リッチー・ブラックモア

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リッチー・ブラックモア
Ritchie Blackmore
2009年シカゴにて
2009年シカゴにて
基本情報
出生名 Richard Hugh Blackmore
出生 1945年4月14日(69歳)
出身地 イングランドの旗 イングランドサマセット
ジャンル ハード・ロック
ネオクラシカルメタル
ヘヴィメタル
フォーク・ロック
プログレッシヴ・ロック
ブルース・ロック
サイケデリック・ロック
職業 ミュージシャン
ギタリスト
作曲家
担当楽器 ギター
活動期間 1961年 - 現在
共同作業者 ディープ・パープル
レインボー
ブラックモアズ・ナイト
公式サイト http://www.blackmoresnight.com/

J.S.バッハ
ジミ・ヘンドリックス
ダス・ガイヤー・シュワッサー・ハウフェン

リッチー・ブラックモアRitchie Blackmore 本名:Richard Hugh Blackmore(リチャード・ヒュー・ブラックモア) ,1945年4月14日 - )は、イギリス出身のギタリストアメリカ合衆国在住。ミドル・ネームがハロルド(Harold)と表記されることも多いが、誤りである。身長179cm。

ディープ・パープルの元メンバーとして有名。その後、別のハード・ロック・バンド、レインボーを率いた。現在はフォーク・ロック・プロジェクト、ブラックモアズ・ナイトで活動している。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第55位、2011年の改訂版では第50位。

概要[編集]

1970年代はブルース・ロック全盛期にありながらロック・ギターにクラシック音楽フレーズを導入。ロックの音楽の幅を大きく押し広げ、1970年代以降のハードロックシーンに計り知れない影響を与えた。「スモーク・オン・ザ・ウォーター」、「ブラック・ナイト」、「ハイウェイ・スター」、「紫の炎」、「スピード・キング」など多くの演奏を録音。

また、ストラトキャスターの多用、ステージの最後でのギター破壊など、彼のステージパフォーマンスは、ハードロック、ヘヴィメタルにおけるギターヒーロー像として現在にも受け継がれている。

幼少時代[編集]

イングランド西部の保養地、サマセットウェストン=スーパー=メアで生まれ、ロンドン近郊ミドルセックス州ヘストンで育つ。

11歳の誕生日に、当時の価格で7ポンドスパニッシュ・ギターを父親からプレゼントされ、その後、クラシック・ギターのレッスンを約1年間受ける(自身のコメントによると、フレットを押さえる時に小指が使えるのは、その時のレッスンが生きているから)[1]

14歳の時、初めてエレクトリックギターカール・ヘフナー (Höfner)・クラブ=50を手にした彼は、人前で初めての演奏を披露した。こうしてエレクトリックギターの魅力に取り憑かれた彼は、当時近所に住んでいたギタリスト、ビッグ・ジム・サリヴァンに師事し[1]、ギターの腕前を向上させていった。

下積み時代[編集]

1960年、初のプロ・ユース・エレクトリックギター、ギブソンES335を手に入れる。その後、学校を卒業した彼はロンドンヒースロー空港で技師として働き始めるが、音楽への情熱を捨てきれず、ジャズ・ギターの練習やバンド活動にいそしんでいた。またこの頃から、スキッフル・バンドのザ・ドミネイションズザ・サフォナイツザ・デトネイターズマイク・ディーン・アンド・ザ・ジェイウォーカーズといったローカル・バンドでセッションを行っていた[1]

その後、そういった活動に見切りをつけ、ドイツのハンブルクに渡った時、スター・クラブ (Star-Club) でスクリーミング・ロード・サッチ と出会い、セッションを行った。さらに後日、リッチーを気に入ったロード・サッチは、自身のバンドであるロード・サッチ・アンド・ヒズ・サベージス に加入させた。ロード・サッチという人物は音楽的な実力よりもショーマンとしての能力に秀でていると評されているミュージシャンであり[1]、このバンドに在籍した2年間、ロード・サッチは、実力はあっても地味な印象しかなかったリッチー・ブラックモアにメイクをさせ、ステージで大きなアクションをするように要請した[2]。ロード・サッチとのセッションと平行して、テルスター (Telstar) のヒットで知られるトーネイドーズ (The Tornados) のレコーディング・セッションなどもこなし、次第に実績を蓄えていく。

