吉田拓郎

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吉田 拓郎
基本情報
出生名 吉田 拓郎
別名 よしだ たくろう
入江 剣
出生 1946年4月5日(68歳)
日本の旗 日本 鹿児島県伊佐郡大口町
(現:伊佐市
出身地 日本の旗 日本 広島県広島市(現南区
血液型 A型
学歴 広島商科大学(現:広島修道大学)卒業
ジャンル フォークソング
職業 シンガーソングライター
作詞家
作曲家
編曲家
音楽プロデューサー
担当楽器 ボーカル
ギター
ハーモニカ
ベース
コーラス
活動期間 1970年 -
レーベル ELEC
1970年 - 1971年
ODYSSEY/CBS SONY
1972年 - 1975年
FORLIFE
1975年 - 1999年
IMPERIAL
2000年 - 2009年
avex trax
2009年 - )
事務所 竹田企画
共同作業者 新六文銭
瀬尾一三
愛奴
かまやつひろし
松任谷正隆
ブッカー・T・ジョーンズ
加藤和彦
LOVE LOVE ALL STARS
吉田建
武部聡志
鳥山雄司
公式サイト 吉田拓郎 avex official website
著名使用楽器
ギブソンJ-45
マーチンD-35
ヤマハL-53
フェンダー・テレキャスター(ビグスビー・アーム付きモデルなど多数)
フェンダー・テレキャスター・シンライン
ギブソン・レスポール
ヤマハCPX-15NA
ボブ・ディラン

吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年4月5日 - )は、日本シンガーソングライター作詞家作曲家編曲家音楽プロデューサーフォーライフレコードの第2代社長である。
本名同じ。旧芸名は平仮名の「よしだたくろう」。楽曲提供者としては「入江剣[1]」の名を用いたこともある。

目次

人物[編集]

鹿児島県伊佐郡大口町(のちの大口市、現:伊佐市)生まれ、広島県広島市南区西霞町育ち。
学歴は鹿児島市立谷山小学校広島市立皆実小学校広島市立翠町中学校広島県立広島皆実高等学校→広島商科大学(現:広島修道大学)。
夫人は四角佳子浅田美代子森下愛子血液型A型。身長176.5cm。
竹田企画所属。レコードレーベルエレックレコードCBSソニーフォーライフ・レコードインペリアルレコードavex trax

日本のシンガーソングライターの草分け的存在であり[2][3][4][5][6][7]、マイナーだったフォークロックを日本の音楽シーンのメインストリームに引き上げた人物の一人とされる[8][9][10]。また、大規模ワンマン野外コンサートラジオの活性化、CMソングコンサートツアープロデューサー、レコード会社設立など、多岐な活動を行うパイオニアとして、日本ポピュラーミュージック史における最重要人物の一人である[2][5][7][11][12][13][14][注釈 1]

2000年2月号の日経エンタテインメント!の特集「J-POPの歴史をつくった100人」で、ポピュラリティーを得るために戦った“J-POPの開祖”と記される[15]

来歴[編集]

生い立ち[編集]

1946年4月5日に、鹿児島県大口市で生まれる。両親は朝鮮羅南からの引き揚げ者で、出生地など、生い立ちの詳細は不明である[注釈 2][16]。父親は吉田家の養子で鹿児島県庁に勤務し、鹿児島の郷土史研究を仕事としていた。1955年に両親が別居し、立教大学に進学した兄と別居となり、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居した[注釈 3][16]。幼少期から喘息持ちで体が弱かったため家にいる事が多く、母に本を買い与えられていたが、音楽に興味を持ったためウクレレを買ってもらい音楽を始めた。立教大学ジャズ研でピアニストを目指した兄が、休暇中に女性同伴で帰郷したのがきっかけで音楽に興味を持つようになった。

1962年に、皆実高校に入学し、級友と「トーン・ダイヤモンズ[注釈 4][17]というインストゥルメンタルバンドを結成、ウクレレのパートを担当した。1963年の高校2年の時、自宅に下宿していた広大生にクラシック・ギターを教えてもらい曲作りを始める。初めて作ったオリジナル曲は高校時代のマドンナのことを歌った「準ちゃん」である[18][19]。その後ビートルズの影響を強く受けてバンドはビートルズのコピー専門となる。バンド名を1964年に「プレイボーイズ」に変更した。

1965年広島商科大学に入学し、カントリー&ウエスタン部と応援団に入部した。中学の同級生と新たに「ザ・バチュラーズ」を結成し、ドラムスを担当した。同年秋に初コンサートを開催し、ビートルズのコピーのほかオリジナル曲も演奏した。この年、メンバーと上京し渡辺プロダクションに売り込むがグループ・サウンズブームも未到来の時代であり、相手にされなかった[20][注釈 5]。ちなみに、この時チャーリー石黒が応対し、デビュー前の森進一がお茶を出した。

アマチュア期[編集]

1966年
  • カレッジフォークブームを受け、バンド活動と平行してソロでフォークスタイルの活動を始めた。アコースティック・ギターの方が、作詞作曲がやりやすいと聞いたことがきっかけでもある。
  • ソロでコロムビア洋楽部主催のフォークコンテストに出場[21]。中国大会2位であったが、7月24日に湘南逗子海岸であった決勝大会に進出し[22]、自作曲『土地に柵する馬鹿がいる』を、針金を曲げて作った手製のハーモニカホルダーと改造した12弦ギターで歌うが、3位となりプロデビューはできなかった[22][21]
  • コロムビアの大阪営業所や洋楽部を訪れデビューを懇願したり、コロムビアの東京本社で社長の前で歌ったり、レコード会社に売り込むが全て不合格となる[21][23]
  • 平凡パンチ』で「和製ボブ・ディラン」と紹介され広島で知名度が上がるが[24]、広島の音楽仲間からは批判も出て居心地も悪く、単身上京した[25][26]。しかし無理な生活がたたって栄養失調に陥り、帰郷する[27]。この影響で大学は1年休学し、5年間通うこととなる。
1967年
1968年
  • 前年に引き続き『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場し中国地区優勝、ヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となった[32]
  • この年の春、拓郎の発案で広島の3つのフォーク団体がアマチュアフォークサークル『広島フォーク村』を結成[33][34]。年寄(顧問格)として参加し実質のリーダーであった。『沖縄フォーク村』を始め、各地に出来た「〇〇フォーク村」は、拓郎らが作った「広島フォーク村」に触発されて生まれたもの[35]。レコードも出していないのに地元ラジオにリクエストが殺到したため、NHK広島に出演したり中国放送DJを担当したりした。
  • 全国で最後まで激しい学園闘争を続けた広島大学バリケードで囲まれたステージで『イメージの詩』を歌う[36]。演奏終了後、白いヘルメット姿の学生に取り囲まれ激しいアジを浴びせられた[37]
1969年
  • カワイ楽器広島店[38]に就職内定していたが[39][40]上智大学全共闘のメンバー[41]が自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作することになり参加した[42][43]。このアルバム制作も実質のプロデューサーだったといわれる[44]。長いタイトルは、アングラ・レコードであった象徴でもあるが、全共闘の闘争資金を得るための企画でもあった[44][43][45]
1970年
  • 1969年冬レコーディング後[46]、1970年3月頃ユーゲントレーベルから『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』が発売される。自主制作のため「広島フォーク村」メンバーによる手売りで販売された[47]。レコード制作に関係たエレックレコードが、拓郎の『イメージの詩/マークII』を本人無許可でシングルカットし関東広島地域でリリースしたが、本人抗議で音源を録り直すことになった。そこでエレックレコードの浅沼勇に口説かれ、「ダウンタウンズ」を解散し上京した[48][49]

1970年代前半:よしだたくろう期(1970年 - 1974年)[編集]

エレック所属期[編集]

1970年
  • 3月、「平凡パンチ」3月30日号に「120曲のニューフォークを創った"日本のボブ・ディラン"」という記事名で4ページに渡り特集記事が掲載される[9][50]
  • この頃、ラジオ関東「横浜スタジオの「キョーリン・フォーク・カプセル」に飛び込み演奏をした[9]
  • 4月インディーズレーベルのはしりとも言うべきエレックレコードに契約社員として就職する。社員は6人ほどで、アーティストとしてではなく月給制の社員契約、初任給は3万5千円だった[注釈 6][51][52]。エレックはまともな仕事は取ってこれず[53]愛川欽也が司会をしていた子供番組のオーディションに参加し「イメージの詩」を歌って審査員の子供に落とされたり、NHKのオーディションで藤山一郎に落とされたりした[54]
  • 4月11日、エレックレコードからアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう[注釈 7]を発売。
  • 6月、『広島フォーク村アルバム発売記念コンサート』が東京厚生年金会館[56]で開催。
    • 客はほとんどいなかったが[57]当時イベントの企画などを手がけていた後藤由多加はこれを見て、その後請負コンサートなどに拓郎を起用した[58][59]。後藤はこれを機に拓郎の重要なパートナーとなる[60]
    • 紹介記事を書いた朝日ソノラマが"ニュー・フォークの旗手"として紹介し、7月号から9月号に歌をソノシートにして付録に付けた[61][62]。レコード制作はエレック。このことを拓郎は後年「僕はソノシートでデビューしたんだ」と語っている。ソロデビューの仕方は曖昧だったが、もちろんソノシートでデビューしたわけでは無い。
1971年
  • 4月25日、2ndシングル『青春の詩 / とっぽい男のバラード』発売。5ヶ月間、広島時代のバンド仲間と3人組のミニバンドでコンサートを行う。
  • 8月7日9日、『第3回全日本フォークジャンボリー』に出演。このパフォーマンスは拓郎を神話化したと言われる[4][67][68]。暴徒化した観客を恐れて岡林信康が逃げ帰ったため、フォークファンでは、岡林沈黙・拓郎台頭という世代交代を印象付けたと言われる[69]。拓郎もその期待に応えるように、以降、積極的なメジャー展開を図り、深夜ラジオのパーソナリティ→ビジネスライクな活動を行う音楽事務所の設立→大手レコード会社移籍を経て、ヒットチャートのトップに立ち、短期間でスターダムに登りつめる[69][70][71]
  • ニッポン放送「バイタリス・フォークビレッジ」のパーソナリティも担当(拓郎が担当した期間は不明だが、この番組自体は1966年から1972年まで)[72][73]。カレッジフォーク中心の曲構成をがらりと変え、番組テーマ曲も拓郎の曲に変更し、リスナーの詞に曲を付け歌う企画やアマチュアのコンテストなども行った。
  • ラジオ関東「ニュー・ミュージック・ムーブメント」パーソナリティ(開始月、終了年月不明)。
  • 10月、後藤由多加と拓郎が中心となって、アーティスト主体の音楽制作プロダクション[74]ユイ音楽工房[注釈 8]』を設立[75][76]
  • 10月8日、それまでワンマン・リサイタル形式のマンスリーコンサートでライブ活動を行っていた拓郎を中心にエレックレコードとニッポン放送がしかけた『唄の市・旗揚げ公演』(渋谷東横劇場)が開催される[77][78]。出演は拓郎の他、加藤和彦六文銭ピピ&コット泉谷しげる、万華鏡、古井戸[79]。拓郎は『ユイ音楽工房』の設立でエレックとの関係が悪くなっていたが、泉谷へのスムーズなバトンタッチをするため『唄の市』に協力した[77]。『唄の市』は人気を博しその後全国展開された[80]
  • 11月20日ロックR&B的ナンバーをいっそう増やした[81]2ndアルバム『人間なんて』を発表。30万枚を売上げ、前の2枚のアルバムも引きづられて30万枚を売上げ、ひと月で60万枚売れた[65]
  • 広島フォーク村の後輩・大久保一久が組んでいたアマチュアグループ・ににんがしの自主制作盤に「知らない街で」を提供。これが拓郎の他人への初の提供曲とされる[82]

CBSソニー(オデッセイレーベル)所属期[編集]

1972年
1973年
1974年

1970年代後半(1975年 - 1979年)[編集]

1975年
1976年
1977年
  • 11月25日 - アルバム『大いなる人』発売。
  • 12月10日 - シングル「カンパリソーダとフライドポテト/あの娘に逢えたら」発売。
    • 収録曲「カンパリソーダとフライド・ポテト」の影響でカンパリソーダが認知された。
  • また前年のフォーライフ第1回新人オーディションに応募してきた原田真二のプロデュースを手がけた。
1978年
1979年

1980年代[編集]

1980年
1981年
1982年
1983年
1985年
1986年
1988年
  • 1月1日 - プライベート・オフィス、宇田川オフィス設立[149]
1989年

1990年代[編集]

1992年
1994年
1996年
  • 10月19日 - 音楽バラエティー番組『LOVE LOVEあいしてる』(フジテレビ系列)スタート。レギュラー出演しKinKi Kidsと共に司会を担当した。
    • テレビ嫌いで有名だった拓郎がテレビのレギュラー番組に出演することが注目を集めた。
    • この番組では坂崎幸之助と共にKinKi Kidsにギターを指導し、彼らの音楽活動に多大な影響を与えた。
1998年
  • 7月29日 - 「LOVE LOVE あいしてる」のテーマ曲であり拓郎が楽曲提供した「全部だきしめて」が収録されたKinKi Kidsのシングル『全部だきしめて/青の時代』が発売。
    • オリコン4週連続1位・1998年度シングル売上10位を記録。
    • 拓郎にとって初の提供作品ミリオンセラーと1975年(昭和50年)のかまやつひろし「我が良き友よ」以来となる提供作品によるオリコンチャート1位を達成した。
1999年

2000年代[編集]

2000年
2003年
  • 4月 - 肺ガン手術。春ツアーをキャンセル。
  • 春、30年来の夢であったビッグバンド形式でのコンサートツアーを目前にして、健康診断で肺がんが見つかった。すぐに手術、コンサートツアーは延期となった。手術は無事成功し、秋には復帰コンサートで全国に元気な姿を見せた。これを機に禁煙。ビッグバンドでのコンサートツアーはこの年から2006年まで毎年行われた。
2006年
2007年
2008年
2009年
  • 2月10日 - avexに移籍[11][注釈 17]
  • 4月15日 - 30thアルバム『午前中に…』を発売。オリコンアルバムランキングで初登場6位を記録。
  • 6月21日 - 生涯最後の全国ツアー『Have A Nice Day LIVE 2009』(10ヶ所10公演)をスタート。4公演は滞りなく行われる。
  • 7月8日 - 大阪公演の約45分前に体調不良を訴え公演中止が決定した。診察の結果、慢性気管支炎の悪化で約2週間の自宅療養が必要との診断を受け、福岡、広島、神戸の3公演は中止となった。
  • 7月23日 - つま恋へ移動する車中で体調の異変を訴え、その日の内に残り2公演の中止が決定。「最終となるツアーがこのような結末となり本当に無念であります」という一文で始まるコメントを発表した[153]

2010年代[編集]

2013年
  • 1月30日 - 前年のライブを収録した『吉田拓郎 LIVE 2012』(Blu-rayDVDCD付DVD)発売。オリコン週間DVDランキング総合6位を記録し、TOP10入り史上最年長(66歳10ヶ月)を記録した[154]

ディスコグラフィ・楽曲提供・書籍[編集]

ライブ[編集]

シンガーソングライターとして[編集]

音楽性[編集]

政治性を排除
  • 自身の生き方や恋愛体験などをテーマにした拓郎の歌は、従来のフォークファンからは“大衆に迎合して軟弱な歌を歌っている”“商業主義”“裏切り者”“堕落した”などと批判され、ジョイントコンサートなどの会場では激しい“帰れコール”[注釈 18]を浴びることも多かった[5][155][156][157]
  • 1972年4月22日日本武道館で行われた「フォーク・オールスター夢の競演音搦大歌合戦[158]」なるイベントでは、岐阜の山から降りて久しぶりにステージに立った岡林信康の後に登場した拓郎に激しい“帰れコール”が浴びせられ歌が聞こえないほどであった[159][160]。またビール瓶などモノを投げつけられ本当に帰る事もあったという(慶應三田祭事件)[161][162][163]。当時は客席から罵声が飛ぶことは珍しくなく、拓郎のステージに罵声が飛ぶのは日常茶飯事だった[164]。拓郎はフォークシンガーで初めて女性ファンが付いたスターで[8][85][165]、雑誌に「よしだたくろうのコンサートには、女学生が多くて、フォーリーブスのコンサートみたいで、とにかくムナクソ悪い」などと書かれた[166]
  • 罵声が飛んでも歌い続ける姿勢が、支持者を増やしたとされる[164]。全ての若者がプロテストの臭いがするフォークを支持しているわけではない中、多数の“普通の“同世代の若者から熱狂的な支持を受けた[167]。フォークシンガーが内省的となる傾向のある中で、平凡でストレートに思いを表現する潔さがあったとされる[164]北中正和は「1972年に連合赤軍 あさま山荘事件が起こり、彼らのリンチ殺人事件が発覚すると、学生運動に何らかの共感を抱いていた人たちの気分も引いてしまった。1960年代の余燼はどんどん消えていった。吉田拓郎の人気浮上は、そんな世相の変化を感じさせた」と論じている[70]寺島実郎は「吉田拓郎の『結婚しようよ』と井上陽水の『傘がない』を聴いたとき、『政治の季節』が終わったことを確認した」と論じている[168]菊池清麿は「吉田拓郎の登場は、自作自演のスタイルはもちろんのこと、世代感をアピールする強烈なリアリティーを持つ新しい若者文化だった。これによってフォークの形態が大きく変わった」と論じている[169]
自作自演スタイルの一般化
  • ダンガリーのシャツにジーパンギブソンのギター、ハーモニカ・ホルダーを首にかけ[170]、歌詞カードを譜面台に乗せ座って歌う[171]、うつむいてボソボソと喋り、時々客席をむいて何かを叫ぶという拓郎のスタイルを多くの若者がまねた[172][173]
  • それまで自作自演は一部のフォークだけだったが、拓郎以降、それが一般化した[174]。1970年代から、少なくともフォークやロックは自作自演であることが大前提になっていくが、拓郎はそのきっかけになった[174]
  • 拓郎の効果でギターダンガリーシャツジーパンが非常に良く売れた[175][176][注釈 19]。拓郎以前は外国人ミュージシャンのコピーが主流であったが、拓郎以降は拓郎をコピーする若者が増えた[177][178][179]。拓郎がフォークの大ヒットを出したことでブームは中学生にまで及んだ[180]。誰でも拓郎になれる、と当時の若者は信じた[181]
ニュー・フォーク
  • YOUNG GUITARは1970年7月号で、長谷川きよし別れのサンバ』、拓郎の『イメージの詩』、ベッツィ&クリス白い色は恋人の色』を例に挙げて"ニュー・フォーク"を説明している[182]。ここで"ニュー・フォーク"とは、従来の現実をやたら酷く解釈し、自分の弱さの隠れ蓑を求めさせるようなものでなく、現実の社会からかけ離れることなく、身近なテーマから将来の夢を結ぶような橋にあたるドラマを設定できる歌、と説明している。拓郎のギターそれ自体は従来のフォークにリズム&ブルースのフィーリングとビートが加わっただけのもので、新しいものではないが、自分の最も得意なギター伴奏の上で、本当の心の歌を歌いあげている。素晴らしい詩人であり音楽家であり、とうとう日本にも真のフォーク・シンガーが生まれたと評している[182]
  • 新譜ジャーナルは1972年3月号で、拓郎ら新たに台頭してきたフォーク・シンガーをまとめて"ニュー・フォーク-第三の流れ"と紹介した[183]
  • この"ニュー・フォーク"という言葉は、1970年頃から使われた"ニュー・ロック"から派生した言い方と思われるが、現在はどちらも死語のようになっている。しかし当時は一般の週刊誌などでも使われ流行した[184]
  • "第三の流れ"というのは、アングラフォーク、カレッジフォークに続く流れという意味で、1970年代のフォーク、ニューミュージックは拓郎を突破口にした、このニュー・フォークの流れをくむもの[185]。ニュー・フォークというのは、1960年代のアングラに対して、それがメジャー系に浮上した拓郎に始まる[186]。「ニューミュージックという言葉は、もともとはニュー・フォークからきていると思われる」[186]「ニューミュージック」の発生は、拓郎の1972年の連続ヒットからという見方もある[187][188]菊池清麿は「ニューミュージックは、ニュー・フォークから始まった。それは吉田拓郎が、アングラに対してメジャー系に浮上したことをきっかけにしていた」「J-POPの発祥を遡及すれば、ビートルズの影響を受けた日本のフォークがポップス化し、これに8ビートのロック・リズムが融合されたことにたどり着く。1970年代のロック、フォークから連綿と流れるポップスの総称として成立した。ニューミュージックの中でも日本を感じさせない楽曲がJ-POPに発展したという見方もできる」などと論じている[189]
フォークの二分化と終焉
  • 若い女の子のファンが多く、それまでのフォーク・ファンの層とは異なっていた。当時のフォークコンサートは複数の歌い手が出演したが、彼女達は拓郎以外の歌い手の出番ではまるで聴く様子がなく、拓郎の登場時のみ黄色い声を飛ばし、終わると会場を去っていった[190]なぎら健壱は、「フォークは拓郎の登場を境に硬派路線とアイドル路線に分かれ、拓郎が新境地を次々と開拓して絶頂期を迎えると同時に、フォークは終焉を迎えた」と述べている[191]
  • 1960年代後半の社会的な内容を含んでいるものが目立ったフォーク・ソングは、拓郎の登場で形態が大きく変わり拓郎以降、個人の心情や風景をうたう歌や、愛の歌が増え、次の時期のニューミュージックへの架け橋にもなっていく[192][193]
自由奔放
  • デビュー年のソノシートに収録された沖縄の基地問題を替え歌で唄った「基地サ」の他、1971年6月に発売された2枚目のアルバム『よしだたくろう・オンステージ ともだち』には、MC差別用語を3度も連発する「私は狂ってる」、『たくろう・オン・ステージ 第二集』には「日本人になりたい」という人種差別を扱った問題作も収録されている。拓郎の放送禁止歌というと後年の「ペニーレインでバーボン」が有名だが、デビュー時から先鋭的なシンガーでもあった[194][195]
  • こうした楽曲以外にも多くのレギュラーを持ったラジオや雑誌のインタビュー等での自由奔放な発言、言動は多くの共感を呼んだが、それは芸能界全体にも影響を及ぼした。
渡辺プロ
  • 1970年代後半の渡辺プロの凋落については他プロダクションの台頭などが理由として挙げられるが、非常に鍛えられた渡辺プロの歌手たちが人気を失い渡辺プロが変わった理由について、渡辺プロの諸岡義明専務は『きっちり教育され、型にはめてつくられたタレントなり歌手なりが、視聴者に飽きられたからでしょう。拓郎もそうですが、型にはまらない自由で奔放なタレントや暗さがあるキャラクターが好まれるようになったのも一因だと思います』と話している[196]
  • なお拓郎は「渡辺プロが製作した『ザ・ヒットパレード』に大きな影響を受けた」と話しているが[197]、これについて荒俣宏は、「拓郎を音楽に走らせたきっかけの一つに渡辺プロの活動があったというのは、まさしくシンボリックな逸話といえる。なぜなら、その拓郎をはじめとする新しい波が、テレビとは無関係な音楽を創りだし、渡辺プロの創りだしたテレビ歌謡を変えていくことになったのだから」と論じている[198]

