山下達郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
山下 達郎
}
基本情報
出生名 山下 達郎
出生 1953年2月4日(61歳)
出身地 日本の旗 日本 東京都豊島区池袋
血液型 B型
学歴 明治大学法学部中退
ジャンル J-POP
AOR
ニューミュージック
職業 シンガーソングライター
ミュージシャン
音楽プロデューサー
作詞家
作曲家
編曲家
担当楽器 ボーカル
ギター
パーカッション
プログラミング
シンセサイザー
キーボード
ドラムス
ピアノ
ハモンドオルガン
グロッケンシュピール
エレクトリックシタール
ベース
活動期間 1973年 -
レーベル RCA ⁄ RVC
1976年-1979年
AIR ⁄ RVC
(1979年-1982年
MOON ⁄ ALFA MOON
(1982年-1990年
MOON ⁄ MMG
(1990年-1993年
MOON ⁄ east west japan
(1993年-2002年
MOON ⁄ WARNER MUSIC JAPAN
2003年- )
事務所 スマイルカンパニー
テンダベリー & ハーヴェスト
共同作業者 シュガー・ベイブ
(1973年-1976年)
大瀧詠一
プロデューサー1974年-1975年
小杉理宇造
(ディレクター:1976年-1979年、エグゼクティブ・プロデューサー1980年- )
公式サイト 山下達郎 OFFICIAL WEB SITE

山下 達郎(やました たつろう、1953年2月4日 - )は、日本シンガーソングライターミュージシャン。妻はシンガーソングライター竹内まりや。共に株式会社スマイルカンパニー所属。

人物[編集]

1950年代から1980年代にかけてのアメリカンポップスロックに影響を受けた、スタンダードMOR (Middle Of the Road)としてのクオリティを追求した楽曲を制作し続けるミュージシャンである。また、日本におけるア・カペラドゥーワップのオーソリティの一人であり、自分自身のヴォーカルを多重録音する「1人ア・カペラ」という手法を用いることでも知られている。

音楽作りに対する独自の制作姿勢から「音の職人」とも称される[1][2]。レコーディングではボーカル・バックコーラスのほか、編曲からギター、コンピューターの打ち込みシンセサイザーパーカッションまで1人で手掛けている。すべての演奏を1人で行っている楽曲もあり、特に16ビートカッティングを得意としている[注 1]。こうした背景に加え、自身の作品と竹内まりやの作品を交互に制作していることもあり、活動期間に比べるとやや寡作の傾向がある。

シュガー・ベイブのアルバム『SONGS』でプロデュースを手掛けた大瀧詠一ナイアガラ・レーベルでは、日本コロムビア時代の諸作品に、コーラスやストリングス・アレンジで参加。特に大瀧のソロ・アルバム『NIAGARA MOON』(1975年)や『NIAGARA CALENDAR』(1977年)に深く関わっている[注 2]。また自身の作品制作の傍ら、1975年頃から他のシンガー、ミュージシャンへ楽曲提供を始め、近藤真彦の「ハイティーン・ブギ」(1982年)、KinKi Kidsのデビュー・シングル「硝子の少年」(1997年)や「ジェットコースター・ロマンス」(1998年)などのヒット曲を出している。

大瀧同様、レコード・CDコレクター、オーディオマニアであり、ロック・R&B・ポップスに関して造詣が深い。また、メジャーレーベルインディーズを問わず、殆ど世に知られていない楽曲に至るまでその知識は豊富で、オリジナルのアナログ盤を中心に収集しており、所蔵総数は6万枚を超える[5]

ニックネームは「たっつぁん」、「クマ」。「クマ」は中学時代から20代にかけての呼び名。考えごとを始めると貧乏ゆすりを始め、落ち着きなく歩きまわる様子から。ライブではステージ上で各パートのソロ回しが始まると、そうした動きの片鱗が伺える。また山場に差し掛かるとファンからこの呼び声がかかる[注 3][6]

経歴[編集]

