ハニーカムズ

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ザ・ハニーカムズ
The Honeycombs
基本情報
出身地 イングランドの旗 イングランドロンドン
ジャンル ブリティッシュ・インヴェイジョン
ポップ
ロック
活動期間 1963年 -
レーベル パイ・レコード
公式サイト www.thehoneycombs.info
メンバー
デニス・デル
マーティン・マレイ
アラン・ウォード
ジョン・ラントリー
ハニー・ラントリー
ピーター・パイ
コリン・ボイド
ロッド・バトラー
エディ・スペンス

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ザ・ハニーカムズ (The Honeycombs)は、イギリスのバンドである。

ジョー・ミークのプロデュースの下、1964年に「ハヴ・アイ・ザ・ライト」を大ヒットさせており、1966年に来日し、ライヴを行っている。

バンドの中心的メンバーは、紅一点でドラムス、ボーカル担当のハニー・ラントリーである。

メンバー[編集]

イギリス国鉄の信号係や配管工をしていたが、コンテストで優勝したことがきっかけで音楽に傾倒する。

1963年、当時マーティン・マレイがリーダーをしていたザ・シェラトンズに加入する。後にジョー・ミークのオーディションに受かり、ザ・ハニーカムズと名を変える。1964年のライヴ中に骨折したマレイの代わりにリーダーを務める。

同年、デイヴ・ディー・アンド・ザ・ボストンズ[1]というグループに出会う。当時ハニーカムズの曲を提供していたハワード=ブレイクリーのコンビに会わせ、彼等に見染められる。そして三者の間で、「コンビが作った曲を最初にハニーカムズに持って行き、断ったらデイヴ・ディー・グループに提供する」という締結が取り決められた。

1966年にハニーカムズが解散し、デルはソロ歌手としてデビューするが、ヒットには至っていない。

1994年のハニーカムズ再結成に参加。2005年7月6日、癌により死去。

8歳の時にギターを手にし、独学で習得。ハイアムズ・パークの中高一貫校に通い、そこでジョンとアンのラントリー兄妹と知り合う。

15歳の時にブラック・レベルズというスキッフルのバンドを結成。軽食堂などでライヴをしていたが、他のメンバーが引っ越してしまい、解散状態となる。次にハニーカムズの前身でもあるシェラトンズを結成し、活動している傍ら、ハックニーにある理髪店でアン・ラントリーと共に理容師として働く。シェラトンズにアラン・ワードデニス・デルが加わり、ハニーカムズとしてデビューする。

1964年10月ピーターバラでのギグ中に一人の熱狂的ファンにステージから落とされ、足と手を骨折した。代わりにピーター・パイが入る。しかし他のメンバーが有名になっていくにつれ怒りを覚えたマレイは、ハニーカムズを解散させようとする。他のメンバーはパイに正式なメンバーとして迎えることを決めていた。結局同年末に正式に脱退する。

その後はレミングスというバンドを結成しレコードデビューするも、ヒットには至っていない。プロデューサーやオーナーとして音楽界に留まる。後にマーティン・マレイズ・ハニーカムズを結成する。

ハニー・ラントリーの実兄。ハイアムズ・パークの中高一貫校でマーティン・マレイと出会う。シェラトンズにボンゴとして参加する。後にベースを習得する。

1990年代のハニーカムズ再結成に参加している。

オリジナル・メンバーの中では最年少。11年間ピアノの教育、2年間ギターの教育を受けている。ハニーカムズを辞めてからは、ウォルサムストーに楽器店とスタジオを設立する。その後も楽器店の仕事は順調にいっている。

ジョン・ラントリーの実妹。ハニーカムズに加入する前はハックニーで理髪師として働いていた。最初はギターをマーティン・マレイから習っていたが、シェラトンズのドラムが脱退すると、ドラムスに転向する。

ハニーはその流行的な髪型、更に女性ドラマーとして世の男性を釘付けにし、ハニーカムズの人気を不動のものにした。数々のテレビ出演を果たし、1967年の解散までハニーカムズのドラマーとして活動した。また、数曲でボーカルを担当している。

1990年代のハニーカムズ再結成にも参加した。そして2008年のジョー・ミークの伝記映画にも、インタビューで出演している。

  • ピーター・パイ (Peter Pye) - 1946年7月12日、ウォルサムストー生まれ。リズム・ギター担当。

マーティン・マレイの後釜として1964年に正式加入。マレイからギターを教わり、幾つかのバンドで活動した。1964年、骨折してステージに立てないマレイの代わりに加入。

ハニーカムズ解散後はソロ・デビューする。1990年代の再結成にも参加した。

コリン・ボイド (Colin Boyd、本名:Colin Nicholin Nicol) - 1946年6月4日サマセットのコンブ生まれ。リズム・ギター、ボーカル担当。

1966年、ロッド・バトラーとエディ・スペンスと共にハニーカムズに加入。最後のシングル、「ザット・ラヴィン・フィーリング」を作曲。デルの後任としてボーカルを務める。

