リッチー・ブラックモア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| リッチー・ブラックモア Ritchie Blackmore |
|
|---|---|
リッチー・ブラックモア
|
|
| 基本情報 | |
| 出生名 | Richard Hugh Blackmore |
| 別名 | リッチー |
| 出生 | 1945年4月14日(64歳) |
| 出身地 | |
| ジャンル | ハードロック ヘヴィメタル |
| 職業 | ギタリスト 作曲家 |
| 担当楽器 | ギター |
| 活動期間 | 1963年 - 現在 |
| 共同作業者 | ディープ・パープル レインボー ブラックモアズ・ナイト |
| 影響 | J.S.バッハ ジミ・ヘンドリックス |
| 公式サイト | http://www.blackmoresnight.com/ |
リッチー・ブラックモア(Ritchie Blackmore, 1945年4月14日 - )は、イギリス出身のギタリスト。ローリング・ストーン誌の2003年8月号のカバーストーリー、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」に於いて第55位。身長179cm。
目次 |
[編集] 概要
本名リチャード・ヒュー・ブラックモア(Richard Hugh Blackmore)。イングランド西部の保養地、サマセット州ウェストン・スーパー・メアで生まれる。ミドル・ネームがハロルド(Harold)と表記される事も多いが、誤りである。尚、通常リチャードという名の男性のニックネームである「リッチー」は「Richie」と表記するが、彼は「t」を加えて「Ritchie」としている。
「スモーク・オン・ザ・ウォーター」、「ブラック・ナイト」などの明快で印象的なリフ職人であり、「ハイウェイ・スター」、「紫の炎」などの超絶的な速弾きは有名で、ギター速弾きの元祖と言われる。
1970年代は3大ギタリストを初めとする、ブルーズロック全盛期にありながらロック・ギターにクラシック音楽のフレーズを導入し、後にイングヴェイ・マルムスティーンが確立する、「ネオクラシカルメタル」の世界観を生み出し、ロックの音楽の幅を大きく押し広げ、1970年代以降のハードロックシーンに計り知れない影響を与えた。 また、ロングヘアー、黒い上下の衣装、ストラトキャスターの多用、ステージの最後のギター破壊など、彼のファッションやパフォーマンスは、ロックにおけるヒーロー像として現在にも受け継がれている。
イングヴェイ・マルムスティーン、スティーヴ・ヴァイ、ランディ・ローズ、クリス・インペリテリ、ヤニック・ガーズ、エディ・ヴァン・ヘイレン、高崎晃など、彼の世界観やプレイに影響を受けたフォロワーは著名ギタリストにも数多く、世界各国の音楽シーンの第一線で活躍している。
[編集] ディープ・パープル以前
11歳の誕生日に、当時の価格で7ポンドのスパニッシュ・ギターを父親からプレゼントされ、その後、クラシック・ギターのレッスンを約1年間受ける(自身のコメントによると、フレットを押さえる時に小指が使えるのは、その時のレッスンが生きているから)。
14歳の時、初めてエレクトリックギターのホフナー (Höfner)・クラブ=50を手にした彼は、人前で初めての演奏を披露した。こうしてエレクトリックギターの魅力に取り憑かれた彼は、当時近所に住んでいたギタリスト、ビッグ・ジム・サリヴァン (Big Jim Sullivan) に師事し、ギターの腕前を向上させていった。
1960年、初のプロ・ユース・エレクトリックギター、ギブソンES335を手に入れる。その後、学校を卒業した彼はロンドンのヒースロー空港で技師として働き始めるが、音楽への情熱を捨てきれず、ジャズ・ギターの練習やバンド活動にいそしんでいた。
この頃から、スキッフル(Skiffle)・バンドのザ・ドミネイションズやザ・サフォナイツ、ザ・デトネイターズ、マイク・ディーン・アンド・ザ・ジェイウォーカーズといったローカル・バンドでセッションを行っていたが、報酬はアルバイト程度の一晩約30シリング前後であり、プロ活動と言えるかどうかは意見が分かれている。
その後、そういった活動に見切りをつけ、ドイツのハンブルグに渡った時、スター・クラブ (Star-Club) でスクリーミング・ロード・サッチ (Screaming Lord Sutch) と出会い、セッションを行った。さらに後日、リッチーを気に入ったロード・サッチは、自身のバンドであるロード・サッチ・アンド・ヒズ・サベージス に加入させた。ロード・サッチという人物は音楽的な実力よりもショーマンとしての能力に秀でていると評されているミュージシャンであり、彼のバンドに在籍した2年間で、リッチー・ブラックモアはプロ意識を目覚めさせたと言われている。ロード・サッチとのセッションと平行して、テルスター (Telstar) のヒットで知られるトーネイドス (The Tornados) のレコーディング・セッションなどもこなし、次第に実績を蓄えていく。
