ウイングス

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ウイングス
ポール・マッカートニーとリンダ・マッカートニー(1976年)
ポール・マッカートニーとリンダ・マッカートニー
(1976年)
基本情報
出身地 イングランドの旗 イングランド
ジャンル ロックソフトロック
活動期間 1971年 - 1981年
レーベル キャピトル・レコード
アップル・レコード
メンバー
ポール・マッカートニー
リンダ・マッカートニー
デニー・レイン
旧メンバー
デニー・シーウェル
ヘンリー・マカロック
ジェフ・ブリトン
ジミー・マカロック
ジョー・イングリッシュ
スティーヴ・ホリー
ローレンス・ジューバー

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ウイングスWings)は、元ビートルズポール・マッカートニーと彼の妻リンダ・マッカートニー、元ムーディー・ブルースデニー・レインの3人を中心に構成されたロックバンド1971年に結成され、1981年の解散までに7枚のオリジナル・アルバムと1枚のライヴ・アルバムを発表した。多くのヒット曲を発表し、代表曲に『心のラヴ・ソング』『マイ・ラヴ』『バンド・オン・ザ・ラン』『夢の旅人』『007 死ぬのは奴らだ』『ジェット』などがある。

なお、いくつかの作品はポール・マッカートニー&ウイングスPaul McCartney & Wings)名義で発表されている。

活動の概要[編集]

バンド結成までの経緯[編集]

ポール・マッカートニーはビートルズ解散後、2枚のソロ・アルバムを発表して大きな商業的成功を収めたものの、その作品は音楽評論家などからは酷評を浴びていた。ウイングスは、批判の矢面に立たされていた彼が、再起をかけて結成したグループである。当初のメンバーは、彼のアルバム『ラム』にも参加していたドラマーのデニー・シーウェルと、元ムーディー・ブルースデニー・レイン、そしてマッカートニーの妻リンダであった。

マッカートニーの新しいグループの名は、イギリスの音楽誌「NME」の1971年10月2日号で明らかにされた。ウイングスというバンド名は、当時リンダとのあいだに三女ステラを授かっていたマッカートニーが、出産を待つまでのあいだに思いついた「天使の翼」というフレーズに由来するものである。翌月にはバンド結成を記念したパーティが開かれ、エルトン・ジョンギルバート・オサリバンをはじめとする多くの著名人が出席した。

初期の活動[編集]

新しいグループの結成が発表されてから約2ヵ月後の1971年12月、ウイングスとしてのファースト・アルバム『ワイルド・ライフ』が発表された。録音に費やした時間が2週間という短期間のうちに制作されたこのアルバムには、その荒削りな内容から例にもれず評論家の批判が集中した。また、ヒットチャートでも上位をマークした前述の2枚のソロアルバムと異なり、このアルバムは全米・全英ともに10位台にランクインする程度のチャートアクションに終わっている。

ファースト・アルバムの発表から約2ヵ月後の1972年2月9日、ギタリストにヘンリー・マカロックを追加したウイングスは、イギリスのノッティンガム大学を皮切りに最初のコンサート・ツアーを開始する。抜き打ちで選んだ大学にアポイントなしで向かい、マッカートニー自らが大学と交渉してライブを行うという半ばドサ回りのようなこのツアーは、デモンストレーション的要素の強いものであった。程なくして同年7月からは、本国を除くヨーロッパを回る2度目のコンサート・ツアーを敢行。ちなみにその最中の8月には、公演先のスウェーデンに於いてマッカートニー夫妻とデニー・シーウェルの3人が大麻不法所持で逮捕され、罰金刑に処せられるアクシデントも起こった。なおマッカートニーは、これ以後も幾度にもわたって大麻がらみのトラブルを起こしている。

『ワイルド・ライフ』が不成功に終わったことでウイングスは苦境に立たされていたが、シングル「マイ・ラヴ」は彼らに対する世評を一気に好転させた。この曲は、ウイングスにとって初となる全米1位を記録した。続いて発表された映画『007 死ぬのは奴らだ』の主題歌も同様に全米2位をマークするヒットを記録。

『マイ・ラヴ』がチャートを上昇するのとほぼ時を同じくして発売されたのが、アルバム『レッド・ローズ・スピードウェイ』である。当初は2枚組にする予定で制作されたものの、所属レコード会社キャピトルの反対で1枚で発表されたこの作品は、商業的にふるわなかった前作を大きく上回るセールスを記録し、全米では1位を獲得した。なお、キャピトルは前作のセールス不振を理由に、レコードをウイングス名義でリリースすることに難色を示したため、以後の数枚のレコードにおけるアーティスト名は“ポール・マッカートニー&ウイングス”となっている。

アルバム『バンド・オン・ザ・ラン』『ヴィーナス・アンド・マース』の成功[編集]

ようやくウイングスとしての活動が軌道に乗り始めたマッカートニーは、続く新作のレコーディングをナイジェリアラゴスで行うことを決定する。しかし、ラゴスに向かう前日にヘンリー・マカロックとデニー・シーウェルが相次いでグループを脱退し、グループはマッカートニー夫妻とレインの3人だけになってしまう。結局、1973年8月に彼等はやむなく3人でナイジェリアに渡りレコーディングに臨むが、1ヵ月半に及ぶラゴスへの滞在は、デモテープの盗難[1]などさまざまなトラブルに見舞われたものとなった。トリオ編成になってしまった当時のウイングスにおいて、マッカートニーはベースやギターだけでなくキーボードやドラムなども演奏し、一人で数役を担っている。録音された作品は最終的にイギリスでの仕上げ作業を経て、その年の暮れに『バンド・オン・ザ・ラン』としてリリースされた。このアルバムは全世界で600万枚以上のセールスを記録し、ビートルズ解散後のマッカートニーのアルバムとしては最大級の商業的成功を収め、評論家からも極めて高い評価を受けることとなった。アルバムの収録曲の多くは現在でもマッカートニーのライヴでの定番のレパートリーとなっており、1998年には発売25周年を記念してボーナス・ディスクを追加した限定盤も発売されている。

『バンド・オン・ザ・ラン』をヒットさせたマッカートニーは、ウイングスのコンサート活動の再開を思案する。新たなメンバーを必要とした彼はメンバー選考のオーディションを行い、最終的にギタリストとして元STONE THE CROWSのジミー・マカロック、ドラマーとしてジェフ・ブリトンをそれぞれグループに編入している。この2人を加えた新たなラインナップを引き連れてナッシュビルロンドンなどでレコーディングを行ったマッカートニーは、1975年1月にニューオーリンズに渡って本格的なアルバムの制作に取り掛かる。しかしその矢先にブリトンが脱退。彼がグループを脱退したのは加入からわずか7ヶ月後のことであり、この布陣はグループの約10年間の活動期間の中で最も短命に終わっている。グループにはブリトンに代わってジョー・イングリッシュがドラマーとして加入し、完成したアルバムは『ヴィーナス・アンド・マース』として同年5月に発売された。このアルバムは、前作の成功が追い風となり、高いセールスを記録。アメリカでは発売前の予約枚数だけで200万枚に達している。

『ヴィーナス・アンド・マース』には、マッカートニー以外のメンバーがリード・ヴォーカルをとる楽曲が2曲収録されている。うち1曲はヴォーカリストのジミー・マカロック自身による作曲であったが、こういった楽曲を収録する背景には、「あくまでマッカートニーのバックバンドにすぎない」という世間のウイングスに対する一般的なイメージを払拭したいとする彼の狙いがあった。なお、アーティスト名もこのアルバムからウイングス名義に戻っている。

絶頂期[編集]

