千葉工業大学
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| 千葉工業大学 | |
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千葉工業大学
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| 大学設置/創立 | 1942年 |
| 学校種別 | 私立 |
| 設置者 | 学校法人千葉工業大学 |
| 本部所在地 | 千葉県習志野市津田沼2丁目17番1号 |
| キャンパス | 津田沼(千葉県習志野市) 芝園(千葉県習志野市) |
| 学部 | 工学部 情報科学部 社会システム科学部 |
| 研究科 | 工学研究科 情報科学研究科 社会システム科学研究科 |
| ウェブサイト | 千葉工業大学公式サイト |
千葉工業大学(ちばこうぎょうだいがく、英語: Chiba Institute of Technology[1])は、千葉県習志野市津田沼2丁目17番1号に本部を置く日本の私立大学である。1942年に設置された。大学の略称は千葉工大(ちばこうだい)又は工大(こうだい)。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 大学全体
千葉工業大学は1942年に旧制大学として発足した興亜工業大学を母体とする大学。設立の意図は「アジアの工学教育の向上」であった。1946年には「千葉工業大学」と改称した。
[編集] 建学の精神(校訓・理念・学是)
- (1)新国士の養成
- 「松蔭先生ノ如ク燃エル愛国心ト広ク世界ニ知識ヲ求ムル好奇心トヲ兼備シ、国家ヲ担キアジアヲ背負ヒ、世界文化ニ尽シ得ル」人物の養成を目指す精神。
- (2)全人教育
- 単なる知識人、技術家ではなく、「自ら学ビ自ラ体験シ自ラ思索シ創造スル」人間、「如何ナル困苦ニ遭遇スルトモ正シキヲ実現セントスル活動力アル」人物の養成を目指す精神。
- (3)労作教育
- 「真ノ知育ハ労シミ、作リ、体験シ、試ミ、為シ、行フ所ノ自学自得、自啓自発ノ教育」にあるとする精神。
- (4)塾教育
- 「共に起キ、共に食ヒ、共ニ歌ヒ、共に働キ、共ニ遊ブ」師弟同行、師弟共生の精神。(※但し、この精神は現在は存在しない)
現在の建学の精神は、『師弟同行』・『自学自律』である。
[編集] 教育および研究
1942年創立以来、東京大学や東京工業大学などと共同研究などが行われてきた。また創立経緯の関係から東京工業大学出身の教員が多い。一部の教員がTBS系列のネプ理科、フジテレビ系列のトリビアの泉などの多彩な番組に出演する姿も見られる。
千葉工業大学では「地域貢献を通しながら体験して学ぶ」というコンセプトを謳っている。また、「実践教育プログラムが導入されており、JABEEの導入によって国際的にも通用する技術者の育成を目指している。これらは先進的な大学を目指した改革であり、この改革は急ピッチで行われている」と関係者は考えている。
津田沼工作センターでは、旋盤、フライス盤、ボール盤などの一般的工作機械のほか、ウォータージェットカッターやNC旋盤なども設置され、主には機械サイエンス学科の実習が中心であるが、全学生が自由に工作を行える。
コンピュータ演習室は、Microsoft Windows XP ProfessionalとFedora Coreの複数OS環境のコンピュータとSuSE Linux Professional 9.3搭載のコンピュータがある。また、津田沼キャンパスには高性能グラフィック処理機能と高速演算機能を持つワークステーションと仮想計算機環境により1台の端末で複数のOSを実行できるシステムが導入され、学生は自由に使うことが出来る。
[編集] 学風および特色
2005年4月より多機能ICカード型学生証を導入している。情報キオスク端末「KISS(Kyoumu Interactive Support System)」に学生証を挿入し、手のひらをかざすことで、学生情報や成績情報が取得できる。
2007年9月よりNTTドコモの端末が芝園校舎の全教室に設置され、全授業にICカードによる出欠確認システムが運用開始された。これは授業の前後に学生証をかざすことで遅刻、早退まで管理できるシステムである。 同大学津田沼校舎では平成20年4月から運用が開始された。
