マドンナ (歌手)

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マドンナ
Madonna
マドンナ (2005年11月)
マドンナ (2005年11月)
基本情報
出生名 マドンナ・ルイーズ・チッコーネ
Madonna Louise Ciccone
出生 1958年8月16日(55歳)
学歴 ミシガン大学
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ミシガン州ベイシティ
ジャンル ポップス
ロック
ダンス
職業 シンガーソングライター
ダンサー
音楽プロデューサー
女優
映画プロデューサー
映画監督
ファッション・デザイナー
作家
実業家
慈善事業家
作詞家
作曲家
編曲家
担当楽器 ボーカル
ギター
パーカッション
シンセサイザー
ドラムス
ピアノ
活動期間 1979年〜現在
レーベル インタースコープライブネーションサイアーワーナー・ブラザーズ
共同作業者 ブレークファースト・クラブ
公式サイト

www.madonna.com


Madonna signature.jpg
マドンナの直筆サイン

Cher

マドンナ・ルイーズ・ヴェロニカ・チッコーネ(本名:Madonna Louise Ciccone、1958年8月16日 - )は、アメリカ合衆国ミシガン州出身のポピュラー音楽シンガーソングライター女優映画監督文筆家実業家。身長164cm。愛称は代表曲から来た「マテリアル・ガール (Material Girl)」、または「ポップスの女王」とも言われる。

人物[編集]

1980年代初頭のニューヨークのダンスクラブ・シーンに登場し、1982年にデビュー。1984年に、シングル「ライク・ア・ヴァージン」が大ヒットし、その大胆かつ挑発的なイメージで一躍世界的なメガスターになる。アルバムの代表作に『トゥルー・ブルー』、『ライク・ア・プレイヤー』、『レイ・オブ・ライト』などがあり、シングルの代表作に「ホリディ」、「クレージー・フォー・ユー」、「イントゥ・ザ・グルーヴ」、「パパ・ドント・プリーチ」、「ライク・ア・プレイヤー」、「ヴォーグ」、「ミュージック」、「ハング・アップ」などが上げられる。

MTVの到来により人気を得たミュージック・ビデオを駆使しながらポップアートと音楽を融合し、日本では「マドンナ旋風」[1] と呼ばれた現象的な成功を収める。セックス・シンボルとして不動の位置を固めるが、その後多様なイメージの変遷を繰り返し現在に至る。彼女の活動は音楽にだけに止まらず、レコード会社の設立、映画や舞台への出演、そして近年では児童書の執筆や映画監督なども行っている。

VH1の選ぶ「音楽界で最も偉大な女性アーティスト」の第1位 [2]ローリング・ストーン誌の「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」においては第36位[3]。デビュー以来数多くのヒットを生み出しており、ビルボード誌による、「チャート史上最も成功したトップ100のアーティスト」の中では第2位である[4]。シングルとアルバムの全世界での総セールスは、女性アーティスト最高の3億枚以上を記録し[5]、『ギネス・ワールド・レコーズ』では「全世界で最も売れた女性レコーディング・アーティスト」そして「史上最も成功した女性アーティスト」と認定されている[6] [7]2008年には、ロックの殿堂入りを果たした。また米国タイム誌では、「過去1世紀で最も影響力を持つ25人の女性」の一人に選ばれている[8]

来歴[編集]

1958年 - 1981年: 生い立ちから下積み時代[編集]

1958年8月16日、母の実家のあるアメリカ合衆国ミシガン州ベイシティ (Bay City) マーシー病院で、8人兄妹の3番目に出生。1987年ごろまで1961年生まれということにしていたが、1989年発売のCD『ライク・ア・プレイヤー』のライナーには1958年生まれとはっきり記載があるため、この頃までに元に戻したと思われる。ちなみに同い年で知られるプリンスマイケル・ジャクソンも同じく61年生まれと3才偽っていた時期がありこの点でも共通している。

父はイタリア系アメリカ人1世のシルビオ・チッコーネ、母はフランス系カナダ人のマドンナ・ルイーズ・チッコーネ。幼少期を、同州ポンティアック市 (Pontiac) で過ごし、後に家族が増えたため、同州ローチェスターヒル市 (Rochester Hills) へ転居した。

