フィル・ライノット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| フィル・ライノット | |
|---|---|
フィル・ライノット(1980年、オスロ)
|
|
| 基本情報 | |
| 出生名 | Phil Lynott |
| 出生 | 1949年8月20日 |
| 出身地 | |
| 死没 | 1986年1月4日(満36歳没) |
| ジャンル | ハードロック ヘヴィ・メタル |
| 職業 | ボーカリスト ベーシスト ソングライター プロデューサー |
| 担当楽器 | ボーカル ベース |
| 活動期間 | 1980年-1986年(ソロ活動) |
| 共同作業者 | シン・リジィ グリーディーズ スキッド・ロウ グランドスラム ゲイリー・ムーア |
| 著名使用楽器 | |
| リッケンバッカー フェンダー・プレシジョンベース |
|
フィル・ライノット(Philip Paris Lynott、1949年8月20日 - 1986年1月4日)は、アイルランドのロック・シンガー、ベーシスト、詩人。
その功績に敬意をこめて"ザ・ロッカー" (The Rocker) と呼ばれる、ロック・ミュージック・シーンの立役者。 かつて日本語では『フィル・リノット』と表記されていたが、近年は『ライノット』でほぼ統一されたため、本稿もそれに従う。
目次 |
[編集] 経歴
母が折からのアイルランドの不況のため出稼ぎに出なくてはならなくなり、ライノットは生まれてすぐマンチェスターにある祖母の家に預けられ、学齢期にダブリンに移るまでそこで過ごす。幼いころのライノットは、映画館で上映されていた西部劇と、エルヴィス・プレスリーの音楽の虜となった。このことは後の音楽活動に多大なる影響を与える。
学業を終えると本格的な音楽活動の道に進み、ブラック・イーグルスを経て、当時アイルランドで最も先進的なロックを演奏していたとされるスキッド・ロウに加入。ここでベースの奏法を習得し、以後ライノットの演奏スタイルが確立される。
スキッド・ロウ脱退後はポエトリー・リーディングの会を開きながら音楽に携わる。当時のアイルランドの流行にあわせアコースティックなサウンドにアプローチしたが(これはシン・リジィ初期まで続く)、幼いころからロック志向を持っていたライノットにとっては本意ではなかったという。
1969年に高校時代の友人ブライアン・ダウニーらとシン・リジィ (Thin Lizzy) を結成し、中心メンバーとして活躍した。この時期の活動についてはシン・リジィの項を参照。
1983年にグループ解散後、新バンド「グランド・スラム」を結成したが不調に終わり、ソロ活動やゲイリー・ムーアとのコラボレーションを行っていたが、1986年にヘロイン注射に伴う内臓の感染症、敗血症により急死。36歳。
[編集] ソロ活動の概要
ソロ・キャリアとしてはシン・リジィ在籍時に作った2枚のソロ・アルバムと、バンド解散後の1985年9月にポール・ハードキャッスルのプロデュースによりリリースしたシングル『19』がある。また共作としては、1983年ロイ・ウッドらとのユニットTHE ROCKERS名義によるシングル『We Are The Boys (Who Make All The Noise)』や、長年の友人だったギタリスト、ゲイリー・ムーアとのダブル・ネームGary Moore-Philip Lynott名義による共作『Out In The Field』があり、後者は英国チャートで最高位5位のヒットとなった。またソロ・アルバムの作品"Yellow Pearl"(ミッヂ・ユーロとの共作)がBBCの音楽番組Top of the Popsのテーマ曲として採用された。
また、1979年にはゲイリー・ムーアのソロ・アルバム『バック・オン・ザ・ストリート』の制作に携わり、最高位8位のシングル・ヒットとなった名曲『パリの散歩道』の作詞を手がける。
音楽家、ロッカーである一面の他に、センチメンタルな感情を書き綴った詩集を3作出版している。2006年現在、旧友の詩人スマイリー・ボルガーによるフィルの詩集のポエトリー・リーディング集会Vibes For Philoが継続して行われている。
2005年、1982年のソロ作品におさめられた『Old Town』がアイルランドのポップ・ケルト・ミュージック・グループ、コアーズによりカバーされて再評価された(英国最高位68位)。同年、彼の生涯の功績を記念してアイルランド・ダブリンに銅像が建てられ、8月20日に彼の母を迎えて除幕式が行われた。
[編集] 人となり
シン・リジィを率いて全英で人気を博す中、U2を発掘するなどアイルランドの若手ミュージシャン育成にも力を注ぎ、またイングランドのグレアム・パーカー&ルーモアやアメリカのヒューイ・ルイスのクローヴァーなど実力のある若手を前座に招くなど、彼ら若手に対する音楽的なバック・アップを怠らなかった。もちろんシン・リジィとしてもジョン・サイクスの登用など業績は大きい。「アイルランドの英雄」と呼ばれ続ける存在となったゆえんである。
その他にも、幅広いミュージシャンと交友関係があった。ジョニー・サンダースの『ソー・アローン』(1978年)に、ベースとヴォーカルでゲスト参加。また、自分のソロ・アルバム『Solo In Soho』ではマーク・ノップラーとも共演している。
反面、ドラッグ・アルコールへの依存症や豊富な女性関係など、悪い意味で1970年代の典型的なロック・ミュージシャンでもあった。シン・リジィの度重なるメンバー交代も、他のメンバーがそのようなライフスタイルについていけないことから起こることがしばしばあったという。しかしそうして去ったメンバーたちも、人間としてのフィルを嫌うことはあまりなく、むしろ慕い続けていた。それぞれのインタビューや、シン・リジィの解散最終公演(ライブ盤"LIFE"として聴くことができる)に歴代のギタリストが全員集合してステージに上がった事実からもこれは明らかである。
ソング・ライティングの部分では歌詞のテーマとメロディセンスに長けており、シン・リジィでのカウボーイ・ソングやヒーローをイメージした曲などはジョン・ボン・ジョヴィに多大なる影響を与えている。
[編集] トリヴィア
- マンチェスター・ユナイテッドFC.の狂信的なサポーター。シン・リジィの叙事詩とも言える曲『ブラック・ローズ』には、同チームに属していた大スターであり『アイルランドの同胞』でもあるジョージ・ベストの名が、英雄の一人として登場している。
- 1973年、ディープ・パープルのリッチー・ブラックモアの主導で、フリーのポール・ロジャースとフィルによるグループの結成の話があった。しかしポールはこの話も、ディープ・パープル加入の誘いも断って自らのバンドバッド・カンパニーを結成する。
- ゲイリー・ムーアの代表曲として今でも必ずライブで取り上げられる『パリの散歩道 (Parisienne Walkway)』。歌詞の冒頭は"I remember Paris - in 49"(1949年のパリを覚えているよ…)で始まるが、これは父親に宛てたメッセージである。フィルの父親はブラジル系黒人の軍人であり、アイルランド駐屯中に母親と出会う。その父の名がパリスであったという。1949年にフィルは生まれるが、父親は彼の顔を見ることなく帰国。そしてこの切ないメッセージにもかかわらず、フィルは父と会うことはできなかった。
- コカインの依存症でもあったが、鼻からの吸引が過度であったために鼻骨が崩れ、プラスチックを入れる整形手術を受けていた。独特の鼻にかかった甘い歌声はドラッグの副産物だった。
[編集] ディスコグラフィー
- 1980年 Solo In Soho
- 1982年 The Philip Lynott Album

