キンクス

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The Kinks
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基本情報
出身地 イングランドの旗 イングランド ロンドン
ジャンル ロック, ポップ, モッズ
活動期間 1964-1996
レーベル パイ, リプリーズ, RCA, アリスタ
ロンドン, MCA, コロムビア
ソニー, Koch
コンク / ガーディアン
ユニバーサル
共同作業者 ニッキー・ホプキンス, ザ・マイク・コットン・サウンド, アージェント, ザ・クリエイション, キャスト・オフ・キンクス
公式サイト thekinks.info
旧メンバー
レイ・デイヴィス
デイヴ・デイヴィス
ミック・エイヴォリー
ピート・クウェイフ
ニッキー・ホプキンス
ジョン・ダルトン
ジョン・ゴスリング
アンディ・パイル
ゴードン・ジョン・エドワーズ
ジム・ロッドフォード
イアン・ギボンズ
ボブ・ヘンリット
マーク・ヘイリー

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ザ・キンクス (The Kinks) は、イギリスロックバンド。1964年に、ロンドン北部のマスウェル・ヒルレイデイヴのデイヴィス兄弟によって結成された。アメリカ合衆国ではブリティッシュ・インヴェイジョンのグループの一つとして分類され、当時のロック界に対して重要な影響を与えたバンドとして見なされる[1][2]。彼らの音楽は幅広いジャンルの音楽に影響を与え、その中にはリズム・アンド・ブルースミュージックホールフォークカントリー等が含まれる。レイ・デイヴィス(リードヴォーカル、リズムギター)、デイヴ・デイヴィス(リードギター、ヴォーカル)は32年に及ぶバンドの歴史に於いて一貫してメンバーであった。他のオリジナルメンバーはピート・クウェイフ(ベース、ヴォーカル)とミック・エイヴォリー(ドラムス、パーカッション)である。ジョン・ダルトンが1969年にクウェイフに代わって加入、ボブ・ヘンリットがエイヴォリーに代わって1984年に加入した。ダルトンは1978年に脱退、代わってジム・ロッドフォードが加入した。ニッキー・ホプキンスは1960年代中盤のスタジオセッションに参加している。後に様々なキーボード奏者が参加したが、その中ではジョン・ゴスリングイアン・ギボンズがフルタイムメンバーとして参加した[1]

キンクスの最初のヒット曲は1964年のサードシングル、レイ作曲の「ユー・リアリー・ガット・ミー」であった[2][3]。同曲は世界的なヒットとなり、イギリスではチャート1位、アメリカではトップ10を達成した[3][4]。1960年代中盤から70年代初頭にかけてグループは、商業的には成功したものの批判も受けた一連のシングルとアルバムをリリースした。それらの曲およびコンセプト・アルバムイギリスの文化 (Culture of Englandおよびライフスタイルを強く反映し、レイの観察による作曲スタイルは評判が高まった[2]。『フェイス・トゥ・フェイス』、『サムシング・エルス』、『ヴィレッジ・グリーン』、『アーサー』、『ローラ対パワーマン』、『マスウェル・ヒルビリーズ』といったアルバム、及び一連のシングルは当時の最も影響力を持った作品群と考えられる[1][3][5]。キンクスのその後の演劇風コンセプト・アルバムは以前と比べ成功しなかったが、バンドは1970年代後半と1980年代初期の復活を経験した。ヴァン・ヘイレンザ・ジャムザ・ナックプリテンダーズといったバンドがキンクスの曲をカヴァーし、彼らのレコードセールスを促進した。1990年代にはブラーオアシスといったブリットポップバンドが彼らに大きく影響を受けたと語っている[1]。キンクスは1996年に解散した。原因は末期のアルバムの商業的失敗およびデイヴィス兄弟の作曲に関する緊張関係であった[6]

アメリカのビルボードチャート5作のシングルをトップ10に送り込んだ。また、アルバム9作がトップ40に入った[4]。イギリスでは17曲がトップ20シングルに入り、5作がトップ10アルバムとなった[7]。4つのアルバムがRIAAのゴールドアルバムとなる。数々の栄誉から「イギリス音楽界に対する顕著な功績」を与えたことでアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞した[8]。1990年にはロックの殿堂入り[2][3]、2005年11月にはイギリス音楽の殿堂入りを果たした。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第65位。