父は、GMのデザインエンジニア。実母は、マドンナが5歳の時乳癌で逝去し、父はほどなく再婚した。母の死や、父・継母との確執は彼女の精神性に大きな影響を及ぼし、「Promise To Try」「Oh Father」などの楽曲で歌われている。弟や妹の面倒もよく見ていた。そんな中でも、多くの習い事を幼い頃からしており、最初はピアノを習っていたが、父親に「バレエを習いたい」と懇願し、変えてもらう。その後、モダンダンスやジャズダンスなどのダンスを多く習い始める。

ミシガン大学に進学したが中退し、1977年、35ドルを手にグレイハウンドの長距離バスで郷里を後にニューヨークへ出発した。ニューヨーク到着後、タクシーの運転手に「この街で一番大きな場所へ行って!」と言い、タイムズスクエアで降りたマドンナは「私はこの世界で神よりも有名になる」と誓った。なお、ベジタリアンとなったのは、ニューヨーク移住後である。

1978年 ニューヨークで、『パトリック・エルナンデス・レビュー』にダンサーとして出演。他にも数々の職に就く。この頃出演していた成人映画が有名になってからビデオで発売された。1996年10月14日に生まれた長女は、「ルルド(英語読みでローデス)・マリア」と命名された。

1982年 - 1985年: ソロ・デビューからライク・ア・ヴァージン[編集]

1982年、DJのマーク・ケイミンズの仲介で、ワーナーブラザーズ・レコード傘下のサイアー・レコードと契約。その契約内容は、5000ドルと一曲ごとの印税に出版料として1000ドルを支払うというもの。 そして10月、シングル「エヴリバディ」で歌手デビュー。ビルボードのダンス・クラブ・チャートで最高3位に登るヒットになる。 続く「フィジカル・アトラクション」もニューヨークのクラブでヒット。なお、メジャーデビュー前の楽曲は『Early Years』などのタイトルで非公式に発売されている。

1983年、デビュー・アルバム『バーニング・アップ』が発表される。全米で400万枚、全世界で800万枚という成功を収めた。アルバムからは計5曲がシングルカットされ、「ホリディ」、彼女のビルボード初のトップ10ヒットになった「ラッキー・スター」などが発表される。「ホリディ」は全英チャートでは最高2位に登る初のトップ10ヒットになり、その後ワールドツアーで歌われる定番曲になった。音楽性は白人としては珍しくディスコ・ソウルであり、その後もゴスペルR&Bなどを取り入れたり、ブラックミュージックの要素を持っている。

1984年、第2作目のアルバム『ライク・ア・ヴァージン』が発売される。全世界で2000万枚、全11ヶ国でチャート第一位を獲得する。アルバムからの第一弾シングル「ライク・ア・ヴァージン」はメガヒットを記録する。マドンナにとって初のNo.1シングルで、全米チャート6週連続No.1を記録。全世界11ヶ国でNo.1を獲得し、一躍スーパースターの仲間入りを果たした。この頃から プロモーションビデオやステージにおけるセクシーで大胆なパフォーマンス、そして彼女の奇抜なファッションなどが社会的な反響を巻き起こした。「マリリン・モンローの再来」などと言われ、全世界のセックス・シンボルと呼ばれる(なおマドンナはモンローと反対側(右側)の口元にほくろがあることもモンローと比較される一因だったが、1990年代半ばにほくろを除去したとみられる)。全米でマドンナのユニークなファッションを真似たWannaBe's(ワナビーズ)という少女たちが急増し、社会現象になり、PTAは難色を示した。しかしマドンナの人気が衰えることはなかった。

1985年1月には、アルバムのプロモーションを兼ねて初来日。当時の人気音楽番組『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)に出演し、「ライク・ア・ヴァージン」を披露。日本でも同曲がヒットチャート上位にランクインした。 同アルバムからの第二弾シングル「マテリアル・ガール」(物質至上主義・拝金主義的な女性という意味)はマドンナ自身の代名詞ともなったが、彼女自身の人間性を表したものではない。非道徳的・反社会的な存在と見られがちだったが、社会貢献活動(特に後のエイズへの啓蒙活動など)に関心を持ち始める。同年7月、「ライヴエイド」に参加。アメリカ・フィラデルフィアのJFKスタジアムからの出演で「ホリディ」、「イントゥ・ザ・グルーヴ」、この為に書かれた「ラヴ・メイクス・ザ・ワールド・ゴー・アラウンド」の3曲を歌唱した。この年、映画『ヴィジョン・クウェスト』にクラブの歌手として出演、そして主演映画『マドンナのスーザンをさがして』も公開された。これらの映画からは、バラードとして初の第一位シングルとなった、「クレイジー・フォー・ユー」と全英第一位となった「イントゥ・ザ・グルーヴ」がそれぞれ生まれている。 8月16日、マドンナ27歳の誕生日に俳優のショーン・ペンと結婚する。同年、雑誌『PLAYBOY』に1979~80年にNYで撮影されたといわれているモデル時代のヌード写真が掲載された。

