千葉工業大学

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千葉工業大学
千葉工業大学
千葉工業大学
大学設置/創立 1942年
学校種別 私立
設置者 学校法人千葉工業大学
本部所在地 千葉県習志野市津田沼2丁目17番1号
キャンパス 津田沼(千葉県習志野市)
新習志野(千葉県習志野市)
学部 工学部
情報科学部
社会システム科学部
研究科 工学研究科
情報科学研究科
社会システム科学研究科
ウェブサイト 千葉工業大学公式サイト
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千葉工業大学(ちばこうぎょうだいがく、英語: CIT(Chiba Institute of Technology)[注 1])は、千葉県習志野市津田沼2丁目17番1号に本部を置く日本私立大学である。1942年に設置された。大学の略称は「千葉工大(ちばこうだい)」または「工大(こうだい)」、英称では「CITまたはChibaTech」。

目次

概観[編集]

第一期生入学式記念写真
(1942年6月8日、玉川学園内にて撮影)
千葉工業大学(JR中央総武線路を挟んで)

大学全体[編集]

千葉工業大学は1942年(昭和17年)5月15日興亜工業大学旧字体では興亞工業大學と表記される場合もある)の名称で玉川学園内に設立された。日本の私立理工系大学としては現存最古の大学[1](国内の理工系大学としては東京工業大学に続き、2番目[2])で、70年以上の歴史がある。設置科は3学部11学科、大学院3研究科修士課程7専攻・博士後期課程3専攻で、約1万名の学生を擁する。また津田沼駅前にある津田沼キャンパスと幕張新都心に隣接する新習志野キャンパス(旧・芝園キャンパス)の2つのキャンパスがある。

建学の精神(校訓・理念・学是)[編集]

千葉工業大學教育8訓[編集]

設立認可申請書に添えて提出された設立趣意書では建学の精神及び教育方針は以下の通り(概略)。建学の精神及び教育方針は玉川学園長の小原國芳東北帝国大学総長で金属工学者本多光太郎博士のほか、政治評論家徳富蘇峰作家武者小路実篤キリスト教伝道者本間俊平京都帝国大学前総長の小西重直博士、同大教授で哲学者西田幾多郎博士らが、約一年間に渡って討議したものを成文化したもので、草稿を西田が、校閲を徳富が担当した。ここでは、単に高い技術を持った技術者専門家を養成することのみを目指すのではなく、国家枢要を担う人材政治家官僚軍人科学者技術者実業家教育者等)の養成を目指し、工学者としての高い教養を兼ね備えた人材を育成するための教育理念が合わせて盛り込まれているなど、理工系学校としては一風変わったものとなっている[3]。特に予科教育の過程で、小西、小原らは、長く教育の現場を見てきた経験則から日本紳士を養成する上で必要と考えられる教養科目を基礎に学校生活を通じて生徒たちを「小さい紳士」に育て上げることを念頭としていた[4]

(1)新国士の養成
専門家であるだけでなく、「吉田松陰先生の如く燃える愛国心と広く世界に知識を求むる好奇心とを兼備し、国家を担きアジアを背負ひ、世界文化に尽し得る」人物、新国士の養成[5]
(2)全人教育
単なる知識人、技術家ではなく、「自ら学び自ら体験し自ら思索し創造する」人間、「如何なる困苦に遭遇するとも正しきを実現せんとする活動力ある」人物の養成[6]
(3)労作教育
教育は、知育のみにあらず、「真の知育は労しみ、作り、体験し、試み、為し、行ふ所の自学自律、自啓自発の教育」でなければならないとする精神[7]
(4)塾教育(寮制教育)
「共に起き、共に食い、共に歌ひ、共に働き、共に遊ぶ」師弟同行、師弟共生の精神[8]。(千種寮の記事も参照
(5)相互扶助の精神
偉人は陋より生る。貧しき家に生まれし優秀児の救済、その境遇を理解し、同情し合って、完全なる人格を成し行く姿を大学の理想とする。
(6)実習教育
工場鉱山商店などの職場を学校とする計画実習と学習との心身一如の機会を捉える[9]
(7)天才教育
自由闊達な頭脳を作り、機智縦横の人を作る。
(8)アジアの学生と教育
隣国アジアの友と親しくし、共に手を携え、国際社会の善隣と協力をつくり上げていく。

現在の建学の精神は、創立当初からの建学の精神である『師弟同行』『自学自律』を基調とし、工学的な基礎学力や教養力、コミュニケーション力を広く身につけるための実践型カリキュラムによる技術者の輩出に努めている。また大学では刻々と変化する社会、科学技術に対応するため、教育の精神に立ち返りながら、時局に即した教育目標や教育方針を定め社会に役立つ人材を育成するため努めている。

教育および研究[編集]

  • 創立以来、東京大学等と共同研究などが行われてきた。
  • 千葉工業大学では「地域貢献を通しながら体験して学ぶ」というコンセプトを謳っている。また「実践教育プログラム」が導入されており、JABEEの導入によって国際的にも通用する技術者の育成を目指している。
  • 新制大学に移行後、大学経営は伝統的に卒業生をはじめとする学校関係者の寄付と財団法人による資産運用によって維持されている。
  • 日本で唯一プロジェクトマネジメントを学問として学ぶことができる学科として、社会システム科学部プロジェクトマネジメント学科が設置されている[要出典]

