コカ・コーラ
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| 種類 | コーラ |
|---|---|
| 製造元 | ザ コカ・コーラ カンパニー |
| 発祥国 | |
| 販売開始 | 1886年 |
| 色 | カラメル E-150d |
| 関連商品 | ペプシコーラ ロイヤルクラウン・コーラ ザムザム・コーラ ヴァージン・コーラ アフリ・コーラ 他多数 |
コカ・コーラ (Coca-Cola) は、ザ コカ・コーラ カンパニーが製造販売するコーラの名称である。別称、コーク (Coke)。ともに商標登録されている。
目次 |
[編集] 概略
19世紀にアメリカで発明された世界初のコーラ飲料とされる[1]。コカ・コーラは世界的に有名であるのみならず、ペプシコーラやマクドナルドなどと並んで「アメリカ合衆国」を象徴する存在の一つである。発祥の地はジョージア州アトランタ。現在も本社はアトランタにあり、同地にある "World of Coca-Cola" という博物館には多くの観光客が訪れる。博物館では世界各国のコカ・コーラの味を比較できる。
その原液は、アメリカで調製されて世界中に広く輸出されており、世界各地のボトリング会社によってコーンシロップ、砂糖などで薄められ、更に炭酸水で割られて、瓶詰め・缶詰めされ販売される。風味はトップシークレットの香料7xと柑橘系およびスパイス系のフレーバー7~8種類程度の配合によるものと言われる。 7xの成分はコカ・コーラ社のトップシークレットであり、成分を知っているのは最高幹部のみである。脱コカイン処理されたコカの葉が成分の一部として含まれる。7xはレモン・オレンジ・ナツメグ・シナモン・ネロリ・コリアンダー・(コカ)の6種(7種)をアルコールで抽出したものだと言われている。この7xとその他のフレーバーの配合レシピのことを「フォーミュラ」と呼ぶ。フォーミュラは1984年のカンザス計画によって1度だけ変更されたが、抗議運動により3ヶ月で元に戻されて以降は変更されていない(コカインとカフェイン量を除く)。コカ・コーラ社のフォーミュラは非公開であるが、真偽不明の情報がしばしば出回っている。かつてそれを基にしてOpen Colaという製品が作られたが、コカ・コーラの味を完全に再現することはできなかった。
コカ・コーラの名称の由来となっているのは、コーラとコカインの成分を除去したコカの葉(当時はほぼアフリカ産)を原材料に使っていたからである。ただし、どちらもコカ・コーラの主成分ではなく、コーラの種も他のコーラ飲料と同様に風味にほとんど影響を与えない微量である[2]。
[編集] 歴史
[編集] 自然療法とソーダ・ファウンテンからの誕生
19世紀末期のアメリカでは、医者不足から代替医療・殊に自然療法や万能薬が広く庶民に多く受け入れられ、自然療法医や薬剤師は自らの治療法や薬剤の売り込みに躍起になっていた。
その一方で、1867年に人工的な炭酸水の製造法が発明されると、当時は何らかの効能があると思われていた炭酸水を客の注文に応じて調合して飲ませるソーダ・ファウンテンが薬局に併設されるようになった。こうして売り出された炭酸水には、当然薬効を謳うものも多く万能薬同様に売り込み競争が激しかった。
そんな自然療法家の一人に、ジョージア州アトランタを拠点に活動するジョン・S・ペンバートン (John Pemberton) がいた。南北戦争で負傷したペンバートンはモルヒネ中毒になっており、中毒を治すものとして当初注目され始めたコカインを使った薬用酒の開発を思いついた。この種の薬用酒には既に類似品が多く出回っていたので、ペンバートンは、ワインにコカインとコーラのエキスを調合したフレンチ・ワイン・コカを精力増強や頭痛の緩和に効果のある薬用酒として1885年から売り出した[3]。
