BOØWY
| BOØWY | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 出身地 | |
| ジャンル | ロック ビートロック ニュー・ウェイヴ パワー・ポップ パンク |
| 職業 | バンド |
| 活動期間 | 1981年-1988年 |
| レーベル | ビクターインビテーション (1982年) 徳間ジャパン(1983年) 東芝EMI (イーストワールド) (1985年-1988年) |
| 共同作業者 | 佐久間正英 ホッピー神山(キーボード) 松武秀樹(シンセサイザー) |
| メンバー | |
| 氷室京介(ボーカル) 布袋寅泰(ギター・コーラス) 松井恒松(ベース) 高橋まこと(ドラム) |
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| 旧メンバー | |
| 木村マモル(ドラム) 深沢和明(サックス) 諸星アツシ(ギター) |
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BOØWY(ボウイ)は日本のロックバンド。1980年代に活躍。1981年結成、1988年解散。
目次 |
[編集] 概要
1981年、群馬県高崎市出身の氷室京介、布袋寅泰、松井恒松を中心に結成される。初ライブ後に高橋まことが加入し、1982年にデビュー。当初は6人編成だったが同年秋に2人が脱退し、以降は解散まで4人編成で活動する。
8ビートを基調としポップでありつつもシャープでエッジの効いた縦ノリのロックサウンドや、ジャン=ポール・ゴルチエをステージ衣装に使用したり、今日のロックシーンでは当たり前となった逆立てたヘアースタイルなどの斬新なビジュアルが多くの支持を集め、5thアルバム『BEAT EMOTION』と6thアルバム『PSYCHOPATH』は当時のロックバンドのアルバムとしては異例のミリオンセラーを記録した。シングルでも1987年に『MARIONETTE』が初登場1位を記録し、名実共にトップバンドへとのし上がった。
しかし絶頂の最中にあった1987年12月24日に解散を宣言。この突然の出来事は大きな衝撃を与えた。翌年1988年4月4日、5日に東京ドームで行った『LAST GIGS』にてバンド活動に終止符を打つ。このライブのチケットは僅か10分で完売、文京区の電話回線がパンクするという事態も起こり、これら一連の流れからBOØWYの人気は社会現象にまで発展した。翌月にリリースされた『“LAST GIGS”』はライブアルバムとしては異例とも言える150万枚のセールスを記録している。また、フォトグラファー加藤正憲によって撮影された『“GIGS”JUST A HERO TOUR 1986』のジャケット写真はBOØWYを象徴する一枚として有名。
その音楽性、「誰にも似ない」「何処にも属さない」というバンドスタイル、メディアをほとんど利用しない強気な姿勢、斬新なビジュアル、絶頂期での解散、後に起こるバンドブームの火付け役となり全国に数多くのロックキッズを産むなど、BOØWYが及ぼした影響は絶大である。解散後もベストアルバムや未発表音源がリリースされた際には常にチャートの上位にランクインしており、今日もなお日本のロックシーンに変革をもたらしたバンドとしてその地位を確固たるものとしている。
音楽雑誌等ではしばしば「BOØWY以前」「BOØWY以後」と表記され、フォロワーと呼ばれるバンドやミュージシャンも数多く登場している。
[編集] メンバー
[編集] 解散時
[編集] 途中脱退
- 木村マモル(きむら まもる)
- ドラム、1981年5月脱退
- 氷室がBOØWY結成以前に加入していたスピニッヂ・パワーのドラマーだった。元々プロデューサー志望であった為、高橋が加入するまでのサポートメンバーという扱いだった。
- 脱退後の1983年、2ndアルバム『INSTANT LOVE』のプロデュースを担当している。
- 深沢和明(ふかざわ かずあき)
- サックス、1982年10月9日脱退
- 群馬時代、布袋が結成した「ジギーリギー」でサックスを担当していた。BOØWY結成時はベーシストだったが、松井の加入によりサックスへ転向した[1]。
- 現在は東京パワーゲートという劇団で舞台役者として活動中。
- 諸星アツシ(もろぼし あつし)
- ギター、1982年10月9日脱退
- 群馬時代、氷室、松井と共に「デスペナルティ」で活動していた。BOØWY結成時、松井とはアパートの隣室同士だった[1]。
- BOØWY脱退から1年後に音楽業界を引退。
[編集] 略歴
[編集] 1980年
- 7月5日 当時ヴォーカルとして所属していたバンド『スピニッヂ・パワー』を脱退し帰郷を考えていた氷室京介が、日比谷野外音楽堂でのRCサクセションのライブを観て新たなバンド結成を決意する。後日、布袋寅泰に連絡を取り六本木アマンドの前で再会。
- 9月 松井恒松が加入。
- 深沢和明、諸星アツシが加入。
[編集] 1981年
- サポートメンバーとして木村マモルを迎え、メンバーが揃う。所属事務所ビーイングのスタッフにより「暴威」と命名。他候補として「群馬暴威」と言うものもあった。
- 5月 1stアルバム『MORAL』レコーディング開始。
- 5月11日 新宿ロフトでデビューライブ「暴威LOFT FIRST LIVE」を行う。ちなみに、このギグのオーディエンスは13人(男性9人、女性4人)」だったということであり、その中には後にメンバーとして加入することになる高橋まこともいた。後日、高橋が加入し木村が脱退。
[編集] 1982年
- 1月28日 バンド名を「BOØWY」に変更。
- 3月21日 ビクター音楽産業より1stアルバム『MORAL』発売。プロデューサーはマライアの渡辺モリオ。
- 9月9日 渋谷PARCO PARTⅢのライブで「CHANGE COSTUME」と題し、それまでのパンキッシュな楽曲からニューウェイブ系のメロディアスな楽曲へとシフトチェンジ。衣装も黒ずくめからカラフルなものに変える。このライブがバンドのひとつの転機となった。
