マニック・ストリート・プリーチャーズ

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Manic Street Preachers live in London in 2005

マニック・ストリート・プリーチャーズ(Manic Street Preachers)はイギリスロックバンド。愛称はマニックス(Manics)

1992年にアルバム「ジェネレーション・テロリスト」でデビュー。そのリリース時に「アルバムを世界中で1位にして解散する」と宣言し物議をかもしたが、結局アルバムはUKチャートでも1位を取れず、解散宣言は撤回される。

その後2枚のアルバムを発表し、バンドとしての評価が高くなった1995年、突如ギターのリッチーが失踪。現在に至るまで彼は見つからず、生死は不明である。

一時は解散も検討されたが、3人体制となって活動を継続。立て続けに傑作アルバムを発表したことにより、90年代イギリスを代表するロックバンドとして認知されるようになる。リッチーの家族は現在も認定死亡を固辞しており、バンドもメンバーとして印税をリッチーの家族に等分している。

目次

[編集] メンバー

  • ジェームス・ディーン・ブラッドフィールド James Dean Bradfield/ボーカル、ギター 1969年2月21日生まれ
  • ニッキー・ワイアー (本名ニコラス・ジョーンズ)Nicky Wire/Nicholas Jones /ベース 1969年1月20日生まれ
  • ショーン・ムーア Sean Moore/ドラム 1968年7月30日生まれ
  • リッチー・ジェームス(本名リチャード・ジェームス・エドワーズ)Richey James/Richard James Edwards /ギター 1967年12月22日生まれ 1995年以降行方不明であり認定死亡

[編集] バンドの歴史

[編集] 1991年まで

ベティ・ブルー(37°2 le matinというフランス映画の英語のタイトルから取られた)と名付けられたバンドが1986年にジェームス・ディーン・ブラッドフィールド(リードギター)、フリッカー(ベース)、ショーン・ムーア(ドラムス、ジェームスの従兄弟)、ニッキー・ワイヤー(リズムギター)で結成された。短い間Jenny Watkins-Isnardiがシンガーとして参加していたが、彼がバンドを辞めた後ジェームスがシンガーとなった。

1988年、フリッカーがバンドを辞め3人になり、ニッキーはリズムギターからベース担当になり、最初のシングル「スーサイド・アレイ」を自主制作で録音した。その後間もなくリッチーが正式に加入。 1990年、彼らはパンクレーベル「Damaged Goods Records」と1枚のEPの契約を交わした。4曲入りのEP「ニュー・アート・ライオット」を発表。「Hall Or Nothing」マネージメントの助けで「Heavenly Records」と契約を結び「モータウン・ジャンク」(1991年1月21日)を「Heavenly Records」での最初のシングルとして発表した。

次のシングル「ユー・ラブ・アス」を発表。今では伝説となった事件が起きる。彼らの大げさな宣伝に軽蔑した態度をとったNME誌のインタビュアー(Steve Lamacq)に対してマニックスが本物であることを証明するために「4 Real」とリッチーがカミソリの刃で自らの腕に切り刻んだ。その後まもなくソニーレコードと契約を結び、ファーストアルバムの製作にとりかかった。

[編集] 1992年から1995年

2枚組み(日本盤は1枚)のデビューアルバム「ジェネレーション・テロリスト」を発表した。バンドは世界中をツアーし、多くの国々で成功し、特に日本では熱狂的なファンに迎えられた。しかし、アメリカでは全く成功しなかった(イギリス・チャート13位)。 セカンドアルバム「ゴールド・アゲインスト・ソウル」を発表。イギリスのチャートで8位まで上昇した。 次のアルバム「ホーリー・バイブル」を1994年8月30日に発表した。彼らの批判精神を取り戻したアルバムであった(イギリス・チャート6位。このアルバムは彼らにとっても、彼らのファンにとっても重要なアルバムで後に「ホーリー・バイブル」10周年記念アルバムがリマスター、リミックス、DVD付きでリリースされた)。 しかしアメリカ・ツアー前夜の1995年2月1日リッチーはジェイムスと泊まっていたロンドンのベイズウォーターにあるエンバシー・ホテルから突然姿を消した。彼の車はセヴァーン橋付近のガソリンスタンドで発見された。バンドは6ヶ月間活動を休止したが、リッチーの家族の願いもあり活動を再開した。

