ビートルズ
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| ザ・ビートルズ | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 出身地 | リヴァプール |
| ジャンル | ロック リヴァプールサウンド サイケデリック・ロック ブルースロック ロックンロール |
| 活動期間 | 1960年 - 1970年 レコード上での再結成1994年 - 1995年 |
| レーベル | EMI キャピトル・レコード アップル・レコード パーロフォン オデオンなど |
| 事務所 | NEMSエンタープライズ アップル・コア |
| 共同作業者 | ジョージ・マーティン |
| 影響 | エルヴィス・プレスリー チャック・ベリー バディ・ホリー ジーン・ヴィンセントなど |
| 公式サイト | アップル・コアによるサイト EMIミュージック・ジャパンによるサイト |
| メンバー | |
| リンゴ・スター (ドラムス) ジョージ・ハリスン (リードギター) ポール・マッカートニー (ベース) ジョン・レノン (リズムギター) |
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| 旧メンバー | |
| ピート・ベスト (ドラムス) スチュアート・サトクリフ (ベース) |
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ザ・ビートルズ (The Beatles) は、イギリス・リヴァプール出身のロックバンドである。
(個々のアルバムやヴィデオ作品については別項ビートルズの作品を、個々の楽曲に関してはビートルズの曲名一覧を参照のこと。)
目次 |
[編集] 概要
ビートルズは世界中で最も広く知られ、最も成功したロックバンドである。ギネス・ワールド・レコーズでは最も成功したグループアーティストとされる。イギリスのリヴァプールで結成され、アメリカを制圧し、世界中を席巻して現代のポピュラー音楽の流れを変えた。1962年レコードデビュー。1970年解散。
外貨獲得に大きく貢献したことから、1965年にエリザベス2世から(当時、ロックバンドとしては異例の)MBE勲章が授与された。
世界的アイドルとして成功を収める一方、1960年代以降のロック・ポップスシーンに与えた影響も含め、また後期になって行くほど世界屈指のアーティストとして、その楽曲の普遍性、革新性もまた高く評価されており、現代音楽の金字塔として揺ぎない地位を保っている。1960年代の日本のグループサウンズもまた、ビートルズから影響を受けたジャンルのひとつである。
その解散後、イギリスで大人気アイドルが出て来る度に「第二のビートルズ」という呼び名で表現された。またFab4-ファブ4[1]と言う呼び名や不世出のロックグループと呼ばれる。
ビートルズの音楽的ルーツ(基本)は米国黒人(チャック・ベリー、リトル・リチャード、シュレルズなど)のリズム・アンド・ブルースやロックンロール、およびそれをルーツ(基本)とした白人(エルヴィス・プレスリー、バディ・ホリーなど)のロックンロールとされる。
[編集] バンド名の由来
「BEATLES」は、ジョン・レノンとスチュアート・サトクリフ[2]が考えた名前で、造語である。自分達の敬愛するロックンローラーバディ・ホリーのバンド名「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」のクリケッツ(こおろぎ)にあやかって、同じ昆虫の名前ビートルズ(BEETLES、甲虫類の複数形)をマーロン・ブランド主演の映画『乱暴者』の中から思いつき[3]、クリケッツ(こおろぎの他にスポーツのクリケットの意味がある)のように2つの意味になるようにと、BEETLESに音楽のBEATを加える意味でスペルを変えてBEATLESとした。
ジョン・レノン曰く「言葉だけを聞くとモゾモゾ動く虫をイメージするだろ、でも字を見るとビート・ミュージックというわけさ」
バンド名を「ビートルズ」とした頃、ギグを取り仕切っていた者にその名前を嫌われ[4]「ギグに出たかったら『ロング・ジョン&ピーシズ・オブ・シルヴァー』という名前に変えろ」と言われ、ギグに出る為にお互い譲り合うという形で、「ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ」しばらくしてロング・ジョンがとれて「シルヴァー・ビートルズ」と名乗っていた時期がある。「ビートルズ」の前に「シルヴァー・ビートルズ」と名乗っていたのはこうしたいきさつからである。
[編集] メンバーと基本パート
- ジョン・レノン(出生時 John Winston Lennon → MBE受勲時 John Winston Lennon, MBE → John Winston Ono Lennon)(1940年10月9日 - 1980年12月8日)(リズムギター)
- ポール・マッカートニー(Sir James Paul McCartney, MBE)(1942年6月18日 -)(ベース)
- ジョージ・ハリスン(George Harrison, MBE)(1943年2月24日 - 2001年11月29日)(リードギター)
- リンゴ・スター(Ringo Starr- 本名 Richard Starkey, MBE )(1940年7月7日 -)(ドラムス)
[編集] 担当楽器
上記のように「ギター2本、ベースギター、ドラムス」が初期においての基本的な楽器編成であるが、中期から後期にかけては、リンゴ以外のメンバーの担当楽器は曲によって実に流動的である。
主にリードギタリストはジョージが多いが、曲によってはジョンまたはポールもリードギターを担当している。