1963年からは、RGMスタジオのセッション・ミュージシャンとなり、トム・ジョーンズや上記のテルスターで知られる売れっ子プロデューサーのジョー・ミーク (Joe Meek) の下で多くのセッション活動をこなした。同年、トーネイドーズのベーシストでもあった歌手ハインツ・バート (Heinz) の伴奏を務めている。6月には再度ハンブルクに行き、ジョー・ミークの関連でジ・アウトローズ(The Outlaws) に加入した。アウトローズはメインとしてレコードを出す傍ら、上記のハインツやジーン・ビンセント (Gene Vincent)の伴奏も手がけているが、1964年5月に脱退。リッチーを気に入っていたハインツの要請で、彼のバンドであるハインツ・アンド・ザ・ワイルド・ボーイズにリーダーとして加入したが、音楽的な限界を感じて翌1965年に脱退し、ロード・サッチ・アンド・ヒズ・サベージスに再加入している。ジェフ・ベックジミー・ペイジと短期間セッションを行ったのもこの頃である。

1966年、二人の友人とハンブルクに再々渡航し、スリー・マスケティアーズを結成するが、すぐに解散、さらにマンドレイク・ルートというバンドを結成するが、資金面の困難さからすぐに消滅してしまう。低迷した時期だったが、この頃クリス・カーティス (Chris Curtis) やイアン・ペイスと知り合ってもいる。

ディープ・パープル時代[編集]

1967年、当時サーチャーズ (The Searchers)でドラムスボーカルを担当していたクリス・カーティス (Chris Curtis) が発起人となり、新しいバンドを結成するためのメンバーを探し始めた。最初に候補に挙がったのがリッチー・ブラックモアとフラワー・ポットメン (The Flower Pot Men) のバック演奏を務めていたキーボード・プレイヤーのジョン・ロードである。様々な事情から計画は一度中断したが、その後、ボビー・クラーク(ドラマー)、デイヴ・カーティス(ベーシスト)を加えて、ラウンドアバウトというバンド名でとりあえず結成した。しかしやがてクリス・カーティスが辞め、ボーカルにロッド・エヴァンスが加入、さらに、その時に付いて来たイアン・ペイスがボビー・クラークを押しのけてドラマーとして加入した。こうして体制が整った時点でバンド名を「ディープ・パープル」に改め、アメリカの新興レコード会社、テトラグラマトン・レコード (Tetragrammaton Records) よりデビューを飾る(以降のバンド自体の概要/活動歴は「ディープ・パープル」を参照)。

リッチー自身は、オリジナル第一期~第三期に在籍。1975年6月に脱退。1984年、ディープ・パープルの再結成を主導。しかし他のメンバーとの音楽的嗜好の食い違いなどから1993年に再度脱退。そのため、翌年の来日公演の時はジョー・サトリアーニが代役を務めた。

レインボー時代[編集]

1975年、ボーカルのロニー・ジェイムス・ディオ及びエルフを吸収する形でレインボー(当初はRitchie Blackmore's Rainbow)を結成。当初はディープ・パープルの路線を踏襲しつつも、ブルースロックと中世的な音楽の両方を取り入れたハードロックを目指していた。セカンド・アルバムでボーカル以外のメンバーを入れ替え(特にドラマーとしてコージー・パウエルを迎え入れ)、最初の黄金時代を迎えるが、その後もメンバー交代が次々に行われた(以降のバンド自体の概要/活動歴は「レインボー」を参照)。合意形成型のディープ・パープルと違って、実質リッチーのワンマン・バンドだった。1984年に活動を休止。

1995年にはリッチー・ブラックモアズ・レインボー名義のアルバム「孤高のストレンジャー」をリリースしているが、以前のメンバーはほとんど含まれなかった(ツアー・メンバーとして元メンバーのドラマーであるチャック・バーギが参加したのみ)。1997年にレインボーは活動を停止。

ブラックモアズ・ナイト[編集]

1997年、婚約者兼ボーカルのキャンディス・ナイトと共にブラックモアズ・ナイトを結成(その後結婚。リッチーにとっては4度目の結婚となる。下記参照)。 イギリス中世の音楽を現代風にアレンジした音楽である。 

リリースしたアルバムのいくつかがロシア、ドイツ、チェコでゴールドディスクを獲得している。アメリカ・イギリスでは殆どヒットしていないがニューエイジ賞やニューエイジ部門のベストボーカル賞などを獲得している。日本ではファーストアルバムが10万枚近く売れたが、その後のアルバム販売枚数はリリースする毎に激減した[3]

現在までライブ録音を含め9枚のアルバムを発表している。

音楽性[編集]

