ジミー・ペイジ
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| ジミー・ペイジ | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 出生名 | James Patrick Page |
| 出生日 | 1944年1月9日(64歳) イングランド、西ロンドン |
| ジャンル | ロック |
| 活動期間 | 1957年〜現在 |
| レーベル | EMI エピック・レコード |
| 共同作業者 | ヤードバーズ レッド・ツェッペリン ハニードリッパーズ ザ・ファーム カヴァーデイル・ペイジ ペイジ・プラント |
| 公式サイト | www.jimmypageonline.com |
| 著名使用楽器 | |
| ギブソン・レスポール ギブソン・EDS-1275 フェンダー・テレキャスター ダンエレクトロ テルミン |
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ジェームス・パトリック・"ジミー"・ペイジ OBE(Jimmy Page, 本名James Patrick Page OBE 1944年1月9日 - )は、イギリスのロックギタリスト、作曲家、プロデューサー。エリック・クラプトン、ジェフ・ベックとともに3大ギタリストと呼ばれる。 当時の音楽ジャーナリズムからは「1970年代のパガニーニ」と形容され、世界で最も成功したロックバンドの一つであるレッド・ツェッペリンのリード・ギタリスト兼リーダー。レコード、ステージなど全般のプロデュースも担当した。イングランドロンドン出身。 ローリング・ストーン誌の2003年8月号のカバーストーリー「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」に於いて第9位[1]。
目次 |
[編集] 活動及びキャリア
[編集] アート・スクール、セッションマン時代
1963年頃からアートスクールとの二足の草鞋でセッション・ギタリストとして活躍、数々のレコードに参加する。当初は「クルセイダーズ」などにも参加し、パーマネントなバンドでの活動を志望していたが、体調不良から断念することになる。セッションマン時代は主に師匠格のビッグ・ジム・サリヴァンと行動を共にしており、ビッグ・ジムに対して「リトル・ジム」の愛称で親しまれていた。余談だが、サリヴァンは『レッド・ツェッペリン III』以前のペイジに対しては「ファッション・リーダーとしてのギタリスト」としての評価しかしていなかったが、「天国への階段」を聴いた際に「やっと自分の音楽を見つけたな」と心からの賛辞を送ったという。
ペイジは後にアートスクールを退学、プロのセッションギタリストを志向するようになる。以下にセッションマン時代の主な活動を記す。
- 1969年のジョー・コッカーのデビュー盤でのハイライト曲「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・マイ・フレンズ」は同年のウッド・ストック・フェスティバルでのパフォーマンスが有名だが、元のビートルズ作品を3拍子のゴスペル調にアレンジしなおしたのはジミー・ペイジであり、イントロでの印象的なディストーションの効いたダブル・チョーキングも含めて、コッカーのデビュー盤ではペイジが全編を弾いている。
- ニコの1965年のシングル「I'm Not Sayin'」をプロデュース。
- 1966年にデビューしたフランスのミッシェル・ポルナレフのレコードにも参加。
- ザ・フーの数曲(「アイ・キャント・エクスプレイン」「ボールド・ヘッディド・ウーマン」など)に参加。
この他にもキンクスの「ユー・リアリー・ガット・ミー」のディストーションの効いたリフが彼のプレイという説もあり長らくファンの間で信じられてきたが、ペイジ自身が1970年代に「トラウザー・プレス」誌のインタヴューでこれを否定している。
当時は演者側、セッションマン側、プロデューサー側それぞれに守秘義務があり、ペイジ自身も自分のどのプレイがどこで使用されているのか知らされないことも多かったと発言している。また、プロデューサー側も保険をかける意味でセッションマンを雇うときもあり、演奏したものが一切使用されなかったことも度々あったという。
ソロ・デビューは1965年。フォンタナ・レコードからシングル「シー・ジャスト・サティスファイズ/キープ・ムーヴィン」をリリース。また、この前後、エリック・クラプトンとのツインギターによる非公式セッションの様子を録音したブルースナンバーもリリースし、クラプトンの顰蹙を買っている。この件に関してペイジは、レコード会社が勝手にやったと主張している。