1953年(昭和28年)〜
  • 2月4日、池袋駅西口界隈で居酒屋を経営していた両親の間に生まれ、一人っ子として育つ。長男誕生を機に飲食業を嫌がる母親の意見もあり、父は転業を決め、朝鮮特需から神武景気という好景気を当て込み、元々電気職工だった祖父が経営し倒産した工場を引き継ぐ形で再興するがその後、なべ底不況のあおりを受けて倒産。池袋のアパートに住む共働き・カギっ子世帯となる[7]
1959年(昭和34年)〜
  • 4月、豊島区立池袋第五小学校(現・豊島区立池袋小学校)入学。宇宙と読書が大好きな、まじめに塾通いする典型的優等生タイプの小学生で、児童会役員にも選出された。
  • 6年生の時に合奏クラブ、及びマーチングバンド小太鼓を担当。これを機に楽器への興味が芽生えるが、音楽そのものに関しては映画好きだった両親の影響で耳にする映画音楽や、テレビ・ラジオの歌番組から流れてくる歌謡曲程度。中でも三波春夫の歌謡浪曲がお気に入りだった[8]
1965年(昭和40年)
  • 4月、豊島区立高田中学校(現・豊島区立千登世橋中学校)入学。ブラスバンド部に入部し小太鼓を担当。以来、中学・高校と6年間、ブラスバンド部に在籍し打楽器を担当する。
  • 同じ時期、ウクレレを買ってもらった事をきっかけにギターにも興味を持ち、独学で練習。また、友人の影響を受けてベンチャーズをきっかけに洋楽を聴くようになり、熱心なトップ40リスナーとなる。
  • この頃、ベンチャーズのコンサート・プログラムに載っていた曲目リストから、自分の好きな曲が特定の作家の作品だったことを知り、以後ポップスを系統だてて聴くようになる。
1966年(昭和41年)
  • 1月末、一家は練馬区平和台に転居。どうしても商売がしたいという父親の意向で菓子屋を営む。転校はせず、越境通学となった。
  • 中学2年生の時、友人らとアマチュア・バンド「ディー・バウエルン」を結成。編成はドラムス、ベース、ギター2本。後にキーボードも加わるが、山下はドラムスを担当(お気に入りのドラマーはベンチャーズのメル・テイラーや、ハル・ブレイン)。当時としては珍しい、全員ボーカルというコーラス・グループだった。
1968年(昭和43年)
  • 4月、都立竹早高校に入学[注 4]。都立の進学校入学の褒美として、以前から欲しかったドラムセットを買ってもらう。
  • 子どもの頃から興味のあった宇宙物理学者・天文学者を目指すも、進学校特有の管理的体制への違和感と国立一期校(当時)受験一辺倒なクラスメートからの孤立感に悩み、教員からは長髪であることに対して恫喝や弾圧を受ける。
1969年(昭和44年)〜
  • 成績は下降し、留年も危ぶまれたが進級を果たす。しかし、この時点で目指していた学問の道から挫折。
  • 5月、学内で教員らによる学校ぐるみの収賄が発覚[注 5]70年安保という社会情勢を背景に連日全校集会が続き、学校の機能は一時完全に停止。混乱の中、2学期に入ると校舎改築工事の為、都立新宿高校旧校舎が1年間、仮校舎とされた[注 6]。当時、学生集会が盛んだった新宿で自らも学生運動や学生サークルに関わるようになり、高校生活から完全にドロップアウト。「音楽、バイト、学生サークル、ジャズ喫茶名画座」という毎日を過ごす[注 7]
  • 高校の時にドロップアウトしかけたトラウマは後に、「学校という社会の中から逸脱していく絶望感は、この年になっても高校を出られない夢を見る」[9]と語るほど大きく影響を与えており、長髪である理由も、後のインタビューで「いろいろあった高校時代からのルサンチマン[10]と答えている。
  • この時期、後の松井証券社長松井道夫や、後のプロモデラージオラマ作家金子辰也らと交友を持った[注 8]
1971年(昭和46年)
  • 3月、学内の混乱の収束が進む中、出席日数が足りず危うかったにも関わらず、追い出されるかのように高校を卒業。音楽にのめり込む生活の中、「裏方ぐらいにしかなれないだろうし、ならばせめて音楽著作権でも学んで音楽出版社にでも入ろうか」と、法学部受験を目指し予備校に入学。1年間の浪人生活を送る(実際には殆ど通っていない)[11]
1972年(昭和47年)
  • 4月、明治大学法学部へ入学。しかしここでも司法試験志願者との温度差や冗長な一般教養課程など、大学生活に「全くリアリティを感じられず」[12]、講義にもほとんど出席しないまま実質3か月で中退。以後、本格的にプロのミュージシャンになることを決める。後にインタビューでミュージシャンを志したきっかけを尋ねられると、「成り行き。他に選択肢が無かったから。自分の場合は、言ってみれば交通事故みたいなもんだから」と答え「あと2、3年早くても遅くても音楽家にはなっていなかった」と明かしている[13]
  • 8月、アマチュアバンドの友人たちとアルバムADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を自主制作。この中には後にシュガー・ベイブのメンバーとなる村松邦男と鰐川己久雄がいた。
1973年(昭和48年)
  • 春、『ADD SOME〜』がきっかけで知り合った仲間(大貫妙子野口明彦)に、村松、鰐川を加え、シュガー・ベイブを結成。
  • 9月21日、文京公会堂でのはっぴいえんどラスト・コンサート“CITY -Last Time Around-”に大滝詠一 & ココナツ・バンクのステージに、シュガー・ベイブ(山下・大貫・村松)がバック・コーラスで参加。
  • 12月17日、シュガー・ベイブのデビューコンサート“Hello! We are SUGAR BABE”を青山タワーホ-ルにて行う。
  • 当時の日本のロックではまだ珍しかったメジャー7thや分数コードなどのコード・プログレッション(和音進行)を多用するほか、コーラス・ワークに重点を置いた音作りで一部の音楽ファンから支持された。しかし、フォークソングの人気が台頭(ニューミュージックと呼ばれる音楽ジャンルが確立し始めた時期だったが、まだその主流はフォーク勢だった)。また、ライブスポットシーンではハードロックや関西ブルースのバンドが支持された。そのため幅広い人気が得られず、苦難の日々を送った。
1974年(昭和49年)
  • 音楽事務所と契約するも、給料をもらえず、経済的には困窮[注 9]。しかし、この頃から始めたCM音楽の仕事や、スタジオでのコーラス・ワークの活動を通じて、山下の声は少しずつ認知されていく。1974年と75年、山下は大貫と村松のほか、時には吉田美奈子矢野顕子を加えたメンバーでコーラスのスタジオ・ミュージシャンをやっていたが、「自分で譜面を書いた(アレンジした)やつじゃないとやらない」と突っ張っていたという。こうしたコーラスの仕事はプロモーションとして有効、との判断で「シュガー・ベイブ」という名前にしていたため、当初大瀧は「シュガー・ベイブはコーラス・グループ」と信じて疑わなかったという[13]
  • 10月、所属レコード会社が、大瀧がエレックレコード内に設立したナイアガラ・レーベルに決まり、シュガー・ベイブとしてレコーディング開始。
  • 10月5日、シュガー・ベイブ(山下・大貫・村松)がコーラスで参加した荒井由実のアルバム『MISSLIM』リリース。以降、山下は『OLIVE』(1979年)までコーラスのほか、一部の曲ではギタリストとして参加。
1975年(昭和50年)
  • 4月25日、シュガー・ベイブ、アルバム『SONGS』とシングル「DOWN TOWN」を、ナイアガラ・レーベルから同時リリース。
  • アルバム・リリースと前後してメンバー・チェンジ。野口・鰐川に替わって上原裕伊藤銀次寺尾次郎が加入、6人組となる。
  • 6月、伊藤が抜け、再び5人組となる。
  • 11月、黒木真由美のアルバム『12のらくがき』リリース。初めて他のシンガーに書き下ろした「恋人と呼ばれて」、「北極回り」の2曲を収録。
1976年(昭和51年)
  • 1月8日、ニッポン放送オールナイト・ニッポン』水曜2部(木曜深夜3時〜5時)レギュラー開始(3月25日まで)。3月27日は臨時で金曜1部のパーソナリティーを務めた。
  • 3月25日、ナイアガラ・トライアングル(山下・伊藤銀次・大滝詠一)によるオムニバス・アルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』リリース。同日、吉田美奈子、アルバム『FLAPPER』リリース。後に『CIRCUS TOWN』でセルフカバーする「永遠に」、「LAST STEP」の2曲を収録。
  • 3月31日・4月1日、荻窪ロフトにてシュガー・ベイブ解散コンサートを行う。
  • 4月1日、ナイアガラ・トライアングル、『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』からのリカット・シングル幸せにさよなら」リリース。
  • 4月6日、ニッポン放送『オールナイトニッポン』月曜2部(火曜深夜3時〜5時)へ移動。レギュラー開始(9月28日まで)。
  • 8月16日、アルバム『CIRCUS TOWN』レコ-ディングの為渡米(8月17-26日:ニューヨーク、30日-9月3日:ロサンゼルス、5日帰国)。ソロ・シンガーとしてのデビュー・アルバムは、アメリカでレコーディングを行うという破格の待遇だったが、実現にはディレクター小杉理宇造の2年間のアメリカ留学経験と、その後日音でミュージシャンの招聘や洋楽の版権管理などに携わる中、培った人脈が背景にあった。このニューヨーク・レコーディングの際、アレンジャーのチャーリー・カレロからスコアを譲り受け、独自に検証。実践的な小編成コンボのアレンジ構築法を身につける。後年「そういう意味では、チャーリー・カレロは僕の先生といえる。彼はポール・アンカのアレンジなんかで有名なドン・コスタの弟子だから、僕はドン・コスタの孫弟子ということになるのかな」[14]と語っている。
  • 12月25日、全曲アメリカ・レコーディングによるアルバム『CIRCUS TOWN』でRCA ⁄ RVCよりソロ・デビュー。
1977年(昭和52年)
  • 3月25日、吉田美奈子のアルバム『TWILIGHT ZONE』を、吉田との共同プロデュースでリリース。同日、アルバムからのリカット・シングル「恋は流星Part I•II」をリリース。
  • 5月25日、アルバム『SPACY』リリース。前作『CIRCUS TOWN』での海外レコーディング経験に大きな音楽的刺激を受け、以後、自分が書いたスコアでスタジオ・ミュージシャンとともにレコードを制作する数年間が始まる。その結果、『SPACY』は実験的かつ内省的なアルバムとなり、売り上げは芳しくなかったが、ピアノの弾き語りにコーラスを加えたアレンジや、後のセールス・ポイントとなる一人多重録音によるコーラスも登場するなど、色々な要素が含まれたアルバムとして、古くからのファンには本作がベストと評する人も少なくない。
  • 11月20日、山下編曲・プロデュースによるマザー・グースのシングル「貿易風にさらされて ⁄ マリン・ブルー」リリース。他のシンガーを手掛けた初プロデュース作品。
1978年(昭和53年)
  • 3月25日、山下編曲・プロデュースによるCOOLS ROCKABILLY CLUBのアルバム『NEW YORK CITY, N.Y.』リリース。メンバーたっての希望でニューヨーク録音を敢行したが、コーディネーターの不手際から事前に何も準備されておらず、山下は録音1週間前に単身渡米。スタジオやミュージシャンの手配などすべてを一人で行い、その後現地で急遽行われたライブではローディーまでこなした。最初で最後のオール・プロデュース作品。アルバムには“SOUND CREATIVE PRODUCER”としてクレジットされているが、実際にはノー・ギャラだったという[15]
  • 5月25日、六本木PIT INNでのライヴを収録したライヴ・アルバム『IT'S A POPPIN' TIME』リリース。
  • 12月、コンサート・イベンター、ソーゴー東京の資金援助を受け、自身の所属事務所「ワイルド・ハニー」を渋谷区神宮前の和合ハイツ2階302号室に設立。社名はビーチ・ボーイズ同名アルバム1967年)から。ソロ・デビュー時の所属事務所だったアワ・ハウスは山下・大貫のソロ・デビュー後、資金難に陥り倒産。その後山下は、自身の事務所設立まで音楽出版社「PMP」(当時)に在籍していた。
  • 12月20日、アルバム『GO AHEAD!』リリース。「これが最後のソロ作品となるかも知れない」との思いから、「やりたいことを詰め込んだゴッタ煮のアルバムになった」と語っている。
1979年(昭和54年)
  • 1月25日、ファースト・ソロ・シングル「LET'S DANCE BABY」リリース。アルバム4枚目にして初のシングル・カット。
  • 春、1月リリースのシングル「LET'S DANCE BABY」のB面「BOMBER」が大阪のディスコを中心にスマッシュ・ヒット。それを受けて、大阪ではシングルのAB面を逆にして臨時発売された。ソロ・デビュー以来売り上げが低迷を続け、作曲家への転向を考えていたが、次第に状況が好転し始める。
  • 4月5日、初のタイアップとなるセカンド・シングル「愛を描いて -LET'S KISS THE SUN-」(JAL「沖縄キャンペーン“Let's Kiss The Sun”」イメージソング)リリース。
  • 6月2日、コンサート・ツアー『FLYING TOUR '79 PART-1』スタート。全4公演。自身初の全国ツアー。
  • 6月27日、大阪サンケイホールで「BOMBER」のスマッシュ・ヒット以来、初の大阪公演を行う。客席がそれまでの客層とは明らかに異なる人々で埋め尽くされ、大盛況に終わり、その後の音楽活動のターニング・ポイントとなる。
  • 8月5日、山下プロデュースによるアン・ルイスのアルバム『PINK PUSSYCAT』リリース。後にアルバム『POCKET MUSIC』でセルフカバーする「シャンプー」を収録。
  • 9月1日、コンサート・ツアー『FLYING TOUR '79 PART-2』スタート。全6公演。
  • 10月21日、担当ディレクター小杉理宇造がRVC内に設立した独立レーベル“AIR”にプロデューサー兼ミュージシャンとして参加[注 10]、その第一弾としてアルバム『MOONGLOW』とシングル「永遠のFULL MOON」を同日リリース。アルバム・セールスの現場を知るため、地方のラジオ局や有線放送回り、大手販売店との販促会議やディーラーコンベンションへの参加など、積極的なプロモート活動を行った。
  • 12月20日、山下作・編曲、プロデュースによるアン・ルイスのシングル「恋のブギ・ウギ・トレイン」リリース。
  • 12月26日、コンサート・ツアー『FLYING TOUR '79 PART-3』スタート。全4公演。
1980年(昭和55年)
  • 1月14日、コンサート・ツアー『CONCERT '80』スタート。全5公演。
  • 3月19日、コンサート・ツアー『RIDE ON TIME CONCERT '80』スタート。全15公演。
  • 3月21日、79年夏にプロモート用で制作されたLPが評判となり、『COME ALONG』のタイトルでリリース(カセットのみ)。DJ入りコンピレーション・アルバムの先駆けとなる作品。
  • 5月1日、シングル「RIDE ON TIME」リリース。自らも出演したmaxellカセットテープのCMソングとして初のトップ10ヒットを記録する。
  • 5月21日、山下プロデュースによる、水口晴幸『BLACK or WHITE』リリース。COOLS ROCKABILLY CLUBから独立後、初のソロ・アルバム。
  • 7月27日、『80's JAM OVER JAPAN』(西武球場)に出演。
  • 8月2日、神奈川県の葉山マリーナ・エメラルドプールで『RIDE ON TIME CONCERT in HAYAMA』開催。この年の冷夏の影響を受け、寒さと豪雨という最悪のコンディションの中、約4時間決行されたため、山下にとって最も印象深いコンサートの一つになっている。
  • 9月17日、コンサート・ツアー『RIDE ON TIME CONCERT '80-'81』スタート。全38公演。
  • 9月19日、アルバム『RIDE ON TIME』リリース。アルバム・チャート1位を記録、ソロ・デビュー4年目にしてブレイクを果たす。初回盤はCM撮影時のスチール写真に、マクセルのロゴマークと「いい音しか残れない」のコピーが印刷された被せ帯付仕様。
  • 10月21日、アルバム『RIDE ON TIME』の収録曲「MY SUGAR BABE」が日本テレビ系ドラマ『警視-K』主題歌に使用され、リカット・シングルとしてリリース。楽曲を気に入った番組プロデューサー兼主演の勝新太郎が山下に電話で直接交渉し、ほぼ強引に使用を決めた。後に行われた番組の制作発表会見では他の出演者と共に同席させられ、後日の芸能紙やスポーツ新聞には、会見で憮然とした表情の山下の写真が掲載された。
  • 12月5日、一人ア・カペラ・アルバム『ON THE STREET CORNER』を10万枚限定でリリース。一人多重録音のア・カペラによるドゥーワップ作品。これ以降、山下の一人ア・カペラはその認知度を増していく。
  • 12月31日、前年10月リリースのアルバム『MOONGLOW』が第22回日本レコード大賞のベストアルバム賞を受賞。受賞に際して当時のスタッフから「自分は地方出身者で、自分の担当する歌い手が受賞する姿を家族に見せてやりたい」と懇願され、断り切れずに出席、壇上で表彰楯を受け取る姿がTVで放送された[12]
