ブライアン・ジョーンズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ブライアン・ジョーンズ
Brian Jones
ジョージア・サザン大学におけるローリング・ストーンズの演奏時のジョーンズ(1965年4月4日)}
ジョージア・サザン大学におけるローリング・ストーンズの演奏時のジョーンズ(1965年4月4日
基本情報
出生名 Lewis Brian Hopkins Jones
別名 Jones、Nick
出生 1942年2月28日
出身地 イングランドの旗 イングランド グロスターシャー チェルトナム
死没 1969年7月3日(満27歳没)
イングランドの旗 イングランド サセックス ハートフィールド
ジャンル ロックンロール
サイケデリック・ロック
ブルースロック
ロック
R&B
職業 ミュージシャン
作曲家
レコード・プロデューサー
担当楽器 ボーカル
ギター
ハーモニカ
キーボード
アパラチアン・ダルシマー
トランペット
トロンボーン
メロトロン
シタール
タンブラ
リコーダー
サックス
パーカッション
オートハープ
マリンバ
スライド・ギター
オーボエ
バンジョー
クラリネット
ピアノ
フォーク・ギター
シロフォン
活動期間 1960年1969年
レーベル デッカ・レコード
ロンドン・レコード
共同作業者 ザ・ローリング・ストーンズ
著名使用楽器
ハーモニー・ストラトーンH46
ヴォックス・マークⅥ
ギブソン・ファイヤーバード
リッケンバッカー・360/12

ルイス・ブライアン・ホプキンス・ジョーンズ(Lewis Brian Hopkins Jones、1942年2月28日 - 1969年7月3日)は、イギリスミュージシャンロックバンドザ・ローリング・ストーンズの元ギタリストリーダー

生涯[編集]

ウェールズ人航空技師の息子としてグロスターシャーチェルトナムで生まれた。彼は知能指数が135だった。17歳でチェルトナム中等教育学校を放校となるが、この時すでに2人の子供がいた(また、1964年には、リンダ・ローレンス(後にドノヴァンと結婚)との間に私生児1人をもうけている)。ジャズR&Bに夢中で、ロンドンに出た1960年の頃よりデパートの店員をしながらバンド活動を行っていた。1961年からはアレクシス・コーナーが結成したバンド、ブルース・インコーポレイテッドに加入しこのバンドで腕を磨いた。同バンドで後のバンドメイトとなるチャーリー・ワッツと出会っていて、これが後にチャーリーのストーンズ加入の布石となった。

1962年4月、イーリング・ジャズ・クラブにてミック・ジャガーキース・リチャーズに出会う。「ダスト・マイ・ブルーム」を演奏するブライアンのギターに衝撃を受けたミックとキースは、彼をバンドのメンバーにしようとする。ブライアンもまた、二人の興味ある音楽との共通項も多かったことから互いに意気投合し、間もなく彼らはロンドン市内の安アパート(イーディス・グローヴ)で共同生活を始め、貧しいながらも音楽浸けの生活を送る。歌唱力が乏しいミックの代わりに卓越した歌唱力の持ち主である親友のポール・ボンド(後にマンフレッド・マンに参加するポール・ジョーンズ)を迎えようとキースに打ち明けるものの猛反対に遭い断念するというエピソードも残る。その後チャーリー・ワッツビル・ワイマンを加えてローリング・ストーンズを結成する。このバンド名はブライアンによって付けられたとされる。ブライアンは紛れもなくローリング・ストーンズの創設者であった。

ローリング・ストーンズは1963年6月にレコードデビューした。当初メンバーはイギリスの白人聴衆に「本物の」R&Bを聴かせることを目的としたが、マネージャーのアンドリュー・オールダム(元ビートルズの宣伝担当)の意向もあり、オリジナル志向に移りつつあったバンドの主導権は次第にブライアンからミックとキースに移ることになる。また、バンドの成功に伴いブライアンは徐々に麻薬に溺れるようになった。1967年誇大妄想狂と暴力的振る舞いが原因(と、されている)で、恋人であったアニタ・パレンバーグがキースの下に走り、精神的ダメージを受けてしまう。1969年6月8日、バンドを脱退。脱退直前のブライアンの様子は、ジャン・リュック・ゴダール監督の『ワン・プラス・ワン』での「悪魔を憐れむ歌」のレコーディング風景の中で見られるが、かつての縦横無尽に楽器を演奏する姿はなく、まるで魂の抜け殻のようである。