影響を受けたミュージシャン[編集]

洋楽の原点

洋楽の原点はニール・セダカコニー・フランシスリック・ネルソンヘンリー・マンシーニなどアメリカンポップスとパーシー・フェイス夏の日の恋」など映画音楽だった[199]。アマチュア時代のダウンタウンズでのレパートリーはビートルズ、ローリング・ストーンズスペンサー・ディヴィス・グループサム&デイヴオーティス・レディングサム・クックウィルソン・ピケットや後年、拓郎のレコーディングに参加したブッカー・T&ザ・MG'sなどだった[110][200]

ボブ・ディラン

FEN 岩国放送で、ビートルズやボブ・ディランもリアルタイムで聴いていた。

ディランには詩よりもメロディに影響を受けたが、ビートルズは当初はうるさ過ぎるとあまり好きになれなかったという。アマチュア時代に曲作りで最も影響を受けた曲としてパーシー・フェイス楽団の『夏の日の恋』とボブ・ディランの『風に吹かれて』を挙げている。

楽曲や生き方を含めてボブ・ディランの影響を強く受けたことはよく知られる[201]。拓郎は「ギター一本で自分の音楽を発表できることを知って人生変わった。ただし音楽スタイルやメロディが好きで、イデオロギーに憧れたのではない」と話している[202]

"フォークロックの神様"、"『風に吹かれて』のプロテストソングヒーロー"、"ビートルズドラッグを教えた反逆者"といったボブ・ディランのイメージは、拓郎が深夜放送のラジオでやたらボブ・ディランの凄さを語り、曲を流したことで日本人に植えつけられたもの、と中森明夫は述べている[203]。拓郎が「ディラン、ディラン」と叫びまわったため、CBSソニーから出ていたボブ・ディランのレコードが、以前の5倍以上売れたという[204]。日本に於けるボブ・ディランの最大の普及者でもある[205]。中学の時、「吉田拓郎になろう」と決めたという浦沢直樹みうらじゅんは、拓郎を通してボブ・ディランを知ったと話している[206]。なおソニーは1973年に拓郎の選曲でボブ・ディランのベスト盤『BOB DYLAN; Gift Pack Series10』を発売している[207]

高校時代のマドンナのことを歌った「準ちゃんが与えた今日の吉田拓郎への多大なる影響」は、ボブ・ディランの「ハッティ・キャロルの淋しい死」の替え歌である[161][注釈 20]

山本コウタローが1975年、自著「誰も知らなかったよしだ拓郎」出版にあたり拓郎に「歌謡曲でも何でもいいから、好きな曲を3曲挙げてくれ」との質問には『デソレイション・ロウ(Desolation Row)』『ジャスト・ライク・ア・ウーマン』『アイ・ウォント・ユー』と全てボブ・ディランの曲を挙げたという[208]

パクリとアンチテーゼ

特に初期の楽曲はボブ・ディランの影響・パクリを取り沙汰される。拓郎自身「おいしいメロディがある」[209]等、昔からインタビュー等で「盗作した」とはっきり発言をしており[210]小室哲哉との対談でも盗作(パクリ)談義が盛り上がった勢いからか、「いっぱい盗作しましたけどね」とはっきり言ってしまっている[211]

「『イメージの詩』については、ファンだった岡林信康の『私達の望むものは』に感動はしたが、「私達は、と言えない。俺は俺っていう歌を作りたい」という意図で作ったと話している[37][212]

作詞法[編集]

字余りの作詞法
  • 曲作りに多用した"字余り"という作詞法[注釈 21][4][213]は、その元祖といわれ[214]、後のシンガー・ソングライターに多大な影響を与えた[174][215][216]
    • それまでの日本の歌謡曲やポップスは、音譜ひとつにひとつの字、とぴったりハマっており、多少の字余り、字足らずは気にしない[217]言葉を自由にメロディに載せる、或いは日本語の歌を強引に捻じ曲げるという手法は当時は革命であり、これは拓郎によって始まったものである[4][218][219][220]。そのオリジナリティは半世紀近いキャリアを経た現在でも、全く衰えることはない[4]
    • 他に"コードリズムの上に、歌詞をのせていくような""メロディを歌うというよりも、詩を語っているような""アドリブで歌っているような"という表現もされた[221]
  • この他の作詞法として、平坦な話言葉を使い歌詞を組み立てる、起承転結の形式を解体し独特の言葉の反復でリズムをつけていく、といった方法論も斬新で画期的であった[222][223]
  • 小林亜星は、阿久悠の著書内の「歌謡曲のことば」というテーマ、作曲家から客観的に見た歌詞のルール、歌詞とメロディーの結びつき、という考察に於いて、「ニューミュージックの隆盛期以来、日本語の扱いが随分変わりました。これは日本歌謡史上の大革命だったんです。吉田拓郎や井上陽水がやった革命なんです。それまでの日本の歌は、一つのオタマジャクシに一つの日本語の発音がはめ込まれていた。日本語って随分不便な言葉だなあ、と吉田拓郎あたりが考えて、一つのオタマジャクシで「私は」と言ってしまった。こんな歌い方はそれまで日本にありませんでした。日本人の感覚にないんですね、これがニューミュージックです。ニューミュージック以後、こんなふうにして言葉の扱いが変わってきたんですね。日本語でロックやポップスを歌ってもかっこよくなりました。ですから拓郎さんなんかの努力で、歌謡曲が非常にカッコよくなりました。ニューミュージック革命以後、日本語の発音は英語風になっているんですよ」と論じている[224]
  • 拓郎の"字余り字足らずソング"については、同業者の中に批判する者もあり、赤い鳥は1974年のインタビューで「ただ言いたいことを言いたいんだったらシャベればいいんであって、音楽を使ってやっているんだったら、それは音楽に対する冒涜」[225]成毛滋は「だいたい"字余りソング"なんていうのはリズム音痴だから平気でできるんで、リズム感のいい人だったら気持ち悪くて聞いてられない。だけど、それをお客もやる方も喜んでやってるんだから、リズム音痴に向いてる音楽じゃないかって思う」などと批判している[226]
です・ます調の普及者
  • 作詞やラジオパーソナリティとして多く用いた「〜なのです」「〜なのだ」「〜であります」「〜でありまして」「〜でありました」などの言い回しは、です・ます調(デス・マス調)と呼ばれ、松本隆とともにその普及者といわれる[227][228]
    • 拓郎の場合は、曲作りだけでなく、多くのラジオレギュラーでもこのような言い回しを多用し、当時のフォーク少年にこの口調を真似られた[229]
    • 拓郎自身は自著で「深夜放送でのシャベリ口調は言葉の遊びとしてやたら連発した」「その後、歌謡曲や小説、誌面の見出しなどに"です・ます調"が増えた」「僕は音楽シーンにおける"です・ます"はひとつの革命と信じる。確実に歌の世界が広くなった」 などと述べている[230]
  • こうした言葉の使い方は歌謡界、職業作家にも影響を与えた。
  • です・ます調の"創始者"については『新譜ジャーナル』1977年のユーミンと松本隆の対談で以下のやりとりがある。ユーミン「松本さんの始めたデスマス体(この文献の表記)っていうのは、ゼッタイ新しかったわけでしょ。そういうのを浸透させたっていうのは、拓郎なんかも一端になっているかもしれないけど、松本さんがすごいインパクトを持っていたと思うの」(中略)松本「同時進行で僕と、遠藤賢司とか高田渡が始めていたね」と述べている[233]。ただ普及ということで言えば、拓郎の当時の影響力は松本や遠藤らとは比較にならない程大きなものであった。

作曲法[編集]

日本語による曲作りの定着

欧米からの輸入であるフォークやロックは、1970年代初め頃まで、そのまま英語で歌うべきか、日本語で歌うべきか、といった議論がまだされていた。"日本語ロック論争"(はっぴいえんど論争)などが有名だが「新譜ジャーナル」の編集長を務めた鈴木勝生は、「日本語でうたう運動そのものが影を薄め、日本語でうたうのが当たり前という時代を迎えたのは1972年、吉田拓郎の『結婚しようよ』『旅の宿』の二曲の大ヒット以降で、そのためか、1970年9月から東京日比谷野外音楽堂で年に二回開かれ、多くのフォークとロックのアーティストを育てた"日本語のふぉーくとろっく"のコンサートも1972年5月で終了した」と論じている[234]

拓郎節とも呼ばれる個性の強いメロディライン
  • 拓郎のフォロワーが多く現れた理由としては、拓郎の曲がとっつきやすいといわれるテンションが少なくシンプルなコード進行であり、にもかかわらず非常に個性の強いメロディラインで構成されていることが考えられる[4][235]
    • フォークっぽい雰囲気を持ちながらポップでメロディアスな楽曲である。のオリジナル・ナンバーだけでなく、アーティストへの提供曲でも拓郎節が滲み出ている[74][127][215][236]
    • 拓郎節、拓郎調とも称される独特のコード進行については、小室等との対談[237]や、小室哲哉との対談でその一端を言及している[注釈 22][238]
  • 近田春夫[239]は著書の中で、「無理のない曲で、シロウトにでも作れそうな、しかもプロを感じさせる作曲家こそ天才で森田公一と拓郎にそれを感じる」と述べている[240]
  • ピチカート・ファイヴ小西康陽は、好きな作曲家として"歌謡曲作家としての拓郎"を挙げている[241]
  • 喜多条忠は、拓郎を「当代一のメロディ・メーカー」と評価している[242]
  • 小林武史は、「あくまでこれは僕の見方ですけど、『吉田拓郎という作曲法』の人と言っていいんだと思う。何しろ、ものすごいオリジナリティがある。詞がウンヌンより曲作りがものすごい。それは『襟裳岬』一つ取っても分かる。拓郎さんもボブ・ディランから影響されているんだろうけど、Aメロ→Bメロ→サビじゃない構成も普通にあって、"何なんだろう、あれ?"って思う」と話している[243]
  • 福田和也は、「吉田拓郎はメロディメーカーとしても、すごい独特。『襟裳岬』は本当に"話し出す"みたいなどこにもないメロディラインで完璧にオリジナル山田耕作のあとは吉田拓郎しかいないんじゃないか、と誰かが書いてた」などと話している[244]
  • 佐藤良明は著書の中で、日本語によく馴染み、私的コミュニケーションの雰囲気を作りだす拍どりを「しゃべり拍」と名づけ、「これを1970年代の日本のうたに浸透させたのは、この拍どりを多様した拓郎らフォークシンガーの功績」と論じている[245]
  • なお、拓郎自身は日本の作曲家として、浜口庫之助平尾昌晃がいいと言ったことがある[246]

歌唱法[編集]

山本コウタローは、拓郎以前のフォークシンガーは、岡林にしてもわりときれいな声で、拓郎のような怒鳴り調、太い声で歌うシンガーはあまりいなかったと述べている。さらにその声だけでなくビートの強さ、リズムの良さ、その上歌詞も素晴らしい、一方で「イメージの詩」を歌いながら「マークII」のようなポップな曲も歌える幅の広さが衝撃的だったと話している。また自分の歌、メッセージ、スタイルを人にどう伝えられるか、どう守るかといった"自己プロデュース能力"が早くから秀でていたと、今になると思うと話している[247]

小坂忠久保田麻琴荒井由実などのバックでドラマーを務めた平野肇は、拓郎の『今はまだ人生を語らず』(1974年)のレコーディングに参加したが、「ペニーレインでバーボン」に於ける拓郎のボーカルスタイルに驚き、「こんなボーカルははじめてだった。ロックのセッションもずいぶんやったし、いろいろなタイプのボーカリストともやってきたけど、段違いのパワーを感じた。しかも日本語がこれほど突き刺さってくるという驚き。完璧にロックであり、ロックスピリッツに満ちた歌だった」と感想を述べている[248]

YO-KINGは「拓郎さんの男っぽさが魅力でした。独特の拓郎節とでもいうべきメロディー。そして、あの声はやっぱり凄いですよ。説得力というか、迫力というか。きれいに歌おうと思ってない。大声でしゃべっているような感じで歌っちゃうのが、かっこいいじゃんという提示を受けた気がする」と述べている[249]

小栗勘太郎は「自分の周りの極私的なことしか描いていないのに、時代の雰囲気が伝わってくる。拓郎の歌のリアリティは、虚飾を排したシンプルな歌詞が直裁に伝わる旋律と拓郎の声の合わせ技の妙」と解説している[92]

こうした作詞法[注釈 23]や作曲法、テーマ設定[注釈 24]、楽曲アレンジ、歌唱法などは、その後の日本のフォークとロックに有形無形の影響を与えることとなった[注釈 25][250]渡辺プロダクションのお抱え編曲家だった東海林修は「旅の宿」が世に出たとき、ニューミュージックのパワーより、フォークやロックを回路して滲み出てきた日本の土着性を聴き分け「豆腐と障子紙以外に、はじめて日本のオリジナルが出た」と唸ったという。ナベプロにニューミュージックのセクションが創設されたのは「旅の宿」の大ヒットがきっかけ[251]

多様な音楽ジャンルへのアプローチ[編集]

「『ザ・ヒットパレード』がなかったら今はない」と発言している[252]。アマチュア時代は長くロックバンド(R&Bバンド)を組んでおり、フォークのみに依拠しているわけではない[70][253][254][255]。ファースト・アルバム『青春の詩』にブルースロック調、オーケストラをフィーチャーしたサンバボサノヴァジャズ調とフォークでない楽曲を収録している[70][256]。多様な音楽ジャンルの楽曲制作が認められるため、元来、ポップス歌手でありフォークブームを巧みに利用したにすぎない、という論調もある[257]篠原章は「『青春の詩』で試みた反体制イディオムと青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、後のロッカーもこの手法を無意識に踏襲している」と論じている[258]北中正和は「吉田拓郎の音楽の衝撃は、短音階の曲とロック的なサウンドを結びつけたこと」と論じている[70]。矢沢保は「もともと真のフォークソングとは何の関係もない歌手だが、全共闘の協力でLPを出したのを出発点に、CBSソニーという大資本に乗りかえて、自分の身体もろとも、フォークソングを売り渡し、すっかり『現代歌謡曲』にしてしまった。たくろうの場合は、かつて全学連委員長だった香山健一学習院大学教授におさまりかえって自民党走狗になり下っているのと、あまりにも似ているように思います」などと批判している[259]

『青春の詩』でマックスと共にバックを務めたのがジャズ・ギタリストの沢田駿吾クィンテット。70年代の前半は"フォーク"も"ロック"も、明確な区別やジャンルがあったわけではなく(現在も明確にはないが)、"新しい日本の音楽"という沸々と滾るマグマのような流れの中で混在しつつ共存していた[260]。拓郎はその頂点、あるいは"クロスロード"的交流点に立っていた[260]。1stアルバム『青春の詩』や、拓郎自身がプロデュースを務めた3rdアルバム『人間なんて』では、ロックやR&B系のミュージシャンを多数起用し、すべてを包括しようという大胆な試みを行っている[260][261]。1970年前後に「日本語のフォーク、ロック」という論争があったが、アマチュア時代の1968年頃作った「たどりついたらいつも雨降り」の原曲「好きになったよ女の娘」は、ロックのサウンドに日本語歌詞をつけており、フォークやロックに限らない。[260][262][263][264]。1972年7月に発売されたの「雪」は、ボサノバラテン調の洋楽ポップス的サウンドであるが[265]このレコーディングに拓郎から伴奏を頼まれたというエディ藩は、凝ったフレージングをやると、「やめてくれ、もっと大衆的な弾き方でやってくれ」などと、色々注文をつけてきて、すごい商売人、さすが売れるレコードを作る男だ、と感じたと述べている[266]牧村憲一は「拓郎さんは大きく分けるとフォークの世界の人なんですけど、彼の果たした役割というのは、サウンドの世界とフォークの世界のちょうど中間に立ってて、両方をうまく仲介できた」と述べている[267]

1988年に拓郎の「たどりついたらいつも雨ふり」をカバーした氷室京介は、物心ついて一番最初に聴き始めた音楽は、洋楽ではビートルズ、日本では吉田拓郎であるとあかし、自身の中で拓郎はロック歌手であり、ボブ・ディランとかニール・ヤングとかと変わらない存在であると話している[268]

ROLLYは「私にとってレッド・ツェッペリンクイーンより吉田拓郎が音楽の原点」と述べている[269]

高護は、「1970年のよしだたくろう登場によってフォーク・シーンは新たな展開を迎えることになった。そのサウンド・プロダクションはシンプルだったがフォークロックを基調とする点で、それまでの岡林信康高石友也とは明らかに一線を画していた。フォークはよしだたくろうを端緒とする"シンガー・ソング・ライター"として一つの音楽的形態、および音楽レコードの一カテゴリーとして定着することになる。彼らの多くは既成の歌謡曲=芸能界との差別化を望んで、発売されるレーベルやマネージメント・システムも徐々に整備されていった」等と論じている[6]

アルバム製作[編集]