なお、失踪前のリッチーに最後に接触したのは、日本の音楽雑誌『ミュージック・ライフ』(当時シンコー・ミュージック・エンタテイメント発行)の記者である。

[編集] 1996年から現在まで

リッチーが行方不明になってからの最初のアルバム「エヴリシング・マスト・ゴー」(リッチーによって書かれたかまたはニッキーと共同で書かれた4曲を含む)は圧倒的に好意的なレビューによって迎えられた。「デザイン・フォー・ライフ」は労働者階級のアンセムとなった。アルバムは1996年の「マーキュリー賞」の最終選考リストに載り、「エヴリシング・マスト・ゴー」、「オーストラリア」、「ケビン・カーター」のヒット曲を生んだ。

1998年のアルバム「ディス・イズ・マイ・トゥルース・テル・ミー・ユアーズ」も成功し、バンドのはじめてのナンバー1ヒット「輝ける世代のために」をもたらした。この曲はスペイン内戦について書かれ、ジョージ・オーウェルの「カタロニア賛歌」、クラッシュの「Spanish Bombs」にインスパイアされて書かれた。

2000年には限定版のシングル「ザ・マッシズ・アゲインスト・ザ・クラッシズ」を発表した。これは19世紀の首相ウィリアム・グラッドストンの"All the world over, I will back the masses against the classes"の言葉から名付けられた。プロモーションをほとんどしなかったにも関わらず、イギリスのシングルチャート1位を記録した。

2001年、カール・マルクスシアターでライブを行い、キューバで初めて演奏する西側のロックバンドとなった。カストロに会い、「Louder than War」と言われ、これがこのライブDVDのタイトルにもなった。(日本未発売)

2004年、アルバム「ライフブラッド」を発表するも、商業的には全英13位と失敗に終わる。

2006年、2005年から2年間の活動休止期間中にジェームスがアルバム「ザ・グレート・ウェスタン」ニッキーがアルバム「アイ・キルド・ザ・ザイトガイスト」とそれぞれソロ・アルバムを発表した。

2007年、ソロ・プロジェクトを経てバンド活動を再開し、アルバム「センド・アウェイ・ザ・タイガーズ」を発表した。シングル「ユア・ラブ・アローン・イズ・ノット・イナフ」ではカーディガンズニーナ・パーションとデュエットしている。

(以下、作成中)

[編集] 来日公演

  • 1993年 Gold against soul tour
  • 1999年 This is my truth tell me yours tour(渋谷On-Air Eastなど)
  • 2001年 フジ・ロック・フェスティバル(第1日目)
  • 2003年 Greatest Hits Tour(東京ベイNKホールなど)
  • 2005年 Life Blood Tour(渋谷AXなど)
  • 2007年 サマーソニック07(初日大阪、二日目東京)

[編集] その他

  • バンド名の由来はマニックス結成以前に路上で歌っていたジェームスが通りすがりの老人に言われた言葉から付けたという説もある。
  • リッチーの両親は美容師で兄、姉、妹がいる。日本で「根性焼き」という言葉を覚えて左腕に実践していた。
  • ショーンはゲームが好きで、来日時に10本ものソフトを買って帰ったことがある。

[編集] アルバム

  • ジェネレーション・テロリスト Generation Terrorists/1992年
  • ゴールド・アゲインスト・ザ・ソウル Gold Against the Soul/1993年
  • ホーリー・バイブル The Holy Bible/1994年
  • エヴリシング・マスト・ゴー Everything Must Go/1996年
  • ディス・イズ・マイ・トゥルース・テル・ミー・ユアーズ This Is My Truth Tell Me Yours/1998年
  • ノウ・ユア・エネミー Know Your Enemy/2001年
  • フォーエヴァー・ディレイドForever Derayed/2002年(ベスト盤)
  • リップスティック・トレイスLipstick Traces A Secret History of Manic Street Preachers/2003年(アルバム未収録・レアトラック集)
  • ライフブラッド Lifeblood/2004年
  • センド・アウェイ・ザ・タイガーズ Send Away The Tigers/2007年

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク