カール・パーキンス

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Carl Perkins
カール・パーキンス
基本情報
出生名 Carl Lee Perkins
別名 The King of Rockabilly
出生 1932年4月9日
出身地 テネシー州ティプトンビル
死没 1998年1月19日(65歳) テネシー州ジャクソン
ジャンル ロックンロール, ロカビリー, カントリー
職業 歌手, 作曲家, ギタリスト
担当楽器 エレキギター, ヴォーカル
活動期間 1946–1998
レーベル Sun, Columbia, Mercury
共同作業者 パーキンス・ブラザース・バンド
ジョニー・キャッシュ
著名使用楽器
ギブソン・レスポール
ギブソン・エンペラー
フェンダー・ストラトキャスター
ミクロ・フレッツ・ギター
ピーヴィー・T-60
フェンダー・テレキャスター

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カール・リー・パーキンスCarl Lee Perkins, 1932年4月9日 - 1998年1月19日[1])は、アメリカ合衆国ロカビリー・ミュージシャン。1954年より主にテネシー州メンフィスにあるサン・レコード・スタジオでレコーディングしていた。

初期ロックンロールの立役者としてエルヴィス・プレスリーらとともにサン・ミュージックの黄金期を飾ったうちの一人である。代表曲には『ブルー・スエード・シューズ』、『マッチボックス』、『ハニー・ドント』などがある。

チャーリー・ダニエルズは「カール・パーキンスの曲はロカビリーの時代の象徴であり、彼のサウンドこそが本物のロカビリーである。なぜなら彼はずっと変わらないから」と語った[2]。パーキンスの曲はエルヴィス・プレスリービートルズジミ・ヘンドリックスジョニー・キャッシュなど影響力のあるアーティストおよび友人達にカヴァーされ、彼のポピュラー・ミュージックでの地位を確固たるものにした。ポール・マッカートニーは「もしもカール・パーキンスがいなかったら、ビートルズは存在しなかった」と語った[3]

「ロカビリー界の王」と呼ばれ、ロックの殿堂ロカビリーの殿堂ナッシュヴィル作曲家の殿堂に殿堂入りし、グラミー殿堂賞を受賞した。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第99位。

2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第88位。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

テネシー州ティプトンヴィル近郊の貧しい小作農家で父バック、母ルイーズの次男として生まれた(兄:ジェイ・パーキンス、弟:クレイトン・パーキンス。後にこの二人と、カールの友人のW. S. ホーランドと共にバンドを結成する)[4]。教会の白人、およびパーキンス自身6歳の頃から働いていた綿花農園のアフリカ系アメリカ人労働者が歌うアメリカ合衆国南部ゴスペルを聴いて育った[5]。春から秋まで通学日は帰宅後農園で働いた。夏休みの間の労働時間は12から14時間にもおよんだ。パーキンスと兄のジェイは2人合わせて日当50セントであった。家族全員で働き、借金もなく、豆や芋だけでなく父の煙草の他に時々5セントの飴を買うこともできた[6]

土曜の夜、父と共にラジオで『グランド・オール・オープリー』を聴き、ロイ・エイカフに影響されて両親にギターをねだった[7]。本物のギターを買うことができず、父は煙草の箱と箒の柄を使ってギターを手作りした。貧困に窮した近所の住民が、使い古しの弦およびへこんで傷だらけのジーン・オウトリー・モデルのギターの売却を申し出たため、父は2ドルで買い取った。

翌年、かつてオープリーで聴いたエイカフの『The Great Speckled Bird 』、『Wabash Cannonball 』を独学で弾けるようになった。また彼は後に初期の頃、ビル・モンローの弾き方、歌い方に影響を受けたと語った[8]。またジョン・リー・フッカーを手本にして練習する[要出典]。そして、今後パーキンスを担う、カントリーのビートでブルースを弾く、ロカビリーの原点を作り上げたのである[要出典]