ロックバンドと共同でのアルバム制作
  • 1stアルバム『青春の詩』の製作にあたり、エレックレコードの専務兼プロデューサー・浅沼勇は自身が審査員を務めたヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト第2回のボーカルグループサウンド部門で優勝したマックス[注釈 26]を起用した。
    • スタジオ・ミュージシャンと呼ばれるプロが歌謡曲歌手の音作りを専門としていた当時では、ひとつのロックバンドがアーティストと綿密に打ち合わせをしながら音を作っていく、という画期的なレコーディングであった[270][注釈 27]
    • 浅沼はマックスを起用した理由について「拓郎のフォークの荒削りな良さを消さず、拓郎ワールドを創っていけるタイトなリズムを持つバンドが必要と考えた」と述べている。
アルバム・セールス時代の先鞭
  • 1972年7月21日にリリースしたLPレコード(アルバム)『元気です。』は、フォーク系、ニューミュージック系シンガーとして、またシンガーソングライターとしてオリコン史上初の1位獲得アルバムである。それまでの1位獲得アルバムは、演歌女性アイドルか、洋楽に限られていて、演歌以外の男性歌手としても初の1位獲得であった。アルバムが売れない時代に[注釈 28]、1ヶ月間で40万枚を売り上げるというシングル並みのセールスを記録[271]、オリコンアルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を独走しアルバム・セールス時代の先鞭をつけた[272]。アルバムがシングルレコードの寄せ集めではなく、アルバムとして一つの主張をもった作品として考えられるようになるのは、拓郎や小椋佳井上陽水らフォークシンガーの良質なアルバムの制作と大ヒットからである[273]
日本初の本格的ライブ・アルバム
  • 1971年発売のアルバム『よしだたくろう・オンステージ ともだち』には曲の合間のMC(当時"シャベリ"などと呼ばれた)がたっぷり入っている。当時のフォーク・シンガーはこういうスタイルが多かったが、それをそのまま収めてライブ・アルバムで出すのは珍しかった。拓郎が人気者になった理由の一つに喋りの面白さが挙げられる[274]。また拓郎の独持の口調「○○でアリマス」などの言い回しもよく流行った[260][275]。1973年に本格的なブラス、ストリングスを加えて行われたライブを収録したアルバム『LIVE'73』は日本のレコード史上最初の本格的なライヴアルバムともいわれる[276]。 このライブで歌われた楽曲は大半が新曲。まだステージで一度も歌ったことのない新曲をライブで披露するという試みも前例のないものであった[277]
カバーアルバムの先駆
  • フォーライフ2年目の赤字を解消するために制作された1977年のアルバム『ぷらいべえと』は、近年増えるカバーアルバムの先駆的作品。

大規模コンサートの実施[編集]

全国ツアーの手法に新機軸[編集]

  • 1973年秋、タレント売り出しに何千万もかけてテレビ中心に売り込みをかける当時の業界への反発から、日本のミュージシャンで初めてPA、照明などのスタッフを帯同しての全国ツアーを敢行する[5][278][99][279]
    • 当時、この手法は色々と困難であるという指摘を受けたという。実際、会場が取れないなどの軋轢も生んだが、やがてこのシステムが一般的となった[280]
    • この事は、従来、地元の興行師が仕切って来た運営が縮小し、地方のイベンターや、ぴあに代表されるチケット事業、情報サービス事業など、新たな産業を生み出した[281]
    • 1970年代はじめから小坂忠久保田麻琴荒井由実などのバックでドラマーを務めた平野肇が、拓郎の『今はまだ人生を語らず』(1974年)のレコーディングに参加した後、拓郎にペニーレイン[282]で、「今度ツアーがあるんだけど、一緒にまわらないか」「俺たちのツアーは面白いぞ」と誘われ、この"ツアー"という響きに大きな魅力を感じたと述べている[283]。拓郎は、全国ツアーを始めたと同時に"ツアー"というフレーズを常用していた。
    • 長渕剛は「おれは尊敬する拓郎さんのようにギター・ケースを持って全国をコンサート・ツアーでまわりたい」と拓郎の所属するユイ音楽工房に入った[284]
  • 同じ年の10月に神田共立講堂で2日、渋谷公会堂で同じく2日と4日連続で行われた公演も今では珍しくない大ホール連続公演の日本でのさきがけと言われる。最初は日本武道館で1日だけと考えていたが、拓郎自身が「雰囲気もいや。音楽やるのに向いてない」と武道館を嫌い、別の同一会場で、当初1週間連続を計画したが、会場の都合が付かずこのような形態になった[285]

つま恋オールナイトコンサート[編集]

1975年8月2日3日に開催された「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」もまた画期的なものだった[4][286][287]

篠島コンサート[編集]

  • 1979年7月26日27日に行った篠島コンサートは、一つの離島を借切るというイベントで、日本のコンサートでは史上初の試みであった[注釈 29][288]。先のつま恋と合わせ、常識を覆して深夜に人を集めるという方法で成功を収めた[289]
    • ゲストに小室等長渕剛を迎え、2万4千人を集めた。
      • デビュー2年目の長渕が一時の拓郎のように「帰れコール」を浴びながら最後までステージを押し通した話は長渕の有名なエピソードである[290][291]

吉田拓郎&かぐや姫 Concert in つま恋 2006[編集]

音楽ビジネスへの影響[編集]

テレビ出演拒否[編集]

  • 1972年「旅の宿」の大ヒット中に有名な「テレビ出演拒否」を行う[2][4][13][292]。「テレビ出演拒否」という言葉も拓郎によって出来た[293][294][295]。拒否のきっかけとして布施明とのエピソードが有名であるが[293][296][297]、著書では当時のテレビを最大限利用した藤圭子のような既成のプロ歌手とは逆の「自分はテレビを拒否したところにいるプロ歌手でいよう!」と考えた意地だったと述べている[296]。この他、当時の音楽番組はヤクザのような連中が作っていて、汚いかっこうで現場に行くと『なんだ、そのかっこうは』とさげすまれる時代。四分の曲を二分半くらいにまとめられ、まったくそういう発想のない僕らが登場したとき、彼らは不愉快だったと思うなどとインタビューで述べている[298]。拓郎の要求は「『結婚しようよ』1曲だけの3分だけなら出ない。3曲、20分は欲しい」という内容のものであったが[299]、それは歌番組が最新ヒット曲のみで構成された1970年代では有り得ない要求であった[295][300]
    • 当時の日本の音楽界は歌謡曲・演歌が主流で、各レコード会社が抱えている職業作詞家・作曲家が書いた曲を歌手が歌うという分業体制があり、テレビに出演することでファンにアピールし、シングルレコードを売るというのが主要な音楽活動であったが[301]、拓郎はレコードがヒットしたにもかかわらず、いままでの音楽活動を崩さなかった。コンサートとラジオとアルバム制作中心の活動である。すなわちアーティストは音楽活動に専念し、芸能的なサービスはしない。この考え方の裏にはテレビにも芸能週刊誌にも世話になっていないし、芸能界と芸能界そのもののテレビの歌番組への反発、自分たちの音楽を分かっていないという自負があった[234]。自己表現のための歌であるから、シングル一枚だけで判断してほしくない。アルバムを聞いてコンサートを見てほしいというような発言を繰り返した[234]。拓郎はそれ以前の歌謡曲のノウハウを踏襲せずに、深夜のラジオ番組やライブ活動を中心にプロモーション活動を展開した。また、シングル盤が中心となっていた歌謡曲に対してアルバム志向を前面に打ち出していった[302]徳光和夫は、テレビを拒否した拓郎について「あれ程テレビがドーンと伸びようとしている時代に、テレビに門戸を閉ざすとは、生き方に今で言うロックを感じた」と述べている[219]坂崎幸之助は「僕たちにとっては、アレがかっこよかった」[219]森達也は「その反骨に魅せられた」[303]と話している。世の中に迎合しない非常にかっこいい姿勢と多くの若者が共鳴した[304]
    • 芸能週刊誌の取材もギクシャクすることも重なって、フォークは鬼っ子として独特の活動と音楽領域をもつことになる[234]。 
    • 歌番組への出演を拒否した拓郎のために、テレビサイドは異例のコンサート中継をオンエアした。こうした対応も拓郎から始まったもの[305]。今でこそ珍しくない「SPコーナー」も拓郎から始まったものである[295]。拓郎はテレビに拒否反応を突きつけた上で、自分の要求を押し通した最初の例である。
    • 出演を拒否した拓郎の要求をテレビ側が受け入れ、これはテレビ業界とフォークシンガーの力関係が逆転するきっかけとなった。現在でもテレビがJ-POPを扱う場合、ある種の配慮をアーティストにするのはこの時を始まりとしている[87][306][307]
    • 紅白歌合戦の場合も、NHKは1972年、拓郎に相当アプローチしたが最終的に拒否され以降、ニューミュージック系の歌は紅白では聴くことが出来ないという常識が定着したものだった[156][308]
    • また、それまでマイナーな音楽専門誌しかこなかった取材も、女性誌から週刊誌、月刊誌、ゴシップ誌、新聞と申し込みが殺到した[296]。しかし拓郎は「自分のいいたいことが正確に伝わらない」とマスコミ取材拒否も行う[2][309]。これは主にメジャー系の雑誌に対してのものだったが、突然降って湧いた"フォーク・ブーム""拓郎ブーム"はマスコミにとっては寝耳に水で、どう対処していいのか分からず、本質とはかけ離れた酷い記事も出た。拓郎がそれを鋭く衝いたことで、その後のメジャー系の雑誌のフォーク記事が充実していった[309]
    • 「テレビ出演拒否」「マスコミ取材拒否」「人気絶頂期の結婚」など、拓郎は多くのそれまでのタブーを破り、フォークにポリシーを持たせることで、歌謡曲とは違うという鮮烈なイメージを持たせ若者の心をとらえた[309][310]。また時と場合によってはそうしたタブー破りがニュース価値を生み、宣伝効果を持つことも明らかにし[311]、レコード産業や職業音楽家の築いた"芸能界"とは別のところで"流行歌"が存在できることを証明したのである[304][312][313]。「テレビ出演拒否」は、拓郎を神格化させた大きな要素となる[314]
    • テレビの出演を拒否して、ラジオとステージのみでファンを獲得し、コンサートツアーを他に先駆けて行い後続アーティストに道を拓いた[4]
    • 拓郎のテレビ出演拒否を受け、フォークシンガーの多くが同様にテレビ出演を拒否した[300][296][315]。これは各所属事務所、或いはレコード会社の戦略によるものであった。泉谷しげるは「拓郎が『商業主義に染まりたくないからテレビには出ない!』なんてかっこよくいうもんだから、俺たちも『おおっ』ってなっちゃって。気がついたら振り上げた拳を下ろせなくなってさ。『弱っちゃったな、別にテレビ、嫌いじゃないんだけど』」と述べている[316]。拓郎はテレビ出演拒否という姿勢を最初に打ち出し、拓郎のやり方はその後のニューミュージックやロックのミュージシャンのお手本になってきた[317]
    • 拓郎のテレビ出演拒否は後のテレビ界に大きな影響を与えた。1978年から始まった『ザ・ベストテン』は、テレビの出ないニューミュージック系歌手の曲を紹介したいというコンセプトで始まった番組であったが[318]、そのニューミュージック系歌手の出演拒否が相次ぎ反響を呼んだ[319]。『ザ・ベストテン』はこれを逆手に舞台裏の事情を逐一報道、芸能ニュース番組化することで話題を呼んだ[320]
    • 相澤秀禎は「1970年代は芸能界にとってテレビという巨大メディアが宣伝プロモーションには欠くことのできないものであることを決定付けた時代であったが、この大きなパワーを持つテレビをあえて拒否し独自の道を進んだ吉田拓郎らニューミュージック系歌手のやり方は、それを貫いたことで成功し定着した。これは多様化しはじめた宣伝作戦の方向性を指し示していたといえる」と論じている[321]
    • 1996年から音楽バラエティー番組『LOVE LOVEあいしてる』にレギュラー出演し、ジャニーズ事務所アイドルKinKi Kidsと共に司会を担当したことで物議を醸したが、拓郎がテレビに出てることで、他のミュージシャンの歯止めが取れたという側面もあった[317]。「出てもいい」と思った大きな理由は、かつては多かった横暴な芸能ディレクターは減り、ミュージシャンに対して理解のあるディレクターが増えたという「テレビの現場の変化」を挙げている[317]

フォークの地位の向上[編集]

  • 1971年10月、アーティスト主体の音楽制作を目指し、拓郎と後藤由多加が中心となってプロダクション「ユイ音楽工房」を設立した[74][75][312]
    • それまでのマイナーレーベルの仲間的雰囲気の中で商業主義を否定するようなポーズで活動していくのではなく、自分たちの歌を正面からビジネスとして確立させていこうという新しい動きであった[322]
    • エレック在籍時には社員扱いだった拓郎の作品には作詞作曲、歌唱の印税保証はなく、後藤に聞かされ初めて歌にそういう権利がある事を知った[323]
    • これをきっかけに、自分の歌の権利を自分で守るという意識がフォーク界に浸透した[324]
    • それまで限られた関係者にしか知られていなかった"権利ビジネス" "制作者の権利"をミュージシャンが知ったことは音楽ビジネスの大転換でもあった[325][注釈 30]
  • マスメディアでの拓郎の露出の増大は、日本の音楽シーンでフォークの存在感を高め、音楽誌でも従来の洋楽中心から次第に日本のアーティストのページを増やすこととなった[326]
    • 拓郎が登場する以前の三橋一夫ら、日本のフォークを評論していた人たちは、洋楽の片手間仕事に"日本のフォーク"を評論していたが、拓郎が急激に売れてさらにマスコミ拒否をやったため、まともな記事を書ける人がおらず、拓郎と岡林を聴いて東大を辞め、初の"日本のフォーク評論家"の看板を上げた富澤一誠の元に執筆依頼が殺到したという[327]
    • ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士も「拓郎に出会わなかったら『ヤング・ギター』はなかったと思う」と述べている[328]。「ヤング・ギター」は、拓郎の才能をいち早く認め、デビュー前から頻繁に誌面で紹介し、強力に応援した[329]
    • 小説家の盛田隆二は「いつか拓郎の本を作りたい」とぴあに入社し、拓郎が出演した映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年公開)と連動した『THE BOOK OF Ronin』(ぴあムック・1986年刊)を企画し編集長を務めたという。
    • 『新譜ジャーナル』最後の編集長だった大越正実は、「高校時代に聴いた拓郎のアルバム『ともだち』から自身の拓郎大バカ人生が始まり、それが高じて編集長まで務めてしまった」と話している[330][331]
    • 1999年に刊行された福島直子著「吉田拓郎サマへの道」は、「オールナイトニッポン」で拓郎が懇意にしている「月刊明星」の編集者がいることを知った著者が、拓郎に会いたいがために「明星」編集部に就職する話で、歌謡曲アイドルの専門誌だった「明星」に拓郎がしばしば登場したのはこれらの理由から[注釈 31]
    • サウンドストリート」(NHK-FM)のディレクターで、佐野元春を発掘しDJに抜擢した湊剛は「吉田拓郎だけが個人的にファンで、ずーと好きだった」と述べている[332]
    • いち早く拓郎に注目していた岩手放送(現・アイビーシー岩手放送)の名物ラジオディレクター北口惇夫は、拓郎を広島から岩手に呼び寄せ、地元広島を除けば地方局初のラジオ出演をさせたことがある[333]
    • 拓郎を入口に音楽の世界に導かれた人物は、このような出版、音楽関係者[262][334]、ミュージシャンなど数多いが、テレビの音楽関係者でいえばその代表的な人物がきくち伸ということになる[335]
    • 『新譜ジャーナル』や『guts』などは巻頭グラビアをフォークシンガーの写真で飾ったり、彼らのエッセイや対談、そしてゴシップ記事を掲載するようになった[336]。この1972年には講談社から、拓郎らフォークシンガーが表紙やグラビアを飾る「月刊明星」のフォーク版ともいうべき「ヤングフォーク」なども創刊された(1982年廃刊)[337]。これも拓郎がそれまでのフォークシンガーになかったアイドル的な魅力を加えたため。女の子のファンが急増しファンレターは1日500通と、アイドル並みの人気があった。1973年のツアーで青森を訪れた際には、駅から会館までの沿道を若者が埋め尽くしたといわれる[338]。拓郎はフォーク界で初めてミーハー人気を得たスターだった[85][165]。拓郎は、天地真理麻丘めぐみ南沙織や同時代のどんなアイドルより人気があった[339]。こうしてファン層を広げて、フォークのパイを大きくしていった[340]。またこの頃から、立風書房などが、フォークシンガーやディスクジョッキーなどのエッセー集を積極的に出版するようになった[341]北山修「戦争を知らない子供たち」、高田渡「個人的理由」、早川義夫「ラブジェネレーション」、及川恒平「歌謡詩集」など。拓郎が1972年、立風書房から刊行した「気ままな絵日記」はベストセラーとなる。若者が書いた文章はこの頃から「身近な活字」として触れやすいものとなった[341]。これらはフォークシンガーのタレント化をもたらし、"タレント本"の類が量産されるのはこの頃からである[342]
  • 日本のフォークやロックの流れは1972年に大きく変わった[262][343][344]。この年1月に発売された拓郎の「結婚しようよ」が、爆発的なヒットとなり、それまでメジャーな歌謡界や大人のメディアからは見向きもされなかったフォークソングが一転して商業的な舞台で注目されるようになった[48][345]。「結婚しようよ」はそれまでのフォークの暗いイメージを一掃し、拓郎は一種の新型アイドルとなった[343]
    • 長髪で反体制的と見られてきた、そうした音楽が若者風俗として認知されるようになった[344]
    • 拓郎が出てきて大ヒットを連発するに及んで、音楽業界でもフォークは売れるもの、十分商売になるものと考えられるようになった[注釈 32][6][161][344][346]。フォークは"アンダーグラウンド"から"オーバーグラウンド"な存在へ浮上していく[347][348]
    • 和久井光司は「テレビ神奈川の『ヤング・インパルス』が始まったのは、拓郎が『結婚しようよ』を大ヒットさせた後からでないか」と述べている[349]
    • なぎら健壱は「ここまで大きなブームにしてしまったということの一番大きな存在は、やはり吉田拓郎さんです。拓郎さんがいなきゃ、そんなブームが起きなかったから、大変な人でしたね。歌もうまい、ギターもうまい、そして深夜放送なんかでも人気ナンバーワンということで、あの方がいなければ無理でした」と述べている[8]
    • 拓郎の二曲の大ヒットにより、フォークの中心地は大阪から東京へ、URCからエレック・レコードメジャーの各レコード会社に移っていった[234]渡辺プロダクションにニューミュージックのセクションが創設されたのは「旅の宿」の大ヒットがきっかけ[350]。かつて岡林信康高石友也がいくら人気を集めていても、レコードの売り上げはたかだか知れていた[351][352]。拓郎以前にも多くのフォークシンガー、シンガーソングライターはいたが、拓郎ほどの人気を獲得したアーティストはいなかった[353]
    • 吉田拓郎に続けとばかり、すぐれたオリジナル曲を有する日本各地のミュージシャンの多くが上京。マイナーレコード会社だけでなく、メジャー系レコード会社もフォークの新レーベルを設立し[6]、レコード会社もプロダクションも競ってフォークの新人たちを市場に送り込み[48][94][354]、後に続いた井上陽水かぐや姫らの大ヒットで大きな潮流となり、1960年代後半のカレッジ・フォークブームを凌ぐ一大フォークブームを迎えることになった[186][346][355][356]
    • また演歌歌謡曲かのくくりで燻っていた既存の歌手にも新たな道を拓くこととなった[357]
  • 吉田拓郎最大の功績は、フォークをひいてはロックをビジネスとして確立し、日本で自作自演の音楽を普及させる大きな原動力となったこと[6][161][358]。吉田拓郎に端を発すフォークのメジャー化によって、その後のニューミュージック、現在のJ-POPの基礎が築かれたといえる[注釈 33][12][67][359][360]

コマーシャルソング[編集]

拓郎はニューミュージック系歌手によるCMソング製作でもはしりでもある[361][362]。早くからCMソングを自作自演し、反商業主義のプロテストソングと一線を画した[363]1960年代の異議申し立ての運動と連動していたフォークにおいては、CMソングを作り歌うなどということは、商業的で否定されるべきことだった。吉田拓郎にはそんなこだわりはなく、フォークソング対CMソングといった対立は、まったくなかった[364]

