トム・パーカー (マネージャー)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

パーカー大佐(パーカーたいさ、Colonel Parker)と通称される、トマス・アンドリュー・"トム"・パーカー大佐(Colonel Thomas Andrew "Tom" Parker、出生名:アンドレアス・コルネリス・("ドリエス")・ヴァン・キュエイク、Andreas Cornelis ("Dries") van Kuijk、1909年6月26日 - 1997年1月21日)は、オランダ生まれの芸能興行主(インプレサリオ)(impresario) で、エルヴィス・プレスリーマネージャーだったことで広く知られている[1]。パーカーによるプレスリーのマネジメント手法は、プレスリーの生活のあらゆる側面に関与するものであり、タレントのマネジメントを統括する役割のあり方を決定づけるとともに、プレスリーの驚異的な成功に中心的な役割を果たしたものと考えられている。「大佐(カーネル)」は、クライアントの利益のためには容赦なく相手から搾り取り、その稼ぎの中から、一般的な10%という水準以上の自分の取り分を得ていた。その額は、プレスリーの晩年には、最大50%に達していたという。プレスリーはパーカーについて、「彼のためにやってたんじゃなけりゃ、俺もこんなにデカいことにはならなかったと思うよ。彼はとても賢い男さ。(I don't think I'd have ever been very big if it wasn't for him. He's a very smart man.)」と述べている[2][3]。長年に渡り、パーカーはアメリカ合衆国生まれであると詐称していたが、実際にはオランダブレダ生まれであることが後に明らかになった。また、音楽プロデューサーとしても活動していた。

生い立ち[編集]

パーカーは、アンドレアス・コルネリス・ヴァン・キュエイクとして、オランダのブレダ[4]、ユダヤ人家庭の11人兄弟姉妹の7番目に生まれた[4]。少年の頃は、ブレダのカーニバル(謝肉祭)などで呼び込み (barker) として働き、後に芸能界で働く上で必要となった様々な資質を身に付けた[4]

15歳でパーカーは、港で船に乗る仕事を得て、港町ロッテルダムへ移り住んだ[4]。17歳のときには、「富を築く」ためにアメリカへ脱出したいという意思を見せるようになり[4]、翌年には、しばらくは何とかできるくらいの金を貯めた上で、乗り込んでいた雇い主の船から跳びおりて、アメリカへ密入国した[4]。この最初の渡米の際には、シャトークア (Chautauqua) のテント・ショーの一座に加わって旅をしたが、その後はオランダに短期間だけ帰国した[4]

パーカーの伝記を著したアランナ・ナッシュ (Alanna Nash) は、当時まだヴァン・キュエイクとして知られていたパーカーが、ブレダで殺人事件の容疑者となった、あるいは、少なくとも何らかの関与が疑われたのではないか、という疑惑があることを、後に繰り返し述べている[5]。これが事実であれば、オランダ犯罪人引渡し条約アメリカ合衆国と締結していたので、オランダ当局によるこの事件の追究から免れようとしたパーカーが、パスポートを取得せずに密入国を試みたのかもしれない[5]

アメリカ移住[編集]

パーカーは、20歳で米国に戻り、オランダでの経験を活かしてカーニバルで働き始めた[4]。パーカーは、密入国者であることを欺くために、アメリカ陸軍に志願し、面接に当たった士官の名をそのままとって「トム・パーカー」と名乗るようになった[4]

パーカーは、ハワイフォート・シャフター (Fort Shafter) 基地に、沿岸砲第64連隊の一員として2年間駐屯した後、程なくしてフロリダ州フォート・バランカス (Fort Barrancas) 基地に移った[4]。それまでパーカーは名誉ある勤務態度でいたが、許可なく部隊を離れ (AWOL)、敵前逃亡 に問われた[4]。パーカーは懲罰として独居房に禁固となったが、精神病を発症して精神病院に2か月入院した[4]。こうした精神状態を踏まえ、陸軍はパーカーを除隊させた。

除隊後のパーカーは、食品の売り子から、カーニバルの人寄せまで、様々な仕事を渡り歩いた[4]。この間、パーカーは、後々役立つことになる人脈を築き始め、権威や影響力のある人々とも交わった[4]

1933年、パーカーは27歳だったマリー・フランシス・モット (Marie Francis Mott) と結婚した。夫婦は、世界恐慌の中を必死に生き延び、詐欺行為を働きながら、仕事を求めて米国中を旅して回った[6]。後にパーカーは、週にたった1ドルし使えないこともあったと、しばしば述べるようになった[6]

タレント・マネジメント(1938年 – 1954年)[編集]