やがて、パーキンスは同じ農園で働く黒人で友人のジョン・ウエストブルックからギターを教わった。周囲に黒人が多い中、唯一の白人一家だったため[要出典]、自然と黒人の音楽にも触れる様になった。パーキンスが「アンクル・ジョン(ジョンおじさん)」と呼んでいた彼は、60代のアフリカ系アメリカ人で、使い古したアコースティック・ギターでブルースやゴスペルを弾いていた。アンクル・ジョンはパーキンスにギターを弾く時「下げて体に近づけろ。弦と頭を通して自分がいる所に魂が下りてくるのを感じることができる。ヴァイブレイトしてみよう」とアドバイスしたことで知られている。弦が切れても買えないため、繋いで使った。他の音を出すためにスライドさせるとその結び目で指を切ってしまうことがあるため、わざと外してできたのがブルー・ノート・スケールである[2][9]

Lake County Fourth Grade Marching Band のメンバーにスカウトされ、経済的理由によりバンドの指導者であるリー・マカッチャンに新しい白いシャツ、コットン・パンツ、白い帽子、赤いケープを与えられた[10]

1947年1月、パーキンス一家はテネシー州レイク郡からマディソン郡に転居した。よりメンフィスに近付いたため、様々なジャンルの音楽をラジオで聴くことができるようになった[11]。14歳の頃にカントリー・ミュージックで標準であったI IV Vのコード進行で[12]、『Let Me Take You To the Movie, Magg 』(Movie Magg )を作曲し、後にこの曲でサム・フィリップスはパーキンスをサン・レコードと契約することを決めた[13]

演奏家としての初期[編集]

1946年終盤毎週水曜日、パーキンスと兄のジェイはテネシー州ジャクソンの南へ約12マイルの45号線沿いの酒場コットン・ボールでチップを得ることで初めてプロとしての演奏を行なった。パーキンスはこの時まだ14歳であった。アップテンポに変更しカントリーとブルースの要素をミックスしたビル・モンローの『Blue Moon of Kentucky 』等を演奏した。演奏の報酬の1つとして飲み物が無料であったため、初めての演奏の夜にパーキンスはビールを4杯飲んだ。それから1ヶ月も経たないうちにジャクソンの西の境界近くの酒場サンド・ディッチで毎週金曜日と土曜日に演奏をするようになった。どちらの酒場でもしばしば喧嘩が起こり、パーキンス・ブラザーズも喧嘩に参加することで有名だった[14]

その後2年間、パーキンス・ブラザーズはジャクソン周辺のエル・ランショ、ザ・ロードサイド・イン、ザ・ヒルトップなど他の酒場でも演奏を始め、よく知られるようになった。パーキンスは弟のクレイトンを説得してベースフィドルを演奏させてバンドに取り込んだ[15]

1940年代後半、テネシー・ランブラーズのメンバーとしてジャクソンのラジオ局WTJS-AMにレギュラー出演していた。『Hayloft Frolic 』にも出演し、『グランド・オール・オープリー』でのロバート・ランの『Talking Blues 』など2曲を演奏していた。『The Early Morning Farm and Home Hour 』に最初はパーキンスのみ、後に兄弟も出演した。圧倒的な支持を受け、マザーズ・ベスト・フラワー提供の15分間のコーナーを持つことになった。1940年代終盤、パーキンス・ブラザーズはジャクソンでは最も有名なバンドになった[16]

パーキンスはこの数年間、音楽の他に仕事を持っており、当初綿花摘みをしていたがその後デイズ・デイリーに勤務し、さらにその後はマットレス工場と電池工場に勤務した。1951年から1952年まではコロニアル・ベイキング・カンパニーに勤務した[17][18]

1953年1月、パーキンスは長年の知人であったヴァルダ・クライダーと結婚した。ヴァルダは自分が働いて、パーキンスのベイカリーでの勤務時間を減らして酒場での演奏時間が増えるようにし、パーキンスは週6日演奏するようになった。同年後期、それまで音楽の経験がなかったが天性のリズム感があるW・S・ホランドがドラム奏者として参加した[19]

