レッド・ツェッペリン
| レッド・ツェッペリン | |
|---|---|
レッド・ツェッペリン(1975年1月のシカゴ公演)
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| 基本情報 | |
| 別名 | Zep、Led Zep |
| 出身地 | |
| ジャンル | ロック ブルース・ロック ヘヴィメタル フォーク・ロック ハード・ロック |
| 活動期間 | 1968年 - 1980年 |
| レーベル | アトランティック スワンソング |
| 公式サイト | www.ledzeppelin.com/ |
| メンバー | |
| ロバート・プラント ジミー・ペイジ ジョン・ポール・ジョーンズ ジョン・ボーナム |
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レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin, 1968年 - 1980年)は、イギリスのロックバンド。名実共にロック界を代表する世界的なバンドであり、またヘヴィメタルも生み出した。略称は、ZepもしくはLed Zep。なお、「ツェッペリン」はドイツ語の発音であり、英語の発音は「レッド・ゼプリン」に近い。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第14位。
目次 |
概要 [編集]
1968年にデビュー以来、今も世界的な人気を誇るロックバンドである。
1960年代中頃、イギリスの若いミュージシャンの間ではプログレッシブ・ロックがブームとなっていたが、彼らは後の世代にヘヴィメタルと言われる音楽を世界中に知らしめた。また、アコースティック・ナンバーも多く、ブリティッシュ・トラッド、フォークから中近東音楽に亘る幅広い音楽性を持ち、ロックの限界を押し広げた。
『レッド・ツェッペリン I』でデビューした彼らは、音楽シーンに衝撃を与えると同時に広い人気を得た。また新人としては破格の、アルバム5枚で20万ドル[当時の日本円で7200万円]というレコード会社との契約金は、ヒッピー文化の色濃い当時にそぐわぬ華々しさであった。
彼らはテレビでの演奏を拒否し、プレスに対し辛辣な態度を取るなど常にマスメディアと距離を置いており、最初期を除きテレビでは殆ど演奏しなかった。しかし、小さなクラブや大学のステージでの演奏が口コミで伝わり、人気を獲得していった結果、アルバムセールスや観客動員数でも記録破りであった。現代においても、アルバムはアメリカだけでも毎年100万枚、通算で1億枚を超え、エルヴィス・プレスリーに匹敵する実績を持っている。なお、全世界でのアルバムセールスの累計は、現在のところ3億枚を突破している[1]。
デビュー当時、アルバムは若者にとってまだまだ高価であったため、先ずはシングルを出し、それをラジオやテレビで流した上でレコードを買ってもらうのが普通であったが、彼らが本国イギリスで発売したシングルは、「胸いっぱいの愛を」と「トランプルド・アンダー・フット」の2枚のみである(しかも、「胸いっぱいの愛を」においてはイギリスではシングル発売直後、さしたる理由も発表されないまま回収されている)。 1995年にロックの殿堂入りを果たし、2004年には日本ゴールドディスク大賞を受賞[2]。2005年にはグラミー賞(功労賞)を受賞。2006年にはUKミュージックの殿堂「UK Music Hall Of Fame」入りを果たしている。
メンバーと主な担当楽器 [編集]
バンドのリーダー。ツェッペリン全アルバムのプロデューサー。キャリア初期の演奏力、アコースティックギターの上手さ、曲の印象を決定づけるリフの作成能力、曲想と調和したメロディアスなソロなどが高く評価される。キャリアの中期以降の正確な演奏力の面で酷評されることもある。1980年代はポール・ロジャースと共にザ・ファームを結成。その後、カヴァデール・ペイジ、ジミー・ペイジ&ブラック・クロウズなど様々なプロジェクトに参加。ツェッペリンの過去の未発表音源のリリースやアルバムのリマスタリング作業にあたる。