それまでペンタトニック・スケール一辺倒だったロック・ギターに、クロマチック・スケールやハーモニック・マイナーを取り入れ、クラシック曲も大胆に取り入れる等、音楽表現の拡大に寄与したとされている。 作曲家としては、商業的に最も成功したとされる第2期ディープ・パープルの楽曲の多くを中心となって作ったとされている。

プロとしてプレイし始めた頃からDeep Purple第一期にかけては、ジムサリバンの影響が色濃く残っていたが、ブルース・ブレイカーズ~クリームでのエリック・クラプトンに影響を受け、ブルースロック的なテクニック、ベンディングや大きなヴィヴラートを自らのプレイに取り入れている(ハンドヴィヴラートはリッチー本人がクラプトンから直接習ったが、習得するのに数年かかったと語っている)。こうしてイン・ロック以降のスタイルを確立した。

使用機材[編集]

ハード・ロック演奏時の使用楽器はフェンダー・ストラトキャスターが有名。ストラトキャスターには指板をえぐる(スキャロップド・フィンガーボード)、トレモロアームを交換する、ピックアップのワイアリングを換えるなどの改造が施されていた。

ディープ・パープル初期は、ギブソン・ES-335を平行して使っていた例もあるが、バンドがハード・ロック色を明確に打ち出して以降は、ほぼ全面的にストラトキャスターを使用している。ディープ・パープル再結成以降から近年ではアームはほとんど使用していない。95年のYOUNG GUITAR誌でのインタビューによれば「あの頃(活動初期)はあまりアームを使うプレーヤーが少なかったが、現在は多く用いられるようになったので止めた」と発言している。アンプはマーシャルの200Wアンプを好んで使用していたが、再結成レインボー以降ではENGLのハイゲインアンプも気に入り、多く用いている。ピックは鼈甲製の「ホームベース型」と呼ばれる物を長年愛用している。

ブラックモアズ・ナイトでは、アコースティック・ギターを中心に演奏している。

結婚歴[編集]

1960年代前半、ドイツのハンブルクでマーギットという女性と最初に結婚している。このマーギットとの間に1964年に生まれたのが、一時期アイアン・エンジェル (Iron Angel) のギタリストであったユルゲン・リヒャルト・ブラックモア。ユルゲンは現在、元レインボーのジョー・リン・ターナーなどと結成した新バンド「オーヴァー・ザ・レインボー」(Over the Rainbow)で活動している[4]

2度目の結婚は1969年9月で、同じくドイツ人女性のバブス・ハーディー(本名はバーベル)[5]

3度目の結婚は1981年5月で、エイミー・ロスマンという女性と結婚した[6]

ブラックモアズ・ナイトで活動をともにしているキャンディス・ナイトとは1989年から付き合い始め、1991年から同棲していたが、1994年に婚約し[7]、2008年10月5日、キャッスル・オン・ザ・ハドソンで結婚した[8]。この26歳も年下の相手との間に、2010年生まれた娘がオータム・エスメラルダ・ブラックモア。

参考文献[編集]

  • 三木千寿 (1977年). リッチー・ブラックモア:狂気の雷舞. シンコー・ミュージック. 
  • リッチー・ブラックモア研究会, ed (1993年). 『リッチー・ブラックモア ディープ・パープル編 / レインボー編』. シンコー・ミュージック. 
  • 天才ギタリストシリーズ『リッチー・ブラックモア』. シンコー・ミュージック. (1998年). 

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 三木千寿 『リッチー・ブラックモア:狂気の雷舞』より。
  2. ^ 『リッチー・ブラックモア:狂気の雷舞』によれば、この経験は、その後のショーマンとしてのリッチー・ブラックモアの形成に大きく貢献している。
  3. ^ 酒井康 (2003-06-04), Ghost of a Roseの日本語版ライナーノーツ, ヤマハミュージック, p. 5 
  4. ^ BIO”. Official Site of J.R.Blackmore. 2010年7月15日閲覧。
  5. ^ Events 1969”. Sixties City. 2010年5月24日閲覧。
  6. ^ DPAS Magazine Archive. Darker Than Blue, 1981”. 2010年5月24日閲覧。
  7. ^ Between Us”. Candice Night Official Website (2006年7月). 2010年5月24日閲覧。
  8. ^ “RITCHIE BLACKMORE, Longtime Girlfriend CANDICE NIGHT Tie The Knot”. Blabbermouth.net. (2008年10月13日). http://www.roadrunnerrecords.com/blabbermouth.net/news.aspx?mode=Article&newsitemID=106777 2010年5月24日閲覧。 

外部リンク[編集]