- 10月9日 この日行われた新宿LOFTでのライブを最後に深沢と諸星が脱退。以後、氷室、布袋、松井、高橋の4人編成となる。
[編集] 1983年
- プライベートオフィス「Ø-con' nection」設立。
- 4月30日の新宿LOFTを皮切りとして、「AFROCKABILY LIVE」と題したシリーズGIGを展開。
- 9月25日 徳間ジャパンより2ndアルバム「INSTANT LOVE」発売。プロデューサーは脱退した木村マモル。サンプル盤の「OH! MY JULLY」のB面、「FUNNY-BOY」が新宿有線で3週連続1位を獲得。
[編集] 1984年
- 3月30日・31日 新宿LOFTで2DAYSライブを敢行(「BEAT EMOTION LOFT 2DAYS 〜すべてはけじめをつけてから〜」)。ホール展開も視野に入れたバンドの飛躍へ向けた「けじめ」のライブであった。
- 5月31日 拠点を渋谷LIVE INNへ移し「BEAT EMOTION」と題したシリーズギグを行う。夏からは同名のタイトルで全国ツアーを展開。
- 10月7日 ユイ音楽工房 (現:ユイミュージック)と契約し、レコード会社を東芝EMIに移籍することを決定。
- 12月6日 氷室、「狂介」から「京介」に改名。
[編集] 1985年
- 2月24日 ベルリンのハンザ・スタジオで『BOØWY』レコーディング開始。
- 3月12日 ロンドンのマーキー・クラブ(MARQUEE CLUB)でGIGを行う。
- 6月1日 1stシングル『ホンキー・トンキー・クレイジー』発売。
- 6月21日 3rdアルバム『BOØWY』発売。プロデューサーは佐久間正英。
- 6月25日 渋谷公会堂で初の大ホール ワンマンコンサートを行う。
- 8月22日 2ndシングル『BAD FEELING』発売。
- 9月6日 名古屋芸術創造センターで「BOØWY'S BE AMBITIOUS」ツアー開始。
[編集] 1986年
- 2月1日 3rdシングル『わがままジュリエット』発売。
- 3月1日 4thアルバム『JUST A HERO』発売。
- 3月24日 青山スパイラルホールで「JUST A HERO TOUR」開始。
- 7月2日 「JUST A HERO TOUR」最終日にて初の日本武道館公演。
- 7月31日 武道館公演を収録したライブアルバム『“GIGS”JUST A HERO TOUR 1986』を限定発売。
- 9月29日 4thシングル『B・BLUE』発売。
- 11月8日 5thアルバム『BEAT EMOTION』発売。
- 11月11日 石川厚生年金会館より「ROCK 'N ROLL CIRCUS TOUR」開始。
[編集] 1987年
- 4月6日 5thシングル『ONLY YOU』発売。
- 7月22日 6thシングル『MARIONETTE』発売。
- 7月 31日 神戸でライブ「CASE OF BOØWY」を開催。しばらく演奏されていなかった初期の曲もセットリストに含めた、バンドの総括的なライブであった。8月7日には横浜でも開催された。
- 8月22日・23日 グリーンピア南阿蘇アスペクタにて行われたライブ・イベント「BEAT CHILD」に出演。
- 9月5日 6thアルバム『PSYCHOPATH』発売。
- 9月16日 宇都宮市文化会館で「ROCK'N ROLL REVIEW DR.FEELMAN'S PSYCOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR」開始。
- 10月26日 7thシングル『季節が君だけを変える』発売。
- 12月24日 ツアー最終日渋谷公会堂でのライブ中に解散宣言。
- 12月25日 新聞各紙の広告スペースに解散メッセージが掲載される。
[編集] 1988年
- 2月3日 未収録3曲を追加した『MORAL+3』、12インチシングル『DAKARA』発売。
- 4月4日・5日 東京ドームにて「LAST GIGS」を行う。解散コンサートではなく、少し早い同窓会だとメンバーは語った。終了後の移動車両の中でメンバー全員が泣いたという。
- 5月3日 7thアルバム『LAST GIGS』発売。
- 7月5日 2ndアルバム『INSTANT LOVE』再発。
- 12月24日 アルバム『SINGLES』発売。
[編集] 逸話
[編集] 結成
- 氷室はBOØWY結成以前、レコード会社の意向によりスピニッヂ・パワーのボーカルとしてデビューしたが、音楽性の違いから脱退。当時付き合っていた彼女とも別れてしまい、ついには音楽の道を諦め帰郷する決意をする。しかし最後のつもりで立ち寄った日比谷野外音楽堂でのRCサクセションのライブを観て一念発起。群馬時代のライバルだった布袋のもとへ連絡を入れ、六本木アマンドの前で再会する。この時布袋は、群馬時代は硬派な印象だった氷室の風貌がニューウェイブ風に変化しており、驚いたという。
- 同郷のライバル同士ではあったが当時2人の間にそれほど面識はなかった為、布袋は氷室からの連絡を受けた際に「殴られるんじゃないか」と思ったという。また当時を振り返り、地元で有名な不良少年の氷室が怖くて誘いを断りきれなかったとよくネタにしている。
- 松井は織田哲郎&9th IMAGEのベーシストとして既にデビューしていたが、旧友である氷室が新しいバンドを結成しようとしていることを知り、ミュージシャンとしての安定した道を蹴って氷室と布袋に合流している。
[編集] メディアへの露出
- テレビ番組への出演は少なかったが、デビューして間もない頃にドラマ「太陽にほえろ!」(日本テレビ)に出演している(第524話「ラガーのラブレター」。ただしこの回は権利関係のためか、現在では欠番扱いとなっており再放送されることはない。過去にDVD・VHS化されたこともなく、現状見る事は極めて困難な状態となっている)。その後も音楽番組としては『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)、『いきなり!フライデーナイト』(フジテレビ)、『メリー・クリスマス・ショー』(日本テレビ)、名古屋のローカル番組『5時SATマガジン』(中京テレビ)などに数回出演している。
- 『5時SATマガジン』では”ロックスターボウリング大会”という企画に出演している。
- 日本テレビの番組『メリー・クリスマス・ショー』で吉川晃司とビートルズの『HELP!』をカバー。氷室はサザンオールスターズの桑田佳祐と共演した事もある。
- 『夜のヒットスタジオ』の”ご対面シリーズ”では、氷室の初恋の女性が登場して氷室が「さすがフジテレビだぜい!」としゃべるというシーンが見られる。しかし本当にこの女性が来るとは思っていなかった為、収録後にメンバー全員が出演したことを後悔したという[2]。
- 同番組に「ONLY YOU」で出演した際には、司会の古舘伊知郎から「(氷室の衣装が)銀座の買い物帰りのおばさんみたい」と言われ、布袋に対しては殿さまキングスの物真似を強要させられ(この際布袋は「物真似する為にここへ出て来た訳じゃありませんから」と拒否している)、また高橋は自前のドラムセットを使えなかった事等が原因か、テレビ出演は1986年12月を最後に途絶えている。
- 『いきなり!フライデーナイト』ではメンバーが酔っ払ったまま出演している。
- バラエティ番組である『いきなり!フライデーナイト』にしばしば出演したのは、司会の山田邦子がライブハウス時代からのBOØWYファンであり、氷室によれば山田が「楽曲をよく理解してくれていたから」だという。氷室が「俺のオヤジ、邦子ちゃんの大ファンなんです」とカミングアウトすることもあった。
- 音楽雑誌に掲載された記事も少ない。「B・BLUE」がヒットした直後からインタビュー等のオファーが殺到するが、それらのほとんどを拒否している。数少ないインタビュー記事は、ブレイクする以前から懇意にしていたライターや、自分たちの音楽をよく理解してくれていたライターの雑誌に限定されていた。このような対応の裏には、まだライブハウスで活動していた時期に、熱意剥き出しで挑んだインタビューがほんの僅かしか掲載されていなかったり、懸命にスタイリングして撮影したはずの写真が掲載されていなかった等の経験からメディアへの不信感を抱いたことが影響している。
- このような姿勢はマネージメントスタッフも同様であり、BOØWYを本当に聴きたいオーディエンスの席が減ってしまうという理由から、ライブは基本的にメディア用の招待席が用意されていなかった。その為、著名な音楽評論家が関係者入り口で門前払いにされたり、レコード会社の重役がファンに揉みくちゃにされながらライブを観るといった珍事が続発したという[3]。
[編集] メンバーの経歴
- 氷室の芸名の由来は、漫画「ワル」の主人公から。初期は“狂介”という芸名だったが、京都の占い師に「“狂”という文字は絶対に使ってはいけません」と言われ、現在の“京介”に改名した[4]。改名後売れたため、以後もう占いをしないと決めたらしい。
- 松井の『恒松』の芸名は、本名の“恒”を活かしてフリクションの『恒松正敏』をヒントにしたもの[5]。
- 高橋は読み方は同じだが、本名は『信』という漢字表記のため、厳密には芸名になる(1985年頃までは漢字の本名をそのまま名乗っていた)。布袋はメンバー4人の中で唯一本名を名乗っている。
- 高橋加入後の新宿LOFTでのライブの際、タイムテーブルの遅れにしびれを切らした氷室が店長と諍いを起こしてしまう。しかしこの時の店長が偶然にも高橋の旧友だった為、後のライブブッキングや打ち上げの面で有利に働くこととなった[2]。
- 氷室はバンドを結成した当初は、英会話教材のセールスマンをしていた事もあり、営業成績も優秀だったという。しかし車の誘導のアルバイトでは車をぶつけ、パチンコ屋では台を壊し、ゲームセンターでは出勤3日目には先輩を見切り一日中ゲームをして遊んでいたというエピソードもある。氷室と布袋はなかなか定まった仕事に就かず、女性のヒモ同然の暮らしをしつつ、バンドの活動資金は主に松井と高橋のアルバイト代や、ファンから多めに徴収した打ち上げ代などで補っていたそうである。
- 布袋は喫茶店のアルバイトの面接に行った際「背が高すぎる」という理由で不採用になったことがある[3]。他には、居酒屋でチューハイを一杯だけオーダーし別のテーブルの残飯を食べ尽くしたり、夜中に酒屋の脇に積んであるビンを失敬し翌日何食わぬ顔でそれを売りに行き小銭を稼ぐなどしていた。後にスタジオ・ミュージシャンの仕事が少しずつ入ってくるようになり、この時の経験がBOØWYのスタジオワークに大いに役立っている。
- 松井は六本木のスクエアビル内にあったゲームセンターで働いていた際、店長に「髪立ててメイクしてバイトに来るのやめてくれない?」と言われたことがある[1]。後に阿佐ヶ谷の「ミント」というカフェバーのマスターとなったが、店がバンドの連絡先も兼ねていたため、熱心なファンが通いつめ、売上が上がらず潰れてしまった。
- 高橋はマネキン運びのアルバイトをしており、正社員への推薦を貰うほど勤務態度も優秀だったという。また地方へ遠征する際は、他メンバーに内緒でヘソクリを持っていた。内緒にしておかないと「酒を飲もう」「飯を食おう」と言われることになるからと、後のインタビューで語っていた。金額はとりあえず車で東京まで帰って来られる額だったという。
[編集] その他
- 群馬時代から布袋が組んでいたバンドのボーカリストは、後にBOØWYのマネージャーとなった。
- ライヴハウス時代、九州の佐賀県で3万人規模のコンサートがあるという話を聞き出演のために駆けつけたところ、それは村の夏祭りでギャラは村で収穫された野菜や酒だった。
- 松井はロンドンへ行った際、帰りにデパートで土産物を買おうとしたが英語を全く喋れず、意地になって日本語を貫き通した。
- 高橋が他の5人と初めて「IMAGE DOWN」を演奏した際、演奏開始のカウントがあまりにも大声だった為、松井が笑い出してしまい、演奏が中断してしまった。
- 『INSTAN LOVE』の時期、当時アマチュアだった今井寿がラフォーレ原宿で布袋を見かけサインを貰うが、偶然この時の今井の服が『INSTANT LOVE』の裏ジャケットで布袋が着ている衣装の色違いだった[6]。