僕の旅は小さな叫び

拓郎のCMソング第一号は1971年歌唱のみの「僕の旅は小さな叫び」[365]
松下電器産業Technics」の立体オーディオ「4チャンネルステレオ」(SC-1550N)の発売に伴い、当時松下電器の宣伝事業部の堀川靖晃が、作詞・山川啓介、作曲・編曲を渋谷毅に依頼してCMソングを製作することになった。この歌手選定に於いて、堀川は「今の若者が共感できる鬱屈した心情を歌い、それを救済するような"Technics"の声がリアスピーカーから流れる...」との構想から、渋谷との打ち合わせで「たくろう、しかいない」と結論に達し出演交渉を行う[366]。既に特異な存在感を発していたシンガーソングライターの拓郎が、他人の作品を歌ってくれるのか、当時はまだステータスの低かったCMソングを歌ってくれるか、とダメ元の覚悟で交渉すると拓郎の返答は、意外にも「OK」。本CMソングは、作詞期間だけで4週間、制作費約100万円と当時のCMソングの常識を越えた費用をかけた[365]。こうして完成した「僕の旅は小さな叫び」を、渋谷は始まりから二節以降、サビから先はアドリブ、拓郎の表現力に任せるという、前代未聞の譜面を書き上げた[367]。それはジャズ界の鬼才と称される渋谷の、歌手・吉田拓郎の個性と潜在力への大きな期待を込めての大博打であった。本意ではなかったであろう、他人の作詞・作曲の作品をも拓郎は独自の世界で歌い上げ高い評価を得た[368][369]。本作はFMラジオの長編ステレオCMと製品購入者限定サービスで付属する、4ch再生のデモンストレーション・レコード(非売品、ステレオ購入者へのおまけ)が製作された[368]

この年は他にSEIKOタイアップシングル「サヨナラ僕は気まぐれ」(作詞・作曲・唄。B面「青春の終わり」は作詞・作曲が拓郎で、唄がピピ&コット、三越とのタイアップシングル、非売品)を手がけた他[365]中外製薬の『新グロンサン』のCMソングを歌い、ACC全日本シーエム放送連盟)全日本CM フェスティバル・シンギング部門で入賞[370]

HAVE A NICE DAY

1972年には「旅の宿」の大ヒットに目をつけたフジ・フイルムが拓郎にCMソングの製作を依頼し、拓郎作詞・作曲・歌によるCMソング「HAVE A NICE DAY」を連日放送した(背景には1970年から国鉄の“ディスカバー・ジャパン”キャンペーンが始まっていたことがある)[362][371][372]。拓郎の日常のしゃべり言葉をそのまま生かして、拓郎の歌に合わせて若者が自由にポーズをとるという内容が、この広告をヒットさせる大きな要因となった[373]。"HAVE A NICE DAY"は流行語にもなり、拓郎の存在を広く世に知らしめた[374][369][375][376]。『Have A Nice Day』第一弾(気ままに写そう編)に続き、『Have A Nice Day』の第二弾(天然色写真編)は、全編広島弁の歌詞で歌われており、方言で歌われたCMソングとしてはこちらも先駆的なものとなる[373]。CMの作詞作曲料は85万円だったという[365]
この後フジカラーから「拓郎さんはもう歌わないでいいから、曲だけ作って欲しい」と言われ、「沢田研二が歌う曲を作って下さい」との要請を受けて作詞作曲したのが"HAVE A NICE DAY"-2『いま、このときめきを』(1973年)[365][371]。当時沢田研二はソロになったばかりで「まださほどでもなかった」と拓郎は話している[371]。この次に手掛けたのが拓郎作詞作曲で山口百恵が歌唱したフジカラーF-II『私は小鳥』(1975年)[371]。これ以降、フジカラーから仕事の依頼は来なくなったという[371]

1972年、松下電器ステレオのCMソングも歌唱(自作曲ではない)、前年に続きACC全日本CMフェスティバルで入賞[377]

さらに同年、りりぃ資生堂?フェミニンのCMソングを提供し、スバル・レックス富士重工)のCMで「僕らの旅」を自作歌唱した[95]。このスバル・レックスのCMもテレビ・ラジオで大量露出し、当初はソノシートの非売品だったが反響が大きく、後にレコード盤が製作された[365][378]

これら全てのCMソングのソノシート、あるいはレコードは、全てステレオ購入者のオマケや、懸賞のプレゼントなどの非売品で、正規にレコード発売された物はない。当時はCMソングをレコード化して商売として売り出すという発想がまだない時代であった[365][371]

これら大きな成功をきっかけに企業はフォーク・シンガーをこぞってCMに起用するようになった[379]。人間どうしの触れ合い、人間関係そのものをテーマにしたCMソングが増えてくるのは、1970年代前半の私小説主義的フォークと共通している[364]広告の世界とは交流のなかったフォークやロックのアーティストがCMに関わるようになったのは「HAVE A NICE DAY」が成功してからである[374][380][注釈 34]。世相に鋭敏なCM界とフォークソングの潮流は、互いに見計らいながらも惹かれ始めていた。その先鋒としての開拓者が拓郎とそのスタッフだったといえる[368][381]。拓郎の確かな足跡は、広告界・レコード界・各メディアとフォークソング界を急速に融合させる契機となり、歌謡曲を軸とした日本のポピュラー音楽界に新たな時代をもたらした[369]。これらは1970年代半ばからの資生堂カネボウによる「化粧品キャンペーンソング戦争・タイアップ戦争」の季節ごとのニューミュージック系の実力アーティストの連続登場でピークを迎え、CM忌避論は消滅して、CMタイアップ全盛時代に繋がっていくことになる[369][382]
小川博司は、「吉田拓郎がこの時期手掛けたCMソングはフォークの日常感覚により活性化された。逆に、商業主義的なものとは無縁の存在で、そこに自らの存在理由を見出していたフォークは、CMの世界に一歩踏み込み、ここでも方向転換をとげた。この後フォーク対歌謡曲、広告音楽対レコード流行歌といった区分は、ますます曖昧なものとなり、CMソングがレコード化されることも頻繁になった」と論じている[383]

桜井哲夫も、「吉田拓郎が『フォーク』と『歌謡曲』の区分をこわしたこと、CMソングに進出したこと、この二つの点こそが拓郎以後を特徴づけることになった。フォーク対歌謡曲、CM音楽対レコード流行歌といった区分は揺らぎ、融合してゆくことになった」と論じている[384]

新旧の音楽界の交流の活性化[編集]

森進一に提供した「襟裳岬」の大ヒットをきっかけに渡辺晋は、拓郎の楽曲の実力を買って、キャンディーズなど多くの自社所属歌手への楽曲提供を拓郎に依頼した[385]渡辺プロダクションは、これを機に布施明小椋佳の「シクラメンのかほり」(1975年)、三木聖子荒井由実(1976年)の「まちぶせ」など、他社に先駆け積極的にニューミュージック系ミュージシャンの起用を行った[386][387]。これ以降、楽曲を媒介にして旧勢力と新勢力の両者は交流を始め、演歌界を含む歌謡界がニューミュージック系ミュージシャンの楽曲を取り上げることがブームになり定着していった[101][388][389]。これはニューミュージックという言葉をより曖昧なものとしてしまった原因のひとつでもあるが、この後阿久悠筒美京平のように歌謡曲側の作家が、それぞれ桑名正博Charのようなニューミュージック側の人に曲作りをするという現象も多くなった[390][391]。またCMソング作家だった小林亜星が作曲した「北の宿から」が1976年第18回日本レコード大賞等を受賞するというようなケースも出てきた[392]。「襟裳岬」の前までは演歌系歌手は演歌系作家が作る、のようなはっきりした図式があった[393]。これらはフォークが歌謡曲に取り込まれた、歌謡曲化したともいえるが、フォークがアンダーグラウンドから脱し市民権を得たともいえる[394]。「襟裳岬」が世に送り出されていなければ、今日のJ-POP自体がかなり異なったものになっていた[127]。拓郎は同年、浅田美代子に「じゃあまたね」を小柳ルミ子にも「赤い燈台」を書き下ろし、シンガーソングライターとアイドルの蜜月という架橋を同時に築く。歌謡曲の進化をもたらした異業種混合のコラボレートの歴史は拓郎の偉業から始まる[395][396][397][398][399]。この後、"日本初のアーティストによる"レコード会社フォーライフを立ち上げ、原田真二をプロデュースして、ロックのアイドル化、メジャー化にも貢献[400][401][402]。歌謡曲とフォーク/ロックの融合という難事業を、ほぼ一人でやってのけた[127]

拓郎はいわゆる歌謡曲のアイドルの作曲家としても重要な活動を行い、一つの時代を作ったが、拓郎は「東京へ出てきてからの音楽活動で何が楽しかったかって、アイドルの作曲ほど楽しいものはなかった。『歌って、こういうふうに歌うんだよ』なんて教えるときに気持ちよさといったら、もう」などと話している[16]

ミュージシャン系プロデューサーの先駆

小室哲哉つんくのプロデュース活動が活発になった頃、ミュージシャン系プロデューサーの先駆者としても紹介された[403]。拓郎がフォーライフを設立した理由もミュージシャンがプロデュース権を強く持つ、プロデューサーシステムの確立を目指してのものであったし[404]、拓郎自身、プロデューサー業を手掛け始めた1972年頃からすでにプロデューサー業に対する強いこだわりを持ち、1976年の自著『明日に向かって走れ』でも、プロデューサーとは何かとの持論が長く語られている。

拓郎以降のミュージシャン系プロデューサーが、ニューミュージックと歌謡界の科学反応を企む際の和洋折衷路線、ジャパネスク路線は、拓郎が手がけた「旅の宿」、「襟裳岬」が下敷きにされている[397]。拓郎の楽曲プロデュースは、フォーク/ロック/ニューミュージックはもとより、歌謡曲演歌アイドルにまで及ぶ。職業作詞家との多くのコラボレーションも拓郎が最初[67]。現在の音楽状況ではもう生まれないR&B+ 浪花節をベースとする不世出のコンポーザーである[397]

小室哲哉は拓郎について、「フォーク、フォークといわれながらメディアに対しての姿勢とかにロックを感じた」「歌謡曲への影響力の在り方は日本にもこういうことが有り得るんだ、と目標というか光が見えた気がした」「やっぱり憧れてたし少なからず影響は受けてると思う」等と話している[405]

つんくは2003年、ソニンに「合コン後のファミレスにて」という拓郎のパロディのようなシングル曲を書いているが、つんく自身は長渕剛を尊敬していると話している[406]

かまやつひろし

かまやつひろしとのコラボレーション、1974年、デュエットシンシア」、1975年のオリコン1位「我が良き友よ」は、拓郎ファンだったかまやつが「一緒にやろう」と長年、拓郎を口説いて実現させたもの。

今でこそ異色とも何とも感じないが、当時の感覚からすれば、フォークの拓郎と元グループサウンズのかまやつとの共演は事件であった。かまやつはロック仲間から嫌味や批判を受けたと話している。こうしたロック、先の演歌やアイドル歌手を含む歌謡曲、子供番組などとのコラボレーションを含めて異種組み合わせの突破口を開いた先駆者でもあった[397][407][408]。「シンシア」は、拓郎がファンだった南沙織へのオマージュ曲で、同時代に活躍したアイドルの名前・愛称をタイトルに付けて唄うという珍しい楽曲[115]。『ミュージックフェア』で共演もしている。

キャンディーズ

1977年、渡辺晋から「キャンディーズを大人にしてやってくれ」という依頼を受け、キャンディーズ の「やさしい悪魔」と「アン・ドゥ・トロワ」のシングル2曲を含む4曲の作曲を手がけた。

もともと拓郎はキャンディーズファンで、キャンディーズのブレイク直前に自身の番組『吉田拓郎のオールナイトニッポン』にゲストで呼んだり(1975年3月4日、ミキちゃんは風邪で欠席)、特にスーちゃんファンで[409]、やはり『オールナイトニッポン』」にスーちゃんを単独でゲストに呼んだこともある[410]。またキャンディーズが解散宣言をした時「アン・ドゥ・トロワ」のレコーディング中、「本当に解散するの?」と聞いたら、3人口をそろえて「申し訳ありません、事務所を通して下さい」と言われたと自著に書いている。ただし拓郎のアルバム『ぷらいべえと』のジャケットの女の子の絵は、拓郎が週刊誌で見たランちゃんを書いたと言われており[411]真偽は不明。女の子は「やさしい悪魔」のジャケットのランちゃんに似ている[412]

「やさしい悪魔」は音域の広い難曲で、歌のうまいキャンディーズもレコーディングに苦戦した。これはキャンディーズファンだった拓郎が、レコーディングでキャンディーズに歌唱指導をしたいがために、わざと難しくしたと噂が出た[413]。「やさしい悪魔」は、それまでのキャンディーズの清楚なイメージを一新、“デビルサイン”を含めた斬新な振り付け、“大人化計画”に応えた詞曲で、キャンディーズ最大のヒットになった(最終的には「微笑がえし」、「わな」に次ぐ3位)[414]。キャンディーズファン・石破茂も「音楽的に完成度が一番高い名曲」と話し[415]、キャンディーズ自身も「私たちの代表曲」と話している[416]。後期キャンディーズは、拓郎抜きに語れない[127][417]。拓郎も「やさしい悪魔」を自身のアルバム『ぷらいべえと』で、「アン・ドゥ・トロワ」は『大いなる人』でセルフカバー、後者はキャンディーズが解散宣言(1977年7月)した直後のリリースだったため、サブ・タイトルに「ばいばいキャンディーズ」と付け、歌のラストで“さよならキャンディーズ”と歌った[418][419]

このシングル2曲の他に、「やさしい悪魔」のB面「あなたのイエスタデイ」、1977暮れに発売された5枚組アルバム『キャンディーズ1676DAYS』に収録された「銀河系まで飛んで行け![420]」(いずれも『GOLDEN☆BEST キャンディーズ』に収録)を提供。なお「銀河系まで飛んで行け!」は、事務所の先輩・梓みちよが気にいり、同曲を自身が先にシングルカットしてしまったため、キャンディーズがシングルで出せなかったとされる。

梓みちよ

梓みちよのレコーディングでは「アナタは歌がうまいから困るんです。僕としては、もっと下手に、そう、思い切って下手クソにやってほしいんです」と言うと、梓は『メランコリー』を目一杯下手クソに歌って一言、「これでいいわけ。フン、変なの、アンタたちの音楽」と言ったという[421]。ただ、梓は拓郎はレコーディングには来なかったと話している[422]。この曲の作曲は拓郎だが「緑のインクで手紙を書けばそれはさよならの合図になる」と書かれた喜多条忠の作詞もヒットした。それまでフォークの作詞家だった喜多条に「お前に歌謡曲の作詞はムリだろ?」と言う拓郎の挑発に喜多条が奮起して作詞を手掛けたもの[423]1976年、梓も紅白歌合戦で歌う際、この曲の短縮を要求されNHKともめたが出場した[424]

原田真二

フォーライフ第1回新人オーディション(1976年)に応募してきた原田真二は選考段階では不合格であったが、興味を示した拓郎が課題を再提出させ [425][426]原田の高校卒業と上京を待って1977年10月、拓郎プロデュースにより「てぃーんずぶるーす」でデビューさせた[400][401]。デビューにあたり原田の部屋探しから、原田の曲作りのため松本隆瀬尾一三を交えて合宿させたり[427]、もともとギターを弾いていた原田を当時は珍しいピアノの弾き語りに変えたり、拓郎自身が始めた"ニューミュージック系の人達はテレビに出ない"という風潮の時代に、原田には一転、パブリシティのためラジオ・テレビの出演や雑誌の取材を積極的に用意した[428][429][430]

こうした戦略が功を奏し、シングル3曲が同時にオリコンベスト15位入り[注釈 35]、ファーストアルバム「Feel Happy」が史上初のオリコン初登場第1位(4週連続)を獲得する快挙を達成し[431]フォーライフの危機をも救った[432][433][434]。また原田はヤマハ出身の世良公則&ツイストとともに、女子中高生を中心に爆発的人気を呼び、それまでの"日本のロック系ミュージシャン"には付いていなかった女性ファンを開拓し新たな潮流を生み出した[429][435]。"日本のロック"のメジャー化に多大な貢献があった[402][436][437][438]アミューズは、渡辺プロダクションを退職した大里洋吉が、原田を売り出すために設立したもの[439][440][441]

石野真子

1978年デビューの石野真子については、阿久悠が他のアイドルとは違う売り方を考え拓郎に作曲を依頼した[442]。石野はフォークソングが好きで拓郎のファンだった[443]。「狼なんか怖くない」のレコーディングでは、唄えば唄う程上手くなると石野を徹夜で励まし、デビューに賭けたスタッフからは、レコーディングが終了すると大歓声が上がった[444][445]。曲の音程の上がり下がりが難しくレコーディングに8時間かかったと石野は話している[446]。拓郎の曲は難しいとキャンディーズも話していた。

吉田は石野真子に対して、デビューシングル「狼なんか怖くない」「ひとり娘」、2作目「わたしの首領」「いたずら」、そのほか「ぽろぽろと」、「ジーパン三銃士」(すべて作詞は阿久悠)を提供した。

なかにし礼

1977年、なかにし礼にアルバム製作を依頼し、なかにしが全曲作詞・作曲・歌唱したアルバム『マッチ箱の火事』がフォーライフから発売された。このアルバム中の「時には娼婦のように」が翌年、シングル・カットされ、なかにし歌唱の盤と黒沢年男の盤との競作となり、いづれも大ヒットした[447][448]。歌詞が際どい内容で、黒沢も尻込みして嫌がる程であったが「賛同者は拓郎一人だけだった」となかにしは話している[448]。本曲は、すべてのテレビで放送禁止扱いになるなど物議を醸した[449]

ラジオ・パーソナリティとして[編集]

しゃべり(MC)の魅力

ソノシート制作のきっかけとなった1970年6月の広島フォーク村アルバム発売記念コンサートで拓郎を初めて見たという「ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士は「しゃべりが面白く『歌えて、しゃべりも出来る』というスタイルは拓郎が最初じゃないかな」と述べている[450][451]田家秀樹は「それまではレコード会社専属の作詞家、作曲家、歌手が音楽を手掛けるのが主流だったが、ラジオ番組がフォークシンガーたちに曲を発表する場所を提供したことで、吉田拓郎らがラジオで一時代を築いた結果、話が面白くて、曲が魅力的であれば誰でも世の中で注目を集められるようになった」と論じている[72]竹内まりやは「拓郎の話が面白くてラジオをずっと聞いていた。それまでラジオで話が面白い人はいなかった。そこもセンセーショナルだった」などと話している[85]

拓郎のファンになった切っ掛けとして長渕剛のようにギターやハーモニカを掻き鳴らして唄う姿に痺れたという人や、ルックスに惚れた、とにかく曲がよかったという人など色々だが、その他、コンサートでの"シャベリ"、"しゃべり"今でいう"MC"の面白さや歌唱時の声とは違う、喋るの時の低音でよく響く声の魅力を挙げる人も多い[8][452][453]ホリプロで井上陽水の初期のマネージメントを担当した川瀬泰雄は『拓郎らはしゃべりが上手で、コンサートの半分はしゃべりで客をわかせたりしていた。ところが陽水はぜんぜん受けず。たまにコンサートでポツリと受ける言葉をメモして陽水に渡した。ともかく客に受けることで必死だった』と話している[454]

初期の拓郎の"しゃべり(MC)"は長く、持ち時間50分のステージでたった2曲を演奏し、残り40分がMCというようなこともあった[455]

こうした拓郎の"しゃべり"を当時のアマチュアもよく真似た。この頃のフォークシンガーは自分の思ったこと、「バカ野郎、テメエ、この野郎」「テメエ、ブッ殺してやる」とか、あっさり平気で言っていた[456]。上京直後は、酒気を帯びてステージに上がることがあり、ステージマナーが悪いと叩かれた[457]

拓郎は1972年5月の「guts」のインタビューで「日本のフォークの連中はレコードは最高だけどステージがおもしろくない」と話しており[292]、後年始めたコンサートツアーと共にこうしたコンサート/ライブでの演出スタイル、ステージングに於いても草分けであった[161][458][459]。これは後、多くのレギュラーを持ったラジオパーソナリティでさらに活かされることになる。

ミュージシャン・パーソナリティ

1971年10月にパックインミュージックパーソナリティに就任したのを皮切りに、担当した多くのラジオ番組と合わせ深夜放送のミュージシャン・パーソナリティのスタイルを確立した[4][460][461][462]。深夜放送のDJを"パーソナリティと"いう呼び方に変え始めたこの頃から、各局はこぞってフォークシンガーを起用[463]。これは巨大メディア化するテレビに対して、若者のパーソナル・メディアとしての存在に生き残りをかけていたラジオと、この後テレビを出演拒否する拓郎を始めとするフォークシンガー達が、ステータスを維持するための利害関係が一致した結果であった[464][465][466]。それは商業的にも大きな可能性を秘めた市場の開拓であった[464][467]亀渕昭信は「深夜放送ブームと並行しまして、ちょうどフォークソングも全盛期を迎えました。吉田拓郎さん、南こうせつさん、さだまさしさん、松山千春さんといった、非常にしゃべりのうまい方をラジオのパーソナリティに起用したんですね。深夜放送ブームが去ってからも彼らの力によってラジオ番組は生き延びていったと言えるでしょう」と述べている[468]。また、「中島みゆきさんにしろ、吉田拓郎さんにしろ、自分の内面や生き方を、ちゃんと番組の中で晒していたから、パーソナリティーとリスナーの距離が近くて濃密な関係を築けた。生き方を晒していたことが、曲づくりにもつながって、ファンもそれを支持していた。キャラクターが強く、人間性が出ていたから、長い間アーティストとしての影響力を保てた」などと述べている[469]