マルコム・イエルヴィントンは彼らを1953年にテネシー州コヴィントンで演奏していた頃から知っていた。イエルヴィントンはパーキンスについて彼独自の独特のブルースのようなスタイルを持っていたと語った[20]。1955年頃までパーキンスはテープ・レコーダーを借りてデモ・テープを自作し、宛先は市名と社名のみでコロムビア・レコードRCAレコードなどに送った。クラブ等に出演する傍ら、デモ・テープを色々なレコード会社に送るも、全く反応が無く、意気消沈としていた[21]

1954年7月、パーキンスと妻のヴァルダは、サン・レコードから既にデビューしていたエルヴィス・プレスリースコティ・ムーアビル・ブラックの新曲『ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー』をラジオで聴き[22]、ヴァルダはパーキンスにメンフィスにいる誰かがきっと理解してくれるはずだと語った[23]。後にプレスリーは、パーキンスに会ってエル・ランショでの演奏を聴くためにジャクソンに行ったことがあると語った[24]。『ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー』が終わると、彼は「私たちの演奏を理解してくれる人がメンフィスにいる。彼に会わなくてはならない」と語った[25]

数年後、演奏仲間のジーン・ヴィンセントはインタビューで『ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー』について、「新しいサウンドではなくその時すでに多くの人々、特にカール・パーキンスがこのようなサウンドを作り上げていた」と語った[26]

サン・レコード[編集]

エルヴィスの音楽性に自分達を重ね合わせたパーキンスは、対抗意識を燃やし[要出典]メンフィスサン・レコードを訪ねる。幾たびか売り込みに通い[要出典]、ようやくオーディションを受けられる事になる。1954年10月上旬、サン・レコードでサム・フィリップスにオーディションされ、パーキンスが10代の時に既に作っていた『Movie Magg 』他数曲披露し[要出典]、合格した。1955年3月19日、『Movie Magg 』でデビューし[27]、B面の『Turn Around 』が地域的にヒットした[1]。南部および南西部のラジオでこの曲が流され、パーキンスはアーカンソー州マリアナ、ウエスト・メンフィスでプレスリーと共演することになった。プレスリーおよび自分の観客についてパーキンスは「叫んでいる観客の前に登場しようとしたが、観客達はプレスリーの登場を待ち望んでいた。それはまるで爆発物のようだった。世界中がロック一色になったようだった」と語った[28]

サン・レコードから次にジョニー・キャッシュとテネシー・トゥがデビューすることになった。1955年夏、彼らはアーカンソー州リトルロック、フォレスト・シティ、コリンス、テュペロをツアーした。エル・ランショに再登場した時、パーキンス兄弟は交通事故に関わった。運転してきた友人がハンドルに引っ掛かって動けなくなった。パーキンスは燃え始めた車から彼を引きずり出した。クレイトンは車から投げ出されたが、重篤な怪我には至らなかった[29]

1955年10月、サン・レコードから発表された[30]Gone Gone Gone[31][32]が地域的にヒットした。この曲はカントリーとリズム・アンド・ブルースの風味豊かなバウンス・ブルースであった[33]。この曲は古典的な『Let the Jukebox Keep On Playing 』のB面で、フィドル、ウエスタン・ブギのベース、スティール・ギター、涙をそそる歌声で構成された[34]

パーキンスの演奏についてフィリップスは「私はカールがロックを演奏できることを知っているが、彼は当初からエルヴィスが世に出る前からあの音楽を演奏していたと語っていた。この2人のどちらがカントリー界に革命を起こしたのか目の当たりにしたかった」と語った[35]

ブルー・スエード・シューズの大ヒット[編集]