歴史[編集]

結成 (1962-1963)[編集]

デイヴィス兄弟が幼少時に暮らした家

デイヴィス兄弟はロンドン北部郊外のイースト・フィンチリーに生まれる。一家の8人の子どもの中で下からの2人の男の子で、上の6人は女の子であった[9]。父親のフレデリック・デイヴィスおよび母親のアニーはまもなくマスウェル・ヒルに隣接する郊外地、フォーティス・グリーンのデンマーク・テラス6番地に転居する[10]。兄弟は様々な音楽、両親の世代が親しんだミュージックホールジャズ、姉たちが楽しんだ初期のロックンロールなどに浸ることとなった[10]。これらの音楽的経験は家のフロントルームで行われた徹夜のパーティで集中し、兄弟に深い印象を与えた。トーマス・キットは「これらのパーティのキンクスに対する影響は...顕著である。意識的または無意識であることにかかわらず、ステージ上でレイはまるでカオスとビール、そして歌の伴った土曜の夜のファミリーパーティで休養させようとしているかのように見えた。」と記している[11]。レイは3歳年下のデイヴとギターの演奏を学び、共にスキッフルやロックンロールを演奏した[9]

兄弟はウィリアム・グリムショー・セカンダリー・モダンスクール(後にトーリントン・グラマースクールと合併しフォーティスメア・スクールとなる)に入学し、そこでレイの友人ピート・クウェイフ、クウェイフの友人ジョン・スタートと共にレイ・デイヴィス・カルテットを結成する。彼らは学校のダンス会でデビューして好評を得、そのことに勇気づけられてパブやバーでの演奏を始めた。バンドでは何人もヴォーカリストが交代したが、その中で最も有名になったのはロッド・スチュワートである[12]。スチュワートはグリムショーの生徒であり[13]、1962年初頭に少なくとも1度は演奏に加わっている[14]。スチュワートはまもなく自身のグループ、ロッド・スチュワート・アンド・ザ・ムーンレイカーズを結成し、地元におけるレイ・デイヴィス・カルテットのライバルとなった[12][14]。1962年末にレイは自宅を離れ、ホーンゼイ・カレッジ・オブ・アートに入学する。彼はフィルムスケッチ演劇や音楽(ジャズやブルースなど)に対して関心をもって追求した。ソーホーを拠点としてジャズやリズム・アンド・ブルースを演奏したプロのバンド、デイヴ・ハント・バンドに加わってギタリストとしての経歴を積み重ねる[15][16]。レイはまもなくマスウェル・ヒルに戻り、デイヴやピートとバンドを再結成した[15]。彼らは様々な名称で演奏し、その中にはピート・クウェイフ・バンド、ザ・ボー=ウィーヴィルズ、ザ・ラムロッズ等があり、その後ザ・レイヴンズとして活動するようになる[3][17]

結成間もないグループはマネージャー2名、グレンヴィル・コリンズとロバート・ウェイスを雇い、1963年後半には元歌手のラリー・ペイジを3人目として雇った。アメリカ人のレコードプロデューサー、シェル・タルミーが共に働くようになり、ビートルズのプロモーター、アーサー・ハウズがレイヴンズのショーのスケジュールを計画した[18]。バンドは1964年初めまで様々なレーベルのオーディションに失敗したが、タルミーがパイとの契約をとりまとめた。この期間に彼らは新たなドラマー、ミッキー・ウィレットを加入させたが、ウィレットはバンドがパイとの契約にサインする前に脱退した[17]。レイヴンズはメロディー・メーカー誌に掲載されたミック・エイヴォリーの広告を見て、彼をウィレットの後任として招き入れた[19]。エイヴォリーはジャズ畑出身のドラマーで、結成間もないローリング・ストーンズとのステージを1度経験していた[19]

