西部劇

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大列車強盗』より

西部劇(せいぶげき)とは Western(ウェスタン)の訳語であり、主にアメリカ西部開拓時代19世紀、特に後半の1860年代から1890年代にかけて)を舞台にした小説映画であるが、特に断らない場合は映画(テレビ映画を含む)を指す。日本で言えば、時代劇に相当する。19世紀後半の未開地西部を舞台に英雄である白人が悪者である先住民と対決するというプロットが、他者を排除して領土を拡大するという白人的開拓精神と合致し[1]、大きな人気を得た。

アメリカ製西部劇[編集]

西部劇映画の原型となったバッファロー・ビル主宰の見世物『野生の西部ショー』。カウボーイとインディアンの捕り物や曲芸を演目とし、欧米を巡業して人気を博した。写真は1890年の巡業の際のもの

サイレント映画の登場とともに、アクションを売り物に盛んに製作された。その後、トーキーが普及するとジョン・フォード監督の『駅馬車』など、アクション映画としての「傑作」と呼ばれる作品が次々と発表された。基本的に主人公は白人で、馬による追跡劇が盛り込まれ、「勧善懲悪」をストーリーの骨子とし、騎兵隊を「善役」、インディアン民族を「悪役」としたものが多い。

実在した保安官(代表例として、ワイアット・アープがあげられる)やガンマンを題材にして、(白人の側から見た)アメリカの大自然と開拓魂を背景に詩情豊かに描かれる西部劇は多くの人々を魅了し、アメリカ白人は西部開拓時代へのノスタルジーを掻き立てられた。劇中で描かれた白人とインディアンとの戦いには史実も多いが、戦いの原因(土地の領有権)に触れたものはほとんどない。

戦後はテレビ映画にも進出し、1960年代初頭まで隆盛を誇り、同時期に日本にも『ローハイド』『ララミー牧場』など多くの作品が輸入され、当時のテレビ番組の主力として高い人気を博していた。

娯楽映画の定番だった「西部劇」だが、1960年代に入ると、人権意識の高揚とともにインディアン黒人の描き方が糾弾されるようになって露骨な「勧善懲悪」な作劇は控えられるようになり、「異民族間の衝突」をテーマにしたものが増えていった[2]。きっかけとなったのは1950年の『折れた矢』の公開からだったが、この動きは、黒人問題を扱ったエリア・カザン監督の『ピンキー』(1949年)がヒットしたことで「人種問題が金になる」と踏んだハリウッド資本の思惑によるものだった。当時、きな臭い黒人問題よりもインディアン問題のほうが映画のネタとしては扱いやすかったのである[3]

こうして、西部劇の転換点となる『小さな巨人』と『ソルジャーブルー』が1970年に公開された。『ソルジャーブルー』は1864年のサンドクリークの虐殺を基に、インディアンを同情的に描いた(と同時に白人兵も同情的に描いた)数少ない作品の一つである。

現在においても西部劇は制作されているが、アクション作品としては過去作品と肩を並べるような傑作を世に送り出していない。黒人やインディアンの描写は、腫れ物にでも触るような扱いとなっている。その一方で、時代考証や衣装設定、ガン・アクションは過去の作品とは比較できないほどの正確さで表現されており、『トゥームストーン』のような娯楽性に富んだアクション映画も作られている。

インディアンとハリウッド西部劇[編集]

最初期の西部劇『スコウマン』(1913年)。インディアン女性[4]と結婚した白人を描く。

最初期の西部劇映画は、インディアンをヒーローとして扱ったものもあった。が、西部劇がアクション中心の娯楽作劇に移行すると同時に、インディアンは「フロンティア」を害する悪役となっていった。

西部劇は、インディアンのイメージを決定付けた。劇中に登場するインディアン達は、決まって馬にまたがって派手な羽飾りをつけ、手斧を振り回し、「アワワワワ」と鬨(とき)の声を挙げて襲ってくる。このうち、馬にまたがり、羽飾りをつけること以外は出鱈目なものである。彼らの衣装も、撮影所のデザイナーが考えたものであり、またそのほとんどが、非インディアンである白人たちが演じており、資料的価値は皆無である。

また、西部劇映画には「号令一下、全インディアン戦士を従わせる大酋長(Grand Chief)や戦争酋長(War chief)」が登場するが、これはインディアン文化に対する白人の誤解から生まれたものである。基本的にインディアンの社会は合議制民主主義社会であり、このような絶対権力者は存在しない[5]。「大酋長」も「戦争酋長」もまったくのフィクションであり、現実には存在しない西部劇映画の中のキャラクターなのにも関わらず、これが全世界で公開されることで、「酋長は部族長である」といった、誤ったインディアンのステレオタイプをさらに広めることとなってしまった。

