浜田省吾
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| 浜田省吾 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 別名 | 浜省 省吾 |
| 出生 | 1952年12月29日(56歳) |
| 血液型 | O |
| 学歴 | 神奈川大学法学部中退 |
| 出身地 | 広島県竹原市 |
| ジャンル | フォークソング ロック |
| 職業 | 歌手 作詞家 作曲家 |
| 担当楽器 | ボーカル ギター |
| 活動期間 | 1975年(愛奴) 1976年 - (ソロ) |
| レーベル | CBSソニー |
| 事務所 | ロード&スカイ |
| 公式サイト | shogo.r-s.co.jp/ |
浜田 省吾(はまだ しょうご、1952年12月29日 - )は、広島県竹原市生まれの日本のシンガーソングライター、ロックミュージシャン。O型。広島県立呉三津田高校(野球部所属)卒業、神奈川大学法学部中退。
1975年、愛奴のメンバー(ドラムス)としてプロ・デビュー。デビュー時からサングラスがトレードマーク。1976年にソロ・デビュー。メディア露出が極端に少ないものの、地道なライブ活動によって確実にファンを獲得。デビュー後数年間は、事務所からの方針により自らが目指す方向性を屈折させられ逡巡していた。その為、初期の頃は自分の生き方そのものへの懐疑を投げかけた楽曲が多く存在する。一般的に認知されているバラード楽曲の他にも父親の被爆体験から、日本や戦争を歌った楽曲も数多く存在し、いわゆるビッグネームの中では最もプロテスト色の強いアーティストである。また、ロック=英語という既成概念に疑問をもち、日本語による歌詞や歌唱にこだわった。このことは、以降のミュージシャンにも大きな影響を与えた。
山口百恵、和田アキ子、能瀬慶子、甲斐よしひろ、松田優作、時任三郎、吉田栄作、榊原郁恵、真田広之、烏丸せつこ等、ホリプロ所属時代に多くの楽曲を提供している。 愛称は「浜省(ハマショー)」または「省吾」。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 誕生からデビューまで
- 1952年に広島県竹原市に生まれる。
- 父は戦前、特高警察官、その後は地方警察署に勤務。木江署勤務時代の1945年8月6日、広島市への原爆投下直後に救援隊として広島市に入り二次被爆(入市被爆)した。<父の原爆投下朝の手記>
- 父の転勤のため、1955年頃から御調郡向島町岩子島、佐伯郡廿日市町宮内、五日市町(現広島市佐伯区)、広島市元宇品(現南区元宇品)と広島県内で転校を繰り返す。18歳までに20回近く引っ越しをした。こうした経験が自身の人間形成に大きな影響を与えたと述懐している。
- 1963年、江田島の海沿いの町、鷲部に転居。この頃、ラジオから流れるビートルズの日本デビュー曲「プリーズ・プリーズ・ミー」を聴く。当時の洋楽は軽快なポップミュージックが主流だったので大きなショックを受ける。姉の誕生日プレゼントだったギターを取り上げ、ギター演奏を始める。
- 1965年、呉市天応に転居、呉市立二河中学に転校。FEN岩国を知り、毎日ラジオに噛り付き洋楽を聴いた。ビートルズの他には、モータウン・サウンド、ボブ・ディラン、ザ・ビーチ・ボーイズ、ヤング・ラスカルズなどを好んで聴いた。
- 1968年-1970年、県内有数の進学校、広島県立呉三津田高等学校入学。不良の溜まり場だった野球部に入部。またグルックスというバンドを組んでいた町支寛二と知り合い「広島フォーク村」にも参加。野球部はきつい練習や先輩部員との対立から3年の時に退部。野球部を辞めた後はフォークソング・クラブ、新聞部に所属する他、生徒会役員となり呉の弾薬庫の弾薬運搬反対デモなど、学生運動にも積極的に参加した。こうした学生運動などの経験が、現在の曲作りの基礎になっているとよく言われるが、本人はそのことを否定している。そうした動きを「アカ」と批判する父親とも激しくぶつかった。父親は当初はミュージシャン活動に批判的だった。高校時代には既にビートルズは解散しており、ビーチ・ボーイズやラスカルズもあまり活動しておらず、本人はこの時期を「ロックの暗黒時代」と振り返っている。そんな中でも、レッド・ツェッペリンやクリーム、ジミ・ヘンドリクスなどを聴いていた。
- 1971年、大学受験に失敗後、大竹市に転居。広島市内の予備校、英数学館[1]に通う。この年ベトナム戦争を進めるアメリカに加担しながら、広島平和記念式典に出席した佐藤栄作首相の行動が矛盾するとして起こった、激しい反対運動にも参加した。これは「パック・イン・ミュージック」のパーソナリティ・北山修が広島へ反戦列車を走らせた事でも知られる。この頃はアメリカン・ニューシネマをよく観てJ・D・サリンジャーにも傾倒、アメリカに強く憧れた。また、初の海外アーティストのコンサート体験として、レッド・ツェッペリンの来日公演を観に行っている。