フレンチ・ワイン・コカは「ドープ(dope=麻薬)」と言う渾名で人気を博したが、やがてコカインの中毒が問題となるとともに禁酒運動の席巻によりフレンチ・ワイン・コカが売れなくなる恐れが出てきた。たまたま、うっかり炭酸水を混ぜてしまったものを風味付けのシロップとして売り出すことにして、ペンバートンのビジネスに参加した印刷業者のフランク・M・ロビンソンによってコカ・コーラと名づけられた。このコーラは1886年5月8日に発売されている[4]。
[編集] エイサ・キャンドラーによる発展とボトリングの採用
ペンバートンのコカ・コーラはビジネスとして成功したものの、健康を害したペンバートンは早々とその権利をたった1ドルで売却してしまう。更に権利関係の複雑さから数年間は人から人へと権利が移り裁判で争うこともしばしばだった。
結局、コカ・コーラの権利は1888年にエイサ・キャンドラー(後にアトランタ市長)の手に落ち、キャンドラーはペンバートンの息子らと共にコカ・コーラ・カンパニーを設立する。Coca-Colaのロゴ・Delicious and Refreshing(おいしく、さわやか)のキャッチコピーと一杯5セントの大量販売、更に原液のトレード・シークレットによる機密保護によってキャンドラーのコカ・コーラ・カンパニーは多くの収益を得た。
この時代において特記すべきなのは、瓶詰めの販売方式を採用したことであろう。1899年に弁護士のベンジャミン・フランクリン・トーマスとジョセフ・ブラウン・ホワイトヘッドは、キャンドラーに直談判してコカ・コーラの瓶詰め権利を取得。二人はそれぞれボトリング会社(親ボトラー)を創立し、その会社が更に全米各地のボトリング工場(現地ボトラー)とフランチャイズ契約することでコカ・コーラは広く全米に普及していった。ただ、最初のうちはボトリング技術の未熟から瓶が爆発する事故も頻発し、1913年に品質管理と訴訟対応のためにボトラーをボトラー協会の下に組織化することになった。そして1916年にはコーラの瓶の標準化を行った。
[編集] FDAとの紛争
1903年、アメリカ国内でのコカイン販売が禁止される。このためキャンドラーは原液の処方からコカインを取り除くことで事態に対処するが、一方で内国歳入庁との裁判闘争や類似品や商標の侵害に対する訴訟に明け暮れていた。
しかし何よりもキャンドラーを悩ませたのは、ハービー・ワシントン・ワイリー率いるアメリカ食品医薬品局 (FDA) との長きに渡る紛争なのは間違いない。FDAは、コカ・コーラに含まれているカフェインの毒性やボトリング工場の衛生の悪さを問題視し、1909年に原液を押収した上で裁判に訴えた。結局のところ(FDA側の証人の主張が余りに不適切に過ぎたため)コカ・コーラ・カンパニーは裁判に勝ったものの、原液に含有しているカフェインの量を減らさざるを得なかった。
[編集] ロバート・ウッドラフの登場
FDAとの紛争に決着がつき、第一次世界大戦下の砂糖相場の乱高下を乗り切ったが、1919年に投資家のアーネスト・ウッドラフがキャンドラーにコカ・コーラ・カンパニーの企業買収をもちかける。キャンドラーは多額のキャピタルゲインを得て経営から手を引き、新たにウッドラフによってデラウェア州で設立された会社が、コカ・コーラ・カンパニーの商標と事業を引き継いだ(このため公式的には1919年設立になっている)。
アーネスト・ウッドラフによる買収から4年が経った1923年、アーネストの息子のロバート・ウッドラフ (Robert W. Woodruff) が父親の反対を押し切って社長の座に就く。以後ロバートは60年以上も同社に君臨し、経営の采配を振るうことになる。折りしも1920年代、禁酒法によりアルコールが販売禁止になり、ノンアルコール飲料の売れ行きが伸びた。その中でロバートは、広告に力を入れると共に瓶入りコカ・コーラの拡販にも注力、品質管理を徹底した。