ジョンのリード・ギターはポール作「ゲット・バック」や、自作「ユー・キャント・ドゥ・ザット」(間奏部)、「アイ・ウォント・ユー」などで聴くことができる。ポールは、ジョン作「涙の乗車券」(フェイド・アウト・パート)、自作「バック・イン・ザ U.S.S.R.」、ジョージ作「タックスマン」(間奏部とラスト)などのリードギターを弾いており、「ブラックバード」などのアコースティック・ギターのナンバーと併せ演奏例が多い。ジョージのリードギターはビートルズ時代については、解散前の短い期間を除き、高度なテクニックを持っていたとはとても言い難い(プリーズ・プリーズ・ミーを始め多数の楽曲で誤った演奏や、たどたどしい演奏を披露している)。このため、後期においてはポールがリードギターを担当することが相対的に多くなり、それに対してジョージは拒否できなかった。したがって、ジョージの一般的なギタリストとしての評価は低い。ただし、ビートルズ・ファン(ジョージ・ファン)に代表されるように、解散後のソロ時代に確立したスライドギターの名手としての評価は高く、彼のワン・アンド・オンリーといわれるギターの音色は、振り返ればビートルズ・サウンドのひとつの特色と言うことも可能かも知れない、との意見もある。 ちなみに「ジ・エンド」の間奏部分では、ジョン、ジョージ、ポールの3人によるギター・バトルを聞くことができる[5]。
また、ジョンとポールはピアノなどの鍵盤楽器をしばしば演奏している。ジョン作の「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」でのイントロのメロトロンはポールの演奏である。主にピアノはポール[6]、オルガンやローズ・ピアノなど電子鍵盤楽器はジョン[7]というパターンが多くみられる。ジョンの演奏はリズムギターの延長であり、基本的に両手でコードを弾いている。一方、ポールはよりテクニカルな演奏を行なっている。
「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」など 中期から後期の作品で、ポールが主に自作曲でピアノを担当する時は、ジョンがベースを担当する曲も存在する。例えば「レット・イット・ビー」では、ジョンが6弦ベースを演奏している。
ジョージが「ノルウェーの森」でインド楽器のシタールを導入し、それがビートルズがインド音楽の影響を受ける端緒となったことは良く知られている。またジョージが演奏した他のインド楽器には、「ゲッティング・ベター」や、「アクロス・ザ・ユニヴァース」でのタブラ、「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」でのソードマンデルなどがある。ただし、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーとの決別とともにインド音楽への傾注は急激になくなった。
モーグ・シンセサイザーは、アルバム『アビー・ロード』において、ジョージにより導入された。単音しか出せないが、現在の(アナログ)シンセサイザーの元祖でもある、当時の最新楽器である。ジョージ自作の「ヒア・カムズ・ザ・サン」や、ジョンの曲「ビコーズ」で演奏され、ポールが自作「マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー」で、ジョンが「アイ・ウォント・ユー」で、それぞれ演奏している。
他、1968年のリンゴの脱退騒動[8]に絡んで「バック・イン・ザ U.S.S.R.」と「ディア・プルーデンス」、それとは別に「ジョンとヨーコのバラード」のドラムスはポールが演奏している。その他、曲によってはメンバー各人がパーカッションを演奏している。ジョンのサックス[9]など、珍しいパターンもある。
メンバー以外のポップス・ミュージシャンによる演奏としては、エリック・クラプトンが「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のリードギターを弾いているのが特に有名である。他にはレヴォリューションでのニッキー・ホプキンスのエレクトリックピアノ、ビリー・プレストンによるアルバム『レット・イット・ビー』中のエレクトリックピアノやハモンド・オルガンなどがある。また、番外編的なものとしては、プロデューサーのジョージ・マーティンが「イン・マイ・ライフ」のクラシカルなピアノの間奏などで、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズが「ユー・ノウ・マイ・ネーム」においてサックスで演奏に参加している。ただしこうした外部ミュージシャンの参加はプレストンを除きクレジットされていない。
[編集] 作詞作曲とリード・ヴォーカル
ジョンとポールが主に作詞作曲を行なう。またジョージやリンゴも後期になるにつれ作詞作曲を行なうようになる。リードヴォーカルはジョンまたはポール、あるいは2人一緒にとることが多いが、自作曲を中心にジョージも、またリンゴもリード・ヴォーカルをとる。
多くのヒット曲をはじめ、オリジナル曲の8割以上の作詞作曲はジョンとポールの共作としてクレジットされている。しかし、実際にはクレジット通りに2人で共作した曲はそれ程多くはない。純粋な共作曲は十数曲しかなく(それも前期に集中している)、2人のどちらかが単独で作った曲、両方が参加していても片方がアドヴァイス程度のサポートしかしていない曲が殆どである。二人のクレジットの曲で、ジョンとポールのどちらが主に作ったかの簡単な判断は、どちらがリード・ヴォーカルを担当しているかに注目すれば、比較的簡単である(殆どの場合、主な作者がリード・ヴォーカルを担当している)。
