デーモン・アルバーン

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デーモン・アルバーン
Damon Albarn
ロスキルド・フェスティバルでのデーモン・アルバーン(2013年)}
ロスキルド・フェスティバルでのデーモン・アルバーン(2013年
基本情報
出生名 デーモン・アルバーン
Damon Albarn
出生 1968年3月23日(46歳)
出身地 イングランドの旗 イングランド
ロンドンコルチェスター
ジャンル オルタナティヴ・ロックブリットポップエクスペリメンタル・ロックエレクトロニカオルタナティブ・ヒップホップ
職業 シンガー・ソングライター作曲家音楽プロデューサー俳優
担当楽器 ヴォーカルキーボードピアノオルガンメロディカシンセサイザーメロトロンギターヴァイオリンベースチェロヴィオラドラムスヴィブラフォンリコーダー
活動期間 1988年 -
レーベル フード・レコーズSBKパーロフォンヴァージン・レコードEMIワーナー・ミュージック・グループXLレコーディングスオネスト・ジョンワーナー・ブラザーズ・レコード
共同作業者 ブラーゴリラズザ・グッド,ザ・バッド・アンド・ザ・クイーンロケットジュース・アンド・ザ・ムーン

デーモン・アルバーン(Damon Albarn、1968年3月23日 - )は、イギリスロンドンコルチェスター出身のシンガーソングライター音楽プロデューサー

概説[編集]

イギリスを代表するロックバンドブラーのフロントマンであり、ボーカル、作詞・作曲[1]を担当している。また、キーボードピアノギターベースも演奏する。1990年代中盤にイギリスで沸き起こったブリットポップムーブメントにおいては、その中心人物としてシーンを牽引。ムーブメント収束以後は、それまでのポップなブラーのイメージから脱却した革新的で実験精神旺盛な作品を発表し、アーティスティックな評価を高めている。2000年代以降はブラーでの活動のほかに、数々のバンドやサイドプロジェクトを精力的に立ち上げ、特にヴァーチャルバンドのゴリラズではブラーを上回る世界的な成功を収めるなど、イギリス・ロックシーンの重要人物の一人に数えられている。

来歴・人物[編集]

デビュー前[編集]

父・キース、母・ヘイゼル[2]の下、東ロンドン・レイトンストーンのホワイトチャペル病院で生まれる。芸術家の両親の下、自由でボヘミアンな気風の家庭で育ち、幼少の頃から音楽やアートに親しむ。9歳の時、二か月のトルコ旅行を経験。その後父親が、ノース・エセックス・オブ・アートの学長職を得たのを期にエセックスコルチェスターに移り住む。このころにはバイオリンやピアノを習い始め、地元の公立中高等学校、スタンウェイ校に入学するも、多様な価値観を認めるロンドンの自由な環境の中で育ってきたデーモンは、郊外特有の均一な価値観を押し付ける学校の気風に合わず、いじめにもあったという。しかし12歳の時、1学年下の後のバンドメイトでもあるグレアム・コクソンと出会う。二人は昼休みや放課後、学校の音楽棟やグレアムの家で音楽を通じて親交を深め、二人でオーケストラでオリジナル曲を披露したり、バンド活動もするようになる。15歳の時には全国規模のクラシック作曲コンクールでヤング・ミュージシャン・オブ・ザ・イヤーを受賞した。しかし、中学時代から始めていた演劇への興味が大きくなり、中高等学校卒業後の1986年9月、ロンドン近郊・デブデンの演劇学校イースト15に入学。しかし役者としての能力に限界を感じ、1年で退学する。その後、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジの定時制に入学し、同じくゴールドスミスに入学していたグレアムと再び同級生となる。音楽に対する情熱を再び取り戻したデーモンは、デモテープをビート・ファクトリー・スタジオに持ち込み、スタジオのお茶汲み係として働くことと引き換えに、深夜にスタジオを自由に利用させてもらう契約を獲得する。このスタジオでデーモンはいろいろなバンドを組んだり[3]、音楽的な才能を伸ばしていった。程なくソロでのプロデビューの話が舞い込むもバンドとしてのキャリアに拘った為断っているが、そこで組んだバンドの一つが後のブラーの前身となるバンド「サーカス」だった。

ドラムのデイヴ・ロウントゥリーも参加していたサーカスは後にギタリストのグレアムと、グレアムの大学の友人であったベーシストのアレックス・ジェームスが加入しバンド「シーモア」が誕生した。1989年、ライブ活動を始めるとすぐにレコード会社との契約を獲得。1990年にはバンド名を「ブラー」に改名し、デーモンはフロント・マンとしてメジャー・デビューを果たした。

1990年代、ブラーでのブレイク[編集]