- 高橋は氷室の免許更新に同伴して群馬に行った際、当時まだアマチュアだったBUCK-TICKのヤガミトールに焼肉をおごってもらう代わりに、彼の自宅でドラムを2時間叩いてみせたことがある。しかし当時は2人のレベルが違いすぎた為、ヤガミは「いつも使っているドラムセットなのに、何故こんな音が出るのか全くわからなかった」という。
- 氷室はまったく酒が飲めず専らコーラ、たまに飲む時でもカルーア・ミルクのミルク多めである。一方布袋は酒に強いため、ライブハウス時代に他バンドの打ち上げの席でBOØWYを宣伝する広報係を担当していた。また高橋は新宿LOFTに、賞味期限が切れた酒を無料で入れておいて貰う「減らない魔法のボトル」を常にキープしていた[2]。
- ライブハウス時代にツアーで京都に行った際、布袋はたまたま修学旅行に来ていた妹と鉢合わせしてしまい、バツの悪い想いをしたという[2]。ちなみにこの妹は後にガラパゴスのボーカルとしてデビューする狩野環である。
- 『Marionette』のプロモーションビデオのアニメ・バージョンはガイナックスが制作した。当時ガイナックスの社長を務めていた岡田斗司夫は、後に自著の中で「当時は誰もがあれをやりたがった」と回想している。
- 『BEAT EMOTION』発売前にラジオで「次は売れる曲出します」と発言したが、その通りに売れた。
- 「ROCK 'N ROLL CIRCUS TOUR」は、当初ツアータイトルのようにサーカス小屋としてテントを張って、そこをライブ会場にする予定だった。しかし「地ならしのため、ゾウを引き取ってもらわないと困る」と言われ、断念している[7]。
- 『FRIDAY』に「氷室は殺人罪の前科あり」というガセネタを掲載されたことがある。氷室本人はその後のライブで「殺人罪の氷室です」とネタにしていた。
- 「ROCK'N ROLL REVIEW DR.FEELMAN'S PSYCOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR」の沖縄公演で、煽っても煽っても縦ノリにならず横揺れなオーディエンスに腹を立てた氷室はステージから下がってしまった。結果的には戻って最後まで演奏した。
- 2008年5月10日放送のテレビ番組『SmaSTATION』(テレビ朝日系列)での1980年代邦楽ベスト20というランキングにおいて、X JAPAN、尾崎豊、オフコースなど数多くの著名アーティストを抑え堂々の1位を獲得(解説の小林克也によると、都市部だけではなく全国全てにおいて圧倒的な票数で1位であったらしい)。
- 初期メンバーの諸星(G)と深沢(sax)の脱退理由は書籍によって「音楽性の違い」「今後の不安」「事務所の命令」など諸説書かれており、真相は不明である。しかし、二人のラストライブで氷室がMCしたところによると、諸星は「もっと黒っぽい音楽(おそらくブラックミュージックのこと)をやりたくなったから」、深沢は「アクター(俳優)になりたいから」が脱退理由とのこと。二人のラストライブで、深沢は自作詞の曲「NO.NY」とデヴィッド・ボウイの「Suffragette City」でボーカルを執っている。深沢は現在も俳優として活動中(舞台でサックスを吹くことも)[4]。諸星はBOØWY脱退から約1年後に音楽業界から引退したが、1983年11月27日のライブのアンコールに特別出演し、「MIDNIGHT RUNNERS」を演奏した。深沢脱退が氷室の口から告げられた瞬間、会場内の女性ファンが悲鳴を上げた。
- 国産バンドとしては桁外れにブートレッグの数が多い。大半の公演についてブートレッグが存在すると言う説もある(初期の頃は、営業戦略からバンド側がライブの録音、録画を黙認していた)。
- 但し、上記のブートレッグが出回っている事に関して布袋はTwitter上で俳優の山本修司の質問に対し「非常に心外です」と答えている[8]。
[編集] 解散について
- 1986年12月16日の長野市民会館でのライブ後、ホテルのバーにてメンバー全員が解散について話し合った[9]。最初に解散を提案したのは布袋だった[3][1][2]。それまでも「1位を取ったら解散」とメンバー間で話してはいたが、あくまでも冗談の範囲内だった。しかしながら、『BEAT EMOTION』が初登場1位を記録したことから、この時が初めて現実的な内容での話し合いとなった。
- ファンの間では、マスコミに一切公表していないにも関わらず『ROCK'N ROLL REVIEW DR.FEELMAN'S PSYCOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR』のファイナル公演である「12月24日の渋谷公会堂で解散」という情報が事前に伝わっていた。パソコンや携帯電話はもちろんポケットベルさえ普及しておらず、実際に会って話すか、固定電話を使用する、または郵便物によるもの以外に情報伝達の手段がなかった当時としては異例のことである。これは「活動後期の歌詞や活動内容の加速度・充実度やエピソードから一部ファンと音楽ライターが年内解散を予測しており、複数発生源の口コミとして広まった」ということが、音楽誌「BANDやろうぜ!!」の編集後記にこぼれ話として書かれたことがある。
- 1987年12月24日当日はチケットを入手出来なかったファンが渋谷公会堂の前に多数集まり、会場内の様子を知ろうと揉み合いになるうちに正面入口のガラス戸が割れるという事態にまで発展した。この日のライブを収めたDVD「1224」に、会場前に群がるファンと割れたガラス戸の映像が収められている。終演後は、会場前のファンに向けても「解散宣言をした」とアナウンスされた。NHKではバンド解散が臨時速報され(NHKがバンドの解散を取り上げたのは異例である)、翌日12月25日の朝日新聞の朝刊にはバンド側からのコメントが掲載された。
- 翌年の1988年4月4日、5日に東京ドームで行われた『LAST GIGS』にて活動終了。『LAST GIGS』についてバンド側は「あくまで前年の12月24日でバンドは解散しており、少し早い同窓会のようなもの」としている。しかし実際には、最終公演後の移動車内でメンバー全員が泣いていたという[10]。
[編集] 解散の理由
- バンド側からの正式な解散理由は未だに発表されていない。各メンバーが、色々な状況が折り重なった結果だといったニュアンスの発言をしている。