1986年 - 1989年: トゥルー・ブルーからライク・ア・プレイヤー[編集]

1986年の1月には夫のショーン・ペンとの共演する映画「上海サプライズ」の制作を始める。そのためロンドンのヒースロー空港に到着した二人だが、集まったパパラッチの騒動の中、カメラマンが、夫妻の乗るリムジンにぶつけられるという珍事が起こる。3月には第12回ピープルズ・チョイス・アワードで「最も人気のある女性音楽パフォーマー」に選ばれる。4月にはアルバム『トゥルー・ブルー』からの先行シングルである「リヴ・トゥ・テル」が発表される。当時この曲はショーン・ペンの主演映画「ロンリー・ブラッド (At Close Range)」の主題歌でもあった。6月には全米第一位に輝く。6月18日には第二弾シングル「パパ・ドント・プリーチ」が発表される。当時アメリカ社会で問題になっていた10代の妊娠について書かれたこの曲は社会政治団体を巻き込んだ論争となる。30日には「パパ・ドント・プレーチ」のビデオと共に第3枚目のスタジオ・アルバム『トゥルー・ブルー』が発売される。全曲の作詞やプロデュースを担当し、高いアーティスト性を発揮し始めた。全世界28ヵ国で第1位を記録する大ベストセラーになり、1988年の『ギネス世界記録』にも認定された。9月には第三回MTV ビデオ・ミュージック・アウォーズで特別功労賞であるヴィデオ・バンガード・アワードを受賞される。同じく9月には映画「上海サプライズ」が公開されるが、批評的そして商業的にも不発に終わる。12月にはチャート第一に輝いた「オープン・ユア・ハート」が発表。フランスの映像の奇才、ジャン・バプティスト・モンディーノによるヴィデオが話題になる。

1987年の1月には、第14回アメリカン・ミュージック・アワーズで「パパ・ドント・プリーチ」が「最も人気のある女性アーティストによるビデオ」を受賞する。2月には「オープン・ユア・ハート」が全米チャート第一位に輝く。ローリング・ストーン誌の第11回読者投票により、最優秀女性アーティストそして最もセクシーな女性アーティストに選ばれる。3月には第13回ピープルズ・チョイス・アワードで「最も人気のある女性音楽パフォーマー」に選ばれる。4月には「フーズ・ザット・ガール・ツアー」のリハーサルが始まる。5月には「ラ・イスラ・ボニータ」が全米チャート第四位に上る。6月にはアメリカの人気番組「ジョニー・カーソン・ショー」に出演、マドンナ初のトーク・ショー出演であった。そして初のワールドツアー「フーズ・ザット・ガール・ツアー」を敢行。6月14日にマドンナが日本公演のため2度目の来日を果たし、大阪に到着。2千人のファンが空港にマドンナを迎え入れる。大阪府警は「マドンナ対策会議」を設立し5百人の機動隊が動員されるという大騒動になった。いわゆる「マドンナ旋風」が巻き起こった。東京の後楽園スタジアムでのコンサートは台風のため中止、これに落胆したファン達が石や棒を投げ、怪我人が出るなど暴動化する騒ぎが起こった。4日間の日本公演に詰め掛けたファンは総数12万2千人。警備員5千4百人、警察官8百人など記録を作る。[9] その後ツアーは全米を回り、ヨーロッパで9月に完結する。7月には彼女主演の映画のサウンドトラックである「フーズ・ザット・ガール」が発表される。映画は8月に発表されるが、またしても不発に終わる。それとは反対にアルバムからは、全米チャート第一位に輝いたタイトル曲を含め、「コモーション」がそれぞれ大ヒットする。10月にはアメリカのフォーブ誌で年間最も稼いだ女性エンターテーナーとして掲載された。11月にはリミックス・アルバム『ユー・キャン・ダンス』を発表。すでにこの時期にはマドンナとショーンの結婚は陰りを見せ始めており、マドンナはロスの最高裁判所に最初の離婚届をだす。この離婚届は12月にマドンナ自身により破棄された。