学風および特色[編集]

  • 2005年より、多機能ICカード型学生証を大学として世界で初めて導入している[要出典]。情報キオスク端末「KISS(Kyoumu Interactive Support System)」に学生証を挿入し、手のひらをかざすことで、学生情報や成績情報が取得できる。
  • 2007年より、NTTドコモの端末が当時の芝園校舎全教室に設置され、全授業でICカードによる出欠確認システムの運用が開始された。この出欠確認は、授業の前後に学生証をかざすことで行われる。津田沼校舎も2008年から同出欠確認システムの運用が開始された。

沿革[編集]

略歴[編集]

千葉工業大学は、1929年(昭和4年)に文部官僚澤柳政太郎の遺志を受け継いだ教育学者小原國芳によって日本における新教育の最高学府(大学)として計画・準備されたものが起源である。当初は玉川学園所管の全寮制民間大学(私立大学)として構想されたが、途中で文部省(現・文部科学省)主導のもと別法人の官民大学予科3年、本科3年の全寮制6年制大学[10])として1942年(昭和17年)に設立された。 千葉工業大学の創設にあたり、皇族東久邇宮稔彦王永野修身海軍元帥らの発意、助力のもと、教育者玉川学園園長の小原國芳橋田邦彦文部相が中心となり、小西重直博士(京都帝国大学元総長)、森矗昶森曉親子(実業家、森コンツェルン総帥)、東郷実政治家)、本多光太郎博士(東北帝国大学前総長)、平賀譲博士(男爵東京帝国大学総長)、八木秀次博士(東京工業大学学長、内閣技術院総裁)、西田幾多郎博士(哲学者、京都帝国大学元名誉教授)、本間俊平社会事業家キリスト教伝道者)、武者小路実篤(作家)、徳富蘇峰政治評論家)などの人々が参加、東京町田の玉川学園内に興亜工業大学の名称で発足した。

千葉工業大学が創設されるまでの背景には明治大正昭和と長年に渡って教育現場に携わってきた人々の苦悩と経験、そして研究があった。大学の設立趣意書にもあるように、明治以来の教育は、帝国大学海軍兵学校陸軍士官学校を頂点とする西洋模倣の教育(官僚参謀、各種専門家など、各分野のスペシャリストのみを育てることを目標とした画一的な詰め込み教育)が主流で、松下村塾咸宜園興譲館などの江戸時代までの教育に見られたような専門的な知識や技術を持ちつつも広い視野と高い人間性を兼ね備えた指導者的資質を持つ人材を育てる教育や各自が持つ天分(生まれながらに持つ個性や才能)を引出し、伸ばしていく為の教育は廃されてしまった。

これに危機感を抱いた澤柳政太郎小原國芳らは国家を造るのは人であり、国家の存亡にとって人間教育が大切だと実際に官学・私学教育の現状を見て痛感、成城学園を創立することで日本における新教育の総本山を築こうと模索したのが千葉工業大学創設に至る経緯の始まりである。しかし、成城学園の運営は予想に反した方向へと進み、段々と進学実績を伸ばしたい教員保護者の意見が強くなり、他の学校と同じように、帝大などへ進学するための予備校へと変貌してしまった(成城事件)。ある時、小原は京大時代の恩師の小西重直波多野精一西田幾多郎を招き、この経験談に基づき「夢の学校論」を唱えた。そして1929年(昭和4年)、故人となった澤柳の遺志を踏み、新たな創造教育の総本山を作ることを目指し、玉川学園を創立すると共に、最高学府である「玉川塾工業大学」(創立時に「興亜工業大学」に名称変更)設置のための準備を開始する。

小原は陸軍には参謀本部海軍には軍令部司法には大審院などの最高機関があるように国家を形成する人を造るための最高機関として「教育本部」の設置が望ましいと考えていた。小原は教育立国建設の為、皇族東久邇宮稔彦王をはじめ、永野修身元帥海軍大将、第35代海軍兵学校長)、山梨勝之進(海軍大将、第17代学習院院長)、野村吉三郎(海軍大将、第16代学習院院長)や土肥原賢二陸軍大将、第35代陸軍士官学校長)などの賛同と支援を得、東京町田の玉川学園と興亜工業大学を創立、国家枢要の人材を養成することで、社会の在り方を教育を通じて改革していくと共に、日本人を含むアジア人世界文化に貢献するための拠点を官民一体で創成しようとした。

しかし、当の小原は、設置の際に玉川学園の敷地の一部を興亜工業大学に寄付するなど貢献したが、官僚に過ぎた接待をした責任を問われ学長にはなれず、初代学長は元京都大学総長小西重直が務めた。その後、小原は終戦直後の混乱の中で、後に経営権を完全に失ってしまうことになる(興亜工業大学事件)。

千葉工業大学の今日に通じる人づくりの基本となる教育理念の理想は玉川学園京都帝国大学から支援を受け形成されたものであり、技術教育は東京帝国大学東京工業大学東北帝国大学から全面的な支援を受け形成されたもので、先に挙げた学園及び大学と関わりが深いのはそのためである。