[編集] ヤードバーズ
クラプトン脱退後のヤードバーズへの参加を要請されるもののこれを辞去し、以前からの知り合いであるジェフ・ベックを推薦する。ところがその後ベースのポール・サミュエル・スミスが脱退し、後の1966年6月にヤードバーズにベーシストとしての加入。その後ベックが扁桃腺炎で療養に入ったため、ベックの代役でギターパートへ転向。ベック快気後は彼とのツインリード・ギターのスタイルがバンドの売りとなった。その後「トレイン・ケプト・ア・ローリン(ストロール・オン)」、「幻の十年」、「アイム・コンフューズド(後の『幻惑されて(原題Dazed and confused)』)」などの名曲を残すが、後にジェフ・ベックが脱退、更にメンバーの音楽性の違いによる不仲からヤードバーズ自身も1968年に空中分解、解散状態となる。ペイジのヤードバーズ加入の直接の動機はとにかくスタジオから抜け出て、ライブ演奏をしたいということだったらしい。その熱意たるや、周囲のバンドマンたちが「もしヤードバーズがドラマーを募集していたらジミーは叩いたんじゃないかな。ベーシストでもなんでも良かったのだろう。とにかくセッションの仕事は嫌気がさしていたようだ。」と証言していたらしいことからも明らかだ。
[編集] レッド・ツェッペリン結成
バンドの継続に意欲があり、また契約も残っていたペイジは新メンバーを集めヤードバーズとしての活動を続けようと試みた。まず、ベーシストにセッション・ミュージシャンとして親交のあり、技量も折り紙つきであったジョン・ポール・ジョーンズが決定するものの、その他のパートは順調には行かず、困難を極める。
当初ヴォーカリストには、スティーヴ・ウィンウッド、若しくはスティーヴ・マリオットを加入させようとしたのだが、共にすでに他のマネジメントと契約を結んでおりうまくいかず(ただこの二人のスカウトはこのレッド・ツェッペリンにではなく、それより以前に「キース・ムーン或いはジョン・エントィッスル考案のレッド・ツェッペリン」に対してなされたものであると言う指摘もある)、次にテリー・リードを起用しようとしたものの、彼もまた契約の壁から加入は叶わず、リードの推薦で元バンド・オブ・ジョイのロバート・プラントをヴォーカリストに決定する。ドラマーはプラントの強い勧めによりジョン・ボーナムが加入することとなった。レッド・ツェッペリンの誕生である。
当初はレコード会社との契約が残っていたので当初はニュー・ヤードバーズと名乗り活動したが、契約満了に伴って、「ヤードバーズを超えてしまった」ことから新たなバンド名として「レッド・ツェッペリン」を名乗り始める。ただ、ヤードバーズは近年再結成を果たしており、その際「ツェッペリンの前身バンド」という扱いに対して不快感を表明している。彼らによれば、ニューヤードバーズ(ツェッペリン)とヤードバーズは全く別のバンドであり、ヤードバーズは、特にクラプトンが在籍していた頃は、ツェッペリンに負けないほどのバンドであったと主張している。また、その立場から、ツェッペリンによるヤードバーズ楽曲の使用(「幻惑されて」「トレイン・ケプト・ローリン」「タンジェリン」など)はペイジによる盗作であったと表明している。
- グループ名の由来や、その他のツェッペリンの活動についてはレッド・ツェッペリンの項参照。
余談ではあるが、ツェッペリンは1971、72年に来日公演を果たしており、71年の広島公演に際してメンバーは広島市平和記念資料館を訪れ、ペイジは「二度と戦争は起こしてはいけない」と涙ながらに語ってもいる。同公演(9月27日)は100%慈善公演でメンバー4人は広島市役所を訪問し当時の山田市長に被爆者援護資金として当時の金額で約七百万円寄贈の目録を手渡している。[1] 席上ペイジは「原爆を落としたのは誰が悪いというのではなく、我々人間の仲間が起こしたことです。同じ人間としてその事実は申し訳ないと思います。そこで少しでも苦しんでいる人達のために自分達が力になれたらと思いました。」とのコメントを発し、 同市長からはツェッペリンのメンバーたちに感謝状と、記念として名誉市民章のメダルが授与された。
ツェッペリンは1980年、ジョン・ボーナムの死去により活動を停止する。
[編集] レッド・ツェッペリン解散以降
ツェッペリン後のペイジのソロ活動は、映画『ロサンゼルス』(Death Wish 2)のサントラから始まる。