ビートルズ結成当初から、2人の友情の証として、どちらか一方がたとえ単独で作った曲でも、クレジットは「レノン=マッカートニー」、または「マッカートニー=レノン」(初期のレコードアルバムで見られる表記)と連名にする約束が2人の間で取り交わされていたからであろう。このことは後のいくつかの法的争いの元凶ともなる。この約束をジョンは比較的律儀に守っており、1969年にジョンがプラスティック・オノ・バンド名義で発表した「平和を我等に」の作詞作曲も「レノン=マッカートニー」とクレジットされている。彼等の作品は全米、全英ともNo.1になった曲が最も多く、『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も成功したシンガー・ソングライターとして記載されている。
レノン=マッカートニー作品以外のビートルズの公式発表曲(オリジナル曲)には、ジョージの作品が21曲、リンゴの作品が2曲、レノン=マッカートニーとリンゴとの共作が1曲、全員の共作1曲が含まれている。『ビートルズ・アンソロジー』のシリーズには、ジョンとジョージとの共作のパターンも、例外的に存在する[10]。
[編集] その他の関係者
- ジョージ・マーティン - ほとんどの曲をプロデュースしている[11]。
- ノーマン・スミス - レコーディングおよびミックスエンジニア 。デビューから1965年『ラバー・ソウル』までのほとんどを担当。
- ジェフ・エメリック - レコーディングおよびミックスエンジニア 。1966年『リボルバー』以降の多くを担当。
- クリス・トーマス - 『ホワイト・アルバム』にアシスタント・プロデューサーとして携わっている。
- スチュアート・サトクリフ - レコードデビュー前のメンバー(ベース)。スチュアートがバンドを脱退した後にポールがベーシストとなる。
- ピート・ベスト - レコードデビュー前のメンバー(ドラムス)。レコードデビュー直前に解雇され、リンゴが「ロリー・ストーム & ザ・ハリケーンズ」から引き抜れた[12]。
- ブライアン・エプスタイン - ビートルズのマネージャー。ビートルズの音楽ビジネスのプロモーションを確立した立役者。彼が1967年に32歳という若さで急逝したことは、ビートルズ解散の遠因になったと言われることもある。ちなみに彼は同性愛者で、「ジョン・レノンに恋愛感情を持っていた」という説もある。[13]
- ニール・アスピノール - ビートルズのロードマネージャー。彼は元々ピート・ベストの友人でありベスト家に間借りしていた[14]。その縁でバン(車)を持っていた事からビートルズの楽器を運ぶ為に雇われ、デビュー後も引き続きロードマネージャーとしてビートルズの身の回りの世話をしていた。長年ビートルズの会社アップル・コアの代表取締役を務めていたが、2007年4月アップルから去っている。
- マル・エヴァンズ - ビートルズのロードマネージャー。ビートルズが出演していたキャヴァーン・クラブのドアマンとして働いていが、アスピノール1人では仕事が大変なため2人目のロードマネージャーとして雇われ、アスピノール同様デビュー前から楽器のセッティングなどをはじめビートルズの身の回りの世話をしていた。ビートルズ解散後もジョン、ジョージと関わっていたが1976年死去。
- アレン・クライン - 1969年に就任したビジネスマネージャー。アメリカ人の会計士で、1965年からローリング・ストーンズのビジネスマネージャーを勤め[15]ビートルズ以上の契約をレコード会社と結ぶなどその手腕を買われ、無秩序状態で破産寸前だったアップルを再建すべく雇われた。やり手ではあるが悪評も多く、その強引な手法、アーティストより自身の利益を優先するなど「悪名高き男」とも呼ばれる。
[編集] 来歴
[編集] デビューまで
1957年3月、ジョン・レノン、バンド「クオリーメン」結成。
1957年7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会で行われたクオリーメンのコンサートをポール・マッカートニーが観る。共通の友人の紹介によりジョン・レノンと対面。ポールはギターを弾きながらエディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック」を完璧に歌い、ジョンに誘われクオリーメンのメンバーになる。
1958年2月6日、ポールの紹介でジョージ・ハリスンがクオリーメンのオーディションを受ける。「ローンチー」を完璧に弾きこなしバンドに加わる。
1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージの3人だけになる。
1959年10月、バンド名を「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」とする。
1960年1月、スチュアート・サトクリフがジョンに誘われバンドに加入(リヴァプール・カレッジ・オブ・アート時代のジョンの親友、もともと画家志望で音楽をやっていたわけではないが、絵が売れるとその金でベースを買ってバンドに入るようにジョンが誘いバンドに加入。その為そこからベースを覚えていったという、ベースの腕前は素人)。バンド名が「ザ・シルヴァー・ビートルズ」になる。
1960年4月23、24日、ジョンとポールの2人は「ナーク・ツインズ」というユニット名で、ポールのいとこ夫婦が経営するパブで演奏する。
1960年5月、ソロシンガーのバックバンドをつとめるツアーに出る(この時、それぞれが芸名をつけていた。ジョン「ロング・ジョン」、ポール「ポール・ラモーン[16]」、ジョージ「カール・ハリスン」、スチュアート「スチュアート・ド・スタール」)。
この頃はドラマーが次から次へと入れ替わっていた、ドラマーのいないステージではポールがドラムスを叩いたこともあった。
