広島平和記念資料館

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Japanese Map symbol (Museum) w.svg 広島平和記念資料館
Hiroshima Peace Memorial Museum 2008 01.JPG
施設情報
正式名称 広島平和記念資料館[1]
専門分野 広島市への原子爆弾投下の惨状を伝える
事業主体 広島市
管理運営 公益財団法人広島平和文化センター(指定管理者)[2]
開館 1955年
所在地 730-0811
広島県広島市中区中島町1-2
(入場口がある東館。座標位置もそちら)
位置 北緯34度23分29.3秒 東経132度27分11秒 / 北緯34.391472度 東経132.45306度 / 34.391472; 132.45306
プロジェクト:GLAM
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館内に展示されている腕時計(許可を得て撮影)。原爆投下時刻で停止している。
館内に展示されている石仏の頭部。原爆の熱線により表面が焼けただれている。現在の本館の位置に所在していた誓願寺の跡で発見された。

広島平和記念資料館(ひろしまへいわきねんしりょうかん)は、広島県広島市中区に所在する博物館(平和博物館)である。「原爆資料館」(げんばくしりょうかん / もしくは「平和資料館」)とも称される。

目次

概要 [編集]

中島町広島平和記念公園敷地内に所在し、広島原爆の惨状を後世に伝えるための施設として当初は「広島平和会館原爆記念陳列館」の名称で開館した。運営は広島市出資の財団法人広島平和文化センターが行っている。

2012年1月現在の入場料は、大人50円・小人30円(小・中・高生)。団体料金は、大人が30人以上の場合40円。小人が20人以上の場合は無料になる。

国指定の重要文化財である西側の「本館」と、東側の「東館」からなり、観覧は東館から入場し本館から退出するコースとなっている。東館には原爆投下までの広島市の歴史や原爆投下の歴史的背景に関する展示があり、本館では広島原爆の人的・物的被害に関する展示が行われている。特に、原爆投下直後の壊滅した広島市街地の縮小模型、全身を焼け爛れさせながら火の中を逃げまどう被爆者の等身大ジオラマ、被爆死した三人の動員学徒が身に着けていた制服の残骸を組み合わせて一体の人形に仕立てた「三位一体の遺品」や「黒焦げの弁当箱」など被爆死した動員学徒[3]たちの遺品、本通住友銀行広島支店から1971年に移設された「人影の石[4]などの展示物はよく知られている。東館・本館併せて全ての展示物の観覧には本来3時間かかるとされるが、実際の平均見学所要時間は約40分であるという[5]

訪問者の累計は5301万人(2005年5月末迄)で年間百万人台で推移している[6]

沿革 [編集]

1945年8月6日、世界最初の原子爆弾に被爆し多くの人的・物的犠牲を払う惨禍に見舞われた広島市では、第二次世界大戦後の早い時期から学術機関のみならず市民の手で被爆資料の収集が行われていた。この活動の中心となっていたのは当時広島大学理学部地質学教室の嘱託を務めていた長岡省吾[7]であり、収集された資料は市の中央公民館の一角に設置された「原爆参考資料陳列室」に展示されていた。しかし、所蔵資料の増加に伴い、原爆の惨禍を広く世界にアピールするため、これらの保管・展示を目的とする施設を求める声が高まっていった。

同時期、爆心地である中島地区を新たに平和記念公園として整備する構想が進んでいたが、資料展示施設は公園の全体設計を担当した建築家・丹下健三により公園の目玉施設として位置づけられるに至った。丹下の設計による「広島平和会館原爆記念陳列館(現・広島平和記念資料館)」は1955年に開館し、これにともない中央公民館の被爆資料は「陳列館」に移されて展示・保管され、初代館長には長岡が就任した。

開館当初の広島平和記念資料館は現在の「本館」(写真の左手前側)のみであったが、設計者の丹下によってコンペ(広島平和記念公園及び記念館競技設計)当初より、資料館の西側に「集会所」として広島市公会堂(現在の広島国際会議場)を、東側(画像の右手奥側)には広島平和会館本館(平和記念館 / 現在の東館)を配して、それらを空中回廊で結んで3棟一体の建築とするよう計画されていた[8]

1973年から1975年に掛けて、第1回目の大改修が行われた。劣化したコンクリートの補修。また、窓ガラスを赤外線を遮断するタイプに交換。収納庫の新設。これまで未整備だった空調設備が整備され、被爆資料の保管環境を向上させた[9]

1991年に展示内容の見直し、改装が行われた(2度目の大改修)。1994年に平和記念館を改築した時に旧来の平和記念資料館と併せて「平和記念資料館(東館・西館)」と呼ぶようになり、当初からの建物を西館、記念館跡地に新たに建設されたものを東館と称した。この改築に際して2館は空中回廊で連結され、以後入館時には東館から入場し西館から退館するようになった。

1998年には広島国際会議場と合わせて公共建築百選に指定。1999年には広島ピースセンター(広島平和記念資料館および平和記念公園)として日本の近代建築20選(日本におけるDOCOMOMO150選)に指定。2006年には、資料館西館が、同じく広島市内の世界平和記念聖堂とともに、第二次世界大戦後の建築物としては初めて国の重要文化財に指定された。この指定を機に、従来の「西館」の名称は「本館」と変更された。

現状 [編集]

