ブリットポップ

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ブリットポップBritpop)またはブリットポップ・ムーヴメントBritpop Movement)は1990年代ロンドンマンチェスターを中心に発生したイギリスポピュラー音楽ムーヴメント。ビートルズなど往年のブリティッシュ・ロックからの影響が濃く、多くの場合ブラーオアシスパルプらが中心となった1990年代半ばのムーブメントを指す。

このムーブメントは一旦は海外にも広まる兆しを見せ、他のポップカルチャーも巻き込んだ「クール・ブリタニア」などの狂騒を生んだが、ブラーのフロントマン、デーモン・アルバーンによる「ブリットポップは死んだ」と言う発言によって、1997年頃に一応の終止符が打たれた。事実この頃デビューした多くのバンドは、一部を除いて2000年頃までにその多くが姿を消した。

目次

[編集] 音楽性

ブリットポップバンドは一様に「往年のブリティッシュロックの影響が覗えるサウンド」と形容されるが、これは音楽的な観点で言えば非常に曖昧なくくりであり、その実ブリットポップはある一定の音楽性をとらえたムーブメントとは言いにくいものがある。最も大きく売りあげを伸ばし、代表格となったオアシスブラーの2バンドでさえ、その音像は大きく趣が違うもの同士である。そもそも「往年のブリティッシュロック」とは言っても、当時から見て過去3、40年のイギリスのロックでさえもその歴史の間で大きく変質を続けており、その定義は曖昧極まりない。

唯一、ブリットポップに大きく定義できる音楽性と言えば、同時期に隆盛したアメリカオルタナティブ・ロックに比べれば、どちらかと言えばボーカルが前に出たメロディー重視の作風をとるバンドが多かったことが挙げられる。しかし、そのようなことよりも額面的に顕著なことは、この時期のブリットポップバンドの多くが「イギリス人であること」を注視して歌詞を書いたということだろう。

[編集] 歴史

[編集] ブームの発端

90年代初頭のイギリスでは主にストーン・ローゼズハッピー・マンデーズを中心としたマッドチェスターが次第に終息に向かい、取って代わるようにしてニルヴァーナを筆頭とするグランジ・ロックが流行し始める。 これによってアメリカ中心のバンドがチャートの上位を賑わし、イギリスの音楽シーンはオルタナティヴ志向のものへと変わっていくこととなった。 それにより、しばしイギリスのロックは再び停滞気味になり、その状況に危機感を募らせていた音楽業界関係者たちは、イギリス本来の気質や伝統を持ち合わせたロックの復活を望んでいた。この頃デビューしたのがスウェードブラーであり、ブリットポップの発端をスウェードのデビュー曲「ザ・ドラウナーズ」や、ブラーの「ポップシーン」だとする者もいる。しかし、スウェードはギタリストで中心メンバーのバーナード・バトラーブレット・アンダーソンと仲違いし、脱退したことから、以後しばらく低迷を続ける。 そんな中、1994年4月5日、ニルヴァーナのフロントマンであり、ロック界におけるカリスマ的存在であったカート・コバーンが自殺し、グランジ・ブームは一気に影を潜めることになる。

突然の出来事にショックを隠しきれなかったファンやリスナー達であったが、このグランジ・ブームの終わりによって開いた穴を埋める形となり、他でもないブリットポップという言葉を生み出すきっかけとなったブラーの3rdアルバム「パークライフ」の大ヒットと、オアシスの鮮烈なデビューによって、イギリスの音楽シーンは大きな変貌を遂げることになるのであった。

[編集] 2大バンドの活躍

ブラーのフロントマンであるデーモン・アルバーン

それまでアメリカ中心だった音楽シーンに反抗するかのように、国民誰もが本来のイギリスらしいロックの原点回帰を望んでいた中で登場し、脚光を浴びたブラーオアシス

ブームの中心を担ったオアシス

機知と皮肉に溢れた歌詞に、どこか能天気で中毒性のある捻くれたポップサウンドが特徴な中流階級出身のブラーと、対照的に、荒々しくも疾走感があり壮大なメロディーを奏でる労働者階級出身のオアシス。両バンドにおけるこういった音楽性、階級の違いをマスメディアは大きく取り上げ、いつしか「ブリットポップ」なる言葉が誕生することとなった。

ブラーはイギリス人の日常生活を独特の視点で取り上げたことが共感を呼び、オアシスはアルバムを発売する前から様々な事件や騒動を引き起こしたことによる話題性も手伝って、1stアルバム『オアシス』が当時のデビューアルバム最速売り上げ記録を更新する(現在はレオナ・ルイス)程のヒットを記録。 こうして互いに一躍国民的人気バンドへと上り詰めていくことになるのであった。

