チャーリー・ワッツ

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チャーリー・ワッツ
ベルリン国際映画祭にて(2008年)}
ベルリン国際映画祭にて(2008年)
基本情報
出生名 チャールズ・ロバート・ワッツ
出生 1941年6月2日(73歳)
出身地 イングランドロンドン
ジャンル ロック , ブルース, ジャズ, R&Bソウルハードロック, レゲエ
職業 ミュージシャン
担当楽器 ドラムス
活動期間 1960年 - 現在
レーベル デッカ・レコード
ローリング・ストーンズ・レコード
ヴァージン・レコード
共同作業者 ローリング・ストーンズ
著名使用楽器
Gretsch Drums

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チャールズ・ロバート“チャーリー”ワッツ(Charles Robert "Charlie" Watts, 1941年6月2日 - )は、イギリスミュージシャンロックバンドローリング・ストーンズドラマー。身長168cm。

デビュー以来、今日までミック・ジャガーキース・リチャーズと共に在籍し続けているオリジナルメンバーの1人である。ジャズに影響を受けた独特のドラミングで、ストーンズの独自性溢れる音作りを永年にわたって支えている。

同バンド以外に、自らが率いるジャズ・バンドでも活動している。

略歴[編集]

イギリス国鉄貨物列車の運転手であった父チャールズと母リリアンとの間にロンドン北部のイズリントンに生まれ、姉のリンダと共にイズリントン及びキングスベリーにて育つ。

12歳の時に、いとこが持っていたアール・ボスティックの「フラミンゴ」を聴いたのがきっかけでジャズに興味を持ち始める[1]。初めて買ったレコードビリー・エクスタインだった。1955年に両親からドラムセットを贈られ、ジャズのレコードを収集しながら腕を磨いていく。17歳の頃からジャズ・クラブに出入りするようになる。学生時代は美術フットボールクリケットにも才能を発揮した。1960年までハロウ・アート・スクール(現ウェストミンスター大学)に在籍しており、この頃からクラブなどでプレイするようになった。その後、広告会社に就職しグラフィック・デザイナーとして勤務する一方、ローカル・バンドに参加しカフェやジャズ・クラブなどでプレイするという日々が続いた。このため、ストーンズのオリジナル・メンバーの中ではブライアン・ジョーンズと並んで最も長い活動歴を持つ。

いくつかのバンドでプレイしていく過程で、1959年アレクシス・コーナーとの交流が始まる。コーナーとの知己を経たチャーリーは、紹介からいくつかのバンドのドラマーとしてのキャリアが始まった。1960年頃のことである。その後1961年にドラムの腕を見込まれてコーナーが結成したバンド、ブルース・インコーポレイテッドへの加入オファーを受けたが、当時のチャーリーは仕事の関係でデンマークに滞在していた為、これを断っている。しかし翌年1962年にロンドンへ戻った際に再びオファーを受け、これを承諾。これまで短期的なバンドでしか活動していなかったチャーリーは、このバンドから固定メンバーという立場で活動を行うようになる。ブライアン・ジョーンズも同バンドのライブに参加しており、ミック・ジャガーキース・リチャーズともここでの活動で知り合っている。特にキースとの出会いは大きく、ジャズ一辺倒だったチャーリーがシカゴ・ブルースR&Bといったジャズ以外の黒人音楽を聴くようになるきっかけとなった。

1963年にメンバーからの説得により、ローリング・ストーンズのデビューのわずか数カ月前に加入。ようやくストーンズのオリジナル・ラインナップが揃った。チャーリーはストーンズに加入した際、「数カ月か、もって2年かそこらで終わるだろう」と思ったのでメンバーになったのだと語っている。

1964年10月14日にシャーリー・アン・シェパードと結婚。まだストーンズの活動が軌道に乗る以前のことであった。初の全米ツアーでは、妻と離れているのが寂しくて泣いたという愛妻家の一面も持つ。1968年3月18日には娘のセラフィーナを授かっている。

1980年代にはドラッグ中毒に陥り、同時期にアルコール依存症も患っている。その影響で『ダーティ・ワーク』のレコーディング進行は困難を極め、リリース後のツアーも行なわれなかった。当時のエピソードのひとつに「飛ぶかどうか試そう」と言ってテレビをホテルの7階から放り投げたことがある。