パーカーの音楽産業への関わりは、1938年にポピュラー歌手ジーン・オースティン (Gene Austin) のプロモーターになったことがきっかけであった[7]1924年以来、8600万枚以上のレコードを売り[7]、1700万ドル以上を稼ぎながら、当時のオースティンは不振に陥っていた。オースティンはそれまでに稼いだ金のほとんどを、パーティーや車、大邸宅、そして女性たちに浪費して尽くしており[7]、かつての人気も、ビング・クロスビーなど、新しい歌手たちの台頭によってすっかり翳リを見せていた[7]。このスターをプロモートする仕事に就いたパーカーは、自分のカーニバルでの経験を活かせば、チケットを売り、群衆を集めることがスムーズにできるようになることを悟った[7]。パーカーは非常に優秀なプロモーターであったが、彼の関心はマネジメントへと向けられていた[7]

オースティンはパーカーに、当時すでに音楽が大きなビジネスになりつつあったテネシー州ナッシュビルへの移住の機会を提供したが、理由は分かっていないがパーカーはこの申し出を断った[8]。パーカーは、家族とともにフロリダ州テンプル・テラス (Temple Terrace) にそのまま住み続けることになったが、おそらくは転居の際にいろいろな手続きをする中で不法在留が明るみになるおそれたためだったのであろう[8]。しかし、その後1年も経たないうちに、第二次世界大戦の開戦後に成立した、求められれば米国のために戦うと誓約することと引き換えに不法在留外国人にも合衆国市民権を与えるとした、1940年外国人登録法Alien Registration Act of 1940:通称スミス法 (Smith Act))によって、アメリカ合衆国の合法的市民となる機会を得た[9]。しかし、パーカーはこのとき登録をしなかったが、おそらくは軍務に就いていた前歴が公になることを避けたかったからだったのだろう。

代わりにパーカーは、地元の動物保護施設を運営していたヒルズボロ郡人道協会 (the Hillsborough County Humane Society) の現場担当者の仕事を見つけた[9]。この仕事は、安定した給与をもたらした上、ウェスト・タンパ (West Tampa) の外れにあった協会施設の上階に家族とともに住み込める家賃無料の住居をパーカーに与えた[9]。協会は、資金集めの活動を必要としており、パーカーはこの動物保護施設への認知を広め、資金を集めるために、自らのプロモーションの経験を活かした[9]

資金集め活動の中で、パーカーはチャリティ行事に出演する芸能人たちを見つけにテネシー州へ向かい[9]ミニー・パールエディ・アーノルド (Eddy Arnold) といったスターたちを含め、芸能人たちを呼び寄せた[10]。こうしてパーカーは、協会のためではなく自身のビジネスとして、再び音楽プロモーションに、以前より深く関わることになった[9]

1945年、パーカーはアーノルドの常勤のマネージャーとなり、アーノルドの売り上げの25%を得るという契約を結んだ[10]。その後、数年間にわたって、パーカーはアーノルドのヒット曲、テレビ出演、ライブ・ツアーを支え続けた[10]

1948年、パーカーは、かつてカントリー歌手だったルイジアナ州知事ジミー・デイヴィス (en:Jimmie Davis) の選挙運動に貢献し、デイヴィスからルイジアナ州兵 (Louisiana State Militia) 名誉大佐(カーネル)の称号を与えられた[10]。パーカーはこの称号を生涯を通して使い続け、知人たちの間では、単に「大佐/ザ・カーネル (the Colonel)」で通っていた[10]

1952年トミー・サンズ (Tommy Sands) という歌手がパーカーの目に留まり、パーカーはすぐにこの若者を売り出しにかかった[11]。パーカーはライブの場を設け、15歳だったサンズの父親のような存在となった[11]。パーカーは、サンドをロイ・ロジャース (Roy Rogers) の後継者のように育てようとしたが、サンズ自身はそうした目論見に関心は示さなかった。そこでパーカーは、RCAレコードスティーヴ・ショールズ (Steve Sholes) のもとにデモ録音を送った[11]。ショールズは、サンズにはほとんど関心を示さなかったが、サンズのために録音にふさわしい曲を探すことを約束した[11]

パーカーが歌手ハンク・スノウ (Hank Snow) との仕事に時間を大きく割くようになったため、エディ・アーノルドはパーカーを解雇した[10]。しかし、その後もパーカーは、アーノルドのライブ・ツアーの多くに関わり、契約を打ち切りたいなら5万ドルを支払うようアーノルドに要求した[10]。パーカーとスノウは、その後も上手く協力しあい、後にはハンク・スノウ・エンタープライジズ・アンド・ジャンボリー・アトラクションズ (Hank Snow Enterprises and Jamboree Attractions) を創設し、売り出し中のカントリー歌手であったスノウにとっての成功したプロモーション手段とした[10]