この頃にバンドはその名をザ・キンクスに変えることを決定した。その名の起源については様々な説がある。ジョン・サヴェージ英語版は「[彼らは]小道具、注意を得るための何らかの縁を必要とした。ここにそれがあった。『キンキネス Kinkiness』- 何か話題が豊富で、いたずらな、しかし受容できる限度の。当時『キンクス』を名前に採用する際に、彼らは暴挙を通して由緒あるポップ界に参加していた」と分析している[20]。マネージャーのロバート・ウェイスは「私には、友人がいた。...彼はグループがかなり面白いと考えた。私の記憶が正しければ、彼は宣伝を得る早道としてちょうどいい名前を思いついた。...私たちが[バンドのメンバーに]その名前を語ったとき、彼らは...完全にぞっとしていた。彼らは『僕たちはとっぴ (kinky) だとは呼ばれたくない!』と言った。」と語っている[20]。レイとウェイスの見解は異なっている。レイはラリー・ペイジが名前を思いついたとし、それは彼らの「変な kinky」ファッション感覚からだったとする。レイはラリーが「君たちの物の見方、着ている服からすれば、君たちは『キンクス』と呼ばれるべきだ。」と語ったとする[20]。レイはまた「僕はその名を本当に好きだと思ったことは一度も無い」と述べている[20]

ブレイクスルーとアメリカでの公演禁止 (1964-1966)[編集]

キンクスのデビューシングルはリトル・リチャードのカヴァー「のっぽのサリー」であった。バンドの友人であったボビー・グラハム[21]がドラムをプレイしている。彼はその後も時折エイヴォリーの代役としてスタジオでの録音に参加し、初期のシングル数枚にそのプレイが収められている[22]。「のっぽのサリー」は1964年2月にリリースされたが、マネージャーによる広告の努力にも関わらず、全くヒットすることは無かった。セカンドシングル「ユー・スティル・ウォント・ミー」はチャート落ちし[23]、パイは3枚目のシングルがヒットしなかったら契約を破棄すると脅かした。

ユー・リアリー・ガット・ミー」は1964年8月にリリースされた[24]レディ・ステディ・ゴーでの演奏でチャート上昇は加速し、直ちにイギリスでのNo.1を獲得した[25]。急いでリプリーズ・レコードよりアメリカでリリースされ、アメリカでもトップ10のヒットとなる[4]。ディストーションの効いたギターリフは、ディヴによって彼のエルピコ・アンプ(バンドは「小さな緑のアンプ」と言及している)の傷つけられたスピーカー・コーンから発せられ、曲を印象づけた[26]。「ユー・リアリー・ガット・ミー」はアメリカのガレージロックシーンに大きな影響を与え、「ハードロックヘビーメタルの蓄えにおける青写真の曲」と言われた[26]。同曲のリリース後まもなく彼らはデビューアルバム『キンクス』用の曲を録音した。カヴァー曲とトラディショナルの改作が多数収められたデビューアルバムは1964年10月2日にリリースされ、イギリスでチャート4位を達成した[27]。第4弾シングルの「オール・オブ・ザ・ナイト」はオリジナルのハードな曲で、3週間後にリリースされイギリスで2位[25]、アメリカで7位を獲得した[4][26]。次のシングル「セット・ミー・フリー」「ウェイティング・フォー・ユー」もヒットし、後者はイギリスのシングルチャートで1位を獲得した[4][25]


キンクス、1965年スウェーデンツアーで

キンクスは初のオーストラリアニュージーランドツアーをパッケージツアーの一部として1965年1月に行った。同行ミュージシャンはマンフレッド・マンハニカムズであった[28]。徹底的な演奏スケジュールが組まれ、年間を通して様々なパッケージツアーを行いヤードバーズやミッキー・フィンといったミュージシャンと共にヘッドラインを飾った[29]。5月19日、カーディフのキャピトル・シアターでのステージでバンドに緊張が走った[29][30]。デイヴとミックが乱闘騒ぎを起こしたのであった。一曲目の「ユー・リアリー・ガット・ミー」が終了すると、デイヴがミックを侮辱し、ドラムセットを蹴り倒した[29][30]。ミックはこれに応じてハイハットのスタンドでデイヴを殴って意識不明にした。彼はデイヴを殺してしまったと思い、現場から逃走した。デイヴはカーディフ王立病院に運び込まれ、頭を16針縫うこととなった[29][30]。ミックは後に警察に釈明するため、バンドのメンバーがお互いに楽器を投げつける新しいパフォーマンスを行った際のトラブルであったと主張した[29][30]。年央に行われたアメリカツアーの後、米国音楽家連盟は続く4年間にわたってキンクスがアメリカで演奏活動を行う許可を与えないこととした。事実上、ブリティッシュ・インヴェイジョンが最高潮に達する中ロックの主要市場からキンクスは断ち切られることとなった[1][31]。キンクスも音楽家連盟も演奏禁止の理由を明かさなかったが、当時それは彼らがステージ上で粗暴な振る舞いを続けた結果と考えられた[31]