1986年より、ソロワークとして自らのジャズ・バンドを率いて精力的な活動を展開している。2000年にはジム・ケルトナーと共同で、リスペクトするジャズ・ドラマーへのトリビュート・アルバムをリリースした。2001年秋にはチャーリー・ワッツ・アンド・ザ・テンテットとして来日公演も行なっている。

2004年6月に喉頭癌と診察され、放射線治療を行った。以来は小康状態である。

人物[編集]

永遠の不良というパブリックイメージが強いストーンズの中にあって、唯一初婚を貫き、スーツ姿の似合う英国紳士然とした風貌を持つ。
しかしながら、リハーサル中に高揚し自分のドラムセットを蹴飛ばしたミック・ジャガーの襟首を掴み「俺は演奏中に席を立ってお前のマイクを放り投げたりしないだろう?お前も俺のドラムセットに触れるんじゃない」と凄んだり、寝起きに「よう。俺のドラマー!(チャーリーはこれを、自分のバックバンドというニュアンスに受け取った)」と酔っ払って抱きついてきたミックに対し、わざわざを剃りスーツに着替えてから「お前こそ俺のボーカルだろうが!二度とそんなことを言うな!」と言って殴り倒すなど、ロックミュージシャンらしいエピソードも存在する。長髪隆盛期だった60年代末頃から70年代にかけて、敢えて丸刈りにしたこともある。

ステージではミック・ジャガーやキース・リチャーズとは対照的に感情をあまり表に出さず、涼しげな顔で独特のドラム・フレーズを叩き出す姿が印象的である。その様は音楽雑誌のライブ・レポートに毎回のように取り上げられている。かつてレコーディングの遅れに業を煮やしたキースが24時間ぶっ通しのスタジオ篭りを決行した際には、他のメンバーが付き合いきれず次々と帰ってしまう中、24時間後に残っていたのはチャーリーのみであり、水ぶくれが潰れて手が血まみれになりながらも顔色ひとつ変えずにドラムを叩いていたという。このためキースからは絶大な信頼を得ている他、こうした人柄から90年代以降のツアーでは、メンバー紹介の際にメンバーたちから崇められるといった場面も。特に2005年から行われた「ア・ビガー・バンツアー」では小康状態だったものの、癌治療中であるにも関わらずツアーを断行したため、観客からはとりわけ大きな歓声があがった。

前述の通り、プロ・ミュージシャンになる以前はグラフィック・デザイナーだった経歴を持っている。現在もストーンズのステージ・セットのデザインをデザイナーのマーク・フィッシャーやミックと共に手掛けている他、Tシャツなどグッズのデザインチェック等にもミックと共に携わっている。また、ツアーの際に初めて泊まるホテルの部屋の内装をスケッチするという。

ロックバンドの一員として活動しているが大変ジャズ志向が強く、ソロワークについても全てジャズに関するものである。「今でも自分はジャズ・ドラマーだと思っている。ジャズ・ドラマーがたまたま世界一のロックバンドに入ってるってことだよ[2]」「ロックは子供の音楽だ」などと公言して憚らない一面もある。2010年オーストリアのOsterreich紙のインタヴューでは「ビートルズのファンになったことはない。リンゴ・スターのファンだ。でも音楽は違う。それにエルヴィスは嫌いだった。指針にしようなんて思ったことはない。ビートルズエルヴィスはノー。マイルスはイエスだ」と語っている。
89年以降ストーンズが再び精力的にワールド・ツアーを行うようになると、記者会見やインタビューなどでストーンズが今後もツアーを続けるかと問われる度に、ミックやキースが肯定的に発言するのに対し、毎回のように今回が最後だと発言している。それでもストーンズのメンバーであることに対し「ストーンズが明日なくたって生きていける。だけどそうしようとは思わないね」「僕はただこのバンドでドラムを叩くのが好きなだけなんだ」というコメントも残しており、バンドへの愛着は随所で窺える。 しかしながら21世紀に入った現在、自身が喉頭癌であることが発覚して以降、ストーンズの新曲発表からワールド・ツアーといった長期的な活動については否定的なコメントをしており、「家族との時間を大切にしたい」、「(2014年のツアーについて)この年齢でこんな大規模なツアーを行う事自体馬鹿げている」とも語っている。こうした発言が多くなっているためか、近年は、ストーンズを脱退するのではないのかと噂されることもある。