1955年秋、パーキンスはあるダンサーがデート中にスエードの靴に傷がついて怒っているのを目撃し[36]、『ブルー・スエード・シューズ』を作曲した[5]。数週間後の1955年12月19日、パーキンスとバンドのメンバーはメンフィスのサン・スタジオでセッション中にこの曲をレコーディングした。フィリップスの提案で歌詞を「Go, cat, go 」から「boogie vamp 」に変更した[37]1955年11月、プレスリーがステップアップを求めてサン・レコードを離れRCAレコードに移籍し、1954年終盤からパーキンスのレコーディングを担当していたフィリップスはパーキンスに「カール・パーキンス、今君が私のロカビリー・キャットだ」と語った[38]。サン・レコードは、プレスリーに続く看板アーティストとしてパーキンスに白羽の矢を当て、ロカビリー・シンガーとして売り出した。1956年1月1日、『ブルー・スエード・シューズ』が発表され、大ヒットした。アメリカでは『ビルボード』誌のカントリー・チャートで第1位(彼にとって唯一の第1位)、ポピュラー・チャートで第2位を獲得した。3月17日、パーキンスはカントリー・ミュージシャンとして初めてリズム・アンド・ブルース・チャートで第3位を獲得した[37][39]。その夜、ABCの『Ozark Jubilee 』でテレビ・デビューし、この曲を演奏した。

イギリスではこの曲は第10位にランクインした。サン・レコード所属アーティストで100万枚売り上げた最初の曲となった。B面の『ハニー・ドント』はビートルズ[5]ワンダ・ジャクソンT・レックスにカヴァーされた。ビートルズ版でジョン・レノンがリードだったが、後にリンゴ・スターになった。レノンは『Lost Lennon Tapes 』でもこの曲を演奏した[39]

交通事故[編集]

1956年3月21日ヴァージニア州ノーフォークでのショーを終えたパーキンス一行は、3日後に放送を控えているNBCペリー・コモ・ショー』の撮影のため、ニューヨークに向かった。3月22日の夜明け前、デラウェア州ドーバーとウッドサイドの間の13号線で、スチュアート・ピンカム(別名リチャード・スチュアート、プア・リチャード)が運転していたとされる。パーキンス一行が乗っていた車は、途中で ピックアップトラックと衝突し、深さ1フットの水路に入ってしまい、パーキンスは水中にうつぶせに投げ出された。ドラム奏者のホランドがパーキンスをひっくり返して溺れるのを防いだ。彼は首の脊椎骨を3ヶ所骨折、脳震盪、鎖骨骨折、全身に切り傷を負った。パーキンスはその後1日意識不明だった。40歳の農民でピックアップトラックの運転手だったトーマス・フィリップスはハンドルに突っ込み死亡という大事故だった。兄のジェイは内臓損傷を伴う首の骨折を負い、この事故が元で合併症により数年後に死亡した。

3月23日、ビル・ブラック、スコティ・ムーア、D・J・フォンタナは翌日プレスリーと共演するためにニューヨークへ向かう途中、パーキンスを見舞った。フォンタナはパーキンスが「今まで会った人々の中でも君たちが天使に見えた」と語ったと思い返した[40]。ブラックは彼に「エルヴィスから愛をこめて」と語り、隣のベッドには酸素テントがつけられていたにも関わらず彼の煙草に火をつけた。1週間後、プレスリーから見舞い電報が届いた[41]

3月22日の時点で『ブルー・スエード・シューズ』は50万枚以上を売り上げており[42]、フィリップスは『ペリー・コモ・ショー』においてゴールド・レコードでパーキンスを驚かせようと画策した。パーキンスは事故から回復してきており、『ブルー・スエード・シューズ』はポピュラー、リズム・アンド・ブルース、カントリーの地域的チャートで第1位を獲得し、『ビルボード』誌のBillboard Hot 100とカントリー・チャートでも第2位を獲得していた。プレスリーの『ハートブレイク・ホテル』はポップスとカントリーで第1位であったが、リズム・アンド・ブルースのチャートでは『ハートブレイク・ホテル』よりも『ブルー・スエード・シューズ』の方が上位であった。4月中旬、『ブルー・スエード・シューズ』は100万枚以上を売り上げた[43]