ツェッペリンが音楽シーンに現れたとき、彼の広い音域、歌唱力、独特の声質、声量などが世界中のロックファンを驚かせた。しかし、喉を痛め、1973年以降はヴォーカルスタイルを変化させた。解散後は、ツェッペリンでも見せていたケルト音楽や民族音楽を大きく取り入れたサウンドを志向する事が多い。ニックネームは「パーシー」。
ベースに限らず、幅広い楽器を操るマルチプレイヤーで、卓越した技術と安定した演奏力でツェッペリンを支えた。解散後はアレンジャーや若手バンドのプロデュースの仕事に加え、ライブを行ったり、自身のソロ・アルバムのリリースや、フー・ファイターズのデイヴ・グロール、クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのジョシュ・オムらと共にゼム・クルックド・ヴァルチャーズを結成するなどしている。ニックネームは「ジョンジー」。
独自のグルーヴ感、リズム感、パワー、タイム感を持つと言われ、強いプレイと多彩なフィルインによって、バンドの核としての役割を果たす。ロックに於ける一つのドラムの在り方を構築し、現在でも幅広いジャンルのドラマーに多大な影響を与えている。1980年に死去。ニックネームは「ボンゾ」。
来歴 [編集]
結成までの経過 [編集]
スタジオ・セッション・ギタリストを経てエリック・クラプトン、ジェフ・ベックに続く、ヤードバーズ最後のリード・ギタリストとなったジミー・ペイジが、当バンドの録音を経験するうち、レコード制作に要求される配慮やボーカリストの重要性に目覚め、偶然性も加わってオーソリティーともいえる各パートのメンバーを揃えて結成されたものとされる。
ペイジは1968年初旬、ミッキー・モストプロデュースのドノヴァンの代表曲「ハーディ・ガーディ・マン」のスタジオ・セッションでジョン・ポール・ジョーンズ、ジョン・ボーナム、後にエンジニアを務めることになるエディ・クレイマーと共演する。
ヤードバーズは1968年7月7日のコンサートを最後に、キース・レルフ(vo)とジム・マッカーティ(ds)が脱退。クリス・ドレヤ(b)とペイジは同じミッキー・モスト・プロダクションにいたテリー・リード(vo.g)とプロコル・ハルムのB.J.ウイルソン(ds)をメンバーに誘うが、リードには自らのバンドのアメリカツアーが決まっていたため断られ、ウイルソンにはプロコル・ハルムが成功しているとして断られた。
ところが、すぐにリードから「シンガーを見つけた」とペイジに電話があった。リードは、バクストンで共演したバンド・オブ・ジョイで歌っていたロバート・プラントを推薦。ペイジはステージをチェックし、プラントを引き抜いた。そしてプラントがバンド・オブ・ジョイにいたことのあるドラマーのジョン・ボーナムを推薦。プラントの紹介で1968年7月に北ロンドンのハムステッドにおけるアメリカのシンガーソングライター、ティム・ローズのUKツアーに参加しており、そのステージでドラムを叩くボーナムに会ったペイジは、彼をバンドに加えることを決め、アメリカに滞在中であったピーター・グラントに国際電話をかけて報告した。だが、ボーナムの加入はすんなりとはいかず、プラント曰く、当時何かの理由(一説には、当時テイスト結成前のロリー・ギャラガーとバンドを組みたがっていたとされる)でバンドへの加入を頑強に拒んでいたボーナムを、プラントとグラントの両名で合計40回近くにもなる電報での説得を行い、強引にツェッペリンに加入させたといわれる。最終的に「お前はこのバンドに入るんだよ!」とプラントが叱り付けてロンドンのスタジオまで引っ張っていき、より高いギャラが保証されるならとヤードバーズ入りを承諾。しかし、ドレヤがメンバー探しの途中にカメラマンに転向するとして脱退。そこで以前からセッションで顔見知りだった、ベーシスト兼キーボーディストのジョン・ポール・ジョーンズを誘う。ジョーンズは、黒人音楽に精通するアレンジャーとしての地位を既に確立していて、ペイジ同様、若いながらも、売れっ子のセッション・ミュージシャンとして活躍していた。 ヤードバーズとしての契約が残っていたスカンジナビア・ツアーをNew Yardbirdsと名乗り行う。この時既に、レッド・ツェッペリンのデビュー・アルバムの収録曲が演奏されている(ちなみに、それにも関わらずレコード会社がツェッペリンとヤードバーズで違うのは、ペイジが当時ヤードバーズの所属していたレコード会社の商業主義に嫌気が差していたからである)。帰国後、すぐにアルバムを録音。