彼のジャズ・フリークぶりはストーンズのサウンドにも影響を与えている。レコーディングに大物のジャズ・ミュージシャンが度々ゲスト参加しているが、これはチャーリーの意見によるところが大きいと言われている。『刺青の男』レコーディング時にミックが最高のサックス・プレイヤーは誰かと尋ねてきたのでソニー・ロリンズの名前を挙げると、後日ニューヨークでスタジオに入ったら中にロリンズがいたという。『ブリッジズ・トゥ・バビロン』にはウェイン・ショーターが参加しており、直後のツアーのエドワード・ジョーンズ・ドーム公演ではたまたまセントルイスの街に居たジョシュア・レッドマンがゲスト出演している。
また、ストーンズのツアー中であるにも関わらず、訪れた街でジャズ・クラブなどに足を運んでは、飛び入りでライヴに出演することもある。 日本のジャズ雑誌も定期購読している。日本語は解さないものの写真を見たりすることで誰がどれくらい人気があるか見当はつくらしく、各レコード会社が出している広告を眺めるのも楽しみにしており、来日した際にはその雑誌の広告やレビューでチェックしたアルバムのリストを見せ「これらのCDはどこで買えるのか?」と逆にマスコミを質問攻めにしたこともある。

趣味は園芸牧場も所有しており、休日には妻と乗馬を楽しむという。

ドラム・スタイル[編集]

スイスヘリザウでのライヴ(2010年)

チャーリーのドラミングは特徴的である。通常のドラマーは8ビートではハイハットを連打し続けるが、彼の場合はスネアドラムのサウンドをより鮮明に浮き立たせるため、左手でスネアを叩く時はハイハットを休憩する。「省エネ奏法」と呼ばれるこのプレイスタイルこそがストーンズ独特のグルーヴを生み出しているという声も数多い。本人は「自分でも人に指摘されるまでそうやって叩いている事に気が付かなかった」と語っており、自身の癖がそのまま定着したものと思われる。左手はスティックレギュラーグリップで握っている。ストーンズとしてデビューしてからしばらくは、周りの勧めもあってマッチドグリップを使って叩いていたが、どうしても馴染めず67年頃にレギュラーグリップに戻した。フィルインシンバルの使い方にも彼の独自性を見出すことが出来る。

1957年グレッチのドラムセットを永年にわたって愛用しており、1バス・1タム・1フロアというシンプルな構成である。楽器は衣装が見える様に低くセッティングされる。スティックはヴィク・ファース社の14.9×406サイズの物を使用。チップはティアドロップ型で、ジャズ・セッションも多くこなす関係上、繊細な音を出すためにサイズは小さめである。同社より自身のオリジナル・モデルも発売されている。

キース・リチャーズはチャーリーのドラムに全幅の信頼を寄せており、「チャーリーでなければローリング・ストーンズとは呼べない」など賞賛のコメントを数多く語っている。チャーリーもまた「キースの音さえ気にしていれば、バンド全員の音にまで気を配る必要はない。僕は彼のギターに従うまでだ」としている。

前述の通りジャズ志向が強く、尊敬するドラマーもトニー・ウィリアムスバディ・リッチアート・テイラーなどをはじめとしたジャズ畑の人物が多いが、今まで出会った中で最高のドラマーを訊ねられた際には、「ジョン・ボーナムだ」と即答している。

バンド脱退について[編集]

2009年9月2日、現地時間の午前10時にオーストラリアの音楽サイトUndercover.com.au内にて、チャーリーがストーンズを脱退するという記事が掲載され話題を呼んだ[3]。内容は「関係者の話として、チャーリーはもう2度とバンドとツアーやレコーディングをしない。ストーンズは彼の代わりにキース・リチャーズのソロ・プロジェクトでプレイしているセッション・ドラマー、チャーリー・ドレイトンを迎えることを考慮している」というものであった。
しかしストーンズのスポークスマン、フラン・カーティスは翌日にチャーリー脱退を否定する声明を発表している。これに対しUndercover.com.auは、Sunday Herald紙の報道を受け「ストーンズには否定の前歴がある。ビル・ワイマンが脱退した時も認めるのに18ヶ月かかった。当時バンドは活動休止期間で、ただ単に彼の脱退を否定した。しかし活動を再開したときビルはいなかった」「今回もチャーリー脱退を否定するのは間違いない」「時間は我々の味方だ」と強気の姿勢を示した。
そもそもこの記事は、時期を同じくして報道された1969年ブライアン・ジョーンズ死亡事件の再捜査の噂に端を発し、新たな模造された噂話に過ぎないとの意見もあった。