ハニーカムズが解散すると、ボイドは「コリン・ヘアー」と名を変え、ハニーバスに加入する。

ロンドンのミルヒル生まれ。リード・ギター担当。

1966年ハニーカムズに加入。脱退したアラン・ワードに代わってリード・ギターを担当する。ハニーカムズ解散後は、マーティン・マレイのバンドに加入。

後に空手に興味を持ち、音楽活動から遠ざかる。

  • エディ・スペンス (Eddie Spence - キーボード担当。

1966年のメンバー入れ替えにより加入。解散まで在籍。

解散後は幾つかのバンドを転々としている。2000年代に入っても活動を続けている。

バンド名の由来[編集]

バンド名は、アン・ラントリーの愛称「Honey」である事と、アンやマレイが理髪師として働いていた事「理髪師=Comb」が由来となっている。

また、その当時ハチの巣型の髪型が流行っていた事「Honeycomb」とかけて名付けられた。

来歴[編集]

デビュー前[編集]

前身は、マレイがリーダーを務めていたザ・シェラトンズというバンド。ドラム担当のメンバーが脱退し、アンがドラムを担当する。シェラトンズのメンバー入れ替えにより、後のハニーカムズのオリジナル・メンバーの顔ぶれが揃う。

バンドはロンドンで活動を続け、既にイギリスのチャートトップ曲2曲をプロデュースしたジョー・ミークと出会う。

ミルドメイ・タバーンというロンドンのパブで後にハニーカムズに多数の曲を提供する作曲家デュオのケン・ハワードアラン・ブレイクリーと出会い、ハニーカムズとコンビを組む。

そして、自宅にスタジオを構えていたミークの自宅でオーディションを行う。オーディションでバンドが演奏した曲は、後にチャートの首位を記録することになる「ハヴ・アイ・ザ・ライト」であった。

ハヴ・アイ・ザ・ライトのヒット[編集]

1964年、ハニーカムズはパイ・レコードからシングル「ハヴ・アイ・ザ・ライト」でデビューを飾る。前述した通り、この曲は同年7月にチャートの首位を記録する。

またこの曲はイギリス以外の国でもヒットする。カナダオーストラリアでは1位、オランダで2位、アメリカで5位を記録するバンドの世界的なヒットとなった。更に、この曲はミリオンセラーを記録する。後にバンドはドイツ語バージョンの「ハヴ・アイ・ザ・ライト」を録音し、ドイツで21位を記録。

続く「イズ・イット・ビコーズ」、「アイズ」は好セールスには達しなかった。4枚目の、同じパイ・レコードに所属していたキンクスレイ・デイヴィス作の「サムシング・ベター・ビギニング」は39位を記録。

デビュー曲の「ハヴ・アイ・ザ・ライト」が世界中で大ヒットしたことを受け、ハニーカムズは世界ツアーを敢行した。オーストラリア極東でライヴを行った。更に日本でもライヴを行う。この模様は後に日本のみアルバム発売されている。イギリスに戻り、その日本での思い出を歌った「ラヴ・イン・トーキョー」という曲を録音している。

解散[編集]

人気グループになったハニーカムズだが、デルとハニーがボーカルを担当した「ザッツ・ザ・ウェイ」がイギリスで12位を記録して以後、シングルはチャートインしていない。

そしてデル、パイ、ワードの3 人が一気に脱退し、コリン・ボイド、ロッド・バドラー、エディ・スペンスの3人が加入する。ボイド作のラスト・シングル「ザット・ラヴィング・フィーリング」を1966年に発売。

1967年2月3日、プロデューサーだったミークの猟銃自殺により、ハニーカムズは新曲のレコーディングを止め、解散に至る。

再結成した二つのハニーカムズ[編集]

1990年代に、ハニーカムズは再結成を果たす。

しかし、それは元リーダーのマーティン・マレイが主要メンバーのハニーカムズと、デニス・デルピーター・パイジョンハニーラントリー兄妹がメンバーのハニーカムズであり、結果として二つのバンドが出来てしまった。

まず前者の方は、イタリアの起業家がマレイにハニーカムズを復活させてほしいとしていた。マレイは他のメンバーと相談したが、結局全員に断られ、新たにメンバーを募集して活動を始める。2010年代に入っても活動を続けている。

一方後者の方は、残りのメンバーが集まって、新たにポール・マッカートニー率いるウイングスの「007 死ぬのは奴らだ (曲)」を録音。1994年にはデビュー30周年を記念してコンサートを行っている。

ディスコグラフィー[編集]

シングル・ディスコグラフィー[編集]

全てパイ・レコードから発売。

発売年 A面 B面 全英シングルチャート

[2]

1964年 Have I The Right Please Don't Pretend Again 1位
1964年 Is It Because I'll Cry Tomorrow 38位
1964年 Eyes If You've Got To Pick A Baby -
1965年 Something Better Beginning I'll See You Tomorrow 39位
1965年 That's The Way Can't Get Through To You 12位
1965年 This Year, Next Year Not Sleeping Too Well Lately -
1966年 Who Is Sylvia How Will I Know -
1966年 It's So Hard I Fell In Love -
1966年 That Loving Feeling Should A Man Cry -

アルバム・ディスコグラフィー[編集]

脚注[編集]

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参考文献[編集]

関連項目[編集]