら猛烈な勢いで追い上げ、この年チャンピオンとなるマクラーレンのニキ・ラウダを、雨の中でオーバーテイクするなどの活躍を見せた。首位のプロストとの差を縮めつつあったものの、大雨により31周終了時点でレース中断の赤旗が振らた。ラップタイム差だけを見ればプロストをオーバーテイクして初優勝の可能性もあったため、セナは新人にして僅か6戦目で初の表彰台を獲得したにも拘わらず、表彰台で笑顔は見られなかった。

1985年第2戦ポルトガルGP

予選で初のPPを獲得すると、大雨となった決勝レースでは一度も首位を譲ることなく、2位以下に1分以上の差をつけ初優勝。ファステストラップも記録し、「雨のセナ」の片鱗を見せ、完全な勝利を飾った。

1988年第3戦モナコGP

予選で2位のチームメイトプロストに1.427秒、3位フェラーリのベルガーに2.687秒の大差を付け、別格の速さを見せ付ける。この予選についてセナは「意識的な理解を大きく越えていると実感したので突然怖くなり、ゆっくりピットに戻って、それ以上は走らなかった。」と語っている[11]

決勝レースでも圧倒的な速さを見せ、66周終了時点までトップを独走するが、67周目にトンネル手前のポルティエコーナーで突然停止。充分なマージンを築きながら首位走行中の不用意なミスであった。以降のセナのレーススタイルに大きく影響したレースと言われている。

1988年第15戦日本GP

優勝すればタイトル獲得という有利な状況で、予選でPPを獲得。タイトル獲得の可能性を大きく引き寄せて望んだ決勝レース、セナはスタートに失敗してエンジンをストールしかける。ゆるい下り坂に救われ、辛うじてスタートを切ったものの、中断に沈み1コーナーを14位で通過。オープニングラップで8位まで挽回するも、優勝は困難に思われた。しかしここからセナは次々にオーバーテイクを繰り返しながら、首位プロストを猛追。レース中盤には追いつき、27周目のシケイン出口でプロストのスリップストリームに入ると、次の1コーナーでオーバーテイク。そのまま首位でフィニッシュし、初のドライバーズタイトルを獲得した。

1989年第15戦日本GP

セナがタイトルを獲得するためには、最低でもこのレースに勝たなくてはならない。プロストは、セナがノーポイントであればここでタイトル獲得が決まる。圧倒的に不利な状況、様々な遺恨・確執を抱えながら望んだレース。セナは予選で2位プロストに1.730秒の大差をつけてPPを獲得。しかし、プロストは決勝レースでのセッティングに重点を置いていた。そのため、スタートでプロストに先行されたセナは、予選では大差をつけたにも拘わらず、なかなか抜くことができない。 延々と続くかに思われた2人の攻防に、思わぬ形で終止符が打たれる。47週目のシケインでセナがプロストのインに飛び込んだのだ。その結果、コーナーに向かって右にステアリングを切ったプロストと接触。2台のマシンは並んで停止。プロストは即座にマシンを降りたが、タイトル獲得には優勝しかないセナは、マーシャルにマシンを押してもらい、シケインをショートカットする形でレースに復帰。首位に立っていたナニーニを猛追し、オーバーテイク。ひとまずトップでチェッカーを受けた。しかし、レース終了後にセナに下された裁定は失格。その理由はシケインのショートカット、後に押し掛けに変更されるという不可解な裁定ではあったが、この結果プロストのタイトル獲得が決定した[12]

1990年第15戦日本GP

またしてもプロストとのタイトル争いの場となった日本GP。プロストがノーポイントであればセナのタイトル獲得が決まるという、昨年とは逆の立場でセナはこのレースを迎えた。3年連続でフロントローにはセナ・プロストの順で並ぶ。過去2年、スタートを失敗しているセナは、このレースでもスタートで出遅れる。1コーナー進入時にはプロストのフェラーリがアウト、セナがイン。前に出たプロストが、レコードラインを守りインに切れ込む。セナはインを譲らず2台のマシンは接触してグラベルに弾き出され、双方共にリタイア。セナのタイトル獲得が決定した。 前年のプロストとの接触をプロストの故意によるものと判断したセナの報復的行為[13]に非難が浴びせられた。