オーストラリアおよびアジアツアーの間にバンドはインドボンベイに立ち寄った。レイはそのときの体験を元に「シー・マイ・フレンズ」を書き、同曲は1965年7月にシングルとしてリリースされた[32]。これはインドの伝統音楽とブリティッシュポップとのクロスオーバーの最も初期の一例であった[32]。レイは自叙伝『エックス・レイ』において、早朝の散歩の間に地元の漁師の歌を聴き、それが「シー・マイ・フレンズ」を書くきっかけとなったと語っている。

僕は起きて浜に行き、これらの全ての漁師がやって来ているのを見たのを覚えている。僕は始めに詠唱を聴き、その詠唱は徐々に少しずつ近づいてきた。そして、漁師達が網を運んでくる様子を見ることができた。僕はオーストラリアに着くと多くの曲を書き、そしてそれ(シー・マイ・フレンズ)はその一つだった。[32]

音楽史家ジョナサン・ベルマンは、「シー・マイ・フレンズ」が同時代のミュージシャンに「大きく影響した」と主張する。「そして、ビートルズの「ノルウェーの森」がポップソングとして初めてシタールが使用された曲であったため、多くがそうであったとするが、キンクスの「シー・マイ・フレンズ」がリリースされた後にそれは録音された。」[32]ザ・フーピート・タウンゼントは特に影響を受けた。「『シー・マイ・フレンズ』を聴いたとき、僕は思った。『神よ、彼がまたやった。彼は何か新しい物を発明した。』それは最初の合理的な持続低音の使用例であり、ビートルズがやったよりはるかに早く、はるかに良かった。それは東洋のサウンドというよりもヨーロッパのサウンドであったが力強く、正当な東洋の影響を受け、ヨーロッパの民族音楽をルーツに持つものであった。[33]」1960年代にキンクスやビートルズ、ザ・フーと友人関係にあったバリー・ファントーニの広く引用された声明:[32][32][33]「私はそれを鮮やかに覚えている。そしてそれは注目に値するポップスだと思う。私はビートルズと共にいて、ぶらぶらとグラモフォンでそれを聴いていた。『このギターはシタールのように聞こえる、分かるだろ。僕らはそれらの一つを得なければならない。』」[33]それまでのポップスから急激に離れた曲はアメリカでは不評であることが判明した。イギリスでは11位を達成したが、アメリカでは111位と失速した[34]

"幾分か本当にラフなサウンドで演奏するほんの少しのバンド、僕たちが60年代に 'R&B' スタイルと呼んだバンドがあった。ヤードバーズ、僕たち、プリティ・シングスがそうであった。"[35]

—-デイヴ・デイヴィス, オースティン・クロニクルとのインタビュー

セカンドアルバム『カインダ・キンクス』のレコーディングはアジアツアーからの帰国後翌日から即座に始まった。同作12曲中の10曲はオリジナルであり、2週間以内に完成した[36][37][38]。レイによると、バンドは最終的なカットに完全に満足したわけでは無かったが[37][38]、レコード会社からの圧力はミックスにおける欠点を修正するための時間は無かったことを意味した。レイは後に「もう少し注意が払われるべきだった。僕は(プロデューサーの)シェル・タルミーがラフなエッジを保とうとするのからかけ離れていたと思う。その中の幾つかのダブルトラッキングにはぞっとする。ファーストアルバムよりは良い曲があったが、正しい方法で実行されなかった。それは非常に急がれすぎた。」と言って、作品への不満を表現した[38]