多くのレコード会社はこの時が来るのを待っていたかのように新人バンドを次々とデビューさせた。それが翌年のブリットポップ・ブームの本格的な到来へと繋がっていくことになっていったのであった。

[編集] ブームの到来

1995年にはブリットポップ・ブームの波に乗って、個性豊かな新人、若手バンドが次々とシーンに登場した。その中には当時10代のギャズを中心として勢い溢れる楽曲で人気を博し、デビューアルバム『アイ・シュド・ココ』を全英1位に叩き込んだスーパーグラスザ・スミスから強い影響を受けたジーン、音楽自体よりもそのルックスで注目を集めた感のあるメンズウェア、印象的な女性ボーカルを擁するエラスティカエコーベリースリーパーなどがデビューし注目を集める。

またブーム以前から活動を続けてきたシャーラタンズパルプポール・ウェラーブー・ラドリーズらもシーンを大いに盛り上げた。その中でも特に上記の2大バンドにも劣らぬ人気を持っていたパルプ1978年に結成してから長いインディーズ時代を過ごし、93年にようやくメジャー契約を結んだ後に徐々に知名度を上げ、95年、名曲「コモン・ピープル」でその人気が爆発し、一躍スターダムにのし上がったという苦労を重ねてきたバンドであった。また、かつてザ・ジャムザ・スタイル・カウンシルのヘッドマンとして頂点を極めたものの、スタイル・カウンシルの消滅とともに一時は引退も囁かれていたポール・ウェラーがソロ転向3作目『スタンリー・ロード』を全英1位に送り込んで完全復活を果たし、こうしたキャリアの長いアーティストたちの躍進もブームにいっそう火をつけていく。

ブリットポップ・ブームは社会現象と化し、ミュージシャン達がバラエティ番組への出演や新聞に載るなど身近なものへと浸透していった。更には業界の枠を超え、モデルとなってファッション雑誌にイギリス国旗をあしらった衣類を着て登場するなどの変わった一面も見せていた。

メディアは音楽のみならず、ファッション芸術などイギリスのポップカルチャーの特集を組み、「クール・ブリタニア」と呼ばれるこれらの状況を指す用語が登場し、広く用いられるようになった。

それを象徴するかのように1996年ユアン・マクレガー主演の青春映画トレインスポッティング」が公開される。劇中で使われている楽曲にブリットポップ系バンドが多数参加した効果もあって、映画はロングラン・ヒットを記録。まさにイギリスのエンターテイメント界は絶頂と言える時期を迎えたのであった。

[編集] ブリットポップ頂上対決

ブリットポップブームの中で最も注目を浴びたのが、オアシスブラーシングル同日発売である。

以前から仲が悪く、階級、音楽性の違い、出身地など全てにおいて対照的で、ライバル関係にあり、人気を二分していた両者。特にオアシスはメディアが自分達よりもブラーのアルバムに賞賛を送っていたことが気に入らずに日頃からブラーを罵っていた。

そして1995年、そういった緊迫したムードの中、対決の日が訪れる。オアシスはニューシングル「ロール・ウィズ・イット」を8月14日に発売すると発表。それに対し、ブラー側が発売日を合わせニューシングル「カントリー・ハウス」を同じ8月14日に発売すると発表した。

どちらがチャート1位を獲得するかメディアはこの騒ぎを煽り立て、イギリス中がこのシングル対決に大注目した。さらにはBBCの6時のニュースでもこの模様が「ビートルズローリング・ストーンズの再現」と報道されるなど普通では考えられない出来事が起こった。

大方の予想はブラーやや有利と見ていたがその予想通り結果はブラーの勝利に終わった。ちなみに、これに怒ったノエルが「ブラーのデーモンとアレックスはエイズにでもかかって死ねばいい」 とコメントし、当時大問題となった。しかしシングル対決こそ敗れはしたものの、アルバムではオアシスの2nd『モーニング・グローリー』がイギリスのみならず、全世界で2200万枚を売り上げるヒットを記録(アメリカでは最高位4位を記録)し、ブラーの『ザ・グレート・エスケープ』 から大勝利を収める。対決に勝利したオアシスは、11月にはロンドンのアールズ・コートで、ヨーロッパの屋内ライブとしてはギネス記録である、2日間4万人を動員するライブを開催。さらに翌年の1996年MTVアウォーズ(EURO)でベストグループ賞を受賞し、8月にはロンドン郊外のネプワース公演にて2日間で25万人を集めるなど、まさにバンドとして絶頂を極め、ブリットポップの雄となったのであった。