特に玉川学園時代に行われていた塾生活は建学精神の理想の境地とされ、戦時下にもかかわらず、芝生の上で生徒が教師を囲みながら英語や音楽、道徳などの教養教育が行われるなど、世俗と切り離された自由な環境だったという(詳細は青空教室の「興亜工業大学の場合」の記述を参照)。小原國芳指導の下、大正自由教育等の新教育の方針・手法が重視され、予科教育では、単なる技術教育(テクニック)だけで終われるのではなく、哲学宗教学芸術学語学スポーツなどの幅広い意味の教養教育人格陶冶などの人物教育が重要視された。その変わった雰囲気に馴染めず、大学を去る者もいたという。ちなみに、その教育は海軍反省会などで指摘されている戦前の人材教育の問題点・反省点を克服したような内容となっていた[11]

小原は太平洋戦争の敗北について「教育者を冷遇し、試験と点数と、詰め込み棒暗記と、肩書と出世とのみ重視した日本の教育が、自由と大胆と、創造と進取と、プロジェクトと個性尊重とを大事にしたアメリカの教育に全く負けた」と明治以来の教育政策(人づくり)の問題が敗戦に至った原因であると回想している。また、毎朝教員生徒は午前5時30分に起床し、午前6時から太鼓の合図に聖山(礼拝堂のある丘)での朝礼と玉川体操(海軍体操の原型といわれるスウェーデン体操)が行われ、玉川食堂での教職員、生徒一緒になっての三度の食事と愛吟集の合唱が日課となっていた。ちなみに制服は帝大のような学生服黒マント白線帽ではなく、背広ネクタイ紳士服)で、小さい紳士たちを養成する為のマナー教育が一貫して行われていた。

戦時を通じ一部の理工系学生は徴兵を猶予されていたため、学徒出陣壮行会には出席していない。代わりに1944年(昭和19年)8月23日から学徒勤労令に基づき、兵器開発や生産など、陸軍海軍関係の研究所や工場などに動員された。この時、航空工学科の学生は東大航空研究所(現・宇宙航空研究開発機構-JAXA)に派遣され、糸川英夫教授のもとで航空機の研究開発を手伝った。また中島飛行機三鷹工場の動員先では空襲で学生1名、引率の教員1名が犠牲となっている。

東京町田では手狭となったことから、日本の中枢機関が集まる東京都千代田区と利便性に優れ、日本の一大工業地帯を形成していた神奈川県川崎市を選定し、大学機能を移転する。この時、学徒出陣によって空となっていた上智学院の校舎に移転した際、同学院との合併問題が文部省筋で浮上、実際に合併した際の校名を『麹町大学』とし具体的な要綱も作られ併契約書の案文を作成するところまできたが、上智学院側の役員だったドイツ人神父の署名が得られず、交渉は1945年(昭和20年)5月22日に打ち切りとなった。

太平洋戦争終結後の1946年(昭和21年)には千葉県君津市へと移転し、校名を千葉工業大学と改称。1950年(昭和25年)に同県習志野市津田沼校地へ移転し現在に至る。

戦後、新たに設立された玉川大学と本学は直接の系譜的なつながりはないが、両大学とも小原の全人教育精神は継がれている。また、1991年(平成3年)には玉川学園小原哲郎理事長の好意で、玉川学園時代に使われていた校旗が寄贈されたほか、2013年(平成25年)には新習志野キャンパス図書館に、千葉工業大学の創立に尽力した小原國芳が生涯もっとも多く書き記した「夢」の文字を書したタペストリーを設置するにあたり、小原芳明玉川学園理事長・学園長が招待されるなど両学園の間には現在でも交流が続いている[12]


年表[編集]