1981年(昭和56年)
  • 3月13日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE '81』スタート。全27公演。
  • 3月17日、初の自社スタジオ「スマイルガレージ」がオープン。港区芝浦にある倉庫(横浜倉庫株式会社芝浦事業所)を一部改装したもので、その後の流行の一つとなるガレージ・スタジオとしては草分け的な存在。ただし、改修に時間を要したこともあり、自身の作品では1986年のアルバム『POCKET MUSIC』から。
  • 9月7日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE '81-'82』スタート。全17公演。
1982年(昭和57年)
  • 1月21日、前年「サントリービール純生」のCMソングとして制作された「LOVELAND, ISLAND」のフル・バージョンを収録のアルバム『FOR YOU』リリース。この当時、雑誌「FM STATION」の表紙イラストなどで注目され始めていたイラストレーター鈴木英人を自ら交渉の上、逸早くジャケット・デザインに起用したことや、ウォークマンの普及による積極的なアウトドア志向に合致する音楽として広く一般に受け入れられたことから大ヒット。山下の代表作の一つとなった。
  • 4月5日、シングル「あまく危険な香り」(TBS金曜ドラマあまく危険な香り』主題歌)リリース。
  • 4月6日、竹内まりやと結婚。竹内には楽曲提供だけでなく、同じRVC所属シンガーのレコーディングにコーラスとして揃って駆り出されるなど、関わる機会が多くなる中で懇意となり、既に結婚のおよそ2年前から山下のマンションで同棲生活を送っていた[16]
  • 4月10日、TBSラジオ『サウンズウィズコーク』レギュラー開始(1983年4月2日まで)。
  • 6月21日、山下作詞、作・編曲、プロデュースによるフランク永井のシングル「WOMAN」リリース。山下自らプロデュースに名乗りを上げ、当初シングル3枚を任される予定だったが、予算の関係で1枚のみとなった。その後のヒット(最高33位)と反響の大きさに気を良くしたビクターから再度オファーがあったものの、ライブで多忙を極める山下のスケジュールが障害となり、幻に終わった。
  • 6月30日、松本隆作詞、山下作・編曲による近藤真彦の7枚目のシングル「ハイティーン・ブギ」リリース。カップリングの「Momoko」も松本作詞、山下作・編曲作品。近藤主演の同名映画の主題歌。近藤もディレクター小杉の担当するシンガーの一人だった。この当時の山下はアイドル歌手への楽曲提供に積極的ではなかったが、手がける事が決まると、近藤の楽曲を全て聴き込み、声質や歌い方、音程がフラつかずに歌いやすい音域やキー、曲構成を研究し尽くし、ノート3冊分に及ぶ資料を作り上げて制作に臨んだ。
  • 7月21日、初のベスト・アルバム『GREATEST HITS! OF TATSURO YAMASHITA』リリース。RVC最後の作品。
  • 秋、RVCとの契約を解消。小杉がRVCから独立、村井邦彦梁瀬次郎の資金援助の下に設立したレコード会社、アルファ・ムーンに役員兼ミュージシャンとして移籍。
  • 11月2日、コンサート・ツアー『Sparkling '82-'83』スタート。全18公演。
1983年(昭和58年)
  • 4月7日、NHK-FMサウンド・ストリート』木曜日のレギュラー開始(1986年3月20日まで)。
  • 4月23日、ムーン・レコード移籍第一弾シングル「高気圧ガール」(全日空沖縄イメージソング)リリース。
  • 5月21日、山下プロデュースによる村田和人のアルバム『ひとかけらの夏』リリース。
  • 6月8日、移籍後初となるオリジナル・アルバム『MELODIES』リリース。作詞も自ら手掛けるようになる。
  • 9月28日、シングル「スプリンクラー」リリース。同日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE '83-'84』スタート。全38公演。
  • 12月14日、シングル「クリスマス・イブ」を12インチの限定ピクチャー・ディスクでリリース。
1984年(昭和59年)
  • 4月、小杉が所属事務所社長に就任。これを受けて社名を「ワイルド・ハニー」から、それまで系列出版社名として使用していた「スマイルカンパニー」に変更。同時に出版社名を「スマイル音楽出版」とし、企業グループ名を「スマイルグループ」に統一する。社名の「スマイル」はビーチ・ボーイズ1967年の未発表アルバム『スマイル』から。これ以降ワイルド・ハニーの名称はオフィシャルファンクラブ設立後、通信販売CDのプライベート・レーベル名として使用されている。
  • 5月、小杉が「スマイル音楽出版」の社長も兼務となり、スマイルグループ代表に就任。同時期、小杉の勧めでスマイル音楽出版とは別に、山下は自身の楽曲の著作権管理等を目的とした個人事務所「テンダベリーミュージック(Tenderberry Music)」を設立。竹内まりやも「有限会社ミュージック・ハーヴェスト」を設立、後に夫婦共同の事務所として「テンダベリー & ハーヴェスト」に改称[注 11][17]。名前はローラ・ニーロのアルバム『NEW YORK TENDABERRY』とニール・ヤングのアルバム『Harvest』から。
  • 4月25日、竹内まりやのムーン・レコード移籍第一弾アルバム『VARIETY』リリース。81年の活動休止から2年半、竹内が結婚前から書き溜めていた曲を聴いた山下がアルバム化を提案、全曲竹内のオリジナル曲による初のアルバム。この復帰作で、アルバム・チャート1位を記録。以後、竹内の楽曲アレンジとプロデュースを手がける。
  • 5月25日、シングル「THE THEME FROM BIG WAVE」(日本ヘラルド配給映画「ビッグウェイブ」テーマソング)リリース。
  • 6月20日、アルバム『BIG WAVE』リリース。ビーチ・ボーイズのカバーを含む全曲英語詞による、同名映画のサウンドトラック
  • この年、長女が誕生。
  • 12月10日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE '84-'85』スタート。全30公演。
1985年(昭和60年)
1986年(昭和61年)
  • 4月23日、初の打ち込みによる楽曲制作とデジタル・レコーディング導入によるオリジナル・アルバム『POCKET MUSIC』リリース。
  • 5月13日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE '86』スタート。全36公演。
  • 10月25日、1980年リリースのアルバム『ON THE STREET CORNER』を全曲リミックス、86年版として『ON THE STREET CORNER 1』リリース。
  • 11月28日、1983年に12インチ・シングルとして限定リリースされた「クリスマス・イブ」を7インチEPとして再リリース。
  • 12月10日、前作から6年ぶりの一人ア・カペラ・アルバム『ON THE STREET CORNER 2』リリース。
1987年(昭和62年)
  • 5月10日、シングル「踊ろよ、フィッシュ」(全日空沖縄キャンペーン・イメージソング)リリース。
  • 8月12日、竹内まりやのアルバム『REQUEST』リリース。アルバム・チャート1位のほか、3年連続チャート・インを記録。
  • 10月4-11日、六本木PIT INNで開業10周年を記念して行われた村上秀一と日替わりメンバーによるライブ『ROPPONGI PIT INN 10th Anniversary PONTA WEEK SUPER SHOCK '87 PONTA SPECIAL SESSION』の第7日目、10月10日にゲスト出演[20][21]
1988年(昭和63年)
  • 4月21日、全10曲中、山下プロデュース作3曲を収録した鈴木雅之のセカンド・アルバム『Radio Days』リリース。
  • 4月25日、シングル「GET BACK IN LOVE」(TBS系ドラマ『海岸物語 昔みたいに…』主題歌)リリース。
  • 5月21日、作曲・プロデュースを手掛けたア・カペラ・グループ「14カラット・ソウル」のシングル「THE GIRL IN WHITE」リリース。後にアルバム『僕の中の少年』にてセルフカバー。
  • 7月21日、鈴木雅之『Radio Days』からのリカット・シングル「Guilty」リリース。
  • 10月19日、アルバム『僕の中の少年』リリース。
  • 12月、JR東海のクリスマス・キャンペーンCMソングに「クリスマス・イブ」が使われヒット。以後、日本のクリスマス・ソングのスタンダード・ナンバーの一曲となる。
  • 12月9日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE '88-'89』スタート。全39公演。
1989年(平成元年)
  • 3月10日、『僕の中の少年』からのリカット・シングル「新(ネオ)・東京ラプソディー」リリース。
  • 9月25日、シングル「おやすみロージー -Angel Babyへのオマージュ-」リリース。
  • 11月1日、80年代のホールツアーの記録を集大成したライヴ・アルバム『JOY –TATSURO YAMASHITA LIVE–』リリース。
  • 12月、「クリスマス・イブ」が、JR東海のクリスマスCMに再度使用される。
  • 12月25日、「クリスマス・イブ」が、オリコン・シングルチャートでランクインから30週かけて1位を獲得。以後4週連続で1位を記録。
1990年(平成2年)
  • 4月1日、JFN系『プレミア3』毎月第1・3週目レギュラー開始(1992年1月26日まで)。
  • 4月25日、シングル「Endless Game」(TBS系金曜ドラマ『誘惑』主題歌)リリース。
1991年(平成3年)
1992年(平成4年)
  • 2月25日、リカット・シングル「アトムの子」(キリンゴールデンビターCMソング)リリース。カップリングには「BLOW」(TBS系TV『アメリカズ カップ'92』テーマソング)を収録。
  • 10月3日、JFN系『サタデー・ソングブック』(毎週土曜15:00-15:54)開始(1994年3月26日まで)。
  • 10月22日、竹内まりやのアルバム『Quiet Life』リリース。オリコン・アルバムチャートで1位を記録。
1993年(平成5年)
  • 6月8日、シングル「MAGIC TOUCH」(maxell CD-XL イメージ・ソング)リリース。
  • 6月14日、TBS系テレビ『ビッグモーニング』のテーマ曲として「鳴かないでHERON」オンエア開始。
  • 10月25日、シングル「ジャングル・スウィング」(日産SKYLINEイメージ・ソング)リリース。
  • 11月18日、一人ア・カペラとフル・オーケストラで構成されたクリスマス・シーズン向けの企画アルバム『SEASON'S GREETINGS』リリース。
  • 12月、「クリスマス・イブ」が、TBCクリスマス編CMに使用される。
  • 12月11日、TBSラジオの番組『赤坂ライブ』の「150回記念スペシャル」としてTBSホールで開催された『山下達郎 〜クリスマスイブ・スペシャルミニライブ〜』に出演[22]
1994年(平成6年)
  • 1月25日、シングル「パレード」(フジテレビ系『ポンキッキーズ』エンディングテーマ)リリース。
  • 4月3日、『サタデー・ソングブック』が『サンデー・ソングブック』として毎週日曜14:00〜に移行。
  • 4月10日、シュガー・ベイブのアルバム『SONGS』をオリジナル・マスターで初CD化。オリコン・アルバムチャートで3位を記録。
  • 4月26、27日・5月1、2日、ソロデビュー以前のレパートリーのみで構成されたコンサート『山下達郎 sings SUGAR BABE』を開催(中野サンプラザ)。
  • 湾岸地区の再開発による倉庫ビルの取り壊しが決まり、スマイルガレージが閉鎖。その後新たな自社スタジオがオープンするまで、デジタル・レコーディングに関して納得のいくスタジオ環境が確保できなかった事も活動が一時停滞した一因となった。この期間のことを自ら「空白の三年間」と語っている。
  • 11月14日、NHKドラマ新銀河赤ちゃんが来た』主題歌として「LAI-LA -邂逅-」オンエア開始。
  • 12月、「クリスマス・イブ」が、TBCクリスマス編CMに再度使用される。
1995年(平成7年)
  • 1月、「SOUTHBOUND #9」が、日産スカイラインのCMに使用される。
  • 11月1日、シングル「世界の果てまで」(読売テレビ日本テレビ系連続ドラマ『ベストフレンド』主題歌)リリース。
  • 11月13日、ムーン・レーベル移籍後初のベスト・アルバムTREASURES』リリース。ミリオン・セラーとなる。
  • 11月26日、『サンデー・ソングブック』3周年を記念したアコースティック・ミニライブを開催(TOKYO FMホール)。
1996年(平成8年)
1997年(平成9年)
  • 3月26日、渋谷ON AIR WESTで行われた、村上秀一率いる「PONTA BOX」のライブにゲスト出演[24]
  • 6月4日、1982年リリースのベスト・アルバム『GREATEST HITS! OF TATSURO YAMASHITA』をボーナス・トラック付き、デジタルリマスター盤にて再リリース。1990年のCD化で内容が一方的に改変されたことを巡り、前所属先のBMGビクターとの訴訟問題にまで発展したが1995年に和解が成立。これを機に、山下自身の監修によるRCA ⁄ AIR時代のカタログのリマスター作業が始まる。
  • 7月21日、松本隆作詞、山下作・編曲、プロデュースによるKinKi Kidsのデビュー・シングル「硝子の少年」リリース。初登場1位、シングルチャート100位以内に31週間ランクインされるロングヒットとなる。1995年からこの年にかけて様々な要因が重なり自身の音楽活動が停滞。引退も考えていたところ、小杉からジャニーズ事務所の新人デュオKinKi Kidsのデビュー作の作曲を持ちかけられる。ジャニーズ側からの「オリコンチャート初登場1位」「ミリオンセールス」という二つの至上命令をともに達成、停滞期から抜け出すきっかけとなった。
  • この年、ワーナー本体に外部からエグゼクティブが大挙して入ったことでイーストウエスト・ジャパンの組織も大きく変わり、山下はムーン・レコード設立時から就いていた役員の職を解かれ、1ミュージシャンに戻った[25][注 12]
  • 12月、「ひととき」がJACCSカードのCMに使用される。
1998年(平成10年)
  • 1月28日、シングル「ヘロン」(キリン ラガービールCFソング)リリース。
  • 2月26日、九州朝日放送の元ディレクター岸川均定年退職を記念して、2月26日〜3月1日の4日間にわたり福岡サンパレスで行われた『伝説ライブ』の初日“MIRACLE NIGHT”に出演(共演:スターダスト・レビュー浜田省吾[26]。『sings SUGAR BABE』から3年10か月ぶりにライブを行う。
  • 4月22日、松本隆作詞、山下作曲によるKinKi Kids、3作目のシングル「ジェットコースター・ロマンス」リリース。アルバム・レコーディングで多忙のため、編曲は船山基紀が担当。山下は、自身のデモ・テープと全く違うアレンジにとても驚いたという。
  • 4月29日、シングル「いつか晴れた日に」(TBS系ドラマ『先生知らないの?』主題歌)リリース。
  • 8月18、19日、に赤坂BLITZで行われた加山雄三ザ・ベンチャーズ2代目ギタリストノーキー・エドワーズとのジョイント・ライブ『永遠のギター・キッズ 加山雄三withノーキー・エドワーズ』で、2日目の19日にゲスト出演。加山とのツイン・ギター&ボーカルで、加山の曲「BOOMERANG BABY」と「美しいヴィーナス」を披露[27]
  • 8月26日、前作から7年ぶりとなるオリジナル・アルバム『COZY』リリース。オリジナル・アルバムとしては初のミリオンセラーとなる。
  • 10月8日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE '98-'99』スタート。全48公演。
  • 10月25日、アルバム『COZY』2枚組アナログLP盤リリース。
  • 12月28日、松本隆作詞、山下作・編曲、プロデュースによるKinKi Kids、5作目のシングル「Happy Happy Greeting」リリース。
1999年(平成11年)
2000年(平成12年)
  • 1月26日、1980年リリースの『ON THE STREET CORNER 1』と、1986年リリースの『ON THE STREET CORNER 2』に、ボーナス・トラックをそれぞれ2曲追加、デジタルリマスター盤にて再リリース。
  • 1月30日、新星堂主催によるインストア・ストリート・ライブを高田馬場ESPホールで行う。
  • 7月12日、シングル「JUVENILEのテーマ〜瞳の中のRAINBOW〜」(映画『ジュブナイル』主題歌)リリース。