- 1972年、1浪して神奈川大学法学部に入学する。まだ学生運動が盛んな時代で(特に神奈川大学は激しかった)、大学はロックアウトされたり、ストライキで休校されることが多く、こんな大変な時に親からお金を送ってもらう意味が無いと次第に感じ始める。
- 1973年、音楽活動にのめり込み大学中退。下宿を引き払う日、下宿前にあった大学構内で神奈川大学のセクトと他校から来たセクトとの激しい内ゲバが発生。火炎瓶が飛び交い、傷ついた学生達がキャンパス内に転がり、多くの死傷者を出した暴動を朝まで見ていた。このことで「もうすべてが終わった」とはっきり実感する。
- 広島に戻り、「広島フォーク村」の音楽仲間と共にロックバンド「愛奴」を結成。愛奴ではドラムを担当。この頃は、天満屋デパートの屋上や地元のテレビ番組で演奏したりした。
[編集] プロデビューと不遇の時代
- 1974年、再び上京し、吉田拓郎の春と秋の全国ツアーのバック・バンドに愛奴として参加。ドラム経験は1年程しかなかったが、必死で練習してツアーに間に合わせた。拓郎のバックバンドとして何度か「ミュージック・フェア」などテレビにも出演した。ただしツアーでの「落陽」は演奏メニューから外され、拓郎は生ギターの弾き語りコーナーで「落陽」を歌った。ツアー中休みの7月に発売されたよしだたくろう・かまやつひろしのシングル「シンシア」のB面「竜飛崎」は愛奴の演奏であるが、8月にレコーディングされた拓郎のアルバム「今はまだ人生を語らず」(12月発売)は、全てスタジオ・ミュージシャンによるレコーディングとなった。
- 1975年に愛奴としてアルバム『愛奴』とシングル「二人の夏」でレコードデビュー。当時、CBSソニーでは同社始まって以来の大プロモーションを行い、浅田美代子の「赤い風船」(売上80万枚)を上回る100万枚以上のセールスを見込んでいたというが、実際には全く売れず惨敗という結果であった。また「二人の夏」はウエストコースト風のサウンドだったのだが、メンバーそれぞれの音楽志向がバラバラで愛奴にはスタイルが無く、バンド内での自分の存在や、シンガーソングライターへの憧れもあり、同年9月に愛奴を脱退。愛奴の全シングルA面は浜田が手掛けており、当時からソングライティングの意欲や素質を備えていた。愛奴脱退後は音楽活動を続けながらウェイターなどの仕事もしていた[2]。
- 1976年4月21日にアルバム『生まれたところを遠く離れて』とシングル「路地裏の少年」でソロデビュー。ロック志向の自身にとっては不本意ながら、予算の都合上、生ギター1本のスタイルで全国ライブ巡業を開始。直後に矢沢永吉のフィルムコンサートの前座を務めた。また、アイドル歌手時代の竹内まりやとジョイント・コンサートも行っている。他にも歌わせてもらえる所ならどこでも、レコード店の店頭はもちろん、スーパーマーケットの催し、果ては演歌の流しのようにバーのカウンターの中でも歌った。この頃の全国巡業での観客は30人から多くて200人程度で、描いた夢にはほど遠かった。
- 70年代はレコード会社の意向もあって、「ポップなメロディーメイカー」としての曲作りを迫られる。本人は変わらずロック志向だったものの、周りに言われるがまま作家的な曲作りを続ける。しかし、セールスには恵まれず、苦悩と挫折の中で精神的にも落ち込んでいく。
- 1979年8月、日清カップヌードルのCMソングとして書いたシングル「風を感じて」がスマッシュ・ヒット(オリコン25位、10万枚)。このヒットを機会に、自身のやりたい音楽を表現することを決意する。
[編集] 音楽性の転換と成功への道
- 1980年、6thアルバム『HOME BOUND』リリース。それまでの職業作家的な曲作りから、本格的ロックに音楽性が変化する重要作。初の海外レコーディング作品で、ニッキー・ホプキンスやTOTOのスティーヴ・ルカサーなどアメリカを代表する一流ミュージシャンが参加した。
- 1982年1月12日、日本武道館での初コンサートを開催。そのときの模様を収録したライブアルバム『ON THE ROAD』を発売し、以降はコンサートツアーのタイトルを「ON THE ROAD」とする。
- 1983年4月1日に所属事務所であったホリプロダクションから独立し、音楽事務所「ロード&スカイ」を設立。事務所名は浜田が敬愛するジャクソン・ブラウンの曲名「Road and the Sky」から付けられている。長らく浜田の個人事務所であったが、90年代以降は尾崎豊(所属は約1年程で個人事務所アイソトープを設立し独立)、三浦知良、スピッツ、斉藤和義等が所属することになる。
- 1983年8月13日、福岡・海の中道海浜公園で初のワンマン野外コンサート「A PLACE IN THE SUN」では25,000人を動員。独立後最初の一大イベントを無事に成功させる。