平原の部族の風俗である羽飾りをつけ、無表情に片言の英語を喋るこのステレオタイプは、その後世界中の人々が「インディアン」と聞いて真っ先に頭に思い浮かぶイメージとなった。ラジオやTVのシリーズ『ローン・レンジャー』に出てくる、主人公の相棒であるインディアンの「トント」は、インディアンの間では「白人にへつらうインディアン」の代名詞となっている。

だが1960年ジョン・F・ケネディが大統領に就任し人種問題(肌の色による差別撤廃)が唱えられると従来の製作コードが通用しなくなり製作本数も激減し徐々に衰退。更にハリウッドにおけるステレオタイプな西部劇の息の根をほぼ止めたのはアポロ月面着陸と銃器類による野蛮な殺し合いは過去の遺物という風潮から、ワイルドバンチ勇気ある追跡明日に向って撃てウェスタンレッド・ムーンそしてカリフォルニア大学ロサンゼルス校在学中にロケに同行を許可されたジョージ・ルーカスがメイキングを撮ったマッケンナの黄金でほぼ燃え尽きた。

西部劇の衰退は戦後時代劇スター第一人者である市川雷蔵の死と共に日本映画の象徴であった時代劇が一気に衰退したのと偶然にも重なる。

日本では昭和46年(1971年)に銃砲刀剣類所持等取締法改正法(通称“46年規制”)によってモデルガン規制が強化され、観客の西部劇離れに一層拍車をかけた。

尚、それまで2本の主演西部劇が不評だったマーロン・ブランドは、インディアン権利団体「アメリカインディアン運動」(AIM)に賛同し、同団体設立当初から助言と運動をともにしていたが、1973年に映画『ゴッド・ファーザー』でアカデミー賞を受賞した際、授賞式に「インディアン女性」を代理出席させ、ハリウッド西部劇において、いかにインディアンが理不尽な扱いを受けているかメッセージを代読させた。しかも、この「インディアン女性」は実は非インディアンのフィリピン系女性だった。(彼女は俳優組合から名前を抹消される処分を受けた)これ自体が上記のようなデタラメな白人が演じるインディアンのパロディーであり、ハリウッドに対するブランドが一矢報いたのだが、この行為によって彼は自らの輝かしいキャリアに泥を塗る失態を犯し映画界での信頼を失った。

映画俳優でAIMの運動家でスポークスマンをも務めるラッセル・ミーンズはハリウッド映画についてのインタビューに答え、こう述べている。

ハリウッドが映画の中でインディアンの人々に求める姿として、私たちは、2種類の姿でいさえすればよいのです。私たちは夏の間、革服で盛装します。あるいは、我々は『スキンズ』(2002年)だとか、『スモーク・シグナルズ』(1998年)のような映画のように、酔っぱらいの社会不適格者でないといけないのです[6]

1940年代のある土曜日の午後に、私は弟のデイスと二人でカリフォルニアのバレーホにあるエスクァイア映画劇場へ映画を観に行ったことがあります。その映画にはカウボーイとインディアンが出てきて、満場の観客たちが大喝采する中、進軍ラッパが鳴り響き、騎兵隊が撃ちまくり、否も応もなしにインディアンがぶち殺されるんです。デイスは、とても見ていられない様子でした。 彼は、顔を手で覆っていました。あなたが8歳か9歳だった頃、私たちはそんなふうだったんです。あなたは多分、今度の映画(『ラスト・オブ・モヒカン』)はそれと違ってインディアンが勝つかもしれないなと思うでしょうね。まあそれからその後で、私たちは映画館を出るわけです。

それから、これはホントの話なんですが、そのあと私たち兄弟は、メキシコ人とかフィリピン人、中国人や黒人に対して、ちょうど映画の中でインディアンが白人と戦うのと同じようにして、背中合わせに戦わなければなりませんでした。こういう近所の子供たち全員が、私たちに言うわけです。「おいインディアン、思いっきりケツひっぱたいてやるぞ!」とね[7]

マカロニ・ウェスタンと諸外国の西部劇映画[編集]

セルジオ・レオーネがスペインのアルメリアに作った西部劇映画のセット(1960年代)

西部劇はドイツイタリアなどでも制作された。特にイタリア製西部劇映画(「スパゲティ・ウェスタン」が正称だが、日本では語感と呼びやすさを重視して「マカロニ・ウェスタン」と改められた)は、1965年の『荒野の用心棒』が大ヒットすると、アメリカでの仕事が減少していた中堅の西部劇スターが大挙して出演し、盛んにマカロニ・ウェスタンが制作され、一時的に大ブームを引き起こした。しかし、ブームに便乗しただけの駄作も多く、客の支持を失い衰退に向かった。