また1996年に入っても、ブリットポップムーブメントは衰えることなく、次々と実力派の新人バンドがデビューしていった。青く繊細な楽曲で人気を集め、オアシスの『モーニング・グローリー』を蹴落として、デビューアルバム『エクスペクティング・トゥ・フライ』が全英1位に輝いたブルートーンズ、平均年齢十代にしてメジャーデビューアルバム『1977』を全英一位に送り込んだアイルランド出身のアッシュ、インド志向を打ち出し、デビューアルバム『K』がオアシス以来の最速売り上げを記録したクーラ・シェイカーなどが代表的である。

その一方で、華やかな新人バンドのみならず中堅勢の躍進も数多く見られた。スウェードは、新メンバーの加入後に発表した3rdアルバム『カミング・アップ』を全英1位、また5枚ものトップ10シングルを送り込むなど、再びロックのメインストリームに返り咲いた。かたや、オリジナル・メンバーのリッチー・ジェームスが失踪するというアクシデントに見舞われたマニック・ストリート・プリーチャーズは、3ピース改編後初の『エヴリシング・マスト・ゴー』が大ヒットを記録し、国民的バンドとしての地位を確立する破格の再出発をきった。またオーシャン・カラー・シーンは、前作から4年もの空白期間を余儀なくされたレーベル移籍のトラブルを乗り越え、2ndアルバム『モーズリー・ショールズ』を全英2位と大ヒットさせた。

[編集] ダンス・ミュージックとの相乗効果

ブリットポップによる音楽界の活発化は、他の音楽ジャンル、とりわけダンス・ミュージックの飛躍発展に少なからず影響を及ぼし、相乗効果の役割も果たしていた。
1994年プロディジーの2作目『ミュージック・フォー・ジ・ジルテッド・ジェネレーション』が全英1位のミリオン・ヒットを記録。ロックサウンドを大きく導入したこのアルバム以降、ロックのダイナミズムを昇華したダンス・ミュージック作品が次々に登場する。
1996年にはケミカル・ブラザーズがオアシスのノエル・ギャラガーをゲスト・ボーカルに起用した『セッティング・サン』をシングル・チャート1位に叩き込み、同年には映画「トレインスポッティング」に使用されたアンダーワールドの楽曲『ボーン・スリッピー』も世界的評価を獲得。直後のアルバム『弐番目のタフガキ』も大ヒットを記録した。

一方で、ロンドンを中心としたカラフルなブリットポップとは対照的に、イギリス南西部の港町ブリストルではブラックでダウナーなトリップ・ホップムーヴメントが隆盛していた。ダブとヒップ・ホップ、テクノの方法論を積極的に取り入れ1994年のセカンドアルバム『プロテクション』がメジャー・ヒットしブリット・アワードを受賞するなどブレイクしたマッシヴ・アタックを筆頭に、『ダミー』が日本を始めとした世界各国でも爆発的なセールスを記録したポーティスヘッド、名作『マクシンクウェーイ』など2年で3枚ものアルバムをトップ・チャートに放ったトリッキーなどが続いた。非商業的かつ前衛志向の強い孤高のムーヴメントととしての性格を持っていたトリップホップも、音楽性では全く関係のないブリットポップを介して一般層に認知されていく。

[編集] 1997年~ブームの終息

他ジャンルとの相乗効果も生み出し未曾有の盛り上がりをみせたイギリスの音楽シーンであったが、しかしその一方で、メンズウェアを始めとして、ノーザン・アップロアーナイロン・ボンバーズオクトパスなどブームに便乗したと思しき、明らかに実力不足のバンドも数多くもてはやされるようになり(いわゆるハイプ)、このころになると人々もその狂騒にも飽き始めていた。

ブラーは『ザ・グレート・エスケープ』のそのあまりに保守的な内容に、批評家達から辛口の評価を受けるなどアメリカでのツアーも失敗に終わった。大衆からも厳しい目を向けられる羽目となり、バンドは一時脆弱な状態に陥っていった。そうした中でブラーのデーモン・アルバーンは周囲の批判と中身の無いブームの現状にうっとうしさを感じるようになっていたが、そんな混濁した中でもギターリストのグレアム・コクソンと共に復活への兆しを見つけ、革新的な変化を模索していった。 そんな中ブラーは、1997年1月、セルフタイトルアルバム『ブラー』をリリース。その内容はブリットポップ的なものと相反する、極めてアメリカ志向の強いオルタナティブ・ミュージックに接近を図ったものであり、ブリットポップのバンドとしては逸脱したものであったが評論家から絶賛の賛美を送られブラー最大の成功を収めた。渦中のデーモンが「ブリットポップは死んだ」と発言し、脱ブリットポップを宣言したことで始まったこの1997年は、ブリットポップとイギリスの音楽界にとって大きな転換の年となった。