- この頃からレコード・セールスやライブの観客動員が安定してくる。アルバムもコンスタントに数十万枚を売り上げ、ライブ・チケットも完売が続いていく。80年代は毎年のように年間100本近いコンサートツアーを続けていく。
- 1985年7月27日 - 28日、つま恋多目的広場での吉田拓郎オールナイト・コンサート「ONE LAST NIGHT in つま恋」で愛奴が再結成され、「ひらひら」「野の仏」「シンシア」の3曲で久々にドラムを叩く。その際、拓郎から「浜田、前よりドラム上手くなったな」と言われる。
- 1986年に発売された2枚組アルバム『J.BOY』がソロデビュー10年目にして初のオリコン・アルバムチャート第1位(5週連続)を獲得。名実共に日本の音楽シーンを代表するトップ・アーティストへと成長する。
- 1988年8月20日の静岡県浜名湖・渚園での野外コンサート「A PLACE IN THE SUN at 渚園」では52,000人を動員。当時の男性ソロ・アーティストの動員記録となった。
[編集] トップアーティストとしての苦悩から現在まで
- 1990年、久々のアルバム『誰がために鐘は鳴る』を発売。それまでの疾走感あふれるロックから、内省的な曲作りへと移行する。そのアルバム内容から引退が囁かれる。
- 1992年にテレビドラマ「愛という名のもとに」の主題歌として発売されたシングル「悲しみは雪のように」(1981年リリース曲のリメイク)が、初のオリコン・シングルチャート第1位(8週連続、通算10週)を獲得。170万枚のセールスを記録した。同時に、過去にリリースされたアルバムが多数チャートインするなど、空前の浜省ブームとなる。しかし、本人はこの時期に鬱状態になり、メディアに全く出てこなかった。
- 同じく1992年、シングル「アヴェ・マリア」を発表。印税・原盤収入など全ての収益を社会問題化しつつあったエイズの治療・研究に寄付するというチャリティ・シングル。総額で3,500万円程が寄付された。「このまま音楽人生を終わらせてもいいかなと思った」と後に語っている。
- 精神的にダウンしていた状態から立ち直り、1993年にアルバム『その永遠の一秒に』を発表。シンセサイザーを全面的に取り入れた新しい音楽性を示すが、詩世界は前作『誰がために鐘は鳴る』と同様に重苦しいテーマに包まれている。
- 1995年、シングル「我が心のマリア」発表。カップリングの「恋は魔法さ」は神戸を舞台にしたラブソングで、その年に発生した阪神・淡路大震災の復興を願い、「アヴェ・マリア」同様に印税収入を全額寄付。このシングルは事務所の後輩であるスピッツや区麗情らと共に制作。
- 1997年、吉田拓郎の50歳を祝って拓郎のデビュー曲「イメージの詩」をカヴァー。拓郎自身もコーラスとアコースティック・ギターで参加している。CDとアナログ盤が同時発売された。
- 1998年には20世紀から21世紀を跨ぐ前代未聞のツアー「ON THE ROAD 2001」が4年がかりの構想でスタート。全国のホール、アリーナ、ライブハウス、そして野外コンサートがスケジューリングされた長いツアーが敢行された。このツアー中に初のファンクラブ限定ライブも行っている。4年間で127ヶ所198公演を開催し60万人もの観客を動員。2002年1月には特別公演として20年振りに日本武道館でライブを行う。
- 1999年、『HOME BOUND』『愛の世代の前に』『PROMISED LAND 〜約束の地』『DOWN BY THE MAINSTREET』『J.BOY』『FATHER'S SON』『誰がために鐘は鳴る』の1980年から90年までのオリジナル・アルバム7作にリマスタリングを施し再発。『DOWN BY THE MAINSTREET』『誰がために鐘は鳴る』はリミックス、『J.BOY』はリミックスとリアレンジメントが施されている。
- 2000年11月8日、デビュー25周年を記念した初のベストアルバム『The History of Shogo Hamada "Since1975"』を発表。チャート1位を獲得し、130万枚の大ヒットとなる。
- 2001年、本人が制作に参加する形で、NHKの地上波、BS、BS-hiで自身の音楽活動を広く紹介する番組が放映された。20年振りのテレビ出演として話題となった。
- 2003年3月19日に本人を題材としたゲーム「OVER THE MONOCHROME RAINBOW featuring SHOGO HAMADA」が発売される。プロデュースはライブでキーボードを担当する福田裕彦。
- 2004年、小説家の春嵐(小川糸)、アレンジャーの水谷公生と結成したユニット「Fairlife」にメンバーとして参加。シングル「永遠のともだち」、アルバム『Have a nice life』を発売する。ボーカリストにポルノグラフィティの岡野昭仁や元プリンセス・プリンセスの岸谷香らを迎えた。
