ピート・ベスト

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ピート・ベスト
Pete Best
ピート・ベスト(メリーランド州、2006年)
ピート・ベスト(メリーランド州2006年
基本情報
出生名 Randolph Peter Best
出生 1941年11月24日(72歳)
British Raj Red Ensign.svg イギリス領インド帝国マドラス管区マドラス
学歴 カレジエイトリバプール
出身地 イングランドの旗 イングランド リヴァプール
ジャンル ロック
職業 ドラマー ヴォーカル
担当楽器 ドラムス
活動期間 1957年 - 1962年
1988年 -
共同作業者 ビートルズ(1957年 - 1962年)                                      ピート・ベスト・バンド (1988年 - )
公式サイト www.petebest.com

ランドルフ・ピーター・ベスト(Randolph Peter Best、1941年11月24日 - )は、イギリスミュージシャン1962年ビートルズメジャーデビューする直前まで在籍していたドラマー

略歴[編集]

インドマドラスにて、軍人である父親のジョン・ベスト二世と赤十字社で医師を志していた母親のモナの間に長男として生まれる。4歳の時に第二次世界大戦が終了。植民地支配が終焉に向かったため、ピートを含むベスト家はイギリスのリバプールに帰国した。11歳でリバプールの名門校であるカレジエイトに進学。父はボクシングの興業主となる。

1957年、母モナが自宅の地下にコーヒーバー「カスバ」を開店した。これがきっかけとなってピートはドラムスを始める。また、その開店記念のイベントとしてバンドの生演奏も行われたが、そのバンドのひとつがビートルズの前身であるクオリーメンで、既に在籍していたジョン・レノンポール・マッカートニージョージ・ハリスンとはこの時に知り合ったと伝えられている。

1960年8月、カレジエイトを卒業直後、ドイツハンブルク公演のため、ドラマーを必要としていたビートルズに加入。1962年8月に解雇されるまで在籍。その直後、同じくリバプールの地元バンドのリー・カーティス・アンド・ザ・ディトゥアーに加入。このバンドは後にリー・カーティス・アンド・ジ・オールスターズと改名し、デッカ・レコードシングルデビューしている。

1963年6月、ピート自身がリーダーとなってオリジナル・オールスターズを結成。その後ピート・ベスト・アンド・ジ・オールスターズと改名し、1964年4月、デッカ・レコードと契約。レコード会社の要請でピート・ベスト・フォーと改名。1965年アメリカ公演旅行の直前にメンバーの一人が脱退したためピート・ベスト・コンボと改名している。

1967年ピート・ベスト・コンボ解散。同時にピートは芸能界から事実上引退し、1年間パン工場でアルバイトした後、市役所の職員に応募し合格。職業安定所で勤務した。

1988年ピート・ベスト・バンド結成。職業安定所民営化につき早期退職し、以降バンドに専念する。

人柄[編集]

カレジエイト時代の成績は優秀で、ラグビー部では主将を務めている。また、整った風貌で女子からの人気が高かった。ビートルズ在籍時も女性に一番人気があったとされ、地元の音楽誌での扱いもメンバーの中で一番大きかった。頭脳明晰で温厚だが、ビートルズのメンバーで唯一マッシュルームカットを受け入れず、最後までリーゼントで通している事などから、やや協調性に欠ける(と言うよりビートルズにいるには真面目すぎる)性格ではないかと言われている。

解雇[編集]

ビートルズの側に立った見解は以下の通りである。

ビートルズはデビューシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」のレコーディングまでこぎ着けたが、ピートはドラムの技量が伴っていなかったためにプロデューサージョージ・マーティンがドラマーの交代を提案、それは同時にジョン、ポール、ジョージも考えていることだった。ピートひとりだけ最後までマッシュルームカットにはせずリーゼントのままだったことからも分かるように、3人と溶け込んでいなかったことも重なり、メジャーデビューまでもう一歩のところでグループを解雇された。

そしてハンブルク公演で親交のあったロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズのドラマーであったリンゴ・スターがドラムを担当することになった。ただし、リンゴの加入はレコーディング直前であったことと、この加入話がメンバー主導で進められておりマーティンの与り知るところではなかったため、すでにマーティンはセッション・ドラマーのアンディ・ホワイトを手配しており、結局、アンディの演奏が公式版となった。

ジョン・レノンの発言[編集]

「全く罪のない奴だったけれど鋭さがなかった。他のみんなは頭の回転が早かったけれどピートは俺たちにどうしてもついてこられなかった。そもそもハンブルクへ行く時にドラマーがいなくて、とりあえず入れただけだ。ルックスが良くて女の子にもてたから、まともにドラムが出来なくても構わなかった、ちゃんとしたドラマーが見つかったら降りてもらうつもりだったのさ」

ポール・マッカートニーの発言[編集]

「性格の問題だった。プレイヤーとしてもあまり良くなかったし、僕と違ってピートはまともな奴だったからね」

ジョージ・ハリスンの発言[編集]

「ピートはギグが終わると、一人で出かけて僕らとつるもうとしなかった。ギグもよく休むし、そんな時リンゴに代役を頼んでいた。リンゴがドラムを叩くたびに、『これだ!』と思っていたから、僕が『リンゴを正式なメンバーにしよう』とジョンとポールに働きかけた」

リンゴ・スターの発言[編集]