1991年のファーストアルバム『レジャー』では早くも全英7位を獲得するなど、イギリスではとんとん拍子で成功を収めるも、その後のアメリカ進出には失敗。この経験から、イギリス的なものにバンドのアイデンティティを強く求めるようになり、アメリカ発のグランジブーム吹き荒れるイギリスのチャートシーンにおいて、レコード会社の反対を押し切り、敢えてブリティッシュ・ロックの伝統を踏襲したアルバム、『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』を発表する。当時の流行には乗らなかったため、セールス的には振るわなかったものの、作品そのものは高い評価を獲得した。アルバム製作時、デーモンは英国的な音楽の流行が訪れることを予見していたが、その通りに1993年ごろからイギリス的な音楽は徐々に国内で盛り上がりを増しつつあった。

1994年発表のアルバム『パークライフ』、1995年発売の『ザ・グレイト・エスケープ』で、英国的音楽のムーブメントは最高潮に達して「ブリットポップ」ブームが沸き起こり、デーモンは一躍シーンの中心人物となる。クラシックの素養を感じさせるポップな音楽性と三人称を主語としたシニカルで物語風の作詞技法、派手なライブパフォーマンス、愛用のフレッド・ペリーのポロシャツや、アディダスナイキを小奇麗に着こなすモッズ風のファッションから、「ネオ・モッズ」のアイコンとして人気を博し、その甘いルックスから、当時日本でもファッション雑誌の特集にも多く登場していた。

デーモン自身も当時は「ポップな人」をキーワードに自身のアイデンティティを追及していったが、ブラーより少し遅れてブレイクをしたオアシスとの対立[4]や、マスコミの執拗な狂騒からパニック障害を患うなど、精神的に疲弊をきたしてまう。ローファイな音楽志向であったグレアムとも、あまりにもポップになったブラーの音楽性を巡って、対立するようにもなる。

ロスキルド・フェスティバルでのデーモン(左)(1999年7月)

しかしその後、レイキャビークに家を買ってブリットポップ狂騒から離れ、疎遠状態にあったグレアムと手紙をやり取りをしてお互いの仲を取り戻しつつ、今後のバンドの方向性を確かめあった。またこの頃からアメリカのオルタナティブ・ロックやヒップホップ・シーンにも接近するようになる。そして1997年発表の商業的自殺と呼ばれたアルバム『ブラー』では「ブリットポップは死んだ」との発言とともに、アメリカのオルタナティヴ・ロックの影響を背景とした、それまでのポップなブラーのイメージをかなぐり捨てるような実験的で野心的な作品を発表。新たなファンを獲得し、この作品によってデーモンはアーティスティックな面でも正当に評価されるようになる。「英国的なもの」にこだわらなくなったデーモンは、この後活動の幅を飛躍的に広げるようになり、1998年、長年のガールフレンドだったエラスティカのジャスティーン・フリッシュマンとの別れの後にフラットで共同生活をしていたコミック・アーティストのジェイミー・ヒューレットと、既存の商業音楽のアンチテーゼとして覆面カートゥーン・バンド、ゴリラズのプロジェクトを立ち上げ、様々なジャンルの曲を実験的にレコーディングした。1996年にすでに映画『トレインスポッティング』に個人名義で1曲を提供していたが、1999年には映画『ラビナス』で現代音楽の巨匠マイケル・ナイマンと映画音楽のサウンドトラック・アルバムを作り、グレアムに少し遅れてソロキャリアをスタート。2000年には『私が愛したギャングスター』、2001年には『101レイキャビーク』でも映画音楽を作っている。

また、かつて役者を目指していたこともあり、1997年にはロバート・カーライル出演の映画『フェイス』に出演を果たす。デーモン本人はあまりその出来に納得しておらず、自分は第一にミュージシャンとの自覚もあり、それ以降も出演のオファーが来ていたが断っている[5]

2000年代、ソロキャリア中心の時代[編集]

1999年のブラーのアルバム『13』ではさらに実験性を増した作品を発表すると、2001年、本格始動させたゴリラズのデビュー・アルバムが大ヒットを記録。ブラーではなかなか達成できなかったアメリカ進出を果たす。2002年には、オックスファムの招待で2000年に訪れたマリで、現地のミュージシャンとともに録音していたアフリカ音楽のアルバムを発表する。しかし2002年に始めたブラーの『シンク・タンク』レコーディング時、グレアムと音楽性の相違を巡って仲たがいをし、グレアムはその後バンドを脱退する。