1989年には4thアルバム『ライク・ア・プレイヤー』を発表する。同名のファーストシングルのプロモーションビデオで十字架を燃やすなどの大胆な演出を用い、世界的な宗教上の議論を巻き起こした。交際が噂されたプリンスとのデュエット曲も含む。同年、ペプシコーラ社との間で、コマーシャル出演料として6億円の契約を結ぶ。

1990年 - 1994年: ブロンド・アンビション・ツアーからベッドタイム・ストーリーズ[編集]

1990年3月、シングル「ヴォーグ」を発表、このプロモーションビデオで披露されたヴォーキングが流行して600万枚以上を記録する大ヒットに。4月には通算3度目のツアーである「ブロンド・アンビション・ツアー」を敢行、当時完成したばかりの千葉マリン・スタジアムを皮切りに4ヶ月間に渡って日本、北米、ヨーロッパを回る57公演を行う。ジャン=ポール・ゴルチエによる円錐形のブラの衣装と頭頂部から下げたポニーテールの髪型、性と宗教をテーマにした演出はヨハネ・パウロ2世を始めとする宗教団体を巻き込んだ話題と論争になった。5月、ウォーレン・ベイティー監督の映画『ディック・トレイ4シー』に出演したキャラクターを基に作られたアルバム『アイム・ブレスレス』を発表する。映画自体は6月に公開された。11月には、初のベストアルバム『ウルトラ・マドンナ~グレイテスト・ヒッツ(The Immaculate Collection)』を発売。ソロ・アーティストのベスト・アルバムでは史上最高の売り上げを記録し、今もなお、世界中で3千万枚を超えるロングセラーとなっている。

1991年1月には『ウルトラ・マドンナ~グレイテスト・ヒッツ』からの第一弾シングル「ジャスティファイ・マイ・ラヴ」が全米一位になる。プロモーションビデオでの同性愛からボンデージなど性的表現が過激と見なされMTV史上初の放送禁止になった。4月のカンヌ映画祭において、ブロンド・アンビション・ツアーの舞台裏から彼女の私生活までを赤裸々に綴ったアレック・ケシシアン監督のドキュメンタリー映画『イン・ベッド・ウィズ・マドンナ』が初公開される。公開当時、ドキュメンタリー映画史上最高の世界興行記録を更新した。

1992年に米タイム・ワーナーと当時としては破格の6千万ドルで契約。この契約により総合エンターテイメント会社「マヴェリック(Maverick)」を設立し、社長に就任する。10月には初の著作となる『SEX』を発表、スティーブン・マイゼルによる過激な性的描写の写真が世界的に話題となり、米国社会では論議を醸す。また、6枚目のスタジオ・アルバム『エロティカ』を同時発売。同じく性をテーマにしたアルバムだが実際には過激な内容の曲はごく一部で、エイズ渦を取り上げた「イン・ディス・ライフ」をはじめ社会性を意識し、精神度の高い曲が多い、しかしイメージ先行が災いして売上は伸び悩んだ。ただし日本では史上最多4度目の日本ゴールドディスク大賞洋楽部門アーティスト・オブ・ザ・イヤーに輝くヒットとなった。

1993年1月には主役映画『BODY/ボディ』(Body of Evidence)が公開される。腹上死をテーマにした映画で、キャッチコピーは「セックスで人を殺せるか」。前年に公開されたシャロン・ストーン主演の映画『氷の微笑』と内容が酷似しており、評判は最悪、興行収入も惨憺たるものだった。 4度目のワールドツアー「ザ・ガーリーショウ・ツアー」を敢行。初の南米ツアーも実施、アメリカやヨーロッパ以外での諸国でも公演が行なわれた。最終公演は日本で(福岡・東京)開催され、計8公演で約40万人を動員する。シングル「レイン」のビデオが1993年度MTV ビデオ・ミュージック・アウォーズにて最優秀美術部門と最優秀撮影部門を受賞した。

1994年3月に放映されたトーク・ショー『デヴィッド・レターマン・ショウ』に出演。当時メディアから批判、ジョークの的になっていたマドンナが、それらのジョークを言っていた一人であった司会者の番組で、不敬な俗語を13回も連発、世間の非難を浴びた。しかし、この一連の失敗が彼女に「脱セックスシンボル」を意識させるようになる。10月には7枚目スタジオ・アルバム『ベッドタイム・ストーリーズ』を発表。プロデューサーにはベイビー・フェイスを起用。バラード「テイク・ア・バウ」は自己記録最長となるビルボードHOT100で7週連続ナンバーワンを記録する大ヒットに。

1995年 - 1999年: エビータからレイ・オブ・ライト[編集]