1963年からは、RGMスタジオのセッション・ミュージシャンとなり、トム・ジョーンズや上記のテルスターで知られる売れっ子プロデューサーのジョー・ミーク (Joe Meek) の下で多くのセッション活動をこなした。同年、ハインツ (Heinz) という歌手の伴奏を務めている。6月には再度ハンブルグに行き、ジョー・ミークの関連でジ・アウトローズ(The Outlaws) に加入した。アウトローズはメインとしてレコードを出す傍ら、上記のハインツやジーン・ビンセント (Gene Vincent)の伴奏も手がけているが、1964年5月に脱退。リッチーを気に入っていたハインツの要請で、彼のバンドであるハインツ・アンド・ザ・ワイルド・ボーイズにリーダーとして加入したが、音楽的な限界を感じて翌1965年に脱退し、ロード・サッチ・アンド・ヒズ・サベージスに再加入している。ジェフ・ベックやジミー・ペイジとセッションを行ったのもこの頃である。
1966年、二人の友人とハンブルグに再々渡航し、スリー・マスケティアーズを結成するが、すぐに解散、さらにマンドレイク・ルートというバンドを結成するが、資金面の困難さからすぐに消滅してしまう。低迷した時期だったが、この頃クリス・カーティス (Chris Curtis) やイアン・ペイスと知り合ってもいる。
[編集] ディープ・パープル時代
1967年、当時サーチャーズ (The Searchers)でドラムスとボーカルを担当していたクリス・カーティス (Chris Curtis) が発起人となり、新しいバンドを結成するためのメンバーを探し始めた。最初に候補に挙がったのがリッチー・ブラックモアとフラワー・ポットメン (The Flower Pot Men) のバック演奏を務めていたキーボード・プレイヤーのジョン・ロードである。様々な事情から計画は一度中断したが、その後、ボビー・クラーク(ドラマー)、デイヴ・カーティス(ベーシスト)を加えて、ラウンドアバウトというバンド名でとりあえず結成した。しかしやがてクリス・カーティスが辞め、ボーカルにロッド・エヴァンスが加入、さらに、その時に付いて来たイアン・ペイスがボビー・クラークを押しのけてドラマーとして加入した。こうして体制が整った時点でバンド名を「ディープ・パープル」に改め、アメリカの新興レコード会社、テトラグラマトン・レコード (Tetragrammaton Records) よりデビューを飾る(以降のバンド自体の概要/活動歴は「ディープ・パープル」を参照の事)。
リッチー自身は、オリジナル第一期~第三期に在籍。1975年6月に脱退。1984年、ディープ・パープルの再結成に参加。しかしイアン・ギランとの確執などから1993年に再度脱退。そのため、翌年の来日公演の時はジョー・サトリアーニが代役を務めた(脱退時、来日公演を行うために必要なビザを破り棄てたとも言われている)。
[編集] レインボー時代
1975年、ボーカルのロニー・ジェイムス・ディオ及びエルフを吸収する形でレインボー(当初はRitchie Blackmore's Rainbow)を結成。当初はディープ・パープルの路線を踏襲しつつも、ポップさと中世的な音楽の両方を取り入れた音楽を目指していた。セカンド・アルバムでボーカル以外のメンバーを入れ替え(特にドラマーとしてコージー・パウエルを迎え入れ)、最初の黄金時代を迎えるが、その後もメンバー交代が次々に行われた(以降のバンド自体の概要/活動歴は「レインボー」を参照の事)。
1984年に活動を休止。1995年にはリッチーブラックモアズレインボー名義のアルバム「STRANGER IN US ALL」をリリースしているが、メンバーはディーブ・パープル再結成前のものとは異なっている。1997年に活動を停止。その後、リッチー・ブラックモアズ・レインボー名義のアルバムはリリースされていない。
[編集] ブラックモアズ・ナイト
1997年、婚約者兼ボーカルのキャンディス・ナイトと共にブラックモアズ・ナイトを結成。彼のルーツの一つである、リュートなどを主体としたイギリス中世音楽を現代風にアレンジした吟遊詩人的な音楽で、それまでのハードロックから一転しアコースティックギターによるフィンガリング奏法、アルペジオを多用した独創的なもので、かつ聴きやすいと評されている。
現在までライブ録音を含め7枚のアルバムを発表している。ライブ演奏ではエレクトリックギターでのピック奏法も行うが、ボーカルのバックではアルバム同様にアコースティックギターを多用。既にディープパープル時代の曲はソルジャー・オブ・フォーチュンくらいしか演奏しないが、結成10年を経過しブラックモアズ・ナイト以降のファンも多い。2007年もライブハウスを中心に全米ツアーを行っている。
[編集] 音楽性
1960年代後半の、いわゆるニュー・ロックやアート・ロック等と呼称された一連のロックの変革の時代に登場したディープ・パープルというバンドが、「ハード・ロック」の定型を作り上げたという意見が多いが、その中にあって、特にリッチー・ブラックモアの存在は軽視出来ない。
