氷室京介

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氷室京介
基本情報
出生名 寺西修 
別名 ヒムロック
出生 1960年10月7日(48歳)
血液型 O型
出身地 群馬県高崎市
ジャンル J-ROCK
職業 シンガーソングライター
音楽プロデューサー
担当楽器 ボーカル
ギター
活動期間 1982年 - 1988年
BOØWY
1988年 -
(ソロ活動)
レーベル EMI music japan
事務所 Beat Nix
共同作業者 森雪之丞
松井五郎
影響 デヴィッド・ボウイ
エルヴィス・コステロ
など
  

氷室 京介(ひむろ きょうすけ、1960年10月7日 - )は日本ロックボーカリストミュージシャン

群馬県高崎市出身。所属事務所はBeat Nix。ロサンゼルス在住。

目次

[編集] 人物

1982年氷室狂介の名前[1]で、ロックバンドBOØWYヴォーカリストとして、アルバムMORAL』で再デビュー[2]を果たす。

システムに組み込まれないという価値観と性急なまでの縦ノリビートが、当時20歳前後の若者に絶大なる支持を得て、日本独自のビートロックバンドとして、それ以後、解散までの約6年間に、日本のロック界ではまだ有り得なかった数々の伝説を残した(音楽評論家の間では、よく「BOØWY以前、BOØWY以後」と表現された)。

1988年、シングル『ANGEL』でソロデビュー。同年オリコン年間順位8位となる。その後も、独自のロック美学と圧倒的なライブパフォーマンスが、カリスマ的に多くのフォロワーや業界関係者に影響を与える。バラッドでの声の広がり、音程など、その歌唱技術にも定評がある(また、バンド解散後にソロとしても1位を取り続けることの出来たアーティストは少ない)。

1994年、ロサンゼルスに創作拠点を置いて以後、マスメディアへの露出は更に減ったが(「たとえファンが離れても仕方ないと思っていた」と、後にコメント)、日本でライブコンサーを開けば、驚くほどの数のファンが集まる。ロサンゼルスという環境を生かして、凄腕の外国人エンジニアアーティストミュージシャン等に自らオファーを出し、自らをプロデュースするという形をとっている。また、クロムハーツコラボレートするなど、ファッションにもこだわりを見せている。

趣味は、ライカでの写真撮影。好きな写真家は、アンリ・カルティエ・ブレッソンなど。

[編集] 音楽に対する姿勢

レコーディングでは、ジョシュ・フリーズ(Josh Freese、ドラム)、マイケル・ランドウ(ギター)など、その他ロサンゼルスの売れ筋ミュージシャンを多く起用している。楽曲は、幾度も作り直すなど、アレンジや録音にも多くの時間を割いて、演者であること以上にクリエイティブであり続けることに重きを置いている。

また“あくまでニルヴァーナ以降の流れ”とのコメントからは、80年代以降、もはや存在しないと認識されていた、初期衝動としてのロックやインディペンデントであることなどが、90年代に再び発見されたように、それらが、やはり自分にとっても重要であって、いかにランキングや流行の波に乗るかといったことはさして興味がなく、“俺の求めるサウンドはもう、こちらにさえない”と、最近になってコメントするほど、常に何処にも存在しないものを自分の力で創り出したいという欲求は、むしろロックというよりも真のアーティスト的な感覚に近い。

特に、2003年のアルバムリリース直後「クレームが来ないか心配だった」と語る通り、それまでのバラードなどのクオリティ重視とは打って変わり、再び荒削りなロックとしての音作りを追求。実際に、前作の感じを期待していると裏切られ、賛否両論に別れるというのが、渡米後は普通のこととなって来ている。

[編集] 作詞について

作詞に関しては、初期は、松井五郎が主だったが、最近では、森雪之丞の起用が目立つ。本人曰く「BOØWY時代は、詞を書いたが、ソロではほとんど詞を書かなくなった」、「アルバム『FOLLOW THE WIND』は全て雪之丞さんに作詞を依頼した」とのこと。