4月3日、ジャクソンで療養中、プレスリーが『The Milton Berle Show 』に初登場して『ブルー・スエード・シューズ』を演奏した。プレスリーにとって全米放送でこの曲を演奏するのは『The Steve Allen Show 』での2回に続き、これが3回目であった[44][45]。プレスリー版はパーキンス版よりも有名になったが、『ビルボード』誌のポピュラー・チャートでは第20位に留まった[46]

復帰[編集]

1956年4月21日テキサス州ボーモントのビッグ・D・ジャンボリーでのライヴで復帰した[47]。ツアー再開前、フィリップスはまだ療養中のジェイの代理を務めるエド・シスコと共にサン・レコードでレコーディング・セッションを企画した。4月中旬までに『Dixie Fried 』、『Put Your Cat Clothes On 』、『Right String, Wrong Yo-Yo 』、『You Can't Make Love to Somebody 』、『Everybody's Trying to Be My Baby 』、『That Don't Move Me 』をレコーディングした[48]

同年夏には、『トップ・スターズ・オブ・'56』というショーで、たった2曲を演奏して1,000ドルのギャラを得た。このショーには、チャック・ベリーフランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズも出演していた。パーキンスがサウスカロライナ州コロンビアのステージに上がると、観客に押し上げられて顎から血を流した若者がいることに驚いた。『ハニー・ドント』の間奏中、空いている警備された衣裳部屋に連れて行かれた。パーキンスは「これは危険だ。多くの子供が怪我をする。ただクレイジーな多くの暴動が起こっている。音楽は人々をおかしくさせる」と語った。この出来事にショックを受けたパーキンスはツアーを一時取りやめた[49]。9月下旬のある火曜日の夜、ペンシルベニア州のリーディング・フェアにジーン・ヴィンセントリリアン・ブリグスと共に出演し、39,872人を動員した。マサチューセッツ州のブロックトン・フェアでは、特別観覧席も満席で千人もの人々が豪雨の中パーキンスとブリグスの歌を聴くために立っていた[50]

1956年、サン・レコードから『ボッピン・ザ・ブルース』(B面『All Mama's Children 』)と『Dixie Fried 』(B面『I'm Sorry, I'm Not Sorry 』)を発表した。『ボッピン・ザ・ブルース』のB面の『All Mama's Children 』はジョニー・キャッシュとの共作である。1957年2月には『マッチボックス』(B面『Your True Love 』)を発表した[30][51]。『ボッピン・ザ・ブルース』は『キャッシュボックス』誌のポップ・シングル・チャートで第47位、『ビルボード』誌のカントリー・チャートで第9位、Billboard Hot 100で第70位となった。

『マッチボックス』はロカビリーのクラシックと考えられている。この曲のレコーディングの日、プレスリーはスタジオを訪れた。ジョニー・キャッシュ、パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、プレスリーは1時間以上ゴスペル、カントリー、リズム・アンド・ブルースの曲を歌い、収録した[5]。このカジュアルなセッションは翌日の地元紙により「ミリオン・ダラー・カルテット」と名付けられ、1990年にはCDとして発表された[1]

1957年2月2日、パーキンスは再度『Ozark Jubilee 』に出演し、『マッチボックス』と『ブルー・スエード・シューズ』を演奏した。1957年、カリフォルニア州コンプトンの『Town Hall Party 』に少なくとも2回出演し、この2曲を演奏した[52]

1957年8月、ジョニー・キャッシュと共作の『That's Right 』(B面はバラード『Forever Yours 』)を発表したが、チャートには入らなかった。

1957年、アーロン・シュローダー、シド・テッパー、ロイ・ベネット作曲の『グラッド・オール・オーバー』(1964年にイギリスで大ヒットしたデイヴ・クラーク・ファイヴの曲とは異曲同名である。パーキンスの曲は1分55秒で、デイヴ・クラーク・ファイヴの曲は約2分40秒の長さである)が映画『Jamboree 』で使用され、1月にサン・レコードより発表された[53][54]

