オノ・ヨーコ

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オノ・ヨーコ
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基本情報
出生名 小野 洋子
(おの ようこ)
出生 1933年2月18日(81歳)
出身地 日本の旗 日本・東京府
(現:東京都
職業 芸術家
音楽家
平和活動家
担当楽器 ボーカル
ピアノ
活動期間 1961年 -
公式サイト [1]

オノ・ヨーコ(Yoko Ono, 本名:ヨーコ・オノ・レノン、Yoko Ono Lennon, 日本名:小野 洋子、1933年2月18日 - )は日本生まれのアメリカ芸術家音楽家ビートルズジョン・レノンと結婚、レノンとの数々の共作でも知られている。

1953年、20歳のとき、学習院大学からアメリカのサラ・ローレンス大学に入学、音楽を学ぶ。1959年から、ニューヨークを拠点に、前衛芸術家として活動を開始。1966年、活動の拠点をイギリスロンドンに移す。同年11月に個展を開催、その会場でジョン・レノンと出会い、1969年結婚。1960年代後半から1970年代にかけて、レノンとともに数々の創作活動や平和運動を行なう。レノン亡きあとも「愛と平和」のメッセージを発信し続け、世界各地で個展を行なうほか、ダンス/クラブ・プレイの分野ではビルボード・チャート1位に10曲を送り込み、この分野で最も活躍しているアーティストの1人である。1981年グラミー賞にてアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞、2009年6月、現代美術の世界的祭典、第53回ヴェネツィア・ビエンナーレで、生涯業績部門の金獅子賞を受賞した。ニューヨーク在住。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

ヨーコ・オノ(小野洋子)は1933年2月18日、銀行家の小野英輔、磯子夫妻の長女として東京府(現:東京都)で生まれた。小野節子は妹。小野英二郎(元日本興業銀行総裁)は父方の祖父。安田善三郎(元貴族院議員)は母方の祖父で、その実父は元宇和島藩士で実業家の伊臣忠一、義理の父は安田財閥の創始者である安田善次郎。義理の伯父には、医学者の小野康平や外交評論家の加瀬俊一(元国連大使)、歌舞伎役者の十三代目片岡仁左衛門、伯母にはロシア人のヴァイオリニスト小野アンナがいる。加瀬英明(外交評論家)、十五代目片岡仁左衛門および画家の石井茂雄は従弟。また、戦国時代立花氏などに仕えた武将の小野鎮幸は先祖にあたる。

学歴[編集]

自由学園幼児生活団(幼稚園)、学習院初等科、父の転勤に伴いニューヨークに転居、帰国後、啓明学園初等学校に編入、学習院女子中・高等科を経て、1952年学習院大学哲学科に入学(中退)。1953年に家族と共に父親の赴任先であるニューヨーク郊外のスカースデールに移り住み、サラ・ローレンス大学に入学、音楽を学ぶ。在学中の1956年に作曲家の一柳慧と出会い、退学し結婚、前衛芸術の活動を開始する。

1950〜60年代[編集]

1959年ニューヨークを活動拠点とする前衛芸術集団フルクサスとともに活動を行う。床に置かれたキャンバスを観客が踏みつけることで完成するコンセプチュアル・アート作品『踏まれるための絵画』("Painting To Be Stepped On")は当時の代表作のひとつ。また、カーネギー・ホール前衛音楽パフォーマンスを行う。

1962年から1964年まで日本に帰国し、観客が彼女の衣装をはさみで切り取るパフォーマンス『カット・ピース』("Cut Piece")や、言葉によるコンセプチュアル・アート作品集『グレープフルーツ』("Grapefruit")などの作品を発表する。

1962年の11月28日に、ジャズミュージシャン映像作家アンソニー・コックスと結婚するが、一柳との離婚が法的に成立しておらず、1963年3月1日に無効とされ、同年6月6日に再度結婚。二人の間に1963年8月8日、娘キョーコ・チャン・コックスをもうけるが、1969年2月2日に離婚。1964年東京からニューヨークに戻り、活動を行う。1966年ロンドンの現代芸術協会の招きで渡英し、それを契機として活動の場をロンドンに移した。

ジョン・レノンとの出会いは、1966年11月9日のことであった。ロンドンのインディカ・ギャラリーでのオノの個展『未完成の絵画とオブジェ』("Unfinished Paintings and Objects")の開催前日のプレビュー・ショーに訪れたレノンは、そこに展示されていた作品「天井の絵」("Ceiling Painting (YES Painting)")に惹かれた。それは部屋の中央に白い脚立が置かれており、観客はそれを昇り天井からぶら下がった虫眼鏡を使って、天井に貼られたキャンバスの小さな文字を見るという作品だった[1]。レノンは当時を回想し「もし"No"とか『インチキ』みたいな意地の悪い言葉が書かれていたら、すぐに画廊を出て行ったよ。でも"YES"だったから僕は『これはいけるぞ、心温まる気持ちにさせてくれる初めての美術展だ』と思ったんだ」と後に語っている[2][3]

1967年、レノンのサポートにより、ロンドンのリッスン・ギャラリーで、すべてのオブジェが半分の形で展示された個展『ハーフ・ア・ウィンド・ショー』("Half-A-Wind Show")を行う。二人はその後、ともに前衛的な音楽活動やパフォーマンスを行うようになり、1968年に前衛アルバム『「未完成」作品第1番:トゥー・ヴァージンズ』("Unfinished Music No.1: Two Virgins")や前衛パフォーマンス『ドングリ・イヴェント』("Acorn Event") を発表。

ベッド・イン風景、(奥左)ジョン・レノン、(奥右)オノ・ヨーコ、(中央)ティモシー・リアリー。「平和を我等に」のレコーディング中(1969年)

二人は、1969年3月20日ジブラルタルで結婚。当時、激化するベトナム戦争に反対して、平和イベント『ベッド・イン』("Bed-in")や『ウォー・イズ・オーヴァー』("War Is Over, If you want it")ポスター・キャンペーンなどの独自の「愛と平和」("Love and Peace")の活動を展開した。なお、米国では、夫婦別姓ミドルネーム、夫婦同姓のいずれを選ぶことも可能で、オノはミドルネームにオノを入れる形式を選んだ。そのため、本名はヨーコ・オノ・レノン、となった。ただし、通称としては、以後も「オノ」を使い続けている。また、オノの二人の息子も、ミドルネームに「オノ」を入れている。