1960年8月、ドイツのハンブルクでの仕事が入り新たにドラマーが必要になり、シルヴァー・ビートルズが出演していたカスバ・クラブの経営者の息子ピート・ベストがドラムスをやっていたので、メンバーとして誘い入れる。バンド名を「ザ・ビートルズ」とする。ハンブルクではリンゴ・スターがドラムスを努める「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」も出演していて、リンゴと付き合うようになる。
1961年4月〜7月、この2度目のハンブルクでの巡業の途中で、スチュアートが画家に専念するために脱退。
1961年6月22、23日、ハンブルクではトニー・シェリダンのバックバンドとしてもステージに上がっていたことが縁で、ドイツでシェリダンのバックバンドとしてレコーディングに参加。レコード会社は勝手に「トニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ」とバンド名をビートルズからビート・ブラザーズにかえて発売[17]。「マイ・ボニー」などの他、シェリダン抜きでジョン・レノンのヴォーカルの「いい娘じゃないか」インストゥルメンタルナンバーのビートルズのオリジナル曲「クライ・フォー・ア・シャドウ」もレコーディングされた[18]。
1961年12月10日、ブライアン・エプスタインがマネージャーになることが決まる。
1962年1月1日、デッカ・レコードのオーディションを受けるが不合格となる。
この頃、ピートがステージを休むことが数回あり、そんな時はリンゴが代役としてドラムスを叩いていた。
1962年4月10日、スチュアート・サトクリフが脳内出血により死去。
1962年6月、パーラフォン・レーベルとコーディング契約を結ぶ。
1962年8月15日、ピート・ベストが解雇され[19]、リンゴ・スターがビートルズのメンバーになる。
1962年10月5日、レコードデビュー。
[編集] デビュー当初から初期
ビートルズのデビューが決まり、曲を録音する段階で、ジョージ・マーティンは誰をメイン・ヴォーカリストにするか悩んだという。当時は特にリズム・アンド・ブルース系やドゥーワップ系のグループなどでは、「リード・ヴォーカリスト&バックコーラス、又は、リード・ヴォーカル・ウィズ・バックバンド」という形式が多かったためである。その他、スターを1名プッシュして売り出すという目的もあった。マーティンは当初はポールをリード・ヴォーカルとして押し出すつもりであったが、結局ジョンとポールの2人を押し出すことに決定した。デビュー曲は「ラヴ・ミー・ドゥ」でイギリスではそこそこのヒット曲だった。また、英国での2回目のシングルレコードのプリーズ・プリーズ・ミーのNo,1ヒットから英国ナンバー1のグループになる。また、英国でのデビュー・アルバムの『プリーズ・プリーズ・ミー』もイギリスで30週間ナンバー1の記録を達成している。この記録は未だに誰からも破られてはいない。そして、彼等のセカンド・アルバムの『ウィズ・ザ・ビートルズ』が発表になり、このアルバムもまたイギリスで『プリーズ・プリーズ・ミー』に替わり22週間の間ナンバー1になり、ほぼ1年に渡りイギリスのアルバムチャートの1位を占領した。
一方ブライアン・エプスタインの営業努力にもかかわらず、「ラヴ・ミー・ドゥ」、「プリーズ・プリーズ・ミー」、「フロム・ミー・トゥ・ユー」及び「シー・ラヴズ・ユー」は、アメリカでは全くヒットしなかった(大手レーベルからの発売さえできなかった)。しかし「抱きしめたい」がアメリカでナンバー1になり大成功して以降、上記4曲も加えてビルボードの上位を占める等、アメリカもビートルズ旋風一色となった。
それを含め大ヒット曲の連発で、ポピュラー音楽の歴史が彼等によって塗り替えられて行く事となる。また、「抱きしめたい」のシングル盤は世界で1200万枚以上の売り上げがあり、歴代でも世界のトップクラスのセールスを記録した。アメリカでは、次作のシングル「キャント・バイ・ミー・ラヴ」が予約だけで210万枚に達し、またイギリスでも予約枚数が100万枚になり『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も予約枚数があったレコードとして記載されている。 また、ヴォーカルの方面では「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」などの、ジョンとポール二人で歌っているうちの、「どちらがリード・ヴォーカルのメロディーなのかわからない曲」や、「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」などのように「1曲の中でソロパートとして、2人が歌い分ける曲のパターン」、「エイト・デイズ・ア・ウィーク」「デイ・トリッパー」などのように「最初はジョンやポールがリード・ヴォーカルだが、いつの間にかハーモニーやバックコーラスに回り、リード・ヴォーカルが交代してしまうパターン」などの形態がある(これらは主に二人の声の高低をカヴァーしたことに起因する)。コンサートツアーの方はアメリカで成功したため、他の国での成功をも確信したことからため、世界ツアーに行く事になる(当時はアメリカで大ヒットするだけでは不十分だった)。1964年のオーストラリア公演では、リンゴが扁桃腺炎の為、一時期リンゴの代役としてジミー・ニコルがドラマーとして参加する。またリンゴが復活し、オーストラリアのアデレード公演の際、ビートルズがアデレード市のタウン・ホールに出現した時は30万人のファンがタウン・ホールに詰め寄せたという。
[編集] 日本公演
日本公演は、読売新聞社と中部日本放送の主催によって1966年6月30日から7月2日にかけて5公演、東京・日本武道館において行われた。初日は夜のみ、2・3日目は昼および夜の各2回公演であった。