自分で作詞をしなくなったのは、BOØWYのアルバム『MORAL』収録曲の『SCHOOL OUT』の詞の内容に影響された若者が「あなたの言うとおり学校を中退した」などとする内容の手紙を送って来たためで、自身の歌詞の影響力について深く知ったため、と述べている。

シングル『EASY LOVE』、アルバム『IN THE MOOD』収録曲『Ignition』では、再び松井五郎を起用した。「息子の成長を見守ってる内に自分にも心境の変化があった。この世界を表現するには松井さんが適任だと思った」「彼の詞は聴き手によって、どちらの意味にも取れるので…」とその理由を述べた。

「そろそろ自分でも詞を書く時期に来ているのかな」とのコメントもしているが、過去の氷室自身にしか作れない言い回しなどをよく知るファンからは、再び作詞を希望する声も多く聞かれる。

[編集] 過酷なツアー

ライヴツアーの本数が増えて来ていることに関しては、「肉体的には疲れても精神的にはエネルギーをもらえるから」と、コメントしている。

ツアーのサポート・ミュージシャンは、本田毅(ギター)、西山史晃(ベース)など、主要メンバーは定着している。ドラマーキーボーディストなど起用するミュージシャンにより、変化あるツアーを実現しているが、そのバンドの魅力は、なんといっても毎回演奏クオリティの高さだろう。また、派手な演出やMCをするわけでもなく、延々と終演まで20数曲をたたみかけていく様は、まさにライヴの王道である。

洋ロックの有名ハウス・エンジニアを迎えるなど、自他共に音への要求レベルも高い。それは、コアなファンも同様でときにグルーブPA、果ては氷室自身のコンディションやオーディエンスのノリなどについて感想をぶつけあうといったことが、ツアー中は夜ごとどこかで繰り返されたりする。

そんな10代から50代までの耳の肥えた、またはライブ慣れしたオーディエンスも含む幅広い層のファンのみならず、多くの業界関係者にも足を運ばせる。最近では、女性のオーディエンスも増え、男女比は6:4くらいになっている。

[編集] Web関連

2007年、自宅のスタジオから「青少年のいじめや自殺問題」に言及するなど、ダイレクトなコミュニケーションツールとしてのポッドキャストの配信を開始。音楽に没頭する期間は、そう頻繁に更新することは難しいが、日本だけでなく、またファン以外の人の反応もつぶさに感じ取れるとあって、熱のこもったトークが展開された。寄せられた感想などは、直接彼のパソコン上にあがる仕組みになっており、その感想などにまた彼が答える、といったやりとりが好評だった。

2007年のツアーにおける3月13日に行われたライブの映像が、4月4日からiTunes Storeにおいて順次リリースされた。公演後わずか3週間でライブビデオとしてリリースするという試みは、日本人初であった。

[編集] 経歴

[編集] デビュー

  • 1979年
    • 当時、高校生だった彼は、同級生の松井恒松ら四人で結成したアマチュアバンド「デスペナルティ」で、ヤマハ主催の「EAST WEST '79」決勝大会において入賞(演奏した楽曲「ブルー・シガレット・ラブ」は、後に「CHU-RU-LU」として発表された。また、このコンクールでの演奏は、デス・ペナルティとして唯一音源化されている)。これを機に上京し、音楽事務所「ビーイング」と契約。しかしながら、事務所社長・長戸大幸の意向でバンド解散。その後、寺西修一と名乗り、バンド「スピニッヂ・パワー」のシングル『BORO BORO BORO』にコーラスとして参加。
  • 1980年
    • 第三期ボーカリストとしてスピニッヂ・パワーに正式加入し、シングル『HOT SUMMER RAIN』、アルバム『IN & OUT』で、本格的にプロデビュー。テレビ番組『11時に歌いましょう』(TBS)などに出演する。しかし、ポップス色の強かったバンドの音楽性などが肌に合わず脱退(その後、バンドも解散する)。

