パティ・ボイド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

パトリシア・アン・ボイド(Patricia Anne Boyd、1944年3月17日 - )は、イギリスモデル写真家

ジョージ・ハリスンエリック・クラプトンの前妻として著名である。ハリスンの「サムシング」および「フォー・ユー・ブルー」、クラプトンの「いとしのレイラ」、「ワンダフル・トゥナイト」 や「ベル・ボトム・ブルース」といったラブソングにインスピレーションを与えたとされる。

来歴[編集]

幼少期、モデルとしての初期

サマセットトーントンで、コリン・イアン・ラングドン・ボイド (Colin Ian Langdon Boyd) とダイアナ・フランシス・ドライスデール(Diana Frances Drysdale)(1942年8月結婚)の間に産まれる。長女であり、コリン(1946年)、ヘレン・メアリー(1947年、後にジェニーと呼ばれ、ミック・フリートウッドと結婚する)、ポーラ(1951年)の3人の妹がいる。ボイドは彼女のお気に入りの人形の名前からヘレン・ジェニーと呼ばれていた[1] 。パイロットであった彼女の父親が第二次世界大戦での負傷によりイギリス空軍から除隊された後、1948年から1953年の間、ボイドはケニアナイロビに居住した。両親は1952年に離婚し、母ダイアナは1953年にタンガニーカ(現在のタンザニア)にてロバート・ゲイマー・ジョーンズ (Rober Gaymer-Jones)と再婚。その後2人は4人の子供を連れてイギリスへと帰郷する。夫婦はその後デヴィッド J.B.(1954年)とロバート・ジュニア(1955年)の二人の子供をもうけた。彼らはパティの義兄弟にあたる。パティ自身は修道院付属の寄宿学校に1961年まで所属したのち、1962年にロンドンへ移住。ロンドンでファッション雑誌にスカウトされ、モデルとしての活動を始めた。初の仕事はエリザベス・アーデンのシャンプーの宣伝だった[2][3]

1962年からファッションモデルとしての活動を開始。ボイドはやや出っ歯であったため、当初はカメラマンたちに受け入れられず、中には「モデルたちはウサギに似てなどいない(ウサギのような前歯のボイドはモデルにふさわしくない)」という人までいた[1]。しかし数年の活動を経てモデルとして受け入れられ、ロンドンニューヨークパリマリー・クワント等)でモデルとして活躍した。撮影は主にデヴィド・ベイリー(David Bailey)やテレンス・ドノヴァン(Terence Donovan)といったカメラマンが行った[4]

1964年には、ヴォーグのイギリス版およびイタリア版の表紙に登場[5]。ジョージ・ハリスンの恋人になった後は、グロリア・スタヴァーズ (Gloria Stavers) からシックスティーン・マガジンに連載を持つ話を持ちかけられる[6]。 1960年代の人気モデルであるツイッギーは、1966年にモデル業を始めた時に、ボイドのスタイルを参考にしていると発言した[7]

ジョージ・ハリスン

1964年、ボイドが19歳のとき、彼女はハリスンと出会う。きっかけは彼女が『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! 』にビートルズファンの女学生役で出演していたことだった[8]。しかしボイドは一年に渡って交際していたエリック・スワイン(Eric Swayne) と婚約寸前であったため、彼への愛情から最初のデートの誘いは断った。ただ彼女は、ハリスンは今まで出会った中で最も美しい男性だとも語った[7][9]。最初にハリスンが彼女に言ったことの一つは「結婚しないかい?」だった。ボイドが笑ったため、ハリスンは「じゃあ、結婚してくれないなら、今夜夕食でもどう?」と言ったという。数日後、ボイドが映画の撮影に呼び戻された時、ハリソンは彼女を再び誘い、そこで彼女はスワインとの関係を終わりにすることを決めた。二人の初めてのデートはコヴェント・ガーデンにあるギャリック・クラブ(会員制の紳士向けクラブ) にて、ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインを交えたものだった[10]

