ロバート・プラント
| ロバート・プラント | |
|---|---|
ロバート・プラント(2010年)
|
|
| 基本情報 | |
| 出生名 | Robert Anthony Plant |
| 出生 | 1948年8月20日(63歳) |
| 出身地 | |
| ジャンル | ロック ハード・ロック ヘヴィメタル ブルース・ロック フォーク・ロック ロカビリー |
| 職業 | ミュージシャン シンガーソングライター |
| 担当楽器 | ヴォーカル ハーモニカ パーカッション |
| 活動期間 | 1965年〜現在 |
| 共同作業者 | ザ・クローリング・キング・スネイクス バンド・オブ・ジョイ レッド・ツェッペリン ハニードリッパーズ ペイジ・プラント |
ロバート・アンソニー・プラント CBE(Robert Anthony Plant CBE, 1948年8月20日 - )は、イギリスのロックシンガー。レッド・ツェッペリンのヴォーカリストとして特に有名である。レッド・ツェッペリン時代のニックネームは、「パーシー」。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第15位。身長185cm。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] レッド・ツェッペリン加入以前
バンド・オブ・ジョイなど、様々なバンドで活動。リッスンというバンドで1枚、ソロで2枚のシングルを発表していた。当時は、あまり高い声を出しているわけではないが、太い声で圧倒的な声量を聴かせていた。商業的に成功しなかったため、土木工事のバイトをしながら音楽活動を続けており、父のように会計士になることも考えていた。
ヤードバーズのメンバーが脱退し、ヴォーカリストを捜していたジミー・ペイジは、テリー・リードの紹介によりバーミンガムで「ホブストウィードル」のシンガーとしてステージに立つプラントに出会う。ペイジはその歌を聴いてプラントに興味を抱き自宅へと招待(ペイジ曰く、「人間性を確認するため」)。新バンドのサウンド・アイデアを語り合い、バンドを組むことを決める。同時にプラントからジョン・ボーナムを推薦され、更に当時既にアレンジャーとして名を成していたベーシストのジョン・ポール・ジョーンズを加えた4人は、幾つかのセッションを経た後、「ニュー・ヤードバーズ」としてツアーを開始。スカンジナビア・ツアーの後、その名前をレッド・ツェッペリンと改める。
[編集] レッド・ツェッペリン活動期
詳細は「レッド・ツェッペリン」を参照
その派手な外見やオフ・ステージでの型破りな行動から彼らを認めないものは多く、音楽雑誌「ローリング・ストーン」は彼らを「イギリスのレモン絞り[1]」と呼んでいたが、結果としてバンドは極めて大きな人気を得、その活動は多忙を極めた。
プライベートでは、ツェッペリン結成前より同棲していたインド系の女性モーリーンと1969年に結婚、すぐに子供も誕生。映画「永久の詩 レッド・ツェッペリン狂熱のライヴ」では、1973年当時の豪邸の巨大な敷地内で妻と子供2人に囲まれて幸せそうなロバートを観ることができる。しかしながら、周囲では暴力事件や麻薬常用などが後を絶たず、健康上の理由や事情聴取などでツアーがキャンセルされることも起こるようになった。1975年8月4日にはギリシャ・ロードス島でレンタカーを運転中に交通事故に遭い、1975/1976年ツアーが中止されることとなる。1977年のアメリカ・ツアー終盤には、息子のカラックをウィルス感染症で亡くしている。
そして、1980年のジョン・ボーナムの死と共に、ツェッペリンはその活動の幕を閉じる。
[編集] 解散後とソロキャリア
ツェッペリン解散の2年後、プラントはソロ活動を始める。ハードロックに別れを告げ、独特の新しいスタイルを志向した。82年のデビューアルバムから90年までの各アルバムは全米トップ5に入り、アリーナクラスでのツアーも盛況であった。しかしながら、ソロキャリアにおいてのレッド・ツェッペリン楽曲、特に「天国への階段」は過去の栄光を象徴するためか、歌詞の出来が気に入らないとしてライブ演奏を嫌っており、滅多に演奏をしていない。1984年の2月に日本でコンサートツアーを行った際にも、ソロ・アルバムからの曲ばかりであり、ツェッペリンの曲を全くやらなかった。プラントはツェッペリンとしての過去に誇りを抱きつつも、その過去に縛られず、新しい音楽を創造していったのである。その後もプラントはブルースやフォーク、アフリカの民族音楽など様々な音楽に関心を示し、ロックやポップと遠ざかった1993年のアルバム『フェイト・オブ・ネイションズ』ではツェッペリン以来、初めて商業的に芳しくない結果となっている。