- 要因のひとつとして布袋は「自身が海外での活動を強く希望した」としている[10][1]。
- 前述の通り、ブレイクする以前からバンド内で「トップに立ったら解散する」と決めていたことも挙げられる。
- ブレイクしたことによりファン層が変わりアイドルバンドとして扱われつつあったこと[11]、あからさまにBOØWYを真似たようなバンドが数多く出てきたこと、これらの状況に違和感を覚えたとも語られている。『PSYCHOPATH』のジャケットで布袋が無精髭を蓄えているのは「アイドルにはなりたくない」という当時の心境からであり、このアルバムのツアー前半では彼本来のステージアクションがなく[2]「まったく動く気になれなかった」と語っている[10]。
- 高橋はこういった状況について「ファンとの温度差みたいなものが出てきていた。こっちは新しい曲を作っているのに「IMAGE DOWN」や「NO.NEW YORK」」を演らないと納得しないようなノリがあったり、布袋がギターソロを弾いているのに氷室ばかり見ている客、氷室が一生懸命歌っているのにまったく違った受け止め方をする客なんかもいたりして、自分たちの音楽が本当に理解されているんだろうかっていうジレンマが生まれてきた」と語っている[12][2]。
- 「氷室と布袋の不仲が原因」とされる見方があるが、布袋は自身のラジオ番組『ミュージックスクエア』内で否定している。
- 解散後、氷室は「楽しく始めたはずのバンドがロックビジネスというシステムの中に組み込まれて、少しずつ自分の考えと違う方向に転がっていった。あとは妙な義務感みたいなものがすごく大きくなって、苦しくなってきたのは確かだ。だから全盛と言われる中で解散したのが決して後悔すべきことじゃなくて正解だったと思うし、それだけ自分が音楽を正直にやっていく上でBOØWY解散はなくてはならないことだったと思う」と語っている[13]。
- 布袋も解散後のインタビューで「あれだけ大きくなってしまったからギクシャクせざるを得なくなってしまったというのもすごく大きい」「音とか売り上げとかじゃなく、意識が完成したから解散したんだと思う」と語っている[10]。また著書『秘密』では「決してひとつの理由などではない。もしいま4人が集まり解散の理由を話したとしたら、きっと全員見事にバラバラなのではないかと思う。俺には俺の解散しなければならない理由があったが、それは墓まで持っていく」としている[3]。
- 松井は「確かに口火を切ったのは布袋だけど、それ以前にも解散の危機は何度もあった」「友達としていつも一緒にいたいけど、でもそれと音楽は別にしなきゃっていう分かれ道だったのかもしれない」と語っている[1]。
- 高橋の著書内でも「BOØWYというメンバー以外の人間も数多く関わっているプロジェクトともなれば、誰が良くて誰が悪いという単純なことは言えない[2]」とされており、各メンバー間においても解散についての捉え方は微妙に異なっている。
[編集] 解散後
- メンバー間の関わりがあるもののみを記載する。
- 氷室と高橋はBOØWYが所属していたユイ音楽工房に残留。一方布袋は個人事務所IRc2 CORPORATIONを設立し、松井も同事務所に移籍した。氷室が「俺と一緒にやらないのか?」と松井を引き止めたという噂もあったが、本人は「新しい環境に行くことにすごく興味があった」と語っている[1]。これについて、『LAST GIGS』の打ち上げに布袋と松井は参加しなかったという経緯もあったことから、バンドがふたつに分裂したという見方もされた。現在氷室は個人事務所Beat Nixに所属、松井も2004年に個人事務所ソリッド・サウンズを設立、高橋はBOØWYのマネージャーだった土屋が代表を務めるアースルーフファクトリーに所属している。
- 布袋の初ソロライブ『GUITARHYTHM LIVE』に松井がベーシストで参加。
- 1989年に布袋が吉川晃司とのユニットであるCOMPLEXでデビューした際、氷室は「あれが布袋の本当にやりたいことなのかなと思う。『GUITARHYTHM』を発表したのはわかる。そこで、敢えてバンドを組んでああいう事をやる必要性が分からない[14]」とコメントしている。これに対し布袋も、氷室のシングル『SUMMER GAME』を指し「あんな曲ならばいくらでも作れる」とコメント。これら一連の流れから「氷室と布袋の不仲説」も浮上したが、前述の通り布袋は自身のラジオ番組内で否定している。
- 解散後、氷室と布袋が直接会話したのは、布袋の『GUITARHYTHM II』完成後。布袋が氷室宅を訪ねると「聴いたよ」と答え、感想として「長げーよ」とコメントしたという。「良いけど長い」「長いの作りたかったんだからいいんじゃない?」と氷室は答え、率直な感想をもらえたとして布袋は嬉しかったとコメントしている[15]。これ以前にも横浜中華街の店で偶然氷室と布袋が居合わせたことがあり、布袋は自身のラジオ番組にて「なんかこっちは緊張したけどね」と語っている。
- 1992年から1993年に掛けて行われた布袋の『GUITARHYTHM WILD TOUR』の京都公演を氷室が観覧した[16]。
- 1993年3月、氷室のファンクラブイベントに高橋が特別ゲストで参加。当時高橋はDe+LAXが解散、無気力状態の日々を送っており、かつての戦友である氷室との再会で音楽への情熱が再燃したと語っている[2]。
- 松井のアルバム『あの頃僕らは』『GLACIER』『DEEP SKY』に布袋が参加。
- 高橋のアルバム『楽しき人生』に布袋と松井が参加。松井は同アルバムのライブにもゲスト参加した。
- 氷室のアルバム『SHAKE THE FAKE』に松井が参加。「あれだけのボーカリストなのに、まださらに上へ行こうとしているのは凄い」とコメントしている。
- 1995年3月7日、阪神淡路大震災の復興支援チャリティーライブに氷室と布袋が出演。それぞれ同じステージに立ったが、共演は行われなかった。
- 2002年、布袋のアルバム『SCORPIO RISING』とツアーに松井が参加。2003年にリリースされたアルバム『DOBERMAN』とツアーにも参加した。