  • 7月11、12・31日、日本武道館大阪城ホールで開催された『TOKYO-FM & FM OSAKA開局30周年記念イベント』(共演:cannaSing Like Talking)に出演した竹内まりやのバンド・マスター(ギター、コーラス、パーカッション、キーボード)として参加、アンコールでは夫婦でのデュエットも披露した。
  • 11月22日、竹内まりや18年7か月ぶりのライヴを収録した初のライヴ・アルバム『SOUVENIR』リリース。
  • 同日、「クリスマス・イブ」をマキシ・シングルでリリース。英語版と、初CD化となるオリジナル・カラオケを収録。8年ぶりに復活したJR東海「クリスマス・エクスプレス2000」のキャンペーンCMソングとして使用される。
2001年(平成13年)
  • 4月、「SO MUCH IN LOVE」がアサヒ スーパーモルトのCMに使用される。
  • 6月27日、シングル「君の声に恋してる」(NTTコミュニケーションズ CMソング)リリース。
  • 11月21日、渋谷 ON AIR EASTで行われた『難波弘之プロ・デビュー25周年記念ライブ "Thanks to Singers"』にゲスト出演[28]
  • 12月18日、銀座王子ホールで行われた“ギンザめざましクラシックス Vol.18 〜銀座4丁目の奇跡2001 あなたに贈る最高のクリスマス〜 Produced by ちさ子 & 軽部”にスペシャル・サプライズ・ゲストとして出演[29]
2002年(平成14年)
  • 1月23日、「LOVELAND, ISLAND」がフジテレビ系ドラマ『ロング・ラブレター〜漂流教室〜』の主題歌に採用、RCA ⁄ AIR時代の旧譜カタログ再発のプロモートも兼ねてシングル・カット。カップリングには同じく『FOR YOU』から「YOUR EYES」が収録された。
  • 2月14日、BMG JAPANよりRCA ⁄ AIR時代のアルバム7タイトルが初の本人監修によるデジタルリマスター、ボーナス・トラック付きで再発。同月25日付のオリコンアルバムチャートでは7タイトルすべてがトップ30以内にランクイン、発売から2年を経過したアルバムが対象のカタログチャートでは2位から8位を独占した。RCA ⁄ AIR時代のカタログは、アルファ・ムーン移籍後の1984年以降にCD化されたため、契約上の問題から1995年の和解成立まで、本人が関われなかった。
  • 3月2日、RCA ⁄ AIR時代のアルバム・リイシューにあわせ、この時代の曲のみで構成されたコンサート・ツアー『PERFORMANCE 2002 RCA ⁄ AIR YEARS SPECIAL』スタート。全33公演。追加公演の5月25、26日には初の沖縄公演を実施。
  • この年、 株式会社イーストウエスト・ジャパン、株式会社ワーナーミュージック・ジャパン、タイム ワーナー エンターテイメント ジャパン株式会社の3社が合併し、ワーナー エンターテイメント ジャパン株式会社となり、ムーン・レコード(Moon Records)は同社のレーベルとして残ることとなった。
  • 10月30日、アルバム未収録のシングルや未発表音源をまとめたベスト・アルバム『RARITIES』リリース。
2003年(平成15年)
2004年(平成16年)
2005年(平成17年)
  • 1月19日、シングル「FOREVER MINE」(東宝映画『東京タワー』主題歌)リリース。カップリングには「MIDAS TOUCH」(フジテレビ系『金曜エンタテイメント』オープニングテーマ)を収録。
  • 4月27日、シングル「太陽のえくぼ」(フジテレビ系『めざましテレビ』テーマソング)リリース。
  • 9月14日、レコーディングにPro Toolsを導入した7年ぶりのオリジナル・アルバム『SONORITE』リリース。
  • 10月11日、竹内まりや作詞、山下作曲によるタイトル曲収録の森光子「月夜のタンゴ」(舞台『ツキコの月 そして、タンゴ』主題歌)リリース。森にとって10年ぶりの新曲となったが、10月17日付のオリコンチャートで初登場45位でチャートイン。歌手デビュー64年で初のチャートインは史上最長期間記録。85歳5か月での初登場トップ50入りも最年長記録で、ダブルの快挙となった[注 13]
  • 10月26日、アルバム『SONORITE』からのリカット・シングル白いアンブレラ ⁄ ラッキー・ガールに花束を」(HONDA LIFE CMソング / HONDA LIFE DIVA CMソング)リリース。
  • 12月7日、シュガー・ベイブのアルバム『SONGS』が大瀧詠一自らのリマスタリングの下、新たなボーナス・トラックを加えた30周年記念盤『SONGS “30th Anniversary Edition”』としてリリース。
2006年(平成18年)
  • 3月21日、山下・伊藤銀次・大滝詠一によるオムニバス・アルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』の30周年記念盤が大瀧自身のリマスタリングで『NIAGARA TRIANGLE Vol.1 “30th Anniversary Edition”』としてリリース。
2007年(平成19年)
  • 4月6日、 銀婚式桑田佳祐原由子夫妻と合同で行う。
  • 5月23日、山下との共同プロデュースによる竹内まりやのアルバム『Denim』リリース。
2008年(平成20年)
  • 3月12日、シングル「ずっと一緒さ」(フジテレビ系ドラマ『薔薇のない花屋』主題歌)リリース。カップリングには「バラ色の人生〜ラヴィアンローズ」(TBS系『ブロードキャスター』テーマソング)と「ANGEL OF THE LIGHT」(Nikon 企業CMソング)を収録。
  • 5月5日〜6日に東京・浜離宮朝日ホール、10日に大阪厚生年金会館芸術ホール(現・オリックス劇場)で、「ずっと一緒さ」封入ハガキ当選者と「サンデー・ソングブック」リスナー当選者を対象に、同曲の発売記念と「サンデー・ソングブック」800回記念を兼ねた『TATSURO YAMASHITA ACOUSTIC MINI LIVE』を開催[30]
  • 10月1日、山下のプロデュースによる竹内まりやのオールタイム・ベスト・アルバム『Expressions』リリース。
  • 10月30日、渋谷CLUB QUATTROで行われた『センチメンタル・シティ・ロマンス35周年記念LIVE』で、シークレット・ゲストである竹内まりやの“サポートギタリスト”として出演。竹内が歌う「人生の扉」のバックを務めた[31]
  • 12月5日、6年ぶり(通常のツアーとしては10年ぶり)のコンサート・ツアー『PERFORMANCE 2008-2009』スタート。全50公演。活動のスタンスをライブ活動中心に戻すべくバンド・メンバーを再編。このツアーでは、同年末で建て替えのために閉鎖される大阪フェスティバルホールにて、ポップス歌手では最後のライブを行った[注 14]
2009年(平成21年)
  • 3月21日、1980年に山下非公認としてリリースされた編集盤『TATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA』がタイトルを『TATSURO from NIAGARA』と改め、ナイアガラ公認盤としてリリース。
  • 8月19日、シングル「僕らの夏の夢」(劇場版アニメーション『サマーウォーズ』主題歌)リリース。カップリングには「ミューズ」(TBS系テレビ全国ネット『総力報道!THE NEWS』テーマ曲)を収録。
  • 11月27日、文京シビックホールで行われた服部克久50周年記念アルバム(『服部克久』[32]『服部克久の世界 〜works』[33])の発売を記念したコンサート、"服部克久 THE CONCERT 〜50th Anniversary〜"にシークレット・ゲストとして出演。オーケストラをバックに「Smoke Gets In Your Eyes(煙が目にしみる)」、「Forever Mine」、「クリスマス・イブ」の3曲を披露した。
  • 12月、「クリスマス・イブ」がオリコンシングルチャートに24年連続ランクインを達成。
  • 12月25日、銀座王子ホールで行われた、“ギンザめざましクラシックス Vol.50 〜銀座4丁目の奇跡 '09 50回目の夜に何かが起こる〜”にシークレット・ゲストとして出演。「Smoke Gets In Your Eyes(煙が目にしみる)」、「Bella Notte」、「Have Yourself A Merry Little Christmas」、「クリスマス・イブ」の4曲を披露、アンコールでは司会の軽部真一、高嶋ちさ子、当日の出演者とともに「White Christmas」を歌った[34]
2010年(平成22年)
  • 4月14日、シングル「希望という名の光」(映画『てぃだかんかん〜海とサンゴと小さな奇跡〜』主題歌)リリース。カップリングには「Happy Gathering Day」(ケンタッキー40周年記念テーマソング)を収録。
  • 4月25日、シュガー・ベイブとしてアルバム『SONGS』リリースでの公式デビューから35周年を迎える。
  • 6月2日、シングル「街物語」(TBS系ドラマ 日曜劇場『新参者』主題歌)リリース。
  • 8月6日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE 2010』スタート。全39公演。
  • 8月14日、『RISING SUN ROCK FESTIVAL 2010 in EZO』(石狩湾新港樽川埠頭横野外特設ステージ)に出演。野外ライブへの参加としては29年ぶり。
  • 10月30、31日、日本武道館で行われた、ワーナーミュージック・ジャパン創立40周年イベント『WARNER MUSIC JAPAN 40th. Anniversary 〜100年 MUSIC FESTIVAL〜』に出演。1日目はシークレット・ゲストとして竹内まりやと登場し、夫婦でデュエットを披露。2日目には自身の曲(「SPARKLE」、「希望という名の光」)を武道館のステージで初めて歌う[35]
  • 12月3、4・21、22日、日本武道館大阪城ホールで行われた、竹内まりやの10年ぶりのライブ「TOKYO FMFM OSAKA開局40周年記念スペシャル『Souvenir again』竹内まりや LIVE 2010[36]」にバンド・マスターとして再び参加。
2011年(平成23年)
  • 3月9日、シングル「愛してるって言えなくたって」(TBS系ドラマ 日曜劇場『冬のサクラ』主題歌)リリース。
  • 8月10日、6年ぶりのオリジナル・アルバム『Ray Of Hope』リリース。8月22日付のオリコン・アルバムチャートで8年9か月ぶりに初登場1位を獲得。松任谷由実徳永英明桑田佳祐に次いで史上4人目となる、80、90、00、10年代と4年代連続での同ランキング首位を獲得[37]
  • 8月23、25、29、31日と9月4日、6日の6日間の日程で、デビュー36周年にして初の試みとして、『Ray Of Hope』購入者のうち、シリアルナンバー当選者を対象にしたシアターイベントを全国6か所のシネコンで開催。同アルバム初回限定版に同梱されているボーナスディスク『JOY1.5』収録のライブ音源の映像ソースを編集した作品『JOY1.5 - THE MOVIE』が上映された[38][注 15]
  • 11月2日、アルバム『Ray Of Hope』2枚組アナログLP盤リリース。
  • 11月6日 、コンサート・ツアー『PERFORMANCE 2011-2012』スタート。全64公演。
  • 12月、「クリスマス・イブ」が、モバゲーのクリスマスCMに使用される。オリコンチャートトップ100入りを記録、連続記録を26年に更新。
  • 12月11日、『サンデー・ソングブック』が放送1000回を迎える[39]
2012年(平成24年)
  • 4月6日、結婚30周年(真珠婚)を迎える。
  • 6月22日、3月11日放送の『サンデー・ソングブック』“東日本大震災1周年 追悼と復興祈念のプログラム”が、『第38回 放送文化基金賞』(主催:公益財団法人 放送文化基金)にて、「ラジオ番組 優秀賞」(番組部門)と「出演者賞」(番組部門 個別分野)の2部門を受賞[40]。贈呈式には山下の代理としてスマイルカンパニー社長小杉理宇造が出席し、本人のメッセージを代読。この中で出演者賞の賞金(10万円)を震災復興支援のため全額、日本赤十字社へ寄付することが併せて発表された[41]
  • 8月25日、全国13か所のティ・ジョイ系シネコンで、ライブ映像による初のシアター・ライヴ『PERFORMANCE 1984-2012』(制作:ワーナーミュージック・ジャパン / スマイルカンパニー、配給:東映)を9月1日までの1週間限定で開催。ミニシアターランキング(興行通信社発表)で興行成績1位を獲得するなど予想を越える大ヒットとなり、9月2日まで開催が延長されたほか、9月15日からは渋谷TOEIで1週間の追加上映が行われた[42]
  • 9月2日、2年ぶりの野外フェス参加となる『SWEET LOVE SHOWER 2012』(山梨県・山中湖交流プラザきらら)に出演。ステージ中盤には竹内まりやがサプライズ・ゲストとして登場、2曲を披露した[43]
  • 9月26日、シュガー・ベイブ「DOWN TOWN」から新作「愛を教えて」(テレビ朝日木曜ドラマ遺留捜査』主題歌)まで、レーベルを超えて選曲された初のオールタイム・ベスト・アルバム『OPUS 〜ALL TIME BEST 1975-2012〜』リリース。
  • 10月6日、シアター・ライヴ『PERFORMANCE 1984-2012』の好評を受けて、TOHOシネマズ系、109シネマズ系を含む全国19か所のシネコンで再映(10月12日まで)。
  • 10月7日、『サンデー・ソングブック』が放送20周年を迎える[44]
  • 11月20日、『OPUS』通常盤にクリスマス・デザインの三方背ボックスで包装した、クリスマス期間限定パッケージが販売開始(12月25日まで)。
  • 12月11日、2003年リマスター盤シングルをクリスマス特別ボックス包装した、シングル「クリスマス・イブ」のクリスマス期間限定パッケージが販売開始(12月25日まで)。
2013年(平成25年)
  • 5月3、4日、大阪・フェスティバルホール主催の新装オープン記念ライヴ『山下達郎 LIVE at Festival Hall』を開催。
  • 8月27日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE 2013』スタート。全49公演。
  • 8月28日、『MELODIES』(30th Anniversary Edition)と『SEASON'S GREETINGS』(20th Anniversary Edition)リリース。2013年リマスター音源使用、ボーナス・トラック収録。ムーン・レコード期のカタログのリマスター盤リリースが開始される。
  • 10月9日、シングル「光と君へのレクイエム」(映画『陽だまりの彼女[45]主題歌)リリース[46]。カップリングには「コンポジション」(NHKドラマ10第二楽章[47]主題歌)を収録。
  • 11月20日、『MELODIES』(30th Anniversary Edition)と『SEASON'S GREETINGS』(20th Anniversary Edition)のアナログ盤、「クリスマス・イブ」(30th Anniversary Edition)リリース[注 16]
  • 12月2日、同日付のオリコン週間シングルランキングで「クリスマス・イブ」(30th Anniversary Edition)が初登場10位を獲得。同曲のトップ10入りは、2001年1月以来12年11か月ぶり。1980年代から2010年代までの4年代でのトップ10入りは史上初[48]
  • 12月31日、前日30日に急死した大瀧詠一への追悼コメントを自身のオフィシャルサイトで発表[49]
2014年(平成26年)
  • 7月23日、『BIG WAVE』(30th Anniversary Edition)リリース。
  • 7月25日、コンサート・ツアー『Maniac Tour 〜PERFORMANCE 2014〜』スタート。全29公演。
  • 8月16日、『RISING SUN ROCK FESTIVAL 2014 in EZO』(石狩湾新港樽川ふ頭横野外特設ステージ)に4年ぶり2度目の出演[50]
  • 8月20日、『BIG WAVE』(30th Anniversary Edition)のアナログ盤リリース。
  • 8月30日、『SWEET LOVE SHOWER 2014』(山梨県・山中湖交流プラザきらら)に出演[51][52]
  • 9月10日、山下との共同プロデュースによる竹内まりやの11枚目のスタジオ・アルバム『TRAD』リリース。
  • 9月17日、11月22日公開の映画『MIRACLE デビクロくんの恋と魔法[53][注 17]で音楽監督を担当、『BIG WAVE』以来30年ぶりに映像作品の音楽監修を務めることになった[54]
  • 10月10日、名古屋市のライブハウス、ボトムラインにて『山下達郎 LIVE at THE BOTTOM LINE』を開催予定[55]