1991年第2戦ブラジルGP

1984年のデビュー以来、母国ブラジルで未勝利であったセナが、8度目の挑戦で初めて母国優勝を収めたレース。雨の中、ギアボックスにトラブルを抱え6速ギアしか使えないマシンで、ゴールまで走りきるという離れ業を演じ、尚且つトップでチェッカーを受けた。シートベルトが体を締め付けるなどのトラブルもあり、レース終了後には車から降りられないほど疲労していた。

1992年第6戦モナコGP

予選はウィリアムズの2台に続く3位。決勝レースではスタートで予選2位のパトレーゼをかわして2位に浮上。しかしこの年ここまで開幕以来5戦連続でポールトゥウィンを飾っている首位のマンセルのペースに付いていけない。6連勝を目前にしたマンセルであったが、レース残りわずか8周となった71周目に緊急ピットイン。セナとの差は28秒。マンセルがタイヤ交換を終え、ピットアウトした時には、セナが首位に立っていた。しかし、フレッシュタイヤを装着したマンセルが、ここからセナを猛追する。74周目には予選6位に匹敵するほどのファステストラップを叩き出すと、残り3周でセナの背後に迫る。右に左にマシンを振りながら僅かな隙を突こうとするマンセルに対して、セナは僅かにレコードラインをはずしながら要所をおさえ、つけ入る隙をまったく見せない。タイヤが限界に近いセナは、ヌーベルシケインの進入でリアをスライドさせながらも巧みにコントロールし、ミスもしない。マンセルは狭いコース幅を一杯に使い、あらゆるコーナーでインからアウトから果敢にオーバーテイクを狙うがかなわず。押さえきったセナが、わずか0.215秒差で首位でチェッカーフラッグを受けた。マンセルの6連勝を阻むと同時に、自身モナコGP4連勝を達成。通算では5勝となり、モナコマイスターと呼ばれたグラハム・ヒルの記録に並んだ。また、モナコGP50回目の記念レースでもあった。

1993年第3戦ヨーロッパGP

PPのプロストに1.6秒以上の大差をつけられ、予選4位。決勝はウェットコンディションでスタート。セナはスタートで出遅れ、1コーナー通過時には5位に後退するも、ここから一気にペースを上げる。次の2コーナーでシューマッハをパスすると、3コーナーではアウトに大きくはらみながら加速し、4コーナー手前でベンドリンガーをパス。そのままの勢いでヒルの後ろに付くと、7コーナーで一気にヒルのインを突きオーバーテイク。セナの勢いは止まらず、10コーナーのメルボルンヘアピン進入でプロストのインに並ぶとそのまま抜き去り、オープニングラップで首位に立った。スタートで出遅れたにも拘わらず10コーナーまでに4台をパスするという見事なラップであった。予選でのタイム差や抜かれたドライバー達の顔ぶれを見ても、このラップの凄さが伺える。「雨のセナ」をあらためて強烈に印象付けたレースである。

1993年第6戦モナコGP

予選はプロスト、シューマッハに続く3番手。スタートでトップ3に順位の変動はなかったものの、プロストにフライングの裁定が下り、10秒間のストップ&ゴーペナルティーが科せられる。12周終了時点でプロストはペナルティーを受けるためにピットイン。10秒間の停止の後スタートを切るがクラッチが繋がらずにエンジンストール。大きくタイムをロスして周回遅れとなり完全に優勝争いから脱落する。これで首位に立ったのはシューマッハ。セナとの差は20秒近くあった。その後セナがその差を少しずつ詰めるものの、追いつくほどのラップタイムの差はない。シューマッハの優勝の可能性も見え始めたレース中盤の33周目、ローズヘアピンでシューマッハのマシンがエンジンブロー。セナは首位に立つとそのままトップでチェッカーを受け、モナコGP5連勝。通算6勝目を飾り、グラハム・ヒルの記録を塗り替えた。勝利数だけでなく、92年とこの年に続けて奇跡的な勝利をあげたことが「モナコマイスター」としての印象を強くしている。

[編集] ドライビングスタイル

予選
1988年サンマリノGP

1986年以前のセナは、予選では決勝レースに備えたセッティングには重点を置かず予選向きのセッティングを作り上げ、予選セッションに集中し、グリッド上位を狙って注目を集めていた。トールマンからロータス・ルノーで出場した1986年まではエンジンの信頼性が著しく悪く、強豪チームにアピールするため、また上位が崩れたときに確実に入賞するためこのような予選スタイルとなったとされる。