エルヴィスを見いだす[編集]

1955年はじめ、パーカーはエルヴィス・プレスリーという名の若い歌手の存在に気づいた[10]。プレスリーは流行のスタイルとは異なる歌い方をしており、パーカーは即座にその音楽スタイルの将来性に関心をもった[10]。エルヴィスの最初のマネージャーだったのは、ギタリストスコティ・ムーアだったが、これはサン・レコードのオーナーであるサム・フィリップスからエルヴィスをあくどい音楽プロモーターたちから守るためにマネージャーになるよう言われてのことだった[12]。当初、エルヴィスは、ムーアと、ベーシストのビル・ブラック (Bill Black) とともに、ブルー・ムーン・ボーイズ (The Blue Moon Boys) という3人組のメンバーであった。しかし、エルヴィスがフィリップスと契約を交わした際に、ムーアとブラックは契約の対象とされなかった。フィリップスは2人に対して、(自分とではなく)エルヴィスとの間で別個の契約を結ぶよう告げた[13]。ムーアによれば、収入の半分をエルヴィスが、残り半分をムーアとブラックが分けるということで、合意が成立した[13]。ムーアがエルヴィスと結んだ1年だけのマネジメント契約は、マネジメント手数料として収入の10%をムーアに支払うというものであったが、ムーアは、実際にはこれを受け取らなかったと述べている。エルヴィスたちが最初の録音セッションを行なった8日後にあたる、1954年7月12日付の契約書には、エルヴィスと両親が署名をしている[13]。この契約が満了したとき、メンフィスのラジオ局のパーソナリティだったボブ・ニール (Bob Neal) が割り込み、フィリップスと契約してエルヴィスのマネージャーとなった。この時点で、ムーアとブラックは、フィリップスともエルヴィスとも、何らかの契約関係が無くなってしまった[13]。ニールは、当時、新たな顧客であるエルヴィスの売り込みに苦戦していたが、エルヴィスは1955年2月にパーカーと会って、パーカーにその後の仕事のブッキングやプロモーション活動について、パーカーに一定の権限を与えることに合意した[10]

パーカーとニールは、プレスリーを売り込むために、自分たちが運営していた「ハンク・スノウ・ツアー」にエルヴィスを加えて、ツアーに出した[10]。ニースは依然としてプレスリーの正式なマネージャーであったが、レスリーのキャリアへの関与を益々拡大していったパーカーは、1955年夏にはプレスリーの「特別顧問」になった[10]。この時点で、プレスリー自身はまだ未成年であったため、契約には本人とともに両親が署名する必要があった[14]。パーカーの役割の中には、より大きなレコード会社との契約を獲得することも含まれていた[10]。プレスリーは、キャリアの最初からサン・レコードに所属していたが、レーベルのオーナーであったサム・フィリップスは、プレスリーの成功のためには、もっと大きなレコード会社の支援が必要だと感じ取っていた[10]。しかし、フィリップスは、簡単にはプレスリーを手放さず、パーカーに対して、プレスリーとの契約を解除するには、当時としてはまったく破格の4万ドルを要求すると伝えた[10]

パーカーは、すぐにプレスリーのために新しいレーベルを見つけることに取りかかった[10]マーキュリー・レコードコロムビア・レコードも関心を示したが、彼らの提示した条件は、4万ドルには遠く及ばなかった[10]ハンク・スノウが所属していたレーベルであるRCAビクターも関心を示したが、やはり既存の契約解除にかかるコストを考えて、話は進まなかった[10]。しかし、RCAビクターのプロデューサーであったスティーヴ・ショールズは、しかるべきレーベルから売り出せば、プレスリーの音楽のスタイルは巨大なヒットにつながるはずだと確信し、パーカーとの交渉を始めた[10]。RCAは、事実上無名の歌手のために2万5千ドルを出すことはできないと明言したが[10]、パーカーは、プレスリーはただの無名歌手ではないと説得した[10]。同じころ、プレスリーの売り込みが、契約解除コストのために失敗する可能性があると考えたパーカーは、代わりに再度トミー・サンズをRCAに売り込もうとした[11]。パーカーはショールズに、サンズならプレスリーのようなスタイルでレコードを作れるだろうと売り込んだが[11]、ショールズは、以前のサンズとの経験から、プレスリーの代わりにはならないとして、サンズの話は却下された[11]