1975年9月から、ウイングスは12ヶ国で64回公演の大規模なコンサート・ツアーを開始する。その最中に制作されたのが、1976年に発売された『スピード・オブ・サウンド』である。ウイングスが一つのバンドとして世間に認知されることを望んでいたマッカートニーは、このアルバムではバンドメンバー全員に最低1曲はリード・ヴォーカルをとらせている。彼自身の歌唱による作品は半数ほどにとどまっていたが、『スピード・オブ・サウンド』はスティーヴィー・ワンダーの『キー・オブ・ライフ』などと並ぶ1976年を代表するベストセラーとなった。その最たる原因となったのが、同年5月から6月にかけて行われた全米ツアー『ウイングス・オーヴァー・アメリカ』である。30回の公演で60万人もの観客動員数を記録したこのツアーの模様は、のちにツアータイトルを題名にしたライヴ盤『ウイングス・オーヴァー・アメリカ(ウイングスU.S.A.ライヴ!!)』や映画『ロックショウ』としても発表された。『ウイングス・オーヴァー・アメリカ』はLP3枚組という形態での発売だったが、それにもかかわらず全米チャート1位を獲得している。ウイングスを随える形で再び世界的な成功を収めたマッカートニーは、ジョン・レノンが長い活動休止期間に入り、ジョージ・ハリスンリンゴ・スターのソロ活動が次第に低調になり始めた1970年代中盤において、最も華々しく活躍するビートルズの元メンバーとなった。ツアーが大成功を収めつつ、終わったとき、ポールは嬉しさのあまり泣き崩れたと言われている。

『ウイングスのステージを聴きに来たファンが、「ビートルズって何?」と言った』というエピソードは、(現在では創作であるとされているが)この時期のウイングスのファンが好んで口にした話題であり、ポールがビートルズの亡霊から脱却したことを象徴する逸話である。

後期の活動[編集]

ウイングスが長期間のツアーを終えたあと、レインはソロ・アルバムを制作し、マカロックは他のグループに参加するなど、メンバーはそれぞれ各自の活動に入った。そのあいだ暫く活動が休止していたウイングスだが、1977年になると再びマッカートニーは新作の制作にとりかかる。レコーディングは同年の2月にロンドンアビイ・ロード・スタジオで開始され、5月からはヴァージン諸島に拠点を移して行われたが、その期間にギタリストのジミー・マカロックとドラマーのジョー・イングリッシュが脱退し、ウイングスのメンバーは再び3人だけになってしまった。また、同時期にリンダは妊娠したため、アルバムは最終的にマッカートニーとレインの2人によって仕上げられている。ちなみに、マカロックはスモール・フェイセスにギタリストとして加入するためにグループを脱退したが、それから約2年後の1979年9月27日ヘロインの過剰摂取が原因で26年の短い一生を終えている。

リンダが産休に入っていた期間にウイングス名義でリリースされた唯一のレコードが、マッカートニーとレインの共作によるスコティッシュ・ワルツ「夢の旅人」である。「ガールズ・スクール」との両A面扱いで発売されたこのシングルは、アメリカをはじめとする多くの国ではふるわなかったものの、イギリスでは9週連続1位を獲得する大ヒットとなり、「第2の国歌」とも呼ばれるようになった。この曲はマッカートニーにとって初となる全英シングルチャート1位獲得作品となっただけでなく、当時ビートルズの『シー・ラヴズ・ユー』が持っていた英国におけるシングルの最多売上枚数記録を更新し、最終的に200万枚以上を売り上げた。この記録は1984年バンド・エイドのチャリティ・シングル『ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス』によって更新されるまで、約7年間にわたって破られなかった。

マッカートニー夫妻のあいだに男児ジェイムズが誕生し、『夢の旅人』などと同時期に録音された一連の楽曲が1978年にアルバム『ロンドン・タウン』としてリリースされたあと、ウイングスにはドラマーのスティーヴ・ホリーとギタリストのローレンス・ジューバーが加入し、5人編成に戻る。そして、ピンク・フロイドエルトン・ジョンなどを手がけたことで有名なクリス・トーマスをプロデューサーに迎え、結果的にラスト・アルバムとなった『バック・トゥ・ジ・エッグ』の制作にとりかかる。ハンク・マーヴィン、ピート・タウンゼントジョン・ポール・ジョーンズデヴィッド・ギルモアをはじめとする多数の大物ミュージシャンとともに「ロケストラ」と名付けられた豪華なセッションを行い、殆どの収録曲でプロモーション・クリップを撮影したりと、マッカートニーはこのアルバムの制作にかなりの熱意をもって臨んでいる。

この『バック・トゥ・ジ・エッグ』をひっさげる形で行われた1979年のイギリスでのツアーを終えたウイングスは、その年の暮れの12月26日から29日にかけて行われたユニセフ主催のチャリティ・コンサート「カンボジア難民救済コンサート」の最終日に出演。彼等はこのライブでアルバム内で繰り拡げられたスーパー・セッションを再現し、クイーンザ・クラッシュエルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズなどが参加した豪華なコンサートのトリを飾った。しかし、このチャリティ・コンサートにおけるパフォーマンスが、ウイングスにとって結果的に最後のライヴ活動となってしまった。