- 2005年7月6日、4年振りとなるオリジナル・アルバム『My First Love』を発表。同じく4年振りとなる全国アリーナツアーを開催し、26公演を行う。
- 2005年7月18日、桜井和寿や小林武史らが主催する「ap bank fes '05」に、最終日の大トリとして出演する。桜井とは初のステージ共演で、「マイホームタウン」「Thank you」「家路」の3曲を披露した。
- 2006年8月9日にソロデビュー30周年として2枚のベストアルバム『The Best of Shogo Hamada vol.1』『vol.2』を同時リリース。また、2000年に発売された『The History of Shogo Hamada "Since1975"』を3面紙ジャケット仕様(セルフライナーノート付き)で期間限定にて再発した。
- 2006年9月より松戸市文化会館を皮切りに「ON THE ROAD 2006-2007」をスタート。ソロデビュー30周年ということもあり、何か大きなイベントをやろうとも考えたらしいが、原点に帰って全国のホールを回ることにした。2007年11月の酒田市民会館まで53ヶ所83公演を行い、奈良県を除く全国46都道府県のホールを回った。
- 2007年3月7日にはFairlifeとしてセカンド・アルバム『パンと羊とラブレター』を発表する。ツアーの合間を縫って制作された。
- 2008年4月、ライブDVD「ON THE ROAD 2005-2007 "My First Love"」をリリース。2005年のアリーナツアーと2006〜2007年のホールツアーの全109公演から選び抜かれた映像を収録。300分を超える作品となった。
- 2009年7月、横浜の赤レンガ倉庫にて浜田省吾の展覧会「浜田島」が開催される。30年に渡って浜田作品のデザイナーを務めている田島照久による、写真・デジタルアート・映像・音楽を織り交ぜた作品展。
[編集] エピソード
- 自分自身のアイドルとして名前を挙げているのは、ビートルズ、ボブ・ディラン、モハメド・アリ、ジャクソン・ブラウンの4組。ジャクソン・ブラウン以降は、そこまで熱中した存在はいないという。
- 広島出身ということもあり、大の広島カープファン。ステージ上でカープの帽子、ユニフォームを羽織ったことがある。
- 1974年に吉田拓郎の全国ツアーのバック・バンドでドラマーを務めたのは、同郷の先輩でもある拓郎から誘われたためだが、そのとき浜田は自分のドラムセットを持っていなかった。広島の友達から借りたら、そのドラムはアマチュア時代の拓郎が叩いていたドラムだったという。当時の広島にはドラムはそんなに沢山なかった[3]。
- サングラスをかけだした由縁は、好きなミュージシャン達(ボブ・ディラン、スティーヴィー・ワンダー、ジョン・レノン等)がサングラスをかけてたから、真似をしてかけたため。また、ドラムは目立たないから何とかして自分を売り込もうとした苦肉の策でもあったらしい。
- 無名だった頃、ギターを持ってタクシーに乗った時「ミュージシャンなの?」と運転手に聞かれて、「はい、浜田省吾って言います」と答えると、運転手は「あぁ、知っているよ。サングラスしていたから分からなかったよ」と答えた(浜田はこの手の話をライブで披露するが、相手がレコーディング・スタジオの警備員のパターンもあり。この話を浜田のネタと捉えるファンも多い)。
- ラジオ番組では、かつて『浜田省吾のロッテリア・ホットホットヒット』(北海道放送、1979年10月〜1980年)と『セイ!ヤング』(文化放送、1980年1月〜9月)でDJを務めたことがある。『セイ!ヤング』では音楽の話はもちろん、野球ネタや映画ネタ、そして当時のバンドの生ライブなどで人気となった。他に吉田栄作が浜田の大ファンだった経緯で当時、吉田が持っていたラジオ番組『吉田栄作Take Off』(ニッポン放送)にゲスト出演したり、やはり浜田のファンという『福山雅治のSUZUKI TALKING F.M.』(TOKYO FM)にもゲスト出演(2005年6月19日)している。
- テレビには殆ど出演したことはないが1979年、日清食品からの指名[4]で日清カップヌードルのCMソングに起用され、シングル「風を感じて」が初のスマッシュヒット。この関係で、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)や、日清食品がスポンサーだった『ヤングおー!おー!』(毎日放送)の公開放送に出演している。この時の事をのちのインタビューで述べているが、朝から音リハ・カメリハを2時間待ってはもう一回と何度も繰り返し、ワンハーフ(1番とサビ一つの2分くらい)を歌うための拘束時間は10時間ぐらいだったという。結局『ヤングおー!おー!』に3回、『夜のヒットスタジオ』に2回、計5回の地上波のテレビ出演がある。