(入場料金) A席:2100円、B席:1800円、C席:1500円 ※警備の都合上アリーナ席はなし
ビートルズ来日に、警備は相当厳重になり、警視庁は大規模な警備体制を取り約3万5千人の警備員と機動隊が出動した。また安保闘争を除けば警視庁創設以来の大規模な警備体制となった。公演では当初、初日のステージの様子が録画されテレビ放送されることになっていたが、(マイク・スタンドの不備等)ビートルズ側の主張によりその映像は放送されず、急遽、翌7月1日昼の部のステージが収録されて、その日の夜9時から日本テレビ系列にて放送された本放送に使われた(番組の詳細はザ・ビートルズ日本公演 (テレビ番組)を参照)。7月1日公演分の録画(白っぽい衣装)は、放送終了後エプスタインが持ち帰ってしまったため、近年何度かされた再放送や、1986年に日本国内のみで正式発売されたビデオなど(今は廃盤)は、6月30日公演分の録画(ダークな衣装)である。当時開発されたばかりの2インチ高画質カラー・ビデオテープで収録されたこの公演はとても鮮明な画像で残されており、数少ないカラーのビートルズのコンサート映像の中でも世界的に類を見ないものであるため、日本国内のみで正式発売されたビデオは海外のファンの間ではかなりの高額で取引されている。しかし、現在では版権等の問題があるため、2006年現在このビデオの再リリースは不可能といわれている。
ちなみに7月1日の映像はDVD『アンソロジー・エピソード5』で2曲のみ見ることができる。全曲は非公式ビデオ・DVDでしか見ることができないが、見所として「アイ・フィール・ファイン」の冒頭でジョンがギターでフィードバック音を出している部分が挙げられる。また、このDVD『アンソロジー・エピソード5』には、ほんの数秒ではあるものの、当時ビートルズの広報を担当していたトニー・バーロウによって撮影された、7月2日昼の部のカラー8ミリ映像も収録されている。他にも非公式に撮影された6月30日と7月1日(昼の部)のカラーの8ミリも存在するようである。今のところ存在が確認されている日本公演の映像はこの3ステージ分のみであるが、実はこの時、東京オリンピック開催時とほぼ同じ規模だったと言われるビートルズ日本公演の警備の模様を記録した『ビートルズのすべて』と題された記録映画が、警視庁によって製作されている。
6月30日と7月1日午後では収録方法も大きく変わっており、初日の映像では殆ど客席を写すことは無いが、1日のはかなりしつこく客席を写している。基本的なカメラ割りは同じだと考えられるが。また、音声のミキシングも大きく異なっており、ポールのベースの音が極端に大きくなったり(本来のヴァランスだと思われる)、観客席の声がよりリアルに聞えるようになった。
タレントの志村けんは、7月2日昼の部の公演を2階前列で見た際に、テープレコーダーで録音[20]。また同日夜の部では、ジョンがサングラス[21]をして公演をした珍しい日でもあった[22]。当時はPA(拡声)システムが整備されておらず、あまりの大歓声に演奏者であるビートルズ及び観客には良く演奏が聴こえなかったという。これは日本公演に限らずビートルズのどの公演にも当てはまるのだが、そのため、勘で演奏をしていた部分もあり、ワンパターンの決まり切った演奏(特にドラムス)しかできなかったらしい。
この日本公演に関して言えば、武道館のアナウンス用スピーカーからも演奏を流していたのと、欧米諸国に比べファンが騒ぐことなく比較的おとなしく演奏を聴いていた(実際には、「席を立ち上がったら即退場」という規制が敷かれていたことと、1階のアリーナ席には警察官および関係者以外立ち入り禁止だったため2階のスタンドより上にしか観客はいなかった)ため、演奏自体はおおかた聴こえていたようである。しかしながら、「まったく聴こえなかった」という人と「いや、ちゃんと聴こえた」という人とどちらの証言も多数あるため、客席の位置によって聴こえた場所と聴こえなかった場所があった可能性は非常に大きい。RCサクセションの 仲井戸麗市は著書『だんだんわかった』で、高校生時代に見たこの公演の様子を書いており、リンゴの「アイ・フィール・ファイン」のバスドラムの踏み方が完璧で本物だった、と記している。
6月30日公演の映像を見る限りでは、「アイ・フィール・ファイン」他でジョン・レノンが歌詞を間違えて歌い、それを聴いたポールが首をかしげたり、苦笑いするシーンを見ることが出来る。と言うことは、ステージ上では意外に自分たちの音(声)が聞こえていたのでは無いかと推測できる。当時PAは無く当然ステージ上に返しも無い為、恐らくアリーナ上に設置されたスピーカーからの音が舞台上に届いていたのであろう。 舞台上の集音は楽器に関しては全くされていないようで、テレビ収録があった6月30日と7月1日のみ、ギターアンプ前とドラムスに集音用マイクが設置されているが、それ以降はマイクが置かれているのを見ることが出来ない。ということは、舞台上のスピーカーからはヴォーカルのみが出ていて、楽器は生音だけだったと考えられる。館内の音響設備からも音を流していたと言うことは、客席天井からも音が出ていたということであり、スピーカーに近い席に座っていた人、または、舞台上の東京音響が設置したスピーカーの近くに座っていた人にはかなり聞えていたと考えられるが、席によっては全く聞えなかった事は十分考えられる。
今でこそ東京ドーム同様、武道館でのロックコンサートは頻繁に行われているが、当時は佐藤栄作首相や、元朝日新聞記者で政治評論家の細川隆元らが、「神聖なる日本武道館でロックバンドが演奏することなどけしからん」という意見が多数を占めていた(特に細川は、テレビ番組などで差別用語まで使い罵倒を繰り返していた)。実際に、公演会場を後楽園球場かよみうりランドへ変更することも検討された。これに対しポールは「僕らは演奏をしに来ただけだよ。例え日本の舞踊団がイギリス王立の会場でパフォーマンスを行ってもイギリス人は伝統を汚されたとは思わない。」と反論。ジョンも「闘うよりも音楽を演奏する方が平和でいいよ。」「僕らはここでやってくれと言われたからやるだけで、別にボクシング場でもどこでも僕らは構わない。」とコメントしている。