1995年、日本で宝酒造焼酎「純」のCMに出演する。このCMでは未発表の楽曲が使用されている。9月には1995年度MTV ビデオ・ミュージック・アウォーズでシングル「テイク・ア・バウ」が最優秀女性ビデオを受賞。さらに、アルバム『ベッドタイム・ストーリーズ』が第38回グラミー賞にノミネートされる。11月には第2枚目のベストアルバム『ベスト・オブ・マドンナ~バラード・コレクション(Something To Remember)』をリリース。自己初となるバラードだけを集めた作品で、マドンナの新たなイメージを見せつけるきっかけとなった。本作品には、全米ナンバーワンを記録した「マイ・プレイグラウンド」を始めマッシヴ・アタックと共演したマーヴィン・ゲイのカバー曲「アイ・ウォント・ユー」、第一弾シングルになった「愛をこえて (You'll See)」など収録されている。売り上げは、全世界で900万枚を記録。この時期に映画『エビータ』のサウンドトラックを録音する。

1996年2月には長年にわたって熱望していたミュージカル映画『エビータ』の撮影が始まる。アルゼンチンの炎天下、精神的、肉体的にも過酷と言われた撮影が行なわれた。またこの頃に自分が妊娠している事を発見、さらに撮影を困難にする。出来上がった映画は総制作費60億円、85回に及ぶ衣装替えは映画史上最多を記録、ギネス世界記録に認定される。10月14日、待望の第一子が誕生する。名前は、ローデス・マリア・チッコーネ・レオン。ロスで知り合ったパーソナル・トレーナーのカルロス・レオンとの間に出来た長女である。

1997年、映画『エビータ』でマドンナの女優としての成果がついに認められ、第54回ゴールデン・グローブ賞のミュージカル・コメディー最優秀女優部門を受賞する。さらに、最優秀オリジナル主題歌部門など計3部門を受賞。さらに映画からの第一弾シングル「ユー・マスト・ラヴ・ミー」は第69回アカデミー賞で最優秀歌曲賞を受賞する。

1998年3月に第8枚目のアルバム『レイ・オブ・ライト』をリリース。「90年代最も優れたポップ音楽の傑作の一つ」[10]と称賛されたこの作品はエレクトロニカを導入した斬新なサウンドで知られ、全世界で1700万枚を売り上げる大ヒットになる。この頃から人生の精神的で神秘的な諸相の追求に傾倒し始め、ヒンドゥー教からヨガ、ユダヤ教神秘主義思想カバラを学び始める。アルバムからは「フローズン」、「レイ・オブ・ライト」を始め五つのシングルが発表される。1998年度のMTV ビデオ・ミュージック・アウォーズではその年最多受賞を記録し、最優秀ビデオ賞最(「レイ・オブ・ライト」)を始め合計6部門を受賞する。

1999年にはアルバム『レイ・オブ・ライト』が第41回グラミー賞で最優秀ポップ・アルバム賞、最優秀ダンス・レコーディング賞など合計4部門を受賞する。その授賞式では芸者姿を意識した赤い着物を着て「ナッシング・リアリー・マターズ」を披露した。映画『オースティン・パワーズ:デラックス』の主題歌として「ビューティフル・ストレンジャー」を発表。PVでは、主演のマイク・マイヤーズとの共演した。

2000年 - 2004年: ミュージックからRe-インヴェンション・ツアー[編集]

2000年、映画「2番目に幸せなこと」の主題歌「アメリカン・パイ」が世界中で大ヒット。 第9枚目のアルバム『ミュージック』を世界同時リリース。アメリカを含め、世界15ヶ国で初登場No.1を記録する。さらに、第一弾シングル「ミュージック」は1995年の「テイク・ア・バウ」以来となる全米ナンバーワンを記録。620万枚の売り上げを記録する大ヒットのなった。シングル「ビューティフル・ストレンジャー」が、第42回グラミー賞で最優秀主題歌部門を受賞する。 8月11日、第二子のロッコ・リッチー出産。イギリス人映画監督ガイ・リッチーとの間に出来た長男でマドンナは2児の母となる。12月22日スコットランドのドーノック大聖堂にてリッチーと結婚。

2001年2月、ロサンゼルスのステープルズ・センターで開催された第43回グラミー賞のオープニングで「ミュージック」を披露。スクリーンには過去のマドンナの映像がミックスされたビデオが流され、マドンナはリムジンで登場。 5月、通算4度目のワールドツアー「ドラウンド・ワールド・ツアー」がスペインからスタート。デトロイト公演(8月26日)は日本ではWOWOWで生中継された。第3枚目のベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ VOL.2』が発表される。1992年~2000年までの大ヒットシングルを15曲集めた90年代を総括する一枚となっている。