年  月日 沿革
1929年 4月 小原國芳成城学園から分離し、町田財団法人玉川学園を設立。幼稚部初等部中等部を設置する。
6月 永野修身海軍兵学校長が学園視察に来訪。最高学府である大学設置構想を説明する。
1939年 9月 大学設置に向けて中等部の上に専門部(玉川塾)を設置し、森矗昶の協力を得て産学連携による実践教育を開始
1940年 9月 東久邇宮が学園視察に訪れ、大学設置の構想が本格化する
1941年 6月 「玉川塾工業大学」設置許可申請を文部省(現・文部科学省)に行うが受理されず
12月8日 太平洋戦争開戦日
興亞工業大學設置許可申請文部省(橋田邦彦文部相)受理[13]
1942年 5月15日 東京府町田町(現東京都町田市)の玉川学園内に「興亞工業大学」の名称で国策大学として創立(予科3年・本科3年)
小原國芳が理事、東郷実が理事長、小西重直が学長、本多光太郎等が顧問に就任
5月24日 成城中学早稲田中学で第1回入学試験を実施
6月8日 ミッドウェー海戦の翌日、開校式を実施する。航空工学科(50名)・冶金学科(50名)・機械学科(60名)の160名が入学[14]
1943年 7月 小原國芳が理事・学監を辞任。森曉が2代目理事長に就任
1944年 4月 玉川学園内から予科・財団本部が、皇居近くの東京市麹町区紀尾井町上智学院(上智大学)内に移転する
9月 神奈川県川崎市大師河原日本冶金川崎製造所構内に学部(本科)仮校舎の使用許可を取得する
10月 東京工業大学学長の八木秀次が正式に相談役に就任
1945年 4月13日 東京空襲によって麹町本部・予科校舎が全焼する
5月25日 東京空襲の余波で川崎学部校舎も罹災する
9月 東久邇宮内閣によって太平洋戦争(第二次世界大戦)が終結
君津の旧海軍施設の借用認可を申請、東京残留学生の授業を東京工業大学に委託
戦災による実験設備の損失から学生東大東工大東北大などに預け、卒業研究を開始
11月11日 君津の旧海軍第2航空廠八重原工員養成所設等の施設(君津校舎)の設営管理を開始
1946年 3月30日 東京から千葉県君津町に移転、教員・学生の意見一致のもと校名を「千葉工業大学」に改称
12月4日 玉川学園側との会談の結果、小原國芳から寄贈された土地・建物を清算し不動産を所有しない大学となる
1947年 2月7日 君津校舎のうち寮、食堂、図書館などを含む3/4が漏電による火災で延焼する
3月 公職追放の影響を受けて2代目理事長の森曉、学長の小西重直などが大学を去る
9月30 第1回卒業式が行われる
1948年 4月 田中航空機器製作所津田沼工場の施設を学部校舎・寮として使用する為に文部省に認可申請
予科寮を旧君津海軍病院施設に移転する
12月 千葉大学(当時設立準備中)への統合案が出るが教員・学生が反対し回避される
1949年 4月 新制大学となる
11月26日 PPA創立
1950年 鐵道第2聯隊跡地(現・津田沼校舎)を取得し、大学機能を移転する
1953年 11月 校歌制定。電気工学科を増設。
1954年 10月7日 大久保の旧軍施設(旧陸軍習志野学校)を取得
1955年 電気工学科第2部を増設。
1961年 3月10日 電子工学科工業化学科を増設
1962年 8月 千種校地を取得
12月20日 土木工学科建築学科を増設
1964年 4月1日 日本私立大学協会常務理事校となる
1965年 8月11日 大学院修士課程(工業化学科、金属工学科)を設置
8月11日 飯岡研修センターを開設
1967年 3月31日 千種寮が完成
1968年 千葉市千種校地に電子計算センター完成
1972年 千種校地に硬式野球場・武道館完成
1980年 11月 中国・哈爾濱工業大学と大学間交流協定締結
1983年 3月 中国・吉林大学と大学間交流協定締結
1986年 芝園校舎(現・新習志野校舎)が完成
1987年 茜浜運動施設(茜浜校地)完成
1988年 工学部第一部情報工学科、工業デザイン学科を新設
スウェーデン・スウェーデン王立工科大学と大学間交流協定締結
1989年 カナダ・トロント大学理工学部と大学間交流協定締結
1989年 大学院工学研究科博士課程(金属工学専攻・工業化学専攻)
修士課程(機械工学専攻・電気工学専攻・電子工学専攻・建築学専攻)を増設
1989年 8月 中国・北京理工大学と大学間交流協定締結
1989年 9月 アメリカ・テネシー工科大学と大学間交流協定締結
1991年 第1部既設学科(金属工学科を除く)の定員を増加
大学院工学研究科博士課程(機械工学専攻・電気・電子工学専攻)を増設。
1992年 大学院工学研究科博士課程(建築学専攻・精密機械工学専攻)
修士課程(情報工学専攻・工業デザイン学専攻)を増設。
1993年 アメリカ・コロラド大学ボルダー校と大学間交流協定締結
1994年 大学院工学研究科博士課程(情報工学専攻・工業デザイン学専攻)を増設
1995年 大学院工学研究科修士課程(経営工学専攻)を増設。
1997年 第1部情報ネットワーク学科・プロジェクトマネジメント学科を増設。
1999年 工学部に社会人対象教育を充実するために昼夜開講制を導入
ハイテクリサーチセンター開設。
2001年 工学部を改組し、情報科学部・社会システム科学部を新設して3学部制に移行
3学部全学科に昼夜開講制を導入。
2002年 鯨生態観測衛星「観太くん」の打ち上げに成功
2003年 工学部9学科を5学科に改変しフレックス制を導入
(機械サイエンス学科・電気電子情報工学科・生命環境科学科・建築都市環境学科・デザイン科学科の5学科)
未来ロボットセンターを開設
日本の大学としては初めてとなる完全直収型光ファイバー(FTTD)LANを構築
大学としては世界初となる「非接触型手のひら静脈認証技術」および「多機能ICカード」を大学内諸施設へ導入
3月 ポーランド・ワルシャワ工科大学と大学間交流協定締結
2004年 大学院工学研究科11専攻を3研究科(工学研究科・情報科学研究科・社会システム科学研究科)7専攻に改組。
2005年 文部科学省特色ある大学教育支援プログラムに採択、現代的教育ニーズ取組支援プログラムに選定される
2006年 工学部に未来ロボディクス学科を新設
4月 御宿研修センター開設
R&Iによる格付けフォローアップ調査の結果「AA-(ダブルA・マイナス)」を維持
2007年 フランス・コンピエーニュ工科大学と交換留学協定を締結
11月 アメリカ・ペンシルベニア州立大学工学部と大学間交流協定締結
2008年 フレックス制を廃止し、全学部学科とも昼間部に移行。
2009年 4月 社会システム科学部に金融・経営リスク科学科を、また、大学院工学研究科に未来ロボティクス専攻を設置。
惑星探査研究センターを開設。
2012年 5月22日 東京スカイツリーイーストタワーに東京スカイツリータウンキャンパスを開設
2013年 7月5日 台湾国立台北科技大学と教育研究交流協定を締結
12月9日 ベトナムハノイ工科大学と教育研究交流協定を締結
12月10日 ベトナム・ベトナム国家大学ハノイ校工科大学と教育研究交流協定を締結
2014年 2月23日 東京スカイツリータウン(R)キャンパスAreaⅡ開設
2月24日 アメリカ・グアム大学と教育研究交流協定を締結
3月19日 インドネシアバンドン工科大学と教育研究交流協定を締結
4月 新学生寮(桑蓬寮・椿寮)完成
7月7日 ベトナム・ベトナム国家大学ハノイ外国語大学と教育研究交流協定を締結
8月21日 カンボジア王立プノンペン大学と教育研究交流協定を締結
9月30日 東京都立産業技術研究センターと教育研究交流協定を締結