一方、ソロキャリアは順調であり、2005年のゴリラズのセカンド・アルバム『ディーモン・デイズ』が前作を上回る世界的な大ヒットを記録。2006年からは「LIVE 8」の向こうを張って「アフリカ・エクスプレス」という、西洋のミュージャンとアフリカのミュージャンのコラボレーション・イベントをスタートさせた。2007年に発表した新バンドのアルバム『ザ・グッド,ザ・バッド・アンド・ザ・クイーン』も大ヒットを記録。同2007年は、マンチェスター・インターナショナル・フェスティバルからのオファーで、西遊記を題材にしたオペラ作品の制作にも挑戦。中国音階を勉強して制作された翌年リリースのサウンドトラックのアルバム『モンキー:ジャーニー・トゥー・ザ・ウエスト』は、中国音楽と現代音楽の融合が見られる異色の作品であったが、全編中国語のヴォーカルの作品としては史上最高位となる全英5位を獲得している[6]。またこの間の他アーティストへの楽曲提供や、プロデュース、ボーカル参加は数多に上るなど精力的にキャリアを積み上げ、2012年ロンドン・オリンピック開会式の総合監督の候補に名前が挙がるなど、アーティストとしての評価が高まっていった。

また絶縁状態にあったグレアムとの関係も徐々に修復を見せ、アレックスの結婚式でメンバー4人が久々に揃ったり、グレアムがモンキーのオペラの客席に姿を現していることが確認されたりと、バンドが再始動するのではとの噂が囁かれていった。そして2008年12月、二人が和解をして[1]ブラーが再活動することが発表された。2009年にはグラストンベリー・フェスティバルハイド・パークでブラーの復活ライブを行い、復活を待ちわびたオーディエンスを熱狂と感動の渦に巻き込んだ。

2010年代、現在[編集]

2010年にはゴリラズのアルバム、『プラスティック・ビーチ』をリリースし、世界規模のツアーも敢行した。近年は再始動したブラーでの活動のほかに2011年には、オックスファム企画のコンゴ民主共和国救済のためのチャリティアルバム、『キンシャサ・ワン・ツー』を他のミュージシャンとコンゴで1週間でレコーディングしてリリースしたり、長年温めてきた企画であったエリザベス朝時代の魔術師・錬金術師、ジョン・ディーを題材にしたオペラ『ドクター・ディー』の制作を主に音楽面で担当。デーモンも本人役で出演し、翌2012年にはオペラの音楽をもとに同名のアルバム『ドクター・ディー』を、スタジオ・アルバムとしては初めてデーモンのソロ名義でリリースした。また同2012年には、レッド・ホット・チリ・ペッパーズフリートニー・アレンと新バンド、ロケット・ジュース・アンド・ザ・ムーンを結成してアルバムを発表した他、ソウル・シンガー、ボビー・ウーマックの18年ぶりのスタジオ・アルバム、『ザ・ブレイヴェスト・マン・イン・ザ・ユニヴァース』の共同プロデューサーを務め、高い評価を得た。2013年はブラーのワールド・ツアーをこなす傍らソロ・アルバムを制作。『エヴリデイ・ロボッツ』と題された同アルバムは、2014年4月に発売された。

音楽性、歌唱・演奏スタイル[編集]

10代前半まではエリック・サティレイフ・ヴォーン・ウィリアムズブレヒトワイルの『三文オペラ』などのクラシック音楽を好んでいたというが、中高等学生時代以降はヒューマン・リーグザ・クラッシュザ・スミスなどに熱中し、ビートルズキンクスなどを始めとするブリティッシュビート以降のイギリスのロック・ミュージックを徹底的に研究したという。近年は、ヒップホップからエレクトロニカ民族音楽現代音楽に至るまで、ジャンルの枠を大きく超えた音楽を研究し、実験精神溢れる楽曲を精力的に発表し続けている。またバンド・キャリアの前半まではあまりプロデュース業には積極的ではなかったが、近年は研鑽を積み、積極的にこなすようになっている。

歌声はバンド・キャリア前半までは男性にしては高く、曲調に合わせてどこかおちゃらけた印象のある声だったが、1999年のブラーのアルバム『13』のリードトラック「テンダー」では、かなり低い歌声やファルセットも使いこなすようになるなど、近年は味わい深い歌声も披露するようになっている。ボーカルのほかにキーボードやギターを担当し、左利きであるがギターは右利き持ちで弾いている。ライブではステージ上を駆け回ったり飛び跳ねたり、時折観客にダイブするなどグレアムと同じく派手なアクションを見せている。

その他[編集]

2003年にハイド・パークで行われた反イラク戦争のデモに関わるなど、政治的な行動も積極的に行っている。2006年には、イースト・ロンドン大学から美術学名誉修士号を授与された。

ディスコグラフィ[編集]

  • ブラー (Blur)
  • ゴリラズ (Gorillaz)

ソロ名義アルバム[編集]