2002年、『007/ダイ・アナザー・デイ』の主題歌「ダイ・アナザー・デイ」が発表される。全米ビルボードHOT100で、通算35曲目となるTOP10入り(最高7位)を果たし、34曲という記録を持つビートルズを抜いた。 映画『スウェプト・アウェイ』が公開されるが、商業的に失敗に終わる。イギリスでは劇場公開されないままDVDでの発売に至ってしまった。

2003年4月、記念すべき第10枚目のアルバム『アメリカン・ライフ』をリリース。反戦を主張する過激なビデオ・クリップが議論を巻き起こし、折しもイラク戦争が開戦するというタイミングの悪さで、アメリカ国内でのラジオ局によるオンエアボイコットという事態にまで発展した。8月、2003年度のMTV ビデオ・ミュージック・アウォーズでブリトニー・スピアーズクリスティーナ・アギレラと共演、2人とディープキスする過激なパフォーマンスで話題を呼んだ。9月、初の児童書となる『イングリッシュ・ローズィズ』が世界100ヶ国以上、37ヶ国語に翻訳される『ハリーポッター』シリーズをしのぐ出版規模で、ニューヨークタイムズのベストセラーリスト(児童書部門)でNo.1を獲得する大ヒットに。

2004年、3年ぶりとなる5度目のワールド・ツアー「Re-インヴェンション・ツアー」が5月24日ロサンゼルス・グリート・ウェスタン・フォーラムを皮切りにスタートした。これまでのキャリアを回顧する構成で、全56公演中55公演を完売させ、トータル1億2500万ドル(約130億円)の収益を記録。この年のツアーの中でNo.1の収益となった。12月にはイギリスのミュージック・シーンに多大な影響を及ぼしたアーティストとして"Music Hall of Fame"(音楽の殿堂)に殿堂入りを果たす。彼女が設立したマヴェリック・レコーズは、アラニス・モリセットミシェル・ブランチといったスターを送り出し成功を収めたが、財政難から2004年に親会社ワーナー・ブラザーズに売却された。なおマドンナ自身の作品は前年の『アメリカン・ライフ』以降、マヴェリックを介さずワーナー・ブラザーズから発売されている。

2005年 - 2009年: コンフェッションズ・オン・ア・ダンスフロアからハード・キャンディー[編集]

2005年1月15日、スマトラ島沖地震・津波のチャリティ番組"Tsunami Aid:A Concert of Hope"に出演。マドンナはロンドンから出演し、ジョン・レノンの「イマジン」を披露する。78月16日、47歳の誕生日にプレゼントされた新しい馬にロンドン郊外のウィルトシャー州にある自宅の敷地内で乗馬していたところ、落馬。病院に運ばれ、鎖骨と手首を骨折、肋骨3本にひびが入る全治3ヶ月と診断された。10月21日には「Re-インヴェンション・ツアー」の模様や私生活の内容を収めた14年ぶりのドキュメンタリー作品『アイム・ゴーイング・トゥ・テル・ユー・ア・シークレット』を米MTVで初公開する。10月17日、新アルバムからの先行シングル「ハング・アップ」がリリースされる、70年代のディスコを意識し、ABBAの「Gimme Gimme Gimme」をサンプリングした。11月、第11枚目のアルバム『コンフェッションズ・オン・ア・ダンスフロア』を発売。全曲がノンストップのダンスチューンで構成される。11月3日、リスボンで開催された「MTV Europe Music Awards 2005」のオープニングで「ハング・アップ」を初パフォーマンス。アルバムは全世界40ヶ国のチャートで第一位、シングル「ハング・アップ」は全世界41ヶ国のチャートで第一位を記録し、それぞれ「ギネス・ワールド・レコ-ズ」でポップ・ミュージック史上、No.1最多獲得国数と認定される。一方「ハング・アップ」は米ビルボードHOT100でTOP10入りを果たし、全米TOP10シングル最多36曲を保持しているエルビス・プレスリーの記録に並んだ。売り上げは、自身最高となる全米で870万枚を記録。12月5~9日、アルバムのプロモーションのために1993年以来となる通算5度目の来日を果たす。プロモーション来日としては1985年以来、実に20年ぶりとなる。