またコカ・コーラが海外へ進出したのもこの頃である。コカ・コーラ本体が原液を製造・供給して、ボトラーが瓶詰めするというスタイルはここでも採用された。特にドイツでは1930年に現地法人の責任者となったマックス・カイトによって売り上げを伸ばし、ベルリンオリンピックでもコカ・コーラを提供する栄誉に与った。しかし、第二次世界大戦が勃発し原液の輸入が制限されると何とか原料を遣り繰りしながら、乳清とフルーツの絞り粕を原料に新たに飲料を製造。これはファンタと名付けられて、後にコカ・コーラの世界的な商品となった。
[編集] 「技術顧問」
世界大恐慌の打撃は軽微に済み禁酒法の廃止も左程業績に響かなかったものの、1930年代に入るとペプシコーラが低価格路線で販売攻勢に打って出てコカ・コーラの地盤を脅かし始めた。
が、第二次世界大戦が始まると、ロバートは以下の様に宣言し戦争への協力姿勢を示した。
我々は、軍服を着けた全ての兵士が何処で戦っていようとも、またわが社にどれだけの負担がかかろうと、5セントの瓶詰めコカ・コーラを買えるようにする。
加えてロビー活動を熱心に行い、その結果コカ・コーラは「兵士たちの士気高揚に果たす重要な役割」を持つ軍需品として認可。コカ・コーラへの砂糖の配給制も免除される特典も受けた。更に、政府の出資で世界60ヶ所にボトリング工場が建設され、そこで働くスタッフは技術顧問(TO)として軍人同様の待遇が与えられた。
当然のことながらアメリカ軍の指揮官にも、コカ・コーラは人気の的だった。中でもドワイト・D・アイゼンハワーは、1943年6月29日にジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長に以下の電報を送っている。
300万本の瓶詰めコカ・コーラ、月にその倍は生産できるボトリング装置一式、洗浄機および栓を至急送られたし
マーシャルはこの電報を受けて、海外の駐留部隊に必要且つ便利な物品を充分な量入手させよと命令書を発している。
また、ソビエト連邦の指揮官だったゲオルギー・ジューコフも、コカ・コーラが大のお気に入りだった。アメリカの飲み物だと言うことが判らないように、マーク・クラーク将軍を介して無色透明のコカ・コーラを特別注文して密かに送らせている。
指揮官ばかりでなく前線で戦う兵卒にも、コカ・コーラは大人気だった。イタリア戦線ではコカ・コーラ1瓶が4,000ドルの値をつけたこともあり、ソロモン諸島の戦いでは日本の戦闘機を撃墜した褒美としてコカ・コーラ1瓶が与えられたという逸話すら残っている。更にコカ・コーラの空き瓶は、代用の電気絶縁体や(戦闘機のタイヤをパンクさせるための)"爆弾"・(非常食とする)ウミガメを捕るための武器・小便器として使われたりもした。瓶を積めるケースは郵便箱や道具箱として重宝したし、コカ・コーラで歯磨きをする兵士もいれば、恋人にコカ・コーラで膣を洗うのを薦めるのもいたくらいである。
極めつけは、ある技術顧問がカンヌの将校クラブでカトリック教会の神父相手にコカ・コーラで法王に祝福を受けて貰えば?と冗談交じりに話したところ、バルジの戦いで神父が聖水の代わりにコカ・コーラで洗礼を施していたのを目にしたというエピソードであろう。
[編集] 資本主義の象徴
第二次世界大戦にアメリカ軍の軍需品として世界に広まったコカ・コーラは、冷戦の最中資本主義の象徴として扱われることになった。特に海外進出の際に現地でパートナーとした企業の多くが、有力者や大地主・財閥、時にはアメリカ資本の多国籍企業だったりしたことがそのイメージに拍車をかけることになった。
そのため資本主義陣営=西側への反対が、しばしばコカ・コーラへの攻撃と結びつくことも多かった。特にヨーロッパでは、マーシャル・プランに反対する左翼がコカ・コーラ排斥の先頭に立ち、時として民族資本の飲料メーカーや酒造メーカーがこれを後押しするという現象が目立った。