移籍後[編集]

1958年サン・レコードを去ったパーキンスは、コロムビア・レコードと契約を結ぶ。「ジャイヴ・アフター・ファイヴ」や「ロッキン・レコード・ホップ」、「リーヴァイ・ジャケット」等を録音するが、サン・レコードの時の成功はしていない。「ピンク・ペダル・プッシャーズ」、「ポインテッド・トゥー・シューズ」がかろうじてチャート入りしたくらいである。

1964年、チャック・ベリーと共にイギリスでツアーをしていた。ツアー最終日、ザ・ビートルズに招待を受ける。リンゴ・スターが「ブルー・スエード・シューズ」のB面に収録された「ハニー・ドント」を歌っても良いか聞いた所、パーキンスは快諾した。そしてビートルズは「ハニー・ドント」の収録を始めた。パーキンスはその場に居合わせたものの、演奏には参加していない。

ヒットが無く、アルコール依存症であったパーキンスを、サン・レコード時代からの盟友、ジョニー・キャッシュのバック・ミュージシャンとして雇い入れ、アルコール依存症からの脱却を図ろうとし、見事成功する。

やがて、成人した息子達とバンドを組むようになり、空港のラウンジ等でライヴをする。また、パーキンスが書いた「ダディー・サング・ベース」をキャッシュに提供する。

また、1970年には、ジョニー・キャッシュの弟、トミー・キャッシュに書いた「ライズ・アンド・シャイン」というカントリー・ゴスペルをトップ10入りに送り込む。

後年[編集]

1979年テネシー州ジャクソンでは児童虐待や捨て子といった社会問題が多発していた。その子供達の写真に、パーキンスは自分の子供達の姿を重ね合わせた。私財を投げ打ち、「カール・パーキンス児童救済基金」を設立する。2年後の1981年に開業する。

1981年ポール・マッカートニーのアルバム『タッグ・オブ・ウォー』にゲスト参加。アルバム中の1曲、「ゲット・イット」を書き、マッカートニーと録音する。 1985年ジョージ・ハリスンエリック・クラプトンリンゴ・スターデイヴ・エドモンズら、パーキンスを尊敬するミュージシャン、そしてパーキンスは、ロンドンで『ブルー・スエード・シューズ: ア・ロカビリー・セッション』なるコンサートを開く。テレビ番組用に行ったこのセッションは、全曲パーキンスの曲で構成されており、全員が楽しく演奏していた。

1987年ロックの殿堂パフォーマー部門に認定された。

1992年喉頭がんを患う。

1993年、サン・レコードに戻り、エルヴィスのリード・ギターをしていたスコティ・ムーアとCDを作製する。

パーキンスの生前最後のコンサートは、1997年9月15日ロイヤル・アルバート・ホールで行われた『モントセラト島救済コンサート』で、「ブルー・スエード・シューズ」を演奏した。

1998年1月19日、心臓病のため死去した。65歳だった。彼の葬式には、ジョージ・ハリスンや、ジェリー・リー・ルイスガース・ブルックスジョニー・キャッシュが参列した。

エピソード[編集]