楽曲のプロモーション

ラジオでレギュラー番組を持ち、ヒットを出すやり方は、その後のニューミュージック系歌手の常套手段となった[470]。また拓郎の場合は自作曲の売り込みだけでなく、フォーク、ロック普及のため、他のアーティストを広く紹介したという功績もある。先に挙げたように当時、最も影響力のある現役ミュージシャンとしてボブ・デュランを広く紹介したという功績はとてつもなく大きいが、この他、ガロの「学生街の喫茶店」やダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン・ブギ」の大ヒットは拓郎が自身のラジオ番組でプッシュしたのが大きな理由だった[470][471]

ラジオのパーソナリティが曲を紹介するのは当たり前だが、局アナよりも現役ミュージシャンが紹介すれば、より強い影響力を持つ。現役ミュージシャンが、まだ世に出ていないミュージシャンをメディアで紹介するという今に繋がる慣習は拓郎らの時代から。

プロモーションの具体例

小田和正は1972年、拓郎が「パックインミュージック」でかけたチューリップのデビュー曲「魔法の黄色い靴」に大きな衝撃を受けたと話している[472]

ECDも「パックインミュージック」で拓郎が次々と紹介する未知のフォークシンガーに大きな影響を受けたと話している[473]

古井戸の金崎芳樹(加奈崎芳太郎)も、『拓郎が「パックインミュージック」で「花言葉」をかけてくれたときには、チャボ(仲井戸麗市)と夜中電話し合って泣いた。自分たちも担当番組(ラジオ関東・ナイト・トゥゲザー)で、他のフォークシンガーの紹介役になれればいい』と話していた[474]

浜田省吾も拓郎が「吉田拓郎のオールナイトニッポン」で「二人の夏」を流してくれたら、夢うつつ状態の時にぱっと起きて「これが日本中に流れてる!」と感動して正座して聴いたという[475]

この他、1972年沖縄の本土復帰直後に佐渡山豊らの「沖縄フォーク村」をラジオで紹介し大きな反響を呼んだ。

1973年頃から深夜放送はあのねのね笑福亭鶴光等、関西お笑い系、を加えて、それまでの局アナ中心から芸能人、タレント中心のラインナップに大きく変化、メジャー化し全国ネットとなって深夜放送は黄金期を迎えた[476]

フォーライフの設立[編集]

出演[編集]

現在の出演[編集]

過去の出演[編集]

テレビ[編集]

太字は冠番組、メインパーソナリティの番組

音楽番組
  • ミュージックフェア'74フジテレビ、1974年11月12日)南沙織と共演。
  • 輝く!日本レコード大賞TBS、1974年12月31日)
  • 愉快にオンステージNHK総合、1989年10月23日・1990年1月29日)ホストとして出演。
  • 第45回NHK紅白歌合戦(NHK総合、1994年12月31日)
  • LOVE LOVE あいしてる (フジテレビ、1996年 - 2001年3月31日)KinKi Kidsと共に司会を担当。
  • ワールドカウントダウンスーパースペシャル24時間まるごとライブLOVE LOVE2000〜世界中の子供たちに僕らが愛でできること(フジテレビ、1999年12月31日 - 2000年1月1日)KinKi Kids、篠原ともえと共にメインパーソナリティを担当。
  • 吉田拓郎~これからも元気です(TBS、2001年2月10日)
  • 吉田拓郎デラックスNHK-BShi、2002年12月9日)
  • 堂本兄弟(フジテレビ、2003年4月4日、11日)
  • 拓郎・マチャミのみんな歌えるスーパーヒット(フジテレビ、2003年10月12日)
  • 吉田拓郎&かぐや姫 in つま恋2006・総集編NHK-BS2、2006年10月29日)
  • 僕らの音楽(フジテレビ、2007年7月20日)
  • 大いなる明日へ 〜復活!吉田拓郎〜(NHK-BS2、2009年3月22日)

他多数

テレビドラマ
バラエティ番組
旅番組
  • 吉田拓郎・牧瀬里穂・ラサール石井のトキメキ心の故郷三人旅故郷・鹿児島県で思い出の地を巡る(日本テレビ、1997年11月9日) - 牧瀬里穂ラサール石井と共演。
  • 吉田拓郎&中村雅俊・よみがえれ青春!シッチャカメッチャカ!広島の旅(TBS、1999年7月25日) - 中村雅俊と共演。
  • 吉田拓郎&中村雅俊・欲張りワガママ四国旅(テレビ朝日、2003年9月20日、2004年7月10日) - 中村雅俊眞鍋かをりらと共演。
ドキュメンタリー番組
  • 吉田拓郎TV特番『吉田拓郎 〜これからも元気です〜』(TBS、2001年2月10日)
  • スーパーテレビ情報最前線 『吉田拓郎 「復活」への軌跡』(日本テレビ、2003年10月27日)
  • プレミアム10 『今日までそして明日から〜吉田拓郎・35000人の同窓会〜』(NHK総合、2006年10月23日)

他多数

ラジオ[編集]

映画[編集]

CM[編集]

NHK紅白歌合戦出場歴[編集]

NHK紅白歌合戦には1994年に初出場。バックバンドは宮川泰(キーボード)、日野皓正(トランペット)、日野元彦(ドラム)、大西順子(ピアノ)、石川鷹彦(アコースティックギター)、渡辺香津美(エレキギター)、金沢英明(ウッドベース)、吉田建(ベース)、さらにバックコーラスとして五木ひろし森進一前川清という豪華の顔ぶれのステージとなった。

年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手
1994年(平成6年)/第45回 外は白い雪の夜 11/25 松田聖子(10)

関連人物[編集]

主な共演者・サポートミュージシャン(レコーディングを含む)[編集]

あ行

か行

さ行

た行

な行

は行

ま行

や・ら・わ行

グループ

外国人

3度の結婚[編集]

四角佳子
  • 最初の四角佳子との結婚は、拓郎が路上で4人を相手にケンカしてメチャクチャにぶちのめされたのを四角が介抱したのがきっかけ[292]
  • 二人の結婚式は1972年6月、軽井沢の教会で行われたが、婚約発表も自身のラジオ番組、パックインミュージックの中だけ、マスコミの取材・会見も一切しなかった。おめでたい結婚でマスコミを拒否するということも当時の常識では考えられないことだった。
  • スターが結婚したら人気は間違いなく落ちる、というのも世の常識だったが逆に人気が上昇した。
  • 拓郎の酒癖の悪さは有名で、上京当時は酔って週に1度はケンカをやったという[292]
  • 四角との間には三度の結婚歴で唯一の子供(娘・一般人)がいる[477]
浅田美代子
  • 二人目の妻となった浅田美代子は拓郎自身もファンで、当時21歳で人気絶頂期だった浅田を自分の持ち番組にゲストで呼び、その後結婚した。
  • 後に浅田が芸能界に復帰し「オシャレ30・30」等のトーク番組でその時のことを詳しく話してしまい、拓郎の行状が明らかになった。ゲスト出演して電話番号を交換すると後日(浅田の誕生日の前夜に)拓郎から電話がかかってきて「今、小室等さんと飲んでるんだけど、誕生祝いしてあげるから0時過ぎたら来なよ」と誘われた。マネージャーからは会ってはいけない、と釘をさされていたが、言われた酒場に行くと拓郎一人しかいない。「小室さんは?」と聞くと「ああ今帰ったよ」と言った。小室をダシに使ったわけである。
  • 一説には男子トイレの前で拓郎が通せんぼをして「俺と結婚しろ!」と浅田に迫ったところ、浅田は恐怖と照れと喜びが混ざって頭の中が真っ白になり、思わず「ハイ」と承諾してしまった、とも言われている。
  • なお拓郎からプロポーズを受けた浅田美代子の返事は 「……ハゲない?」だった[478]
  • 最初にこの二人の熱愛報道が出た時は、まだ四角との離婚は成立しておらず、この結婚には内田裕也樹木希林夫妻の奔走があったという[479]
  • 以上、2度の結婚式の披露宴の司会は、いずれも山本コウタロー南こうせつのコンビが務めた[480]
森下愛子
  • その後再び同じパターンで森下愛子とも結婚した。二度目のオールナイトニッポンのゲストで呼んだ時、森下は警戒し親友の竹田かほり(現・甲斐よしひろ夫人)と一緒にやって来た。森下は当時、根岸吉太郎との結婚が噂されていたが急転、拓郎と再々婚した[141]
  • 「吉田拓郎&中村雅俊・欲張りワガママ四国旅」[481]や『坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD[482]での、拓郎と中村雅俊の話では、拓郎と森下をくっつけたのは中村。中村から拓郎に夜に電話があり「いま、森下さんと飲んでるんだけど来ませんか」と誘われ、朝8時まで3人で飲んだ。中村はTBSのドラマの撮影が朝8時から大船であったので、「拓郎さん、ホテルに行っちゃいなさい」とアドバイスしてその場を去り、2時間半遅れで大船に到着した。拓郎と森下はその後ホテルに行ったと話している。
  • オシャレ30・30」に出演(1988年5月15日)した森下自身の話では、ラジオにゲスト出演した2、3年後に偶然?美容室で(当時、アンドレ・ザ・ジャイアントみたいな頭をしていた)拓郎に会って「今レコーディングやってるんで、見に来ませんか」と誘われて行ったのが付き合い始めた切っ掛けという[483]
  • 他に古舘の「拓郎さんみたいな人を相手にするの大変でしょう?」という質問に対して森下は「いいえ、前のお二人が角を取って下さったみたいで、今はとても扱いやすいですよ」と答えていた。これらもフォーク・ロック系ミュージシャンとアイドル、あるいは女優との結婚の先駆けであった[484][485]
  • ただ、「(ドラマ『純と愛』の)主人公のような夫がほしいなぁ」とも吐露。拓郎さんは違うのか?と問われ「まだまだ調教が必要。」と答えている[486]
その他
なおこれとまったく同じことを長渕剛石野真子との結婚の時にした[127][487][488]。こちらをセッティングしたのは当時、オールナイトニッポンの構成作家をしていた秋元康[148]。ハワイの教会で行われた長渕と石野の結婚式の仲人を務めたのは拓郎と浅田夫妻(当時)であった[148][484]

交友関係[編集]

ミュージシャン[編集]