脱退からほぼ1ヶ月後の7月2日深夜12時過ぎ頃、サセックスのハートフィールドにある自宅のコッチフォード農場(かつてA・A・ミルンが住んでいた家をブライアンが買い取った)のプールの底に沈んでいるのが発見された。スウェーデン人のガールフレンド、アンナ・ウォーリン人工呼吸を試み、看護師のジャネット・ローソン、改装工事中の建築業者フランク・サラグッドが救急車を呼んだが、医師が到着した時、ブライアンは既に死亡していた。検死官は、アルコールとドラッグの影響で溺死した、と報告した。ところが、ウォーリンは2000年に、サラグッドがブライアンを殺害したと主張した。1993年にサラグッドは殺害を認めたと言われるが、確認がなされる前に死去している。

ブライアンに代わる新メンバー、ミック・テイラーのお披露目として予定されていた1969年7月5日ハイド・パークでのフリーコンサートは、急遽ブライアンの追悼コンサートして行われることとなった。同コンサートはグラナダTVで放送され、現在、音楽ソフトとして発売されている。ブライアンの葬儀は7月10日に行われ、故郷のチェルトナムに埋葬された。なお、彼の墓石には「僕をひどく裁かないでください(Please don't judge me too harshly)」と刻まれているとよく言われているが、実際には、名前と生年月日が刻まれているだけである。これに関しては、バーバラ・シャロンキース・リチャーズ評伝「KEITH RICHARDS Life as a Rolling Stone(邦題:キース・リチャーズ 彼こそローリング・ストーンズ)」の、ブライアンの葬儀場面の記述が発端だと思われる。なお、上記の言葉は父親に宛てて書いた手紙に書かれた言葉である。

ブライアンは作曲こそ殆どしなかったものの、楽器に触れるとすぐに演奏を憶えられたと言われ、ギターの他にハーモニカピアノシタールダルシマーメロトロンマリンバリコーダークラリネットといった20種類以上の楽器を演奏できるマルチプレイヤーであり、それらの楽器を曲に織り込むアレンジャーとしての能力は卓越していた。しかし近年、1967年発表の「ルビー・チューズデイ」がブライアンによる作曲であったことがキースやビルの口から語られている。また、関係者によれば他の幾つかの楽曲にもブライアンが作曲したものがあったということが判明している。彼のR&Bを基調とした音楽性は、初期ストーンズの方向性を決定付けるもので、ミック、キースらにも多大な影響を与えている。

また、1967年にはドイツの映画『Mord und Totschlag(英題:A Degree Of Murder)』(フォルカー・シュレンドルフ監督、アニタ・パレンバーグ主演)の音楽を担当している。

2005年には、スティーヴン・ウーリー監督によって、ブライアンの他殺説を映画化した『ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男』が発表された。

ザ・ローリング・ストーンズ[編集]

使用楽器[編集]

  • VOX MarkⅢ

C・W・ニコルとの関係[編集]

ローリング・ストーンズのライブで演奏するジョーンズ(中央、1965年)

ブライアンと冒険作家のC・W・ニコルは同じ高校の卒業生である。ニコルのエッセイC・W・ニコルと21人の男たち』によると、彼はブライアンが同じウェールズ人であるということで目をかけており、仲が良かったという。また、ニコルはブライアンに柔道を教えたり、ブライアンからラップ人と一緒に暮らしたいという相談を受けた、と懐古している。しかし、ブライアンが少女を妊娠させてしまったことに、当時大学生だったニコルが憤慨して、両者の仲は亀裂が走りお互いに音信不通になった。ニコル曰く、「僕はまだ高校生のブライアンが女の子を自分の都合で妊娠させて、何の責任も取らないで勝手にチェルトナムを去った行為が許せなかったんだ」と語っている(もっとも実際には、妊娠した少女自身がブライアンと一切の接触を拒んでいた)。だが、ニコルはそれでも後輩のブライアンの行く末を案じていたという。

