ロバート・プラント
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| ロバート・プラント | |
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ロバート・プラント(2007年)
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| 基本情報 | |
| 出生名 | Robert Anthony Plant |
| 出生 | 1948年8月20日(60歳) イングランド |
| ジャンル | ロック |
| 活動期間 | 1965年〜現在 |
| 共同作業者 | ザ・クローリング・キング・スネイクス バンド・オブ・ジョイ レッド・ツェッペリン ハニードリッパーズ ペイジ・プラント |
ロバート・アンソニー・プラント(Robert Anthony Plant, 1948年8月20日 - )は、イギリスのロックシンガー。レッド・ツェッペリンのリードヴォーカリストとして特に有名である。レッド・ツェッペリン時代のニックネームは「パーシー」。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] レッド・ツェッペリン加入以前
バンド・オブ・ジョイなど様々なバンドで活動。リッスンというバンドで1枚、ソロで2枚のシングルを発表していた。 ヤードバーズのメンバーが脱退し、ヴォーカリストを捜していたジミー・ペイジは、テリー・リードの紹介によりバーミンガムで「ホブストウィードル」のシンガーとしてステージに立つプラントに出会う。ペイジはその歌を聴いてプラントに興味を抱き自宅へと招待(ペイジ曰く「人間性を確認するため」)。新バンドのサウンド・アイデアを語り合い、バンドを組むことを決める。同時にプラントからジョン・ボーナムを推薦され、更に当時既にアレンジャーとして名を成していたベーシストのジョン・ポール・ジョーンズを加えた四人は、幾つかのセッションを経た後、「ニュー・ヤードバーズ」としてツアーを開始。スカンジナビア・ツアーの後その名前をレッド・ツェッペリンと改める。
[編集] レッド・ツェッペリン活動期
その派手な外見やオフ・ステージでの破天荒な行動から彼らを認めないものは多く、音楽雑誌「ローリング・ストーン」は彼らを「イギリスのレモン絞り」と呼んでいたが、結果としてバンドは極めて大きな人気を得、その活動は多忙を極めた。 しかしながら、周囲では暴力事件や麻薬常用などが後を絶たず、健康上の理由や事情聴取などでツアーがキャンセルされることも起こるようになった。1975年8月4日にはギリシャ・ロードス島でレンタカーを運転中に交通事故に遭い、1975/1976年ツアーが中止されることとなる。また、プライベートでの不幸も多く、1977年のアメリカ・ツアー終盤には息子のカラックをウィルス感染症で亡くしている。そして1980年のジョン・ボーナムの死と共にツェッペリンはその活動の幕を閉じる。
- *「イギリスのレモン絞り」について:これはプラントが「胸いっぱいの愛を」「幻惑されて」などの間奏パートでよく歌った「レモン・ソング」のフレーズの一部「俺のレモンを絞って(=性行為の暗喩)」を実際の乱痴気騒ぎになぞらえて言ったもの。プラント自身は妻子持ちであったため、ツェッペリンの乱行に関する噂を一切否定している(プラントによれば「自分たちはイエスみたいにライブが終わったら部屋にこもって音楽を聴いていた」)。
[編集] 解散後とソロキャリア
レッド・ツェッペリン解散後、プラントはソロ活動を始める。82年のデビューアルバムから90年までの各アルバムは全て全米トップ5に入った。しかしながら、ソロキャリアにおいてのレッド・ツェッペリン楽曲、特に「天国への階段」は歌詞の出来が気に入らないとしてライブ演奏を嫌い、滅多に演奏をしなかった。1984年の2月には日本でコンサートツアーを行った際にもそれは同様であった。その後はブルース、フォーク、アフリカの民族音楽など様々な音楽に関心を示し、ロックやポップと遠ざかった。
1994年にはペイジと共にペイジ・プラントとして活動、2001年からはロバート・プラント & ストレンジ・センセイションとして精力的に活動を続けている。
2007年10月にはブルーグラスシンガー、アリソン・クラウスとのコラボレーション・アルバム「Raisng Sand」リリース。2008年5月末まで彼女とライヴを行う。このアルバムの収録曲「Gone Gone Gone(Done Moved On)」は第50回グラミー賞のベスト・ポップ・コラボレーション・ウイズ・ヴォーカル部門を受賞した。
2008年1月に、ペイジが来日記者会見で「レッドツェッペリンの再活動は、ロバート・プラントが9月まで別の仕事が入っていて、その後に」と話した。
2009年2月8日の第51回グラミー賞でも前年に引き続き「Raising Sand」がノミネートされ、主要5部門のレコード・オブ・ザ・イヤー及びアルバム・オブ・ザ・イヤーを始め、5部門で受賞した。
[編集] 歌唱法
プラントの声やその歌唱法は他のロックボーカリストと比べるまでもなく独特なものであった。レッド・ツェッペリン初期の金属的な高音とシャウトは、以後確立されることとなるハードロック・ヘヴィメタルのシンボルとなる。また、スティーヴン・タイラー、ボン・スコット、フレディ・マーキュリー、デヴィッド・カヴァーディルなどの同時期のロックボーカリストから、アクセル・ローズ、クリス・コーネル、セバスチャン・バック、ジャスティン・ホーキンス、日本でも人見元基や稲葉浩志など後のロックボーカリストたちにも多大な影響を与えた。ジミー・ペイジはプラントについて「もし声帯を使ったオリンピックみたいなものがあれば、間違いなく全種目金メダル」と言っていたこともある。しかしながら長いツアー生活による不摂生により喉を痛めてかつてほどの高音は出せなくなり、1972年のUSツアー以降からは楽曲によりキーを下げて歌っている。