11月、パーカーとスノウは、サン・レコードからプレスリーを4万ドルで買い取るようRCAを説得し、11月21日ぶプレスリーの契約は、正式にサン・レコードからRCAビクターへ譲渡された。この契約の署名に立ち会ったスノウは、彼がパーカーと共有していたジャンボリー・アトラクションズ社とマネジメント契約を結んだものと考えていた。しかし、これは誤解であり、実際にはエルヴィスとボブ・ニールとの契約がまだ有効であった。11月21日に署名されたのは、レコード・レーベルの移動に関する内容だけであった[15]。経済的にもっと大きな意味を持った取引は、1956年3月にニールとプレスリーとのマネジメント契約が切れた時点で、その更新を求めないことにニールが同意したことであり[16]、これによってパーカーは自らがマネージャーとして名乗りを上げる機会を得たのであった。

エルヴィスのマネジメント[編集]

エルヴィスとの契約:1956年 – 1957年[編集]

1956年3月26日、エルヴィスとニールのマネジメント契約が失効した後、エルヴィスはトム・パーカー大佐に独占代理権を委ねる契約をした[17]。その後、ハンク・スノウが、エルヴィスとの契約の内容についてパーカーに尋ねたところ、パーカーはスノウに「君はエルヴィスとは何の契約もしていない。エルヴィスは大佐と独占契約を結んだ。」と答えた[18]

RCAビクターからの最初のシングル盤となった1956年の「ハートブレイク・ホテル」で、プレスリーは、ただの話題性だけではなく、本物のレコーディング・スターになった。1965年以降、パーカーは、彼の新しいスターを全国的に売り出すべく動き始めた。彼はプレスリーのために、『The Milton Berle Show』や『エド・サリヴァン・ショー』といった人気テレビ番組への出演を取り付け、テレビ出演者として最高級の金額にあたる出演料を獲得した[19]。この年の夏までに、プレスリーは、最もなの売れた新人のひとりとなり、新たな十代の聴衆には大々的な興奮を巻き起こし、一部の年長の聴衆や宗教団体には、大々的な怒りを巻き起こした[19]

パーカーは、ビバリーヒルズの映画関連商品販売業者であったハンク・サパーステイン (Hank Saperstein) と、プレスリーをブランド名とすることで4万ドル近い商品化権の契約を結んだ[19]チャームブレスレットからレコード・プレーヤーまで、78種類の商品で展開されたプレスリー関連商品は、1956年末までに2200万ドルを売り上げた[19]。パーカーはその利益の25パーセントを手中にし、彼以前のマネージャーたちが夢見ることさえできなかったような、アーティストから金を生む様々な新しい手法を編み出した[19]。パーカーは、「私はエルヴィスが大嫌い (I Hate Elvis)」ト書かれたバッジを、そういうもの以外では金を出してくれそうもない(エルヴィス嫌いの)人々にも売ろうというアイデアさえ思いついた[19]

4月、パーカーは、エルヴィスの売り込みに関して最初の間違いを犯してしまった。パーカーは、エルヴィスに4週間のラスベガスでの仕事を入れたが、これはラスベガスに集まる、少し年齢層が高い、よりおとなしい聴衆の反応を読み誤った結果であった[20]。アメリカの若者の間で、ヒットの最中にあったプレスリーだったが、ラスベガスの中年の聴衆には、何かしら奇妙な存在としか映らなかった[20]。プレスリーを、ピーナッツを欲しがる猿のように叫び声をあげながら腰を振る姿から、道化のような人物と見た者もいれば、そのパフォーマンスが粗野で、深夜の紳士向けクラブにふさわしい類のものだと思った者もいた。数回のショーで、極めて冷ややかな反応を受けた後、パーカーはプレスリーの出演を2週間で打ち切ることにした。後にプレスリーは、このときの出来事を、自分のキャリアで最悪の事態のひとつだった、としばしば語った[20]

こうした躓きはあったものの、プレスリーの人気は、いよいよ勢いを増した。プレスリーは最初にパーカーと会った時から、映画への出演に意欲を示していたが、パーカーはいよいよその実現に動いた。パーカーはプレスリーのためにパラマウント映画のスクリーン・テストの機会を設け、そこでプレスリーは演技力を印象づけ、7本の映画への出演を契約した[21]。パーカーはこの契約に、少なくとも年に1本は他の映画スタジオで映画を撮る自由をプレスリーに認める、という条件を盛り込み、さらにパラマウントの中に、スタッフが常駐する事務所を構えることに成功した。プレスリーの映画出演は、当初は真剣に俳優としての可能性を追究しようとするものだったが 、シングル盤やアルバムを映画とともに一緒に宣伝する可能性が見えてくると、パーカーは映画作品の中で歌うよう、プレスリーを説得した。この目論見は、大儲けに繋がり、特に初主演映画『The Reno Brothers』(後に曲名と同じ『Love Me Tender』に改題)からのシングル「ラヴ・ミー・テンダー」は、予約だけで100万枚以上が売れた。1956年末までに、パーカーはプレスリーを、世界中で最も有名で、最も高い出演料が支払われるエンターテイナーに仕立て上げた[22]