重要なスタイルの変化は1965年後半の「ウェル・リスペクテッド・マン」、「キザな奴」といったシングル、サードアルバム『キンク・コントラヴァーシー[2]で明らかになった。セッション・ミュージシャンニッキー・ホプキンスが初めてキーボードで参加した[39]。これらの作品は、レイの作曲スタイルの進化を示すものであった。ハードなロックナンバーから、社会風刺に富み観察と特有の人物描写がされ全てにユニークなイギリスの風味がまぶされた作品群であった[2][5]。皮肉がちりばめられた「サニー・アフタヌーン」は1966年夏のイギリスにおける最大ヒットとなり、ビートルズの「ペイパーバック・ライター」に代わってチャート1位を獲得した[40]。本作リリース前、レイはツアーと作曲のプレッシャー、進行中の法廷闘争による神経症に苦しめられた[41]。休養回復の間に彼は幾つかの新曲を書き、バンドの方向性を熟考した[41]。クウェイフは交通事故に遭遇し[41]、回復後は1966年の活動から退くことを決定した。ジョン・ダルトンが代役として加入し、クウェイフが復帰する年末まで活動した[1]

「サニー・アフタヌーン」はアルバム『フェイス・トゥ・フェイス 』のための先行試験作であり、レイの人々と日常生活に対する優しいながらも鋭い観察眼による作曲能力の向上が顕著に示された[1]。ニッキー・ホプキンスがセッションに復帰、様々な鍵盤楽器を担当し、その中にはハープシコードも含まれた。彼は続く2作にも参加し、BBCでのライブ演奏にも参加、その後1968年にジェフ・ベック・グループに加わった。[41]『フェイス・トゥ・フェイス』はイギリスで1966年10月にリリース、好意的に受け取られ8位を獲得した。アメリカでは12月にリリース、ビルボード誌では潜在的な「チャート・ウィナー」であると評されたが[42]、135位に達しただけで、アメリカ市場でのバンドの人気低落の兆候が示された[43]。続くシングル「危険な街角」は社会批判作であり、1966年11月にリリースされ[42]イギリスではトップ10に入るヒット作となったものの[44]、アメリカでは73位にしか達しなかった[4]。メロディ・メイカー誌のボブ・ドウバーンはレイの作曲能力を「いくつかの素晴らしい歌詞と驚くべきメロディ...が組み合わされ偉大な作品が造られた」と賞賛した[45]。評論家のジョニー・ローガンは「ドラマの無い台所ドラマ、労働者階級の禁欲主義の静的な展望」と評した[44]。この曲にはバンドの初のプロモーションフィルムが製作された。フィルムはロンドン北部、ケンティッシュ・タウン英語版のハイゲート・ロードに位置する18世紀からの小さな通り、リトル・グリーン・ストリートで撮影された[46]


最盛期 (1967-1972)[編集]

続くシングル「ウォータールー・サンセット」は1967年5月にリリースされた。歌詞は物憂げな観察者が、ウォータールー駅で出会った一組の恋人達を眺めている様子を描写している[47][48]。この曲は当時の映画俳優、テレンス・スタンプジュリー・クリスティのロマンスにインスパイアされたものだと噂された[49][50][51]。レイは自叙伝の中でこれを否定し、2008年のインタビューでは「それはボーイフレンドと共に新世界へ旅立つ僕の姉に関するファンタジーで、彼女らは他国に海外移住するつもりだった。[48][52]」と語っている。複雑なアレンジメントにもかかわらず、「ウォータールー・サンセット」のセッションはほんの10時間で完了した[53]。デイヴは後に「僕らは違ったギターの音を得るために、もっと面白いフィーリングを得るためにたくさんの時間を費やした。結局僕らはテープ・ディレイによるエコーを使ったが、1950年代以来誰もそれを使用していなかったから、それは新しく聴こえた。僕はスモール・フェイセススティーヴ・マリオットがやってきてどうやってその音を得たのか尋ねたのか覚えている。僕らはしばらくトレンディになったのさ。[54]」と語っている。この曲はキンクスのイギリスにおける最大ヒット(メロディ・メイカーで2位)の一つであり[49]、彼らの最も人気が高くよく知られた曲となった。音楽ジャーナリストのロバート・クリストゴー英語版はこの曲を「最も美しい英語の歌」と呼んだ[55]オールミュージックの編集長、スティーヴン・トーマス・アールワインは「おそらくロックンロール時代の最も美しい歌」にこの曲を挙げた[56]

オランダのテレビ局で、1967年4月。レイ・デイヴィスはフェンダーのアコースティックギターを使用している。デイヴ・デイヴィスはギブソン・フライングVの試作モデル、シグネチャーモデルを使用している。[57]