ディスコグラフィー[編集]

作品については山下達郎の作品一覧をご覧ください。

プロモーション・ビデオ[編集]

一部の作品には山下本人も出演しているが、顔は出していない。
  • 世界の果てまで
  • DREAMING GIRL
さとう珠緒が出演、山下は冒頭の声、映像に重なるシルエット、および、ギターを演奏する姿(首から下)がオーバーラップする形で登場。
  • ヘロン
砂浜で全身青いペイントを施したダンサーが踊る映像の途中、長髪でギターを抱えた男性の後ろ姿のカットがインサートされるが、これは山下本人ではない。
  • いつか晴れた日に
  • JUVENILEのテーマ〜瞳の中のRAINBOW
  • 君の声に恋してる
  • LOVELAND, ISLAND
東山紀之と宮内佳奈子が出演。
  • RIDE ON TIME
  • FOREVER MINE
嶋田久作とモデルの高津飛鳥の出演によるドラマ仕立ての作品。監督は丹下紘希。「MVA06」で「BEST STORY VIDEO」部門にノミネート。
  • 太陽のえくぼ
めざましテレビ』でオンエアされたイメージ映像を山下が気に入り、趣向を少し変えイメージ映像と同じ監督によりアニメ調で制作。
  • LOVE GOES ON <その瞳は女神 (Goddess)>
ベスト・アルバム『RARITIES』のリード楽曲として制作。ジャケット画像や、モチーフとなった玩具のオブジェが次々と映し出される。
  • 僕らの夏の夢
主題歌となったアニメーション映画『サマーウォーズ』のイメージに沿った、アニメ調のプロモーション・ビデオ。
  • 希望という名の光
主題歌となった映画『てぃだかんかん〜海とサンゴと小さな奇跡〜』主演の岡村隆史が出演。
  • 街物語
初音映莉子が出演。主題歌となったテレビドラマ『日曜劇場 新参者』(TBS)の舞台となった日本橋界隈の街並みが映し出される。
  • 光と君へのレクイエム
主題歌となった映画『陽だまりの彼女』のスピンオフ作品として、主人公である奥田浩介(松本潤)と渡来真緒(上野樹里)、2人の中学生時代の“ある夏の日の想い出”をコンセプトに、同映画を手掛けた三木孝浩が監督を務めた。キャストは同映画で主人公の中学生時代を演じた北村匠海葵わかなの2人で撮影された。MVには新たに撮ったシーンと映画のシーンをクロスオーバーさせた3パターンがある[56]
  • シンクロニシティ(素敵な偶然)⁄ 竹内まりや
センチメンタル・シティ・ロマンス(告井延隆、細井豊、中野督夫)、野口明彦(ds)、伊藤広規(B)、と共にアコースティック・ギターを弾く演奏者の一人として出演。ロング・ショットやパン、物陰越しで姿は確認できるが、顔は目深に被った帽子越しに一部が確認できる程度[57]

コンサート[編集]

出演ラジオ番組[編集]

『サタデー・ソングブック』(1992年10月3日-1994年3月26日、毎週土曜15:00-15:55)として放送開始。1994年4月3日放送分より現在の放送枠へ移動し、『サンデー・ソングブック』として再スタート。山下が自身の個人コレクション音源を使って放送しているオールディーズ専門番組。「カルトな番組」「オタクな番組」と自ら公言するものの、2011年12月に放送1000回、2012年10月には放送20周年を迎え、既にTOKYO FMでも長寿番組となっている。
オールディーズ中心ではあるが、自身や竹内まりやの曲、日本のポップス歌謡曲なども放送される。通常のリクエストに加え、シンガーやミュージシャン、ソングライターの特集(バリー・マン & シンシア・ワイルリーバー & ストーラーキャロル・キング & ジェリー・ゴフィンなど)が不定期に組まれる。
8月と12月の第3、4週(例外あり)に竹内まりやを迎えての「納涼夫婦放談」「年忘れ夫婦放談」以外はゲストを呼ばず、山下1人で番組進行を行っている。2011年までは毎年1月第1、2週に大瀧詠一を迎えての「新春放談」が恒例となっていたが2012年は休止となり、同年12月23日、自身のオフィシャル・サイトで正式に終了が発表された。
オープニング曲の「ONLY WITH YOU」は、アルバム『BIG WAVE』収録曲のインスト・ヴァージョン。元々は『サウンドストリート』のテーマ曲として使われ、その後『サタデー・ソングブック』時代を含めて継続使用されている。

過去[編集]