- 2002年、吉川晃司のアルバム『PANDORA』に松井と高橋が参加。
- 2004年8月22日、氷室が東京ドームにて、BOØWYの楽曲を自らのソロ曲と共に演奏する「KYOSUKE HIMURO "21st Century Boowys VS HIMURO"」を行った。高橋は当日ライブを観覧し「純粋に楽しめた[2]」とコメント。一方布袋は「(本人からBOØWYの楽曲をやることについて)聞いていない」とコメントし、松井は「あれはないよね」と否定的なコメントを残している。
- 2004年12月30日、「ザ・ベストテン」の特番に吉川晃司が『モニカ』で出演した際、松井と高橋がサポートで参加した。
- 2011年6月11日、6月12日に東京ドームにて、氷室の東日本大震災の復興支援チャリティーライブ「KYOSUKE HIMURO GIG at TOKYO DOME“We Are Down But Never Give Up!!”」が行われた。
- このライブは、BOØWYの楽曲で全編が構成された。当初は50歳のアニバーサリーライブを予定し3月14日に発表する準備をしていたが、その直前に震災が起こったため公演を見直していた。結果「チャリティーの為にライブを行い、より多くの収益金を集め、被災地へダイレクトに届ける」という趣旨のもと開催する運びとなる。
- しかし氷室がBOØWYの楽曲を演奏する件に関しては布袋、松井、高橋には寝耳に水であったようで[17]、高橋が氷室にエールを贈ったものの[18]、松井は氷室のアクションを高く評価しつつも「でも、少し寂しい。どうして声を掛けてくれなかったのかと。こんな時だからこそ、再び4人で手を握り合い、大いなる目的のために、協力し合うべきだと思った。一緒に活動を共にしていた仲間としては、残念でならない」と語った[19]。
- また布袋は、Twitter上で氷室に関する質問攻めにあってしまった事もあり2日程沈黙を続けていたが、後に自身のブログ上で「再結成を望む気持ちは皆さんと同じでした」「氷室京介氏の復興支援に向けたアクションは、彼の信念に基づいた選択であるはずです。僕はそれを否定的にとらえる気持ちなど全くなく、リスペクトしています」と述べた上で、「そして同時に自分の中で踏ん切りがつきました[20]」と、今後も再結成は非現実的であることを伝えた。
- 後に氷室本人はこのライブについて「出来るだけ集客することで収益は増え、チャリティーの効果がより高くなる。オーディエンスをたくさん集めるために、世間に強いインパクトがあって、より多くのファンが臨むこと、という発想で「全曲BOØWY」に繋がった」とした上で、「メンバーの気持ちまで考えてなかったのがいけなかった」と反省の弁も語っている[21]。
- 松井は6月11日のライブを観覧し、「BOØWYを歌う氷室京介は、何年経っても、何歳になっても、せつないまでに、あの頃のままだった。素晴らしいステージ、そして、素晴らしい時間でした。」とコメントした[22]。
- ライブ当日氷室は「来月にここで友達がライブを演るみたいなんで」と、同じくチャリティーライブの為に7月30日、7月31日の二日間限定でCOMPLEXを再始動させた布袋と吉川を指すMCも発している。
- 『LAST GIGS』以降、4人が揃ったことは公式・プライベート上ともに殆どなく、カメラマンの加藤正憲の結婚式が唯一の場とされている[2]。
[編集] 作品
[編集] 音源
[編集] シングル
- ホンキー・トンキー・クレイジー(1985年)
- BAD FEELING(1985年)
- わがままジュリエット(1986年)
- B・BLUE(1986年)
- ONLY YOU(1987年)
- Marionette -マリオネット-(1987年)
- 季節が君だけを変える(1987年)
- DAKARA (1988年)
[編集] オリジナル・アルバム
- MORAL(1982年)
- INSTANT LOVE(1983年)
- BOØWY(1985年)
- JUST A HERO(1986年)
- BEAT EMOTION(1986年)
- PSYCHOPATH(1987年)
[編集] ベスト・アルバム
- “SINGLES”(1988年)
- THIS BOØWY(1998年)
- THIS BOØWY DRASTIC(2007年)
- THIS BOØWY DRAMATIC(2007年)
[編集] ライブ・アルバム
- “GIGS”JUST A HERO TOUR 1986(1986年)
- “LAST GIGS”(1988年)
- “GIGS”CASE OF BOØWY(2001年)
- GIGS at BUDOKAN BEAT EMOTION ROCK'N ROLL CIRCUS TOUR 1986.11.11〜1987.02.24(2004年)
- “GIGS”CASE OF BOØWY COMPLETE(2007年)
- “LAST GIGS” COMPLETE(2008年)
[編集] リミックス・アルバム
- MORAL-TRANCE MIX(2002年)
- INSTANT LOVE HAMMER TRANCE(2002年)
[編集] トリビュート・アルバム
- BOØWY Tribute(2003年)
- BOØWY Respect(2003年)
[編集] その他
- MORAL+3(1988年)
- ORCHESTRATION BOØWY(1989年)
- BOØWY COMPLETE LIMITED EDITION(1991年)
- BOØWY COMPLETE REQUIRED EDITION(1993年)
- BOØWY COMPLETE 21st CENTURY 20th ANNIVERSARY EDITION(2002年)
[編集] DVD / ビデオ
- BOØWY VIDEO(1986年)
- “GIGS”CASE OF BOØWY(1987年)
- Marionette(1987年)
- SINGLES OF BOØWY(1991年)
- "LAST GIGS"(2001年)
- 1224(2001年)