その後、ニコルは再びカナダに渡り、フィールドワーカーとしてカナダの環境庁に勤務する。モントリオールのニコルをチェルトナムの旧友が訪ねた時、ブライアンがローリング・ストーンズのリーダーであることを知る。ニコルは、旧友が購入したローリング・ストーンズのレコードを聴き「ストーンズの曲は確かに騒がしく、カバー・アルバムのブライアンの写真も馬鹿げた顔をしていてやたらに不機嫌そうだ。だけど僕は結構、曲は気に入ったものが多いね。特に『サティスファクション』は素晴らしかったよ。だってブライアンは誇り高きウェールズ人だもの。歌と曲はうまいに決まっているさ」と述べている。

28歳になったニコルはエチオピア自然保護官となる。彼がパトロールの途中パブで休憩していた時、たまたまストーンズの曲が流れた。ニコルはイギリス人観光客に「ストーンズのブライアン・ジョーンズは僕の高校の後輩なんだよ」と自慢した。するとその観光客は「それは気の毒にね。ブライアン・ジョーンズはドラッグのやりすぎで、自宅のプールの中に浮かんだまま死んだそうだよ」と語った。それを聞いたニコルは顔色を変えて「なんだって? あの負けず嫌いのならず者のブライアンが? なんてこったい! 全く信じられないよ…嘘だろう? ブライアンの馬鹿野郎!! なんで俺との約束を破ったんだ? 何故、君がラップ人と暮らす夢を捨てミュージシャンとなってあんな悲惨な死に方をしたんだ? そうか…君は自曲のように『(I can't get no) satisfaction(「俺は満足なんかできない」)』という気持ちが強くて満足できずに死んだんだな。くそっ、俺はお前さんの尻を蹴り飛ばしてやりたいぜ! わかるかい? ブライアンよ、俺の気持ちが…」と濃いアラーキ(エチオピアのテキーラ)を痛飲して、涙を流しながらその死を悲しんだという。

交友関係[編集]

バンドの創設者ということもあり、ストーンズの初期メンバーの中では、当時最も多くのミュージシャンと交流を持っていたとされる。アレクシス・コーナーは、ストーンズのクロウダディ・クラブでの活動時期から交流があり、出演時に見に来たジョージ・ハリスンを始めとするビートルズのメンバーは非常に感銘を受けたという。特にジョン・レノンはブライアンの卓越した音楽センスを高く評価しており、ビートルズの「ユー・ノウ・マイ・ネーム」などにゲスト参加している。ジミ・ヘンドリックスとも親交があり、ジミのモンタレー・ポップ・フェスティバル出演時にはジミを紹介する役割で出演し、ジミとのジャム・セッションも非公式に残されている。また、レノン、ヘンドリックス、ブライアンの3人でスーパー・グループを結成する構想があったという。ボブ・ディランとも親交があり、ディランの「やせっぽちのバラッド」はブライアンのために贈られた曲とされる。 ストーンズ結成前から女性関係が派手で、一説には4人以上の私生児がいるとされる。ストーンズ時代もアニタ・パレンバーグスキ・ポワティエなど複数のガールフレンドがいた。ブライアンがバンド内で転落するきっかけは、アニタがモロッコ旅行中のトラブルで、キースの下に走ったことだったといわれている。

ソロアルバム[編集]

ブライアンがモロッコの民族音楽を自ら現地で録音し、編集や加工を加えてアレンジしまとめた物。自身は演奏に加わっていないが、原曲に対してかなり恣意的なアレンジが施されており、ブライアンの実質的な遺作と評価されている。

関連事項[編集]

外部リンク[編集]