また、同年二人は自身の音楽ユニットであるプラスティック・オノ・バンド(Plastic Ono Band)を結成し、1969年12月に同バンドのファースト・アルバム『平和の祈りをこめて』("Live Peace In Toronto 1969")を発表。また、1970年12月にオノ自身のファースト・アルバム『ヨーコの心』("Yoko Ono/ Plastic Ono Band")を発表。1971年3月には2枚目のアルバム『フライ』("Fly")を発表。

1970年代[編集]

1970年ビートルズ解散したが、その原因は、オノにあるとし、「ビートルズを解散させた女」としてしばしば非難された。また、結婚前後の二人の活動は、奇妙な立ち居振る舞い・不人気な前衛活動と映り、数多くの非難と中傷がオノに対して浴びせられたこともあった。

1971年9月に二人は新しい活動の場を求めてロンドンからニューヨークに移り住む。アルバム『イマジン』("Imagine")の発表直前のことだった。

同年10月にニューヨークのエバーソン美術館でオノの芸術活動を集大成した個展『ジス・イズ・ノット・ヒアー』("This Is Not Here")を行なう。一方、二人はニューヨーク前衛芸術家、反戦運動家、黒人解放運動家、女性解放運動家などと交流を深め、急進的な政治運動に傾斜していった。

1971年から1972年にかけて、二人は反戦文化人の即時保釈を求める集会や北アイルランド紛争に抗議するデモ行進への参加、刑務所で起きた暴動の被害者救済コンサートや知的障害を持つ子どもの救済コンサートなどに積極的に出演する。

1973年4月、二人は架空の理想国家「ヌートピア」の建国宣言のイベントを行うが、掲げた理想も度重なる国外退去命令で挫折する。そのようななか、1973年10月、レノンはロサンゼルスに移り住み、二人は別居する。後に、レノンはこの期間を「失われた週末」と述懐している。この別居期間中にオノは、アルバム『無限の大宇宙』("Approximately Infinite Universe")とアルバム『空間の感触』("Feeling the Space")の2枚のフェミニストロック・アルバムを発表している。

1974年11月、レノンがニューヨークで開催されたエルトン・ジョンのコンサートに出演したことがきっかけになって、オノと再会。二人は翌年、1975年1月に再び生活を共にすることになる。同年10月9日、レノンの35歳の誕生日に二人の間の息子ショーン・タロー・オノ・レノンが誕生した。

ショーン誕生後、二人は夫婦の役割を見直し、育児と家事をレノンが担当し、家計とビジネスをオノが担当することになる。オノはこの数年間で、不動産や畜産などの投資事業を積極的に行い、ビジネスの才覚を発揮したと言われている[要出典]

1980年代以降[編集]

1980年、ショーンが5歳になったことを契機としてレノンは音楽活動を再開し、二人は共作アルバム『ダブル・ファンタジー』("Double Fantasy")を発表する。その直後1980年12月8日、レノンは自宅、ダコタ・アパート前で、多方向から銃弾を受け死去する。銃口はオノにも向けられたが難を逃れた。

レノンの死の翌年、1981年にオノは、レノンの生前から家族ぐるみで親しくしていたインテリア・デザイナーで、古美術・骨董を扱っていたサム・ハバトイ(Sam Havadtoy)をショーンの養育係として雇いいれた。同氏と再婚したとの噂があったが、その事実はない。

1987年に芸術家アンディ・ウォーホルが死去したとき、彼女は葬式で弔辞を述べた一人だった。

2000年代以降[編集]

2001年アメリカ同時多発テロ後13日目に当たる2001年9月23日、オノは、ニューヨーク・タイムズの日曜版に"Imagine all the people living life in peace"という一面広告を掲載した。アメリカでは"Peace"の意味は日本人が思い描く平和の概念と異なり、鎮静という意味が語源であるため、例えばアメリカ政府が日本に原爆を投下した成果を確認後"peace"と言う言葉を用いる[要出典]。そのためオノが9.11の成果を確認し、"peace"と発表したような誤解を与え、さらに13日目ということもあって、アメリカ政府は、放送局にレノンの「イマジン」のオンエアの自粛を求めた。

2004年10月、住友ホール(東京・新宿)で行われた講演会(朝日カルチャーセンター主催)で観客に「アルカーイダをどう思いますか?」と訊かれて、「人のことを批判したり考えるよりも、自分の健康について考えたほうがいいです」と答えている。

なお、2009年9月よりプラスティック・オノ・バンドとして、息子のショーン・レノンやコーネリアスの小山田圭吾らと共に音楽活動を再開した。

芸術活動[編集]

オノはフルクサス(1960年代に発展したダダイズムに触発された前衛芸術家らの自由な集団)に距離を置きながらも関わっていた。当時親しくしていたフルクサスの創立者、ジョージ・マチューナス(George Maciunas)はオノの作品を高く評価しており、熱心にプロモートしていた。マチューナスはオノと共にフルクサス・ムーブメントを広めようと考えていたが、オノはかならずしもフルクサスをムーブメントだとは認識しておらず、また自身はどこにも属さないアーティストでありたいと考えたためにある一定の距離を置いていた。

ジョン・ケージはオノのパフォーマンス・アートに多大な影響を及ぼしたひとりである。オノとケージの関わりは、ニュー・スクールでのケージの有名な実験的作曲法の授業の生徒だった一柳慧との関係を通してのものだった。オノは、ケージと彼の生徒達の型にはまらない前衛的なネオ・ダダイズムの音楽に次第に傾倒していった。