この年の8月、オアシスが3rdアルバム『ビィ・ヒア・ナウ』をリリース。イギリスで1位、アメリカで2位を獲得したが、その内容には大きな失望の声が上がり、皮肉にもブラーとは正反対に批評家達から辛口の評価を受けるなど前作と比べると大きく売り上げを落とした。このアルバムはそれまでブリットポップの狂騒に明け暮れていたリスナーの熱狂を醒ます結果を生むことになる。

ザ・ヴァーヴの『アーバン・ヒムス』が冷め行くブームを締めくくるかのように大ヒットを記録する一方で、プロディジーの『ザ・ファット・オブ・ザ・ランド』がダンス・ミュージックの枠を遥かに凌駕する成績で全世界のチャートを席巻し、プライマル・スクリームが『バニシング・ポイント』を、スピリチュアライズドは『宇宙遊泳』を発表。それまで「外野」に位置づけられていた諸バンドによるポスト・ブリットポップの風が吹き荒れる中、ブームの主要バンドに括られていたスーパーグラスは『イン・イット・フォー・ザ・マネー』で、スーパー・ファーリー・アニマルズは『ラジエイター』で、シャーラタンズも『テリング・ストーリーズ』で、それぞれでその音楽性を発展的に進歩させる。完全にブリットポップを旧態に追いやる傑作が次々にリリースされる中、レディオヘッドの『OK コンピューター』がもたらしたインパクトは「新たなる潮流」の到来を決定的にした。

97年を境に下り坂となったブリットポップの最後の砦と目されていたパルプの新作『ディス・イズ・ハードコア』が暗い内容で期待したほど売れず、アッシュのセカンド・アルバム『ニュー・クリアー・サウンズ』も苦戦。『アーバン・ヒムス』が世界的ヒットの最中にあってメンバー間の軋轢が直後の解散に発展したザ・ヴァーヴなど、結果これらがブリットポップ・ブームの終焉の象徴となっていった。

その後、多くのブリットポップのバンドが姿を消していくこととなり、ブームも沈静化していく。

[編集] その後

ブリットポップ終焉後、淘汰されていったバンドの中には自分達よりも人気のあるバンドに引き抜かれメンバーとして活躍するといった幸運な者もいれば、地味にソロ活動を続ける者、若手バンドのマネージャーを務める者、音楽業界から身を引き執筆、福祉関係などの仕事に就く者もいた。

ブリットポップ・バンドを失ったイギリスの音楽業界では、プロディジー以降ブリットポップとも共振したダンス・ミュージックがロック分野にも定着し、ケミカル・ブラザーズファットボーイ・スリムらを牽引車にビッグ・ビートムーヴメントが開花した。ポップス分野ではロビー・ウィリアムズS Club 7などのアイドル路線が再びもてはやされるようになった。
一方のロックシーンでは、レディオヘッドブラースーパー・ファーリー・アニマルズプライマル・スクリームといったブリットポップを経て前衛的・先鋭的なサウンドを展開し始めていたバンドがそれぞれ独創的な活躍を見せ、オアシス路線のロックから内省的な音楽性へと大きな変貌を遂げたトラヴィスの台頭を機に、ベル・アンド・セバスチャンや後発のコールドプレイなども含め叙情的な音楽性も主役となった。

しかしながら、マニック・ストリート・プリーチャーズステレオフォニックスフィーダーウェールズ勢の躍進、プラシーボアイドルワイルドなどの孤軍奮戦はあるものの、それら以外の正統派ギターロック・バンドは精彩を欠き、途中、ミューズダヴズらを除けば目立った有力バンドのデビューもなく、UKロック総体はしばらく低迷を続けることになる。

ロック全体としてはレッド・ホット・チリ・ペッパーズベックなどのオルタナティヴアーティストが主流として活躍。一方で商業的にはリンキン・パークグリーンデイなどといったアメリカ主体のヘヴィ・ロックポップパンクが市場に溢れた。

[編集] ブリットポップの評価と今

ブームが終わってからブリットポップは「結局メディアが作り出したでっち上げのブーム」「良質なバンドさえもこのブームの犠牲になった」などと否定的な意見も多い。実際、スウェードパルプといったブリットポップの代表格だったバンドも、ブームが終わると人気を落とし、活動休止・解散してしまっている。95年から96年のブリットポップ全盛期にデビューし現在に至るまで、本国で当時と同等の人気を持続させているといえるブリットポップのバンドはオアシス、次いでブラースーパーグラスのみになってしまっている。