スモール・フェイセズのベーシストであったロニー・レインの呼びかけに応じる形で、1982年から1983年にかけて数回行われたA.R.M.S.(チャリティー)コンサートに於いて、レッド・ツェッペリン解散後、はじめてソロでステージに登場することとなった。同コンサートにはペイジと並んで「3大ギタリスト」であるエリック・クラプトンやジェフ・ベックも一堂に会した。 公式映像に収められているペイジのステージはスティーヴ・ウィンウッドをボーカリストとして起用した前述のペイジのサントラから数曲と「天国への階段」を演奏する場面のみであったが、続けてヴォーカルをポール・ロジャース(元フリー、元バッド・カンパニー)にバトンタッチし、オリジナル曲である「ミッドナイト・ムーンライト」を演奏した。これがそのままザ・ファームの結成へとつながる伏線となる。 レッド・ツェッペリンの曲からは唯一演奏された「天国への階段」は、ボーカル抜きのインストルメンタル・ナンバーとしてであった。
1984年には、元レッド・ツェッペリンのメンバーであった、ロバート・プラントや、ジェフ・ベックらとハニー・ドリッパーズ名義でミニ・アルバムをリリース。その後この二名は、後述のとおり度々共演することとなる。
1985年にはロイ・ハーパーのアルバムに参加し、ツアーにも同行する。また同年「両者のソロアルバムを除く、『レッド・ツェッペリン』と、『フリー』『バッド・カンパニー』などの過去のキャリアの楽曲は演奏しない」という暗黙の了解の下、ザ・ファームを結成し2枚のアルバムとライヴツアーを行って解散。(アルバムが2枚発売されたのは、「ヒット曲が出るなど、評判がよかったから」とするペイジ側の発言、「当初から2枚ほどアルバムをリリースし、その後ライヴも行う予定であった」とするロジャース側の発言とが食い違っている。)
1985年のライヴエイドでは、ツェッペリン解散後初めてロバート・プラント、ジョン・ポール・ジョーンズの3人が合流し、「レッド・ツェッペリン」名義で20分ほどのステージ・パフォーマンスを行う。曲目は「ロックン・ロール」「胸いっぱいの愛を」「天国への階段」であったが、当時の日本でのテレビ生中継では「胸いっぱいの愛を」だけが放送されなかった。しかし非難の電話が殺到したため翌日全曲放送された。(ドラマーは、シック、パワー・ステーションのトニー・トンプソンと、当時プラントのソロアルバムでプロデュースや一部ドラムを担当したフィル・コリンズの2名であった。)
その後、1988年にはドラマーに故ジョン・ボーナムの息子ジェイソン・ボーナムを迎えて「アトランテック40周年記念」、ジェイソン・ボーナム自身の結婚式(プライベートのライヴ)の二度再結成が行われた。また、1995年のロックの殿堂入りスペシャルライヴとしてエアロスミスのボーカリストであるスティーヴン・タイラーと、ギタリストのジョー・ペリー、そして、ニール・ヤングも加えての再結成ライヴと、最低4回以上は、レッド・ツェッペリン名義の再結成ライヴが行われている。同年ソロアルバムをリリースし、ツアーも行っている。
1993年にはデヴィッド・カヴァーディルと、カヴァーディル・ペイジを結成し、1枚のアルバムと日本ツアーだけで解散する。(カヴァーディルはツアーを続けることを望んだが、ペイジ側から次段落の理由によってキャンセルされた。)
一方、ソロ活動中心であったロバート・プラントは、そういったペイジの行動に煽られ、刺激を受ける形でペイジと合流し、ペイジ・プラントを結成。2枚のフルアルバムや数枚のシングルをリリースし、数回ツアーを行い、現在は中断状態。 ステージ演奏曲目は結成当初の思惑や発言とは異なり、「天国への階段」を除くレッド・ツェッペリン時代の曲目のオン・パレードとなってしまった。(それまでにも、この二人はステージ等で共演していて、1990年に行われたロバートのソロバンドのステージへのペイジ参加の様子は、コンピレーション形式のオフィシャルのビデオ映像やCDとなって発売されていた。)
2000年以降には、ブラック・クロウズのステージに参加し、そのセッションではレッド・ツェッペリン時代の曲を中心に演奏し、ライヴ・アルバムもリリースした。ツェッペリンとして1度もライブで演奏されたことがない「カスタード・パイ」などが収録されている。その他、チャリティーコンサートも盛んに行っている。
[編集] 演奏スタイル
[編集] 演奏スタイル
ペイジのギタープレイはブリティッシュ・フォークやカントリーに影響を受けつつも、基本的にはブルースを基本としたものである(繰り返し爪弾かれる短いフレーズは、1920年代に活躍したブルースマン、トミー・ジョンソンのフレーズを参考としている。1996年BBCドキュメンタリー『ギタリストの時代』におけるインタビューより)。アコースティック・ギターの技術の高さ、セッションマン時代を通して培われたギタープレイの幅の広さには定評がある。