マッカートニーの逮捕とグループの解散[編集]

ウイングスは当初イギリスでのツアーを終えたあと、1980年には初めての来日ツアーを行う予定だった。なお、この約5年前にも来日公演が予定されていたが、マッカートニー夫妻の大麻不法所持での逮捕歴を理由に法務省から入国拒否されていたため、実現には至っていなかった。しかしマッカートニーはそのような因縁があったこの国に、よりによって大麻を持ち込んで逮捕されてしまう。急遽日本でのツアーは中止され、彼は11日間にわたって拘置所勾留されている。ちなみに、この事件の後にデニー・レインは日本を揶揄する内容の「ジャパニーズ・ティアーズ」を作曲し、その後発表された自身のソロ・アルバムのタイトルにも冠した。また事件の当事者であるマッカートニー自身も、同年に発表したソロ・アルバム『マッカートニーII』の中で日本人の蔑称を曲名にした作品「フローズン・ジャップ」について、「ジャップ」は日本人への差別用語であることと、日本での逮捕後の曲であることから日本人の顰蹙を買った(外国では日本の略称として"JAP"を使用することがあるが、日本国内では差別用語であるとの認識が一般的であったことから、タイトルを「フローズン・ジャパニーズ」に変更された。)。

しかし後のインタビューにてポール自身は、「曲を作ったのは日本に行く前、雪化粧の富士山を思い浮かべて作ったんだ。偏見があるわけじゃない、もしあったのなら日本へ行ったりはしないし、悪口だったらちゃんと言うよ。そんなことを考えもしなかったから仮のタイトルをそのまんま残したんだ」 とコメントしている。

その『マッカートニーII』からの先行シングルとしてリリースされた「カミング・アップ」で彼はソロ・アーティストとして早々とミュージック・シーンに復帰したが、ウイングスが再びグループとして活動を再開する見通しは立っていなかった。同年12月ジョン・レノン射殺事件のショックで音楽活動を一時休止するまでの期間を、マッカートニーはレインとともにソロ作品として発表するための楽曲制作にあてている。

結局、日本での逮捕をきっかけに活動休止状態に陥ったウイングスが再始動することはなく、1981年4月27日に、結成以来活動してきた唯一のメンバーだったレインが脱退を表明したことによって、グループは実質的な解散を迎えた。なお、その後フィル・コリンズやスタンリー・クラークなどがグループに新メンバーとして加入するという憶測が流れたものの、最終的に彼らと録音された作品は1982年のマッカートニーのソロ作品『タッグ・オブ・ウォー』の一部として陽の目を見ている。

メンバー[編集]

旧メンバー[編集]

ディスコグラフィ[編集]

デニー・レイン(1976年)
ジミー・マッカロク(左)とポール・マッカートニー(1976年)

オリジナル・アルバム[編集]

ライヴ・アルバム[編集]

ベスト・アルバム[編集]

フィルモグラフィ[編集]

ビデオ・DVD[編集]

TV番組[編集]

  • James Paul McCartney(1973年)— スタジオライブやステージでの演奏シーンなどをまじえて構成されたドキュメンタリー番組。まずアメリカで4月16日にATVで放映され、同年6月にイギリスで放送された。日本では1974年に抜粋がNHKで放送されたことがある。
  • One Hand Clapping(1974年-1975年制作、未発表)— ロンドンのアビイ・ロード・スタジオ、ナッシュヴィルなどでのスタジオライヴやセッションを収めた映像作品。
  • Wings Over the World (1979年)— 1976年のアメリカ・ツアーの模様を収めた映画『ロックショウ』の母体的作品で、同国のCBSテレビで放映された。
  • Back to the Egg(1979年) — 同名アルバムのPV集。1981年にイギリスで放映された。

脚注[編集]

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  1. ^ ポール・マッカートニー「ウイングスパン 日本語版」炭田真由美訳、プロデュース・センター出版局、2002年、64ページ

関連項目[編集]