[編集] BOØWY時代

  • 1981年
    • 全てが思い通りにならない、どん底の時期に氷室は意を決し、当時18歳の布袋寅泰[3]を電話で六本木の「アマンド」に呼び出し、BOØWY結成の話を持ちかけ、彼の協力のもと曲作り及び失った自らのバンドの再生を果たす。
  • 1982年
    • 3月21日、アルバム『MORAL』でBOØWYのボーカリストとして再デビュー。
  • 1984年
    • 12月、「狂介」から「京介」に改名[4]
  • 1987年
    • 12月24日既に絶頂期の人気を獲得していたBOØWYは、その年、解散という噂とともにツアーを続けていたが、ファイナルの渋谷公会堂のアンコール、氷室からバンドの終焉を宣言。

[編集] ソロ始動

  • 1988年
    • 7月21日、解散公演からわずか3ヵ月後の7月、シングル『ANGEL』でソロデビュー。その後、ツアーも開始[5]
    • 10月27日、STINGの東京ドーム来日コンサートに出演する。
    • 12月12日 - 15日、KING SWING[6]香港ツアー(香港QUEEN ELIZABETH STADIUMにてライブコンサート)
  • 1989年
    • 7月21日Charlie Sexton(ギターリスト)の東京公演にゲスト出演。
    • 8月6日、「HIROSHIMA '89 LIVE」に出演(sp≒eed名義でのシークレット出演)。
    • 9月27日、2nd アルバム『NEO FASCIO[7]』リリース。
  • 1990年
    • 4月13日 - 18日、KING SWING ハワイツアーを敢行。
    • 7月7日、「GOLDEN AGE OF R&R(日比谷野外音楽堂)」に出演(sp≒eed名義でのシークレット出演[8])。
    • 8月6日、「JT SUPER SOUND '90(真駒内陸上競技場)」に出演。
    • 8月12日、「ROCK'N ROLLオリンピック(仙台スポーツランド)」に出演。
    • 10月27日、A.R.B.のラストコンサート(代々木体育館)にゲスト出演(「TOKYO CITYは風だらけ」を競演する)。
  • 1991年
    • 8月1日、「JT SUPER SOUND '91(日本武道館)」に出演(この模様は日本テレビにて放送。「LOVE & GAME」を演奏する)。 
  • 1992年
    • 12月7日、シングル『KISS ME』リリース。自身初のミリオンセラーを達成する。
  • 1993年
    • 1月7日、アルバム『Memories Of Blue』リリース。累計130万枚を超える大ヒットとなる[9]

[編集] 渡米後

[編集] 作品

[編集] シングル

タイアップ

[編集] アルバム

[編集] オリジナルアルバム

[編集] ベストアルバム

[編集] ライブアルバム

[編集] その他アルバム

  • LOVER'S DAY double happiness(1991年8月21日)
  • MASTERPIECE #12[22](1992年4月25日)
  • Lover's Day II(1999年1月27日)
カバー
iTunes
  • 「IN THE MOOD」先行リリース限定Trackとして「Snow-White Moonlight」を配信
  • 「Safe And Sound」KYOSUKE HIMURO feat. GERARD WAY