司会を務めたのはE・H・エリック。前座として尾藤イサオ、内田裕也、望月浩、桜井五郎、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズ(寺内タケシは所属事務所渡辺プロダクションを退社する条件としてグループから脱退した直後のため出演していない)、ザ・ドリフターズ(6月30日・7月1日のみ)が舞台に上がった。前座の模様は版権の関係でビデオ化されたことはないが、映像自体は残されており、時折テレビでも一部が放送されることがある。ザ・ドリフターズの演奏は当時放映されておらず、日本テレビいつみても波瀾万丈に加藤茶が出演した際に初めて公開された(6月30日版)。6月30日・7月1日昼の部両日共に記録されているが7月1日は当時放送分に公開されたきり、一度も放映されていない。7月1日のVTR全てをビートルズサイドが持ち帰ったためとされている。7月2日の演奏は、写真が残されているのみで公式な映像・音声は2008年一つも発見されていない。
しかしこの日本公演は、アメリカでの1964年、1965年の公演に比べると、ライヴとしては決して良い出来とは言えなかった。音程は外れていたし、マイク等の機材も品質の良い物ではなかった。ライヴ前の記者会見でジョンが「ビートルズを聞きたい人はレコードを聞いてください。ビートルズを見たい人はコンサートへ来てください。」と言っていたことを考えると、始めからまともに演奏する気がなかったことが窺える。そして、ライヴでの再現が不可能・困難な曲を多く含んだアルバム『リボルバー』のレコーディングを来日前に終えているという事も考慮すると、ビートルズは最早ライヴ活動に対する執着心を感じていなかったのではないかという事が考えられる。(初日の演奏で日本のファンが演奏を聴いてくれていると知ったメンバーが翌日のステージでは恥ずかしい演奏は見せられないと本気の演奏をしたという証言もある)
初日公演翌日の7月1日の朝刊では、全国各紙一斉にこの日本公演の模様を大々的に報じた。どの新聞社も一通り公演の様子を伝えてはいるものの、ビートルズの演奏よりも熱狂する少女や厳重な警備体制に焦点を定めた社会記事的な扱いをしており、また数ある新聞社の中でも朝日新聞は、「1曲目の『ツイスト・アンド・シャウト』から始まり、『ヘルプ』、『プリーズ・プリーズ・ミー』とヒット曲が続くと少女たちの熱狂は頂点に達した…」などと、実際の演奏曲とはまったく違う明らかな予定稿を載せていた。このことからも、当時の日本のマスコミは「ビートルズそのもの」よりも「ビートルズが巻き起こす社会現象」に関心が強かったことが窺える。
メンバーの投宿に際しては、警備上の理由からなかなか決まらず、唯一名乗りを挙げた「東京ヒルトン」(後のキャピトル東急ホテル。2006年11月30日に閉館)に落ち着いた。
なお、来日時に日本航空のダグラスDC-8機のタラップを降りてくる時に、4人のメンバー全員が「日本航空」のロゴの入った法被を着用していたが、これは、「宣伝のために自社のロゴの入った法被を4人に着用させろ」との日本航空の宣伝部の命を受けた客室乗務員が、「日本の伝統衣装を着用すると日本のファンが喜ぶ」といって着用させたものだった。
[編集] ザ・ビートルズ日本公演を見た主な著名人
日本公演を見た主な著名人とその職業・所属は下記のとおり。ほとんど著名人が単純にビートルズが好きで見に行ったわけではなく、招待されて観に行った者や、ビートルズ人気に理解出来ないためその実体を見てやろうという懐疑的な者や、ビートルズの熱狂の渦の中に身を置いてみたいということで観に行ったようである。太字は当時の職業・所属であり、その後の著名人の人生に影響を与えている要素が見受けられる。50音順、前座出演者は除く。
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[編集] ジョンのキリスト発言
ビートルズがまだ世界ツアーをしていた1966年、ジョンがあまりの人気ぶりに「ビートルズはキリストよりも人気がある」と発言したことにより、キリスト教国でビートルズ排斥運動を巻き起こした事件。この発言は1966年3月にジョンが英国『ロンドン・イヴニング・スタンダード』誌に答えたインタヴューの一部だったが、同年8月に米国誌に転載されると大問題となり、アメリカ各地や世界中のキリスト教国でデモが行われたり、レコードやポスターが焼かれたり(そのあとに、焼いたものと同じレコード等を買った人もいたため、売り上げが少しではあるが伸びた)、彼等の楽曲のオンエアを控えなければならなくなったラジオ局が増えたりと、大変な騒ぎとなった。その後ジョンが発言を撤回したが、事態はすぐには収拾しなかった。
なお、この一件は単なる舌禍事件に留まらず、ビートルズの活動内容に転換をもたらすとともに、特にジョンが自分とビートルズとの関わり方を見直していくことになるターニング・ポイントとなった。あまりのファンの熱狂ぶりにコンサートでの演奏がまともにできなくなっていたことに加え、過酷なスケジュールとホテルでの缶詰生活からツアー自体に嫌気がさしていた各メンバーは、ジョンのキリスト発言を機に各地で起こったビートルズ排斥運動を見てツアーへの興味を完全に失った。またジョンとしては、現状の聖職者に対する不満をジョークとともに皮肉ったつもりであったが、周囲にあまりに過剰に反応されたことに対して、自分の意志や信条に忠実な発言ができないアイドルとしての立場に強いフラストレーションを感じるようになった。さらには、自己の等身大以上に巨大化し、もはや自らもコントロールできなくなってしまった「ビートルズ」という存在自体に嫌気がさし、次第に距離を置いていくようになる。そして、このことが逆に、自分に忠実な自由な活動をするという信念をジョンに持たせることになり、過激な政治運動、ヨーコとの活動、ビートルズの否定という、その後のジョンの生き方に反映されていくことになる。