基盤情報[編集]

大学本部[編集]

〒275-0016

  • 千葉県習志野市津田沼2-17-1(津田沼キャンパス本号館)

所在地[編集]

象徴[編集]

校章[編集]

大学の校章は「工業大学」の「工」と「大」の字を図案化したシンプルなデザインで、1942年に第1期の学生たちによって作成された[要出典]。この校章は私立大学としての衿持と、工業大学としての自負を、単純率直に力強く表現したものでものだと言われる[要出典]。また、この校章には開学当初を物語るエピソードが残されている。入学当初は大学に決まった校章も無く、玉川学園のバッジをつけている者など、学内は分裂していたという[要出典]1942年に校章を作ろうという気運が高まり、十数種程度の図案が集まったが、なかなかこれを絞ることができず、討論が殴りあいの喧嘩に発展することもあったという[要出典]。そのようなある日、学生達が築地川沿いにあった喫茶店「門」で、いつものように討論をしていると、陶芸家と称する人物が学生が手にしていた図案を見て、それをヒントに原案化したものだとされ、最終的に学生大会で決定された[要出典]

校歌[編集]

「千葉工業大學校歌」(1953年佐佐木信綱選歌、 朝永研一郎作曲)

現在の校歌は、1953年学生教職員から公募した歌詞の中から、佐佐木信綱が優秀作を選び出し手を加え、これに千葉工業大学教授だった朝永研一郎が作曲したものである[要出典]。この校歌は、これまで大学が戦争や終戦直後の混乱の中で苦難に遭遇しながら、各地を転々と渡り歩いてきた末に、得た安住の地(習志野の地)において高まる感激の中で作られたもので、大学の発展と日本の戦後復興に対する希望と決意などが込められたものだとされる[要出典]

その他[編集]

逍遙歌
桑蓬の歌
1946年(昭和21年)学生作詞、 学生作曲。
たれ邯鄲の夢に酔ひ
1946年(昭和21年)松藤淳 作詞、山口猛 作曲。
あゝ狂瀾の
?年(昭和?年)作詞、? 作曲。
饗宴の賦
?年(昭和?年)逍遙歌。? 作詞、? 作曲。
応援歌
工大グッズ
同窓会事務局、CITサービスなどでは「同窓会グッズ」と呼ばれる限定グッズが売られている[要出典]。「工大グッズ」とも呼ばれる[要出典]
スクールカラー
紫紺色でDICカラーガイドのDIC256が指定されている。
モニュメント
永久の環(芝園校舎)
メビウスの帯無限の記号「∞」をモチーフにしたアルミ製のモニュメント。
東日本大震災後の修復工事の際に撤去された。

教育および研究[編集]

組織[編集]

学部[編集]


旧設置科[編集]
旧制大学時
工学部

新制大学以降後
工学部
  • 機械工学科(1950-2003・機械サイエンス学科に改組)
  • 金属工学科(1950-2003・機械サイエンス学科に改組)
  • 工業経営学科(1950-2001・社会システム科学部に改組)
  • 電気工学科(1953-2003・電気電子情報学科に改組)
  • 電子工学科(1961-2003・電気電子情報学科に改組)
  • 工業化学科(1961-2003・生命環境科学科に改組)
  • 土木工学科(1963-2003・建築都市環境学科に改組)
  • 建築学科(1963-2003・建築都市環境学科に改組)
  • 精密機械工学科(1966-2003・機械サイエンス学科に改組)
  • 工業デザイン学科(1988-2003・デザイン科学科に改組)
  • 情報工学科(1988-2001・工学部から情報科学部に改組)
  • 情報ネットワーク学科(1997-2001・工学部から情報科学部に改組)
  • プロジェクトマネジメント学科(1988-2001・工学部から社会システム科学部に改組)

大学院[編集]

附属機関[編集]

産官学融合センター[編集]

附属総合研究所[編集]

未来ロボット技術研究センター[編集]

未来ロボット技術研究センター
2003年(平成15年)6月1日から、morph3の研究開発チームは科学技術振興機構北野共生システムプロジェクトから千葉工業大学・未来ロボット技術研究センター(fuRo)に移籍、「人とロボットの共生」をテーマに未来のロボット技術に関する研究を行っている。