1960年夏、オノは、自身も含めたニューヨーク前衛的芸術家達の作品を展示する場所を熱心に探し、マンハッタンのチャンバーズ・ストリート112番地に格安なロフトを見つけ、そこをスタジオ兼住居とすることにした。それは、ケージがニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ(New School For Social Research)での講師を辞めた直後のことだった。一方、作曲家のラ・モンテ・ヤングはそのロフトでコンサートを企画させてほしいとオノに頼み込み、オノは不本意ながら承諾したという。やがて二人は数々のイベントをこのロフトで主催することになった。互いに自分こそが第一キュレーターだったと証言しているが、オノによると、次第に彼女はヤングの補佐的役割へと押しやられていった。このロフトでのイベントでは、キャンバスの小片を地面に置き、足跡をつけて完成する『踏まれるための絵画』に代表されるオノの初期のコンセプチュアル・アート作品も展開されていた。その観賞者は、アート作品とは壁に飾られた手の届かないものである必要はなく、地面におかれ汚れた不揃いなキャンバスのかけらで、しかも踏みつけられる事によって完成とすることもあり得るのだという、オノが提示したジレンマに直面せざるを得なかった。

当時のオノはコンセプチュアル・アート、パフォーマンス・アートを追求していて、そのパフォーマンス・アート作品のひとつに、1964年草月会館東京)で上演された『カット・ピース』("Cut Piece")がある。この作品の説明には、一言「切れ」(Cut)という破壊的な動詞があるのみで、観客が舞台上に座っているオノの衣服を、オノが裸になるまで文字通り切るという作品である。『カット・ピース』は、作品を介して彼女の内的苦痛を伝えるという、彼女の作品にはよく見られるもののひとつである。大学で、オノはジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)の実存主義に触れ、自身の人間としての苦痛を鎮めるため、観客にアート作品を完成させるための協力を求めると同時に、自身のアイデンティティを確立させようともしていた。『カット・ピース』は、アイデンティティに対する問いかけに加え、社会的調和と愛の必要性も訴えている。また、苦痛や孤独という人としての普遍的な苦悩に言及すると同時に、ジェンダー問題や性差別にも触れている。この作品はロンドンをはじめ、様々な場所で上演され、観客が変わる度に違った反応を集めている。日本では観客は控えめで用心深く、ロンドンでは熱狂しすぎた観客が暴力的になり、オノが警備員に保護されるに至った事もある。2003年には、パリで再演されている。

オノのコンセプチュアル・アートのひとつに、『グレープフルーツ』("Grapefruit")がある。この作品は1964年東京で刊行され、超現実的で、禅問答にも通じる命令口調の言葉が並び、読み手の創造力の中で完成するというアート作品である。一例としては、次の一節がある。「みんな家に帰るまで隠れなさい。みんなあなたのことを忘れるまで隠れなさい。みんな死ぬまで隠れなさい」。ヒューリスティクス言葉によるアートであるこの作品は数回出版されたが、1971年サイモン・アンド・シュースター版が最も広く流通し、2000年には同社によって再版されている。また、オノは、自身のパフォーマンス作品として、この作品の中から引用することも多々あり、彼女の多くの展示会もこれに基づいているものが多い。その意味で、この作品集はオノのアートの基底を形成する代表作と言える。

1966年1月、オノは、ウェズリアン大学(Wesleyan University)で行われたレクチャーの中で、彼女のコンセプチュアル・アート作品のインスピレーションについて次のように語っている。「私の音楽以外の作品はすべて、イベント的な要素を持っています。私にとってイベントとは、ハプニングのように他の分野の芸術を同化させたものではなく、さまざまな知覚からの自身の解放なのです。多くのハプニングにみられる一体感もなく、ただ自己と向き合う営みなのです。ハプニングと違って台本もありません。ただし、イベントの引き金となるものはあります。願いや希望に近いものかもしれません。心の壁を取り払い、視覚、聴覚、そして動的な知覚を捨てたあと、私たちは何を生み出すだろうか。私はそのようなことに思いを巡らしています。私のイベントは多くの場合、驚異を感じながら行なわれるのです。満足に食べることもできず、空想のメニューを弟と言い合っていた第二次世界大戦の体験にまで遡る手法です」。

また、オノは前衛的な実験映画作家でもあり、1964年から1972年の間に16本の映像作品を撮っている。1966年に製作された作品『ナンバー・4』("No.4"、通称『ボトムズ』("Bottoms"))は特に高い評価を得たフィルム作品である。この映像は歩行機上を歩く人のお尻のクローズ・アップ・ショットの連続で、スクリーンに映し出された映像は、お尻の縦の線と下部にできる横皺の線とでほぼ4分割されているように見える。サウンドトラックとして、このプロジェクトの参加者と参加希望者のインタビューが使われている。1996年、時計メーカー、スウォッチがこの作品を記念してそのお尻の映像をデザインした時計(限定版)を製造した。

ジョン・レノンはかつて彼女のことを「世界で最も有名な無名アーティスト。誰もが彼女の名前を知っているが誰も彼女のしていることを知らない」と語っている。ニューヨークのアート界でのオノの親しい仲間には、マチューナス、ヤングの他に、ケイト・ミレット(Kate Millet)、ナム・ジュン・パイク(Nam June Paik)、ダン・リクター(Dan Richter)、ジョナス・メカス(Jonas Mekas)、マース・カニングハム(Merce Cunningham)、ジュディス・マリナ(Judith Malina)、エリカ・アビール(Erica Abeel)、フレッド・デ・アシス(Fred DeAsis)、ペギー・グッゲンハイム(Peggy Guggenheim)、ベティ・ローリン(Betty Rollin)、荒川修作エイドリアン・モリス(Adrian Morris)、ステファン・ウォルフェ(Stefan Wolpe)、キース・ヘリング(Keith Haring)、アンディ・ウォーホルアンディ・ウォーホール(Andy Warhol)らがいた。

現在も芸術家として精力的に活動しており、ここ数年でオノの作品は高く評価されている。オンタリオ美術館(Art Gallery of Ontario)のディレクター、マシュー・タイテルバウム(Matthew Teitelbaum)は次のように述べている。「オノ・ヨーコは世界で最もオリジナルで、最も感動を与えるヴィジュアル・アーティストのひとりだ」。ニューヨーク・タイムズの美術評論のチーフであったマイケル・キンメルマン(Michael Kimmelman)は「オノ・ヨーコのアートは鏡だ。彼女の作品『ボックス・オブ・スマイル("a Box of Smile")』のように、我々は彼女の作品に対する自身の反応の中に、自身を見ることになる。自己啓発への小さな刺激を与えてくれる。まるでのようだ」。