東側への進出でもペプシに後れを取った。ソビエト連邦への進出は1978年まで待たねばならず、アラブ・ボイコットの影響で中東でも進出が進まなかった。逆に中華人民共和国へは、1978年にアメリカ企業として初めて進出を果たし、3年間市場を独占した。
[編集] カンザス計画と「ニュー・コーク」の失敗
1970年代半ば以降、ペプシがコカ・コーラとの比較広告によって売り上げを伸ばし、各種の市場調査や味覚調査でもペプシに軍配があがるなど、コカ・コーラの先行きには不安が付きまとっていた。
当時CEOだったロベルト・ゴイズエタとCOOだったドン・キーオは、カンザス計画と呼ばれる秘密計画を実行。発売100周年の1986年を前にコカ・コーラの味を根本的に変えるという挙に出た。当時臨終の淵にあったロバート・ウッドラフを説得して綿密な市場調査と広告戦略を駆使、1985年4月24日にニュー・コークとして発売した。
しかし、ニューコークは消費者の不評を買い、コカ・コーラには抗議の手紙や電話が殺到する事態に。わずか2月半後の7月10日には、元のコカ・コーラをコカ・コーラ・クラシックとして再び販売せざるを得なくなっていった。
『コカ・コーラ帝国の興亡』の著者、マーク・ベンダグラストは「ニュー・コーク」の失敗を以下のようにまとめている。
ニュー・コークの大失敗の結果、元のコークは400万ドル以上にも相当する宣伝効果に浴し、その効果と比べればコカ・コーラ社の下手な広告は役立たずも同然だった。今や由緒あるコーラは復活し、再びアメリカ一の清涼飲料の地位を取り戻した。ゴイズエタとキーオは図らずも、このマーケティングの失敗を見事なビジネス上の手柄に変えたのだった。
– マーク・ベンダグラスト『コカ・コーラ帝国の興亡』
[編集] コカ・コーラに関する都市伝説
コークロアも参照のこと。
コカ・コーラに関する都市伝説は数多い。民間伝承(フォークロア)とひっかけて、コカ・コーラに関する都市伝説を諧謔的にコークロアと呼ぶ(ブルンヴァン等)。
多くの都市伝説が根も葉もない噂なのに対し、コカ・コーラの場合そのほとんどが部分的に真実を含むのが特徴である。以下、代表的なコカ・コーラ伝説を解説する。
[編集] コカ・コーラの瓶は女性のボディーラインを参考にした
コカ・コーラの独特の「くびれ」のある瓶(コンツアー・ボトル)は、女性のボディーライン、または、この当時流行したスカートを参考にデザインされたものと言われているが、この話は事実ではない。
くびれを作った理由は、暗闇でも触ってすぐわかるようにするためと、1900年代初めにアメリカでは1,000種類以上の偽物が出回ったので、その類似品対策として、複雑な形の瓶にしたものである。
アメリカン・スポーツカーのひとつ、シボレー・コルベットの3代目(1970年代)モデルは、大胆に膨らんだ前後フェンダーとくびれたように見えるボディ中央部がコーラのビンを連想させたことからコークボトルというニックネームがある。
また、自動車レースフォーミュラ1のレーシングカーは、空気抵抗を減らすために後輪周辺のボディの形状がちょうどコーラのビンを連想させる絞り込まれた形であるため、これもまたコークボトルと称される。レーシングカーデザイナー、ジョン・バーナードが1983年のマクラーレンMP4/1で採用すると、またたく間にその形状は他のチームにコピーされ、現代においてはすべてのフォーミュラ1レーシングカーはコークボトル形状である。
ちなみに、ヴァージン・コーラのペットボトルのデザインは、女優パメラ・アンダーソンのボディラインを模して作られている。
[編集] コカ・コーラには辛口と甘口がある
コカ・コーラのガラス製瓶には、側面下部に四角型または丸型のへこみが刻印されていた。刻印が四角型の瓶は炭酸の強い「辛口」であり、刻印が丸形の瓶は炭酸の弱い「甘口」であるとする都市伝説がかつて存在した。