1~3月は水曜2部、4~9月は月曜2部をそれぞれ担当。ビーチ・ボーイズのアルバムを全曲オンエアするなど、自身のレコード・マニア的趣味を押し出した選曲で一部のリスナーから支持されたものの聴取率獲得にはつながらず、「10曲中8曲は誰でも知っている曲をかけなければダメ」というプロデューサーからの要求にも抵抗し続けたが、9か月で終了となった。3月27日のみ金曜1部に出張出演している。
1977年から1990年代初頭にかけ、東京放送(TBSラジオ)と日本コカ・コーラの主催で開かれていたアマチュアのバンド・歌手のコンテスト「フレッシュサウンズコンテスト」(フレコン)と連動した番組で[注 18]、レギュラー番組で唯一、女性(第2回優勝者のシンガーソングライター石橋和子)と2人で1年間パーソナリティーを務めた。「第6回全国大会」(1982年8月25日 中野サンプラザ)ではゲストとして出演している。この番組のために制作されたインストゥルメンタルのオリジナル・テーマ曲が、後に本人による詞で「悲しみのJODY(She Was Crying)」としてアルバム『MELODIES』(1983年)に、またアラン・オデイによる英語詞で「JODY」としてアルバム『BIG WAVE』(1984年)にそれぞれ収録された。
木曜日のレギュラー。オープニング・テーマにはビーチ・ボーイズ「Pet Sounds」、「ノスタルジア・オブ・アイランド〜パート1 : バード・ウィンド」、「高気圧ガール」(イントロのパーカッションなし)、「夜翔 (Night-Fly)」等が使用されたが、後に前述の「ONLY WITH YOU (Instrumental)」に変更された。オールディーズ中心の番組構成だったが、ブラックミュージックの新譜特集も行っていた。
坂本龍一氷室京介と週替わりでパーソナリティーを務め、山下は第1、3週を担当した。オープニングおよびエンディング・テーマは、後にアルバム『ARTISAN』に収録された「GROOVIN'」。オープニング・コーナーはロックン・ロール版“今日は何の日”の「DAY BY DAY」(コーナーテーマはフォー・フレッシュメンDay by Day」)で、このコーナーはそのまま『サタデー・ソングブック』まで続けられた。

その他[編集]

出演テレビ番組[編集]

  • テレビ神奈川『ヤング・インパルス』(1975年7月13日) - シュガー・ベイブ唯一のテレビ出演。
  • TBS第22回日本レコード大賞』(1980年12月31日) - YMO『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』、長渕剛『逆流』(当日欠席)とともに、『MOONGLOW』でこの年のベストアルバム賞を受賞、壇上で表彰を受けた。
  • TBS『ザ・ベストテン』(第537回:1988年6月23日) - 「GET BACK IN LOVE」で10位にランクイン。出演はなく、山下からの手紙が番組中に紹介された。
  • TBS『第33回日本レコード大賞』(1991年12月31日) - 『ARTISAN』がアルバム大賞(ポップス・ロック部門)を受賞。受賞の喜びを、生放送中に本人が電話でコメント。また、この頃実験的に制作していた「さよなら夏の日」のプロモーション・ビデオ的映像を放映。
  • TBS『クリスマスの約束』(2001年12月25日) - 小田和正から番組での共演を手紙でオファーされ、その思いに共感を示しながらも、元々テレビ出演をしないスタンスのため辞退。小田からの手紙に対する返信の手紙が小田本人から紹介され、この中で若い頃「犬猿の仲」とされていた時代のエピソードを明かし、観客の笑いを誘う一方で、オフコースへの対抗意識から作った「クリスマス・イブ」を取り上げてくれた事への感謝を述べている。手紙紹介の後、小田は「クリスマス・イブ」のカバーを披露した。
  • NHKSONGS
    • 竹内まりや(第1回:2007年4月11日) - コメントで出演(音声のみ)。
    • 竹内まりや 〜SONGS 1周年スペシャル〜(第42回:2008年4月2日) - 竹内の武道館ライブの一部が放送され、バックで演奏している山下の姿が映った(顔は極力映らないように編集され、演奏中の表情は分からない)。
    • 歌にこめた祈り(第172回:2011年4月6日) - 東日本大震災を受け、番組が視聴者に聴いてもらいたい歌として、「希望という名の光」のプロモーション・ビデオがメッセージと共に放送された(音声と写真)。
  • NHK『手塚治虫 漫画 音楽 そして人生』(2009年1月30日) - 自作曲「アトムの子」に関するコメントで出演(音声のみ)。
  • 日本テレビOha!4 NEWS LIVE』、『ZIP!』(2012年8月22日) - シアター・ライヴ『PERFORMANCE 1984-2012』公開に先立ち、映像を一部放映。また『ZIP!』にはインタビューで出演(音声と静止画)。
  • フジテレビ『めざましテレビ』(2012年9月28日) - 26日発売の『OPUS 〜ALL TIME BEST 1975-2012〜』プロモーションの一環として、インタビュー出演(音声のみ)。
  • TBS『いっぷく!』(2014年3月31日) - 放送初回に激励メッセージを送っている(音声のみ)[58]

エピソード[編集]

  • 「本を出さない、アリーナで公演をしない、テレビに出ない」ことを公言している。ただし、『ON THE STREET CORNER』以降、自身のアルバムや、ビーチ・ボーイズなど自身と関わりの深いアルバムでは、ライナーノーツを手掛けている。他に、雑誌『レコード・コレクターズ』の「私の収穫」にもコレクターの一人として登場している。また、日本武道館以上の規模の会場での公演を行わないことについては、音響効果に疑問を持っていることと、末席からオペラグラスで見るようになるのは観客に失礼だからという。2010年10月31日のワーナーミュージック・ジャパン創立40周年記念イベント「WARNER MUSIC JAPAN 40th. Anniversary 〜100年MUSIC FESTIVAL〜」で初めて武道館のステージに立ったが、後日自身のラジオで「この間、生まれて初めて武道館の真ん中で自分の歌を、生まれて初めて歌いましたが、武道館は“最近はもう小さいよ”とか“音が良くなった”とか、事実そうなんですけど。でも、私、どうもパイプ椅子というのが、どうしてもダメなんですよね。あとは、武道館のスタンドのプラスチックの無機質性というか。あそこで、3時間半やったら、ほんとに疲れます。お客さんが。だから、やっぱりダメかなって、思いました」[59]と語っている。一方、大阪フェスティバルホールには思い入れが強く、旧ホールの建て替え計画が発表された際には「ここを壊すのはカーネギーホールオペラ座を壊すのと同じこと。愚行です」と話していた。そのため閉鎖期限の2008年12月には17、18・27、28日の計4日間、同会場でライブを行っている[注 19]。東京では中野サンプラザに加え、1999年からはNHKホールもツアー会場として使用。また、ステージでは「音の厚みやコシが違う」との理由から、マイクはコード接続型を使用している。
  • 大好物は蕎麦ラーメン湯葉の味噌汁など。なかでもラーメンは、有名店を巡ったり、コンビニで有名店監修のカップ麺をついつい衝動買いしてしまうほどだという。一方、嫌いな食べ物はナスピーマンタマネギ味噌汁鍋料理生牡蠣ゴーヤなど苦味の強い物(よってコーヒーも嫌いで、普段から紅茶緑茶よりも、はと麦茶やそば茶を飲んでいる)、甘い物(全般ではないが、コース料理でもデザートはあまり口にしない。特にチューインガムチョコレート菓子パン類は、実家が菓子屋だった影響から全く受け付けない)。基本的に間食をしないため、体重管理は比較的スムーズだと語っている。
  • オフや仕事の合間、半身浴の片手間には読書をしている。最も好きな作者は樋口一葉で、日記を含め全作品を読破している。なかでもお気に入りの作品は「にごりえ」で、数え切れない程読み返しているとのこと。以前には浅田次郎レイ・ブラッドベリの名を挙げていた時期もあり、「若いころ、本よりもレコードに金をかけていたので完全に読書コンプレックス」というが、中学で洋楽に目覚めるまでは読書少年だったこと、ドロップアウトした高校浪人時代、学校に行かない代わりにビル清掃や運送業バイトの合間、ジャズ喫茶に入り浸り様々な本を読み漁るなど、音楽やレコードに関する資料に限らず、文献から知識や情報を得ることには非常に貪欲である。その範囲は古典から海外SF作品、評伝、評論本や歴史書、哲学・思想書に至るまで幅広い。これについても「博識でも何でもなく、サブカルチャーから出てきた人間が、評論家を標榜する輩と渡り合うには何らかの理論武装が必要だったから、否応なしに知識を詰め込んだだけ」と述べる一方、ドロップアウトした高校から浪人時代に、学校では学べなかった様々なものを吸収できた、として「自分自身にとって、一生の財産になっている」とも語っている。ただ、植物や花、魚の名前に関しては覚えられないという。
  • 「例えば何処かに行って、目的地の途中で人に道を尋ねたり、デパートのフロアがわからないから受付で尋ねる、なんてことが出来ない、絶対に無理」だという。そのため初めて行く場所などは予め自分で下調べを念入りにおこなって行くようにしている。
  • 子どもの頃から漫画も大好きで、手塚治虫ファンであることを公言しており、『鉄腕アトム』はコマ割りからセリフまで覚えているという。ちょうど小学校に上がる年(1959年)の3月17日に『週刊少年マガジン』が創刊。創刊号(1959年3月25日号)から『ハリスの旋風』(ちばてつや)連載の途中まで定期購読していた。『マガジン』で印象に残っているのは『13号発進せよ』(高野よしてる)や『チャンピオン太』(原作:梶原一騎、作画:吉田竜夫)、『風の石丸』(白土三平)などで、最初に感動した作品は『ちかいの魔球』(原作:福本和也、作画:ちばてつや)だという[8]。最近のお気に入りには『けいおん!』、『もやしもん』、『のだめカンタービレ』などの作品を挙げている[60]。毎週読んでいるコミック雑誌は『ビッグコミック』、『ビッグコミックオリジナル』。人に勧められて読むことが多い。
  • 高校・浪人時代、暇さえあれば名画座などに入り浸り洋・邦問わず、映画を観ていたという。また一時は戦前・戦後問わず多くの日本映画を観ていた時期があった。現在でも暇をみつけてレイトショーなどに行っており、ツアー中も滞在先に邦画(任侠映画など)のDVDを持ち込んで観ているという。邦画で好きな映画監督小津安二郎山中貞夫で、『人情紙風船』を人生で一番の一本に挙げている。ただ黒澤明については「大監督であることは全く否定しないが、作品に漂う独特の説教臭さが自分の好みではない」という。洋画作品で若い頃好きだったのは、ジョン・フォードの『コレヒドール戦記』や、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅[8]。近年気に入った作品としては、マーティン・スコセッシの『ヒューゴの不思議な発明』とウディ・アレンの『ミッドナイト・イン・パリ』を挙げている。
  • 絵画美術についても知識や造詣があり、特にアメリカン・モダンアートポップアート印象派絵画ロマン主義絵画などは展覧会にも出かける。こうした興味や関心は、自身のシングルやアルバム・ジャケットに反映されている。
  • 芸事好きだった叔父の影響もあり子どもの頃からの落語好き。特に古今亭志ん生が当時からのお気に入りで、演目のさわりを物まねできるほどに聴きこんでいる[注 20]。そのため、今でもホール落語会などへ出かけることもあるという。実際に小学生の頃、そんな様子を見た叔父が、懇意にしていた柳家三亀松門下への入門を画策したが、父の猛反対で立ち消えになった[62][注 21]。ラジオ出演時の語りやステージ上のMCなどに、その片鱗がうかがえる。他には春風亭柳昇古今亭圓菊、現役では鈴々舎馬風三遊亭圓歌なども好んで聴いており、最近のお気に入りとしては春風亭昇太[63]柳家喬太郎を挙げ「(最近の落語家では)新作落語の人だね。古典は好きだけど、若手の古典は面白くないし、この歳になったらもう、録音で残っている(名人上手の)ものだけで十分です」とも答えている[14]。演劇や文楽などにも造詣があり、公演に出かけていくことがある。ちなみに毎年、国立文楽劇場のオリジナルカレンダーを購入している。
  • 一時は好角家としても知られていたが、近年は話題に出る事が少なくなった。ただ、子どもの頃から相撲やプロレスはテレビ観戦で慣れ親しんでいたため、現在でも好んでいる。ベスト・アルバムOPUS』のマスタリングが一段落した合間を縫って、8月10日両国国技館で開催された「WWE Presents スマックダウン・ワールドツアー2012日本公演」を観に行った[64]
  • 1980年代後半頃には、プラモデル作りも熱心な趣味の一つだった。とりわけ第二次世界大戦時の爆撃機の模型を集中的に作っていたという。ただ、エアブラシ塗装は屋外で行うため、人目につくことや「庭が汚れる」と家族に嫌がられることから、現在は遠ざかっているとのこと。
  • 子どもの頃に膝の関節炎を患った影響もあり、運動音痴を公言している。またヘビースモーカーでキャメルを愛煙していたが、1989年頃禁煙して以来、喫煙習慣はない。また酒豪としても知られていたが、今はワイン日本酒スコッチ・ウイスキー、食後酒のグラッパなどをほどほどに愛飲し、ビールは全く受け付けないという。一方、2008年にライブ活動を再開させた頃から体力づくりとダイエットの目的で1時間程度のウォーキングを始めている。また、パワーブリーズ(呼吸器や横隔膜の訓練器具)を使用する、「休肝日」を設けるなど、日頃からのコンディション作りには気を遣うようになっている。昔から愛用している滋養強壮剤として「キヨーレオピン」を挙げる事が多い。
  • 英語の発音がいいと言われるが、曲を聞いて覚えているだけで喋れないとのこと[65]。もともと洋楽好きだったので、英語の歌は耳で覚えた適当な雰囲気英語で、それでも割と発音がいいと言われていた。しかし、『BIG WAVE』(1984年)制作のために来日したアラン・オデイに「お前の英語はおかしい」と指摘され、歌のディレクションと併せ、発音を徹底的に矯正された。当時ディレクターだった小杉理宇造は、あまりの厳しいトレーニングぶりに、もう少し抑制するように話したところ、オデイは「いや。これはタツが徹底的にやってくれと言っているから、僕だってそんなにやりたくはないんだけれど、やってるんだ」と答えたという。山下はそう言った記憶はなかったが、「初めからいろんな事を指摘されたので、ならばこの際だから徹底的に自分の発音を治そうと思って、自分がそうやってアランにお願いしたのだと思う」[66][67]と回想している。
  • 昔からパワーのあるエンジンの小さい車を好み、若い頃はサニークーペなどに乗っていた。やはり最高峰はポルシェだが、その扱いの難しさと2シーターでは家族を乗せられない為、あきらめているという。プライベートでは1990年頃からBMW320iに乗っている。2011年のインタビューではETCも取り付け、今後も乗り続けたいと語っている[65]
  • コンピュータに関しても豊富な知識を持っており、1982年辺りから16ビットのパソコンキットを組み立て、MS-DOS用ゲームを楽しむなど、初期からの愛好者。基礎的な知識があった事や坂本龍一のソロアルバム制作現場に足繁く通って見学していたことから、コンピュータ・レコーディングへの移行も大変だったが比較的容易ではあったという。
  • レコード・コレクターの一面として、バーゲンセールの時には、掌側の部分にゴムの滑り止め加工がしてある軍手を使用し、もの凄い速さでレコードを選別しているという証言があるが[68]、これはシングル盤を最も買い漁っていた1980年代の頃の話で、現在は専ら海外のネット・ショップやオークション等を利用しているという。