浅川マキ
  • 浅川マキのファンだった拓郎は、アマチュア時代に広島から上京し、渋谷ジァン・ジァンで唄う浅川を見に来ていたという[489]。拓郎のブレイク直前には二人でジョイントコンサートも行っている[490][491]
  • 写真家・TAMJIN(田村仁)が拓郎の写真を長く撮り続ける切っ掛けとなったのは、田村が撮った浅川マキのファーストアルバム『浅川マキの世界』の写真を拓郎が気に入り撮影を依頼をしたのが始まりで、中島みゆきも同じ理由[492]
  • 浅川マキは著書『幻の男たち』の中で拓郎とのエピソードを書いている。1980年代半ばに雑誌で拓郎の「女ともだち」を拓郎自身が写真で撮るという企画があって、拓郎は田村と共に浅川の部屋を訪れ浅川を撮った。撮影後、拓郎が「前にこの部屋に来た、新宿で一緒に飲んだ帰りだった」といった。しかしこれは拓郎の記憶違いで、拓郎が来たのは拓郎の深夜放送にゲストで呼ばれた日の後、と書いている[489]
THE ALFEE
  • 1981年、オールナイトニッポンの番組企画で、拓郎のメドレー曲の製作を依頼された"墨田川高校の拓郎"こと坂崎幸之助(覆面バンド・BE∀T BOYS)は「待ってました」「俺しかできないだろ」と、遊びで製作に励み、歌も生ギターの弾き方もMCもコピーする徹底ぶり見せた。高校時代の青春・拓郎と仲良くなれた坂崎は、「僕のフォーク人生はこれで終わってもいい」と思ったという。この完成度から、1988年に形を変えて復活した際は大人気となり、レコード発売や全国ツアーを行った[493][174]
  • 高見沢俊彦が、現在のようにピンでテレビやラジオに出演するのは『T×2 Show』(テレビ朝日系、2000年10月 - 2002年9月)の司会を拓郎と担当してから。それまでは積極的にテレビには出ず、出演依頼も断り、場を仕切るなど考えもしなかったが、高見沢の面白さに目を付けた拓郎から「お前はテレビが性に合う」「将来必ず財産になるから」「俺の横にいるだけでいい」などと説得されやむなく出演した。ところが進行役は全てやらされたという。しかし、今では心の底から拓郎さんには感謝している、と述べている。また高見沢の“王子”キャラは拓郎がそう呼んだのがきっかけで始めたもの[494]。高見沢は“王子”キャラの元祖である[495]アルフィーにとっても拓郎はキーパーソンとなる[496]
飯田久彦
泉谷しげる
  • 泉谷は、エレックレコードの後輩で、エレックを抜けた拓郎の代わりに売り出されたスターだった。世の中が泉谷の歌を下手だと言った時も「うまい、うまい」と褒めてくれたという。エレックが倒産しフォーライフを設立した時も、拓郎は泉谷を引き入れ、フォーライフが内部抗争を始めて泉谷が辞める時も懸命に引き留めた[498]
  • 1999年のかまやつひろし還暦を祝うパーティーで、その泉谷やユーミン井上陽水堺正章桃井かおりアルフィー今井美樹石井竜也NOKKOらが集まって[499]東京飯倉のキャンティで会食したおり、拓郎が酔って「お前らみんな音楽を愛していない」などと延々とまわりに絡むので、泉谷が「しつこいぞ」とブチ切れ、フォークを持ってテーブルを乗り越え拓郎に掴みかかり大乱闘となった[500]。まわりの男は、堺正章や、かまやつひろしのような小僧ばかりで(拓郎談)誰も止められず、ユーミンからは「やれ!やれ!」とケンカをけしかけられるわで引くに引けず(泉谷談)、ようやく森山良子が「外でおやんなさいよ」と一喝、ケンカをやめさせた[501][502][503]
  • この、かまやつひろしの誕生日パーティーで、拓郎が酔ってネチネチカラんで泉谷とケンカ→森山良子が一喝、という流れはフォーライフから泉谷が抜けた1970年代後半頃にもあり、最後のケンカ1999年以来、泉谷と拓郎は断絶状態になっていたが2011年7月、12年ぶりにラジオで再会し和解した[502]
忌野清志郎
  • 拓郎は、1971年7月からライブハウス渋谷ジァン・ジァンで定期コンサートを始めたが、当時拓郎の前座をよく務めていたのが「僕の好きな先生」や「2時間35分」などをアコースティックでやっていたRCサクセションだった。忌野清志郎は当時、拓郎が嫌いで出番が終わると顔も見ないで帰っていたという[504]。とは言っても、特に確執があったわけではない。拓郎はこの頃の事を振り返り「RCとはあの頃よく同じステージに立ってたよ。弾き語りで歌も暗いイメージのフォークソングが多い中で、アコースティックでもポップでR&B的な存在は見ていて楽しかった」と語っている[505]
  • 逆に、拓郎は清志郎が好きだったようで、NHK-AM『若いこだま』 のDJ等を務め、1970年代のニューミュージック系ミュージシャンの売り出しに功績のあった吉見佑子が1970年代の後半、まったく売れていなかったRCサクセションの廃盤になっていたアルバム『シングル・マン』の再発に業界を奔走した時も、拓郎は「オレはRCが好きだ」と自身の番組「セイ!ヤング」でRCの曲をプッシュした[506]
  • 清志郎は『LOVE LOVEあいしてる』にもゲスト出演(1998年12月5日)しており、アルバム「ハワイアンラプソディ」で拓郎に「こころのボーナス」を提供した[507]
  • 清志郎がテレビで奥田民生と初共演した時には、「オマエ広島(出身)かぁ 何だ、それで吉田拓郎に顔が似てるのかぁ~」とムチャ言ったこともあった。
小田和正
  • 同期でもある小田は、拓郎を盟友と呼び認めている[508][509]。初めて会ったのは、コンサート会場の通路。ギターの弦が切れて予備がないため、面識のない拓郎に頼むと「あ、いいよ」と快く貰えたのがきっかけ[508]。小田が売れたのはずっと後だが、拓郎は既に大スターだった。初期の拓郎について小田は「ラジカルなイメージだけかと思えば、実はそうではなく、すごくロマンチックでナイーブな、でも強い言葉を持ってるシンガー」と評していた[508]
  • その後、拓郎のラジオ番組でゲストに呼んだ小田に初体験の話を聞き、小田ファンから大量のカミソリを送りつけられる事件があり[510]、付き合いが少々濃くなったのは、前記の1982年に小田が"日本グラミー賞"を作ろうと奔走したときから。結局この構想はミュージシャン仲間の賛同が得られず頓挫したが、これは1985年国際青年年(IYY)記念イベント"ALL TOGETHER NOW"(6月15日、国立競技場)の下敷きとなり、亀渕昭信の音頭取りもあって、これの運営に拓郎と小田は大きく関わった。コンサートのオープニングアクトでもあった拓郎のバックバンドはオフコースが務めた。
  • この後、1994年の長崎・普賢岳噴火災害救済コンサート(3月13日、長崎市公会堂)、「日本をすくえ'94」(8月16日、日本武道館)、1996年の阪神・淡路大震災救済支援コンサート(9月14、15日、神戸ワールド記念ホール)と、三度のチャリティコンサートを拓郎と小田、泉谷しげるで企画運営[注釈 36]。復興支援を目的とした「スーパーバンド」の発案は拓郎という[502]。長崎・普賢岳噴火災害救済コンサートは、ギター・泉谷、ベース・拓郎、キーボード・小田、ツインドラム・浜田省吾大友康平が基本メンバーのスーパー・バンドを結成し、井上陽水忌野清志郎さだまさし南こうせつなどのゲストミュージシャンの曲を演奏するというものだったが、即席バンドで短期間の合宿ではなかなか上達せず、どんどんコードが簡略化されて、さらに拓郎が「親しくない奴と2日以上いられない」とダダをこねたりでピンチを迎えた[511]。しかし、なんでも弾ける坂崎幸之助がこのピンチを救い、無事開催できたという。
  • 同じ1994年8月16日には、日本武道館で「スーパーバンド」による「日本をすくえ'94」チャリティコンサートが行われた。このコンサートのドキュメンタリー番組「日本をすくえ'94」が、小田和正のナレーションで同年9月14日にテレビ朝日系『水曜特バン!』枠でテレビ放送された[512]。この中で拓郎の傍若無人ぶりにオロオロする泉谷と小田がテレビに映し出された。長崎でやった「スーパーバンド」のメンバーが全員揃うということで拓郎は引き受けたのだが、うち数人が参加出来ないという話になって、さらに出演が確定していないミュージシャン、出演交渉もしていないミュージシャンの名前がスポーツ新聞に出てしまい、各所属事務所から苦情の電話が掛かり出演交渉が暗礁に乗り上げ拓郎が激怒、「まわりに迷惑をかけてまでやることはない」「コンサートは中止だ」などと泉谷と小田に迫った。泉谷は「オレと拓郎、小田、伊勢正三、大友康平の5人だけでもやりたい」と「何とか開催したい」という二人の意見を却下し続け、最後に小田が「流そう(中止しよう)」と言うと、それまで散々中止すると言っていたのに拓郎は「やる。俺が決めた」と言い出した。泉谷は「拓郎は、いざ練習が始まると、この曲はイヤだ、あれは歌わないって言い出す。あまりにわがままなんで、そこまで言うならオレと小田さんで会見やって武道館は中止と発表しようと。ところが、やめると言うとイヤだと言うんだよ。あれは振り回された小田さんもショックだったんじゃないか」と当時の思い出を話した。日本武道館時の「スーパーバンド」は、この後メンバーを加えたもの。こうして拓郎と小田は苦労を共にした間柄となって、打ち上げの席で酔った拓郎が小田の膝枕で寝るということもあったという[513]。それでも泉谷は拓郎を引っ張り出して、東日本大震災支援ライブのため「スーパーバンド」を蘇らせたいという。
  • 2000年4月3日放映の「LOVE LOVE あいしてる」にゲスト出演した際、小田は拓郎を「コイツ、コイツ」と呼び「拓郎さんをコイツと呼べる人がいるなんて」とKinKi Kidsを驚かせた。他に1994年の対談でも小田は「拓郎の曲っていうのが、近い将来、また"くる"と思う」と話していた[514][515]
かぐや姫
  • 山田パンダは師と仰ぐ拓郎を年上と思っていたが、年下と分かり、デビュー時に自ら一歳さばを読み、拓郎と同学年としてきた。彼をずっと同い年だと思ってきた拓郎は会うたび「おい!馬鹿野郎!」と呼び続けてきた。パンダは、30年以上たった2005年還暦を迎えた際、年齢詐称していたことを公表した。
  • まだ3人が高円寺の風呂のない部屋に3人別々に住んでた時に、拓郎はすでにスターになっていて豪華マンションに住んでいた。3人は「神田川」みたいに拓郎のマンションの前を通って風呂屋に本当に行っていたが、ある日、拓郎がベランダで長い髪なびかせて、朝ブローをしてるのを目撃し、山田パンダは「あんなマンションに住んで、朝ブローして。あれが夢だ、こうせつ」と南こうせつにプレッシャーをかけていた。
  • かぐや姫の最初のアルバムに拓郎が参加したが、かぐや姫のアルバムなのに3人の写真より拓郎の写真のほうが大きく掲載されており、「吉田拓郎プロデュース」という字が大きく載っていた。
  • 2000年に、かぐや姫が22年ぶりに再結成したのは、1999年の「南こうせつ サマーピクニック」で、井上陽水とゲスト出演した拓郎が、南こうせつと伊勢正三を見て「陽水も俺もいる。何でかぐや姫がいないんだ?」と、山田パンダを無理やり東京から九州まで呼びつけたのがきっかけ[516]
加藤和彦安井かずみ
  • 加藤はまだ売れていなかった頃の拓郎を認め、大切なギター(GIBSON J-45)を15万円で[517]譲った[518]。この2人は非常に仲がよかった[519]
  • 作詞家・安井かずみの自宅は「川口アパート(プール付き)」(川口松太郎が造った高級マンション)と呼ばれ加賀まりこ野際陽子コシノジュンコや当時のトップモデル・シャロン宮田、ナンシー村井ら多くの業界人が集った。そこは大使館のような世界で、拓郎はカルチャー・ショックを受けた[521]。誰にも紹介してもらえず、「絶対に東京に負けてはならない」との思いを更に強くした。
  • 同業者だった安井には「あなたたちが来てから日本はすごくつまらなくなった」「あなたの詩って男のエゴばかり、女のことなんか何も分かってない」と言われ大ゲンカとなり泣かれて、「拓郎にいじめられた」と言い触らされたこともあったという。
  • 1994年に安井が亡くなり、拓郎は「安井の言葉はとても響き、すごい大事な人を失った感じがある」と述べている[522]
  • 2009年10月、加藤和彦が亡くなった後、拓郎は「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」で加藤を追悼し、加藤との思い出を話した。
    • 出会いは1971年、拓郎がセルフプロデュースしたアルバム『人間なんて』のレコーディングに加藤が参加してから。これは木田高介の紹介だったと思うという。このレコーディングで加藤は、拓郎が知らなかったボトルネック奏法ジェームス・テイラー奏法などを披露し拓郎を驚かせた。このアルバムの制作に先立ち、拓郎がスリーフィンガーで作った「結婚しようよ」を「パックインミュージック」で弾き語りで流したところ、大きな反響があり、シングル化の予定をしていた。ところが、この「結婚しようよ」の弾き語りバージョンは「今日までそして明日から」によく似ていて、「同じだとつまらない、何か他のアレンジはないか」と考えていたため、この「結婚しようよ」や「どうしてこんなに悲しいんだろう」「自殺の詩」などの編曲アレンジ)を加藤に頼むことにした。
    • 安井かずみとは、加藤と知り合う以前から付き合いがあり、仕事を一緒にしたのは、1973年のの「戻ってきた恋人」の作詞を頼みに行ったのが最初[358]。拓郎は安井に気に入られ、柳田ヒロ加賀まりこを交えた4人で毎晩、六本木ディスコに行っていたという[523]
    • 安井と加藤が結婚してからは家族ぐるみで付き合いがあり、1986年には、安井と加藤のプロデュースによりアルバム『サマルカンド・ブルー』を出した[358]。ただ、拓郎はこの二人の作品は自分のイメージと違うので、本当はやりたくなかったが、「NYでレコーディングするから」「(拓郎が好きな)ホイットニー・ヒューストンに会わせてあげるから」などと口説かれて仕方なくやったと話している。そのときは結局、シンディー・ローパーに会わされて終わった[358][524]
    • 1994年に安井が亡くなり、1年後に加藤が中丸三千繪と再婚してからは、拓郎は加藤とは疎遠となり、以後は、まったく付き合いがなかった[358][525]。これは加藤が中丸のために、安井に近かった人を意図的に遠ざけたためである。加藤と付き合いはなくなっても拓郎は、「若者たちが自分の手でつくる『日本の若者のポップシーン』の先駆けとなったのは、フォーク・クルセダーズであり加藤和彦に間違いない」と、まわりに話し続けていたという[524][526]
かまやつひろし
  • 拓郎は、「東京へ来てから女、アルコールなど軟派系の遊びは全部かまやつさん。今日の僕があるのは、かまやつさんのおかげ。身体はガタガタですけど」と言う。
  • かまやつは、当時流行の最先端を行っていた業界人らと付き合い、拓郎を安井のマンション「川口アパート(プール付き)」等、そういう人達が集う場所に連れて行った[358]
KinKi Kids
  • KinKi Kidsとの出会いは音楽バラエティ「LOVE LOVE あいしてる」(1996年 - 2001年)での共演がきっかけで、度々テレビやラジオで共演し、プライベートでも交流をするほど仲良くなった。
  • 「LOVE LOVEあいしてる」で、KinKi Kidsへのギター指導を企画されたときは全くその気にならなかったというが、彼らが休憩の合間の時間に階段で一生懸命練習しているのを見かけ、それ以来熱心に指導したという[527]。番組の企画を通じて二人のギター・作詞法・作曲法は数年かけながらも徐々に上達していき、2000年には堂本光一作曲・堂本剛作詞・吉田拓郎プロデュースのシングル「好きになってく 愛してく」を発売するまでに至った。
  • 堂本光一は「拓郎さんとの出会いが音楽を教えてくれた」「番組で拓郎さんに、いきなり『曲を作れ!』と言われて。初めて作った曲を持っていったときに『よく作ったね』って言ってくれたのは、今も忘れない」「拓郎さんは俺たちに『あ、自分にも、曲が作れるんだ』って思わせてくれた」「今、俺が曲を作っているのも、あの当時のことがキッカケ。たぶん、あの出会いがなかったら、今まで作った曲たちも生まれていなかったと思うよ」等と話している[528]
  • 堂本剛も「自分の思ったことを歌詞にしてメッセージとして投げるという男の人生を目の当たりにして、音楽の自由を感じた[529]」「拓郎さんと出会ったことにより楽器を弾くことにも繋げて頂いた[530]」等と話している。
武田鉄矢
  • 拓郎に憧れて上京し、エレック・レコードに入った[278]。ところが入った途端、拓郎はCBSソニーに移籍してしまった。
  • 付き合いが始まったのは、だいぶ後の武田が映画を撮り始めてからで、1982年からの映画『刑事物語』の主題歌「唇をかみしめて」を拓郎が手掛けたり、1985年、映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』に拓郎は高杉晋作役で出演した。これは坂本竜馬を演じた武田が「ずっと背中を追いかけてきた拓郎に一回、こっち側を向いて勝負して欲しい」と相手役として遮二無二拓郎を説得したもの。最初は「お前、頭からアブラをかぶっているのか?頼むから近づくな!」と酷く嫌われていたという[531]。また武田は拓郎を高杉晋作役で起用した理由について、「拓郎の声はアジテーターの声であり、たった一声で千とか万の若者が後について行くような声。それは高杉晋作もそんな声だったんじゃないかと思うという持論で、俳優では出せないと思い拓郎にお願いした」と説明している[278][532]
  • 武田は拓郎を"我々団塊のトップアイドル、カツコ良かった"と表現している[533]。武田はテレビドラマへの進出について「僕は吉田拓郎さんみたいな歌手になりたかった。でも、どうあがいてもなれなかった。それで仕方なく横に流れたんですね。それはテレビに出るということだったんです」と話している[534]
中島みゆき
  • 1980年8月10日NHK-FMで『拓郎105分』という特番が放送された。この番組は長年(プロデビュー10周年)音楽業界に貢献してきた拓郎を讃え、他のミュージシャンが拓郎に感謝状を贈るという内容であった。この番組で、学生時代に拓郎の追っかけをしていた中島みゆきが、拓郎のことを「よた、よた」と呼んでいた[535][536]。与太者の意味か与太郎の意味か、または、「よしだたくろう」の姓と名の頭文字(「よ」と「た」)を取った呼称であるという説もあるが理由は不明。
  • 拓郎は、自身のソングライティングが不調に陥った1995年、中島に直に楽曲提供を依頼。拓郎が詞曲の両方を他人に依頼したのは初めてのことで[537]、渡された曲が「永遠の嘘をついてくれ」で、拓郎からの当初のリクエストは「夢のない遺書のような曲を」であったが、全く逆の疾走感に溢れる実年ソングとなった[538]。この曲の歌詞が中島の拓郎に対する感情を思わす内容であったため、両方のファンから様々な憶測をよんだ。2006年のつま恋コンサートで、シークレットゲストとして登場した中島がこの曲で拓郎とデュエット、このコンサートの名シーンの一つとなった[539][540]
  • 中島は拓郎を尊敬しており、彼女の楽曲に数曲、拓郎調の楽曲があるといわれることもある[541]
  • 拓郎も中島を尊敬していると公言している。彼女のライブでバックミュージシャンとしてギターを弾きたいと数年前からオファーしているが実現しておらず、彼女がオールナイトGOLDにゲスト出演した際に直接オファーを試みたが、ライブの間じっと演奏してられるかなど質問返しされて結局YesともNoとも答えてもらえなかった。拓郎によると「どうしても『悪女』を歌う中島みゆきのバックでギターを弾きたい」らしい。この時のゲスト出演について、中島に「瀬尾さんが行くって言うから来た」とコメントされると「なんだよそれー!」と拗ねていたらしい模様が放送された。
長渕剛
  • 長渕剛が本格的に音楽の道を志すきっかけになったのは、フォークコンサートでトリを務めた拓郎の歌を聴いて大きなショックを受けてからで、「拓郎はカッコ良かった。オレたちの世代にとっては、みんなの憧れだった」と話している[542][543]。長渕が最初にユイ音楽工房に所属したのは拓郎がいたからである[284][544]
  • 1979年愛知県篠島で行われた拓郎のオールナイトコンサートに出演した長渕が、拓郎ファンから「帰れコール」を浴びながらも歌い続けたエピソードはよく知られる[543][290]。長渕は「あのステージがなかったら今はなかった」と話している[290]
  • ただ、1994年に長渕と桑田佳祐が揉めたときは[144]、拓郎は桑田の方の肩を持つ発言を行い、長渕をトーンダウンさせた[545]
  • 2012年の拓郎の3年ぶり復活ライブの最終日(NHKホール)の際には自ら拓郎の楽屋を訪ね、久々の再会を果たしている。そのことが後日、坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLDで語られた(その場には山下達郎&竹内まりや夫妻や南こうせつもいたらしい)。
桑田佳祐原由子