- 近年は若いアーティストも早いうちから曲作りを始めることが話題となるが、浜田が本格的に曲作りを始めたのは、神奈川大学に入ってから、20歳の頃である。それまでは、作詞を浜田が手掛け、作曲は町支がしていて、自分に曲が作れるという発想があまりなかった。夏の暑い日、大学の正門の前にあった下宿で、好きだったザ・ビーチ・ボーイズの「サーファー・ガール」に影響を受け「二人の夏」を作ってみた。町支らに聞かせると、ブリティッシュ・ロックしか聴いたことのない彼らは、初めて聴くウエストコースト風のサウンドに「これはいいよ」と絶賛され、その気になった。あの時、町支らがけなしていたら曲作りは止めていたかも知れないと言う。
- 1975年、愛奴を脱退してソロデビューを希望したが何も明確に決まらず。世話になっていた吉田拓郎にまず曲を聴いてもらおうと自宅を訪ねると拓郎は引っ越しの最中。その日は9月30日で前夜、拓郎は「吉田拓郎のオールナイトニッポン」生放送で四角佳子との離婚を抜き打ち発表しマスコミが押しかけ大きな事件となっていた。徹夜明けの拓郎は浜田の曲を聴いてもうわの空で「これじゃダメだよ」「何で『二人の夏』や『恋の西武新宿線』みたいなのやらないの」「お前、時代が違うぞ」とか批判を繰り返し、そうこうしてるうちに「吉田君!」って井上陽水が拓郎を慰めようと家に来てビックリ。拓郎は「これ、浜田」とぶっきらぼうに紹介した後は、陽水と浜田は一緒にビートルズ・ナンバーを歌って拓郎を励まし浜田の曲の話はそれっきりになった。しかしながら、こうした関係からフォーライフが浜田をやるみたいだという噂が流れて、これを材料に広島フォーク時代からの知り合いで、CBSソニーにいた蔭山敬吾が上部に掛け合い、浜田はCBSソニーから引き続きソロデビューできた[5]。
- 自分の初期のシングルやアルバムに対して、あまり良い印象がないことを隠そうとしない。「5枚目までのアルバムは全部廃盤にして欲しい」と語ったこともある。
- 1970年代後半の長い下積み時代、小さな街で数百人を集めてのライヴに全精力を使い果たして、ホテルに帰ってテレビを付けると『ザ・ベストテン』をやっていて、後からデビューした人達が何十万枚とレコードを売って歌う姿を見る。テレビという巨大な主流・メインカルチャーに対して、「ライヴはカウンターカルチャーだと思う。テレビからこぼれ落ちた大切なものを僕達はていねいにすくって、大切に育ててきた」という自負をインタビューで述べている。
- 若いとき、音楽評論家・渋谷陽一のラジオ番組にゲスト出演。このとき議論が白熱し浜田が激怒し「結局なんでしょ、あんたたちゃあ、人の作ったものにケチつけてメシ食ってるんでしょうが!」と面と向かって毒づいたことがある。これに渋谷は「はい、そうですよ」と答えた。しかしながら、その後渋谷は自身の発刊する音楽誌で何度も浜田の特集を組むなど、今日に至るまで長きに渡り浜省を支援し続けている。渋谷自身、プライベートでも付き合いがある唯一のアーティストと述べている。
- 明石家さんまを自身のラジオ番組のゲストに呼んだ際には「スポーツジムでさんまのマナーが悪い」と、これも面と向かって説教を始めて「ボクがゲストやから」と笑いで済まそうとするさんまを無視し説教を続け、さんまを黙らせてしまったことがある。
- 尾崎豊、福山雅治、桜井和寿ら浜田に影響を受けたと言う後輩アーティストに会う時は、彼らの曲を事前にちゃんと聴いて、暖かいアドバイスを贈っている。言葉は「どんな事があっても歌い続けることだよ」と言う内容のようである。中村あゆみは、浜田に一番影響を受け人間的にもとても尊敬していると話している[6][7]。
- 浜田自身が元高校球児だったこともあってか、スポーツ界にもファンが多く、サッカー界では三浦知良やラモス瑠偉、高木琢也ら。カズは20年来の友人で2006年の浜田の2枚組アルバム『The Best of Shogo Hamada vol.1.2』のCMにも出演している[8]。格闘技界では三沢光晴、長州小力、所英男、現在はタレントの大仁田厚ら[9]。三沢はカラオケでよく浜省ナンバーを歌っていたという[10]。野球界では小笠原道大ら[11]。ヤンキースの松井秀喜もファンであり、コンサートで楽屋を訪問した[12]。競馬界では元騎手で、現在は調教師の的場均ら[13]。
- この他、著名人のファンとして増田英彦(ますだおかだ)、ビビる大木、山崎邦正らが有名[14][15]。山崎はモノマネ番組で浜田の歌をよく歌う。浜田翔子の芸名は父親が浜田ファンだったため[16]。
- 1999年夏、北海道での野外コンサートに向かうメンバーとスタッフを乗せたANA61便がハイジャックに遭遇。浜田自身は前日に北海道入りしていて無事だった。