1965年、ボイドはハリスン、ジョン、そしてシンシア・レノンが初めてLSDに遭遇した時にその場に居合わせていた[11]。原因はロンドンの警察官の息子で歯科医のジョン・ライリー (John Riley)が彼らのコーヒーにLSDを混入させていたことだった[12][13]。4人は怒り狂い、激しい恐怖感を覚えた。興奮状態の中で、ボイドは店の窓を壊すところであったが、ハリスンが彼女を引き戻した[14]

1965年12月、二人がロンドンをドライブしていた時、ハリスンはボイドにプロポーズをしたが、ビートルズのツアー予定が無いことを確認するためにまずエプスタインと話さなければならないとも言った[15]。1966年2月21日、サリーエプソムにて、ポール・マッカートニー(付添人)とエプスタインの出席のもと、ボイドはハリスンと結婚。ジョン・レノンリンゴ・スターは妻と共に海外旅行に行き、結婚に関するジャーナリスト達の調査をかわしていた[9]。1965年、パティはジョージとの生活をキンファウンス(Kinfauns)にて始める[16]。二人は後にエプスタインと共に休暇を取り、フランス南のエズ近くにあるキャプ・エステル(Hotel Cap Estel)に滞在した[15]

1966年9月、レノンがスペイン僕の戦争(How I won the War)を撮影している間、ハリスンとボイドはシタールの名手であるラヴィ・シャンカルの客人としてボンベイに滞在しており、1966年10月23日にロンドンに戻ってきた[17]。1967年8月24日、かねてから東洋神秘学に関心があり、スピリチュアル・リジェネレーション・ムーブメント(Spiritual Regeneration Movement)に参加していたボイドは、ビートルズをインドの神秘論者マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーと会わせることを思い立つ。結果として彼らはバンガーを訪れ、彼と交流を持つこととなった[12][18][19]。1967年6月25日、ボイドはわれらの世界での愛こそはすべての放送に参加[20]。1968年、インドのリシケシュ(Rishikesh)にあるマハリシのアシュラム(ashram)をビートルズが訪れた際、彼女も同行した[21]

ハリソンとの破局

レノンとミック・ジャガーもまたボイドに引かれていたと発言しており、ジャガーは1980年代当時の恋人であったベベ・ビューエル(Bebe Buell)に、彼がボイドを数年に渡って誘惑したがダメだったことを告白している[19][22]。1973年、ボイドは後にローリング・ストーンズのメンバーとなるロン・ウッドと軽い浮気をし、そこでハリスンとは破局した[23]。 ボイドによると、ハリスンは彼女との休暇を取り消し(病気であったとしている)、ウッドの妻であるクリシーを誘ってサルバドール・ダリに会いにスペインに行っていたという。しかしハリスンはクリシーと関係を持ったことを後に否定している[24]。ボイドの弁解は、ハリスンがクリシー・ウッドとスペインに行っている間、彼女は妹のポーラと共にバハマへ旅行しており、そのときにロン・ウッドが同行したいと言ってきたというものだった[24]。ボイドとウッドはロンドンに帰るとすぐ記者たちに嗅ぎ付けられ、1973年11月25日に二人のことが報道される。ボイドはハリスンの宗教への加熱と性格の変貌が、取り返しがつかないほど彼女を遠ざけたと述べている。その後1974年の6月に離婚。ボイドはロサンゼルスにいた妹のジェニーのもとに身を寄せた。