最も注目を受けている「ギタリスト」という分野に於いては、それまでペンタトニック・スケール一辺倒だったロック・ギターに、クロマチック・スケールやハーモニック・マイナーを取り入れ、クラシック曲も大胆に取り入れる等、音楽表現の拡大に寄与したとされている。ハード・ロック演奏時の使用楽器はフェンダー・ストラトキャスターが有名。ストラトキャスターには指板をえぐる(スキャロップド・フィンガーボード)、トレモロアームを交換する、ピックアップのワイアリングを換える等の改造が施されていた。ディープ・パープル初期は、ギブソン・ES-335を平行して使っていた例もあるが、バンドがハード・ロック色を明確に打ち出して以降は、ほぼ全面的にストラトキャスターを使用している。特にトレモロ・アームの使用方法は個性的と言われており、ブリッジを固定するスプリングを減らして、より多くの振幅を得るなど、様々な工夫がなされていると言われている。しかし、ディープ・パープル再結成以降から近年ではアームは殆ど使用していない。95年のYOUNG GUITAR誌でのインタビューによれば「あの頃(活動初期)はあまりアームを使うプレーヤーが少なかったが、現在は多く用いられるようになったので辞めた」と(あるインタビューでは「アームはもう土に埋めて葬り去った」とも)発言をしている。アンプはマーシャルの200Wアンプを好んで使用していたが、再結成レインボー以降ではENGLEのハイゲインアンプも気に入り、多く用いている。ピックは鼈甲製の「ホームベース型」と呼ばれる物を長年愛用している(本人は野球嫌いの為「ホームベース型」とは呼んでいない)。
作曲家としては、商業的に最も成功したとされる第2期ディープ・パープルの楽曲の殆どを中心となって作ったとされており、それら一連の功績から、ブルースとポップのセンスをほどよく持ち合わせたソングライターと評されている。
ブラックモアズ・ナイトでは、アコースティック・ギターを中心に演奏し、キャンディス・ナイトのリリカルなヴォーカルを演出する事を重視している。過去の実績に加え、もともとミュージシャンでは無かったキャンディス・ナイトの素質を見抜いた点などから、プロデューサーとしての才能を評価する者も多い。
近年はハードロックから一線を置いた活動がメインとなっているが、かつてのディープ・パーフルやレインボーの頃の様にロックの最前線でギターを奏でる彼を待ち望む声も多数存在する。
[編集] 人物
一般的には「神経質で気難しく、気に入らない事があるとすぐ癇癪を起こす」というイメージを持たれている。在籍するバンドのメンバー・チェンジが頻繁であるという事実も、このイメージを裏付けており、特にレインボーで、デビューしてすぐロニー・ジェイムス・ディオ以外の3人が解雇された時は、音楽マスコミも「さすがはリッチー・ブラックモアのなせるわざ」という揶揄を込めた論調で報道していた。
1970年代に活躍したロック・ミュージシャンの多くがそうである様に、非常に悪戯好きな人物として知られている。過去の悪戯には嫌いなマネージャーのパスポートの写真をE.T.にすり代えたり、レインボー時代にはプロモーターと揉めた挙句、プロモーターの社長をステージ上に下半身を露出した全裸の状態で吊るし上げたり、メンバーの衣装にヘアクリームを入れたり、ゴミ袋に自らの排泄物を入れ、こっそりと各メンバーの楽屋に置いたりといった「伝説」に近いエピソードも残っている。
また、次第に薄くなっていた頭髪が1978年発売のバビロンの城門の宣伝用写真撮影の頃から急激に増加。人工的な植毛説が根強いが、本人はあくまで不摂生な生活をやめた上での自然発生的なものであると主張している。
[編集] 結婚歴
1960年代前半、ハンブルグでマーギットという女性と最初に結婚している。このマーギットとの間に1964年に生まれたのが、アイアン・エンジェル (Iron Angel) のギタリストであるユルゲン・リヒャルト・ブラックモア。
2度目の結婚は1966年頃で、同じくドイツ人女性のバブス・ハーディー(本名はバーベル)。正式には結婚していないという説もあるが、下記のエイミー・ロスマンとの結婚が(本人のコメントから)3度目であると判明しているので、少なくともマーギットとエイミーとの間に、一度は結婚している事から、正式に結婚している可能性が高い。
3度目は1981年5月。エイミー・ロスマンという女性と結婚した。
ブラックモアズ・ナイトで活動をともにしているキャンディス・ナイトとは1991年から同棲していたが、2008年10月5日、キャッスル・オン・ザ・ハドソンで結婚した。
[編集] 参考文献
- 三木千寿 『リッチー・ブラックモア:狂気の雷舞』 シンコー・ミュージック、1977年。
- リッチー・ブラックモア研究会編『リッチー・ブラックモア ディープ・パープル編 / レインボー編』 シンコー・ミュージック、1993年。
- 天才ギタリストシリーズ『リッチー・ブラックモア』 シンコー・ミュージック 1998年