[編集] 使用楽器・特殊奏法
ペイジのサウンド追求に対する情熱は素晴らしく、使用楽器・特殊奏法の多さで知られている。 代表的なものとしては、間奏中のテルミンを使ったパフォーマンス、ギターをヴァイオリンの弓で弾くボウイング奏法、ボトルネックを使用したスライド・ギター、ペダル・スティール・ギター、またペイジの弓弾きをヒントに開発された補助楽器ギズモ・トロン(弦をモーターにより回転する6つのプラスチックの円盤でこする構造になっている)の使用、など。 また、アイリッシュ・トラッドのギタリストが好んで使うオープン・チューニングの愛用者としても知られており、オープンD、オープンG、オープンC6、そして最も有名なものに「カシミール」などで使用された6弦からDADGADとチューニングする変則チューニングがある。
[編集] 参考資料・代表的な海賊盤
ジミ-・ペイジとツェッペリンの演奏スタイルの変遷を確認することが出来る、よく知られている非公式の海賊盤音源。
- 「Live On Blueberry Hill」-1970年9月4日 LAフォーラム公演での音源、タイトルはファッツ・ドミノの曲から。)
- 「Going To Carifornia」-1971年9月14日 バークレー公演(音質・演奏ともにバランスの取れた有名な音源。)
- 「Front Row」-1971年9月23日 日本武道館公演(記念すべき初来日公演の初日、糸居五郎のMCも収録されている。)
- 「Burn Like A Candle」-1972年6月25日 LAフォーラム公演(ロバート・プラント全盛期最後の熱唱といわれている。)
- 「Bonzo's Birthday Party」-1973年5月31日 LAフォーラム公演(ジョン・ボーナム25歳の誕生日の公演。)
- 「Listen To This Eddie」-1977年6月21日 LAフォーラム公演(LA6日間公演初日の名演奏。高音質のオーディエンス録音としても有名。)
[編集] 風説とエピソード
[編集] ペイジと黒魔術
ツェッペリン時代、ペイジは黒魔術へ傾倒していると屡々噂された。彼のお気に入りだったとされるアレイスター・クロウリーの遺した言葉が『レッド・ツェッペリン III』のレコードに刻まれていたり。また、ペイジはクロウリーの元邸宅を別荘として所有していたなど、状況証拠的にそうだと言えなくはないエピソードは幾つも存在するが、だが「ファッション的に魔術および魔術的イメージを利用していただけである」との声も少なくない。真偽の程は別にしても、この妖しげなイメージの為か、ロバート・プラントの幼い長男が感染症で亡くなるなど、不幸な事故がツェッペリンの周囲に起こる度に、バンドに反感を持つ人々は、これは「ツェッペリンのカルマ(業)」の故にだと囃したてた。当時のバンドに対する嫌悪感を示す有名なエピソードに「天国への階段」を逆回転で再生させると悪魔崇拝のメッセージが聴こえるなどと、米国の著名な宗教番組の説法師であったプロテスタント教会の牧師からテレビで批難されてしまったという逸話がある。 本人はこれを出鱈目であり、とんでもないナンセンスだと切り捨てている。また、「天国への階段」の歌詞を作詞したロバート・プラントは黒魔術に傾倒することなど無かった為、雑誌のインタビュー等でこの逸話について問われると今でも大きな不快感を表明する。
[編集] 吝嗇家説
真偽は不明であるが、吝嗇家と証言する人は少なくなく、様々なエピソードが噂として知られている。そのためレッド・ツェッペリン時代に「レッド・ウォレット(鉛の財布)」と揶揄されたことがある。
もっとも「俺はケチじゃないぜ、締まり屋なのさ。この差は大きいぜ。」と本人は語っている。通常、権利面では厳しくレッド・ツェッペリンの楽曲の使用料は高額である。また、来日の際には決まって輸入レコードショップなどに立ち寄り、不法に製造販売されている海賊盤CDを自身で大量に押収して持ち帰っている。ただしブートレグを押収したレコード店に対しては店主との写真撮影や店内の客との即席のサイン会などに快く応じ、その協力に報いている。
ただし、「レッド・ツェッペリン結成」の項目にも記載されているが、広島公演での慈善チャリティーなどを鑑みれば、吝嗇家説など他愛のない俗説に過ぎないとの見方もできる。チャリティー活動に関してはこの他にも多数の高額の寄付をした例があり積極的であると知られている。