1968年10月15日、サリー大学でのイギリス初のコンサートではNew Yardbirds featuring Led Zeppelinと名乗っている。ヤードバーズは、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでコンサートをしたほどのビッグ・ネームであったが、古いポップグループのイメージが残る名前と決別したかったため、改名したといわれている。
ヤードバーズの音楽性を継承しつつも、ブルースベースのハードロックをより推し進めた彼らのファースト・アルバムにおける音楽性について、同じミッキー・モスト・プロダクションにいた(第一期)ジェフ・ベック・グループがヒントであったと指摘されることもある(ジェフ・ベックは、ツェッペリンのステージを見て「あれは俺のパクリだ」と言ったらしい。ジェフ・ベックはジミ・ヘンドリックスのステージを見たときも俺のパクリだと言った。)
バンド名の由来 [編集]
1966年5月16日、ジェフ・ベックのソロ・シングルの録音のため、ベックとジミー・ペイジ(ギター)、ジョン・ポール・ジョーンズ(ベース)、ニッキー・ホプキンス(ピアノ)、キース・ムーン(ドラムス、ザ・フー)の5人によるセッションが行われる。このセッションは非常に充実したもので、5人中4人はパーマネントなバンドとしての活動を希望したが、ジョーンズが乗り気でなかったことと、いいシンガーが見つからなかったことを理由にその計画は頓挫する。その時にムーンが「もしも俺たちが今いるバンドを辞めたら、きっと向こうは鉛の風船みたいに急降下だろうぜ(lead balloon)」と発言したことによる。「going like lead balloon」はムーンの口癖であったという。 そこから、マネーシャーのピーター・グラントがleadをledに、balloonをzeppelinに変え、バンド名が「Led Zeppelin」に決まったとされる。 また、デンマーク公演の最中にツェッペリン飛行船の開発者の子孫であるエヴァ・フォン・ツェッペリンに、ファミリーネームの無断使用で訴えられかけて一時「THE NOBS(ザ・ノブス)」(=紳士たち、または陰茎の隠語)と名乗っていたこともあった。エヴァは法廷で「金切り声を上げて飛び回る猿どもに、当家の栄誉ある名前を名乗らせるわけには参りません」と宣言したと言う。
デビュー後の快進撃 [編集]
1968年10月に録音したアルバムのテープはペイジとマネージャーのピーター・グラントとの共同出資によるものであった。そのテープを持って渡米したグラントは、当時としては破格の20万ドル(当時の日本円にして約7,200万円)でアトランティック・レコードと契約。グラントがマネージメントしていたジェフ・ベックが、ヴァニラ・ファッジとのアメリカツアーに参加できなくなった代わりにレッド・ツェッペリンを送り込み、12月26日から参加させる。このツアーでツェッペリンは爆発的な評判を呼び、1969年1月12日にアメリカで発売予定のデビューアルバムに5万枚の予約が入り全米10位、イギリスでは3月28日に発売され、全英6位となっている。
1969年10月に発売されたセカンド・アルバムは、ビートルズの「アビー・ロード」を蹴落とし英米共に7週連続1位、1970年10月発売のサード・アルバムも英米共に1位となった。1970年のメロディー・メーカー紙の人気投票でもビートルズを破りベストグループ1位となった。その後も、解散するまで全てのアルバムがメガ・セールスを記録、コンサートツアーでの観客動員数もトップであった。
音楽的独自性 [編集]
各メンバーの担当パートにおける、実力に裏打ちされたオーソリティーとしての感性や音楽性、特にドラムスの独特のタイム感覚(グルーブ感)、そして、当初ペイジが中心になり、後にプラント、ジョーンズそしてボンゾも参加しだした楽曲の完成度は、「ブリテッシュハードロックの聖域」といわれるほど独自なものであった。また、即興演奏を得意としたバンドであり、ライブにおける「胸いっぱいの愛を」や「幻惑されて」、「ノー・クォーター」などは30分以上に及ぶこともあった。ただ、プラントが喉を痛め、かつてのような神がかり的な音域や声量を失ってしまった後の1973年以降のライブでは、ペイジのプレイも年を追うごとに雑になってしまう。