1957年、パーカーは、プレスリーの生い立ちや活躍を下敷きにしたNBCのドラマ『The Singing Idol』の出演者のオーディションに、トミー・サンズを送り込み、遂にサンズを大きく売り出すことに成功した[11]。当初、NBCは、プレスリーにこの役を演じて欲しいと望んだが、パーカーはこれを拒んでいた[11]。ドラマの中では、パーカーにあたるマネージャー役は、「ひねくれた精神病質者 (twisted psychopath)」として描かれた[11]。批評家たちは、このドラマや主演したサンズを非常に高く評価し、これによってサンズは、1週間も経たないうちにキャピトル・レコードとの契約に漕ぎ着けた[11]。程なくして、サンズの歌う「Teenage Crush」がポップ・チャートの3位まで上昇し、最終的には80万枚を売るヒットとなった[11]

エルヴィスの兵役:1958年 - 1960年[編集]

パーカーとエルヴィスは大きな成功を手に入れたにも関わらず、パーカーは、エルヴィスの人気は1-2年しか続かないだろうと信じ込もうとしていた[23]。マネジメント業についた初めの頃以来、パーカーは多数の人々の盛衰を目にしてきており、パーカーにとって最も成功した出し物だったとはいえ、プレスリーをそのような盛衰の例外だと考えるのは、馬鹿げているように思われた。1958年1月、プレスリーは、アメリカ陸軍から召集令状を受け取った[24]。プレスリーは、兵役が自分のキャリアに影響するのではないかと考えて動揺したが、パーカーは密かに大喜びした[23]。その頃、プレスリーはパーカーに反抗する姿勢を見せる兆しがあったが、陸軍で厳しい扱いを受ければ、それも収まるだろう、とパーカーは考えた[23]

パーカーは将来を考え、プレスリーを説得して、通常の一兵卒として兵役に服させた[23]。プレスリー自身は、特別サービス部隊 (Special Services, SS) に加わって、パフォーマンスをしながら、他の一般の兵士たちより気楽な任務につくことを望んでいた[23]。しかし、パーカーは、プレスリーがいかなる形でも特別扱いされるようなことがあれば、プレスリーの音楽スタイルを嫌う人々やメディアから、格好の非難材料に使われるであろうことを見越していた[23]。もし、プレスリーが、他の普通の若者たちと変わらないのだということを世界に示すことができたなら、もっと多くの人々がプレスリーと、その音楽を受け入れるはずだ、とパーカーは考え、プレスリーを説得した。パーカーはまた、もし少しでもプレスリーに兵役を回避させようと試みれば、パーカー自身の軍歴が詮索されることになりかねないとも懸念していた[23]。さらにパーカーは、破壊された側の世界(敗戦国など米軍が進駐した地域のこと)で最も有名な髪型である、陸軍流の髪型に刈り上げられる場面を含め、プレスリーの入営をメディアに取材させれば、プレスリーを宣伝する格好の機会になることも見通していた[23]

プレスリーがドイツで兵役に就いている間、パーカーはプレスリーの名が人々の間に広まり続けているよう、懸命に動き回った。RCAが、そして何より一般大衆が、プレスリー関係の素材をもっと欲しがるように仕向けておけば、兵役を終えてプレスリーが復帰した際に、より良い条件で契約交渉に臨めると踏んでいたのである[23]。パーカーはプレスリーのために、入営前にシングル盤5枚分の録音を手配し[25]、RCAが2年間に途切れることなくシングルを出し続けられるようにしておいた。RCAは、プレスリーに何とかドイツでも録音をさせようとしたが、パーカーは、ドイツで録音スタジオに入って歌うようなことをすれば、一兵卒として軍務に就いているプレスリーの評判が台無しになるとして、これに反対した[25]。兵役に就いている間も、プレスリーは定期的に新聞記事の題材となり、除隊して帰国したらケーブルテレビでライブ放送をするらしいとか、テレビで全国中継されるスペクタクル番組の年間契約に合意したようだ、といった話が流された[25]。これらはいずれも、でっち上げ の虚報であったが、プレスリーの名を人々の目に見えるところに置き続けたのである。