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 好きなギタリストとしてバジー・フェイトンスティーヴ・クロッパーを挙げ、一番のお気に入りはレジー・ヤングだという。メイン・ギターはフェンダー・テレキャスター。ただし、レコーディングやライブでは曲によってフェンダー・ストラトキャスターアコースティック・ギターエレアコも使用。テレキャスターは70年代初期の製品で80年代初めに友人から6万円で譲り受け、ギターテクニシャンの山本健司[3]によって調整されたホワイトアッシュ・ボディ、ローズウッド指板という仕様。ブラウンにリペイントしており指板はブラック。ストロークの邪魔にならないようにピックアップ・セレクターのツマミは取り外され、弦高も低く調整している。またピックアップは出力を上げている。使い始めて1年経った頃から鳴りが良くなり、木製部分以外はすべてリペアしながら使い続けているが、酷使しても未だにコンディションは変わらず、レコーディングやライブ全てにおいて現役とのこと。近い音のものをサブに購入したり、フェンダーに依頼して完全なリストア・モデルを作ってもらってみたが、やはりこれには敵わないと語っている。ただし弦高を低くしている為、低音が出にくいという欠点があり、ソロ演奏用として「メープルウッド、ホワイト指板」のテレキャスターも使用頻度が高い。ストラトキャスターはニューヨークで300ドルで購入し、友人所有のストラトキャスターとネックを交換している。また、所有しているアコースティック・ギターのうち一番気に入っているのはギルドD-50だと語っており、もとは岡林信康が所有していたものを椎名和夫経由で譲り受けたもの。エフェクター類はディストーション、コンプレッサー、コーラスが各1台あるのみで、マルチ・エフェクターなどは自分では所有していないという[4]
  2. ^ デビュー前の1973年、学生時代に作った自主制作盤『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を通じて知り合い、同年9月21日の『はっぴいえんどラスト・コンサート』で大瀧のステージのコーラスをシュガー・ベイブが任されて以来、公私にわたって親交を深めた。竹内まりやが2008年、デビュー30周年を記念して1年間限定で公開したブログ内の記事では家族ぐるみで親交があった事が記されている。産みたて卵”. Mariya's Blog「Pholog」 (2008年12月30日). 2013年5月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月17日閲覧。
  3. ^ 竹内まりやによると本人のコンサートではセンターで歌う必要もあるためあまり目立たないが、竹内のライブ『Souvenir』(2000年)、『Souvenir again』(2010年)でバックバンドのバンドマスター兼ギタリストとして出演した際にはギターを弾きながらステージ上を確かに歩き回っていたとニッポン放送『坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』(2013年6月24日放送)で証言している
  4. ^ 前年から都立高校入試への学校群制度採用により竹早高校へ入学したが、「別な高校に入っていたら、自分の人生は大きく変わっていただろう」と振り返っている。
  5. ^ 学内で学年主任の3名の教員を中心に、補習費や修学旅行費でリベートを慣例的に受領していたというもの。「竹早高校リベート事件」としてマスコミや国会の文教委員会(当時)にも取り上げられ、主犯格の3名の教員はじめ(1名は懲戒免職処分)、殆どの教職員が処分を受ける事態となった。
  6. ^ 新宿高校の1学年上には坂本龍一が在籍していた。後に山下は「坂本くんとは本当に高校で隣に座っているような感じだった」と語っている。
  7. ^ 同年4月から制服自由化が始まり、早速ジーンズで登校したところ、教師から「山下、なぜ労働者の服装で学校に来るのか?」と詰問されたという。こうした日常の積み重ねが、次第に学校から遠ざかせる事となった。
  8. ^ 金子は『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』やシュガー・ベイブのアルバム『SONGS』の他、山下のシングル「クリスマス・イブ」や村松邦男のアルバム『アニマル』のアートワークを手掛けた。
  9. ^ 最初ははっぴいえんどのマネージメントを手掛けた「風都市」に1974年1月所属。しかし正式な契約なども特になく、山下は「給料を保証するから事務所に入れといわれたが、ギャラは1回ももらったことはない」と語っている。風都市の解散と前後して同年4月から、マネージャーの長門芳郎が柏原卓、友人で音楽評論家の前田祥丈の3人で設立した「テイク・ワン」へ移籍。テイク・ワンには柏原がマネージメントを担当していた山下洋輔トリオも在籍。山下はシュガー・ベイブ解散までテイク・ワンに在籍し、その後は牧村憲一が設立した「アワ・ハウス」へ大貫妙子とともに移籍。牧村は、山下のCM音楽制作のきっかけを作ったほか、竹内まりやのデビューにも関わっている。
  10. ^ RCAレコードへのレーベル使用権料を支払う必要が無くなれば、その分を制作費へ回せるのではないかとの発想から設立された。
  11. ^ ただし「有限会社ミュージック・ハーヴェスト」は現在も竹内の実家である島根県出雲市の旅館「竹野屋」内に事務所が置かれている。
  12. ^ 前年、ソニー・ミュージックエンタテインメントの社長人事を巡り、営業出身の社長が就任した事から制作出身のエグゼクティブが大量退任する、という出来事も大きく関与しており、一部はワーナーにも流入・移籍している。ソニー・ミュージックエンタテインメント”. 界. 2014年7月26日閲覧。
  13. ^ 山下と竹内は小杉やジャニー喜多川を通じて森と懇意になり、以来、家族ぐるみの親交があった。ファンクラブ会報「TATSURO MANIA」では、森を含めたグループに山下一家も参加した中国旅行のスナップ写真が掲載された。また、森が山下のライブを、山下夫妻が森の舞台をそれぞれ互いに訪れるようになり、森への楽曲提供が実現した。ちなみに、山下が好きな森の舞台作品は『おもろい女』だという。
  14. ^ ホール最終公演は12月29日、30日に開催された大阪フィルハーモニー交響楽団による「第9シンフォニーの夕べ in 2008」
  15. ^ エンディングの後、「おまけ映像」として前年8月「RISING SUN」出演時に収録された「さよなら夏の日」のライブ映像が上映された。
  16. ^ 10月20日には、「クリスマス・イブ」(30th Anniversary Edition)特製スリーブケースの表紙部分に、希望する写真やメッセージを入れたジャケットでオリジナルのCDを作成できるスペシャル企画“「クリスマス・イブ」30周年記念オーダーメイド・ジャケット期間限定CDパッケージ”の発売が決定。11月1日から24日までの期間限定で受注生産された。
  17. ^ 監督:犬童一心、原作:中村航、主演:相葉雅紀榮倉奈々
  18. ^ 当時ヤマハ音楽振興会が主催し、TBSラジオのライバル局であるニッポン放送が運営に関わっていた「ヤマハポピュラーソングコンテスト」(ポプコン)とその連動番組『コッキーポップ』に対抗して設けられ、番組自体も1976年の放送開始からパーソナリティーや放送時間、放送エリアを変更しながら1990年初頭まで継続された。
  19. ^ 2013年に新装開業したフェスティバルホールで5月3、4日に「山下達郎 LIVE at Fastival Hall」公演を行っているが、MCで「(新ホールは)空気感が変わらないのにはすごく安心した」と話している。
  20. ^ まだ竹内と同棲中だった頃、過労から風邪をこじらせ寝込んでいた竹内にを作り、「面白いものでも見せてやるか」と枕元で『湯屋番』を一席披露した、というエピソードがある[61]
  21. ^ ガダルカナル戦線の生き残りで、その後自衛官となったこの叔父の存在は大きく、嗜好や価値観など非常に影響を受けているという。また、母方のもう1人の叔父もビルマ戦線から帰還したという経歴があり、そうした背景から戦前歌謡、軍歌や、吉田満などの戦記小説などにも詳しくなったという。

出典[編集]