2001年、オノは自身の芸術活動40年間を振り返る回顧展、『イエス、ヨーコ・オノ』("YES YOKO ONO")は、アメリカ美術批評家国際協会(International Association of Art Critics USA Award)のニューヨークでの最優秀美術館展賞(Best Museum Show Originating in New York City)を受賞した(この賞は美術業界の中では最も名誉ある賞のひとつと考えられている)。2002年には、マルチ・メディア部門でスカウヒーガン・メダル(Skowhegan Medal)を、2005年には、ニューヨーク日本協会から特別功労賞を授与されている。2001年には、リヴァプール大学(Liverpool University)より名誉法学博士号(Honorary Doctorate of Laws)を授与されている。2002年には、バード・カレッジ(Bard College)より名誉美術学博士号を授与されている。スコット・マクドナルド(Scott MacDonald)客員教授は、このように語っている。「彼女の作品は作品として賞賛に値するし、彼女がメディアの歴史の中で、そして世界の中で、主張してきた事も賞賛に値する。その度胸、不屈さ、粘り強さ、独立心、そして何よりも、創造力。そして平和と愛こそが輝かしくて多様性に富んでいる人類の未来へと導いてくれるのだという信念はすばらしい」。

オノヨーコ、ニューヨーク近代美術館の願いの木、ニューヨーク

2009年6 月、現代美術の世界的祭典、第53回ヴェネツィア・ビエンナーレで、生涯業績部門の金獅子賞を受賞した。金獅子賞が1974年に同祭典に導入されて以降、初の日本人受賞者となった。ビエンナーレ事務局は、オノの受賞理由について、「パフォーマンス・アートコンセプチュアル・アートの先駆者。現代においてもっとも影響力を持つアーティストのひとり。ポップ・カルチャーと平和活動のシンボルとなるずっと前から芸術的な表現方法を開拓し、日本と欧米の双方において永続的な痕跡を残してきた」と説明している。

2010年:オノヨーコ、ニューヨーク近代美術館の願いの木、ニューヨーク

音楽活動[編集]

オノはジョン・ケージオーネット・コールマンなど、著名な実験的ミュージシャンコラボレーションをしている。1961年、レノンと出会う以前に、カーネギー・リサイタル・ホール(Carnegie Recital Hall)で初の大きな公演を行った[4]。この公演は過激で実験的な音楽パフォーマンスで構成されていた。オノはこのパフォーマンスの様子を次の様に語っている。「すべて配置し終わると、私はステージをとても暗くしたの。網膜を緊張しなければならないほどにね。なぜって、人生はそういうものだからよ。緊張しなければ人の心を読むことだってできないわ。それからステージを真暗らにした。(中略)みんなは、ステージではまったく音をたてずに静かに廻ってね。紐で絡がれた二人の男性が、体の周りに空き缶と空き瓶をいっぱいぶら下げて、音をたてずにゆっくりとステージの端から端まで静かに移動しなければいけないときがあったの、私のやりたかったことは、ほとんど聴こえない音を作ることだったのよ。[5]1965年には、同じ会場で、2回目の公演を行い、『カット・ピース』を行った。

オノとレノンは多くのアルバムでコラボレーションしている。1968年、レノンがまだビートルズに在籍していた頃の実験的で難解な前衛音楽となっている『「未完成」作品第1番:トゥー・ヴァージンズ』が始まりである。同年、二人はアルバム『ザ・ビートルズ』(ホワイト・アルバム、"The Beatles")に実験的な作品「レヴォリューション9」 ("Revolution 9")を提供している。その他にも『ザ・ビートルズ』で、オノはバックコーラスとして、「バースディ("Birthday")」に参加し、ソロ・ボーカル(一行のみ)を「ザ・コンティニューイング・ストーリー・オブ・バンガロー・ビル」("The Continuing Story of Bungalow Bill")で披露している。後に、二人はプラスティック・オノ・バンド名義で多くのアルバムを発表することになる。また、二人は一緒にコンサートにも出演している。1971年6月5日、レノンがフランク・ザッパ(Frank Zappa)のフィルモア・イーストでのコンサートに招かれた際、オノも参加した。

1969年プラスティック・オノ・バンドのファーストアルバム『平和の祈りをこめて』をトロントで開催された『ロックンロール・リヴァイヴァル・フェスティヴァル』(Rock and Roll Revival Festival)で録音した。レノンとオノに加え、当初メンバーとして、ギタリスト、エリック・クラプトン(Eric Clapton)、ベーシスト、クラウス・フォアマン(Klaus Voorman)、ドラマー、アラン・ホワイト(Alan White)がいた。前半はスタンダードなロック・ナンバーで、後半は、オノがマイクをとり、コンサートはオノが叫び歌うというロック・コンサートでも類い稀な前衛的な構成であった。

1970年には、オノ自身のファースト・ソロ・アルバムである、『ヨーコの心/プラスティック・オノ・バンド』(Yoko Ono/ Plastic Ono Band")を発表した。これは、より知名度が高い、ジョン・レノンの『ジョンの魂』("John Lennon/ Plastic Ono Band")の姉妹アルバムにあたる。2枚のレコード・ジャケットのデザインは共通しており、オノ盤は、彼女がレノンに寄りかかっている写真を、レノン盤はレノンがオノに寄りかかっている写真を使用している。オノ版は、日本の古来からの土着的歌謡から影響を受けたと思われる、唸りと叫びが交錯する独特なボーカルがフィーチャーされているが、そのボーカルは、自然界の音(特に動物による)や風の音、管楽器奏者によって用いられたフリー・ジャズのテクニックを駆使したサウンドに共通するところがある。パフォーマーには、オーネット・コールマン(Ornette Coleman)やその他著名なフリー・ジャズ奏者が含まれ、ジョン・レノン、リンゴ・スター(Ringo Starr)その他のミュージシャンが脇を固めている。ある曲では、言葉をなさないボーカルがフィーチャーされており、これは後にメレディス・モンク(Meredith Monk)などの言葉の代わりに叫び声やノイズを使うアーティストに影響をあたえたとされている。また、パブリック・イメージ・リミテッド(Public Image Limited)等のパンク・バンドの中には、このアルバムが、パンクの基礎を築いたと考えているものもいる。このアルバムはアメリカ・チャートで182位を記録している。