全ての研究室をはじめとする大学内約1000カ所を千葉工業大学内にあるセンターと直接光ファイバーで結んでいる。完全な直収型光ファイバー(FTTD; Fiber to the desktop)によるLANの構築は日本では千葉工業大学が初めてである。
- 毎年5月になると成田山行脚と呼ばれる健康促進のための伝統イベントが開催されている。
[編集] 沿革
[編集] 略歴
千葉工業大学は1942年に東久邇宮稔彦王、小原國芳、小西重直らの発意・尽力によって玉川学園内に興亜工業大学の名称で発足した。1946年には千葉県君津市へ移転、千葉工業大学と改称した。1950年に現在の津田沼校地へ移転している。
[編集] 年表
- 1942年(昭和17年) - 東京府町田町(現東京都町田市)の玉川学園内に「興亜工業大学」の名称で設立(予科3年・本科3年)
- 設置学科は航空学科(50名)・冶金学科(50名)・機械学科(60名)
- 1943年(昭和18年) - 小原国芳を理事、東郷実を理事長、小西重直を学長、八木秀次等を顧問に迎える
- 1944年(昭和19年) - 玉川学園内から予科・財団本部が東京市麹町区紀尾井町の上智学院(現・上智大学)内に移転する
- 1944年(昭和19年)9月 川崎市大師河原の日本冶金川崎製造所構内に学部(本科)仮校舎の使用許可を取得する
- 1945年(昭和20年) - 君津旧海軍第2航空廠八重原工員養成所の借用認可を申請、東京残留学生の授業を東京工業大学に委託する
- 1946年(昭和21年) - 東京から千葉県君津町に移転、教員・学生の意見一致のもと校名を「千葉工業大学」に改める
- 1946年(昭和22年)12月 玉川学園側との会談の結果、小原国芳が寄贈した土地・建物を清算し不動産を所有しない大学となる
- 1947年(昭和23年) - 君津校舎のうち寮、食堂、図書館などを含む3/4が漏電で延焼する
- 1948年(昭和24年) - 田中航空機器製作所津田沼工場の施設を学部校舎・寮として使用する為に文部省に認可申請を行うとともに予科寮を旧君津海軍病院施設に移転する
- 1948年(昭和24年)12月 - 千葉大学(当時設立準備中)への統合案が出るが教員・学生が反対し回避される
- 1950年(昭和25年) - 旧鐵道第2聯隊跡地(現・津田沼校舎)を取得し、大学機能を移転する
- 1967年(昭和42年) - 千種寮が完成
- 1968年(昭和43年) - 千葉市千種校地に電子計算センター完成
- 1972年(昭和47年) - 千種校地に硬式野球場・武道館完成
- 1986年(昭和61年) - 芝園校舎が完成
- 1987年(昭和62年) - 茜浜運動施設完成
- 1999年(平成11年) - 工学部に昼夜開講制を導入
- 2001年(平成13年) - 工学部を改組し、情報科学部・社会システム科学部を新設して3学部制に
- 2002年(平成14年) - 鯨生態観測衛星「観太くん」の打ち上げに成功
- 2003年(平成15年) - 理工系大学で初めて長期優先債務格付け「AA-(ダブルA・マイナス)」を取得、未来ロボット技術研究センター(fuRo)を開設
- 2005年(平成17年) - 日本の大学としては初めてとなる完全直収型光ファイバー(FTTD)LANを構築、大学としては世界初となる「非接触型手のひら静脈認証技術」および「多機能ICカード」を大学内諸施設へ導入、特色ある大学教育支援プログラムに採択、現代的教育ニーズ取組支援プログラムに選定
- 2006年(平成18年) - R&Iによる格付けフォローアップ調査の結果「AA-(ダブルA・マイナス)」を維持
- 2006年(平成18年)4月 - 工学部に未来ロボディクス学科を新設
- 2009年(平成21年) - 社会システム科学部に金融・経営リスク科学科を、また、大学院工学研究科に未来ロボティクス専攻を設置
[編集] 所在地
[編集] 教育および研究
[編集] 組織
[編集] 学部
- 工学部
- 機械サイエンス学科
- 電気電子情報工学科
- 生命環境科学科
- 建築都市環境学科
- デザイン科学科
- 未来ロボティクス学科
- 情報科学部
- 情報工学科
- 情報ネットワーク学科
- 社会システム科学部
- 経営情報科学科
- プロジェクトマネジメント学科
- 金融・経営リスク科学科
[編集] 大学院
- 工学研究科
- 情報科学研究科(博士前期課程・博士後期課程)