- GIGS at BUDOKAN BEAT EMOTION ROCK'N ROLL CIRCUS TOUR 1986.11.11〜1987.02.24(2004年)
- “GIGS”BOX(2007年)
- “LAST GIGS” COMPLETE(2008年)
[編集] 未発表作品
BOØWYは日本国内のバンドでありながら、数多くの海賊盤が出回っている事でも知られている。初期の頃にライブでのみ演奏された曲や、レコーディングされたものの没となった楽曲がかなり多く、ほとんどが公式にリリースされる事なく現状に至っている。中には後にタイトルやアレンジが変更され、公式にリリースされた楽曲も存在する。以下にそれらの楽曲の一部を紹介する。
- ATOMIC CADILLAC
- 後述の「BOOGIE」と同じく1983年頃に演奏される事が多かった楽曲。
- IN MY HEAD
- 「MIDNIGHT RUNNERS」と並んで初期のライブでの定番曲。歌詞が不明瞭でほぼ仮歌状態で歌われる事が多かったが、1983年6月18日新宿LOFTでのLIVEでたった一度のみ日本語の歌詞で歌われた。作曲は布袋。エルビス・コステロの「NO ACTION」という曲にインスパイアされ作られた。
- SAD SUNSET(I don't wanna fade away)
- BOØWYの楽曲では数少ないスローテンポのバラードソング。アルバム『INSTANT LOVE』収録の楽曲「THIS MOMENT」を思わせる演歌のようなニュアンスを含んでいる。
- DAKARA PART II
- 82年頃に制作され未発表であったが後にアルバム『MORAL+3』に初収録された「DAKARA」とサビ以外のメロディーを一新した楽曲。「DAKARA PART II」とは公式なタイトルではなく、ファンの間で呼ばれている通称。ステージでは単に「DAKARA」とコールされていた。発表されている「DAKARA」に比べると全体的にメロディアスで、しっとりとしたラブソングとなっている。
- TEDDYBOY MEMORIES
- イントロ部分のみを引用してシングル「ホンキー・トンキー・クレイジー」のB面曲、「“16”」として収録された。残りの部分は歌謡曲的なマイナー系の曲だが、そのサビの一部は後のシングル曲「わがままジュリエット」という形で昇華された。
- DO THE AFROCKABILY
- 一時期ツアータイトルともなっていた「アフロビート+ロックンロール+ヒルビリー」をモチーフとした楽曲。インストゥルメンタルの楽曲だったが1984年頃は布袋による初のボーカル曲となる。BOØWYの楽曲の中でもリズムパートが激しく、特に高橋はあの独特のリズムをベンチャーズの「WIPE OUT」という楽曲からインスパイアされ叩いていたと語るが、当時話題となっていたBOW WOW WOWのジャングルビートからの影響であろう。
- Do You Wanna Dance?
- 4人編成になりイメージ変更を特に担った曲。「オシャレな曲」と曲紹介される。作曲は布袋。4枚目のアルバム作成時に編曲されデモが作られたがBOØWYとしては発表されなかった。松岡英明の「Dance with abandon 」として後に日の目を見る。
- NO PAIN
- 主に最初期にライブでのみ演奏されていた楽曲(81年に4 - 5回、82年初旬に数回)。内容は、自己主張をしない、流されて生きていく世代への皮肉。当初3パターンのアレンジがあり、曲作りの段階では「DON'T -」というタイトルであったという。
- BOOGIE
- 1983年頃のライブで頻繁に演奏されていた楽曲。サイコビリーとニューウェイブを合体させたような曲。この曲のあとには前述の「ATOMIC CADILLAC」が立て続けに演奏される事が多かった。
- PUSSY LADY
- 全体的に歌詞、アレンジを変更してアルバム『BOØWY』に「ハイウェイに乗る前に」として収録された。
- MARIONETTE(シングル曲とはまったくの別曲)
- 後に同名の楽曲がシングルとしてリリースされているが、初期のライブでは全く異なる同名のこの楽曲が演奏されていた。作詞は氷室狂介、作曲は後に脱退したギターの諸星アツシ。テーマはマスメディアへのアンチテーゼ。
- MIDNIGHT DATE
- 1984年頃にライブで演奏されていた楽曲。「MIDNIGHT C BOP」というタイトルでクレジットされていた記録がある。ライブ中に氷室の口から「次のアルバムに入れる予定の曲」とMCされた事があるが、実現しなかった。メロディーの一部が「幸せの黄色いリボン」に酷似している事も指摘されている。氷室の好きなシャッフル系。後に「ホンキー・トンキー・クレイジー」に昇華されたと言える。「気分が白い夜には」というフレーズは後の「季節が君だけを変える」の曲中で使用される。
- MIDNIGHT RUNNERS
- 初期の代表曲の一つであり、ライブでは終盤に必ずと言っていいほど演奏されていた。Aメロとサビのみのシンプルな構成である。Aメロは空間系のエフェクトを強く効かせたコードストロークまたは4分刻みのカッティング。サビは布袋のブラッシングとリズム隊が一体になった後の「DO THE AFROCKABILY」から「BAD FEELING」に繋がる演奏をバックに、氷室が「MIDNIGHT RUNNERS!」と連呼するのみ。また、その世界観は「DREAMIN'」に受け継がれた事がデモ版から伺える。1985年の東芝EMI移籍後は殆ど演奏されなかったが、2007年発売の『“GIGS”BOX』において映像化された。
- YOU GATTA YOU
- 82年春頃、中目黒の氷室のアパートで布袋と2人で作ったDEMO3曲の中の1曲。モチーフは『FUNK』。(他の2曲は『PUNK』→「BABY ACTION」、『SLOW BALLADE』→「I DON'T WANNA FADE AWAY」)1982年8月8日LOFTで一度だけ演奏された。「YOU GATTA YOU」という曲名はファンの間での通称で正式なタイトルではない。
- ONE TWO THE BEAT