1967年のアルバム『サムシング・エルス』収録曲は『フェイス・トゥ・フェイス』に比べると音楽的に発展し、バンドのサウンドにはミュージックホールの影響が見られるようになった[58]。デイヴは収録曲「道化師の死」でイギリスにおけるチャート上の成功を得た。同曲はレイとの共作でキンクスと共に録音したが、デイヴのソロシングルとしてリリースされた[4][58]。しかしながら全体的に見て、アルバムの売り上げは期待外れであり、ニューシングル「オータム・オルマナック」のリリースが急がれることとなり、10月前半にリリースされた。「ミスター・プレザント」に次いでリリースされた「オータム・オルマナック」はすぐにトップ5のヒットとなった。アンディ・ミラーは成功したにもかかわらず、同シングルはバンドの経歴における転機になったと指摘する。同曲は続く3年間における最後のイギリスでのトップ10ヒットであった。「振り返ってみれば、『オータム・オルマナック』はキンクスの問題の最初のヒントを示していた。この荘厳なシングル - イギリスの60年代ポップスの最大級の実績の一つ - は、以前のデイヴィスの作品と同様すぎると当時広く批評された。[59]」メロディ・メイカー誌のニック・ジョーンズは「これはレイが灰色の郊外居住者が営む彼らのかなり理知的な毎日の生活に関する曲を書くのをやめた時なのか?...レイはフィーリングではなく公式で作曲している。そして、かなり退屈になっている。」と尋ねた[59]。DJのマイク・アハーンはこの曲を「たくさんの古いゴミ」と呼んだ[59]。デイヴの第2弾ソロシングル『スザンナズ・スティル・アライヴ』は11月24日にイギリスでリリースされた。売り上げは控えめに見ても59,000枚であったが、トップ10に達しなかった。ミラーは「年末までにキンクスは急速にファッションから取り残されていった。」と述べた[60]

「『ワンダーボーイ』がヒットシングルのようには聞こえなかったので、皆は慌てていた。マネージャーとエージェントのダニー・デテッシュの間には、バンドはもう長くないという感覚が確実にあった。...レコードが飛んでいるバックステージにやってきたダニーは『さて、君らはよくやってきた。よく楽しんでるよ。』と言った。まるで僕らにとってそれが終わっているかのように。」[61]

—-レイ・デイヴィス、1960年代のバンドの人気低落時、『ワンダーボーイ』とキャバレー・ツアー

1968年早くからバンドはライヴツアーを取りやめ、代わりにスタジオでのレコーディングに焦点を合わせた。バンドには自らの作品をプロモートする材料がほとんど無く、その後のリリースはほとんど成功しなかった[62]。次のシングル『ワンダーボーイ』は1968年の春にリリースされたが、36位で失速し、バンドにとってイギリスでトップ20に達しなかった最初のシングルとなった[63]。それにもかかわらず、ビートルズジョン・レノンはこの曲をお気に入りとした[64]。レイによれば「誰かがクラブでジョン・レノンを見かけ、DJに『ワンダーボーイ』をかけ続けるよう頼み続けた。[65]」しかしながらバンド自身のこの曲に対する評価は低い。ピート・クウェイフは後に「(僕は)それが嫌いだった...それはものすごかった。[64]」キンクスの人気低下に直面しながらも、レイは商業的ヒットを起こし続けるための莫大に需要に反する、自身の深く個人的な作詞作曲スタイルを追求し続け、バンドはレイが「ヴィレッジ・グリーン」と呼ぶゆっくり展開しているプロジェクトに集中し、スタジオに時間をささげ続けていた[1]。バンドの商業的地位を回復させる試みとしてマネージャーは4月に一ヶ月間のパッケージツアーを企画し、スタジオからバンドを引き出そうとした。会場は主にキャバレーとクラブであった。ヘッドライナーはピーター・フランプトンのバンド、ハードであった。「一般的に、ティーニーボッパー英語版達は古くて退屈なキンクスを見に来たのでは無く、彼女らは我慢しながら『ウィー・ウォント・ザ・ハード!』のコールを、キンクスの短い演奏時間中に続けていた。[66]」とアンディ・ミラーは論評した。ツアーは過酷でストレスの多いものであった。ピート・クウェイフは「それは非常に無味乾燥で、退屈で単純な雑役だった。...僕らは20分だけの演奏時間であったが、ステージに立って3連符を何度も何度も演奏し、それは僕を半狂乱にした。」と回想している[66]。6月末にキンクスはシングル「デイズ」をリリースし、つかの間の復活を果たした。レイは「僕はその曲をフォーティス・グリーンで最初に演奏し、それを録音したのを覚えている。」と語っている。「僕はローディーのブライアンと、彼の奥さん、2人の娘とそれを演奏した。彼らは曲の終わりで泣いていた。ウォータールーに行って日没を見たように本当に素晴らしかった。...それはさよならを誰かに言って、次に実際に孤独になったことを恐れに感じているようだ。[61]」「デイズ」はイギリスで12位に達し、数カ国でトップ20のヒットとなったが、アメリカではチャートインしなかった[67]