パーカーは、プレスリー不在の間も事態を完全に掌握しているように見えたが、それでもドイツで外部からの影響がプレスリーに及ぶのではないかと心配した[25]。パーカーはヨーロッパへ渡ることは拒み、外国語が使えることも否定していた[25]。代わりに、ヨーロッパ滞在中にプレスリーを補佐するビジネス・アソシエイトとして、プレスリーの取り巻きの友人を派遣して、電話と手紙で頻繁に連絡を取った[25]。パーカーは、マネージャーを引き受ける者は他にもおり、25パーセントもの取り分を要求する契約などは求めない、とプレスリーが考えるのではないかと虞れていた。またパーカーは、この時点でもプレスリーの人気が失墜し、無に帰すのではないか、人々が誰か新しいスターを見つけ出してしまうのではないか、自分の金の卵を生むガチョウ(プレスリーのこと)が、たんなる「かつては...」という存在に落ちぶれてしまうのではなかと恐れていた[25]

エルヴィスの復帰:1960年 – 1965年[編集]

プレスリーが除隊となって帰国した1960年3月、パーカーはワシントンD.C.からメンフィスまでの列車を手配し、途中の駅に停車するごとに、ファンたちが彼らのアイドルに直接会えるようにした[26]。もし、パーカーが、エルヴィスの復帰に一抹の不安を抱いていたとしても、エルヴィスの帰路に起こった出来事を知れば、すぐに消し飛んだことだろう。

フランク・シナトラは、プレスリーとロックンロールを、50年代の汚点だと言い放っていたが、この頃には、何とかプレスリーを自分の番組に出演させたいと考えるようになっていた[27]。かつての厳しい非難を忘れるような人物ではなかったパーカーは、出演料は、2曲歌い、のべ8分間の出演で125,000ドルだと公言した。この金額は、番組全体への出演に対してシナトラ自身が得ていた総額よりも大きかった[28]。シナトラはこの条件に合意し、1957年1月の『エド・サリヴァン・ショー』以来、久々の全国放送テレビ番組への出演となったシナトラの特別番組は『en:The Frank Sinatra Timex Show: Welcome Home ElvisWelcome Home Elvis(お帰りなさいエルヴィス)』と題された。

シナトラの特別番組の後、パーカーは、プレスリーの将来をハリウッドに託すことにした[27]。パーカーは、プレスリーを、10年間にわたって毎年3本の映画とサウンドトラックを生み出す娯楽機械に仕立て上げようと構想した[27]1960年、パーカーはプレスリーに3回のライブ・ショーをさせたが、これはいずれもチャリティ行事であり、そのうち2件はメンフィスで、1件はハワイで行なわれた[27]。その後は、1968年まで、プレスリーは一度もライブ公演を行なわず、ファンとの直接の接触はほとんどなくなった[27]。パーカーは映画会社と長期契約を結んだが[29]、これは自分とプレスリーに仕事と収入が保証されることを狙ったものであったかもしれない。しかしこれは、一方では、パーカーにとっては失敗でもあった。もしパーカーが、映画1本ごとに、その直前の映画の興行成績に基づいて、その都度契約を結んでいれば、得られた報酬はもっと多くなっていたことだろう[29]1960年代を通して、パーカーはプレスリーの映画契約に関する交渉を続けたが、脚本の内容や、制作者側の思惑は、ほとんど意に介さなかった[30]。パーカーの持ち出す条件には、映画会社側にとっては無理難題も多く、映画プロデューサーハル・B・ウォリスは、「悪魔との契約は止めてしまおうかとも考えた (I'd rather try and close a deal with the Devil)」とこぼしたと伝えられている[30]

プレスリーは、年にアルバム3枚だけをRCAに提供すればよい立場だったが[27]、映画のサウンドトラックによってこの義務は果たされた。プレスリーはツアーもせず、公の場に姿を現すこともなく、パーカーは経費を最小限に維持することができた[27]。最初の数年間は、プレスリーの映画はそこそこの成功を収め、アルバムもチャートの首位まで上昇し、どんなシングル盤もほとんどがヒットした。しかし、時の流れとともに、また世界的現象としてのビートルマニアが始まると、ビートルズが音楽チャートを支配するようになるにつれて、プレスリーの人気は徐々に沈んでいった。それでも、プレスリーの映画は利益を生んでいたし、アルバムの売れ行きも好調だったが、収益は減少していった。このためパーカーは、映画の制作経費を引き下げようと、スケジュール管理を厳格にしつつ、揉め事を極力避けるようになった[29]