エリック・クラプトン

1960年代の終盤、クラプトンとハリスンは親しい友人となり、作曲やレコーディングを共に行うようになった。クラプトンがボイドに恋に落ちたのはこの頃とされている[9]。クラプトンはまたボイドの17歳の妹のポーラにも恋をし、彼女自身も彼に引かれていた[9]。しかしポーラはいとしのレイラを聞いてクラプトンの元を去った。クラプトンがポーラを姉の代わりとしか見ていないことが、その曲から明らかであったからである[24]。ボイドは1970年代の前半に彼女がクラプトンのアプローチを拒絶した後、彼がヘロイン中毒に陥り、アリス・オームズバイ・ゴアと三年間放浪したと発言している[24]。一方で、クラプトンのデレク・アンド・ザ・ドミノスの唯一のスタジオアルバムであるいとしのレイラは、彼のボイドに対する愛を明らかにするために書かれたものであった。アルバムは同名の曲「いとしのレイラ」を収録しており、この曲は30年に渡って二つのヴァージョン共にヒットした[12]

ボイドと過ごしていた1977年6月、スイスのヴェッツィコーンのアイシャル・シアターにてライブを行うクラプトン

二人は1979年に結婚。外面的には完璧なカップルであったが、結婚生活は争いに満ちていた。ボイドは飲酒および薬物の使用を認めているのにも関わらず、クラプトンとは違い彼女はアルコール依存症薬物依存症になることはなかった[25]。ボイドはクラプトンがアルコール依存症の治療を試みなくなったことで彼から去ったと述べている。そして彼女は、写真家のウィル・クリスティーと付き合うようになる[26]。1984年にクラプトンはイボンヌ・ケリーと一年に渡って関係を持ち、1985年の1月に彼女との間に娘のルースが産まれた[27]。クラプトンとケリーは娘の誕生について一切公表しておらず、1991年に行われたクラプトンの息子のコナーの葬式まで彼の子供と明かされなかった[28]。ボイドは「最も傷ついたのはエリックが最初から子供のことを知っていたこと。彼は私への愛がまだあると復縁を迫っていた一方で、イボンヌに養育費を六年にも渡って支払っていたの。」[26]ボイドはクラプトンのアルコール依存症と結婚前から始まっていた幾度もの情事を数年間耐えた上で、彼と離婚したとしている[19][26]。結局、クラプトンのイタリアモデルのロリ・デル・サントとの浮気が決め手となり、クラプトンとボイドは1989年に離婚した。ロリ・デル・サントは1986年にコナーを出産していた[29]。またボイド自身は体外受精を試みたにも関わらず、妊娠することができなかった[26][29]。ボイドとクラプトンは離婚原因を「不貞行為(infidelity and unreasonable behavior)」としている[26]。二人の関係が散々なものだったのにも関わらず、二人はその後数年に渡り友人であり続けた。

写真と自伝

彼女が撮影したハリスンとクラプトンとの日々の写真展が、2005年のバレンタインデーにサンフランシスコ・アート・エクスチェンジで開かれ、"Through the Eye of a Muse"という題名がつけられた[12]。 展覧会は2006年の2月にサンフランシスコで、同年の6月から7月の6週間に渡ってロンドンで再び行われた。また2008年にはカリフォルニアラホヤにあるモリソン・ホテルでも展示された。2008年9月にはダブリンのギャラリー・ナンバー・ワン、2008年の11月12月にはカナダトロントのグレート・ホールにて展示されている。同展はまた2009年12月にオーストラリアシドニーのブレンダー・ギャラリー、2009年12月28日から2010年1月10日までにはバルバドスとランカスター・グレート・ハウスにて展示された。

またボイドの自伝である「プルーク」「ワンダフル・トゥデイ」が2007年8月23日にホッダー・ヘッドライン社から刊行された。アメリカでは「ワンダフル・トゥナイト」として2007年8月28日にハーモニーブックスから刊行され、彼女の写真を同梱している。自伝には、950,000ポンド(日本円にして約1億3000万円)が前渡金として支払われた[19][30]。ジャーナリストのペニー・ジュノーとの共著である。 この企画を聞いた彼女と交友関係にあった有名ミュージシャンたちは、今まで世間に知られていなかった彼ら自身の不名誉な話や、様々な悪行が表沙汰になるのを恐れて戦々恐々だったが、結局内容は俎上に上がった有名ミュージシャンからの高額な名誉毀損訴訟を恐れたボイドが、あえて自主規制をした内容だったので衝撃的な暴露ネタはなく、かなり穏便な内容になっている。