[編集] ライヴ・ツアーの停止とレコーディングアーティストへの脱皮
日本公演が終わった直後のアメリカツアー(1966年8月29日)のサンフランシスコ・キャンドルスティック・パークのステージを最後に、ビートルズはライヴ活動を停止する。
当時の彼らは、ライヴにおいて満足な演奏ができない環境にあった。ポールによる「スタジオ盤では問題ないのに、ステージの録音を聞くと、ハーモニーが上ずってしまい、音感の悪さに気落ちしてしまう」という主旨の発言もあった。彼らに限らず、当時のステージにはモニター[23]などは設置されていなかったので、やむを得ないところもあると言える。しかも観客の増加とともに会場は野球場(特に1965年8月15日のシェイ・スタジアム公演は象徴的なものとなった)やサッカースタジアム、室内でも地区有数の大会場で行うようになり、ヘヴィーなサウンドを大音量で出しても観客の少女たちの大歓声で演奏がかき消されてしまったという。ビートルズのためにより強力な音響装置も開発されたが、当時の技術では焼け石に水であった。このような状況の中、メンバーがライヴに対する関心をなくしていったのは自然な流れであったともいえる。
ライヴ活動の停止以降、彼らはレコーディング活動に集中し、次々と革新的な作品を発表する。初めて本格的なスタジオワークを駆使した1966年のアルバム『リボルバー』は、ライヴでの再現性を全く無視した実験的な試みを行ったが、こうした取り組みがポップス音楽の金字塔と称される1967年のアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に結実していく。このアルバムはポップス史上最大のトータルアートとも呼ばれ世界中の音楽評論家たちから絶賛された。発売後3週間で250万枚も売り上げたが、売り上げよりも音楽的価値が最も評価の高いアルバムとも言われる。同作品は同時代のアーティストに非常に多大な影響をもたらし、彼らの音楽的評価を決定づけた。
また、同年8月27日、マネージャーのブライアン・エプスタインが睡眠薬の多用により死亡する。エプスタインの死自体と直接の関係があるのかどうかは定かではないが、彼のいなくなった後バンドとしての求心力やメンバー間の結束は弱まり、解散の遠因となったとも言われる。
その後もテレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』を自作自演、1968年には個々の個性が際立つ二枚組オリジナル・アルバム『ザ・ビートルズ』(通称・ホワイトアルバム)など傑作を発表。同年に発表したシングル「ヘイ・ジュード」はビートルズ最大のヒット曲となった。ビートルズがライヴ・ツアーを続けていたとしたらこのような音楽的進化を遂げることはできなかったとさえ言われる。ドラッグ、サイケデリックに突入する時代と、その時代のミュージックシーンの先頭を駆け抜けていくことになる。
[編集] アルバム『レット・イット・ビー』と『アビイ・ロード』
ブライアン・エプスタインの死後、急速に弱まったグループの結束を昔のように強くしようと、ポールの提案で『ゲット・バック・セッション』(「ゲット・バック」=「昔に戻ろう」という意味合いを持つ)が1969年1月3日より31日まで行われる。このセッションは新アルバムのレコーディングに加え、スタジオでのセッションをすべて撮影し、その模様をドキュメンタリーにして放送、そして新曲を引っさげライヴ活動を再開、という大掛かりなプロジェクトであった。
ライヴ活動再開はジョージの強硬な反対により実現しなかったものの、1月30日に「ルーフトップ・コンサート」(ロンドンのサヴィル・ロウにある彼らの会社「アップル・コア」(Apple Corps Ltd.)本社ビル屋上でのゲリラ的ライヴ)が行われ、これがビートルズとしての最後のライヴとなった。また撮影された膨大なフィルムは後に編集され映画『レット・イット・ビー』として公開されることになる。この映画はDVDでの再リリースが決定(2008年4月現在では正式なリリース日は未定)しているが、この映像を見ると解散間近のビートルズのぎこちない雰囲気が一目瞭然である。
セッション中、ポールとのいさかいからジョージがグループを一時離脱。ジョンとポールはジョージ・マーティンの録音立ち会いを断ったりもしており、それまでメンバー間の緩衝材としての役目を果たしていたリンゴの手にも余る状態だった。そんな中、レコーディング離脱中のジョージがビリー・プレストンをエレクトリックピアノ(一部ハモンドオルガン)担当のバックアップ・メンバーに加えることを条件にグループに復帰(ジョージ・ハリスン個人の項目参照)。これは、外部のミュージシャンが側にいるといい子になるジョンとポールの性格を利用したものである。この結果、バンドの雰囲気も大きく変わり、演奏の出来もさらによくなった。
途中で撮影(および演奏・録音)場所をトゥイッケナム・スタジオから、アップル社の当時未完成だった地下スタジオに移し、EMIスタジオから機材[24]を借り受けて再開。演奏のヴォルテージは上がってはいったが、「ゴールは解散」と、メンバーたち自身が意識的にか無意識的にか悟っている状態であった。そして、1月31日に29日間にわたるセッションは終了した。