1971年、オノは、2枚組アルバム『フライ』」("Fly")を発表。「ミッドサマー・ニューヨーク」("Midsummer New York")や「マインドトレイン」("Mind Train")で、従来のサイケデリック・ロックを披露する一方で、フルクサスの実験的なナンバーも含まれている。また「ミセス・レノン」("Mrs.Lennon")は大々的ではないものの、ラジオで放送された。キョーコがトニー・コックスとともに失踪した後に作られた曲、「ドント・ウォーリー・キョーコ(京子ちゃん心配しないで)」("Don't Worry, Kyoko (Mummy's Only Looking For Her Hand In The Snow)")が有名である。アメリカ・チャートで199位を記録している。

1972年、オノは、レノンとともに2枚組アルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』」("Sometime In New York City")を発表。1973年には、オノは『無限の大宇宙』("Approximately Infinite Universe")と『空間の感触』("Feeling the Space")という2枚のフェミニスト・ロックアルバムを1973年に発表した。特に、「ムーブ・オン・ファースト(移動だ)」("Move on Fast")、「ヤン・ヤン」("Yang Yang")、「サマンサの死」("Death of Samantha")は評価が高い。アメリカ・チャートで193位を記録している。1974年に『ストーリー』("A Story")を制作したが当時はリリースせず、1997年にリリースされた。

1980年初頭、レノンはナイトクラブで、リーナ・ラヴィッチ(Lene Lovich)やB-52'sの「ロック・ロブスター」("Rock Lobster")を聴き、彼らの音楽はオノのサウンドを彷彿させるものがあると感じ、オノのサウンドがメインストリームに到達したことの現れだと考えた。実際、多くのミュージシャン、特にニュー・ウェイブ・ムーブメントのミュージシャンらは、オノを一アーティストとして、また、ミューズアイコンとして賞賛している。例えば、エルヴィス・コステロ(Elvis Costello)は「ウォーキング・オン・シン・アイス」("Walking on Thin Ice")を、B-52'sは「ドント・ウォーリー・キョーコ(京子ちゃん心配しないで)」("Don't Worry, Kyoko (Mummy's Only Looking For Her Hand In The Snow)")を「ドント・ウォーリー」("Don't Worry")にタイトルを変更してカバーしている。また、ソニック・ユース(Sonic Youth)は、オノの初期コンセプチュアル作品「ヴォイス・ピース・フォー・ソプラノ」("Voice Peace for Soprano")を『SYR4・グッバイ・20th・センチュリー』("SYR4: Goodbye 20th Century")で披露している。ベアネイキッド・レディース(Barenaked Ladies)の最も有名な曲の中には「ビー・マイ・ヨーコ・オノ」("Be My Yoko Ono")があり、ダー・ウィリアムス(Dar Williams)は「アイ・ウォント・ビー・ユア・ヨーコ・オノ」("I Won't Be Your Yoko Ono")というタイトルの曲をレコーディングしている。パンク・ロック・シンガー、パティ・スミス(Patti Smith)は2005年6月に行われた自身が監修する2週間に渡る音楽フェスティバル、メルトダウン(Meltdown)への参加をオノに打診し、オノはクイーン・エリザベス・ホールでパフォーマンスを行った。

1980年ダブル・ファンタジー』("Double Fantasy") をレノンとともに発表、同年、12月8日、レノンとオノはスタジオで、『ウォーキング・オン・シン・アイス』の作業をしていた。レノンの没後『ウォーキング・オン・シン・アイス(フォー・ジョン)』("Wolking Thin Ice(For John)")は1か月も経たないうちにリリースされ、チャート58位を記録し、特にダンス・チャートでは13位に達し、オノにとっては初のチャート・サクセスとなった。1981年、レノンのひびが入り血のついた眼鏡と半分だけ水の入ったグラスが、 セントラル・パークを望む窓の前におかれている衝撃的な写真をカバーに使用した『シーズン・オブ・グラス』("Season of Glass")を発表する。この写真は2002年4月にロンドンのオークションに出品され、約13,000ドルで落札された。ライナーノーツの中でオノはこのアルバムはレノンに捧げたものではないとし、「そんなことを言ったら、ジョンは気分を害することでしょう。彼は私たちの一人なのだから」と語っている。

1982年、オノは『イッツ・オーライト』("It's Alright (I See Rainbows)")を発表する。アルバム・カバーには、トレードマークのおおぶりなサングラスをかけたオノが太陽を見つめている写真を使用し、バック・カバーには、ゴーストとなったレノンが彼女と息子を見つめている写真を使用した。アルバムは98位に達した。シングル曲「マイ・マン」("My Man")、「ネヴァー・セイ・グッドバイ」("Never Say Goodbye")はラジオでも放送された。

1984年トリビュート・アルバムエヴリ・マン・ハズ・ア・ウーマン』("Every Man Has a Woman")がリリースされた。このアルバムの中で、エルヴィス・コステロ、ロバータ・フラック(Roberta Flack)、エディー・マネー(Eddie Money)、ロザンヌ・キャッシュ(Rosanne Cash)、ハリー・ニルソン(Harry Nilsson)といったアーティストがオノの楽曲を演奏している。これは、レノンが完成させることができなかったプロジェクトの一つであった。同年末に、オノとレノンの最後のアルバム『ミルク・アンド・ハニー』("Milk and Honey")が未完成デモとしてリリースされた。

オノの80年代最後のアルバムは、『スターピース』("Starpeace")で、これは、ロナルド・レーガン(Ronald Reagan)のスター・ウォーズ計画に対抗する意図で製作されたコンセプト・アルバムである。ジャケットでは、温かく微笑むオノが地球を手のひらで包み込んでいる。『スターピース』はレノンが関わっていない作品の中で一番の成功をおさめた。シングル「ヘル・イン・パラダイス」("Hell in Paradise")はヒットし、USダンス・チャート16位を記録、ビルボード・ホット100(Billboard Hot 100)でも26位まで上り詰め、MTVで繰り返し放送された。