惑星探査研究センター[編集]

2009年(平成21年)4月から、松井孝典東京大学新領域創成科学研究科教授を所長に惑星探査研究センターを学内に開設した。センターではロボットによる宇宙探査を視野に入れ、研究を実施している。

電子計算センター[編集]

津田沼工作センター[編集]

津田沼工作センターでは、旋盤フライス盤ボール盤などの一般的工作機械のほか、ウォータージェットカッターやNC旋盤なども設置され、主には機械サイエンス学科の実習が中心であるが、全学生が自由に工作を行える[要出典]

クラフトハウス[編集]

付属図書館[編集]

研究[編集]

研究室及びプロジェクト[編集]

千葉工業大学に設置されている研究室及びプロジェクトに関する情報ついて、以下サイトで一括して閲覧することが出来る。

鯨生態観測衛星「観太くん」[編集]

この取り組みは謎が多い鯨の生態を、衛星を使って宇宙から解明することを目的に立ち上げられた試みである[要出典]。このプロジェクトは、学生達が人工衛星の設計、制作に携わる日本で初めてのケースとなった[要出典]。また、衛星は学内の学科の域を超えて電気・電子分野、土木分野、機械工学分野、工業デザイン分野、建築分野等の学生が参加して開発された[要出典]。鯨生態観測衛星「観太くん」は、2002年12月14日種子島宇宙センターからH-IIAロケット4号機で打ち上げられ、予定の軌道上に乗った[要出典]。「観太くん」から送られてきた観測情報は、学内外で研究に役立てられている[15]

未来ロボット技術研究[編集]

惑星探査プロジェクト[編集]

教育[編集]

採択されているプログラム[編集]

特色ある大学教育支援プログラム[編集]

2005年文部科学省が選定する「特色ある大学教育支援プログラム」に、『マルチメディア教材による教育・学習支援(副題:シミュレータをベースにした理工学教育 e-Learning)』が採択された[要出典]。情報インフラの整備、学生の授業評価や国内外の教育機関による第3者評価等を行い、シミュレータをベースにしたマルチメディア教材の作成と、それらを補助教材とする教育による教育効果が評価され採択された[要出典][16]

現代的教育ニーズ取組支援プログラム[編集]

2005年、「地域との連携による工科系キャリア学習支援-PMOによる地域共生型職業訓練教育システムの開発と実践-」が文部科学省が選定する「現代的教育ニーズ取組支援プログラム」に選定された[要出典]。学内だけでなく、地域と連携することにより、「ものづくり・まちづくり」等の工学系キャリア教育や地域の活性化に対して大きな貢献が期待される点が選定の理由である[要出典]。地域を実践のフィールドとして活用するこのプログラムは、他大学・他地域においても展開可能である[要出典]

学生生活[編集]

学生食堂[編集]

学生食堂は学校法人が出資する「シー・アイ・ティー・サービス」によって運営されている[要出典]

発行物[編集]

学校側
  • 毎月「NEWS CIT」と呼ばれる学内向けの新聞を発行している[要出典]
学生側
  • 毎月、学友会執行委員会により「Mamma Mia」と呼ばれる学生向けの冊子を発行している[要出典]

サークル活動[編集]

以下の学生を主体とした自治組織によりサークルの運営・企画等が行われている。

体育会
  • 33サークル(29部、2同好会、2愛好会)が所属する。
  • 例年「体育会誌」が発行されている。
  • 応援団 - 創立以来の伝統としてバンカラを継承し、日々着用している[要出典]1977年の第17回大会から日本寮歌祭に参加している[要出典]
文化会
  • 35サークル(30部、4同好会、1愛好会)が所属する。
  • 2012年(平成24年度)より「文化会誌」が発行されるようになった。

2013年(平成25年)12月現在。

イベント[編集]

成田山行脚[編集]

毎年5月になると、体育会主催の成田山行脚と呼ばれる健康促進のためのイベントが開催されている[要出典]。津田沼校舎から成田山までの約40㎞の距離を踏破するというもので、体育会、学友会、文化会、寮友会、一部のサークル関係者を除き、自由参加である[要出典]

文化の祭典[編集]

毎年6月になると、文化系サークルを中心に学生の企画・運営で開催される文化祭。

スポーツフェスティバル[編集]

毎年10月に、体育会を中心に学生の企画・運営で開催されるスポーツイベント。自由参加で体育会(部活)に所属していない学生も参加できる。卓球やサッカーなど球技が主体。

津田沼祭[編集]

毎年11月に、津田沼祭実行委員会・学友会執行委員会を中心に学生の企画・運営で開催される学園祭。1970年代頃からキャンパスが立地する地域との交流促進のため、当地の地名を取って「津田沼祭」と呼称するようになった。

その他[編集]

寮生活[編集]

寮生は千種寮に入寮すると、まず日常寮で使う基本的な礼儀作法、マナーについて上級生から指導を受ける[要出典]。寮生活では、寮長・室長・風紀役員などが定められている[要出典]

スポーツ[編集]

大学関係者と組織[編集]

大学関係者組織(同窓会など)[編集]

財団組織[編集]
学生組織[編集]
同窓会[編集]