2006年2月8日、米ロサンゼルスで開催された第48回グラミー賞のオープニングでヴァーチャル・バンド、ゴリラズとマドンナが共演、話題を呼んだ。グラミー授賞式の後にロサンゼルスの病院に入院。ヘルニアの手術を受けた。5月、通算6度目となる2年ぶりのワールドツアー「コンフェッションズ・ツアー」が2006年5月21日のロサンゼルス公演を皮切りにスタートする。北米を廻ったあと、欧州、そして9月には13年ぶりとなる日本公演が東京と大阪で決定。7月、『アイム・ゴーイング・トゥ・テル・ユー・ア・シークレット』が彼女初のDVDとCDの2枚組セットでリリースされる。8月23日、日本だけの来日記念盤として『コンフェッションズ・オン・ア・ダンスフロア~Japan Tour Edition』がリリース。オフィシャルとしては初の「ハング・アップ」「ソーリー」のPVとそのメイキング映像を収録したDVDが付いた2枚組。同時に、1990年代~2000年前半にかけてリリースされたアルバムが限定生産として再リリースされた。9月14日、マドンナが2005年12月以来の9ヶ月ぶりに来日を果たす。9月16,17日に京セラ大阪ドームで公演。大阪でのコンサートは、1987年の「Who's That Girl Tour」の大阪球場(当時)以来、実に19年ぶり。2日間の大阪公演で約6万人を動員した。 9月20,21日に東京ドームで公演。東京ドーム公演は1993年の「Girlie Show Tour」以来、実に13年ぶり。10月4日、アフリカ南部のマラウイの首都リロングウェに到着。目的は、エイズ孤児を支援するため500万ドルの慈善事業を展開し、その進展状況を視察するため。更にマドンナはデヴィッド・バンダ君(1歳)を養子に迎え、マラウイの高裁は養子縁組の仮決定を出した。これで、長女と長男と合わせ、3児の母となる。しかし、これらについてマドンナ養子縁組問題として全世界で論争を巻き起こす。2007年度版の『ギネスブック』でマドンナは「地球上で最も稼いだ女性シンガー」として認定された。

2007年1月下旬に、ライヴDVDとしては通算4枚目となる『コンフェッションズ・ツアー・ライヴ』(DVD+CD)がリリースされた。2月11日(現地時間)、ロスで開催された第49回グラミー賞にて『コンフェッションズ・オン・ア・ダンスフロア』が最優秀エレクトロニック/ダンス・アルバム部門を受賞した。4月16日、デイヴィットと長女ローデスと共に2度目のマラウイを訪問した。今回は、子供の医療施設の建設などのチャリティ活動の手伝いのために訪問した。5月中旬にはダウンロードのみの新曲「Hey You」を発表。ファレル・ウィリアムスとの共同プロデュース。7月7日に地球温暖化への興味を高めるために世界7都市で同時開催された『ライブ・アース』に出演。米経済誌「フォーブス」のウェブサイトが発表したミュージシャン長者番付でマドンナが第3位にランクイン、7200万ドル(約82億7000万円)を稼ぎ出した。10月には、デビュー満25年を迎えた。10月16日、米国の最大手コンサートプロモーション会社ライブ・ネーションと10年間の包括的契約(アルバム3枚の発売・ライブツアー・商標権等)を締結[1]。25年にわたって所属したワーナー・ミュージック・グループを去ることになる。近年はレコード業界全体の売上が低迷する一方、マドンナらベテランアーティストがツアーで商業的に成功する例が目立ち、音楽業界の構造が変化している。過去に例がない今回の大型契約はその潮流を反映するものとして注目を集めている。12月13日、マドンナの「ロックの殿堂入り」が決定した事が殿堂の運営団体から発表された。

2008年、16日、5月スタートの月9ドラマ『CHANGE』の主題歌をマドンナが担当することが発表された。制作側からダメモトでマドンナにオファーしたところ快諾。ドラマのために書き上げたという「マイルズ・アウェイ」を完成させた。ちなみに、マドンナがドラマ主題歌を務めるのは世界初のこと。4月29日には、通算12作目のアルバム『ハード・キャンディー』を発表。プロデューサーにはジャスティン・ティンバーレイクティンバランドファレル・ウィリアムスら。本作がワーナーからの最後のオリジナルアルバムとなる。4月20日付の全英チャートで、第一弾シングル「フォー・ミニッツ」が通算13作目のNo.1を記録した。女性アーティストとしては、単独1位である。『ハード・キャンディー』は世界36ヶ国でNo.1を獲得。8月23日から通算7度目のワールドツアー『スティッキー・アンド・スウィート・ツアー』がスタート。初日はイギリスのカーディフ。10月15日にマドンナの広報リズ・ローゼンバーグがリッチーとの離婚を正式に発表した。