[編集] ビデオ

  • KING OF ROCK SHOW of 88'S-89'S TURNING PROCESS(1989年・VHS)
  • NEO FASCIO TURNING POINT(1990年・VHS)
  • Birth of Lovers(1990年・VHS)
  • OVER SOUL MATRIX(1991年・VHS)
  • CAPTURED CLIPS(1993年・VHS)
  • LIVE AT THE TOKYO DOME SHAKE THE FAKE TOUR(1995年・VHS)
  • MISSING PIECE(1997年・VHS)
  • The one night stands - tour "Collective Souls" 1998(1998年・VHS)
  • 100152(1999年・VHS)
  • Digital BeatNix Tower(2000年・DVD、CD-ROM)
  • CASE OF HIMURO 15th Anniversary Special LIVE(2003年・DVD)
  • HIGHER THAN HEAVEN~AT YOYOGI NATIONAL STADIUM(2004年・DVD)
  • 21st Century BoØwys vs Himuro/An Attempt to Discover New Truths(2004年・DVD)
  • SOUL STANDING BY~(2005年・DVD)
  • Kyosuke Himuro/Captured Clips 1988-2006 (2006年・DVD)
  • Lightning Trick on iTunes - TOUR 2007 "IN THE MOOD" - (2007年・デジタルコンテンツ)
その他
  • "SWING ADDICTION at AJINOMOTO STADIUM"「SWEET REVOLUTION」(2006・シングル限定DVD)、
  • 「ANSWER」「SUMMER GAME」(2006・「IN THE MOOD」アルバム限定DVD)
  • "CROSSOVER 05-06 2nd STAGE at MAKUHARI MESSE"「SWEET REVOLUTION」(2006・「IN THE MOOD」アルバム限定DVD)

[編集] 楽曲提供

  • 奥田圭子
    • 『STORMY NIGHT』 - 作詞:芹沢類/作曲:氷室京介/編曲:小泉まさみ(1985年)
    • 『プラスティック』 - 作詞:秋元康/作曲:氷室京介/編曲:布袋寅泰(1985年)
  • 小泉今日子
  • 仲村知夏
    • 『天使は眠っている』 - 作詞:森正和/作曲:氷室京介(1989年)
    • 『BE COOL』 - 作詞:松宮晴吉/作曲:氷室京介(1989年)
      メロディーはアルバム『FLOWERS for ALGERNON』収録の楽曲「LOVE & GAME」と同一。
  • 反町隆史
    • 『SINCERELY』 - 作詞:反町隆史/作曲:氷室京介/編曲:吉田健(1998年)
    • 『ONE』 - 作詞:反町隆史/作曲:氷室京介/編曲:吉田健(1998年)
      後に氷室は、『beat haze odyssey』で同曲をセルフカバーした。
  • DAIGO☆STARDUST
    • 『MARIA』 - 作詞:DAIGO/作曲:氷室京介(2003年)
      メロディーはシングル『Claudia』と同一。
  • KAT-TUN
    • Keep the faith』(作詞: 氷室京介、SPIN/RAP詞:JOKER/作曲: 氷室京介)
      自身が作詞に携わるのは、アルバム『Case of HIMURO』に収録されている「CLOUDY HEART」、「ANGEL 2003」以来、4年7ヶ月ぶり。

[編集] ライブコンサート

  • 1988年
    • KING OF ROCK SHOW "DON'T KNOCK THE ROCK"(5公演、約5万人)、
    • KING OF ROCK SHOW "FLOWERS for ALGERNON"(15公演、約18万人)
  • 1989年
    • "NEO FASCIO"TOUR(36公演、約13万人)
  • 1990年
    • "NEO FASCIO ENCORE" TOUR ARENA '90(7公演、約10万人)
  • 1991年
    • OVER SOUL MATRIX TOUR 1991(46公演、約12万人)
  • 1993年
    • TOUR 1993 "L'EGOISTE"(51公演、約15万人)
  • 1994年
    • SHAKE THE FAKE(16公演、約19万人)
  • 1998年
    • TOUR "COLLECTIVE SOULS"1998 One Night Stand[23](14公演、約21万人)
  • 2000年
    • KYOSUKE HIMURO TOUR 2000"BEAT HAZE ODYSSEY"(35公演、約10万人)
  • 2003年
  • 2004年
  • 2005年
  • 2006年
  • 2007年
    • KYOSUKE HIMURO TOUR 2007 "IN THE MOOD"(47公演、約12万人)

[編集] 出演

[編集] 映画

  • 裸の24時間(1984年、自主制作映画)