1986年、オノは、『スターピース』の親善ワールド・ツアーを行い、主に東欧諸国を回った。

その後、オノの音楽キャリアは中断していたが、1992年ライコディスク(Rykodisc)と契約をかわし、6枚組ボックス・セット『オノボックス("Onobox")』をリリースする。このボックス・セットは1974年の「ロスト・ウィークエンド」セッション時の未発表作品と共に、すべてのソロ・アルバムの中からの主要作品のリマスター・バージョンを収録している。また、1枚組アルバムとして、オノボックスのベスト盤と言えるアルバム『ウォーキング・オン・シン・アイス』もリリースした。同年、音楽ジャーナリスト、マーク・ケンプ(Mark Kemp)による、オルタナティヴ・ミュージック雑誌「オプション」("Option")のカバーストーリー用ロング・インタビューにオノは応じた。ポップスとアヴァンギャルドを融合したさせた先駆者としての彼女の役割を許容している新しい世代のファンのために、オノの音楽を見直すという内容だった。

1994年、オノはブロードウェイ向けにアレンジをした自身の曲を使用した『ニューヨーク・ロック』("New York Rock")というミュージカルをプロデュースした。1995年には、息子ショーンと彼のバンドIMAとコラボレーションし、『ライジング』("Rising")を発表した。また、ライジングを引っさげての世界ツアー(ヨーロッパ日本アメリカ)も行った。翌年、「ライジング・ミックス」("Rising Mixes EP")で、様々なオルタナティブ・ロック・ミュージシャンとコラボレーションを行った。ライジングのリミキサーとして、チボ・マット(Cibo Matto)、ウィーン(Ween)、トリッキー(Tricky)、サーストン・ムーア(Thurston Moore)らがいる。

1997年、ライコディスクは、オノの全ソロアルバム(『ヨーコ・オノ/プラスティック・オノ・バンド』から『スターピース』まで)、をCDフォーマットで再発した。オノとエンジニアのロブ・スティーブンス(Rob Stevens)はリマスターを行い、アウトテイク、デモ、ライブ音源等、様々なボーナストラックが付け加えられた。

2001年、オノはフェミニスト・コンセプト・アルバム『ブループリント・フォー・ア・サンライズ』("Blueprint for a Sunrise")を発表した。2002年には、クラブ用に、DJらがオノの曲のリミックスをおこなった。このリミックス・プロジェクトでは、オノは名義を単純に「オノ」(ONO)とし、これは、彼女のキャリアを通して悩ませ続けた「オー・ノー!」("Oh, no!")というジョークへのリスポンスにもなっている。ペット・ショップ・ボーイズ(Pet Shop Boys)や、オレンジ・ファクトリー(Orange Factory)、ピーター・ラウファー(Peter Rauhfer)、ダニー・テナグリア(Danny Tenaglia)らトップDJ、ダンス・アーティストらによってリミックスされた新しい『ウォーキング・オン・シン・アイス』は大きな成功をおさめた。2003年4月には、『ウォーキング・オン・シン・アイス(リミックス)』は、ビルボード・マガジン(Billboard Magazine)のダンス/クラブ・プレイ・チャート(Dance/Club Play Chart)で初のナンバー・ワンに輝いた。1981年版オリジナル12インチ・ミックスでは、「ヨーコ、これは初のNo.1になるよ」とレノンがしゃべっている声が聞くことができる。2004年11月に、『エヴリマン...エヴリウーマン』("Everyman... Everywoman")で再度、同チャート、ナンバー・ワンに返り咲いた。これは、『ダブル・ファンタジー』に収録されている「エヴリ・マン・ハズ・ア・ウーマン・フー・ラヴズ・ヒム」("Every Man Has a Woman Who Loves Him")をベースにした曲で、同性婚をサポートする内容の歌詞となっている。また、2008年1月に、"No No No"で、8月には"Give Peace a Chance"で同チャートのナンバー・ワンを記録し、2009年6月には、"I'm Not Getting Enough"で、76歳にして5度目のダンス/クラブ・プレイ・チャートでのナンバー・ワンを記録した。2010年には"Give me something"、"Wouldnit (I'm A Star)"でも同チャートのナンバー・ワンを記録し、7度目のナンバー・ワンを記録した。現在、ダンス/クラブ・プレイ・チャートの分野では最も活躍しているアーティストの1人である。

2007年2月に、『イエス・アイム・ア・ウィッチ』("Yes, I'm a Witch")が発売になった。このアルバムは、さまざまなアーティストによる、彼女の楽曲のリミックスやカバー集となっており、フレーミング・リップス(Flaming Lips)、キャット・パワー(Cat Power)、アントニー(Antony)、DJスプーキー(DJ Spooky)、ポーキュパイン・ツリー(Porcupine Tree)、ピーチーズ(Peaches)らが参加しており、批評家から好評価を得た。また、『プラスティック・オノ・バンド/ヨーコ・オノ(オノの心)』のスペシャル・エディションも発売となった。その他にも、4月にオノの作品のダンス・リミックスのコンピレーション『オープン・ユア・ボックス("Open Your Box")』が発売された。

2009年6月9日には、4曲入りEP、"Don&'t Stop Me!"が全世界のiTunesにおいて限定配信された。このEPは、息子であるショーンが長年のコラボレーターである本田ゆか達と立ち上げたレーベル、キメラ・ミュージック(Chimera Music)より9月にリリースされるスタジオ・アルバム"Between My Head and the Sky"から一足早く4曲を収録したものである。このアルバムは1973年の『空間の感触』以来初となる、プラスティック・オノ・バンド名義でリリースされる。この新生プラスティック・オノ・バンドには、ショーン・レノンコーネリアス、本田ゆか、などが参加している。

ポール・マッカートニーとの関係[編集]