観覧に際して前半の東館の見学に時間を取られ、原爆被害を展示する本館の見学がなおざりになったり、重要文化財となった本館が老朽化し維持管理に不安が生じているなどの問題点が指摘されている。これらに関しては、本館~東館の順で見学できるよう順路を変更したり、本館に免震装置を付けてできるだけ現状を維持する案が出ている。

シュモーハウス [編集]

シュモーハウス

2012年11月1日、中区江波二本松に付属展示施設『シュモーハウス』が開館し、一般公開された[10]。前身は、フロイド・シュモーが1949年から1953年の間に建設した『広島の家』の21戸うちの一つ『シュモー会館』で、2011年まで集会所として使われ、現存する唯一の建物になっていた[11]広島南道路延伸により予定地に当たることに伴い、曳家で現在地に移転。被爆後の日本国外から広島への支援を紹介する施設として整備された[12]

訪れた著名人とその平和へのメッセージ [編集]

開館以来、多くの著名人も来館し平和へのメッセージを記帳している。エルネスト・ゲバラ(1959年)、ヨハネ・パウロ二世(1981年)、ジミー・カーター(1984年)、マザー・テレサ(1984年)、ダライ・ラマ14世(1995年)の他、各国の首脳、ノーベル平和賞受賞者が来館している。 現在では恒例となっている日本の内閣総理大臣の平和式典の出席も、1971年原爆投下後26年目にして初めて出席した佐藤栄作に続くものである[13]

以下に著名来館者と彼・彼女らの残した「平和へのメッセージ」の一覧を示す[14]。メッセージの全文はMFP(Message for Peace)で閲覧可。(注:以下のリストは主に同資料館のサイトの情報より掲載しているが、1980年以前と2007年以降のデータは1971年の佐藤栄作以外は資料館のサイトには出ていない。)

脚注 [編集]

  1. ^ 広島平和記念資料館条例
  2. ^ 広島市指定管理者制度
  3. ^ 被爆当日は、現在の平和記念公園に相当する爆心地付近の中島地区の建物強制疎開の作業日になっており、朝からこの作業に動員されていた多数の中学高女生徒が、原爆の直撃を受け犠牲となった。
  4. ^ 原爆投下時、同支店の玄関の石に腰掛けて開店時間を待っていた女性(遺族や目撃者の証言からほぼ特定されている)の影が熱線により焼き付けられたとされていたが、正確には人体からの抽出物が黒い影状の染みを残したものである。戦後長い間同支店前にガラス張りケースを付け現状保存されていたが、「影」が日光の照射を受け時間の経過とともに薄くなったため資料館に移設された。現在はかなり見えにくくなっている。
  5. ^ その主な理由は、館内(特に本館)の展示内容が余りにも残酷なため、見学者の多くは展示物をゆっくり正視できず足早に通り過ぎて行くためとされる。そのため、館内の展示内容についてはもっと残酷性を抑えてもらいたいとする要望も少なくないが、展示内容の残酷性を抑えると見学者に戦争の悲惨さを伝えることができなくなるとする意見も多く、資料館の運営上の大きな問題点となっている。なお、展示物の中でも最も残酷と言われる被爆者の等身大ジオラマについては、今後は模型よりも実物資料の展示を充実させる方向で館内の改装を進めていくため、2016年度に撤去される予定であるが、このジオラマの撤去計画に対しては「ジオラマは原爆の恐ろしさを見学者に理解させるために必要」などといった内容の反対意見が多数寄せられており(『中国新聞』2013年3月15日および3月19日記事)、またインターネット上でもフェイスブックを中心に大規模な撤去反対運動が展開されている。
  6. ^ 「原爆資料館、今夏50周年」『中国新聞』2005年6月27日付記事
  7. ^ 井上ひさしの戯曲を黒木和雄監督で映画化した「父と暮らせば」の登場人物「木下」(浅野忠信が演じた)のモデルでもある。
  8. ^ 今日、3棟一体の施設はランドスケープにおいて、広島市を東西に貫く平和大通りと直交する 原爆ドーム - 原爆死没者慰霊碑 - 広島平和記念資料館本館 の南北軸線を対称軸にした一見シンメトリーな配置に見えるが、改装前に西ウィングに建てられていた公会堂はル・コルビュジエソビエト・パレス計画案[1]を模して、台形状のボリュームを持った建物であった。東ウィングの広島平和会館本館(現・広島平和記念資料館東館)の東西方向の柱間が7間であるのに対して、西ウィングの現・広島国際会議場の東西方向の柱間が9間であることに、その名残をとどめる。ただし、台形状のボリュームの公会堂と相互貫入する形で併設されていた「新広島ホテル」の部分は、右ウィングと相同の形状の東西南北7間の柱間を持っていた。[2]を参照のこと。
  9. ^ 中国新聞 日刊 1975年2月28日 15ページ「新装の原爆資料館あすオープン 保存対策 特殊ガラスや収納庫」
  10. ^ 「シュモーハウス」開館へ 広島、1日から一般公開 - 47NEWS 2012年10月31日
  11. ^ 広島平和記念資料館シュモーハウスが開館します - 広島市 2012年10月29日
  12. ^ 被爆後の海外からの支援を紹介 シュモーハウスがオープン! - 広報ひろしま 市民と市政
  13. ^ 中国新聞、「首相と8・6」
  14. ^ 広島平和記念資料館 平和へのメッセージ 閲覧2011-7-20

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]