しかし1987年にロータスにホンダエンジンが供給されることになり、その信頼性が充分であったため、前年までの決勝レースを無視するほどの予選アタックは影をひそめた。優勝をした1987年第4戦モナコGP予選では、残り時間があるにもかかわらず「ここは2位でいい」と言いタイムアタックを中止。予選中から決勝レース用セッティングを始めるようになり、スタイルの変化が現れている。

それでも予選では速さを見せており、1988年と1989年には、2年連続して16戦中13回のPPを記録し、これはそれまでの9回の記録を大幅に更新する、当時の年間最多獲得記録であった。また、1988年第14戦スペインGPから1989年第5戦アメリカGPにかけて、8戦連続でPPを獲得しており、これを破ったドライバーはまだいない。またPP65回は、2006年にシューマッハが破るまで最多記録だった。獲得率は40.1%で歴代4位の記録である。これはレースの年間開催数が増え、個人の参戦数が増え始めた1970年代以降のドライバーの中では群を抜いており、最多記録を更新したシューマッハでさえ27.2%に留まっている。

予選でのセナは、最後の最後に最速ラップを出すケースが多かった。最後の最後にポールを奪う事から、メカニックなどピットクルーからは、セナが「ポケットの中のコンマ1秒を出した」とジョーク交じりに言われていた。

決勝レースではPPから首位を保持し、レース序盤で2位以下に大差をつけ、その差を維持するというスタイルで勝利を掴むことが多かった。このようなスタイルは、PPからスタートするドライバーの戦略として有効で、序盤で敵の戦意を削ぐことを意図しており、レース後半の展開を楽にできる(セナ以前に最多PPを保持していたジム・クラークもこのスタイルであった)。セナの現役時代の大半は再給油が禁止されており、ファステストラップはマシンが軽くなるレース終盤に記録されることが多かった。この時代背景と、先述の戦略スタイルから、ファステストラップ獲得数が19回と、勝利数41回、PP数65回に比較して目立って少ない。

セナ足

セナのテクニックでよく知られるものに、コーナーでアクセルを小刻みに煽るドライビングがある。日本では『セナ足』と言われるそのテクニックは、進入時の安定性を向上させるとともに、コーナー脱出時の早いエンジンの吹け上がりをもたらしていた。小刻みで独特な回転数コントロールは、元々ターボのタービンの回転を高く保ち、いわゆるターボラグの発生を抑えるためとされる。しかし、セナ足はカート時代に編み出されたテクニックであり、それ以降の下位フォーミュラ、F1でのターボ、NA関係なく見られた。それらのことから、上記の説には異論もある。セナは、『セナ足』をターボに限らず、コーナーの立ち上がりで可能な限り早く加速するための技術として完成させた。

セナ以前にもケケ・ロズベルグが『ケケ足』として類似したテクニックを使っていたが、ロズベルグのそれは、まさにアクセルを『小刻みに煽る』のであり、セナのそれは一秒の間に6回ともいうアクセルコントロールによる開閉の繰り返しであり、煽るというより痙攣に近い頻度のものであることが、テレメトリーデータから分かる。それらから、ロズベルグ等の『ケケ足』とは全く異なるテクニックであるとされる[14]。ホンダのエンジニアがエンジンの動弁系にドライブ・バイ・ワイヤ[15]を採用する際、信号のノイズを除去するためのフィルターを設けていた。しかし、セナ足によるアクセルワークが、ノイズとして識別されるほど微細で敏速であったため、アクセルワーク自体が無視されてしまうという、セナだけにしかあり得ないトラブルが発生していた。この問題の解決には四苦八苦したとのこと。

セナ足については、その理論的・実践的根拠を求めて日本国内のF3000級(当時)のプロドライバー達が検証したことがあり、その結論は『判らない』。中谷明彦は「常人の理解を超えた領域でのテクニックだろう」と語っている。これらから、限界点の抽出、荷重のコントロール、人間トラクションコントロール等、一般に思いつく単純な理屈だけでは説明が付かないとも言われる。チームメイトだったプロスト、ベルガーもセナ足を試みたが、いずれも再現は不可能との結論に達している[16]

このテクニックにより、多少燃費は悪くなるものの、その後のストレートのスピードで大きく差がつく。1988年には、同僚のプロストにテレメトリーのデータでは常に100~300回転ほどの差を付けており、プロストが「ホンダはセナに良いエンジンを与えている」と疑っていた。後藤治によると、ホンダの調査ではプロストはシフトアップをセナより早いタイミングで行うため、高回転域を使い切れていないことが原因としている[17]。1989年第12戦イタリアGP・モンツッア・サーキットでは、予選時に高速レズモ・コーナーにおいて、プロストより1000回転も高くホンダV10エンジンを高回転域で使用していたという。