その後、5月の発売を目指しテスト盤『ゲット・バック』は作られたが、集中力散漫で各メンバーが不満をくすぶらせる中行われたレコーディングは満足のいく出来ではなかったためにアルバムの発売は延期、音源も放置された。その後、録音された楽曲に興味を失ったグループがこのプロジェクトを完全に放棄するという事態に見舞われたものの、アップルがこのプロジェクトに大量の投資をしていたことから楽曲を廃棄するわけにもいかず、結局ジョンやジョージらの依頼によりフィル・スペクターが手をかけてアルバム『レット・イット・ビー』(映画『レット・イット・ビー』のサウンドトラック)としてアルバムが完成(商品化)した。発売はレコーディングから丸1年以上経ってからになった。
リハーサルからルーフトップ(屋上)コンサートの終わった約半年後、ポールがジョージ・マーティンに「ビートルズの新しいアルバムを作る」と協力を依頼してきた。マーティンは自分の耳を疑ったが「昔のように全員が協力して本気で作る気ならば(プロデューサーとして)立ち合う」ということで合意し、制作・完成したのが『アビイ・ロード』である。この頃の4人の人間関係は最悪とされていたが、それにもかかわらずこのアルバムの完成度は高く、特にB面のメドレーは現在でも評価が高い。音楽も昇華され現在でも世代を超えて人気が高いポピュラー音楽の名盤アルバムとされている。
「最後に発売された彼らのオリジナル・アルバムが『レット・イット・ビー』、ビートルズとして最後に制作(録音)されたのが『アビイ・ロード』」といわれている所以がそこにある。尚、『アビイ・ロード』の「B面(CDは後半部)のほとんどをメドレー形式にする」というアイディアはポールのものであり、彼が中心になって作業が進められた。逆にレコードでいうA面(CDであれば前半)は、主にジョンが仕切ったと言われている。
[編集] 解散とその後のメンバーの関係
1969年9月(20日と言われる)には、メンバー間でのミーティングの席上、ジョンが脱退の意思を表明したが、当時のマネージャーのアラン・クレインはキャピトルレコードとの契約更新が間近であったことから、ジョンの発言が公にならないようひた隠しにしていた。 1970年4月10日、ポール・マッカートニーはイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表し、同年12月30日にはロンドン高等裁判所にアップル社と他の3人のメンバーを被告として、ビートルズの解散とアップル社における共同経営関係の解消を求める訴えを起こした。翌1971年3月12日、裁判所はポールの訴えを認め、他の3人は上告を断念したため、ビートルズの解散が法的に決定された。 しかし、ポールは脱退表明を自身のファースト・アルバム『マッカートニー』のプロモーションに利用し、しかも同アルバムをビートルズの『レット・イット・ビー』にぶつける形でリリースしたことで他メンバーから激しい非難を浴びることとなった。(ポール・マッカートニー個人の項目参照)。
ビートルズの解散について、オノ・ヨーコの存在をその主な要因とする意見が特に1970年代には多く主張されたが、現在ではメンバーそれぞれの自立指向やマネージメントの問題、ビートルズ自身が設立したアップル社の経営問題など、より複合的な要素にその要因を求める論調が多くみられる[25]。そのことについてオノ・ヨーコは多くを語っていない。
ジョンは、ポップスターという自分自身の立場に嫌気が差していて、前衛芸術家であるヨーコにインスパイアされるかのように、ファンには理解しがたい前衛的なパフォーマンスを繰り広げており、またポールはビートルズのライヴ活動再開をメンバーに進言したが受け入れられなかった経緯がある。ジョージもまた自分の才能を発揮できない環境に不満を持ち、早くからソロ活動を指向していた。また、エプスタインの死によってマネージメントに恵まれず、メンバー個人個人が自分の思う道を進んだ結果、バンドとしての方向性が定まらなかったことも要因の一つに挙げられる。
また、ソロ活動への布石として、ジョンは1968年のローリング・ストーンズがホスト役を務めた『ロックンロール・サーカス』や、1969年ロンドンでのユニセフのチャリティーコンサートにおいて、エリック・クラプトンなどとライヴ演奏をしている。(解散後も含めた以降のソロ活動については、ジョン・レノンの個人の項目参照)ジョージもまた『電子音楽の世界』などソロ作品を発表している。
解散後から『ビートルズ・アンソロジー』リリースまでの動きや作品については、各メンバーの項目の記事やヒストリー(年表)、ビートルズの作品を参照。
解散直後の1971年頃には、ジョン・ジョージとポールの不仲も頂点に達したといわれ、二人はお互いのソロ・アルバムの中で痛烈な非難をやりあった。その中でも一番辛辣なものとして名高いのが、1971年のジョンのアルバム『イマジン』収録の「眠れるかい」であろう。ここでジョンは、同じく当時ポールと不仲であったジョージをもレコーディングに誘い、アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』や「イエスタデイ」、ソロ・デビュー曲「アナザー・デイ」までをも持ち出して、ポールの事を辛辣に皮肉っている(具体的な内容については「眠れるかい」の項を参照のこと)。もっとも、この後リンゴの忠告によって反省したジョンは、「この曲は自分自身を攻撃している歌だった」と、この曲をリリースしたことを後悔しているといった発言もしている。その後ジョンとポールの仲は少しずつ修復されていった。
リンゴだけは、解散してからも他の3人のメンバーとの良好な関係を保ち続け、ジョン、ポール、ジョージともにリンゴのソロ・アルバムのレコーディングに関わっている。1973年リリースのアルバム『リンゴ』では3人全員がセッションに参加し、特にその中の収録曲「アイ・アム・ザ・グレイテスト」(作者はジョン)ではジョン、ジョージ、リンゴが一緒に演奏、テープの上だけではあったが久しぶりに4人が一緒になった。ベースを弾いた