  • 桑田佳祐は1985年の著書『ロックの子』の中で、「フォークは大嫌いだったが唯一、拓郎が好きだったのは、拓郎の歌謡曲的な部分だった、拓郎のコマーシャルソングの音作りに共感したことが、自身が曲作りを始めるきっかけ、拓郎を聴いて『これなら曲が作れる』と思った」などと述べており[546]、1980年8月10日にNHK-FMで放送された『拓郎105分』では、一番影響を受けた拓郎の曲として「Have a Nice Day」[375](1972年富士フイルムCMソング)を挙げた。1985年のサザンオールスターズのアルバム『KAMAKURA』には、拓郎からの影響を思わせる『吉田拓郎の唄』という楽曲を収録している[547]。2003年夏に拓郎が癌治療で休業中には、『吉田拓郎の唄』の批判めいた歌詞部分を大幅に変更、拓郎をより賛美する内容にしてライブで歌唱し、遠い地から拓郎にエールを送った。拓郎は、2008年2月24日の「俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル」の放送で療養中、桑田から復帰を願いギターのテレキャスターを贈ってもらったエピソードを披露した。桑田も、同年3月11日の「桑田佳祐のオールナイトニッポン」で、その経緯について触れ「ふらっと入った楽器店にあったギターを見た時、拓郎さんがバーンと浮かんだ。拓郎さんにこれを弾いてもらいたいと思った」「高校の頃、色んなフォークが流行ってたんだけど、拓郎さんだけが輝いて見えた。私が今ここにいられるのも拓郎さんが物凄く大きな切っ掛けになっている」などと話した[548]原由子も拓郎の大ファンで、中学の時、深夜放送で拓郎の四角佳子との結婚宣言を聞き、布団で泣いたという[549]
浜田省吾
  • 広島フォーク村時代からの先輩・後輩である浜田省吾とは、師弟関係にある。拓郎は、1970年にプロデビューして上京した後も、広島フォーク村のイベントなどに出演するため、度々帰郷。この頃は、スーパーの階段の催し場やレコードショップの横、などで歌うこともあった[550]。こうした折に付いてまわったのが浜田で、空港までの送り迎え等も浜田の仕事であった[551]。浜田らが「愛奴」を結成してCBS・ソニーのオーディションを受ける際も拓郎の自宅を訪れ相談。「愛奴」プロデビュー前の1974年、拓郎の全国ツアーのバックバンドに「愛奴」を起用し浜田はドラムを担当した[552]。「愛奴」の起用はザ・バンドに断られたため回ってきたもの。拓郎はツアーの直前にボブ・ディランとザ・バンドのコンサートをロサンゼルスまで観に行き、そこでザ・バンドを真ん中に、ディランがステージの端で歌うステージングに驚き、同じように「愛奴」を真ん中に、拓郎が端で歌うというステージングをやったが、浜田のドラムがヘタ過ぎて目立ち、同じようには出来なかったという[85]
  • 浜田は、1997年に拓郎の50歳を祝って拓郎のデビュー曲「イメージの詩」をカバーしたり(拓郎自身も、コーラスとアコースティクギターで参加している)、後のつま恋コンサートで再びドラムで参加するなど、長きに渡って交流を持ち続ける[553]
松本隆
  • 職業作詞家としてデビューしたての松本隆にCBSソニーの、これまた若いディレクター/プロデューサーだった白川隆三から担当の新人歌手・太田裕美売り出しのため作詞依頼がきた。これに拓郎は「お前ら(太田+松本+白川のトリオ)は売れない」と酔って松本に毒付いた。結局このトリオ+作曲家筒美京平での4曲目のシングルが大ヒットした「木綿のハンカチーフ」で無事拓郎を見返せた。太田は拓郎をいっぱいいじめたという[554]
  • 拓郎はその後、原田真二の売り出しに松本隆を起用した他1978年、初の二枚組アルバム『ローリング30』制作にあたり、ほぼ全曲の作詞を松本に依頼し二人で箱根の山に篭り、一人の作詞家との完全な共作がどれ程のものになるのか、という試みを行っている[555]。松本はこの時の拓郎との共同作業を通してより物語性を深め、1980年代アイドルのヒットメーカーとして本格的に花開くことになる[556]。松本にとってもマイルストーン的な作品となっている[557]
森山良子
  • 森山は、まだ無名時代の拓郎を自身のラジオ番組(キョーリン・フォーク・カプセル、ラジオ関東?)に度々呼ぶなど、拓郎を可愛がったという。
  • 森山は1971年から1972年にかけて結婚、長女(森山奈歩)出産のために休養した。そのブランクのために1973年はパッとせず。この時代になると拓郎らシンガーソングライターが台頭してきて当時、"歌謡曲歌手"というイメージがついていた森山は、アルバムが売れない状況になっていた。
  • 1974年の賛美歌アルバムの完成と「ある日の午後」のヒットで盛り返した森山に1975年、「襟裳岬」を大ヒットさせた拓郎が前記の恩を返す形で「歌ってよ夕陽の歌を」を提供。曲もヒットしたことで森山のイメージは再び"フォークの女王"に戻った(同曲でNHK紅白歌合戦に出場)[558]
山下達郎竹内まりや
  • 山下達郎は拓郎について「僕と拓郎なんてある意味、今の音楽界で両極端、対極じゃないか」と過去に発言している[559]。山下は拓郎がプロデュースした1975年のTBSドラマ『あこがれ共同隊』の主題歌「風の街」に、山田パンダコーラスとしてレコーディングに参加した。この時、拓郎にそのコーラスの歌唱指導をされて以来、拓郎とは一回も口を聞いたことがないと話していた[560]
  • 2012年8月13日の「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」で、坂崎から「拓郎さん、日本ではどんな音楽が好きなんですか?」という話題が出た中で、「みんな以外なところでね、俺、山下達郎とか好きなんだよ、あいつのボーカルが好きなんだよ、達郎の声とか(彼の)奥さんの竹内まりやの声は、かなり俺(胸に)クるんだな。あそこの夫婦のファンだね。これ、このラジオで本邦初公開だけど」と告白した。
  • この発言がきっかけとなり、同年10月1日の同番組で、お互いソロアーティストとしての立場で初共演を果たした[561][562]。この放送で山下は"私的吉田拓郎史"を言わせてもらえば2時間は喋れると話し、18歳の時、東長崎のレコード店でアルバイトをしていた時、ちょうど拓郎のアルバム『元気です。』(1972年)が出た頃で、その『元気です。』とカーペンターズの「ア・ソング・フォー・ユー」の2枚が飛ぶように売れて10枚問屋に注文しても1枚しか来なかったという思い出や、前述の「風の街」のレコーディングで拓郎に歌唱指導された話、その時のしこりで1975年のつま恋にもコーラスとして参加を要請されたが「絶対イヤ」と断った話などをした。
  • 拓郎の方はそんな話はまったく知らず、山下を認識したのは1980年代になってから、毎年行くハワイで「LOVELAND, ISLAND」(1982年)を聴いて、こんなウェストコースト風サウンドを歌いこなせる日本人ボーカリストがいるのか、と感激したのが最初と話した[561]。ちなみに、この日の出会いがきっかけとなり、番組後には互いのメルアド交換をし、夫妻ともどもメールするほどの仲になっている[563]
  • 2013年6月24日には竹内が「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」に単独出演し、番組内で拓郎の名曲「どうしてこんなに悲しいんだろう」を竹内本人のアレンジにより3人で演奏した。
その他ミュージシャン
  • イルカは、2007年他界した夫の神部和夫ともども、最も古くからのフォーク仲間で全国をどさまわりした間柄。当時は2人が所属したシュリークスが非常に人気があり、拓郎のほうが前座だった。神部はいい声の持ち主だったが、拓郎が出てきてから「もう自分がうたっているような歌の路線はこれからはダメだ。綺麗にうたっていくんじゃなくて自分のメッセージをガンガンうたっていく世の中に変わったな、これからは俺の時代じゃない」と話していたという[564]。イルカがソロデビューして曲作りを始めた時、拓郎は自宅の居間で親身になってアドバイスしたという[565][566]。シュリークスの持ち歌で、イルカのレパートリーでもある「クジラのスーさん空を行く」は、神部の詞、拓郎の作曲。
  • 古井戸の金崎芳樹(加奈崎芳太郎)が1971年8月頃、エレック・レコードに入社が決まり、一度会社に挨拶に行こうと事務所を訪ねると、部屋の隅でダンボールの梱包をしているオジさんと、奥の机で電話している拓郎がいて、拓郎に「社長さんはどこですか?」と聞いたら梱包をしているオジさんが社長で、拓郎は電リクをしていた[567]。加奈崎も仲井戸麗市も、拓郎さんには可愛がってもらいましたと述べている[568]
  • 1971年11月6日、慶應義塾大学で行われたコンサートは、俗に"慶應三田祭事件"と呼ばれる。これは頭脳警察伝説として有名だが、はっぴいえんどの事務所と確執のあった頭脳警察が観客をアジりながら、えんえんと演奏を続けて居座り、次に出たはっぴいえんどの大滝詠一が「前のバンドが僕らのぶんもやってくれたので」と言ったため観客が反撥、石の飛ぶ中1曲だけ「はいからはくち」をやって帰ってしまったもの。その次の出番だったのが拓郎で、一人で全部を受けとめる羽目となり、ビール瓶が飛んで来て1曲も演奏出来ないまま引き下がった。この事をまったく知らなかった大滝は後で拓郎に「お前らよお、あれ、あの後も観客を静めるのに大変だったんだぜ、俺は」と散々言われたという。拓郎は頭脳警察にも憤慨していたが、その後、PANTAと話す機会を得て好意を持ちパックインミュージックで『頭脳警察セカンド』からシングルカットされた「いとこの結婚式」という拓郎のヒット曲を意識したような曲をプッシュしたり、頭脳警察をゲストで呼んだりしたがこの曲はヒットしなかった[569][570]
  • 小室等が1972年頃、グループを組もうと女性ボーカルを捜してりりィを決めかけていたが、その後りりィは長い旅に出てうやむやに。りりィはあの時、連絡がついていたら「今頃は私が拓郎と結婚してたんじゃないかな」と話している(小室と拓郎が非常に近い関係のため)[571]
  • 丸山圭子は1972年、コンテストで優勝するとCBSソニーエレックレコードからスカウトが来た。当時ソニーは郷ひろみ天地真理らがいてばりばりアイドルの時代。普通だったらソニーを選びそうだが、エレックは拓郎がいて、まわりから(これからは)シンガーソングライターみたいに曲をつくりながら歌っていったほうがいいよと言われてエレックに入ったという[572]。しかしまもなく拓郎はソニーに引き抜かれる。
  • 山本コウタローは1973年、一橋大学卒業時に「たくろう・スーパースター」という拓郎をテーマにした卒論を書いた。しかし内容に不満が残ったため、プロデビュー後、鹿児島や広島にまで足を運んで取材し、2年後に出版したのが「誰も知らなかったよしだ拓郎」という題名の本である[573][175]。"現役ミュージシャンが書いた現役ミュージシャンの伝記" という非常に珍しい本で[574]特にアマチュアだった広島時代について詳しく書かれており、拓郎について書かれた文章の多くは、かつてはこの本を参考にしていた[569]。何故、吉田拓郎でなければいけなかったかについては、日本の音楽を変えていく、次の世代に大きな波及力を残していくアーティストは、吉田拓郎以外には考えられなかったと述べている[575][164]
  • 井上陽水石川セリが出会ったのは、石川と松任谷由実がゲストで出ていたラジオの生放送(TBSラジオ、林美雄パックインミュージック、1975年11月26日)のスタジオに、石川のファンだった陽水と拓郎が酔って乱入したのが最初[577][578]。陽水は「あの時、オレたちは赤坂でウロウロしてて、拓郎の頭の中に"今日はユーミンがラジオに出てる"というひらめきがなければ、まったく違った人生をオレは歩いていたでしょう」と話している[579]
  • NSP高専仲間の3人組となったのは、拓郎が1971年に組んだ3人組のミニバンドの路線を狙ったのがきっかけ。NSPは当初ロック志向であったが、フォークブームでロックがまったく受けず、フォークグループに転換した。オリジナルを作り始める前のレパートリーは拓郎の曲が中心だったという[580]。NSP1973年のデビューアルバムに収録された「僕の夏休み」というオリジナル曲に"ギターを弾いてマークツーを二人で歌うはずだったのに"という歌詞が出る。きくち伸はその歌詞に出てきた「マークII」ってどんな曲なんだろう?、と本屋で調べて、よしだたくろうを知り、以降拓郎を追いかけるようになったと話している[335]
  • 岡本おさみの詞を使うことになったのは、岡本からの売り込みによるもの[581]。岡本との曲作りは手紙や電話でのやりとりで、プライベートでのつき合いはほとんどなかった[582][9]。岡本が送ってきた詞に数年後、拓郎が曲を付けて世に出ることがあったという。「襟裳岬」に関しては、拓郎にかなり歌詞を変更されたため共同作業だったと思うと岡本は述べている[583]
  • 1970年代半ばに、よくペニーレインなどで拓郎と飲んでいたガロ大野真澄は、拓郎から「一人でやれ、一人でやれ」といつも言われていたため、ガロの解散、所属レコード会社の倒産もあって1976年、フォーライフ入りした。この頃大野は、新曲より水原弘服部メロディなど、昭和の歌謡曲のカバー・アルバムを作りたかった。ところが当時は全編カバー集を作っても売り方がわからない時代、スタッフから「そんなの作ってどうするの?」と言われ実現しなかった。ところが翌年1977年、拓郎が有名なカバー・アルバム『ぷらいべえと』を出したため大野は「別に僕のアイデアを使ったとは思わないけどね」と述べている[584]
  • 1976年ペドロ&カプリシャスに在籍時の高橋真梨子と酒を飲み、ソロになると聞いて盛り上がり、「一緒にやろうよ」などとフォーライフに来ないかと熱心に口説いた。拓郎の自宅近くまで二人で歩き、高橋は「フォーライフに入る」と約束した。ところがその後高橋が所属した事務所が、レコード会社はビクターと決めていて「お願いしますフォーライフで」と頼んでも社長から「ダメ!」と言われ、それっきり縁がなくなった。拓郎は「それはビクターに行かれてよかったと思います。フォーライフに来てたらえらいことになってた」と話した[585]
  • 松任谷由実は、デビューしたての頃(その当時の姓は「荒井」) "女拓郎" と呼ばれたと[586][587]。このため、それまで聴いたことがなかった拓郎の曲を聴いた。感想は、「私のやったことは拓郎やかぐや姫とは違う。私のつくった曲は今までにない新しいものと思った。拓郎らの音楽とは違う、これを区別する例えとして"四畳半フォーク"って言葉を自分が考え出した」と自著で述べている[586]
  • 松任谷正隆は、1971年の拓郎のアルバム『人間なんて』にミュージシャンとして参加しプロデビューした[588]
  • 中村雅俊とは、1975年俺たちの勲章』の挿入歌「いつか街で会ったなら」のレコーディング以来の付き合い[589]。『俺たちの勲章』は、中村主演の『われら青春!』と同じプロデューサーで、気心知れていたため、大ファンだった拓郎に音楽を頼めないかと、中村がプロデューサーにお願いしたもの[590][591]。中村雅俊がニューミュージック寄りのイメージがついたのは拓郎の楽曲提供が切っ掛けだった[592]。「拓郎は憧れ以上の存在だった」と中村は話している[590][593]1999年7月25日には『吉田拓郎&中村雅俊の蘇れ青春!広島の旅!』という番組がTBSで放送された。拓郎が中村を2泊3日で広島の思い出の地を案内するという趣旨の番組で、「おろかなるひとり言」を着想したという実家近くの黄金山[18]や、大学時代にライブ活動の拠点にして、就職も決まっていたカワイ楽器広島店を訪ねた他、母校・皆実高校の教室で初恋の女性・準ちゃんと30年ぶりに対面もした。
  • 矢沢永吉とはキャロル時代から付き合いがあり、矢沢はソロデビューした1970代後半に、フォーライフの社長となった拓郎にマネジメントのことを聞きに夜よく電話してきたという[594][595]。こうした関係からか、当時は拓郎以上にテレビもラジオも出なかった矢沢が拓郎のラジオ「セイ!ヤング」(1979年7月7日放送)と「オールナイトニッポン」(1981年6月6日放送)の2度ゲスト出演した。「オールナイトニッポン」では、拓郎が矢沢を"永ちゃん""永吉君""永吉""オマエ"(矢沢も拓郎を"拓郎""オマエ"(矢沢が年下))と呼んだ。「自分の曲をプライベートで聞くか」と聞かれた矢沢は「あまり聞かない」と答えたが、拓郎は「よく聞く、それも寝るとき自分の曲を聴きながら寝る」と言っていた[596]
  • 拓郎に憧れ多大なる影響を受けたと語る所ジョージ[597]は、『LOVE LOVEあいしてる』に三度ゲスト出演した。1997年11月29日に初めてゲスト出演した際、拓郎の曲の中で「恋の唄」が好きだから、もう歌わないならを自分が作詞・作曲したことにさせてほしい、その代わりに自分の曲を10曲あげる、と交換条件を申し出た[598]。「恋の唄」は、拓郎自身も一番好きな歌と公言していたが、所の申し出を承諾し、所はお返しに「精霊もどし」という、グレープの「精霊流し」をパロディにした曲を渡した。二度目のゲスト出演した際、所は、自分が作った曲のことを「拓郎さんもすごい歌を作りますね」とネタにして笑わせた[599]。後に、この曲を、所に返した[600]。所は「恋の唄」の2番を書き加えた曲を、1999年、自身のアルバム『洗濯脱水』に収録している[597]。所はJASRACに登録されている作詞者・作曲者名も書き換えようとしたが、認められなかったという。所は拓郎曲のパロディ楽曲を複数発表している(『LIVE 絶滅の危機』)。
  • 拓郎のフジテレビ系音楽番組「夜のヒットスタジオ」への初出演は1980年6月30日。その約8ヶ月前の1979年11月12日に出演が予定されていたが、直前になって曲目等の件でスタッフと折り合いがつかなくなりキャンセル。この時に拓郎の代役として「夜ヒット」初出演を果たしたのが、まだレコードデビューして間もなかったCHAGE and ASKAであり、この出演を機に一気に彼らの知名度が上昇し翌80年の「万里の河」大ヒットの土壌が育つこととなった。彼らも拓郎、陽水を聴いていた世代。飛鳥涼は「いまだに陽水さんに会うと緊張するし、拓郎さんに至っては話もできない」と話している[603]
  • 「テレビ出演拒否」のきっかけを作った布施明からは30年後に正式に謝罪を受けた。ただし最近も布施サイドから曲の依頼があるが「俺は絶対に書かない」と言っているという話もある[604]。また2006年、つま恋の復活コンサートの大成功で、この年の『紅白歌合戦』の目玉とも言われた拓郎が出場を辞退したのは布施が出るからとも言われた[605]
  • 松山千春は「拓郎が嫌い」とラジオや自著で発言[606]。これを聞きつけたか拓郎も「松山が嫌い」と発言する事態となり[607]、犬猿の仲ということになっていた。2000年7月29日に「LOVE LOVEあいしてる」に松山がゲスト出演。並んで座ったが2人の会話はなく拓郎は終始無言、松山の独演会となった。拓郎嫌いの理由については、岡林信康が好きだったが岡林のあと[608][609]拓郎派と加川良派に分かれ、加川良のほうが好きになったため、好きの反対なら「拓郎→嫌いだろ」と説明した[610]。松山以外にも拓郎は「LOVE LOVEあいしてる」、注目の第1回放送(1996年10月5日)のオープニングで、唐突に「さだまさし嫌い」と発言した[611]。1997年9月20日放送の同番組で、さだまさしがゲスト出演したとき、拓郎はさだが嫌いな理由を「バイオリンを弾くから」と説明している。
  • 高橋ジョージがもっとも影響を受けた番組は、拓郎が司会を務めていた「バイタリス・フォークビレッジ」(ニッポン放送)という。このラジオとは別に、テレビに出た拓郎がレコードとはまったく違うアレンジで「旅の宿」を弾くと頭の中が真っ白になるほどのショックを受け「こんなスゴいことができるなんて...これはギターを買わないとダメだ!」と急いで通販でギターを買ったのが本格的に音楽を始めた切っ掛けという[612]
  • 篠原ともえとは、「LOVE LOVEあいしてる」で共演する前に、番宣番組で共演しているが、篠原の濃いキャラに嫌悪感を抱いた拓郎は完全無視を決め込み、それでもめげない篠原に「なんだお前!?触るんじゃねぇ!!」と激怒し、追い払った。さらに「LOVE LOVEあいしてる」に篠原もレギュラー出演することを聞いた拓郎は、「アイツが出るなら、俺は番組を降りる!!」と断言。しかし、それを知らない篠原は、ほぼ毎日のように拓郎と接触し、何とかして仲良くなろうと思っていた。その努力が実ったのか、拓郎の口から「お前はウルサイけど、いないと寂しい。」との言葉が出て以来、仲が深まるようになった。ちなみに篠原は拓郎のことを「音楽の大先生」として尊敬しているが、初めて会ったときにブチ切れされた時、篠原は「もう芸能界で生きていけない」と思ったらしい。
  • YO-KINGは拓郎ファンとしてよく知られ、私設のファンクラブにも入っていたという[249][613]。YO-KINGは「僕の世代には、拓郎さんをそんなに聞き込んだ人はいない。だから、そこがおもしろがられているんだと思います。それでデビューから20年以上もやってこられたんじゃないかと思います」などと話している[249]。YO-KINGも一番好きな曲という「流星」を2001年にカバーしている。