オノとポール・マッカートニーは不和の関係にあったとの評価が一般的である。

争点の一つとなっていたのは、ビートルズの楽曲クレジットに関する問題である。ビートルズの活動中、ジョン・レノンかマッカートニーの書いた曲は、どちらが書いても、また共同で書いても、すべて「レノン=マッカートニー」名義とされた。レノンの死後、マッカートニーは、彼単独で、または彼主導で書いた「イエスタデイ」などの曲について、クレジットの順序を「マッカートニー=レノン」と変えようとした。オノはこれを認めず、レノンの生前に二人が取り交わした協約に違反すると非難した。マッカートニー側はこれに反論、そのような協約は存在しなかったとする。他のビートルズメンバー二人が、クレジットは従来どおりにとどめるべきだと意見すると、マッカートニーは要求を撤回した。しかし2002年、マッカートニーはアルバム『Back In The US Live 2002』で、ビートルズ時代の19曲について「作詞作曲ポール・マッカートニー、ジョン・レノン」と記したことからこの論争が再燃する。なお、同作の元となったツアーにて、オノは招待券を依頼したが、マッカートニーは「仲の良い友人というわけではないから」という理由で断っている。

しかし1995年、オノは『ヒロシマ・スカイ・イズ・オールウェイズ・ブルー』をマッカートニーとその家族、ショーン・レノンとで共同制作した。これは広島原爆投下五十周年を祈念する曲であった。オノについてマッカートニーは「彼女は冷たい女だと思っていたけど、間違っていたよ。(中略)その正反対だった。(中略)彼女はただ、断固として自分自身であろうとしているだけなんだ。たいていの人よりもね」と述べている。

2005年Qアウォードを受賞したとき、オノはマッカートニーの作曲を侮辱しているともとられるコメントを述べ、メディアで物議をかもした。レノンはあるとき自らの作曲に不安を抱き、『なぜ他のミュージシャンはいつもポールの曲をカバーして、僕のはしないんだろうと訊いた。「あなたは優れたソングライターよ。あなたが書くのは『スプーンを手に六月』("June with Spoon")みたいなのじゃないわ。あなたは優れたシンガーだから、多分ほとんどのミュージシャンは怖くてあなたの歌をカバーできないのよ」[2] ("June with spoon"は、適当にを踏んだだけの内容のない歌詞という意)とオノは答えたという。オノの発言に明白な侮辱の意図があったかどうかには、議論の余地が残る。当時の妻、ヘザー・ミルズ・マッカートニーは、夫がこの件をどう受け止めているか訊かれ「そんなこと、彼は知りもしないわ。ヨーコの音楽がポールの音楽に比べてどれだけ成功しているか、考えてみなさいよ。おのずから明らかでしょう」と語った。

オノは後に「自分の言葉はジョンを慰めようとしたもので、ポールを攻撃するものではなく、他意はなかった」と声明を出している。また、自分はマッカートニーを尊敬しており、マスコミが自分の言葉を文脈から切り離して報道したのだと付け加えた。

さらにオノは「私とポールが喧嘩しているとか、そんなのんきな話題が人々には必要なのね。この世の恐怖を逃れるために。でも、それはもはや真実じゃない。(中略)私たちは過去、何度も衝突してきたわ。でも今はジョンのパートナーだったポールを尊敬しているし、ポールはジョンの妻だった私を尊敬しているわ」とも述べている。

また、2001年の『Mojo』誌インタビューでビートルズの曲で何が一番好きかと問われた際には、「ビートルズ時代の作品に関しては、私は実はジョンの曲よりもポールの曲のほうが好きなのです」と打ち明けている。

2008年6月1日にはアンフィールドで行われたマッカートニーのコンサートに姿を見せている。このコンサートでマッカートニーはレノン作曲の「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」〜「平和を我等に」のメドレーを披露した。

ディスコグラフィー[編集]

ジョン・レノンの命日にストロベリー・フィールズに献花するヨーコ(2005年12月8日)

ソロ・アルバム[編集]

  • ヨーコの心/プラスティック・オノ・バンド - Yoko Ono Plastic Ono Band (1970年)
  • フライ - Fly (1971年)
  • 無限の大宇宙 - Approximately Infinite Universe (1972年)
  • 空間の感触 - Feeling the Space (1973年)
  • シーズン・オブ・グラス - Season Of Glass (1981年)
  • イッツ・オーライト - It's Alright (I See Rainbows) (1982年)
  • スターピース - Starpeace (1985年)
  • ライジング - Rising (1995年)
  • ストーリー - A Story (1997年1974年録音)
  • ブループリント・フォー・ア・サンライズ - Blueprint For A Sunrise (2001年)

ジョン・レノンとの共作[編集]

ベストアルバム[編集]

  • オノボックス - Onobox (1992年)
  • ウォーキング・オン・シン・アイス - Walking On Thin Ice (1992年)

その他のアルバム[編集]

  • エヴリ・マン・ハズ・ア・ウーマン〜ジョンとヨーコの仲間たち - Walking On Thin Ice (トリビュート・アルバム、1984年)
  • New York Rock (original cast recording) (同名ミュージカルのサントラ盤、1994年)
  • Rising Mixes (リミックス・アルバム、1996年)
  • Yes, I'm a Witch (カバー&リミックスアルバム、2007年)

著作[編集]

  • 『ジョン・レノン愛の遺言』レノン共著 川勝久訳 講談社 1981
  • 『グレープフルーツ・ブック』(訳:田川律、新書館、1982年) - Grapefruit: A Book of Instructions and Drawings (1970年)
  • 『ジョン・レノン/サマー・オブ・1980』(プロデュース・センター、1996年) - Summer of 1980 (1983年)
  • 『ただの私(あたし)』(編訳:飯村隆彦、講談社、1986年) - Just Me! (1986年)
  • The John Lennon Family Album (1990年)
  • デービッド・シェフ『ジョンとヨーコラスト・インタビュー Love & peace』石田泰子訳 集英社 1990
  • 『グレープフルーツ・ジュース』南風椎訳(講談社、1990 のち文庫、1998年) - Grapefruit Juice (1998年)
  • 『オノ・ヨーコ 頭の中で組みたてる絵』(淡交社、1995年) - Instruction Paintings (1995年)
  • YES YOKO ONO (2000年)
  • 『ジョン・レノンラスト・インタビュー』池澤夏樹訳 中公文庫 2001
  • 『レノン・リメンバーズ』ヤーン・ウェナー共著 片岡義男訳 草思社 2001
  • Odyssey of a Cockroach (2005年)
  • Imagine Yoko (2005年)
  • 『メモリーズ・オブ・ジョン・レノン』(編:オノ・ヨーコ、斉藤早苗翻訳監修 シクロス・サナエ訳 イースト・プレス、2005年) - Memories of John Lennon (editor) (2005年)
  • 『イマジン 自由訳』新井満訳 朝日新聞社 2006  
  • 『ギブ・ピース・ア・チャンス』レノン共著 オーヤン・ガハードソン原書編集 斉藤早苗監修 関美冬訳 プロデュースセンター出版局 2007  
  • 『今あなたに知ってもらいたいこと』幻冬舎 2009