- メディアに登場しないためあまり知られていないが、コンサートのMCでは饒舌ぶりを見せる。また、必ず開催地の感想や思い出を語り、ファンへの感謝の気持ちを述べる。
- 名瀬市でコンサートを行った際、「南海日々新聞」にて『久々の大物歌手が名瀬で公演するチケットの売出し日、(中略)全盛期を過ぎても、まさかここまで根強い人気があるとは』と掲載され、ステージで早速ネタにする(「俺はこれからが全盛期だと思ってるんだよ!」と笑いながら語った)。後日、同新聞に『あの一言は撤回します。素晴らしいコンサートでした』と記事が掲載される。
- コンサートでは、お客さんの年齢層を毎回確かめる「年代別チェック」が恒例になっている(「10代の人、手を叩いてみて」というように)。現在は30代と40代のオーディエンスが圧倒的に多い。
- あまりにもテレビに出演しないのと、動いている姿をコンサートでしか見られないため、観客から「動いてる!」と言われ、笑いながら「俺だって生きてるから動くよ!」と返したことがある。
- コンサートで「HELLO ROCK & ROLL CITY」を歌うときは、歌詞の一部(都市名)をコンサート開催地に変えて歌う(例、Hello 大阪 City~など)。
- 2000年、黒磯でのコンサート中、開始二曲目で「脹脛断裂」してしまう。それでもコンサートはやり遂げた。この事はワイドショーでもニュースになったほどである。しかし、このときのニュースで流れた映像が昔のもので、バックに流れたのは「風を感じて」であった。本人はこのことが一番ショックだったと語っている。
- 大きなヒット曲と言えるものは「悲しみは雪のように」(売上170万枚、週間1位、年間2位)の1曲のみ。オリコンでは10週1位を獲得し、平成以降ではCHAGE and ASKAの「SAY YES」(13週)に次ぎ、歴代2番目の記録となった。
- 2008年4月2日の発売された『ON THE ROAD 2005-2007 "My First Love"』(DVD)は男性単独アーティストのDVDで最も内容の多いDVDとして(540分を越す)ギネスに載っている。
- 2008年12月、2008年9月1日から続々と着うたフル(R)を配信しだしたところ、親世代の影響で聴き始めたと思われるアラフォー世代の子供、所謂"アラフォー・チルドレン"(10代後半から20代前半)に支持され、ダウンロード・チャートで上位に食い込む現象が起きた。デビューから30年以上たった現在でも、幅広い世代からの支持を受けている。[17]
- 甲斐バンドの「安奈」のアコーステックギターを弾いているのは、浜田省吾であると、甲斐よしひろがラジオや取材等で語っている。
[編集] ディスコグラフィー
[編集] シングル
| 発売日 | タイトル | b/w・c/w | 形態 | |
|---|---|---|---|---|
| 愛奴時代 | 1975年5月1日 | 二人の夏 | 雨模様 | EP |
| 愛奴時代 | 1975年9月1日 | 恋の西武新宿線 | 愛奴のテーマ | EP |
| 1st | 1976年4月21日 | 路地裏の少年 | 壁にむかって | EP |
| 2nd | 1976年10月21日 | 愛のかけひき | キャンパスの冬 | EP |
| 3rd | 1977年4月21日 | ラブ・トレイン | 君に会うまでは | EP |
| 4th | 1977年11月21日 | 木枯しの季節 | 独りぼっちのハイウェイ | EP |
| 5th | 1978年8月21日 | 涙あふれて | あの頃の僕 | EP |
| 6th | 1979年4月21日 | 愛を眠らせて | 片想い | EP |
| 7th | 1979年8月21日 | 風を感じて | 朝のシルエット | EP |
| 8th | 1979年12月21日 | さよならにくちづけ | ミス・ロンリー・ハート | EP |
| 9th | 1980年2月21日 | 青春のヴィジョン | とぎれた愛の物語 | EP |
| 10th | 1980年7月21日 | 明日なき世代 | 演奏旅行 | EP |
| 11th | 1980年10月21日 | 東京 | 火薬のように | EP |
| 12th | 1981年3月21日 | 陽のあたる場所 | あばずれセブンティーン | EP |
| 13th | 1981年8月26日 | ラストショー | さよならの前に | EP |
| 14th | 1981年11月21日 | 悲しみは雪のように | センチメンタルクリスマス | EP |
| 15th | 1982年2月25日 | ON THE ROAD | ラスト・ダンス | EP |
| 16th | 1982年11月21日 | マイホームタウン | 恋に落ちたら | EP |
| 17th | 1984年8月1日 | DANCE | THE LITTLE ROCKER'S MEDLEY | 12inch |