尚、ジミーと交流のあった成毛滋が、文化放送のラジオ番組「パープルエクスプレス・ドクターシーゲルとイリアちゃん」の放送時に語ったエピソードによると、ジミーはレッドツェッペリン結成時に、自身が求める重厚なサウンドが出せる、ボディがメイプルトップ/マホガニーバックのギブソン・レスポールモデルを購入しようとしたが、当時既にレスポールモデルは、マホガニーの薄くて軽いボディのSGにモデルチェンジしていたため、仕方なく中古の旧レスポールを購入したところ、ミュージシャン仲間に『中古のギターを買うなんて、お前ケチだな』と揶揄され、それが後々まで『ジミーペイジはケチだ』として語られるきっかけとなった、という。
[編集] 使用楽器・ギター
- 1958年製フェンダー・テレキャスター:ペイジ本人の手によってサイケデリック風に描かれた、ドラゴンのペイントを施されていた、ヤードバーズからツェッペリン初期にかけてのペイジのメインの使用ギター。ジェフ・ベックから譲られたものと伝えられる。ある人物にペイントを上描きされ、垂れた塗料で回路が破損したため使用不可能となった。ネックは取り外されて別のテレキャスターに移植された。ボディーはまだ現存しているが、見たらがっかりすることだろうとのこと。
- 1958年製ギブソン・レスポール・スタンダード:チェリー・サンバースト(通称No.1):ペイジのトレードマークと知られ、最も有名な使用ギターである。塗装が幾年劣化により褪色し、若干レモンドロップ(ハ二ー・サンバーストだともいわれている)といわれる色に変化しており、表面に左右非対称に貼り合わされたメイプル材の木目が比較的はっきりと確認出来る。58年製のネックは他の年に製造されたものよりも特に太いことで有名だが、No1はそれを削り落し、薄型のネックに仕上げられている。そのためシリアルナンバーの部分も削り落とされてしまい、シリアルナンバーは不明である。ペイジいわく入手時には既にネックは削ってあったとのこと。1969年4月のUSツアーから使用され始めた。
- 1959年製ギブソン・レスポール・スタンダード:チェリー・サンバースト(通称No.2):No1.のサブギターとして使用されているギター。チェリー・サンバーストの塗装が褪色し、若干タバコ・サンバーストに近い色に変化している。木目はNo1.と比べてはっきりしない。ネックは左右非対称に削られて幅が細くシェイプされている。PUはセイモア・ダンカン製に交換。1970年にジョー・ウォルシュから譲られたギターであり、ツェッペリン初期のうちからスタジオで使用されてきたといわれているが、ステージで使用され始めたのは1975年のUSツアーからである。またサーキット回路が大幅に改造されており、ピックガード裏にトーンをコントロールするためと思われる、スプリング式のスイッチが2つ増設されているが、詳しい機能は諸説あり不明である(一説では二基あるハムバッカーの四つのコイルの階乗通り(4×3×2×1=24)のスイッチングが可能であるらしい。尚、ギブソンから出たジミー・ペイジモデルは実際にそういう仕様であった)。またこのギターは通常レスポールではあり得ない、ストラトキャスターのような音色を響かせることも出来るといわれている。シリアル・ナンバーは『9-1703』。
- 1968年製ギブソン・レスポール・スタンダード:ワイン・レッド(通称No.3):もとはゴールド・トップに塗装されていたが、ワイン・レッドにリフィニッシュされ、ピックアップもギブソン製シングルコイルPUのP-90から、ハムバッキングPUに交換されている。だが外観よりは内部にストリング・ベンダーを組み込んだことがこのギターの一番の特徴であろう。シリアル・ナンバーは『891539』。
- ダンエレクトロ・3021:主にスライド・オープンチューニング用として使用。他のギターでは得られない、良い意味でも悪い意味でも独特なサウンドが得られる。また、ルックスも個性的で、最近ではアメリカのバンドスリーター・キニーのギタリストなどもこのギターを使っていた。ライブでの「カシミール」などで有名。
- (年代不明)ギブソン・レスポール・カスタム・ブラック・ビューティー:ビグスビー・アーム付き。:セッション・マン時代からごく初期のライブにて確認可能。1970年にカナダにツアーに行く最中に盗難に遭い失われた幻のギター。3ハム・バッキング・ピックアップ。ペイジは雑誌のインタビューでセッションマン時代の仕事ではこのギターを使用し、このギターこそイギリスに入ってきた最初のレスポールであったと主張している(ギター・マガジン2007年12月号掲載)。また2007年12月10日に開催されたレッド・ツェッペリンの再結成コンサートにおいて「フォー・ユアライフ」の演奏にこれを再現させたシグネィチャーモデル[2]が使用された。