後にRacing Onでセナ没後10年企画が行われた際、「車をアンダー気味にセッティングしておいて、セナ足で細かくスライドさせることによってそれを打ち消しつつ旋回することで、ニュートラルに近い挙動を生み出していたのではないか」と解説されていた。

「レインマスター」「雨のセナ」と呼ばれるなど、雨のレースを非常に得意としていた。しかし当初から得意だったわけではなく、「カートを始めたばかりの頃、ウェットレースで他のドライバーたちからあらゆる箇所で簡単に抜かれ、その悔しさからの鍛錬による」と本人が語っている。セナは、上記の出来事の後、サーキットに練習に行ってはコース上に水をまいて水浸しにし、ウェットで速く走れる術を研究したという。

得意とすることとは裏腹に、本人はあまり雨のレースが好きではないことを告白している。危険が増すコンディションを嫌うことはレーシングドライバーとしては普通の反応であり、雨のレースが得意なことから「雨のナカジマ」と呼ばれた中嶋悟も同様である。

サーキット別
1991年モナコGP

雨と同時に、ストリートコースを得意とすることでも知られた。モンテカルロでの5連勝を含む6勝(1987,1989-1993年)、スパ(2/3が公道)での4連勝を含む5勝(1985,1988-1991年)、デトロイトでの3連勝(1986-1988年)をはじめ、全41勝中18勝はストリートコースで挙げたものである。

パーマネントコースにおいても、埃が多く滑りやすいなど、ドライバーの技術を問われる悪条件を得意とした。ハンガロリンクでは、3勝・2位4回を記録している。この他イモラも、3勝・8PPと、キャリアを通しては得意コースに上げられる。

逆に鬼門とされていたのはモンツァ、地元ブラジルGPの舞台となったジャカレパグアインテルラゴスなどである。モンツァは1987年から1989年まで、3年連続目前で勝利を逃し、最終的に計2勝を上げたものの、1990年の初勝利までに6年を要した。ジャカレパグアは6年間で1勝も挙げられず、インテルラゴスも2勝を挙げたものの、1990年の中嶋悟との接触、1994年のシューマッハ追走中のスピンなどが発生している。

また、ライバル・プロストの母国であるフランスGPにおいては、10年間[18]でついに1勝も挙げることは出来なかった(最高位は1988年の2位1回)。プロストは母国においても、セナの母国ブラジルGPにおいても高い勝利率を記録しており[19]、この面では対照的な結果が残ることとなった。

危険な走行

その速さや技術の高さは評価されている一方で、危険な走行に対する批判もある。 3度の世界チャンピオンで自他共に認める良識派だったジャッキー・スチュワートはその点を憂慮し、セナへのインタビューで苦言を呈した事がある。これに対しセナは「レーシングドライバーならば、僅かな隙を突くべきだ。」「僕には僕の思った事しか出来ない。」と反論した。

[編集] 人間関係

セナは神経質で気難しいと言われているが、マクラーレンでコンビを組んだゲルハルト・ベルガー、ウィリアムズでチームメイトだったデイモン・ヒル[20]、トレーニング・ジムで知り合ったティエリー・ブーツェン、同じポルトガル語を話せるペドロ・ラミー、同胞で後輩のマウリシオ・グージェルミンルーベンス・バリチェロらとは良好な関係を築いていた。

2度の選手権王者となった1990年頃には性格もやや落ち着き、若手ドライバーへのアドバイスをしたり、レース中に無線で冗談まで言うようになっていた。しかし、1992年第8戦フランスGPでは、スタート直後に追突されたミハエル・シューマッハを厳しく諭す一幕や、その後のドイツホッケンハイム・サーキットにおいて、テスト走行中でのトラブルで両者乱闘寸前になった事もあった。

また1993年日本GPではセナが周回遅れにしようとしていたエディ・アーバインがセナに進路を譲らなかった一件で、レース後にアーバインに殴りかかる事件も起こった。アーバインは殴られたと公言しているが、これは1987年第3戦ベルギーGPでマンセルと殴りあったのとは違い、周囲の制止で思いとどまっている。→詳細はエディ・アーバインを参照。

ドライバーではないが、セナの現役時代にFIA会長を務めていたジャン=マリー・バレストルは、同じフランス人のプロストに露骨に肩入れした一方で、89年鈴鹿のシケインでの事件による失格裁定や、1990年のPPの位置を巡る争いなど、セナとは犬猿の仲で知られた。