「ヴィレッジ・グリーン」は結局、1968年後半に『ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサエティ』としてイギリスでリリースされた。イギリスの町と村落生活をテーマとした描写の収集であり、それは2年前から作られ録音された曲からなった[68]。それはイギリスとアメリカのロック評論家からほとんど満場一致で高い評価を受けてレビューが紹介されたが、売り上げはそれほど伸びなかった[69]。アルバムの初期の商業的失敗の原因の一つは、人気のあるシングルが不足していたことであった[70]。本作にはある程度の成功を収めていた「デイズ」は収録されなかった。「スターストラック」は北米およびヨーロッパでリリースされたが、成功しなかった[71][72]。商業的には失敗した『ヴィレッジ・グリーン』(本作のタイトルは結局長かったため、オリジナルのプロジェクト名が短縮された名称として使用されるようになった)であったが、1969年1月にアメリカでリリースされるとアンダーグラウンドのロック雑誌には受け入れられ、キンクスはカルト的バンドとしての人気が高まることとなった[73]。「ヴィレッジ・ヴォイス」紙の新編集長ロバート・クリストゴーは「今までのところの年間最優秀アルバム」と本作を評した[73]ボストンの「フュージョン」紙は「キンクスは困難、悪意を持つプレスとそれらに示された多くにもかかわらず、伝わり続ける。...彼らの粘り強さは威厳があり、その禁欲は美徳である。キンクスは今だけ現代のドレスをまとい、永遠である。」というレビューを掲載した[73]。しかしながら、本作も批判から逃れることはできなかった。学生新聞「カリフォルニア・テック」紙ではあるライターが「感傷的なロック...想像力に欠け不十分にアレンジされた、ビートルズの貧しいコピー」と論評した[73]。本作はリリース当初、世界中での売り上げは僅か約100,000枚であったが、その後キンクスのベストセラーアルバムの最初の一枚となった[69]。本作は現在も高い人気を維持し、2004年には3枚組のデラックス版が再リリースされた。収録曲の一つ「絵本」はヒューレット・パッカードのCMに採用され、本作の人気を高めるのに貢献した[74]

新加入したジョン・ダルトンと、1969年。左から:デイヴ・デイヴィス、レイ・デイヴィス、ダルトン、ミック・エイヴォリー

1969年前半、クウェイフはバンドに脱退を告げた[75]。他のメンバーは彼の言葉を真剣に受け止めなかったが、クウェイフがキンクスのメンバーに告げずに結成した新バンド「メイプル・オーク」の記事が「ニュー・ミュージカル・エクスプレス」紙の4月4日号に掲載された[75][76][77]。レイは次作のセッションのために戻ってくれるようクウェイフに嘆願したが、彼はそれを拒絶した[78]。レイは直ちにジョン・ダルトンを呼び出した。ダルトンは過去にクウェイフの代理を務めたことがあった。ダルトンは1977年の『スリープウォーカー』リリースまでバンドと共に活動した[78]


メンバー[編集]

中心メンバー

ベーシスト

  • ピート・クウェイフ(Pete Quaife, ベース1969年脱退)
  • ジョン・ダルトン(John Dalton, ベース、1969年加入、1976年脱退)
  • アンディ・パイル(Andy Pyle, ベース、1976年加入、1977年脱退)
  • ジム・ロッドフォード(Jim Rodford, ベース、1978年加入)