- ギブソン・EDS-1275:「天国への階段」での使用で有名な、ギブソン・SGの6弦&12弦ダブル・ネック・ギター。このギターは発売当初、注文を受けてから作られるカスタムメイドギターであり、配線や外観等の詳細は発注したギタリストの要望を汲み、製作されるごとに細かく異なっていた。その後正式にギブソンから発売された再生産品は見た目はペイジの使用ギターに似せて発売されたが、配線やピックアップなどの仕様は異なっている。また近年、限定生産でペイジ仕様のEDS-1275もギブソンから発売された。なおペイジの使用ギターは、このギターの製作時期等から、ペイジが発注したものではないとの説もいわれている。
- 1964年製フェンダー・ストラトキャスター:レイクプラシッド・ブルー。レコーディングではツェッペリン初期より使用されていたが、ライヴでは同後期からソロ期にかけて使用。
- ギブソン・J-200
- マーティンD28
- ハーモニー:「天国への階段」の録音で使用された、アコースティックギター。
- 1994年製オベーションダブルネック・アコースティックギター
- アンディ・マンソン製トリプルネック・アコースティックギター(6弦・12弦・マンドリン):もともとはジョン・ポール・ジョーンズが「テン・イヤーズ・ゴーン」をライブ演奏するために特注したもの。後にペイジもアンディ・マンソンに製作を依頼した。ジョンジー所有のものと外観が若干異なり、配線・ピックアップも異なる。
- DTS-1搭載ギブソン・レスポール:ゴールドトップ:トランスパフォーマンス社製のプロトタイプ版のオートチューニングシステム、DTS-1を搭載する為に改造されたカスタムメイドギター。DTS-1は演奏中に発生してしまう調弦の狂いを自動調整をして常に適正なチューニングで弾けることをコンセプトとして開発されていたが、途中開発に協力したペイジのアイデアにより、演奏中も予めマイコンに記憶させた500種類以上のチューニングをコントロールボタンで呼び出して自在に変更することが出来るという画期的なシステムとして完成した。カヴァーディル・ペイジやペイジ・プラントなどで使用されている。シリアル・ナンバーは『1--2552』。
[編集] シグネイチャー・レスポール
アーティストが使用するギターの再現を意図して作られた最初のシグネイチャー・レスポールは、1995年にギブソンとギター製作者ロジャー・ギフィンの手によって製作された、ペイジの58年製レス・ポールNo.1をコピーしたジミー・ペイジモデルが最初である。このギターはピックガードにペイジのサインが記され、イル・タップ機能やフェイズ機能、ミックス・ポジションでの直列/並列切り替え機能が付加されおり、ピックアップは両方ともオープン仕様、ボディ・トップは高級フィギュアード・メイプル材のブックマッチ製法という凝った仕様が施されていた。また2004年には、これまでのシグネイチャー・シリーズを集大成したモデルとして、ペイジの要望を具体化して作られたという新しいジミー・ペイジモデルもリリースされている。
[編集] ディスコグラフィ
- 「シー・ジャスト・サティスファイズ/キープ・ムーヴィン」 (1965) - She Just Satisfies cw Keep Movin (Fontana TF 533)
- 『ロサンゼルス』 (1982) - Death Wish II The Original Soundtrack (Swan Song SS8511)
- 『ザ・ファーム』 (1985) - The Firm (Victor VDP1016)
- 『ミーン・ビジネス』 (1986) - Mean Business (Victor VDP1080)
- 『アウトライダー』 (1988) - Outrider (Geffen 25XD-1071)
[編集] 脚注
- ^ "100 Greatest Guitarists of All Time" Rolling Stone Issue 931. Rolling Stone. 2008-05-08閲覧.
[編集] 外部リンク
| レッド・ツェッペリン |
|---|
| ジョン・ボーナム - ジョン・ポール・ジョーンズ - ジミー・ペイジ - ロバート・プラント |
| オリジナルアルバム: レッド・ツェッペリン I - II - III - |
| その他のアルバム: ボックスセット - ボックスセット2 - リマスターズ - BBCライヴ - 伝説のライヴ |
| 映像: レッド・ツェッペリン狂熱のライヴ - レッド・ツェッペリン DVD |
| 楽曲 |
| 関連事項: ピーター・グラント - スワンソング・レコード - ブロン・イ・アー - ヘッドリィ・グランジ |