その他[編集]

  • 夫、ジョン・レノンの生誕・没後何年というメモリアル・イヤーになると、日本の企業CMに出演している。
    • 1985年(没後5年):KDD(現:KDDI)のCMに当時10歳の息子ショーン・タロー・オノ・レノンと共に出演。
    • 1990年(生誕50年・没後10年目):三菱電機のCMに出演。
    • 2000年(生誕60年・没後20年目):ダイドードリンコの缶コーヒーダイドーブレンドコーヒーのCMに自身とジョン・レノンが登場するフィルムを提供。
    • 2000年:ジョン・レノン・ミュージアムをオープン。自身の作品も含めた、数多くの展示品を提供する。10月9日のオープンのために来日し、同館にて挨拶を行った。
    • 2005年(生誕65年・没後25年):富士フイルムのCMに出演。内容は、まず自身が出演する映像が登場し「PHOTO IS(写真は)」と英語で語り、その後、ジョンと自身が登場する写真が登場。「写真は愛」「 - あなた」「 - メッセージ」「 - 思い出」「 - 家族」「 - 笑顔」「 - 平和」と、日本語・英語双方の自身のナレーションが入り、そして前の映像が再び登場、というもの。もちろん、大半が平和のメッセージというべきものである。2006年からも、リニューアルされて放送された(内容は、写真が生前のジョンとヨーコのものから子供を写したものと、ナレーションが冒頭とエンド以外が変更されているというもの)。
    • また、ジブラルタ生命の企業CMでは、結婚した時の写真を提供している。これは、その写真の背景に、英領ジブラルタルの象徴であり、ジブラルタ生命のコーポレート・マークの由来である「ジブラルタ・ロック」があるため。
  • ニュースキャスターで、ジャーナリストの木村太郎とは幼馴染の間柄。
  • ジョンを無断で使用すると「彼女(=オノ・ヨーコ)から抗議が来る」というのは世界的に有名な逸話であり、代表的な例としては、営団地下鉄(現:東京メトロ)アンディ・ウォーホル作のジョンのコラージュを無断で色々な所に使用した結果「やめて」と抗議され、使用中止にしたというものがある。また、最近では、お笑い芸人の山下真治「ジョン・レノソ(拝啓ジョンレノン)」という名前でジョンのモノマネ芸風で売り出した後に、抗議が来るのを恐れ、別の芸風で活動する羽目になった(それが、現在の平井堅をモチーフにした「ヒライケンジ」である)、というケースがある。評論家・中山康樹はジョン賞賛、ヨーコ批判の先頭的人物であるが、著作の中で日本の評論家がヨーコを批判しないことを暗に非難している。
  • レノンは、オノに出会う前に、アジア系の女性が自分を救ってくれる夢をみていた。また、アーティストである恋人を持つのが夢だった。レノンが、オノに出会った際の感動を表した言葉は「俺より頭のおかしな奴がいる!」である。これは俺より才能があるという意味の最大の褒め言葉である。レノンは、オノが先生で自分が生徒だと発言している。
  • 夫婦仲は非常に良く、一緒にいるとオノは彼を笑わせずにはいられず、レノンはオノが小さいというだけで笑った。
  • イラク戦争時、Imagineをラジオで流すことが禁止になった。オノは、新聞にImagine Peace広告を出した。
  • 近年行ったジョン・レノン・スーパーライブで「彼は私にたくさん"I love you"と言ってくれた。私ももっとたくさん言えばよかった」と涙し、参加アーティストの1人がオノを抱きしめた。
  • 2008年学習院女子大学で講演会を行った。そこでの発言は以下である。「私たちはすべてを与えられている。退屈なんてありえない」「人生はまだまだ途中」「幸せな気持ちの人が増えればそれは連鎖し世界平和につながる」
  • LOVE PSYCHEDELICOの2人はオノの大ファンであり、音楽番組「僕らの音楽」で対談した際、2人を見たオノは「昔のあたしたちを見てるみたいで嬉しいわ」と発言した。
  • YUKIもオノのファンであり、自身の曲中「リスペクトヨーコオノ!」と叫んでいる。
  • Fantastic Plastic Machineの「Beautiful.」というアルバムはYoko Ono Lennonとマルセル・デュシャンに捧げられている。
  • 数ヶ国語を話し、歴史にも通じていて、料理の腕は一流シェフ並みである。
  • 「貧乏には耐えられる でもさみしさは さみしさには耐えられない」と語っている。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 飯村隆彦『Yoko Ono オノ・ヨーコ 人と作品』講談社1992年
  • ローリング・ストーン編『ジョンとヨーコ 愛の詩』小林宏明訳、集英社1983年
  • 『ジョン・レノン・ミュージアム・プログラム』2000年

脚注[編集]

  1. ^ Yoko Ono, “Celling Painting (YES Painting)” (1966), YES YOKO ONO, Mito Arts Foundation (2003)
  2. ^ ジョン・レノン・ミュージアム・プログラムより
  3. ^ このエピソードは『ザ・ビートルズ・アンソロジー』の中でもジョンの証言によって紹介されているが、フィリップ・ノーマン著『シャウト!ザ・ビートルズ』などの書籍では「鉄板に釘を打つパフォーマンスを試したいというジョンのリクエストにヨーコが難色を示したところ、ジョンは『君に空想のお金を払って僕は空想の釘を打とう』と提案し、それがヨーコを感動させた」という別のエピソードが紹介されている。
  4. ^ メイン・ホールではなく258席の会場
  5. ^ 飯村隆彦『YOKO ONO オノ・ヨーコ 人と作品』集英社、1992年
  6. ^ ショートバス

外部リンク[編集]