同窓会は、旧制および新制千葉工業大学を卒業した卒業生を正会員、在学生を準会員、教職員を賛助会員とする組織で、同窓会会員数は2008年4月現在で6,7145人。同窓会は第1回生が卒業した1947年に創設された。同窓会の活動目的は会員相互の親睦、知識の交換、母校の発展に寄与することである。

大学関係者一覧[編集]

千葉工業大学の人物一覧を参照のこと。

学校施設[編集]

キャンパス[編集]

津田沼キャンパス[編集]

津田沼キャンパス正門

津田沼キャンパスの通用門は、鉄道第2連隊の門を残したもので、1998年登録有形文化財に登録された[要出典]。「工大の煉瓦(れんが)門」と呼ばれることがある[要出典]2003年に、未来ロボット技術研究センター(fuRo)の研究施設は、このキャンパスにある。また、2006年からのキャンパス再開発5か年計画によって、2008年に新1号棟が完成した。2010年に学生ホールが、2011年に新2号棟が完成した。2013年に、新1号棟を2号館、新二号棟を1号館、学生ホールを3号館と名称変更した。

新習志野キャンパス正門

新習志野キャンパス[編集]

  • 所在地:千葉県習志野市芝園
  • 使用学年:1・2年
  • 使用学部:全学部
  • 使用研究科:stub
  • 使用附属施設:クラフトハウス
  • 交通アクセス
    • 鉄道:JR東日本京葉線新習志野駅下車徒歩5分
    • バス:京成バス「千葉工業大学入口」停留所下車すぐ

幕張新都心に隣接している。千葉工業大学では、「環境と人にやさしいキャンパス」と標榜している。 2013年4月に、芝園キャンパスから新習志野キャンパスに名称変更した。

東京スカイツリータウンキャンパス[編集]

東京スカイツリーソラマチ8階に設けられたサテライトキャンパス。レスキューロボットや超巨大ロボティックスクリーンなどが展示されている。

運動施設[編集]

茜浜校地(運動場)[編集]

  • 所在地:千葉県習志野市茜浜
  • 交通アクセス
    • 鉄道:JR東日本京葉線新習志野駅下車徒歩10分ほど
    • バス:京成バス(習志野市ハッピーバス)「海浜公園」停留所下車すぐ

新習志野(芝園)キャンパスの南方に存在し、野球場、サッカー場などがある。

学生寮[編集]

千種校地(千種寮)[編集]

千種寮も参照
  • 所在地:千葉県千葉市花見川区千種町

千種寮と呼ばれる学生寮が、2013年3月まで存在していた。周辺には、野球場、運動場が併設されている。いずれの本校舎とも離れているため、在寮生や職員は大学所有のバスで移動していた。

研修センター[編集]

軽井沢研修センター[編集]

御宿研修センター[編集]

対外関係[編集]

他大学との協定(国内)[編集]

単位互換協定校[編集]

四年制大学
短期大学

連携大学院[編集]

海外学術交流(大学/機関)[17][編集]

留学プログラム[編集]

語学研修

  • グアム大学(英語)
  • コンピエーニュ工科大学(フランス語)
  • ハルビン工業大学(中国語)

短期留学

  • ハルビン工業大学(中国)
  • パシフィック大学(アメリカ)
  • コロラド大学ボルダー校(アメリカ)

長期留学

  • ハルビン工業大学(中国)
  • スウェーデン王立工科大学(スウェーデン)
  • コンピエーニュ工科大学(フランス)
  • ペンシルベニア州立大学(アメリカ)

高校との協定[編集]

千葉県立幕張総合高等学校との高大連携に関する協定
全学年の高校生を対象として大学講義の聴講、高校生の特別講座の受講などを実施。学校設定科目の「学校外の学修」として単位認定される[要出典]
千葉県工業系高大連携協定
高大連携開放科目の聴講、開放科目の科目等履修、大学教員による出前授業、大学の実験施設見学、大学生との共同研究、高大連携プログラムへの教員参加、高校での公開授業(教育実習予定者参加)教育実習生受け入れ、公開実験などに関する連携などを行っている[要出典]

産官学間での連携[編集]

千葉工業大学では、企業、研究機関及び自治体、地域組織と連携して共同研究を行っている.。

主な連携団体(判明分)

企業との連携[編集]

自治体との連携(協定)[編集]

研究機関との連携(協定)[編集]

実習先[編集]

地域組織[編集]

社会との関わり[編集]

学生運動[編集]

工大の煉瓦門(文化財)[編集]

CIT-Tsudanuma-RearGate01.jpg
鉄道連隊の記事も参照のこと。

現在千葉工業大学が使用している通用門は、かつて同敷地内にあった鐵道聯隊が使用していた営門を残したもので、銀杏並木がならぶ通用門は国土の歴史的景観に寄与しているとして、1998年登録有形文化財に登録された[要出典]。門は聯隊使用当時に復元されており、「工大の煉瓦(れんが)門」または「工大の赤煉瓦(あかれんが)門」と呼ばれることがある[要出典]

メディア[編集]

撮影協力・製作協力[編集]

千葉工業大学をモデル・舞台にしていると思われる主な作品[編集]

不祥事・事件[編集]