[編集] テレビドラマ

[編集] テレビ番組

  • THE SLEEPLESS NIGHT~氷室48HOURS~ (1999年、NHKBS2)

[編集] ラジオ番組

[編集] CM

[編集] 書籍

[編集] 写真集

[編集] 関連項目

  • 吉田拓郎
    子供の頃ファンでギターを始めるきっかけになった。後に「たどりついたらいつも雨降り」を氷室がカバー。
  • キャロル
    キャロルの解散ライブ映像を見て、バンドを始めるきっかけになった。
  • RCサクセション
    氷室は再デビュー前、挫折して群馬へ帰る直前、彼女にもらったチケットでコンサートを見に行き、ステージだけに集中している多くのファンたちの様子などを目の当たりにして、音楽に対する情熱を取り戻し、帰郷を思い留まったというエピソードがある。
  • 泉谷しげる
    「独りファシズム」を作詞。少年院を共に訪問した。
  • ジェラルド・ウェイ
    「Safe and Sound」をコラボレーションした。
  • スティーヴ・スティーヴンス
    グラミー賞受賞ギタリスト。氷室渡米後のレコーディングやツアーに参加。
  • リチャード・スターク
    クロムハーツの設立者にして責任者。氷室のステージ衣装やアクセサリーデザインも手がける。
  • ミック・ジャガー
    「ステージ見たら、俺泣いちゃいますからね」など、必ずといっていいほど定期的にコメントの中でリスペクトすべき人物として名前を出している。
  • グリーン・デイ
    iPodに彼らのライブ映像を全てダウンロードするほどお気に入り。
  • 山田かまち
    幼なじみ。同じ小・中学校出身。
  • 東海ラジオ放送
    先述した「SF Rock Station」の制作・放送局。この時 番組パーソナリティーをやらせてもらっていた事から、氷室は名古屋でコンサートを行う際「名古屋は第二の故郷」とコメントする事がある。
  • 佐伯明、友森昭一、ヒロ鈴木、市川訓由、永井利光、後藤次利、ホッピー神山、北島健二、佐橋佳幸、美久月千晴、佐久間正英田家秀樹DAITA