ネルソン・ピケ

3度のF1ワールドチャンピオンに輝いたネルソン・ピケとは、母国の先輩でありながら犬猿の仲だったことが知られ、生涯友好的な関係ではなかった。ピケは、セナの葬儀にも出席していない。しかし、1992年にピケがインディ500予選時に両足複雑骨折の重傷を追った際には、見舞い電報を送っており、ピケ本人は「読んで涙が流れた」と語っている。またセナ死去時の追悼コメントでは、「暫くは出てこない存在」などセナを評価する言葉を残している。

ナイジェル・マンセル
1991年イギリスGPでマンセルのマシンに乗るセナ

マンセルとは、殴り合いの喧嘩なども含めていざこざが多数あるものの、遺恨を残すようなことはなかった。1991年にセナがチャンピオンを獲得した際には、タイトル争いの相手であったマンセルは、ピットで迎え祝福。逆に1992年にマンセルが初タイトルを獲得した際には、セナがピットまで赴き祝福の言葉を述べている。また、1992年のモナコGPではお互いを讃えあうなど、よきライバル関係を築いていた。セナが他界した後、日本のテレビ番組に出演した際にも「お互いに凄い奴だと認め合っていた。」と、その関係について語っている。当時のF1の救急医療班の代表であり、セナとは家族ぐるみの交流があったシド・ワトキンスも、マンセルとセナは友好的な関係だった、と語っている[20]

アラン・プロスト

プロストとは、前述のように様々な因縁があった。しかし、後述のプロストのコメントにもあるとおり、プロストがF1を休養していた1992年には2人は個人的に連絡を取り合っていたという。今宮純と川井一仁もその共著の中で「2人はカメラが回っていないところでは、話もよくしている」と記述している。また、後にプロスト自身はセナとの関係について「問題を抱えていた時期もあったことは確かだが、マスコミによって多くの人物にライバル以上の敵対関係として捉えられることとなった。」と語っている。2人が険悪だったとされる1989年でも、ピケとマンセルの様に情報を交換しないということはなく、ミーティング等ではプロフェッショナルな関係を保っていたという。1994年のサン・マリノGPの最中である4月29日、サーキットで走行中のセナは地元のテレビ局による中継の解説を務めていたプロストに対し、無線で「アラン、君がいなくなって淋しいよ」と伝えている。セナの事故死はその2日後だった。

これらのことから、2人の関係が悪かったと一概には言えない。プロストはセナの死後、セナのファンクラブのフランス支部名誉会長も務めている。

また、フジテレビ主催のセナ追悼イベントのインタビューの中では次のように語っている。

「事故から3ヶ月が過ぎた今でも、毎日のようにセナのことを考えます。彼がいなくなったことで、私のF1での大切な思い出が失われてしまいました。彼は、モチベーションを保つために、ライバルが必要だと感じていました。セナには僕が必要だったのです。彼は私を倒すことに熱中しました。でも、そこには互いに尊敬の気持ちがありました。(92年に)一年間レースを休養していたときにも、セナとはよく電話で話しました。彼は、私がいないとやる気が出ないと話していました。その年の彼はレースへの情熱を失っているように感じました。セナが最も私を魅了したのは、彼が100%をレースに捧げていたことです。実際に100%を捧げるのは簡単ではありません。私には家庭もあり、休養もあり、ゴルフやスキーに熱中したりもします。私の場合、98%くらいをレースに捧げているのだと思います。でも、セナにはレースが全てでした。私ならマシンにトラブルが起これば、すぐにピットに戻ります。でもセナは、本能で走ろうとするのです。今では、彼と共に走ったことが、私にとって一番大切な思い出です。」

[編集] ホンダとの関係

1987年、ホンダがロータスにエンジンを供給し、セナとホンダとの蜜月関係が始まる。これは1988年にセナがマクラーレンに移籍した後も続き、結局1992年まで6年間ホンダエンジンをドライブし続けることになる。本田宗一郎と会った際に「お前のために最高のエンジンを作ってやるよ」と言われたことに感激し「本田さんは日本での父」と涙ぐみながら答えた。
また、1987年までホンダF1総監督だった桜井淑敏とは、桜井がホンダを退社した後もセナが何かと相談を持ちかけるほどの深い友人関係にあった。
開幕戦ブラジルGPでは、エンジンに異常を感じてリタイアしたが、実際にはエンジンは壊れてはいなかった。しかしホンダのエンジニアがエンジンを分解してみたところ、パーツが壊れてエンジンブローする寸前だったという。この一件で、ホンダのエンジニアのセナへの評価や信頼が上昇することとなった。