| 18th | 1985年5月22日 | LONELY-愛という約束事 | もうひとつの土曜日 | EP |
| 19th | 1985年12月8日 | BIG BOY BLUES | SWEET LITTLE DARLIN' | EP |
| 20th | 1986年7月16日 | 路地裏の少年 | 晩夏の鐘/WALKING IN THE RAIN | 12inch・CT |
| 21st | 1987年6月21日 | 二人の夏 | LITTLE SURFER GIRL | EP |
| 22nd | 1988年5月29日 | BREATHLESS LOVE | BLOOD LINE | 12inch・CT・CD |
| 23rd | 1992年2月1日 | 悲しみは雪のように | 愛という名のもとに | CT・CD |
| 24th | 1992年12月12日 | アヴェ・マリア | 永遠の恋人 | CD |
| 25th | 1994年4月25日 | 星の指輪 | こんな気持のまま | CD |
| 26th | 1995年7月1日 | 我が心のマリア | 恋は魔法さ | CD |
| 27th | 1996年9月30日 | さよならゲーム | あれから二人 | CD |
| 28th | 1997年10月22日 | イメージの詩 | 生まれたところを遠く離れて | EP・CD |
| 29th | 1998年4月1日 | モノクロームの虹 | 青空 | CD |
| 30th | 1998年10月1日 | LOVE HAS NO PRIDE | GIVE ME ONE MORE CHANCE | CD |
| 31st | 1998年12月2日 | 詩人の鐘/日はまた昇る | CD | |
| 32nd | 2000年4月1日 | …to be "Kissin'you"(french edit) | 真夏の路上/…to be "kissin' you" | CD |
| 33rd | 2001年8月1日 | 君の名を呼ぶ | 演奏旅行 | CD |
| 34th | 2003年9月10日 | 君に捧げるlove song | モダンガール(21 ctr. Ver.) | CD |
| 35th | 2005年4月13日 | 光と影の季節 | Midnight Blue Train 2005 | CD |
| 36th | 2005年6月8日 | I am a father | 君と歩いた道 | CD |
| 37th | 2005年10月12日 | Thank you | あの娘は誰/さよならの前に(2005Ver.) | CD |
2005年3月24日22nd~27thシングルまでをマキシシングルにリサイズして再発売
[編集] ReissueCDシングル
| 発売日 | タイトル | c/w |
|---|---|---|
| 1989年3月21日 | 路地裏の少年(1st SINGLE VERSION)/愛のかけひき(SINGLE VERSION) | |
| 1989年3月21日 | 木枯しの季節/涙あふれて | |
| 1989年3月21日 | 明日なき世代(SINGLE VERSION)/東京 | |
| 1989年3月21日 | ラストショー/ON THE ROAD | |
| 1989年3月21日 | マイホームタウン/陽のあたる場所 | |
| 1991年6月8日 | LONELY-愛という約束事(SINGLE VERSION)/もうひとつの土曜日(SINGLE VERSION) | |
| 1989年3月21日 | BIG BOY BLUES(SINGLE VERSION)/DANCE(12 inch SINGLE VERSION) | |
| 1991年6月8日 | J.BOY(LIVE VERSION) | WALKING IN THE RAIN |
| 1991年6月8日 | 二人の夏(浜田省吾ヴァージョン) | 二人の夏(愛奴ヴァージョン) |
| 1991年6月8日 | HELLO ROCK&ROLL CITY(LIVE VERSION) | THE LITTLE ROCKER'S MEDLEY |
| 1991年6月8日 | 風を感じて(LIVE VERSION) | ラスト・ダンス(LIVE VERSION) |
[編集] アルバム
[編集] 企画アルバム
| 発売日 | タイトル |
|---|---|
| 2007年11月28日 | STARS IN THE SUN 〜SHOGO HAMADA SONG BOOK |
| 2009年7月15日 | from a distance |
※順位はオリコンによる最高位。
[編集] 映像作品
[編集] コンサート数
- 1976年 15回
- 1977年 50回
- 1978年 53回