だがエンニオ・モリコーネはその後映画音楽の流れを変え、クリント・イーストウッドの全篇を通した無精髭は本家ハリウッド男優が多々真似る事態を引き起こしたのは否定できない事実である。

マカロニ・ウェスタンはアクションと残酷シーンを売り物に、史実を無視した自由な発想で製作されており、ロケ先は主に(アメリカのアリゾナやカリフォルニアに比べて)経費が格安なスペインで行われ、メキシコのデュランゴによく似た荒涼とした砂漠地帯を選んだ。

尚、本家ハリウッドも観光化の影響かアリゾナの滞在費が高騰化したり馬のレンタル料も高くなって行ったのでメキシコのデュランゴがロケ地に択ばれるようになった。

日本で西部劇を模して制作された小林旭主演の『渡り鳥』シリーズなどの無国籍映画は、マカロニ・ウェスタンに対して鍋焼きウェスタンと呼ばれた(誰が言い出したのかは未詳)。

シングルアクションリボルバー[編集]

虐殺の小道具として劇中多用されたガトリング砲

ガンマンが題材となることの多い西部劇には、正確な考証に基づくものから近現代の銃器を手直ししてそれらしく見せかけたものまで、様々の銃器が小道具として登場した。中でも象徴的なのが「ピースメーカー」(コルト・シングル・アクション・アーミー、SAA)や、コルトM1851のようなシングルアクションリボルバーの拳銃である。

腰のベルト付きホルスターにシングルアクションの回転式拳銃を収めたカウボーイスタイルは、映画に登場する西部ガンマンの定番であった。日本においても、西部劇人気の高まりと共にSAAのようなシングルアクション拳銃の知名度は上昇し、多くのメーカーからトイガン製品が販売された。

この時代のシングルアクション拳銃には様々なバリエーションが存在するが、特にマカロニ・ウェスタンにおいて、主役は5.5インチの金属薬莢式、悪役のボスは7.5インチなどの長銃身で大型、その他大勢は4.75インチの金属薬莢式拳銃や、パーカッション式リボルバーという具合に、持ち主の役どころにより銃の種類が決められている場合が多かった。

目にも止まらぬ抜き撃ち連射、華麗なスピンといったガンプレイに習熟することが主演スターには要求され、ゲイリー・クーパー平原児(1936)でセシル・B・デミルと話し合った結果、二丁拳銃の抜き撃ちを二週間猛練習し、名場面を作りあげた。

映画の色彩化が浸透し更に横長画面=大型化が始まった1950年代中期以降は朝鮮戦争の帰還兵士=レッド・ロッドウィングが銃器類の取り扱い指導者になり多くのスターに拳銃の技を伝授した。

引き金を引いたままで拳銃を抜き、撃鉄をもう一方の手で連打することで高速に連射する「ファニング」と呼ばれるテクニックは、荒野の決闘で名傍役ワード・ボンドが初めて披露した苦肉の技である。

なお、代表的な西部劇のスターであるジョン・ウェインは六連発コルト拳銃によるガンプレイが実は巧かった(「捜索者」でその片鱗を披露している)が大柄(やや太めのウェスト)過ぎて似合わないのでジョン・フォード監督のアドバイスでウィンチェスター銃(ライフル)を愛用したと伝えられる。

監督[編集]

ジョン・フォード監督が好んでロケ地に用いたアリゾナの「モニュメントバレー」

俳優[編集]

ハリウッドにある米国パラマウント社の西部劇セット

映画[編集]

無声時代の西部劇スターウィリアム・ハート。(『ガンファイター』(1917年)より)

ハリウッド製西部劇の代表的なものには次のようなものがある。

ハリウッド以外の西部劇映画には次のようなものがある。

テレビ西部劇(日本での放送)[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『アメリカ文化入門』杉野健太郎編 三修社p36
  2. ^ ちょうど公民権運動が高揚した当時
  3. ^ 『インディアンの声を聞け』(ワールドフォトプレス社)特集記事「映画の中のアメリカインディアン」
  4. ^ 「スコウ」はインディアン女性のことだが、現在は蔑称としてインディアン団体から強い抗議を受けている単語である
  5. ^ 『Crazy Horse』(Larry Mcmurtry著、Penguin LIVES)
  6. ^ ラッセル・ミーンズの公式サイト『Russell Means Freedom』でのインタビュー記事“Russell Means Interview with Dan Skye of High Times”(2009年5月20日)より
  7. ^ Entertainment Weekly』誌でのインタビュー記事“Acting Against Racism”(1995年10月23日)より

関連項目[編集]

外部リンク[編集]