一般に単なるハードロックバンドの一種であると誤解されやすいが、典型的なハードロックにとどまらない楽曲が非常に多く、またアコースティックギター中心のナンバーにも力を入れ、トラッド風、メローなバラード調をはじめ、中東風民族音楽的要素、踊れないファンク調、同時代性としてのサイケデリックさ等々、特に5枚目のアルバム以降は様々な音楽を意図的に取り入れ、自分達流に作曲・演奏し、1980年に解散するまで貪欲にその音楽的独自性を高めていた。また、ツェッペリンは結成当初トラッド・フォーク・ロックバンドとして活動する構想もあったといわれている。これは、ペイジのフォーク趣味とプラントのケルト志向、民族音楽志向もあってのことであったが、結果的にジョン・ボーナムという最高のドラマーを得たことにより、バンドは轟音のロックを基本的に志向することになる。このペイジとプラントのフォーク・トラッド志向も「天国への階段」をはじめ、ツェッペリンの様々な曲に大きく影響している。彼らの多様な音楽性を物語るエピソードとして、6作目のアルバム「フィジカル・グラフィティ」に収録された「トランプルド・アンダー・フット」は、当時ニューヨークのアンダーグラウンドで黒人の間で盛り上がっていたディスコで頻繁にプレイされ、現在もDJ達からクラシックとして敬意を払われている。
活動の歴史 [編集]
ライヴツアーの行われた年は、以下の通り
- 1968年
- 1969年
- 1970年
- 1971年初来日。9月23日 - 9月24日 日本武道館、9月27日 広島県立体育館、9月28日 - 9月29日 大阪フェスティバルホール
- 1972年二度目で、「レッド・ツェッペリン」としては最後の来日。10月2日 - 10月3日 日本武道館、10月4日 大阪フェスティバルホール、10月5日 名古屋市公会堂、10月9日 大阪フェスティバルホール、10月10日 京都会館
- 1973年前年から兆候はあったが、この年にプラントの喉が支障をきたしてしまい、往年の歌い方がほぼ不可能になってしまう。プラントは73年のアメリカツアーの後、傷めた喉の手術をしたと82年に雑誌のインタビューで告白。
- 1975年ギリシャのロードス島でプラントが自動車の運転中事故に遭い両脚を折る重体となりワールドツアー後半で中止。
- 1977年若干、ボーカルのコンディションが75年より回復。だがツアー後半、プラントの長男カラックがウイルス性感染症で死去、その後の活動は無期限で中止となる。
- 1979年イギリス、ネブワースでの復活コンサートの2回を含む4回のライブのみ。
- 1980年この年のヨーロッパ・ツアーの後、アメリカツアーが予定されていたが、ジョン・ボーナムの死によってキャンセルとなり、活動を終了。
解散 [編集]
1980年9月24日のドラマーのジョン・ボーナムの事故死(過剰飲酒後の就寝時に吐瀉物が喉に詰まったための窒息死)によって、同年12月4日に解散を表明した。後継者として何名かのドラマーが名乗りを上げ、バンドでも人選について議論されたが、ボーナムのドラミングに見られるグルーブ感やノリには余人の模倣を許さないほどの特徴があり、彼のバンドサウンドへの貢献度は非常に高かったため、「彼なしでのバンド継続は無理」と判断されたもの。1982年には、彼への追悼アルバム『CODA』が発表された。
解散後、再結成 [編集]
1985年のライヴエイドでフィル・コリンズがパフォーマンス中、ロバート・プラント、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズを呼び込み、「ロックン・ロール」「天国への階段」「胸いっぱいの愛を」を演奏した(ドラムスはトニー・トンプソンとフィル・コリンズ、「天国への階段」のベースギターはポール・マルチネスが担当)。この時は「LED ZEPPELIN」名義では無かった(フィル本人がツェッペリンと共演したいが為にイベントを利用したと後日語っている)が、その後、残りの元メンバー3人が集まった時のみ(1988年のアトランティック・レコード40周年コンサート以降は、ジョン・ボーナムの息子であるジェイソン・ボーナムがドラマーとして参加)、「LED ZEPPELIN」名義のステージパフォーマンスが、何度か行われている。