- 1979年 70回
- 1980年 96回
- 1981年 88回
- 1982年 122回
- 1983年 119回
- 1984年 87回
- 1985年 76回
- 1986年 64回
- 1987年 38回
- 1988年 90回
- 1989年 10回
- 1990年 55回
- 1991年 54回
- 1993年 37回
- 1994年 58回
- 1995年 3回
- 1996年 16回
- 1997年 13回
- 1998年 52回
- 1999年 61回
- 2000年 48回
- 2001年 35回
- 2002年 2回
- 2003年 10回
- 2005年 26回
- 2006年 28回
- 2007年 55回
- 2009年 15回
- 合計 1546回
[編集] ツアータイトル
- 1986年 I'm a J.BOY
- 1988年 FATHER'S SON
- 1991年 ONE AND ONLY
- 1993年 OCEAN AVENUE 7493
- 1994年 THE MOMENT OF THE MOMENT
- 1996年 Tender is the night
- 1998年-2001年 THE MONOCHROME RAINBOW
- 2001年 THE SHOGO MUST GO ON
- 2005年 MY FIRST LOVE
- 2006年-2007年 MY FIRST LOVE IS ROCK'N'ROLL
[編集] 関連人物
- 吉田拓郎 … 同じ広島出身であり、「広島フォーク村」の先輩でもある。プロ・デビューのきっかけを与えてくれた恩人。
- 町支寛二 … 高校時代からの音楽パートナー。浜田作品のほぼ全てにおいてコーラス・アレンジを手掛けている。ツアーでもギタリスト&コーラスとして参加している。
- 水谷公生 … 1978年発表のアルバム『Illumination』以来、長きに渡って浜田作品のプロデュースを手掛けている。浜田は「音楽の師」と仰いでいる。
- 星勝 … 元モップスのメンバー。水谷同様、数多くの浜田の作品をプロデュースしている。
- 山下達郎 … 同期で同い年。それぞれ音楽性は違うが、互いの音楽を評価し、対談やステージ競演も行っている。
- はっぴいえんど … ほとんど邦楽を聴かなかった浜田が、当時よく聴いていた数少ないグループ。特に大瀧詠一を好んで聴いていた。
- 尾崎豊 … 浜田に影響を受けたことを公言していた。ディレクターも同じ須藤晃が担当していた。
- 桜井和寿 … 同じく、浜田に影響を受けたミュージシャン。普段はあまり音楽を聴かないらしいが、浜田省吾のアルバムは熱心に聴くらしい。
- 渋谷陽一 … 音楽評論家。ロッキング・オン社長。公私に渡って浜田と長い付き合いがある。
- 吉野弘 … 浜田が最も敬愛する詩人。アルバム『CLUB SNOWBOUND』では吉野の詩を引用するなど、多大な影響を受けている。
- 甲斐よしひろ … 甲斐のソロ・カバーアルバムに収録の『あばずれセブン・ティーン』の提供や甲斐バンドの『安奈』のイントロのギターを弾いたり、甲斐が浜田の結婚式のスピーチをしたりと親交がある。
[編集] 脚注
- ^ 当時は予備校だったが、現在は同じ場所で通信制の高校になっている。
- ^ 「Complete Shogo Hamada―浜田省吾事典」TOKYO FM出版、1996年、p28
- ^ 「浜田省吾事典」TOKYO FM出版、p61
- ^ 「浜田省吾事典」TOKYO FM出版、p27
- ^ 「陽のあたる場所 浜田省吾ストーリー」田家秀樹著、角川文庫、1988年、p164-168
- ^ 中村あゆみ オフィシャルブログ『ビタミンのかけら』
- ^ 中村あゆみ『VOICE』セルフ・ライナーノーツ
- ^ 日刊スポーツ、2006年7月25日、p24
- ^ テレビブロス、東京ニュース通信社、2006年4月15日号、p13
- ^ 別冊宝島804 音楽誌が書かないJポップ批評26、宝島社、2003年、p32
- ^ 音楽誌が書かないJポップ批評26、p32
- ^ 野球小僧編集部ログ
- ^ 音楽誌が書かないJポップ批評26、p32
- ^ テレビブロス、2006年4月15日号、p13
- ^ 音楽誌が書かないJポップ批評26、p6-9
- ^ テレビブロス、2006年4月15日号、p13
- ^ BARKS『“アラフォー・チルドレン”の間で浜田省吾ブレイク中』
[編集] 参考文献
- 「陽のあたる場所 浜田省吾ストーリー」 田家秀樹著 角川文庫(1988年)
- 「Complete Shogo Hamada 浜田省吾事典」TOKYO FM出版(1996年)
- 「青空のゆくえ - 浜田省吾の軌跡」渋谷陽一著 ロッキング・オン(1999年)
- 「別冊宝島804 音楽誌が書かないJポップ批評26」 宝島社(2003)