加えて、ブーム当時、トニー・ブレア率いる労働党が政権奪取のキーワードとして掲げた『クール・ブリタニア』の象徴としてブリットポップ・バンドを主に人気取りの面で政治利用していた(ブレア新政権は当時、政権交代による変革イメージ、不景気打破、国威発揚の象徴としてブリットポップ・ブームに沸く英国音楽界に着眼し、ブリットポップの到来と新政権誕生の関連性や相互理解といったプレス・パフォーマンスを繰り返していた)こともあり、以前のパンク・ロックムーヴメントなどに比べ反体制的なロック本来の音楽的革新性がなく、また両ブリティッシュ・インヴェイジョンのようなアメリカ市場での大規模な商業的成功もなく、結局は単なる国粋的・祝祭的な「内向き」のムーヴメントとのネガティヴな評価を下されることになる。

以降、UKロック・シーンにとって負の歴史として扱われてきたブリットポップであったが、2000年代に入ってからその風向きに変化が訪れる。

ブーム当時10代前後で、大なり小なりブリットポップを音楽の原体験とするミレニアム世代のデビューである。

2002年ザ・リバティーンズザ・コーラルが登場。当初はアメリカ中心のヒップホップR&B全盛の中でのロック復権の機運(すなわちロックンロール・リバイバル)が叫ばれるほどギターバンドの勢力衰退が著しかった時期であり、新人ロックバンドがトップ・チャートにランクインすること自体が久しかったため彼らの登場は大きな起爆剤となった。更にザ・ミュージックの成功もあり一気にインディ・バンドがデビューしていくことになる。2004年から2006年にかけてフランツ・フェルディナンドを筆頭にカイザー・チーフスカサビアンブロック・パーティーなどが次々にデビューし、アメリカを含め、各国でことごとく市場を席巻。

アークティック・モンキーズ辺りのブレイクが決定打となって、2000年代中盤からは、UKロック史上何度か目のギター・バンド黄金期と呼ばれる程の好況を現出させた。その担い手達の中にはブリットポップからの影響をはっきりと公言する者も多く、一時は「第二次ブリットポップ」「ブリットポップの再来」などとも呼ばれる程であった彼らの登場によって、ブリットポップは一定の名誉回復を遂げつつあるといわれる。

他方、現役選手としてアッシュオーシャン・カラー・シーンブルートーンズもブーム終息後から現在まで着実にキャリアを積んでいるほか、ブラーデーモン・アルバーンはサイド・プロジェクトのゴリラズやザ・グッド、ザ・バッド&ザ・クイーンなどで世界的な評価と成功を獲得し、パルプジャーヴィス・コッカーも近年ソロアルバムをリリースし好成績を収めた。またスウェードブレット・アンダーソンはソロとして活動を続け、ギターリストのバーナード・バトラーは関係を修復したブレットと結成したザ・ティアーズの活動を試みたがセールス的には不発に終わり表舞台から姿を消す事となったが、現在は様々なバンドのレコーディングを手掛ける売れっ子プロデューサーとして活躍している。

クーラ・シェイカーのクリスピアン・ミルズ

また2006年以降、クーラ・シェイカーザ・ヴァーヴシェッド・セヴンドッジーマリオンノーザン・アップロアーなど多くのブリットポップ・バンドが再結成を果たしている。とりわけザ・ヴァーヴの再始動は大きなリアクションをもって迎えられ、各国のロック・フェスティバルヘッドライナーとして周る世界規模の再結成ツアーが敢行された。また、西欧・日本で熱烈な歓迎を受けたクーラ・シェイカーの再結成もインディー界隈を賑わしており、シェッド・セヴンも本国での再結成ツアーのチケットがほぼソールドアウト、追加公演が出たり、いくつかのフェス出演を果たすほどの盛況を見せるなど、総じてブリットポップ期の栄華を肯定的に捉えるムードが内外に高まっている。そして遂に、ブラー2009年にオリジナルメンバー4人で再結成することが発表された。

2004年には、ブリットポップが1994年に誕生したという考えから、ちょうど10年ということで、記録映画「LIVE FOREVER」が公開された。この映画では、デーモン・アルバーンオアシスのギャラガー兄弟、パルプジャーヴィス・コッカーといった多くの関係者がブーム当時を振り返っている。

[編集] ブリットポップ期のミュージシャン

詳細はブリットポップ・ミュージシャンのリストを参照

[編集] 外部リンク