- 情報科学専攻
- 社会システム科学研究科(博士前期課程・博士後期課程)
- マネジメント工学専攻
[編集] 大学関係者と組織
[編集] 大学関係者組織
[編集] 大学関係者一覧
[編集] 施設
[編集] キャンパス
[編集] 津田沼キャンパス
- 所在地:千葉県習志野市津田沼
- 使用学年:1・2年(一部学科)及び3・4年、大学院
- 使用学部:全学部
- 使用研究科:stub
- 使用附属施設:工作センター
- 交通アクセス
津田沼キャンパスの通用門は鉄道第2連隊の門を残したもので、1998年に国の登録有形文化財に登録された。習志野市民からは「工大の赤煉瓦(れんが)門」と呼ばれている。
2003年に、文部科学省特殊法人・科学技術振興機構ロボット開発グループの移籍によりできた、未来ロボット技術研究センター(fuRo)の研究施設は、このキャンパスにある。
現在、キャンパスの再開発が進んでおり、2008年9月に20階建て(高さ93m)の新1号棟が完成した。 また、2010年には学生ホール、2011年には新2号棟の完成が予定されている。
[編集] 芝園キャンパス
- 所在地:千葉県習志野市芝園
- 使用学年:1・2年
- 使用学部:全学部
- 使用研究科:stub
- 使用附属施設:クラフトハウス
- 交通アクセス
幕張メッセ のある幕張新都心に隣接している。千葉工業大学では「環境と人にやさしいキャンパス」を謳う。
[編集] 運動施設
[編集] 茜浜運動施設
- 所在地:千葉県習志野市茜浜
- 交通アクセス
- 鉄道:JR東日本京葉線新習志野駅下車徒歩10分ほど
- バス:京成バス(習志野市ハッピーバス)「海浜公園」停留所下車すぐ
芝園キャンパスの南方にあり、そこから徒歩10分ほどで行ける。 野球場、サッカー場、陸上競技・ラグビー場、武道場などの他、部室棟も併設されている。
[編集] 学生寮
[編集] 千種寮
- 所在地:千葉県千葉市花見川区千種町
4階建ての建物4棟と、平屋建ての事務・管理棟からなり、周辺には、野球場、広大な運動場が併設されている。
いずれの本校舎とは離れているため、在寮生や職員は大学所有のバスで移動している。
[編集] 逸話
- 玉川学園内に文部省主導のもと準官立大学の別法人として創立されたが、これは元々、玉川学園の創立者である小原國芳の構想だった。当時戦時下の軍国主義教育と彼の提唱する全人教育は相容れなかったが、比較的大学設置が容易だった工学部を設置することで官憲(特に軍部)からの圧力を回避したという見方もある。設置の際には玉川学園の土地の一部を興亜工業大学名義に書き換えたが大学設立時に官僚に過ぎた接待をした責任を問われて小原國芳は学長にはなれず、初代学長は元京都大学総長の小西重直が務めた。終戦直後に大学運営をめぐる混乱が起こり、小原が興亜工業大学に対する経営権を完全に失なってしまったため、戦後に新たに設立された玉川大学と本学は直接の系譜的なつながりはないが、小原の全人教育の精神は継がれている。1995年には玉川大学から当時使われていた興亜工業大学の校旗が寄贈された。
- 特殊な事情によって開学した大学だったため、当初は決まった校章も無く、玉川学園のバッジをつけている者や帝大コースに憧れ浪人を繰り返してきて、それではとても満足できない者など、学内は帝大派、工大派、玉川学園派の3つの派閥に分かれていたという。期せずして校章を作ろうという気運が高まり作品が集まったが、なかなかこれを絞ることができず、討論が殴りあいの喧嘩に発展することもあったという。因みに校章の選考図案には、大阪工業大学の校章と同じデザインのものが含まれていた。
- 学徒出陣によって空となっていた上智学院の校舎に移転した際、上智大生靖国神社参拝拒否事件などで政府に睨まれていた同学院との吸収合併問題が浮上、実際に合併した際の校名を『麹町大学』とし具体的な原案も作られつつあった。
- 戦時中、航空学科の学生は糸川英夫研究室に配属され新型戦闘機の研究・開発に従事した。
- 応援団の部員は創立以来の伝統として先輩達から受け継いだバンカラを継承し日々着用している。
[編集] 千葉工業大学を舞台とする主な作品
- 「でじぱら」(髙木信孝の漫画作品) - 劇中では”京葉工業大学”として登場。
[編集] 脚注
- ^ なお、芝園キャンパスの最寄のバス停である「千葉工業大学入口」では、「Chiba Kōgyo-Univ.Ent.」という誤った表記がなされている。