1994年にはペイジと共にペイジ・プラントとして活動、2001年からはロバート・プラント & ストレンジ・センセイションとして精力的に活動を続けている。
2007年10月には、ブルーグラスカントリー・ミュージックシンガー、アリソン・クラウスとのコラボレーション・アルバム『Raisng Sand』リリース。2008年5月末まで、彼女とライヴを行う。このアルバムの収録曲「Gone Gone Gone(Done Moved On)」は、第50回グラミー賞のベスト・ポップ・コラボレーション・ウィズ・ヴォーカル部門を受賞した。
2008年1月に、ペイジが来日記者会見で「レッド・ツェッペリンの再活動は、ロバート・プラントが9月まで別の仕事が入っていて、その後に」と話した。
2009年2月8日の第51回グラミー賞でも、前年に引き続き『Raisng Sand』がノミネートされ、主要5部門のレコード・オブ・ジ・イヤー及びアルバム・オブ・ジ・イヤーを始め、5部門で受賞した。
2009年、音楽界への貢献が認められ、CBEを授与されることが発表された。同年7月10日、バッキンガム宮殿にてチャールズ皇太子から授与された[2]。
[編集] 歌唱法
プラントの声やその歌唱法は、他のロックボーカリストと比べるまでもなく、独特で圧倒的なものであった。特に、ツェッペリン初期(「レッド・ツェッペリン IV」まで)の桁違いの声量と凄まじい高音で歌うスタイルは、音楽界に衝撃を与え、ツェッペリンはたちまち世界のトップバンドとなり、以後確立されることとなるハードロック・ヘヴィメタルの歌唱法のスタイルに多大な影響を与えた。
後続のスティーヴン・タイラーやボン・スコット、デイヴィッド・カヴァデールなどの同世代のロックボーカリストから、アクセル・ローズやクリス・コーネル、セバスチャン・バック、ジャスティン・ホーキンスなど、後の時代のハイトーンシンガーにも多大な影響を与えた。ロブ・ハルフォードは高音に成れば、成るほどか細い声になるが、プラントは高音でも男声を出せるため、ジミー・ペイジはプラントについて「もし声帯を使ったオリンピックみたいなものがあれば、間違いなく全種目金メダル」と言っていたこともある。しかしながら、長いツアー生活による酷使により、喉を痛めてかつてほどの高音は出せなくなり、1972年のUSツアー以降からは楽曲によりキーを下げて歌っている。
ブルーズの歌唱法は、スモール・フェイセスのスティーヴ・マリオットの影響が強い。初期の歌唱法には多くの類似性が認められる。彼のステージを追いかけていた時期があり、「スティーヴ・マリオットになりたい」と言っていたこともあるほどである。
「BURRN!」誌のインタビューで、エルヴィス・プレスリーをアイドルの一人に挙げている。ハニードリッパーズ時代の「シー・オブ・ラブ」などで、その影響が垣間見える。
ちなみに、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズは「俺の耳にはいささかアクロバットじみて聴こえる」と彼を評している。
[編集] 70年代を代表するセックスシンボル
プラントはその華麗な美貌と長身、魅惑的な声、ステージパフォーマンスから70年代を代表するセックスシンボルと称された。特に、70年代前半のステージでは、女性もののブラウスやインド・中近東風の衣装を好んで纏い、シャツの前をはだけて歌う姿は、その金色の長髪とあいまって「ロックの美神」「男から見てもセクシーな男」、「ロック界のアイコン(象徴)」と言われていた。
[編集] 歌詞世界
[編集] 最初期
最初期における彼の作詞能力は決して高い水準にあるとは言えず、「胸いっぱいの愛を」(『レッド・ツェッペリン II』)、「レモン・ソング」(『レッド・ツェッペリン II』)に代表されるようなブルースからのあからさまな盗作や「ユー・シュック・ミー」(『レッド・ツェッペリン I』)、「君から離れられない」(『レッド・ツェッペリン I』)などのカバーが主であったが、『レッド・ツェッペリン III』から徐々に本格的な作詞に着手するようになり、『レッド・ツェッペリン IV』の「天国への階段」でその頂点を極めることとなる(しかしながら、本人は「天国への階段」を頂点とは考えておらず、歌詞に不満があると発言している)。
[編集] 初期~中期