2009年、米ビルボード誌が発表した高所得者リスト「Moneymakers」によると、2008年の収入が2億4217万ドル(約220億円)に上ったことが判明した。その大半はワールドツアーの「Sticky & Sweet Tour」の収益によるもので、楽曲のセールスよりもコンサートによる収益の方が総収入においてはるかに割合を占めていることがわかった。9月30日(海外は9月28日)に彼女の全キャリアを総括したベストアルバム『セレブレイション~マドンナ・オールタイム・ベスト~』が発売。このベストは1枚単体と2枚組との同時発売がされた。また同タイトルのビデオ・コレクションも発売された。

2010年 - 現在[編集]

2010年11月29日、フィットネスクラブ・チェーン店の「ハード・キャンディ・フィットネス」第1号店をメキシコ市にオープンした。店は市の高級地区に、3階建て計3000平方メートルでオープンし、マドンナのアルバムから取って「ハード・キャンディー・フィットネス」と名付けられた店は、マドンナの理想とするフィットネスクラブを実現するもので、最新式の心血管系コンディショニング装置を備え、ヨガやブラジルの格闘技的舞踊のカポエイラなども取り入れた革新的なトレーニング方法を用いる。メキシコ店に続いて、アルゼンチン、ブラジル、ロシアのほか、まだ特定はされていないが欧州、アジアの国にも店舗を拡大していく予定という。10代女性向きのファッションブランドMaterial Girl展開に力を入れた。

2012年3月26日、約4年ぶりとなるニューアルバム「MDNA」を発売予定、それに先駆けて2月3日M.I.A.ニッキー・ミナージュをフィーチャリングしたニュー・シングル「ギヴ・ミー・オール・ユア・ラヴィン」をリリースした。この曲は全米でTOP10を記録した。2月5日第46回スーパーボウルハーフタイムショーに出演、新曲「ギヴ・ミー・オール・ユア・ラヴィン」に加え「ライク・ア・プレイヤー」、「ヴォーグ」、「ミュージック」など往年の大ヒット曲も披露、さらにゲストとしてM.I.A.ニッキー・ミナージュシーロー・グリーンLMFAOも登場しステージは大盛況の内に終わった。12thアルバム「MDNA」が自身通算8作目の全米第1位を記録。2000年「ミュージック」以来5作連続の首位獲得となった。同時に全英チャートでも1位を記録。こちらは通算12作目の首位獲得となった。

ディスコグラフィ[編集]

ツアー・ライブ[編集]

マドンナの作品群(楽曲以外)[編集]

マドンナの業績[編集]

参考文献・出典[編集]

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  1. ^ 広告景気年表 株式会社電通1987年 (参照: 2008年5月12日)
  2. ^ VH1's 100 Greatest Women In Music VH12012年 (参照: 2012年6月7日)
  3. ^ 100 Greatest Artists of All Time Rolling Stone2011年 (参照: 2013年8月30日)
  4. ^ Hot 100 55th Anniversary By The Numbers: Top 100 Artists Billboard2013年 (参照: 2013年8月30日)
  5. ^ ^ Egan, Barry (2010-01-03). "U2 strike a chord in the best albums from 2009". The Independent (Independent News & Media). (参照: 2011年12月19日)
  6. ^ ギネス・ワールド・レコーズ/Top Selling Female Recording Artist ギネス・ワールド・レコーズ、 (参照: 2011年12月19日)
  7. ^ Bowman, Edith; Sellars, Peter "BBC World Visionaries: Madonna Vs. Mozart" 英国放送協会 2007年5月26日。 (参照: 2008年5月12日)
  8. ^ Castillo, Michelle (2010-11-18). "The 25 Most Powerful Women of the Past Century: Madonna (1958–present)". Time. (参照: 2011年12月8日)
  9. ^ <あのころ>マドンナ旋風 入場者は4日間12万人”. 47NEWS (1987(昭和62)年6月14日). 2012年1月7日閲覧。
  10. ^ Cinquemani, Sal (2003年3月9日). “Madonna - Ray Of Light - Music Review”. Slant Magazine. 2009年7月17日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

公式サイト[編集]

ウェブ・ディレクトリ[編集]