横澤彪

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横澤 彪(よこざわ たけし、1937年12月15日 - )は、日本の元テレビプロデューサー。通称「オジン」。1995年から2005年6月までは吉本興業常務東京本社代表、専務取締役東京本部本部長などを務め、2009年現在は鎌倉女子大学児童学部の教授。群馬県出身。実父は元朝日新聞千葉支局長の横澤陸郎。

目次

[編集] 来歴・人物

前記の通り父が新聞記者で、当時は単身赴任もなかった関係から群馬県前橋市に生まれ、すぐに長野市に移りその後、東京都杉並区新潟市高田市上越市)、秋田市横浜市と、平均二年半に1回の割で転校を繰り返した。どこへ行っても東京弁を喋る「東京っ子」として異端視され、いじめられるのは日常茶飯事で、これが「ネクラ人間横澤彪」のルーツと話している。大学受験時代や大学入学後においても浪人・留年を経験したので、入学以来の学友と卒業式に出席した経験がない。自身「郷里はどちらですか」という質問が一番苦手といい「郷里はありません」と答えることもあるし「父は岩手、母は静岡です」と加えるとき「群馬県の前橋生まれです」と言って済ませるとき、丁寧に全て説明する時とあり、いずれも説明は苦痛と話している[1][2]

神奈川県立横浜翠嵐高等学校から千葉県立千葉高等学校に編入学。その後、一年浪人して東京大学文学部社会学科に入学したが、入学後も留年した。1962年に同大学を卒業し、フジテレビに入社。同期は元フジテレビ社長の村上光一。  フジテレビでは労働組合運動に関わって社長の鹿内信隆の逆鱗に触れたため、1970年に「経営合理化のため制作部門を分社」の大義名分のもと関連会社に左遷させられるなど辛酸を舐めた。その後の1974年に『ママとあそぼう!ピンポンパン』で初プロデューサーを経験し、1980年に『THE MANZAI』で頭角を現し始めた。その後も『らくごIN六本木』『スター千一夜』『笑ってる場合ですよ!』『森田一義アワー 笑っていいとも!』『オレたちひょうきん族』などを手掛け、1年先輩の日枝久鹿内春雄(社長信隆の長男)とともに視聴率低下で苦境に立たされていたフジテレビの立て直しを果たした。また、お笑い界のビッグ3ことタモリビートたけし明石家さんまをスターダムへと押し上げることに一役買った。

『オレたちひょうきん族』では、同番組内コーナー『ひょうきん懺悔室』で神父役として出演していた。ただし、家族は横澤の娘がキリスト教系列の学校に通学していた関係から、横澤が演じていたこの役を嫌がったという。同じく『ひょうきん族』時代には、TBSテレビで裏番組として放送されていた『8時だョ!全員集合』を意識した、今では考えられない数々の演出を行った。コントの端々で『全員集合』の名前を出し、挙句の果てには『全員集合』のオープニングテーマを流しながら「ひょうきん族がなければね」「わしもそう思う」というパロディCMを作るほどであった。ちなみにこのパロディの元ネタは、毎日放送突然ガバチョ!』に登場していたキャラクター「わしもそう思う博士」を日本ハムが起用したCMである。

1987年には『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』第1回ゼネラルプロデューサーを、1989年には第3回総合プロデューサーを、1992年と1993年には『平成教育テレビ』で役員待遇エグゼクティブプロデューサーを務めた。また、1993年には全国一斉公開模試試験で、フジテレビの生徒役で平成問題に挑戦した。「楽しくなければテレビじゃない」の次のスローガンに、「馬鹿しか見ないフジテレビ」という案を真面目に提案したこともあるという。しかし、その言葉とは裏腹に視聴率に関しては相当苦心していたようで、フジテレビを退社した後に出演したテレビ朝日ニュースステーション』で海外テレビ番組特集を見て、「私も視聴率を気にしない環境でやってみたかった」と発言していた。