プラントはファンタジーを愛好し、特にJ・R・R・トールキンの著書、主に『指輪物語』に大きな影響を受けた。その影響は、「限りなき戦い」(『レッド・ツェッペリン IV』)や「ランブル・オン」(『レッド・ツェッペリン II』)、「ノー・クォーター」(『聖なる館』)など、初期から中期にかけての楽曲に於いて顕著に見られる。また、ケルト民話や北欧神話に対する造詣も深く、「移民の歌」(『レッド・ツェッペリン III』)、「流浪の民」(『フィジカル・グラフィティ』)などの歌詞世界に影響を与えている。この様に、初期から中期にかけての彼の作詞テーマは神秘主義、ファンタジー色が濃いが、妻に向けた「サンキュー」(『レッド・ツェッペリン II』)や、初恋を歌った「テン・イヤーズ・ゴーン」(『フィジカル・グラフィティ』)、ファンに感謝を捧げた「オーシャン」(『聖なる館』)、愛犬(名前は「ストライダー(馳夫)」。『指輪物語』のアラゴルン王の別名から)に向けた「スノウドニアの小屋」(『レッド・ツェッペリン III』)など、ロマンチックな面も見られる。また、中期のみ「祭典の日」(『レッド・ツェッペリン III』)や「ダンシング・デイズ」(『聖なる館』)、「ザッツ・ザ・ウェイ」(『レッド・ツェッペリン III』)、「カリフォルニア」(『レッド・ツェッペリン IV』)など、70年代的な作風にも挑戦している。
[編集] 中期~後期・解散後
中期から後期にかけて神秘主義・ファンタジー色は薄れ、「一人でお茶を」(『プレゼンス』)、「アイム・ゴナ・クロール」(『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』)、「オール・マイ・ラブ」(『イン・スルー・ジ・アウトドア』)など、身近な事象に対する心情を表現するようになる。また、ペイジとプラントの音楽体験に対する情熱は、アフリカの民族音楽にその関心を向け、共に「カシミール」(『フィジカル・グラフィティ』)を生むこととなる。
また、1994年のペイジ・プラントの『ノー・クォーター』は、モロッコでの民族音楽の影響が大きい。
[編集] こぼれ話
- 映画『あの頃ペニー・レインと』で、主人公がツアーを共にするバンドのギタリスト、ラッセル(ビリー・クラダップ)の台詞「俺は黄金の神だ!!(I Am A Golden God!!)」は、プラントがロサンゼルスのハイアット・ホテル(通称「ライオット・ハウス」)のテラスから叫んだものだという。当時、ロック・ライターだったキャメロン・クロウが耳にし、後に映画で使用したというのがその顛末である。
[編集] ディスコグラフィ
- 『11時の肖像』 - Pictures at Eleven (1982)
- 『プリンシプル・オブ・モーメンツ』 - The Principle of Moments (1983)
- 『ザ・ハニードリッパーズ』 - The Honeydrippers: Volume One (1984), with Jimmy Page
- 『シェイクン・アンド・スタード』 - Shaken 'n' Stirred (1985)
- 『ナウ・アンド・ゼン』 - Now and Zen (1988)
- 『マニック・ネバーナ』 - Manic Nirvana (1990)
- 『フェイト・オブ・ネーションズ』 - Fate of Nations (1993)
- 『ノー・クォーター』 - No Quarter (1994), with Jimmy Page
- 『ウォーキング・イントゥ・クラークスデイル』 - Walking Into Clarksdale (1998), with Jimmy Page
- 『ドリームランド』 - Dreamland (2002)
- 『マイティ・リアレンジャー』 - Mighty Rearranger (2005), with Strange Sensation
- 『レイジング・サンド』-Raising Sand (2007), with Alison Krauss
[編集] 脚注
- ^ これはプラントが「胸いっぱいの 愛を」「幻惑されて」などの間奏パートでよく歌った「レモン・ソング」のフレーズの一部「俺のレモンを絞って(=性行為の暗喩)」を実際の乱痴気騒ぎに準えて言ったもの。自身は、ツェッペリンの乱行に関する噂を一切否定している(プラントによれば、「自分達はイエスみたいにライブが終わったら部屋にこもって音楽を聴いていた」)。
- ^ ロバート・プラント、ポニーテールにて皇太子より勲章を授与
[編集] 外部リンク
|
|||||||||||||||||||||||