レース以外でもホンダとは関係を持ち、1989年にホンダのフラグシップ・スポーツカー、NSXの開発テストに参加。これはセナが生涯の中で唯一手掛けた市販乗用車であった。同車のテストにおいて、剛性不足を指摘されたホンダが、剛性を確保するために取り付けたバーは、通称『セナバー』とも呼ばれる。また、「セナさんの休日」のキャッチコピーで、同社のVT250スパーダ(2輪)の紙面広告に出演。その後、同社のプレリュード(4代目)のCMにも出演した。キャッチコピー「Just move it 」。

また、マクラーレンで担当エンジニアだった木内健雄と最後に会ったときに「俺は若いから、まだ何年でも待っていられるから、もう一回ホンダに乗るから」と、F1の舞台での再会を誓っていた。

セナはF1において自身の通算41勝中32勝をホンダエンジン搭載車で勝利していた。ホンダエンジンに最も多くの勝利をもたらしたドライバーでもある。

[編集] F1における主な記録

  • ワールドチャンピオン獲得3回(歴代4位タイ 当時歴代3位タイ)
  • 優勝41回(歴代3位 当時歴代2位)
  • PP65回(歴代2位 当時歴代1位)
1989年第5戦アメリカGPでジム・クラークの33回を更新。2006年第4戦サンマリノGPでミハエル・シューマッハが更新。
  • 年間PP13回(歴代2位タイ 当時歴代1位)
1988年、89年に連続して記録。1984年ネルソン・ピケの9回を更新。1992年にナイジェル・マンセルが更新。
  • 年間ポール・トゥ・ウィン7回(歴代3位 当時歴代1位)
1988年、91年に記録。それまでの5回を更新。1992年にナイジェル・マンセルが更新。
  • 連続PP8回(歴代1位)
1988年第14戦スペインGP~1989年第5戦アメリカGPにかけて記録。
  • 同一GPでの連続PP7回(歴代1位)
サンマリノGPにおいて、1985年~1991年にかけて記録。
  • 同一GPでの連続優勝5回(歴代1位)
モナコGPにおいて、1989年~1993年にかけて記録。
  • 開幕からの連続優勝4回(歴代3位タイ 当時歴代1位)
1991年に記録。それまでの記録2勝を更新。1992年にナイジェル・マンセル更新。
  • 開幕からの連続PP6回(歴代2位タイ 当時歴代1位)
1988年に記録。1977年のジェームス・ハントの3回を更新。1993年にアラン・プロストが更新。
  • モナコGP6勝(歴代1位)
1993年に更新。1987年、1989年~1993年に記録し、1969年にグラハム・ヒルが記録した5勝を更新。

[編集] エピソード

  • 血液型はB型。利き手は左。
  • 趣味のひとつに、ラジコン飛行機ヘリコプターがある。市販のものを購入し、独自に改造も行うほど。
  • 一時期、当時ブラジルの国民的アイドルシューシャと交際していた。その出演番組にセナがゲスト出演したこともある。1990年ブラジルGPでは、シューシャがセナの応援に来ている。セナの葬儀にも参列した。
  • イギリスのF1 Racing誌(2007年2月号)は、史上最速のF1ドライバーとしてアイルトン・セナを選出した。同誌は、FIAマックス・モズレー会長、当時のフェラーリチーム代表のジャン・トッド、元チャンピオンのケケ・ロズベルグ、元チームオーナーのエディ・ジョーダンなどのF1界を代表する有識者(28人)に投票を依頼し、最速ドライバー歴代50傑を決定した。セナはシューマッハを抑えてランキング1位になった。3位はクラーク。
  • イギリスのF1 Racing誌(2008年6月号)において「史上最高のドライバートップ100ランキング」が掲載され、1位にアイルトン・セナを選出した。これは同誌のリーダーパネル会員の数千におよぶ投票で決定されたもので、2位はシューマッハ、3位にファン・マヌエル・ファンジオ
  • 1991年には週刊少年ジャンプ集英社)がマクラーレンのスポンサーとなっていたことから35号から51号にかけてセナを主人公として同年のシリーズを描く『Fの閃光-アイルトン・セナの挑戦!!-』!!(原作:西村幸祐 画:長沢克泰・鬼窪浩久)が連載された。
  • セナ自身の意向により常に完全に匿名で行われていたため存命当時に公にされることはなかったが、チャリティに非常に熱心で、数百万ドルの私財を恵まれない子供たちに寄付していたという[11][21]