一方で、近年チャーリーは「本当はツアーに出ることに対して気が重い。家を離れたくないが、そうなるとドラムが叩けない。そのジレンマに揺れている」と常に語っており、『ア・ビガー・バン』のツアー時もキース・リチャーズの説得でようやく参加することに応じた、という経緯がある。それだけに、ネット上でもかなり信憑性のある情報としてツイッターブログなどで紹介され、「チャーリーのドラム抜きにストーンズがライヴ活動を続けることは、バンドが無くなったも同じ」とバンドの活動再開を危ぶむ声も少なくなかった。
2010年2月には、オーストリアのOsterreich紙のインタビューで、「正直言って、明日ストーンズが終わりを迎えたとしても僕は全然構わない」というコメントも残している。

2010年5月にも、Sunday Herald紙がチャーリー脱退を報じている[4]。同紙は関係者の話として「チャーリーはこれ以上ストーンズのツアーに参加する気はなく、代わりにキース・リチャーズのバック・バンドのドラマー、スティーヴ・ジョーダンが後釜として加入するらしい」と掲載した。しかしながら「The Guardian」紙によると、翌朝カーティスはこれを否定する声明を発表したという。チャーリーは、「アルバム『メイン・ストリートのならず者リマスター盤のリリースや映画『Stones In Exile』のDVD発売というバンドの最新プロジェクトをプロモートするため、インタビューを受けている最中」であり、バンド・メイトと共に「アルバムのUKチャート1位獲得を祝っているところだ」という。

一説では、彼はストーンズを完全に脱退したわけではなく、レコーディングには参加するものの、ツアーに出るつもりはないとの話もある。
このことについてチャーリー本人は2010年9月、フランスのLe Parisien紙に「我々はそれについて話し合っているところだ。何かしらの動きは来年か再来年になるだろう。みんな先の未来のことはあまり見通せない年齢になったから」と語っている[5]

2012年から2013年にかけ、チャーリーは再びストーンズとしてステージに立ち、イギリスとアメリカで結成50年を祝ってライヴを行った。2013年の夏には、世界的な人気フェスとして有名であるグラストンベリー・フェスティバルに三日間、44年ぶりとなるロンドンのハイド・パークでそれぞれ公演を行った。チャーリーは始めこれらのライヴに乗り気ではなかったが終了後は、「泥だらけのグラストンベリーで夜プレイするなんて考え、反対だったけど、あれはやるべきだった。7月の週末、UKで3回やったけど、天気も観客も素晴らしくて(グラストンベリー、ロンドン)両方とも楽しかった。つべこべ言うなってこと、学ばないとな。僕のいつものパターンだよ」と語った[6]。2014年現在、世界ツアー中である。

ディスコグラフィー[編集]

  • Live at Fulham Town Hall(1987年) ※チャーリー・ワッツ・オーケストラ名義
  • From One Charlie (1991年) ※チャーリー・ワッツ・クインテット名義
  • Tribute to Charlie Parker with Strings (1992年) ※チャーリー・ワッツ・クインテット名義
  • Warm & Tender (1993年)
  • Long Ago & Far Away (1996年)
  • charlie watts jim keltner project (2000年) ※チャーリー・ワッツ・アンド・ジム・ケルトナー名義
  • Watts At Scott's (2004年)
  • The Magic of Boogie Woogie (2010年) ※アクセル・ツヴェインゲンブルガー、デイヴ・グリーン、チャーリー・ワッツ名義

脚注[編集]

  1. ^ [1]
  2. ^ [2]
  3. ^ [3]
  4. ^ [4]
  5. ^ [5]
  6. ^ [6]

外部リンク[編集]