2003年には、ペイジの監修による映像作品「レッド・ツェッペリンDVD」が発売された。5時間20分に亘ってツェッペリンの初期から全盛期のライヴが楽しめる壮大な作品であるが、ツェッペリンが活躍していた頃はミュージシャンが映像を製作することがあまり盛んではなく、ペイジ本人が「マッチ棒でお城を作るようなもの」と言うくらいの大変な苦労を経て製作された。どうしても映像が揃わない部分に、ブートレッグの映像が使用されている。また、この作業の時に見つかった音源を元にして、3枚組ライヴアルバム「伝説のライヴ(原題:How The West Was Won)」が製作された。
2007年12月10日にはロンドンのO2アリーナにて、2006年12月に死去したアトランティック・レコードの創始者、アーメット・アーティガンを追悼するチャリティーライブとして、先述のメンバーで一夜限りの再結成が行われ、アンコールを含め約2時間の演奏をした。このライブには実に世界50ヶ国以上から彼等のファンが訪れ、インターネットを経由してチケットの購入を登録を済ませた約2500万人の応募者[3]から、抽選で約2万人の観客が選ばれた。観客の中にはチャリティーオークションに出品された1枚のペアチケットに、8万3,000ポンド(約1,900万円)もの値をつけ、購入した者が居たことでも話題となった。それまで数回の再結成を不本意なものと感じていた彼らは、この日のためにリハーサルを繰り返し、その結果、多くの人を感動させるパフォーマンスを聴かせた[4]。この再結成の話題は彼らの本国を含め世界各国の新聞やテレビのニュース番組でも盛んに報道されるほどの騒ぎとなり、会場にはミック・ジャガー、デヴィッド・ギルモア、ノエル・ギャラガー、ケイト・モス、ナオミ・キャンベルなど多数の有名著名人の姿があった[5]。
影響と評価 [編集]
政治性に関して [編集]
ツェッペリンの残した音楽性や奏法が、今なお後進のミュージシャンに多大な影響を与えたのは論を俟たないが、政治や社会性に触発されたと思しきストレートなメッセージ作品はほとんど残していないとも言われる。 一方で、1971年9月の来日時に旧広島県立総合体育館でチャリティー・コンサートを開き、当時の金額にして約700万円の売上金を広島市役所を通して原爆被災者に寄付している[6][7]。
復活したツェッペリン人気 [編集]
彼らの長髪やツアーの間の騒ぎなどは「反社会的」と言われることもあったが、1960年代から1970年代前半に多く見られたプロテストソングのような、反体制的な歌詞を歌っていたわけではない。ヘヴィーなサウンド、高い演奏技術と同時に、ケルト文学の造詣が深いロバート・プラントの歌詞は今も高く評価されている。「天国への階段」の歌詞が、資本主義に対する警鐘であるとも言われるが、プラント自身は後のインタビューで「深い意味なんて無い」とも語っている。また、ペイジやプラントが歌詞や行動を通じてほめのかしていた神秘主義(悪魔主義のアレイスター・クロウリーへの傾倒など)やケルト趣味は、1970年代前半においてはリスナーにバンドの背景に神秘的で得体の知れない危険なイメージを与えていた。
1970年代後半には、旧来のハード・ロックやプログレ、産業ロックへのアンチ・テーゼとして生まれたパンク・ロックやニュー・ウェイヴが、一大ムーブメントを形成していた。レッド・ツェッペリンは、ローリング・ストーンズやピンク・フロイドなどと「ダイナソー(恐竜=時代遅れ)・ロック」、「オールド・ウェイヴ」というレッテルを貼られてしまっていた。イギリスではストラングラーズ、ザ・クラッシュ、セックス・ピストルズなど、政治やストリートのリアルを反映したとされる「パンク・ロック」が人気を集た。レッド・ツェッペリンはそういった流れの中、1979年、アルバム「イン・スルー・ジ・アウト・ドア」を発表。英米のみならず、世界のチャートで売り上げは好調だった。。
1990年代には、パンク〜ニューウェーブを通過したオルタナティブ・ロックが世界を席巻したが、その中でもニルヴァーナやパール・ジャムに代表されるグランジロッカー達は、モトリー・クルーやボン・ジョヴィといったHR/HMバンドを軽蔑・酷評しながらも、レッド・ツェッペリンやブラック・サバスといったバンドの影響を口にしている。2000年代には、ガレージ・ロック・リバイバルの代表格バンド、ホワイト・ストライプスのジャック・ホワイトが再結成ライブに際し「ツェッペリンを嫌う奴は信用していない」などと発言(ペイジも、ジャック・ホワイトに関しては「最近のギタリストではNo.1」などと最大級の賛辞を送っている)。解散後の1980年代、1990年代、2000年代も世界でアルバムは売れ続けている。