ミュージシャン以外[編集]

  • 明石家さんまは拓郎の大ファンで、さんまが音楽番組「LOVE LOVEあいしてる」に出演した(1996年11月9日)[614]のは拓郎が司会だったから。拓郎の凄さをもうひとつ理解していないKinKi Kidsに、さんまは拓郎の素晴らしさを一生懸命説明したという[615]。この後、拓郎が『さんまのまんまスペシャル2001』(2001年12月28日)にゲスト出演したのも、さんまからの強いオファーがあったため。さんまは「"イメージの詩"を人生の教科書とし(拓郎をまねて)ハイライトを吸って生きてきた。今はマルボロですけど」と話し、自身がカラオケで歌うのは「イメージの詩」ぐらいという。ところが拓郎は「体のこと考えて軽いフロンティアに変えたんですよ」「僕の作る歌、全部ウソだから。信用してる人がおかしい」などと話し、さんまと拓郎ファンをがっかりさせた[16][616]
  • 志村けんとよく飲み、電話で呼び出せる仲良し[617]。志村の著書のあとがき・解説を拓郎が書いている[618]
  • 爆笑問題太田光は「泣ける名曲」として拓郎の「流星」(1979年)を挙げている[619][620]。太田は拓郎に会って「この曲は僕の曲にしてください!」って頼んだら、拓郎に「そういえば武田鉄矢もおんなじようなこと言ってたな」と言われたという[620]。「流星」は「時代を越えて愛され続ける名曲」と評される[621]。歌詞は拓郎の唯一の子供である四角佳子との間にできた娘のことを歌ったものといわれている。ピース又吉直樹カラオケで拓郎の曲をよく歌うという[622][623]
  • 秋吉久美子1972年高校三年生の時、将来を決めかね追い詰められた気持で夜中、ラジオで拓郎の深夜放送を聞いていると、拓郎が夏休み1ヶ月で四国に行って映画(旅の重さ)を作るのでヒロインを募集する、と言うのを聞き、"ああ、ちょうど夏休み1ヶ月間か、どっかに行っちゃいたいなあ"と思いオーディションを受けたのが芸能界入りしたきっかけだったという[624]。秋吉は"あたしは岡林信康、吉田拓郎、泉谷しげる、などで育った"と話している[625]。秋吉のデビュー作・映画『旅の重さ』は音楽を拓郎が担当した。拓郎はこの『旅の重さ』のヒロインオーディションに審査員として参加したが秋吉に最低得点を付け、高橋洋子には気づかなかったと話している。
  • 仲村トオルは、将来の目標が見出せなかった大学時代の夏休みに、友人に誘われて行った拓郎の1985年のつま恋オールナイトコンサートに感銘を受け、俳優として生きていくと決意したという[626]
  • 江口寿史は「マークII」(1985年)という拓郎に心酔する高校時代の自身を描いた短編を書いているが[627]レコード・コレクターズ増刊「日本のフォーク/ロック アルバム・ベスト100 1960-1989」で、拓郎のアルバム『元気です。』を私のベスト1に挙げ、「レコード・コレクターズでは拓郎の評価が低い。ほぼ黙殺に近い」と、同誌に対する皮肉を述べた上で、「このレコードとの出会いがなかったら今の自分はないという意味で断然1位であります」と話している[628]
  • 柴門ふみは「ある世代の人々にとっての美空ひばり、ある世代の人々にとっての石原裕次郎が特別な意味合いを持っように、私たちの世代にとってのその人は、よしだたくろうである。たくろうが衝撃だったのは、そのストレートなダミ声と、かわいい笑顔であった。それまでのフォークシンガーの貧乏臭い顔(岡林信康とか高石ともや)と比較して、まるで太陽の明るさの邪気のない笑顔であった。オカッパ頭の、人なつっこい丸顔のたくろうに、当時の女の子はみんなシビレたのだ。駄々っ子のようなたくろうのダミ声を復刻版で久しぶりに聴き直す。すると、当時私のまわりにいたボーイフレンドの誰よりもたくろうを愛していたことを確認した。徳島時代の同級生の男の子たちの誰も現在の私の作品に影響を与えていないが、たくろうの歌のいくつかは、私ののちの作品につながるものを感じさせてくれる」などと話している[629]
  • 漫画家では他に喜国雅彦が拓郎の大ファンで、拓郎のカバーバンド「マサ拓Z」としても活動している[630]
  • みうらじゅんの名前がひらがな表記なのは、吉田拓郎の初期の名義が「よしだたくろう」だったことに由来している[172][631][632]。みうらが50代半ばにしてまだロン毛にしているのも、あの頃の拓郎さんを引きずっているからという[172][632][633]。みうらは拓郎 の初エッセイ集「気ままな絵日記」がバイブルといい、自身の文体はどんな文豪より拓郎の影響を受けていると話している[172][632][634]。みうらは「昔は吉田拓郎に憧れて、髪の毛のばして、ギターを弾くってのが大概のルールだったんですけどね。それはスチャダラパーあたりでなくなっちゃった」「80年代は吉田拓郎さんの話を熱く語るのって絶対ダメだったね。何だか話しちゃマズイような雰囲気があった。やっと出来るようになったのは真心ブラザーズ倉持君からですよ」と解説している[635]。みうらもえのきどいちろうも「拓郎さんを選んでなかったら、今の仕事はしていない」と話している[636]
  • 泉麻人も、今の仕事をするキッカケを与えてくれた一冊は、拓郎の著書「気ままな絵日記」で、「こういうエッセーみたいな文章なら書ける」「こんな本だったら出してみたい」と思ったと話している[341]
  • 中学時代の中森明夫は「オールナイトニッポン」の拓郎の扇動にすっかり感化され、「つま恋オールナイトコンサート」は、その拓郎から招集をかけられたようなものだったと話している。行くか行くまいか最後まで迷ったが、18歳未満の終夜観客は不可とのお達しが出たことで断念したという。中森にとって「東京は、拓郎らフォーク歌手やアイドルが棲む街」で、つま恋の行われた1975年に初めて上京し、原宿のペニーレイン[注釈 37][637][638]などにも行き東京を感じた。「1975年に上京していなければ、私は表現者になっていない」と話している。中森は拓郎を「かつて体制と闘った若者のカリスマが、時代を経て、今や老いた団塊の星として病と闘っている」と述べている[639]
  • 森達也も拓郎の深夜放送を夢中になって聴いたという[640]
  • 拓郎と矢沢永吉ファンという重松清は「拓郎や矢沢は、地方に住む僕たちに『上京の物語』を与えてくれた」と話している[641][642][643]
  • 任天堂専務取締役情報開発本部長でゲームクリエイター宮本茂は、大学時代に拓郎にハマったと話している[644]
  • 2013年サッカー日本代表内田篤人が「拓郎の曲を聴き込んでいる」との新聞記事を読みCDを大量にプレゼントした[645][646]。内田の一番好きな拓郎曲は「外は白い雪の夜」という。
  • この他、江田憲司高須基仁佐々部清逢坂誠二森永卓郎らが、拓郎から特に大きな影響を受けたと話している[16][647]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 日外アソシエーツは、吉田拓郎を「ニューミュージックを代表する音楽家」と論じている(『ポピュラー音楽人名事典』日外アソシエーツ、1994年、p661、ISBN 978-4816912238)。
  2. ^ 拓郎自身は鹿児島県大口市で生まれるが、なぜ鹿児島だったのかも分からないと話している。
  3. ^ 広島は母方の祖母の出身地という。
  4. ^ バンド名は「リトル・ダーリン」の大ヒットで知られるアメリカのロックバンド・ダイヤモンズから。
  5. ^ 渡辺プロの諸岡義明専務は「渡辺プロがなかったら、地方の若者が音楽と出会える機会もなかったと思いますよ。吉田拓郎も広島で『ザ・ヒットパレード』を見て、おれも音楽をやりたいと東京へ出てきて、最初に渡辺プロを訪ねたんだそうですよ」と話している(TV博物誌、1997年、荒俣宏小学館、p189)。
  6. ^ エレックは拓郎、泉谷の大黒柱を失った等の理由で1975年倒産するが、泉谷は自著「泉谷しげるの治外法権」の中で、社長がオレたちの稼ぎを女につぎ込んだから倒産した(p62)、拓郎は「社長も専務も皆サギ師、泉谷もみんな騙されていた」と糾弾している(コンサートMC)。
  7. ^ エレック盤にはユーゲント盤についていた写真集はついていない
  8. ^ 社名は小室等の愛娘・こむろゆいにちなむ(1月30日 ゲスト:小室等さん、こむろゆいさん - ドコモ団塊倶楽部)。
  9. ^ 当時、NHKの音楽番組に出演するにはオーディション合格が必須であったが、以前に落選していたため、NHKは再審査を行って合格させた(ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p63)。
  10. ^ いろいろな圧力があったが、コンサートの後援で入っていたニッポン放送亀渕昭信が最後まで「拓郎を信じる」といって頑張ってくれたのが中止にならなかった理由という(シンコーミュージック 2007, p. 126)。ただし、亀渕は自身が担当した「オールナイトニッポン」で拓郎の曲をかけなかったことで知られる(亀渕昭信のオールナイトニッポン 35年目のリクエスト、2006年、亀渕昭信白泉社、p31、32)。
  11. ^ 森も母親の自殺や見知らぬ女性から関係があったと訴えられ裁判になる(無罪判決)など苦難の時期であった。
  12. ^ それまで美空ひばり三波春夫北島三郎など、演歌歌手が独占していた歌手部門で初めてフォークシンガーがランク入りし、この年以降南こうせつ松任谷由実矢沢永吉ら、ニューミュージック系のシンガーソングライターが番付の上位を占めるようになった。
  13. ^ 加山雄三香山美子浅田美代子と共演。
  14. ^ 一方的な形の離婚宣言だったため、女性誌などからは横暴な男として激しくたたかれた。
  15. ^ 沢田研二五木ひろし西城秀樹荒井由実ら、7人のトップスターのワンマンライブをオンエアするというドキュメント番組のトリを務めた。
  16. ^ 元は1975年に藤公之介の作詞・拓郎曲で、萩原のために「君うるわしのかんばせ」のタイトルで制作されたもの。前述理由で作詞・藤とタイトルはそのまま、作曲が森田公一に交代し、萩原の1975年8月発売のアルバム『惚れた』に収録された。この時ボツになって残った拓郎曲が1978年になって作詞を阿久悠が手掛けタイトルも変更し発売されたのが「さらば」。『新譜ジャーナル』1975年の記事にフォーライフ結成発表間もなく拓郎の所属する事務所に電話を入れたら、拓郎はガロの新曲、浅田美代子のプロデュース、ショーケンの新曲など、など目白押しに仕事がつまっている」と言われたとある(『新譜ジャーナル・ベストセレクション'70s』p221)。
  17. ^ 20歳近く年下の松浦勝人社長に「avexでは若い人のアルバムをたくさんつくってヒットさせてきたけれど、これからやめようという人の音楽は初めてです」と言われ「面白いことを言う男だ」と好感を持ち移籍した
  18. ^ 客が“帰れコール”を浴びせたり、ステージに上がってわめいたりするのが1970年代に流行したのは前記、第3回の中津川での暴動から。その後のコンサートで、このときのマネをする勘違いが流行った(頭脳警察、2004年8月・須田諭一著・河出書房新社、P231-232)。
    耳を澄まして聴く歌詞に共感できれば拍手をし、気に入らなければ“帰れコール”を浴びせる。フォークと聴衆の関係はそのようなものという考え方があった(ロックミュージックの社会学、南田勝也、青弓社、p132)。
  19. ^ 本来フォークとは民謡という意味を持つため、日本のフォークとは趣旨もニュアンスも違うと考えた番組製作者が、「ジーンズサウンズ」という名称をラジオ番組のタイトルに付けたことがある。これは拓郎を始め当時のフォークシンガーがジーンズを穿く者が多かったため(永遠のJ-POP、2004年、島敏光、学習研究社、p229、230)。
  20. ^ 替え歌とはいえ、この曲が最初のオリジナル曲。長いタイトルはやはりディランの「第三次世界大戦を語るブルース」などの長い題名に影響されている。「」とか「兄弟仁義」などの歌謡曲みたいな簡単なタイトルでは値打ちが下がる気がしたと話している(田家秀樹 2007b, p. 82)。
  21. ^ 現在は"字余りソング""字あまりソング"という言い方で定着している。
  22. ^ 小室哲哉との対談は2008年11月5日の日本経済新聞朝刊の社説、1面コラムの春秋にも引用された。
  23. ^ 吉田拓郎のそれまでになかった、話し言葉のような歌が若者たちの心をとらえた(テレビ仕掛人たちの興亡、1990年、田原総一朗、講談社、p202)。
    歌詞の中で、自分のことを「おいら」と呼ぶのも拓郎が始まりと思われる(日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん泉麻人山田五郎安斎肇毎日新聞社、p180)。
    1組の男女の別れを切なく描いた詞が、最後の最後に「年老いた男」の俯瞰の目線に変わるこれまでにない詞の展開、方法論を持つ「マークII」(アサヒ芸能、2009年7月16日号、p189)。
  24. ^ Musicman'sリレー 第66回 武部聡志
    「青春の詩」に見られるような、自分の身のまわりの、ほんのちょっとしたことを唄にしてもいい(僕の昭和歌謡曲史、泉麻人、講談社、2000年、p137)。
    拓郎は、形態こそギターを弾きながら自作曲を歌うという、それまでのフォークと同じスタイルをとりながらも、歌う内容は全く変わっていた。自分の思ったことを歌う、歌いたいことだけを歌うというマイペースの姿勢に変わりはないが、社会問題をテーマにするのではなく、自分の身近な私生活をテーマにした(音楽する社会、1988年、小川博司、勁草書房、p49)。
    反体制イディオムと青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、現在のロッカーもこの手法を無意識に踏襲(J-ROCKベスト123 1968-1996、1996年、講談社、p61)。
    「旅の宿」「襟裳岬」等に共通する"和"の世界 "ジャパネスク"路線も、後のシンガーソングライターたちに無意識下に下敷きにされる(歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、アスペクト、p122)。
    例えば、田上雅充の「春うらら」は「旅の宿」をベースに春歌的趣味を加えたもの(決定版「一発屋」大全、2001年、宝泉薫、彩流社、p166)。
    フツーの男が、とてもマガオでは言えないような話を平気で自然に歌に出来る力強さ(歌謡曲という快楽 雑誌『よい子の歌謡曲』とその時代 、2002年、宝泉薫+ファッシネイション、彩流社、p26)。
    ファンに激震!人生、最後ツアー決定|吉田拓郎
  25. ^ 演歌にも通じる日本人の歌心に新しいスタイルを提示(織田哲郎ロングインタビュー)。
    ユーミン、陽水の前史として拓郎がある。拓郎は自身が考えていること、感じていることを、そのまま歌にして歌うという近代的な表現意識を、非常に直接的に、シンプルな形で典型的に確立した。大衆歌謡としての自己表出という非常に明瞭な方法意識を確立させた(ポスト歌謡曲の構造、1986年、足立里見著、五月社、p20、21)。
    拓郎は演歌の歌唱法と歌詞法を超えて、身近な言葉を音(メロディ)に乗せえたいちばん最初の人。中島みゆきは、好むと好まざるとに関わらず、拓郎たちが領土化した発声と発想の路線上から出発した(中島みゆき その愛と歌の行方、1991年、菅間勇、春秋社、p210-212)。
    小室等は、日本のフォークソングには拓郎と陽水という二つの大きな流れがある。それはアーティキュレイション(Articulation)でありフレーズ。拓郎の方が陽水よりポピュラリティがあって、日本のわらべ歌民謡に非常に近いものがある。また言葉に対する感性のセンスがいい。陽水のほうはもっと英語に近いアーティキュレイションでの日本語。拓郎と陽水がやったことの成果、功績は大。二人がいなかったら日本語の歌って違った形になっていたと思う。だからユーミンには失礼だと思うけれど、拓郎と陽水がいなかったら、ユーミンがああいう形であったかどうかって、僕はそう思ってしまう。勿論、ユーミンも才能のある人だから、何らかの発見をしたかも知れないけども、でも拓郎と陽水という実績の上に、今のユーミンがあると思うし、日本の歌もその上にあると思うね(石原信一 1985, pp. 90-91)。「拓郎、井上陽水、ユーミン、小田和正といった人たちが、非常に洋楽的なエッセンスと日本語の感性をドッキングさせる才能に長け、日本語としての生命力を保ちつつ曲を作るという意味で、エポック・メイキングだった人たちだった思う。拓郎辺りまでは、まだ七五調な日本語感性に踏みとどまっていたが、その後日本の音楽は限りなく英語感性に寄り添っていったと思う」(ジェネレーションF―熱狂の70年代×フォーク、2001年、小室等他、桜桃書房、p27)。などと論じている。
    フォークからプロテスト性をそいだ形で「自分の思ったことを自分の言葉で歌う」というテーゼだけを保持し、自身の「私生活」を表現(ロックミュージックの社会学、2001年、南田勝也、青弓社、p139)。
    ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p69
  26. ^ ドラムは再建後のエレックレコード社長・萩原克己
  27. ^ 同時期にはっぴいえんどが岡林信康のバック演奏を務めたことは有名だが、レコーディングは、はっぴいえんど主導で行われたといわれている(日本ロック大系、月刊オンステージ編集部、白夜書房、1990年8月、〈上巻〉p120-121)。
  28. ^ 当時はシングルは売れても、アルバムは3千〜5千枚売れたらいい方であった(ラヴ・ジェネレーション1966-1979 新版 日本ロック&フォークアルバム大全、音楽之友社、p282)。
  29. ^ 外国では、イギリスのワイト島フェスティバルが有名。
  30. ^ 後藤が本格的な権利ビジネスを教わったのは何と渡辺晋からという。アポなしで渡辺プロダクションを訪問すると渡辺は直接、著作権の話は勿論、タレントを管理する高度なノウハウの必要性や金を預けるのはどこの都市銀行がいいかまで、ざっくばらんに話してくれた(渡辺芸能ビジネスを創った男-渡辺プロとその時代、新潮社、2006年、p151-156)。また拓郎も、かなり早い時期から渡辺晋とよく酒を飲んでいたと渡辺プロの社史に記述されている。渡辺は「ニューミュージックの連中は、したたかだな。ちゃんと計算している。ウチの若いマネージャーでは歯がたたんだろう」と諸岡義明専務に感想をもらしていたという(渡辺プロダクション社史「抱えきれない夢〜渡辺プログループ40年史〜」、1999年、「渡辺プロ・グループ四〇年史」編纂委員会、p288、ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p179)。
  31. ^ 「明星」編集部は金沢事件で女性週刊誌を中心に拓郎を追撃する中、拓郎を擁護する立場を取り不起訴後、いち早く拓郎の独占自筆手記を掲載した(月刊明星、1973年8月号、集英社、〈独占!よしだたくろう1800字自筆手記〉、p82―85)。「旧友再会フォーエバーヤング」は福島の圧力で、巻頭カラー楽譜付きグラビア(近藤真彦松本伊代早見優らに続いて拓郎がくる不自然さ)で丸1ページを割かせたという。また1984年に集英社から出た拓郎のエッセイ集「俺だけダルセーニョ」は先の編集者と福島らが編集したもの(吉田拓郎サマへの道、1999年、福島直子、ネスコ/文藝春秋)。草野マサムネが「明星」を見て拓郎に興味を持った(田家秀樹 1994, p. 73)というのはこれらの理由と思われる。
  32. ^ 吉田拓郎のそれまでになかった、話し言葉のような歌が若者たちの心をとらえた。拓郎節はナベプロ流の大宣伝、大がかりな売り出し作戦もなしに、まるで既存の流儀を拒否するような自然流で次々に大ヒットして、ナベプロなどの既存組が束になってもかなわない大きな流れとなった(テレビ仕掛人たちの興亡、1990年、田原総一朗、講談社、p202)。
    山本コウタロー 2009, p. 4
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    テレビだョ!全員集合 自作自演の1970年代、2007年、長谷正人、太田省一編著・青弓社、p68-70
  33. ^ 音楽プロデューサー・前田仁は「拓郎によって今のJ-POPのスタンスはできあがったと言っていいでしょう。その意味では拓郎は間違いなくフロンティアだね」と述べている(フォーク名曲事典300曲、富沢一誠、p176、177)。
  34. ^ 1970年代初頭ではまだ、テレビCMの世界で自らのサウンドスタイルを崩すことなく音楽制作を聞かせることができたのは、拓郎と大滝詠一だけであったといわれる(文藝別冊 大瀧詠一―総特集 大瀧詠一と大瀧詠一のナイアガラ30年史、河出書房新社、2005年11月、p176-177)。「Cider'73」からはじまる大滝詠一が手掛けた三ツ矢サイダーの名作シリーズは、拓郎の「HAVE A NICE DAY」に対抗するため、当初サクラカラーはっぴいえんどにCMソングを依頼したもので、はっぴいえんどの解散でこれは流れたが担当者が大滝の楽曲を気にいり、大滝個人に三ツ矢サイダーのCMが持ち込まれたもの(はっぴいえんど伝説、1983年、萩原健太、八曜社、p158-159、牧村憲一『ニッポン・ポップス・クロニクル 1969-1989』スペースシャワーブックス、2013年、p63、ほぼ日刊イトイ新聞 - 大瀧詠一さんと、トリロー先生の話を。第4回)。
  35. ^ てぃーんずぶるーす6位、キャンディ10位、シャドーボクサー14位(期日不明)。(青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p213、日本のベストアルバム―フォーク&ロックの25年―、1992年、田家秀樹監修、シンコー・ミュージック、p92)。
  36. ^ 当初は泉谷が1人で募金ライブを敢行、これに拓郎が「スーパーバンド」という概念を加え、その後泉谷と拓郎、小田が軸となって「スーパーバンド」としてチャリティコンサートを行う(アサヒ芸能、2009年8月20日号、p97)。
  37. ^ ペニーレインは原宿にあった伝説のバー。当時、ユイ音楽工房社長だった後藤由多加が飲食店事業の一環として1974年に立ち上げた。拓郎の楽曲「ペニーレインでバーボン」で有名になり、修学旅行のコースにもなった"1970年代原宿の象徴"ともいわれる名店(原宿ペニーレインを舞台化!! - 文化通信.compennylane | あの頃僕らはペニーレインで公式サイト ペニーレインとは『Vol.14 フォークソング+朗読劇 レコード会社の新しい試み』拓郎名曲の舞台 主演に“インディーズの歌姫”抜てき )。休日は終日満員となり、マッチが一日500個消えていき、地方から上京したヤングが地元に持ち帰るマッチはプレミアムがついて売れたという(週刊サンケイ、1975年5月8日号、p38-40)。1990年に閉店、2006年に復活した。

出典[編集]

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    今日は一日 三昧(ざんまい)
    HMV-UtaTen 2月にエイベックスへ移籍した『吉田拓郎』にインタビュー!!
    吉田拓郎は青春の反抗者だったのか - 旅行人編集長のーと
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    みうらじゅん インタビュー6 日経トレンディネット
    みうらじゅんの「あぁ、青春ノイローゼ」な10曲|音楽|HMV ONLINE
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    365日!CDショップ店員リレーブログ | 全日本CDショップ店員組合
    庄司明弘インタビュー
    あの時代の風
    BS-TBS「SONG TO SOUL〜永遠の一曲〜」|番組スタッフが選ぶわたしの一曲
    マニア・プチ対談「吉田拓郎のギターを語る」(1) / イシバシ楽器
    大人のためのフォークギター入門: 紀伊國屋書店BookWeb
    磯田秀人ピンポイントフォーラム 倍音浴
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    1970年代に入ると、フォークは流行歌の主流ジャンルへ伸長していく。学生運動は鎮静化し、岡林信康や高田渡は時代の動向に合わせるように表舞台から姿を消すが、フォークからプロテスト性をそいだ形で、吉田拓郎が台頭、「自分の思ったことを自分の言葉で歌う」というテーゼだけを保持し、自身の「私生活」を表現する。かぐや姫や井上陽水の「抒情派フォーク」をへたうえで、1975年に荒井由実が自己肯定とサウンド志向を特徴として「ニューミュージック」を宣言。以降、サザンオールスターズや山下達郎、松山千春やさだまさしなど、人気を得るミュージシャンは軒並みニューミュージックのカテゴリーに包摂され、流行音楽の主流を占めていく。と1970年代の日本の音楽シーンは、通例このような文脈で語られる(ロックミュージックの社会学、2001年、南田勝也、青弓社、p139)。
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    “拓郎・かぐや姫 イン つま恋”コンサート開催(1975) - おんがく日めくり
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    吉田拓郎・・・我が青春|江田 けんじオフィシャルブログ Powered by Ameba
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    ほぼ日刊イトイ新聞 - あのひとの本棚。
    週刊現代 2009年10月17日号、p71
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    ライオンのごきげんよう』(2012年6月15日放送分)より。価格.com - 「ライオンのごきげんよう」2012年6月15日(金)放送内容森永卓郎の俺が震えた1曲、吉田拓郎「人間なんて」 | アサ芸プラス

参考文献[編集]

著書[編集]

  • 吉田拓郎 『気ままな絵日記』 立風書房、1972年 
  • 吉田拓郎 『明日に向かって走れ』 八曜社、1976年 
  • 吉田拓郎 『俺だけダルセーニョ』 集英社、1984年 
  • 吉田拓郎 『ふたたび自分の事は棚に上げて』 小学館〈BIG ORIGINAL BOOKS〉、1994年ISBN 978-4093653220 
  • 吉田拓郎 『もういらない』 祥伝社、2002年4月ISBN 4-396-42035-8 

解説書等[編集]

  • 石原信一 『吉田拓郎 挽歌を撃て』 八曜社、1980年 
  • 矢沢保 『フォーク俺たちのうた』 (改訂新版) あゆみ出版、1980年NCID BN11565436 
  • 石原信一 『俺たちが愛した拓郎』 八曜社、1985年ISBN 978-4-8270-0082-5 
  • シンコーミュージック 『フォーク黄金時代(1969~1978) (CUT-UP-FROM YOUNG GUITAR』 シンコーミュージック、1992年 
  • 田家秀樹 『吉田拓郎ヒストリー1970-1993』 ぴあ〈ぴあbook. ぴあmusic collection ; 4〉、1994年1月 
  • キンキオールスターズ 『「LOVE LOVEあいしてる」完全読本』 飛天出版、1999年10月ISBN 978-4894401594 
  • 田家秀樹 『J-POP時評 1989-2001 音楽の向こうに現代が見える』 ヤマハミュージックメディア、2001年8月15日ISBN 4-636-20982-6 
  • 坂崎幸之助 『坂崎幸之助のJ-POPスクール』 岩波書店〈岩波アクティブ新書, 60〉、2003年ISBN 4007000603 
  • 吉田拓郎 『晴れときどき拓郎―Younger Than Yesterday.』 小学館、2003年6月ISBN 978-4093796224 
  • 別冊宝島編集部 『音楽誌が書かないJポップ批評44 拓郎&陽水と「フォーク黄金時代」』 宝島社〈別冊宝島1346〉、2006年8月ISBN 978-4796654258 
  • 田家秀樹 『吉田拓郎』 TOKYO FM出版〈地球音楽ライブラリー〉、2007年1月15日ISBN 978-4-88745-179-7 
  • シンコーミュージック 『吉田拓郎これが青春』 シンコーミュージック・エンタテイメント〈ヤング・ギター・クロニクル, vol. 1〉、2007年1月31日ISBN 9784401630851 
  • 田家秀樹 『いつも見ていた広島 : ダウンタウンズ物語 : 小説吉田拓郎』 小学館、2007年9月ISBN 9784093797122 
  • 音楽出版社編 『吉田拓郎読本』 音楽出版社、2008年ISBN 978-4-86171-041-4 
  • 山本コウタロー 『誰も知らなかった吉田拓郎』 イーストプレス、2009年12月11日ISBN 978-4-7816-7016-4 
  • シンコーミュージック 『日本の男性シンガー・ソングライター』 シンコーミュージック・エンタテイメント〈ディスク・コレクション〉、2013年9月ISBN 9784401638857 

外部リンク[編集]