パーキンスは、ザ・ビートルズのメンバー全員と1964年に顔を合わせているが、その後もメンバーと顔を合わせている。

ポール・マッカートニーとは、タッグ・オブ・ウォーで共演し、ジョージ・ハリスンリンゴ・スター両名とは、前述したロカビリー・セッションで演奏している。

ジョン・レノンは、1964年に会ったきり再び合った記述が無い。そのため、レノン以外のメンバーは2回顔を合わせている。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c Pareles.
  2. ^ a b Naylor, p. 118.
  3. ^ Rock 'n Roll legend Carl Perkins' much anticipated story to come to the big screen” (2007年8月16日). 2013年4月5日閲覧。
  4. ^ Carl Perkins: Biography : Rolling Stone[リンク切れ]
  5. ^ a b c d カール・パーキンス interviewed on the Pop Chronicles (1969).
  6. ^ Perkins, pp. 8–9.
  7. ^ Naylor.
  8. ^ Perkins, pp. 11–12.
  9. ^ Perkins, pp. 13–14.
  10. ^ Perkins, p. 21.
  11. ^ Perkins, p. 30, 55.
  12. ^ [1][リンク切れ]
  13. ^ Perkins, p. 30, 68.
  14. ^ Perkins, pp. 36–41.
  15. ^ Perkins, p. 48.
  16. ^ Perkins, pp. 48–49.
  17. ^ Perkins, pp. 32, 70–71.
  18. ^ The Legend Carl Perkins”. Rockabillytennessee.com (1998年1月19日). 2011年11月25日閲覧。
  19. ^ Perkins, pp. 70–71.
  20. ^ Perkins, p. 77.
  21. ^ The Atlantic. Dec 1970. page 100
  22. ^ Blue Moon of Kentucky label shot with credits[リンク切れ]
  23. ^ Rockabilly Legends. Naler. page 121.
  24. ^ The Atlantic. Dec. 1970. p. 100. The Top Beats the Bottom: Carl Perkins and his Music.
  25. ^ Perkins, pp. 79–90.
  26. ^ Race with the Devil. Susan VanHecke. 2000. St. Martin's Press. ISBN 0-312-26222-1. page 219
  27. ^ Flip (RCS Label Listing)[リンク切れ]
  28. ^ Perkins, pp. 106–108.
  29. ^ Perkins, pp. 122–124.
  30. ^ a b [2][リンク切れ]
  31. ^ [3][リンク切れ]
  32. ^ http://rcs-discography.com/rcs/ss/03/ss3287.mp3
  33. ^ Billboard Oct 22, 1955. Reviews of New C&W Records. p 44
  34. ^ http://rcs-discography.com/rcs/ss/08/ss8095.mp3
  35. ^ Good Rockin' Tonight: Sun Records and the Birth of Rock 'n' Roll By Colin Escott, Martin Hawkins. Google eBook retrieved 10.11.2011
  36. ^ Go, Cat, Go! by Carl Perkins and David McGee 1996 p.129 Hyperion Press ISBN 0-7868-6073-1
  37. ^ a b Miller, James (1999) Flowers in the Dustbin: The Rise of Rock and Roll, 1947–1977. Simon & Schuster (124-25). ISBN 0-684-80873-0.
  38. ^ Naylor, p. 135.
  39. ^ a b Naylor, p. 137.
  40. ^ The Blue Moon Boys - The Story of Elvis Presley's Band. Ken Burke and Dan Griffin. 2006. Chicago Review Press. page 88. ISBN 1-55652-614-8
  41. ^ Perkins, pp. 182, 184.
  42. ^ Perkins, p. 173.
  43. ^ Perkins, p. 187.
  44. ^ Perkins, p. 184.
  45. ^ Elvis's Television Appearances 1956–1973”. Kki.pl. 2011年11月25日閲覧。
  46. ^ Top 20 Billboard Singles: Billboard Chart Statistics: All About Elvis”. Elvis.com. 2011年11月25日閲覧。
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  48. ^ Perkins, p. 198.
  49. ^ Perkins, pp. 188, 210, 212.
  50. ^ Billboard Sep 29, 1956. pages 73, 78.
  51. ^ label image @ Rockin Country Style hosted @ Emory
  52. ^ Town Hall Party”. hillbilly-music.com. 2011年11月25日閲覧。
  53. ^ [4][リンク切れ]
  54. ^ [5][リンク切れ]

参考文献[編集]

  • CARL PERKINS / The Greatest Hits 20 20DN-83 オーバーシーズ・レコーズより

関連項目[編集]

外部リンク[編集]