現在では、ボイドはウェスト・サセックスの17世紀に建てられた小別荘に暮らしており、彼女の自伝とクラプトンの自伝の販売競争を楽しんでいるといわれている[19]。アメリカでは、ボイドの本はニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに初登場1位となった[31]

曲へのインスピレーション[編集]

ボイドはハリスンのビートルズとしての楽曲、「サムシング」にインスピレーションを与えたと主張している。この曲はフランク・シナトラにここ50年で最高のラブソングと言わしめた[32]ほどの名曲であり、ハリスンの代表曲と呼ばれている。ボイドはハリスンが「サムシング」を彼女のために書いたと言ったとしているが、二人が離別した後は、ハリスンはレイ・チャールズのための曲を考えていたと言っている[24]

ボイドはまた「ベル・ボトム・ブルース」にもインスピレーションを与えたとしている。伝えられるところによれば、クラプトンがマイアミへの旅行帰りに彼女にジーンズをプレゼントした後にこの曲を書いたということである[24]。これは同じアルバムの「いとしのレイラ」にも現れている。この曲名はクラプトンが友人から聞いたペルシアに伝わる報われない愛の物語『ライラとマジュヌーン』から取られている[33]

1976年9月7日に、クラプトンはポール・マッカートニーリンダ・マッカートニーの年一度のバディ・ホリーパーティへのボイドの準備が済むのを待っている間に、ワンダフル・トゥナイトを書いた。「ワンダフル・トゥナイト」について、ボイドは「私は何年もあの曲に傷つけられているわ。エリック、その前はジョージにああいう曲を書く刺激を与えたことは私にとってとても嬉しかった。『ワンダフル・トゥナイト』は二人の関係を最も強く思い出させるの。だから、うまくいかなくなってしまった今では聴くことがとても苦痛だわ。」と言った[26]

脚注[編集]