行き詰まり:1966年 – 1967年[編集]

その後の1960年代の残りの時期、プレスリーはエキゾチックなロケーション撮影と平凡な歌に依存した映画を作り続け、逃れる事のできない契約に縛られていた。パーカーは、映画の良し悪しは気にかけなかったが、収益にはうるさかった[29]。プレスリーが、脚本がひどいからもっと良いものにして欲しいとこぼしたとき、パーカーはプレスリーの贅沢三昧の生活スタイルの状態と、ほとんど何もせずに年100万ドルを稼げる状態をフイにするかもしれないリスクを指摘した。ビートルズスプリームスローリング・ストーンズボブ・ディランといったアーティストたちがチャートを席巻するようになる中、プレスリーのキャリアは動きを止めていた。パーカーは、後に1983年になって、プレスリーの映画とサウンドトラックから得られた収入が1966年以降は劇的に減少していたことを認めた[31]

収入減を挽回するため、パーカーは、プレスリーの黄金のキャデラックをツアーに送り出す手配をした[31]。パーカーがRCAに24,000ドルで売ったキャデラックは、プレスリーの最新の映画『フランキー and ジョニー (Frankie & Johnny)』の宣伝のために利用された[31]。このキャデラックのツアーは、映画自体よりも大きな反響を呼ぶ成功を収めた[31]ニューストンでは、ある日の午後だけで、4万人がこのキャデラックを見るために入場料を支払い、ある女性などは、この車の座席に座らせてもらえるならツアー・マネージャーとセックスをしてもいいとまで言い出したという[31]

1967年1月2日、パーカーは、マネジメント代理契約についてプレスリーと再交渉を行ない、それまで25%だった自分の取り分を50%にまで引き上げるようプレスリーを説得した。この契約について質問した評論家に対して、プレスリーは「70%を取っていくイースト・コースト・エンタテイメントとだって契約したかもしれないぜ! (I could have signed with East Coast Entertainment where they take 70 percent!)」と切り返した[32]。パーカーは、自分にとってプレスリーはたったひとりのクライアントであり、自分はプレスリーからしか収入を得ていないのだという理屈を述べた[32]

1966年、プレスリーが再びパーカーに反抗するそぶりを見せた後、人気の陰りもあり、パーカーは新しいアプローチを行なう時期が来たと判断し、プレスリーの結婚を仕掛けた[31]。フランク・シナトラは、1966年ミア・ファローと結婚して大きな宣伝効果を上げていたが、パーカーはこれに注目していた。プレスリーは既に、10歳年下のプリシラ・ボーリューと4年間同棲していたが、その事実は公にされていなかった。ジェリー・リー・ルイスが、当時13歳だった従妹と結婚した事が明らかになったときには、ルイスの人気はガタ落ちになっており、パーカーは同様のスキャンダルがプレスリーに起こる事は許さなかったのである。

パーカーは、結婚がプレスリーの人気を再燃させるだけでなく、プレスリーを手なずける事になると期待していた[31]。既にプリシラの父親がふたりの関係をほのめかしており、関係が発表前に公けになることを恐れたパーカーは、なるべく早く彼女との関係をきちんとしたものにするようプレスリーを説得した。しかし、彼らの結婚式は平穏なものとはならなかった。パーカーは、結婚式をラスベガスでやると決め[31]1967年5月1日にふたりは、わずかな招待客だけが立ち会った、たった8分間の結婚式を挙げた[33]。メディアが新婚のふたりの写真を撮影した後、レセプションとして朝食会が設定された[33]。この結婚式はサーカスのようだったと述べる者もいた。

出典・脚注[編集]