歌唱法はスモール・フェイセスのスティーブ・マリオットの影響が強い。初期の歌唱法には多くの類似性が認められる。プラントは彼のファンで彼のステージを追いかけていた時期がある。彼は「スティーブ・マリオットになりたい」と言っていたこともあるほどである。
その昔burrn!誌のインタビューでエルビス・プレスリーをアイドルの一人にあげている。声質が全くちがうので、 本当かと思うが、実際ハニードリッパーズ時代の「シー・オブ・ラブ」などでその影響が垣間見える。
因みに、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズは「俺の耳には些かアクロバットじみて聞こえる。」と彼を評している。
[編集] 70年代を代表するセックスシンボル
プラントはその華麗な美貌と長身、魅惑的な声、ステージパフォーマンスから70年代を代表するセックスシンボルと称された。特に70年代前半のステージでは女性もののブラウスやインド・中近東風の衣装を好んで纏い、シャツの前をはだけて歌う姿は、その金色の長髪とあいまって「ロックの美神」「男から見てもセクシーな男」、「ロック界のアイコン(象徴)」と言われていた。
[編集] 歌詞世界
[編集] 最初期
最初期における彼の作詞能力は決して高い水準にあるとは言えず、「胸いっぱいの愛を」(『レッド・ツェッペリン II』)、「レモン・ソング」(『レッド・ツェッペリン II』)に代表されるようなブルースからのあからさまな盗作や「ユー・シュック・ミー」(『レッド・ツェッペリン I』)、「君から離れられない」(『レッド・ツェッペリン I』)などのカバーが主であったが、『レッド・ツェッペリン III』から徐々に本格的な作詞に着手するようになり、『レッド・ツェッペリン IV』の「天国への階段」でその頂点を極めることとなる(しかしながら、本人は「天国への階段」を頂点とは考えておらず、歌詞に不満があると発言している)。
[編集] 初期~中期
プラントはファンタジーを愛好し、特にJ・R・R・トールキンの著書、主に『指輪物語』に大きな影響を受けた。その影響は「限りなき戦い」(『レッド・ツェッペリン IV』)、「ランブル・オン」(『レッド・ツェッペリン II』)、「ノー・クォーター」(『聖なる館』)など、初期から中期にかけての楽曲に於いて顕著に見られる。また、ケルト民話や北欧神話に対する造詣も深く、「移民の歌」(『レッド・ツェッペリン III』)、「流浪の民」(『フィジカル・グラフィティ』)などの歌詞世界に影響を与えている。この様に、初期から中期にかけての彼の作詞テーマは神秘主義、ファンタジー色が濃いが、妻に向けた「サンキュー」(『レッド・ツェッペリン II』)や、初恋を歌った「テン・イヤーズ・ゴーン」(『フィジカル・グラフィティ』)、ファンに感謝を捧げた「オーシャン」(『聖なる館』)、愛犬(名前は「ストライダー(馳夫)」。『指輪物語』のアラゴルン王の別名から)に向けた「スノウドニアの小屋」(『レッド・ツェッペリン III』)など、ロマンチックな面も見られる。また、中期のみ「祭典の日」(『レッド・ツェッペリン III』)、「ダンシング・デイズ」(『聖なる館』)、「ザッツ・ザ・ウェイ」(『レッド・ツェッペリン III』)、「カリフォルニア」(『レッド・ツェッペリン IV』)など70年代的な作風にも挑戦している。
[編集] 中期~後期・解散後
中期から後期にかけて神秘主義・ファンタジー色は薄れ、「一人でお茶を」(『プレゼンス』)、「アイム・ゴナ・クロール」(『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』)、「オール・マイ・ラブ」(『イン・スルー・ジ・アウトドア』)など身近な事象に対する心情を表現するようになる。また、ペイジとプラントの音楽体験に対する情熱は、アフリカの民族音楽にその関心を向け、共に「カシミール」(『フィジカル・グラフィティ』)を生むこととなる。
また、解散後では1994年のペイジ・プラントの「ノー・クォーター」はモロッコでの民族音楽の影響が大きい。
[編集] こぼれ話
- 映画『あの頃ペニー・レインと』で、主人公がツアーを共にするバンドのギタリスト、ラッセル(ビリー・クラダップ)の台詞「俺は黄金の神だ!!(I Am A Golden God!!)」は、プラントがロサンゼルスのハイアット・ホテル(通称「ライオット・ハウス」)のテラスから叫んだものだという。当時ロック・ライターだったキャメロン・クロウが耳にし、後に映画で使用したというのがその顛末である。
- 漫画「エロイカより愛をこめて」の主人公、グローリア伯爵のモデルである。
[編集] ディスコグラフィ
- 『11時の肖像』 - Pictures at Eleven (1982)
- 『プリンシプル・オブ・モーメンツ』 - The Principle of Moments (1983)
- 『ザ・ハニードリッパーズ』 - The Honeydrippers: Volume One (1984), with Jimmy Page
- 『シェイクン・アンド・スタード』 - Shaken 'n' Stirred (1985)
- 『ナウ・アンド・ゼン』 - Now and Zen (1988)
- 『マニック・ネバーナ』 - Manic Nirvana (1990)
- 『フェイト・オブ・ネーションズ』 - Fate of Nations (1993)
- 『ノー・クオーター』 - No Quarter (1994), with Jimmy Page
- 『ウォーキング・イントゥ・クラークスデール』 - Walking Into Clarksdale (1998), with Jimmy Page
- 『ドリームランド』 - Dreamland (2002)
- 『マイティ・リアレンジャー』 - Mighty Rearranger (2005), with Strange Sensation
- 『レイジング・サンド』-Raising Sand (2007), with Alison Krauss
[編集] 外部リンク
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