- 氷室狂介による楽曲。モチーフは「MARCH」。主に6人編成の時期に演奏されデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズの影響を色濃く示す作品。4枚目のアルバム作成時にイントロ、サビを編曲してデモが作られたが結局アルバムに入ることは無かった。
[編集] 書籍
[編集] 写真集
- HYSTERIA(1985年、八曜社)
- GIGS(1987年、シンコーミュージック)ISBN 4-401-62133-6
- RENDEZ-VOUS(1988年、CBSソニー出版)ISBN 4-7897-0744-X
- GIGS+∞完全版(2001年、シンコーミュージック)ISBN 4-401-62232-4
[編集] 関連書籍
- Image Dictionary BOØWY(1985年、八曜社)ISBN 4-8270-0081-6
- 大きなビートの木の下で(1986年、CBSソニー出版)ISBN 4-7897-0266-9
- BOØWY栄光の軌跡(2000年、衆芸社)ISBN 4-921023-51-4
- ARENA37℃ SPECIAL BOØWY神話のすべて(2001年、音楽専科社)ISBN 4-87279-168-1
- B to Y THERE'S NO BEGINNING AND THE ENDS.(2002年、宝島社)ISBN 4-7966-4240-4
- 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評18 BOØWYと「日本のロック」(2002年、宝島社)
- BEST OF BOØWY(2005年、英和出版社)ISBN 4-89986-488-4
- 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説(2006年、宝島社)ISBN 4-7966-5349-X
[編集] 脚注
- ^ a b c d e f g 『記憶』 松井常松(2009年 徳間書店)
- ^ a b c d e f g h i j k 『スネア』 高橋まこと (2007年 マーブルトロン)
- ^ a b c d 『秘密』 布袋寅泰(2006年 幻冬舎)
- ^ 月刊カドカワ1991年4月号 総力特集氷室京介70ページ
- ^ BOØWY B to Y THERE'S NO BEGINNING AND THE ENDS 116ページ(2004年 宝島社)
- ^ [1] 「寿記-寿的超日常記-」 TEENAGE EMOTION
- ^ BOØWY B to Y THERE'S NO BEGINNING AND THE ENDS 135ページ (2004年 宝島社)
- ^ @布袋寅泰 非常に心外です。
- ^ BOØWY B to Y THERE'S NO BEGINNING AND THE ENDS 136ページ (2004年 宝島社)
- ^ a b c d ROCKIN′ON JAPAN 1988年6月号、ROCKIN′ON JAPAN FILE vol.2
- ^ 出待ちをする為、アンコール中に会場から出て行ってしまうファンもいたという。 (PATi PATi 1987年4月号インタビューより)
- ^ BOØWY B to Y THERE'S NO BEGINNING AND THE ENDS 40ページ (2004年 宝島社)
- ^ VHS / DVD 『KING OF ROCK SHOW of 88'S-89'S TURNING PROCESS』のインタビューより
- ^ 宝島のインタビューより
- ^ 「PATi PATi」 1991年11月号インタビューより
- ^ 布袋寅泰『よい夢を、おやすみ』(1993年 八曜社) ISBN 4827001391
- ^ 氷室京介の「全編BOOWY」チャリティーLIVE 残されたメンバー3人が胸中綴る オリコン 2011年4月19日
- ^ こんにちは(^^)ざんす。 高橋まことのぼちぼちブログ。
- ^ [2] COLUMN 2011年4月18日参照
- ^ BOΦWY BEAT主義日記
- ^ 2011年5月5日放送 NEWS ZERO 特別編 「氷室京介 密着250日」でのコメントより
- ^ [3] COLUMN 2011年6月11日参照
[編集] 関連項目
- 山田かまち(氷室京介、松井常松と小・中学校の同級生。当時、一緒にバンド活動を行った。)
- 吉川晃司(イベントで共演するなど交流があった。1986年、新宿都有3号地(現在の東京都庁)で豪雨の中の競演が有名。アルバム「JUST A HERO」収録の「1994-Label Of Complex-」にヴォーカルで参加。BOØWY解散後に布袋寅泰と「COMPLEX」を結成)
- 山下久美子(1986年に布袋と結婚。山下のツアーに布袋と松井がサポートで参加した他、イベントでも共演した。1997年に離婚。)
- 松武秀樹(第4のYMOメンバーとして知られるプログラマー。アルバム『BEAT EMOTION』『PSYCHOPATH』参加)
- BUCK-TICK(同じ群馬出身の後輩にあたるバンド)
- De-LAX(BOØWY解散後、高橋まことが参加)
- セックス・ピストルズ(アナーキー・イン・ザ・U.K.、GOD SAVE THE QUEENなど初期のライブではピストルズの曲が頻繁に演奏された)
- デヴィッド・ボウイ(ボウイというバンド名は彼から取ったという俗説もある。)
- EXIT (漫画)
- GLAY(BOØWYからの影響を明言している)
- DAIGO
- 氣志團
[編集] ファンを明言している有名人
- 山田邦子
- 生田斗真
- 梅澤春人
- 八塩圭子
- 八神ひろき
- 北川景子
- 国分太一
- 桜庭和志
- 前田日明
- 品川祐
- TAKURO
- TERU
- hide
- shinji(シド)
- ヒデ
- 藤木直人
- 森田涼花
- ゆず
- 中田有紀 (アナウンサー)
- 駒田健吾
- 細谷圭
- 岡井千聖
[編集] 外部リンク
- BOØWY OFFICIAL SITE | BOØWY HUNT - 公式ウェブサイト
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