オスカー・ワイルド

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オスカー・ワイルド
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オスカー・フィンガル・オフレアティ・ウィルズ・ワイルドOscar Fingal O’Flaherty Wills Wilde, 1854年10月16日 - 1900年11月30日)は、アイルランド出身の作家劇作家ヴィクトリア朝時代のイギリス文学作家の1人である。代表作に戯曲『サロメ』、『真面目が肝心』、小説では『幸福な王子』、『ドリアン・グレイの肖像』がある。

目次

[編集] 生涯

ダブリンプロテスタントのアングロ・アイリッシュの家庭に生まれる。父ウィリアム・ワイルドWilliam Wilde)は外科医で著述家、母親ジェイン・フランセスカ・エルジーJane Wilde)は詩人。

母はしばしばサロンを開き、作家のシェリダン・レ・ファニュなどを招いたという。父方の祖先コロネル・デ・ヴィルデはオランダ人で、高名な画家ヤン・デ・ヴィルデの息子だったが、ウィリアム3世に従って17世紀イングランドへ移住した。1690年7月1日ドローエダの戦いに勲功を立てて、コノートに土地を賜り、「デ・ヴィルデ」から「ワイルド」に改姓してアイルランド女性を娶り、アイルランドに帰化した人物である[1]

1871年から1874年までダブリン大学のトリニティ・カレッジで学び、とりわけ古典ギリシア語に才能を発揮する。卒論は『ギリシア喜劇詩の断章』。奨学金を得て1874年から1878年まではオックスフォードのモードリン・カレッジで学ぶ。

マグダレン・カレッジ卒業後にダブリンに戻り、女優のフローレンス・アン・レモン・バルコムと恋に落ちる。しかし彼女はブラム・ストーカーと婚約し、傷心のワイルドはダブリンを離れ、以後ほとんど戻らなかった。

福田恒存による岩波文庫版『サロメ』の訳者解説によると、ワイルドが国際的名声を最初に得たのは、本人の著作物によってではなかった。彼の唯美主義的活動を題材にした「ペイシェンス」という他人の筆による芝居がアメリカで話題を呼び、これがアメリカ講演招待のきっかけになった、ワイルドはロンドンパリアメリカなどで文学講演会を開催する。1884年5月、ロンドンで政治家の令嬢コンスタンス・ロイドと結婚。彼女との間に、2男をもうけた。

1881年に初めての詩集を出版。1888年童話幸福な王子』を出版。1890年に唯一の長編小説『ドリアン・グレイの肖像』をアメリカの雑誌に発表。翌年に加筆して単行本化。この頃パリに滞在して、フランス語で戯曲『サロメ』を書くがイギリスでは上演許可が下りなかった。その後、四大喜劇『ウィンダミア卿夫人の扇』(1892年)、『つまらない女』(1893年)、『理想の夫』『真面目が肝心』(1895年)で劇作家としての成功を収める。

1895年、人気作家としての絶頂期に、第9代クィンズベリー侯爵(近代ボクシングのルールに名を残すことで知られる)の三男で、『サロメ』の英訳者でもあるアルフレッド・ダグラス卿(愛称ボジー)との同性愛がきっかけとなり、4月5日、男性同士間における性行為の罪で逮捕された。5月25日に重労働2年の有罪判決を受け、ホロウェイ刑務所からペントンヴィル刑務所、ワンズワース刑務所、レディング刑務所にて服役。この間、11月12日、破産宣告を受ける。妻コンスタンスと息子たちはスキャンダルによる影響から姓をホランド(Holland)と変え、ワイルドの妻子であることを世間から隠そうとした。

1897年5月19日に刑期を終えて出所、ただちに渡仏。5月28日、『デイリー・クロニクル』紙に『マーティン看守事件、獄中の残虐行為』と題する論文を発表し、当時のイギリス刑務所制度を批判。続いて1898年2月13日、長編詩『レディング監獄のバラード』をC.3.3.という自らの囚人番号で発表して反響を呼んだほかは、特筆に値する作品は書けなかった。過酷な刑務所生活で創作意欲を喪失してしまったためといわれる。

1898年、妻コンスタンスが手術中に急死。ジェノヴァに葬られた。長男シリルは第一次世界大戦に従軍し戦死。次男ヴィヴィアンは作家・翻訳家として活躍した。

ワイルドは晩年をセバスチャン・メルモスという変名で過ごし、貧困のうちにパリで死亡した。死後、1905年2月に『獄中記』(一部削除版)が刊行されたことをきっかけとして再評価が進み、1908年には13巻から成る全集がメシューン社から刊行された。

なおワイルドの生涯は映画『オスカー・ワイルド』(1997年公開)で細かく描かれている。

[編集] 墓碑

ワイルドの墓はパリのペール・ラシェーズ墓地にあるが、アメリカ生まれのイギリスの彫刻家ジェイコブ・エプスタイン1912年に作成した墓碑の彫刻に男性器が彫られていたため、当時すでに時代遅れとなっていた法律(フランス革命暦1年=1793年作成)に基づき「墓碑の彫刻では股間をイチジクの葉で隠さなければならない。この彫刻は墓地の外に置く分には何ら法的拘束を伴うものではないが、墓地内に置くことは改修しない限りまかりならぬ」との司法判断を受けた。これに対しエプスタインやコンスタンティン・ブランクーシなどが反発し、ついに何ら改修を受けずそのまま設置の許可を取り付けたが、それまで彫刻を含む墓碑銘は覆い隠されていたという。[2]

[編集] 著作リスト

『オスカー・ワイルド全集』全5巻:西村孝次訳、青土社で刊行

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小説

[編集] 短編小説

  • カンタヴィルの亡霊 (the Canterville Ghost, 1887)
  • アーサー・サヴィル卿の犯罪 (Lord Arthur Savile’s Crime, 1887)
  • 謎のないスフィンクス (The Sphinx Without a Secret, 1887)
福田恒存福田逸訳で、中公文庫ほか 

[編集] 童話

[編集] 長編小説

邦訳は刊行順に「西村孝次、岩波文庫ほか」 「平井正穂、筑摩書房」 「福田恒存新潮文庫ほか」 「富士川義之講談社」 「仁木めぐみ、光文社古典新訳文庫」がある。

戯曲

[編集] 喜劇

[編集] 悲劇

[編集] 評論

[編集] 映画化作品

[編集] 日本の文豪とワイルド

[編集] 語録

  • 芸術自然を模倣するのではない。自然が芸術を模倣するのだ。
  • 批評の最高にして最低の形態は自叙伝形式にほかならぬ。(ドリアン・グレイの肖像・序文)
  • 誰でも歴史を作れるが、それを記述できるのは天才だけ(Any fool can make history, but it takes a genius to write it.)。
  • 男と女の間に友情はあり得ない。 情熱、敵意、崇拝、恋愛はある。しかし友情はない。

[編集] 脚注

  1. ^ 平井博『オスカー・ワイルドの生涯』松柏社、1960年、3ページに拠る
  2. ^ ブランクーシ 中原佑介 著、美術出版社 ISBN 4-568-20116-0

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキクォート
ウィキクォートオスカー・ワイルドに関する引用句集があります。
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