[編集] 戦歴

カテゴリー 所属チーム シャシー エンジン 優勝数
/ 参戦数
PP FL ランキング
1981年 フォーミュラ・フォード1600 - バン・ディーメン RF80
バン・ディーメン RF81
フォード 12勝 / 20戦 6 PP 9 FL チャンピオン
1982年 ヨーロッパ・フォーミュラ・フォード2000 RushenGreen Racing バン・ディーメン RF82 フォード 6勝 8 PP 5 FL チャンピオン
- イギリス・フォーミュラ・フォード2000 RushenGreen Racing バン・ディーメン RF82 フォード 16勝 7 PP 15 FL チャンピオン
- イギリスF3 - ラルト RT3 トヨタ 1勝 0 PP 0 FL (スポット参戦)
1983年 イギリスF3 ウェスト サリー レーシング ラルト RT3 トヨタ 12勝 15 PP 12 FL チャンピオン
- F3 マカオグランプリ ウェスト サリー レーシング ラルト RT3 トヨタ - PP FL 総合優勝
1984年 F1 トールマン トールマン TG183B
トールマン TG184
ハート415T 0勝 / 16戦
(最高位2位)
0 PP 1 FL 9位
1985年 F1 ロータス ロータス 97T ルノーEF4B,EF15 2勝 / 16戦 7 PP 3 FL 4位
1986年 F1 ロータス ロータス 98T ルノーEF15B,EF15C 2勝 / 17戦 8 PP 3 FL 4位
1987年 F1 ロータス ロータス 99T ホンダRA167E 2勝 / 16戦 1 PP 3 FL 3位
1988年 F1 マクラーレン マクラーレン MP4/4 ホンダRA168E 8勝 / 16戦 13 PP 3 FL チャンピオン
1989年 F1 マクラーレン マクラーレン MP4/5 ホンダRA109E 6勝 / 16戦 13 PP 3 FL 2位
1990年 F1 マクラーレン マクラーレン MP4/5B ホンダRA100E 6勝 / 16戦 10 PP 2 FL チャンピオン
1991年 F1 マクラーレン マクラーレン MP4/6 ホンダRA121E 7勝 / 16戦 8 PP 2 FL チャンピオン
1992年 F1 マクラーレン マクラーレン MP4/6B
マクラーレン MP4/7A
ホンダRA122E/B 3勝 / 16戦 1 PP 1 FL 4位
1993年 F1 マクラーレン マクラーレン MP4/8 フォードHB5,7,8 5勝 / 16戦 1 PP 1 FL 2位
1994年 F1 ウィリアムズ ウィリアムズ FW16 ルノーRS6 0勝 / 3戦 3 PP 0 FL (第3戦で事故死)


チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント[22]
1984年 トールマン TG183B ハート 415T 直4 ターボ BRA
Ret
RSA
6
BEL
6
SMR
DNQ
9位 13
TG184 FRA
Ret
MON
2
CAN
7
DET
Ret
DAL
Ret
GBR
3
GER
Ret
AUT
Ret
NED
Ret