[編集] 脚注

  1. ^ 芸名の名字「氷室」は、漫画ワル」(真樹日佐夫作・影丸穣也画)に登場する主人公に由来する。
  • ^ 再デビューとなった経緯については経歴のデビューを参照してください。
  • ^ 同郷ではあったが、当時の二人に面識はそれ程なかった。
  • ^ 京都に行った際、占い師に「狂」の字を使うのは良くないと言われたため(参照:月刊カドカワ1991年4月号 総力特集氷室京介70ページ)。
  • ^ 当時の音楽シーンが遅れて来たメディアを通じて一過性のバンドブームに湧く中、誰もやったことのない特設ステージをソロとしてのツアー会場に選んだ。会場では雨に祟られることも多くBOØWY時代同様、必ずしもコンディションの良いステージばかりではなかったが、それはそれまで同様、追われる側として当たり前の音楽シーンとは一線を画すアクションだった。
  • ^ オフィシャルファンクラブ名(ツアー名でも使われた”KING”はチェスが命名の由来)
  • ^ 世界では中国の天安門事件、ベルリンの壁崩壊、湾岸戦争勃発と混乱と狂騒に包まれていた。ソロデビュー1stと同様、ポップなイメージを予想していた多くの人たちに、このコンセプトアルバムを通して、自分の音楽への向き合い方を明確に提示した。
  • ^ この時期、前ツアーから共にライブを行って来たバンドといくつかのイベントに出演、翌年にはレコーディングスタイルもバンドとともにスタジオへ入るなど、バンドの中でのボーカリストとしての在り方を追求していた時期と言える。
  • ^ 渋谷の街をジャックしたかのような巨大なボードやウォールペインティング、ポスター、その後、珍しくなくなったこれらのプロモーションスタイルは当時は斬新なものだった。
  • ^ 後のインタビューでは「あのまま日本にいたら、きっと自分はダメになっていたと思う」と発言している。
  • ^ この時期からシングルにバラードが登場しはじめ、チャートやセールスに左右されない創作活動を念頭に置くようになる。また、ビデオクリップでコラボレートした新進気鋭の映像集団”PROPAGANDA”は、それまでの自分をとりまくシステムを考え直すほどの強烈な感銘を彼に与えた。
  • ^ BOØWY時代に「CASE OF BOØWY」と称したライブを行い、またビデオでもリリースされた。バンド解散20周年を迎え、この単独イベントが唯一バンド解散を前提とした企画であったことが公表されている。
  • ^ どこの会場でも熱狂的に迎えられ、最終、東京代々木公演のアンコール「Cloudy Heart」でのハプニングは彼とオーディエンスとの深い絆を誰もが再確認した出来事だった。その"HIGHER THAN HEAVEN"ツアーファイナルの模様はファンの熱い要望で異例の1ライブ完全収録でビデオリリースされている。
  • ^ ネット上などでは、バンド解散の美学への裏切りであるとか、ソロ後のファンへの裏切りであるとかの強い反発意見も出たが、バンドの元フロントマン自らトリビュートしたことに関して、「長年、応援してくれているファンが喜んでくれれば」「当時のバンド仲間に敬意を込めて」「(再結成や様々な問いかけに対する)俺なりの答えです」とコメントした。ちなみに、ライブイベントのサブタイトルの和訳は「温故知新」である。
  • ^ 15年以上も前の曲が使われた理由として、プロデューサーの野村哲也は以前から氷室京介のファンで、「製作中にずっとこの曲がイメージとして頭にあった」とコメントした。
  • ^ GLAYが氷室京介のファンであることは以前から有名であるが、対談すら過去に実現しなかった両者のコラボレートが今になって実現した背景にはGLAYがそのとき抱えていた事務所独立に伴うトラブルを聞いたうえで氷室が「一緒にやろう」と快諾したとされている。
  • ^ 出演のきっかけは氷室の息子がMr.childrenのファンでスタッフ経由でサインを貰ったことがあったためと氷室自身が明かしている
  • ^ レコーディングは氷室がリスペクトする錚々たるメンバー(Andy Newmark, Jeff Thal, Tony Levin)と共に行われた。
  • ^ 1年以上の歳月をかけて完成されたこのアルバムのタイトルは、原作が洋書絵本「僕を探しに」、「ビッグ・オーとの出会い」の2冊からヒントを得て付けられた。
  • ^ このアルバムをもって氷室自身「究極の氷室京介の音楽」と語っている。L.Aを活動の拠点にし、また憧れのギタリスト、スティーブ・スティーブンスの協力を得たことで達成された満足感と自信を強烈に感じさせる力強い作品に仕上がっている。
  • ^ このアルバムを氷室が「自分のためだけに創ったアルバム」とコメントしたことからオフィシャルBBSが閉鎖されてしまうほどの一部のファンからの反発を受けた。ある意味、彼自身の偽りの無い感情が唯一公開され発信されたアルバム。
  • ^ 氷室のレコーディングに欠かせないエンジニアNeil Dorfsmanとのセッションが初めて実現したのは、この作品から。
  • ^ 1298日ぶりのステージとなったアリーナクラスを中心に行われた全国ツアー。サポートギタリストにスティーヴ・スティーヴンス本人、ステージデザインにストーンズなどを手掛けるマーク・フィッシャーなど、圧倒的スケールで話題の多かったツアー。
  • ^ 企画から写真選択に至るまで氷室自身が手掛けた写真集。撮影はローマからカイロ、セイシェルからニューヨークまで世界6カ国を旅しながら、フォトグラファー加藤正憲によって行われた。(当時のコンサート会場、通販限定)
  • ※部分的に、KING SWING編集のプライベートマガジン"The Interviews 1998-2000"を参照した。

[編集] 外部リンク