  1. ^ フロントランナーセレクション 第92回 ミュージシャン 山下達郎さん ライブに賭ける音の職人(1/3)”. どらく (2012年10月6日). 2013年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年9月28日閲覧。
  2. ^ “「職人でいる覚悟」山下達郎が語る仕事-2”. 朝日求人ウェブ(朝日新聞社)就職・転職ニュース. (2011年8月7日). オリジナル2014年2月11日時点によるアーカイブ。. http://archive.is/YmHPB 2014年2月12日閲覧。 
  3. ^ いわゆるレコーディングやコンサートツアーの楽器調整スタッフである「テクニシャン」の日本における草分け的存在で、専門はドラム。現在は国立音楽院の講師を務めるなど、後進の育成に尽力している。講師紹介”. 国立音楽院. 2014年8月29日閲覧。
  4. ^ オフィシャルファンクラブ広報誌「TATSURO MANIA」No.5 1993年春 Guitar Works特集から抜粋、加筆。
  5. ^ 山下達郎 100Qインタビュー Q76-Q100”. チケットぴあ. 2014年1月14日閲覧。
  6. ^ “竹内まりや感激!拓郎と初共演「アイドルでした」”. SANSPO.COM. (2014年2月6日). オリジナル2013年6月27日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130627052753/http://www.sanspo.com/geino/news/20130624/oth13062405040008-n1.html 2013年6月27日閲覧。 
  7. ^ ファンクラブ広報誌「TATSURO MANIA」No.45 2003年 春
  8. ^ a b c 「PERFORMANCE '91-'92」パンフレット収載『いかにして私は心配するのをやめて山下達郎の音楽を愛するようになったか』(とり・みき
  9. ^ 「若い人達と同列に張り合える、僕らの世代の音楽を -達郎、新作を語る-(聞き手=渡辺亨)」、『ミュージック・マガジン』第30巻第11号、株式会社ミュージック・マガジン、1998年9月、 32-39頁。ASIN B00CDZRH7E
  10. ^ TBSラジオ久保田智子プレシャスサンデー』(2011年8月21日放送)
  11. ^ 生い立ちはファンクラブ広報誌「TATSURO MANIA」連載“HISTORY OF 山下達郎”より引用。
  12. ^ a b NHK-FM「今日は一日 山下達郎三昧」(2011年9月19日放送)
  13. ^ a b ニッポン放送坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』2012年10月1日放送
  14. ^ a b 森朋之「山下達郎“超”ロング・インタビュー」、『ぴあ Special Issue 山下達郎“超”大特集!』、ぴあ株式会社2012年10月30日、 13-23頁、 ISBN 9784835621449
  15. ^ FM NACK5K's TRANSMISSION』2011年8月12日放送
  16. ^ 竹内まりやフォト & エッセイ『インプレッションズ』
  17. ^ 島根県出雲市大社町杵築南857の検索結果”. jpnumber.com. 2014年7月6日閲覧。
  18. ^ 検索結果”. circustown.net. 2014年7月22日閲覧。
  19. ^ 1985年9月のスケジュール表”. 小劇場 渋谷ジァン・ジァン. 2014年7月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年7月22日閲覧。
  20. ^ biography of ponta”. ponta web. 2014年7月24日閲覧。
  21. ^ PONTA SPECIAL SESSION”. TATSURO YAMASHITA ON THE "WEB" CORNER. 2014年7月24日閲覧。
  22. ^ クリスマスイブ・スペシャルミニライブ”. TATSURO YAMASHITA ON THE "WEB" CORNER. 2014年7月23日閲覧。
  23. ^ What's New (Nov, 1996)”. Kenta's NOTHING BUT POP! (1996年11月19日). 1999年10月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年7月23日閲覧。
  24. ^ "オール山下達郎わがまま無理難題リクエスト vol.4". 山下達郎のサンデー・ソングブック 第291回. JFN. TOKYO FM. 1998年4月26日放送.
  25. ^ 【HMVインタビュー】 山下達郎 『OPUS 〜ALL TIME BEST 1975-2012〜』”. HMV ONLINE (2012年9月14日). 2012年9月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年7月21日閲覧。
  26. ^ 「伝説ライブ」”. SHOGO HAMADAツアーオフィシャルブログ (2006年11月20日). 2014年7月13日閲覧。
  27. ^ 永遠のギター・キッズ 加山雄三withノーキー・エドワーズ”. Nokie Edwards Data In Japan. 2014年7月19日閲覧。
  28. ^ Live Report: "Thanks to Singers" 21st November 2001 at ON AIR EAST”. global artist.net. 2002年2月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年7月23日閲覧。
  29. ^ Concert Report Vol.18”. めざましクラシックス Reportage. 2014年7月16日閲覧。
  30. ^ [Super Power Push山下達郎(2/10)]”. 音楽ナタリー. 2014年8月24日閲覧。
  31. ^ センチメンタル・シティ・ロマンス35周年記念ライブにとんでもないゲストが…”. だからPA屋なんですってば (2008年10月31日). 2014年7月19日閲覧。
  32. ^ ユニバーサルミュージック、2009年11月11日発売。UMCK-1335
  33. ^ ワーナーミュージック・ジャパン、2009年11月11日発売。WPZL-30163/4
  34. ^ Concert Report Vol.50”. めざましクラシックス Reportage. 2014年7月16日閲覧。
  35. ^ “100年MUSIC FESTIVAL『豪華すぎる! ワーナーミュージック・ジャパン創立40周年記念ライブ』”. ORICON STYLE. (2010年11月9日). オリジナル2014年8月22日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140822052409/http://www.oricon.co.jp/music/livereport/2187/2/#photo 2014年8月22日閲覧。 
  36. ^ 竹内まりや - Souvenir Again mariya takeuchi live 2010”. 竹内まりや Official Web Site. 2010年9月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年8月23日閲覧。
  37. ^ “山下達郎4人目の4年代連続トップ! - 日刊スポーツ芸能ニュース”. 朝日新聞DIGITAL. (2011年8月16日). オリジナル2014年1月13日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140113112449/http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK201108160041.html 2014年1月13日閲覧。 
  38. ^ “貴重映像放出 ! 山下達郎フィルムコンサートを6都市で開催”. 音楽ナタリー. (2011年7月11日). オリジナル2014年8月20日時点によるアーカイブ。. https://archive.today/4EL0r 2014年8月20日閲覧。 
  39. ^ "1000回記念1000づくしで棚からひとつかみ Part 2". 山下達郎のサンデー・ソングブック 第1000回. JFN. TOKYO FM. 2011年12月11日放送.
  40. ^ TOKYO FMの番組『山下達郎のサンデー・ソングブック』が第38回放送文化基金賞「ラジオ番組 優秀賞」受賞 同番組パーソナリティー・山下達郎氏が個別部門「出演者賞」受賞 (PDF)”. エフエム東京 (2012年5月28日). 2013年7月27日閲覧。
  41. ^ 「表彰」第38回 放送文化基金賞 受賞のことば”. 公益財団法人 放送文化基金. 2013年7月8日閲覧。
  42. ^ “山下達郎シアター・ライヴ大ヒット、急遽上映延長&追加上映決定”. Musicman-NET. (2012年8月31日). オリジナル2012年9月4日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120904231638/http://www.musicman-net.com/artist/19718.html 2014年8月22日閲覧。 
  43. ^ “山下達郎、スペシャ野外ライブに竹内まりやサプライズ登場”. ナタリー. (2012年9月2日). オリジナル2013年5月2日時点によるアーカイブ。. https://archive.today/nnF17 2014年7月30日閲覧。 
  44. ^ "20周年の棚からひとつかみ". 山下達郎のサンデー・ソングブック 第1043回. JFN. TOKYO FM. 2012年10月7日放送.
  45. ^ 映画「陽だまりの彼女」”. 「陽だまりの彼女」製作委員会 (2013年7月2日). 2014年1月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月6日閲覧。
  46. ^ “山下達郎、約3年振り映画主題歌「光と君へのレクイエム」10月発売”. Musicman-NET. (2013年7月16日). オリジナル2013年10月15日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131015080433/http://www.musicman-net.com/artist/27374.html 2013年10月15日閲覧。 
  47. ^ ドラマ10「第二楽章」 / ドラマのみどころ”. NHK ONLINE (2013年4月16日). 2013年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月15日閲覧。
  48. ^ “【オリコン】山下達郎「クリスマス・イブ」、史上初の4年代TOP10”. ORICON STYLE. (2013年11月26日). オリジナル2013年11月29日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131129152200/http://www.oricon.co.jp/news/2031261/full 2014年8月23日閲覧。 
  49. ^ NEWS/TOP”. 山下達郎 OFFCIAL WEB SITE (2013年12月31日). 2014年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月1日閲覧。
  50. ^ “山下達郎|LINE-UP”. RISING SUN ROCK FESTIVAL 2014 in EZO (wess). オリジナル2014年8月17日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140817130458/http://rsr.wess.co.jp/2014/artists/lineup/profile/082yt.html 2014年8月17日閲覧。 
  51. ^ ARTIST > LINE UP 山下達郎”. SPACE SHOWER TV 25TH ANNIVERSARY SPACE LOVE SHOWER 2014 (スペースシャワーTV). 2014年8月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年8月18日閲覧。
  52. ^ <山下達郎> 2年前、昼間のLAKESIDE…”. SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWER 公式facebook (2014年8月30日). 2014年9月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年9月2日閲覧。
  53. ^ 映画『MIRACLE デビクロくんの恋と魔法』”. MIRACLE デビクロくんの恋と魔法 製作委員会. 2014年9月18日閲覧。
  54. ^ “山下達郎、相葉主演Xmasイブ映画の音楽監修”. 音楽ナタリー. (2014年9月17日). http://natalie.mu/music/news/126262 2014年9月18日閲覧。 
  55. ^ 山下達郎「LIVE at THE BOTTOM LINE」開催決定!”. ワーナーミュージック・ジャパン (2014年9月28日). 2014年9月28日閲覧。
  56. ^ 山下達郎、ニューシングル「光と君へのレクイエム」のミュージックビデオを本邦初公開!”. m_Found (2013年9月20日). 2013年10月1日閲覧。
  57. ^ これこそがオレの夢!”. だからPA屋なんですってば (2006年10月5日). 2014年7月19日閲覧。
  58. ^ “「いっぷく」ナイナイ岡村衝撃発言と山下達郎の激励受け発進”. Sponichi Annex. (2014年3月31日). オリジナル2014年4月7日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140407062619/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/03/31/kiji/K20140331007883530.html 2014年7月20日閲覧。 
  59. ^ "棚からひとつかみ+リクエスト". 山下達郎のサンデー・ソングブック 第945回. JFN. TOKYO FM. 2010年11月14日放送.
  60. ^ J-WAVE『I A.M.』 2011年8月放送
  61. ^ ぴあ Special Issue 山下達郎 “超” 大特集!』竹内まりやインタビュー。
  62. ^ ニッポン放送笑福亭鶴瓶 日曜日のそれ2011年8月7日放送
  63. ^ スタジオジブリ『熱風』2007年4月号 「特集・落語の愉しみ」。好きな落語家の傾向について「『明るい狂気』をお持ちの方々ばかり」と説明している。
  64. ^ "納涼リクエスト大会". 山下達郎のサンデー・ソングブック 第1035回. JFN. TOKYO FM. 2012年8月12日放送.
  65. ^ a b 山下達郎 100Qインタビュー Q1-Q25”. チケットぴあ (2011年8月1日). 2013年4月22日閲覧。
  66. ^ "アラン・オデイ追悼 Part 1". 山下達郎のサンデー・ソングブック 第1077回. JFN. TOKYO FM. 2013年6月2日放送.
  67. ^ "アラン・オデイ追悼 Part 2". 山下達郎のサンデー・ソングブック 第1078回. JFN. TOKYO FM. 2013年6月9日放送.
  68. ^ 大竹まこと ゴールデンラジオ:2012年11月アーカイブ”. 文化放送. 2012年12月30日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2014年6月1日閲覧。※鈴木の証言。

外部リンク[編集]

公式サイト
Warner Music Japan
SonyMusic