  • 2012年に千葉工業大学側の報告によって経済産業省からの研究費使用に関して不正のあったことが発覚した[22]。具体的な不正の内容としては、千葉工業大学の研究者が物品等を購入していないにも関わらず、取引業者より購入したとする偽装工作を行い、同研究費から業者に物品購入代金として金を支払っていたというのが一点[22]、もう一点は千葉工業大学の研究者が同研究費を私的目的に使用し、その金の流れを取引業者に研究目的のための物品購入であったことを偽装工作させるなどした[22]、というものであった。これら千葉工業大学の不正に関し経済産業省は、交付した研究費の返還、一定期間研究費交付停止、等々の処分を行った[22]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ なお、芝園キャンパスの最寄のバス停である「千葉工業大学入口」では、「Chiba Kōgyo-Univ.Ent.」という誤表記になっている。
  2. ^ 設置が計画されたが戦時のため、機械学科に変更された。戦後に生産工学経営工学分野を扱った学科として早稲田大学に次き2番目に設置された

出典[編集]

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  1. ^ 日本で最初に設立された私立理工系大学は藤原工業大学だが、1944年(昭和19年)に慶應義塾大学に吸収合併され現存しておらず、また日本に存在している私立の理工系大学は、1949年(昭和24年)以降の新設大学だからである。
  2. ^ 旧三工大のうち、東京工業大学以外は現存していない。また、存在する国立の理工系大学は1949年(昭和24年)以降に新制大学を新設するまでは旧制専門学校だったためである。
  3. ^ 千葉工業大学PPA・千葉工業大学同窓会「千葉工業大学校歌・寮歌・応援歌集」2頁
  4. ^ 千葉工業大学50年史を参照
  5. ^ 専門家であるだけでなく、国家を思い、社会の成り立ちを広く理解する国際知識に富んだ人物の養成
  6. ^ 澤柳政太郎博士の意思を継ぎ、真全美聖の4絶対価値と、健富の2手段価値を持った完全人格の育成を目指す。これがためには「体育」、「音楽その他の芸術教育」「宗教道徳教育」などの教養教育に重要な意味がある(詳細は全人教育を参照)
  7. ^ ペスタロッチが身をもって強調した教育の根本であり、「百聞は一見に如かず、百聞は一策労作にしかず」という「自学自律、自啓自発の教育」
  8. ^ 真の教育は午前8時前と午後4時以降の人間生活にある
  9. ^ 「研究室に於ける忠実なる真理探究の学徒たると同時に、学校の工場移駐を図り、長期の一定期間中実習体験をなさしめ、以って国家産業戦士の指導者たらしめんとす」
  10. ^ 尚、戦前までは日本政府帝国大学以外に大学レベルの工学教育を認めなかったため、工学部を設置できた私学はごく僅かであり、しかも大学予科3年・本科3年の教育課程を認められたのは、1920年(大正9年)に設立された早稲田大学理工学部、1939年(昭和14年)に設立された慶應義塾大学理工学部の前身である藤原工業大学、そして1942年(昭和17年)に創立された千葉工業大学の3校だけだった
  11. ^ 私が兵学校のことについて申し上げればですね、(中略)ただ、哲学的なことをもっと真剣に掘り下げて物を検討すると、そういう点がですね、その点が欠けておったんではないかと思います。兵学校の教育は、どうも記憶力中心で、思考力というのを考えるという教育が欠けとったと思っております。実は、人間、個を磨いていく、人間としての思考力といいますか、思索力、哲学を考えることが必要だと(海軍反省会より)。
  12. ^ (CITニュース2013/09/25)
  13. ^ 日本人東洋人)を代表してクリスチャンで、教育家小原國芳が大学設立趣意書を提出(アジア解放を望んだ日本国民の自発性を尊重すると共に、再起と誡めの契約を結ぶ)
  14. ^ 急な開校指令だったこともあり全ての建物が完成してなく、講義を外で行う
  15. ^ 鯨生態観測衛星(観太くん)オフィシャルページ
  16. ^ 特色ある大学教育支援プログラム-特色GP&現代GP-教育・研究活動
  17. ^ 大学等間交流協定締結状況 日本側機関別一覧(千葉工業大学) - 文部科学省
  18. ^ 住宅床下点検ロボット開発
  19. ^ 高齢者在宅健康管理・支援システムを共同開発(2009.09.08)
  20. ^ (2009.02.09)
  21. ^ 習志野市産学官連携プラットホーム
  22. ^ a b c d 経済産業省 (2013年11月12日). “学校法人千葉工業大学における委託費等の不適正な経理処理に対して措置を行います(METI/経済産業省)”. 経済産業省. 2014年10月15日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

参考文献[編集]

  • 千葉工業大学PPA・千葉工業大学同窓会「千葉工業大学校歌・寮歌・応援歌集」
  • 小原國芳編『全人』No.113 玉川学園出版部、1942
  • 千葉工業大学二十五年史刊行委員会『千葉工業大学二十五年史』千葉工業大学、1967
  • 玉川大学出版部「教育と我が生涯 小原國芳」1977
  • 玉川学園五十年史編纂委員会『玉川学園50年史』玉川学園、1980
  • 日本冶金工業『日本冶金工業六十年史』日本冶金工業、1985
  • 千葉工業大学五十年史刊行委員会『千葉工業大学五十年史』千葉工業大学、1992
  • 戸高一成 『[証言録]海軍反省会』 PHP研究所、2009