EUR
Ret
POR
3
1985年 ロータス 97T ルノー EF4B/EF15 V6 ターボ BRA
Ret
POR
1
SMR
7
MON
Ret
CAN
16
DET
Ret
FRA
Ret
GBR
10
GER
Ret
AUT
2
NED
3
ITA
3
BEL
1
EUR
2
RSA
Ret
AUS
Ret
4位 38
1986年 98T ルノー EF15B/C V6 ターボ BRA
2
ESP
1
SMR
Ret
MON
3
BEL
2
CAN
5
DET
1
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
2
HUN
2
AUT
Ret
ITA
Ret
POR
4
MEX
3
AUS
Ret
4位 55
1987年 99T ホンダ RA167E V6 ターボ BRA
Ret
SMR
2
BEL
Ret
MON
1
DET
1
FRA
4
GBR
3
GER
3
HUN
2
AUT
5
ITA
2
POR
7
ESP
5
MEX
Ret
JPN
2
AUS
DSQ
3位 57
1988年 マクラーレン MP4/4 ホンダ RA168E V6 ターボ BRA
DSQ
SMR
1
MON
Ret
MEX
2
CAN
1
DET
1
FRA
2
GBR
1
GER
1
HUN
1
BEL
1
ITA
10
POR
6
ESP
4
JPN
1
AUS
2
1位 90 (94)
1989年 MP4/5 ホンダ RA109E 3.5 V10 BRA
11
SMR
1
MON
1
MEX
1
USA
Ret
CAN
7
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
1
HUN
2
BEL
1
ITA
Ret
POR
Ret
ESP
1
JPN
DSQ
AUS
Ret
2位 60
1990年 MP4/5B ホンダ RA100E 3.5 V10 USA
1
BRA
3
SMR
Ret
MON
1
CAN
1
MEX
20
FRA
3
GBR
3
GER
1
HUN
2
BEL
1
ITA
1
POR
2
ESP
Ret
JPN
Ret
AUS
Ret
1位 78
1991年 MP4/6 ホンダ RA121E 3.5 V12 USA
1
BRA
1
SMR
1
MON
1
CAN
Ret
MEX
3
FRA
3
GBR
4
GER
7
HUN
1
BEL
1
ITA
2
POR
2
ESP
5
JPN
2
AUS
1
1位 96
1992年 MP4/6B ホンダ RA122E/B 3.5 V12 RSA
3
MEX
Ret
4位 50
MP4/7A ホンダ RA122E/B 3.5 V12 BRA
Ret
ESP
9
SMR
3
MON
1
CAN
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
2
HUN
1
BEL
5
ITA
1
POR
3
JPN
Ret
AUS
Ret
1993年 MP4/8 フォード HB5/7/8 3.5 V8 RSA
2
BRA
1
EUR
1
SMR
Ret
ESP
2
MON
1
CAN
18
FRA
4
GBR
5
GER
4
HUN
Ret
BEL
4
ITA
Ret
POR
Ret
JPN
1
AUS
1
2位 73
1994年 ウィリアムズ FW16 ルノー RS6 3.5 V10 BRA
Ret
PAC
Ret
SMR
Ret













NC 0

[編集] 関連項目

関連人物

CM出演

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ 古舘伊知郎がテレビ放送で実況時に使用したことによる
  2. ^ 大成は1992年まで待つことになり、当時には未熟な技術として翌1988年には姿を消している。
  3. ^ 2人のドライバーに優劣をつけないこと
  4. ^ 独占インタビュー! ジャコビが語るセナ パート1
  5. ^ これがホンダエンジンで挙げた最後の勝利となる。
  6. ^ 正確にはベネトンワークス最新・仕様エンジンのワンランク下の型落ちカスタマー仕様エンジン。
  7. ^ 独占インタビュー! ベルガーが語るセナ
  8. ^ 気道切開による出血が多かった
  9. ^ 金子浩久『セナと日本人』123より
  10. ^ 『1994年 GPXモナコGP号』、山海堂、P.13
  11. ^ a b The Official Formula 1 Website
  12. ^ セナは控訴していたが後に棄却された
  13. ^ にセナは故意であると認めている
  14. ^ F1解剖講座-データで見るF1グランプリ(二玄社)
  15. ^ 当時はフライ・バイ・ワイヤと呼ばれていた。
  16. ^ 『F1パーフェクトブック アイルトン・セナの時代』(別冊宝島)、『実録F1ドライバー列伝 Hondaを疾らせた男達』(竹書房)参照。
  17. ^ 柴田久仁夫「究極のドライバー比較論-元ホンダF1プロジェクトリーダー後藤治が10年たった今、語る」『AUTO SPORT-アイルトンセナ没後10年特別企画』三栄書房、50頁-55頁、2004年。
  18. ^ ポール・リカール6回、マニ・クール3回、ディジョン1回
  19. ^ ポール・リカールで9度中5勝、マニクールで2度中1勝、ディジョンで3度中1勝、ジャガレパグアで9度中5勝、インテルラゴスで3度中1勝。
  20. ^ a b 独占インタビュー! ワトキンス博士が語るセナ
  21. ^ 独占インタビュー! ジャコビが語るセナ パート2
  22. ^ 1985年~1990年までは有効ポイント制。括弧内は総得点。

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

公式サイト

非公式サイト

先代:
ネルソン・ピケ
アラン・プロスト
F1ドライバーズチャンピオン
1988年
1990年-1991年
次代:
アラン・プロスト
ナイジェル・マンセル
先代:
ローランド・ラッツェンバーガー
F1死亡事故
1994年5月1日
次代:
n/a