テレビ番組でのピートの証言によれば、彼が自身の解雇話を聞いてスタジオに向かったところ、顔面を腫らし鼻血を出したリンゴと、膨れっ面のジョージに出会ったと言う。リンゴはピート解雇の理不尽に怒って抗議し、関係者に鉄拳制裁を受けたらしい。

結果[編集]

マーティンを初めビートルズの関係者は概ね上の見解を支持しているが、逆に当時の関係者でデビュー後ビートルズと関係が切れた者は、この見解に異を唱えており、解雇劇はマネージメントに関するトラブルとバンド内の力関係が相互に作用して生じた、非常に複雑な一件であると主張している[誰?]。それは一番女性に人気があったピートに嫉妬したポールと、ブライアン・エプスタインがマネージャーになる前にある程度マネージメントを担当していたピートの母親モナの影響を排除したいエプスタインの利害関係が一致したというもの。また一説には、モナが人気のある息子にスポットを当てて「ピート・ベスト&ザ・ビートルズ」というスタイルで売り出そうとしようとしていたことがあったため、それに怒った3人が排除する機会をねらっていたとも言われている[誰?]

両者の主張は平行線を辿っているが、「当時のビートルズのファンで演奏の実力を重要視する者はほとんどいなかった。まして人気のあるメンバーを解雇する理由にはなりえない」とも言われる[誰?]

実際、この一件でメンバーはピートの女性ファンたちからひどく非難され、ジョージが殴打される事件も発生している。また、モナもビートルズの発言は「事実に反する」と怒っていたと言われている[誰?]

しかしジョージは「ピートを辞めさせたのは僕にかなりの責任がある。リンゴを正式なメンバーに入れようとジョンとポールに働きかけたから、2人もそういう考えに傾いていったんだ」と語っている。 ジョージはピート在籍中にリンゴの家に行って「バンドに入ってほしい」と誘いに行っている(ただし、この時リンゴは留守であった)。ジョージの発言によれば、ビートルズのメンバーで一番ピートに辞めてほしがっていたのは、ポールではなくジョージということになる。アンソロジーのインタビューでは「ピートには本当に気の毒な事をしてしまった。彼ももっと上達するかもしれなかった。だけど、リンゴがビートルズのメンバーになるのは最初から決まっていたようなものなんだ」と語っている。

ポールは「マーティンに『ドラマーを替える気はないか?』とはじめに言われたときは『そんなこと出来ない』と断った。でも、俺たちのキャリアがかかっている、契約がダメになるかもしれない。だからピートを捨てた、プロとしての決断をしたんだ」と語っている。

ジョンはポールとピートは気が合っていなかったと認めた上で「いつのまにか、ポールがピートに嫉妬して追い出したなんてくだらない話が出来上がっていた」と語っている。

技量の劣ったピートを辞めさせた張本人という定説を流布されているマーティンだが、著書「耳こそすべて(All You Need is Ears)」の中でピート解雇には関与していないと明言している。

サウンド面での影響も大きかったと言われており[誰?]、デビュー前のビートルズを知る人たちからは、当時の良さが失われたと語っている者もいる[誰?]。確かに技量は無かったかもしれないが、バンドにグルーブ感を与えるという面では活躍していたという意見もある[誰?]。また、当時を知る人の中には「ピートがいるライブを知らなければ、本当の意味でビートルズを知っていることにはならない」と語る人もいる[誰?]

ただどちらの見解にしろピートは、ジョン・ポール・ジョージの3人に「ビートルズには要らない」とされてしまったのである。

エプスタインは解雇の言い渡しをメンバーにさせようとした。しかしジョンに「手を汚すのがお前さんの仕事だろ?」と言われて自分が言い渡すことにした。

ジョン、ポール、ジョージの3人はピートに会うこともなく、クビの言い渡しをエプスタインにやらせた。そしてエプスタインに呼び出されたピートは解雇を急に言い渡された。それについて3人は後年「卑怯なやり方だった」と発言している。

近年[編集]

時折ビートルズのトリビュートバンドを結成し、日本でもライブを行っている。また、ピートが演奏した「ラヴ・ミー・ドゥ」の音源は『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』に収録されている。

同時にピートは「僕は長年の間にジョージともう一度会って話し合いたいと思っていたんだ」と言って、1998年リヴァプールのとあるカフェで晩年のジョージ・ハリスンとの念願の再会が実現、ビートルズ時代を懐古し和気藹々に愉しく話し合ったという。ピート曰く「僕自身はジョンとポールまたはマネージャーのエプスタインのことはあまり好きじゃなかったが、ジョージだけは違う。彼はナイーブでナイスガイなんだ。彼は失意に陥った僕を密かに慰めてくれ、僕に元気を与えてくれたんだ。僕にとってジョージこそビートルズの真のメンバーだと思っていたんだよ」と述べている。また、ジョージも「僕は当時のジョンとポールまたはエプスタインのことを考えると、ピートに何もしてやれなかった。そのことが大変申し訳なく、いつまでも自分の心に引き摺っていた。長年の間に再びピートに会って当時のことをいつか謝りたいと思っていたんだ」と述べていた。2001年、ジョージは肺癌脳腫瘍により他界。ピートはその訃報にかなり落涙した。その後は黙祷し「僕のビートルズ時代の親友が亡くなった…1人の親友が亡くなったのはとても悲しいことさ。さようならジョージ…今までありがとう。君のことはいつまでも忘れないよ。そして君のために僕も最後までミュージシャンとして全力でみんなのために演奏するよ」と語ったという。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]