キーボード

  • ジョン・ゴスリング(John Gosling, キーボード1971年加入、1978年脱退)
  • ゴードン・エドワーズ(Gordon Edwards, キーボード、1978年加入)
  • イアン・ギボンズ(Ian Gibbons, キーボード、1979年加入、1989年脱退、1993年復帰)
  • マーク・ヘイリー(Mark Haley, キーボード、1989年加入、1993年脱退)

ドラマー

  • ボブ・ヘンリット(Bob Henrit, ドラム、1984年加入)


ディスコグラフィ[編集]

スタジオ・アルバム

  1. キンクス - The Kinks (米国ではYou Really Got Me) (1964年)
  2. キンクス・サイズ - Kinks Size (1965年)
  3. カインダ・キンクス - Kinda Kinks (1965年)
  4. キンクダム - Kinks Kinkdom (1965年)
  5. キンク・コントラヴァーシー - The Kink Kontroversy (1965年)
  6. フェイス・トゥ・フェイス - Face to Face (1966年)
  7. サムシング・エルス - Something Else by The Kinks (1967年)
  8. ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサエティ - The Kinks Are the Village Green Preservation Society (1968年)
  9. アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡 - Arthur (Or the Decline and Fall of the British Empire) (1969年)
  10. ローラ対パワーマン、マネーゴーラウンド組第一回戦 - Lola versus Powerman and the Moneygoround, Part One (1970年)
  11. パーシー - Percy (1971年)
  12. マスウェル・ヒルビリーズ - Muswell Hillbillies (1971年)
  13. この世はすべてショー・ビジネス - Everybody's in Show-Biz (1972年)
  14. ザ・グレート・ロスト・キンクス・アルバム - The Great Lost Kinks Album (1973年)
  15. プリザヴェイション第一幕 - Preservation: Act 1 (1973年)
  16. プリザヴェイション第二幕 - Preservation: Act 2 (1974年)
  17. ソープ・オペラ - Soap Opera (1975年)
  18. 不良少年のメロディ~愛の鞭への傾向と対策 - Schoolboys in Disgrace (1976年)
  19. スリープウォーカー - Sleepwalker (1977年)
  20. ミスフィッツ - Misfits (1978年)
  21. ロウ・バジェット - Low Budget (1979年)
  22. ギヴ・ザ・ピープル・ホワット・ゼイ・ウォント - Give the People What They Want (1981年)
  23. ステイト・オヴ・コンフュージョン - State of Confusion (1983年)
  24. ワード・オブ・マウス - Word of Mouth (1984年)
  25. シンク・ヴィジュアル - Think Visual (1986年)
  26. UK ジャイヴ - UK Jive (1989年)
  27. フォビア - Phobia (1993年)
  28. トゥ・ザ・ボーン - To the Bone (1996年)

日本公演[編集]

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参照[編集]

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  • Davies, Dave (1996). Kink. New York, NY: Hyperion. ISBN 0-7868-8269-7. 
  • Hinman, Doug (2004). The Kinks: All Day and All of the Night. Milwaukee, WI: Hal Leonard Corporation. ISBN 0-87930-765-X. 
  • Kitts, Thomas (2007). Ray Davies: Not Like Everybody Else. London, UK: Routledge. ISBN 0-415-97769-X. 
  • Marten, Neville; Hudson, Jeff (2007). The Kinks. London, UK: Sanctuary Publishing. ISBN 1-86074-387-0. 
  • Miller, Andy (2003). The Kinks are the Village Green Preservation Society. London, UK: Continuum International Publishing Group. ISBN 0-8264-1498-2. 
  • Rogan, Johnny (1998). The Complete Guide to the Music of The Kinks. London, UK: Omnibus Press. ISBN 0-7119-6314-2. 
  • Savage, Jon (1984). The Kinks: The Official Biography. London, UK: Faber and Faber. ISBN 0-571-13379-7. 
  • Strong, Martin (2006). The Essential Rock Discography. New York, NY: Open City Books. ISBN 1-84195-860-3. 
  • Weisbard, Eric (2004). This is Pop: In Search of the Elusive at Experience Music Project. Milwaukee, WI: Harvard University Press. ISBN 0-674-01321-2. 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]