ペイジの録音技術への拘りから、ツェッペリンの音源は同時代の水準に比べると高品質であり、それが後の時代のリスナーの鑑賞に堪える要因の一つになっているとも言われる。
再評価 [編集]
1980年代中期前後以降、ロックではなくR&Bやヒップホップなどのシーンにおいて、レッド・ツェッペリン独自のグルーヴ感、リズムが再評価され、「レヴィー・ブレイク」などがビースティ・ボーイズなどによりサンプリングされるようになった。(現在では「レヴィー・ブレイク」のドラムスは、サンプリングにおけるスタンダードの一つになっている)[8]。また、2005年にイギリスのロック専門ラジオ局、Planet Rockにおいて行われた、リスナーによる投票で各パートにおけるベストパフォーマーを選出し、架空の究極バンドを作ると言う趣旨の企画「究極のバンド」アンケートにおいて、結果的にレッド・ツェッペリンのメンバーがボーカル・ギター・ベース・ドラムに各パートで1位を独占するという現象がおこり、「究極のバンド」は実在していたという結果が出された[9]。
ディスコグラフィー [編集]
詳細は「レッド・ツェッペリンの作品」を参照
| タイトル | 備考 |
|---|---|
| レッド・ツェッペリン I (Led Zeppelin|) |
1969年1月12日発売/収録曲、ジャケット |
| ニュー・ヤードバーズでのツアーで演奏していた曲を中心にレコーディングしたため、レコーディング作業はわずか36時間で終えられた。全米売上:800万枚(米国内での生産分。輸入盤やブートレッグの売上は含まない) | |
| レッド・ツェッペリン II (Led Zeppelin II) |
1969年10月22日発売/収録曲、ジャケット |
| 英米でともに初となるアルバム・チャート1位を獲得。全米売上:1,300万枚 | |
| レッド・ツェッペリン III (Led Zeppelin III) |
1970年10月5日発売/収録曲、ジャケット |
| 「I」「II」で確立した「ハード・ロック」のイメージに拘泥することなくアコースティック・サウンドを追及したため、発売当時は賛否両論となった。全米売上:650万枚 | |
| レッド・ツェッペリン IV (Led Zeppelin IV) |
1971年, 11月8日発売/収録曲、ジャケット |
| 邦題は便宜上付けられたものである。正式なタイトル名は付けられていない無題のアルバムである。レコード版では内袋に記された天国への階段 の歌詞と収録曲の曲名以外に、ジャケットには一切の文字情報が記されていない。ここに記されたメンバー四人のシンボルマーク |
|
| 聖なる館 (Houses of the Holy) |
1973年3月28日発売/収録曲、ジャケット |
| ヒプノシスが制作したジャケットで裸の子供の写真が使用されているため、ジャケットに帯をつけたり写真の上にタイトルを重ねて子供を隠すなどの配慮がなされた。全米売上:1,200万枚 | |
| フィジカル・グラフィティ (Physical Graffiti) |
1975年2月24日発売/収録曲、ジャケット |
| レコード、CD共に2枚組。新録音曲がアルバム1枚分あったが、サード・アルバムから前作アルバムまでの録音曲を足して2枚組にしたもの。全米売上:1,630万枚 | |
| プレゼンス (Presence) |
1976年3月31日発売/収録曲、ジャケット |
| 後期の傑作のひとつであり、ペイジ自身が最も気に入っている作品といわれる。「アキレス最後の戦い」はじめ、シンプルだが重量感のあるサウンド。全米売上:350万枚 | |
| 永遠の詩 (狂熱のライヴ) (The Song Remains the Same) |
1976年9月21日発売/収録曲、ジャケット |
| 1973年の全米ツアー最終の3日間、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで録音されたライヴ音源を元に作られた、映画のサウンドトラック。ライヴ音源に手の込んだ後処理がなされており、映像版とは一部曲目が異なっている。