編成局ゼネラルプロデューサーに昇進した傍ら、ヴァージンジャパン[3]社長も兼任。1992年の鹿内宏明会長解任の余波を受け、1995年3月にフジテレビを退社した。

フジテレビ退社後は吉本興業役員に転じ、東京支社長や専務取締役を歴任した。2005年に相談役を退任し、翌2006年にインターネットサイトJ-CASTでコラム『横澤彪のチャンネルGメン69』の連載を開始した。Gメン69では、古巣の吉本興業やフジテレビに対しても歯に衣着せぬ主張を展開。一部の論考(左利き批判[4]など)が反響を呼び、議論を沸騰させたこともある。2007年にはの闘病を告白し、話題となった。

[編集] 担当番組

[編集] フジテレビ時代

[編集] 吉本興業役員時代

()内は横澤が担当した役職。

[編集] 横澤班のスタッフ

フジテレビに限らず、テレビ局の制作スタッフはいくつかの班に分かれて番組を制作する。

かつての部下だった石田弘率いる「石田班」とは仲が悪かった。現在では横澤もフジテレビを退社し、また、石田もエグセクティブプロデューサーとなり、横澤班・石田班にそれぞれ所属していた部下はプロデューサー等になっている。ちなみに1987年9月以降、横澤が担当していた番組のプロデュースは『笑っていいとも!』を佐藤義和と荻野繁が、『オレたちひょうきん族』を三宅恵介が、『ライオンのいただきます』を山縣慎司がそれぞれ引き継いだ。

()内は近況での肩書・愛称。

三宅恵介(デタガリ)
役員待遇・編成制作局バラエティー制作センターゼネラルディレクター。
荻野繁(ビビンバ)
BSフジ出向後、2008年にフジテレビ社員としては定年を迎えた。現在、BSフジに在籍。
山縣慎司(ベースケ)
広報局視聴者センター専任部長。
永峰明(アンノン)
発掘!あるある大事典』スーパーバイザー、フリープロデューサー。
佐藤義和(ゲーハー)
フリープロデューサー。
小林豊(ぶーちゃん、ブッチャー)
フジ・メディア・ホールディングス・フジテレビジョン取締役。
小畑芳和
フジテレビKIDS代表取締役社長。
吉田正樹
ワタナベエンターテインメント代表取締役会長。
片岡飛鳥
編成制作局バラエティー制作センター副部長。
栗原美和子
編成制作局ドラマセンター副部長。
大平司
美術制作局美術センターゼネラルプロデューサー。
清水淳司
美術制作局美術センター専任部長、美術プロデューサー。
窪田豊(スマイリー)
あっぱれさんま大教授』ディレクター。

[編集] その他エピソード

  • 松本人志は「フジテレビの最初のレギュラー(ひょうきん予備校)の一本目の収録が終わった時、横澤さんに『ギャラ泥棒だね』と言われ傷ついた」と横澤をネタにしている[5]
  • フジテレビに在籍していた1986年頃に、産経新聞のCMに出演していたことがある。

[編集] 外部リンク

[編集] 脚注

  1. ^ 横澤彪『犬も歩けばプロデューサー』 NHK出版 1994年 195-197頁。
  2. ^ 横澤彪『人間メディア』 講談社 1985年 176-190頁。
  3. ^ 同社はヴァージン・レコードの日本法人。その後、ヴァージン・レコード本体がEMIに買収されたのに伴い、洋楽部門は発売権を東芝EMIへ移動。邦楽部門はメディア・レモラスへと分割された後、ポニーキャニオンに吸収された。
  4. ^ 国分太一が映画『しゃべれども しゃべれども』で箸を左手で使ったことに対する批判。 -
  5. ^考えるヒト』2004年11月23日放送分より。
先代:
-
笑っていいとも!
プロデューサー
初代
1982年10月 - 1987年9月
次代:
佐藤義和荻野繁
(共に1987年9月 - 1993年9月)