  • デモクレイジー - Democrazy (2003年)
※5000枚限定のアナログ盤[2]。デモ音源や、未完成の歌の破片などが収録された音源を集めた作品。
  • ドクター・ディー - Dr Dee (2012年)
エリザベス1世の占い師であり、数学者・錬金術師でもあったジョン・ディーをテーマとして作られたオペラ『ドクター・ディー』の音楽が基となった、スタジオ・アルバム。
※1stソロアルバム。

コラボレーション・アルバム[編集]

  • マリ・ミュージック - Mali Music (2002年)
アフェル・ボクムトゥマニ・ジャバテらマリ共和国のミュージシャンとセッションを重ねたワールドミュージック・アルバム。
産業革命期から現代までのロンドンをテーマとした、デーモン、トニー・アレンポール・シムノンサイモン・トングからなるバンドのアルバム。
  • モンキー:ジャーニー・トゥ・ザ・ウェスト - Monkey : Journey To The West (2008年) (モンキー - Monkey)
※西遊記を題材にしたオペラ『モンキー:ジャーニー・トゥ・ザ・ウェスト』で披露した音楽をベースに作られた「モンキー」名義のスタジオ・アルバム。
  • キンシャサ・ワン・トゥー - Kinshasa One Two (2011年) (DRCミュージック - DRC Music)
※コンゴ民主共和国において、西欧圏の気鋭のプロデューサー集団とキンシャサの現地のミュージシャンたちからなるプロジェクト、DRCミュージックにより、5日間でレコーディングされたチャリティ・アルバム。
※デーモン、レッド・ホット・チリ・ペッパーズフリートニー・アレン、その他多彩なゲストから構成されたバンド、ロケット・ジュース・アンド・ザ・ムーンによるセルフタイトル・アルバム。

サウンドトラック[編集]

  • ラビナス - Ravenous (1999年)
※映画のサウンドトラック。マイケル・ナイマンとの共作。
  • 私が愛したギャングスター - Ordinary Decent Criminal (2000年)
※映画のサウンドトラック
  • 101レイキャビーク - 101 Reykjavik (2001年)
※映画のサウンドトラック。エイナール・オゥルン・ベネディクトソンとの共作。

曲ごとのコラボレーション、プロデュース[編集]

脚注[編集]

  1. ^ ブラーの楽曲の多くはデモ曲や大まかな骨組みをデーモンが作り、それをメンバーとジャムセッションや議論しながら作り上げていくスタイルを主としているため、作曲者のクレジットはメンバー全員の名前で表記されている。
  2. ^ 父・キースは、BBCの「レイト・ナイト・ラインナップ」の司会者を務めたり、芸術雑貨店を経営していた。その後、バンドソフト・マシーンのマネージャーをし、イスラム文様に関する学術書なども出版。初期のオノ・ヨーコをイギリスに紹介した人物の一人でもある。母・ヘイゼルも舞台芸術家として活躍。デーモンが愛用しているビーズの首飾りは、母親が作ったもの。3つ違いの妹のジェシカも、イラストレーターとして活躍している。
  3. ^ はじめに「トゥーズ・ア・クラウド」というバンドに加入。その後、「ジ・アフターマス」、「リアル・ライブス」というバンドにも参加している。
  4. ^ 近年弟・リアムの息子がゴリラズのファンであることを、リアムがデーモン本人に直接伝えている。またショートリスト誌によると、2011年秋に偶然出会った兄・ノエルと酒を酌み交わし、当時のことを笑い飛ばしたという。2013年にはグレアム、ポール・ウェラーとともにノエルとライブでの共演も果たしている。
  5. ^ 2007年にはアニメ作品『アンナ・アンド・ザ・ムーズ』で声優デビューも果たしている。
  6. ^ 『モンキー』の成功に伴い、北京オリンピックのイギリス・BBCのテレビ中継時のテーマ曲の作曲を依頼された。テーマ曲のアレンジ・ヴァージョンが当アルバムに収録されている。

外部リンク[編集]

  • Damon Albarn Official Website - 公式ウェブサイト(英語)
  • Blur - ブラーの公式ウェブサイト(英語)
  • GORILLAZ - ゴリラズの公式ウェブサイト(英語)
  • The Good, the Bad and the Queen - ザ・グッド,ザ・バッド・アンド・ザ・クイーンの公式ウェブサイト(英語)
  • The Rocket Juice and the Moon - ロケットジュース・アンド・ザ・ムーンの公式ウェブサイト(英語)
  • Monkey: Journey to the West - オペラ、『モンキー』の公式ウェブサイト(日本語)
  • Dr Dee - オペラ、『ドクター・ディー』の公式ウェブサイト(英語)
  • Africa Express - アフリカ・エクスプレスの公式ウェブサイト(英語)
  • HONEST JONS - デーモンが共同出資しているレーベル、オネスト・ジョンの公式ウェブサイト(英語)
  • DRC Music - DRCミュージックの公式ウェブサイト(英語)