  1. ^ Strauss, Neil. "Tom Parker is Dead at 87; Controlled Presley's Career." New York Times. January 22, 1997.
  2. ^ Osborne, Elvis: Word for Word, p.15
  3. ^ Guralnick, Peter (1995). Last Train to Memphis: Rise of Elvis Presley. Abacus. pp. 168. ISBN 978-0-349-10651-9. 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n Victor, Adam (2008). The Elvis Encyclopedia. Gerald Duckworth & Co Ltd. pp. 385. ISBN 978-0-7156-3816-3. 
  5. ^ a b Nash, Alanna (2003). The Colonel: the extraordinary story of Colonel Tom Parker and Elvis Presley. Simon & Schuster. pp. 39–51. ISBN 978-0-7432-1301-1. 
  6. ^ a b Nash, Alanna (2002). The Colonel: The Extraordinary Story of Colonel Tom Parker and Elvis Presley. Aurum Press Ltd. pp. 75–78. ISBN 978-1-85410-948-4. 
  7. ^ a b c d e f Nash, Alanna (2002). The Colonel: The Extraordinary Story of Colonel Tom Parker and Elvis Presley. Aurum Press Ltd. pp. 79–82. ISBN 978-1-85410-948-4. 
  8. ^ a b Vellenga, Dirk (1990). Elvis and the Colonel. Grafton. pp. 54–60. ISBN 978-0-586-20595-2. 
  9. ^ a b c d e f Nash, Alanna (2002). The Colonel: The Extraordinary Story of Colonel Tom Parker and Elvis Presley. Aurum Press Ltd. pp. 82–90. ISBN 978-1-85410-948-4. 
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v Victor, Adam (2008). The Elvis Encyclopedia. Gerald Duckworth & Co Ltd. pp. 384–395. ISBN 978-0-7156-3816-3. 
  11. ^ a b c d e f g h i j k l Nash, Alanna (2004). The Colonel: The Extraordinary Story of Colonel Tom Parker and Elvis Presley. Chicago Review Press. pp. 120–125. ISBN 978-1-55652-546-9. 
  12. ^ Moore, Scotty with James L. Dickerson, That's Alright, Elvis:The Untold Story of Elvis's First Guitarist and Manager, Schirmer Books/Simon & Schuster, 1997, p.67
  13. ^ a b c d Moore, Scotty. That's Alright, Elvis
  14. ^ Vellenga, Dirk (1988). Elvis and the Colonel. Grafton. pp. 85–90. ISBN 978-0-246-13459-2. 
  15. ^ Dickerson, James L. (2001) "Colonel Tom Parker: The Curious Life of Elvis Presley's Eccentric Manager," Cooper Square Press, p.72
  16. ^ Doll, Susan (2009). Elvis for Dummies. John Wiley & Sons. pp. 65–70. ISBN 978-0-470-47202-6. 
  17. ^ Guralnick, Peter (1994). "Last Train to Memphis," Little, Brown, p. 258
  18. ^ Dickerson, James L. Colonel Tom Parker, p. 73
  19. ^ a b c d e f Nash, Alanna (2002). The Colonel: The Extraordinary Story of Colonel Tom Parker and Elvis Presley. Aurum Press Ltd. pp. 118–134. ISBN 978-1-85410-948-4. 
  20. ^ a b c Guralnick, Peter (1999). Elvis Day by Day. Ballantine Books Inc.. pp. 71. ISBN 978-0-345-42089-3. 
  21. ^ Guralnick, Peter (1999). Elvis Day by Day. Ballantine Books Inc.. pp. 67. ISBN 978-0-345-42089-3. 
  22. ^ Guralnick, Peter (1999). Elvis Day by Day. Ballantine Books Inc.. pp. 94. ISBN 978-0-345-42089-3. 
  23. ^ a b c d e f g h i Vellenga, Dirk (1990). Elvis and the Colonel. Grafton. pp. 102–103. ISBN 978-0-586-20595-2. 
  24. ^ Guralnick, Peter (1999). Elvis Day by Day. Ballantine Books Inc.. pp. 95. ISBN 978-0-345-42089-3. 
  25. ^ a b c d e f g Vellenga, Dirk (1990). Elvis and the Colonel. Grafton. pp. 106–108. ISBN 978-0-586-20595-2. 
  26. ^ Guralnick, Peter (1999). Elvis Day by Day. Ballantine Books Inc.. pp. 149. ISBN 978-0-345-42089-3. 
  27. ^ a b c d e f g Vellenga, Dirk (1990). Elvis and the Colonel. Grafton. pp. 112–15. ISBN 978-0-586-20595-2. 
  28. ^ Guralnick, Peter (1999). Elvis Day by Day. Ballantine Books Inc.. pp. 140. ISBN 978-0-345-42089-3. 
  29. ^ a b c d Vellenga, Dirk (1990). Elvis and the Colonel. Grafton. pp. 118–121. ISBN 978-0-586-20595-2. 
  30. ^ a b Doll, Elvis for Dummies, p.139
  31. ^ a b c d e f g h Vellenga, Dirk (1990). Elvis and the Colonel. Grafton. pp. 127–131. ISBN 978-0-586-20595-2. 
  32. ^ a b Worth, Fred (1992). Elvis: His Life from A to Z. Outlet. pp. 149. ISBN 978-0-517-06634-8. 
  33. ^ a b Vellenga, Dirk (1990). Elvis and the Colonel. Grafton. pp. 134–140. ISBN 978-0-586-20595-2.