2007年11月、未収録曲6曲を加え、さらにリマスタリングとリミックスを施した「最強盤」として再リリースされた。 |
|
| イン・スルー・ジ・アウト・ドア (In Through the Out Door) |
1979年8月15日発売/収録曲、ジャケット |
| アナログ盤のアルバムジャケットは6種類あり、紙袋から出すまでどのジャケットか分からない仕組みであった。ジョン・ポール・ジョーンズの主導でレコーディングが行われたため、シンセサイザーがフィーチャーされた異色アルバムであるが、このアルバム発売直前の米レコード業界は低迷していたが、このアルバムと続いて全米ナンバー1に輝いたイーグルスの「ザ・ロング・ラン」により活況を取り戻したのが、この1979年の特徴であった。全米売上:650万枚 | |
| 最終楽章 (コーダ) (Coda) |
1982年11月19日発売/収録曲、ジャケット |
| 結果的には「ボーナムに対する追悼盤」の形になってしまったが、セカンドから前作の頃までに作られた未発表曲を集めたもの。全米売上:150万枚 | |
| BBCライヴ (BBC Sessions) |
1997年11月11日発売/収録曲、ジャケット |
| 1969年と1971年のBBCラジオでの放送用音源を纏めたもの。CD2枚組。完収録ではなく数曲が外されている。1969年のBBCでの放送はモノラルで行われたが、CDではステレオで収録されている。日本でも1974年にラジオ関東(ラジオ日本)の番組、「BBC・イン・コンサート」で、1971年4月1日に公開録音された音源の一部が初放送され、その後BBCから放送権を得たNHK-FMラジオにより1980年代までに数回放送された。 | |
| 伝説のライヴ (How the West Was Won) |
2003年5月27日発売/収録曲、ジャケット |
| 3枚組。1972年アメリカツアーでのLAフォーラム、ロングビーチなどでのライヴを収録。当時のステージでの典型的な演奏曲目はほぼ網羅されており、全盛期のバンドのライブ演奏が堪能出来る。 |
脚注 [編集]
- ^ レッドツェッペリン プレスリリース - ワーナーミュージック・ジャパン
- ^ 第18回日本ゴールドディスク大賞授賞式を開催 - Impress AV Watch 2004年3月11日
- ^ ツェッペリン、チケット申し込みが延長 - BARKSニュース 2007年9月17日
- ^ ライブレポート/レッド・ツェッペリン London O2 Arena - ギター・マガジン・オンライン 2007年12月27日
- ^ ツェッペリンの再結成ライヴ、訪れたセレブたち - BARKSニュース 2007年12月12日
- ^ 中国新聞記事抜粋、2003/08/15 (金) その2
- ^ 谷口悟「Led Zeppelinトリビュート・イン・ヒロシマ開催趣旨」 LED ZEPPELINルネッサンス。
- ^ ツェッペリンを好きじゃない奴は信用していない - BARKSニュース 2007年11月13日]
- ^ 夢のスーパー・グループはレッド・ツェッペリン - BARKSニュース 2005年7月12日
関連項目 [編集]
- ハードロック
- ブルーザー・ブロディ(プロレスラー。「Immigrant Song(移民の歌)」を入場曲とし、チェーンを振り回しウォッウォッと吼えながら入場した。)
- レズ・ツェッペリン(レッド・ツェッペリンのトリビュートバンド)
- LZ 129 (飛行船)(1stアルバムのジャケットに写真が使用された)
- ブートレッグ(現在においても音楽史上最大の数を誇っており、ペイジが定期的に来日して買い占めると言われている)
- レッド・ツェッペリン (テレビ番組)
- 剛田武 - 藤子・F・不二雄の漫画作品『ドラえもん』において、ツェッペリンのバンド名が入ったTシャツを着用しているシーンが散見される。14巻『人くいハウス』では「L.Zepp」、17巻『タッチ手ぶくろ』では「LED ZEPPELIN」、19巻『無敵コンチュー丹』では「L・Z」とロゴが入ったTシャツを着用している。
外部リンク [編集]
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