  1. ^ a b Biography”. Piczo. 2008年3月6日閲覧。
  2. ^ Giuliano, Geoffrey. Dark Horse - The Life and Art of George Harrison. Da Capo Press. http://books.google.com/books?id=Z3LucGjG_7AC&pg=RA1-PA240&dq=pattie+boyd&ie=ISO-8859-1&sig=jagEoUVOb41KW18YdRe3w3sfuhY 2008年3月6日閲覧。. 
  3. ^ A Pattie Boyd Biography”. Fortune City. 2008年3月6日閲覧。
  4. ^ Pattie Boyd, Quant and Bailey”. Geocities (2000年). 2008年3月31日閲覧。
  5. ^ Mason, Anthony (2007年8月26日). “A Rock Muse Remembers”. CBS News. 2008年3月31日閲覧。
  6. ^ Barrow, Tony. John, Paul, George, Ringo and Me - The Real Beatles Story. Thunder’s Mouth Press. http://books.google.com/books?id=BNnzcGw8JQsC&pg=PA244&dq=pattie+boyd&ie=ISO-8859-1&sig=uwFgg8_j9cGkb89ttfkkzbpBLC8#PPA243,M1 2008年3月8日閲覧。. 
  7. ^ a b Spitz (2005) p499
  8. ^ Crowther, Bosley (2007年2月19日). “A Hard Day's Night (1964)”. New York Times. 2008年2月27日閲覧。
  9. ^ a b c d Boyd, Pattie (2007年8月6日). “Pattie Boyd: 'My hellish love triangle with George and Eric' - Part One”. Daily Mail. 2008年3月8日閲覧。
  10. ^ Vargas, Elizabeth (2007年8月31日). “The Real 'Layla' Talks About George Harrison and Eric Clapton”. ABC News. 2008年3月6日閲覧。
  11. ^ Spitz (2005) p565
  12. ^ a b c d Lepold, Todd (2005年2月3日). “Harrison, Clapton and their muse”. CNN. 2008年3月8日閲覧。
  13. ^ Herbert, Ian (2006年9月9日). “Revealed: Dentist who introduced Beatles to LSD”. The Independent. 2008年3月10日閲覧。
  14. ^ Spitz (2005) pp565–566
  15. ^ a b Boyd, Pattie (2007年8月5日). “George had to ask Brian Epstein for permission to marry me”. Daily Mail. 2008年3月6日閲覧。
  16. ^ Howard, John (1966年). “The inside story of George Harrison's marriage to Patti (sic) Boyd, as told us by his mother and mother-in-law”. Motion Picture Magazine. 2008年3月6日閲覧。
  17. ^ Spitz (2005) pp644–655
  18. ^ Spitz (2005) pp710–711
  19. ^ a b c d e Meacham, Steve (2007年7月4日). “Beatle’s muse comes clean”. The Sydney Morning Herald. 2008年3月8日閲覧。
  20. ^ Harrington, Richard (2002年11月24日). “His Musical Notes Have Become TV Landmarks”. Washington Post: pp. Y06. http://player.interactual.com/news/McCartney.htl 2007年6月4日閲覧。 
  21. ^ Boyd, Pattie; Penny Junor (2007-08-28). Wonderful tonight. Random House, Inc.. p. 114. ISBN 9780307393845. 
  22. ^ Bockris, Victor, Buell, Bebe. Rebel Heart: An American Rock 'n' Roll Journey. St. Martin’s press. http://books.google.com/books?id=x3ldMZrwQrQC&pg=PA117&dq=pattie+boyd&ie=ISO-8859-1&sig=ecEjx5WD4lTAuzPutYq7Vu2nVUE#PPA117,M1 2008年3月8日閲覧。. 
  23. ^ Wood, Ronnie (2007年9月29日). “The night I told George Harrison I was sleeping with his wife”. Daily Mail. 2008年3月6日閲覧。
  24. ^ a b c d e f Boyd, Pattie (2007年8月4日). “Pattie Boyd: 'My hellish love triangle with George and Eric' - Part Two”. Daily Mail. 2008年3月8日閲覧。
  25. ^ Wonderful Tonight, Epilogue; See also, Daily Telegraph, 12 August 1999; "Like many others in her circle, Boyd sampled the booze, dope and cocaine but, unlike Clapton, she knew when to stop."
  26. ^ a b c d e f Boyd, Pattie (2007年8月11日). “I'd pray Eric would pass out and not touch me' - Part 2 of Pattie Boyd's sensational autobiography”. Daily Mail. 2008年3月8日閲覧。
  27. ^ Errico, Marcus (2005年3月2日). “No Kidding: Clapton a Dad at 59”. Yahoo. 2008年3月7日閲覧。
  28. ^ Husband, Stuart (2007年6月23日). “The truth about Eric Clapton's Secret Daughter”. YOU magazine. 2008年3月8日閲覧。
  29. ^ a b Woods, Judith (1999年3月17日). “It's amazing we're still alive”. Daily Telegraph. 2008年3月8日閲覧。
  30. ^ Junor, Penny, Boyd, Pattie. Wonderful Today: The Autobiography of Pattie Boyd. Headline Review. ISBN 0755316428. 
  31. ^ New York Times Best Seller list for 9/23/07”. New York Times. 2007年9月18日閲覧。
  32. ^ Something - The Beatles”. BBC. 2008年3月7日閲覧。
  33. ^ Schumacher, Michael. Crossroads: The Life and Music of Eric Clapton. Citadel Press. http://books.google.com/books?id=rrFJmTceXX4C&pg=PA145&ots=KU2rhsXo8U&dq=pattie+boyd&sig=hqOuWs43W_YSeeU_Px-jY9Emuj8#PPA146,M1 2008年3月8日閲覧。. 

参考文献[編集]

外部リンク[編集]