実際には、瓶の製造工場ごとに異なる刻印がなされていただけであり、コカ・コーラはリターナブル瓶であったため、ボトラーによる回収再使用過程において、刻印の異なる瓶が混ぜられて出荷されたものであった。この刻印は瓶表面にコーラのデザインをプリントするときに瓶成形金型の割り痕の上にプリント部がこないように方向を規制する為に使われていたものである。瓶製造メーカーの工場設備によって丸型・四角型のほうが固定しやすいといった違いがあったためである。ちなみに丸型が石塚硝子製、四角型が日本山村硝子製となっている。
[編集] サンタクロースが赤い服を着ているのはコカ・コーラのCMが元祖
この都市伝説によれば、サンタクロースはもともとの伝承では緑の服を着ていたが、コカ・コーラ社がCM(看板)でコカ・コーラのシンボルカラーである赤い色の服を着たサンタクロースを登場させたため、赤い服のサンタクロースが広まったことになっている。
しかし、現在のサンタクロースのイメージの元となったとされる、ニューヨークの画家、トーマス・ナストが19世紀に描いた聖ニコラウス像において、ニコラウスは赤いマントを羽織っており、このマントが変化してサンタクロースの赤い服になったのだという[5]。
また、1914年の日本の児童雑誌『子供之友』には、現代のサンタクロースと全く同じイメージの、大人の背丈で白髭に赤い服を着たサンタクロースが描かれている。さらに当時の輸出用クリスマス用品のサンタクロース人形もこの姿でもあった(当時の日本は、第一次世界大戦で疲弊した欧州に代わって、世界一のクリスマス用品生産国となっていた)。従って遠く日本にも伝わるほど定番となっていた赤い服のサンタクロースの姿を、1931年になってからコカコーラ社が広告に採用した、ということが事実である[6][7]。
[編集] コカ・コーラは民主党、ペプシコーラは共和党
コカ・コーラ社は民主党と親しく、ペプシコーラ社は共和党と親しいため、「米大統領が交代すると、ホワイトハウス内のコーラも代わる」とする都市伝説があるが、現実には共和党出身の大統領だったドワイト・D・アイゼンハワーと親しかったりするなど共和党とも無縁と言うことは無く、あくまで噂の範囲を出ない。ちなみにコカ・コーラの筆頭株主であるバークシャー・ハサウェイ社を率いるウォーレン・バフェットは民主党支持者としても有名である。
[編集] コカ・コーラの成分に関する都市伝説
コカ・コーラ社が香料のレシピを公開していないことから、原材料に関しても様々な都市伝説が生まれている。
そのひとつに、コカ・コーラのレシピを知っているのは2人の重役だけというのがある。2人である理由は1人が突然事故などで死んでももう1人が知っているので存続できるからである。それ故この2人が同じ飛行機に搭乗することはないという。[8]。
ブタの血が材料に含まれているという噂が流れたときには、ブタの食用を禁じるイスラム教徒への売り上げが激減したという[2]。
[編集] 月面のコカ・コーラの瓶
オーストラリアのバーク地方のみに流布されている都市伝説である。アポロ計画で月から中継された映像で、宇宙飛行士がコカ・コーラの瓶を蹴っていたというものである。月着陸10周年記念に放送されたオーストラリアのラジオ番組内でのギャグから広まったものと見られている[9]。
[編集] 日本におけるコカ・コーラのバリエーション
日本では、大正時代に輸入された。 以下の商品が販売されている(ただし、地域によって異なることがある)。なお、以前はパッケージに記載されていた販売者は「コカ・コーラ ナショナルビバレッジ(株)」となっていたが、事業再編に伴って、2008年12月以降に発売された製品(改良品を含む)の販売者は「コカ・コーラ カスタマーマーケティング(株)」に変更されている。
[編集] 現行
- コカ・コーラ
- コカ・コーラ プラス
- コカ・コーラ ゼロ
[編集] 過去の商品
- コカ・コーラ C2
- コカ・コーラ シトラ
- コカ・コーラ ライト
- ダイエット コカ・コーラ
- ダイエット コカ・コーラ レモン
- ダイエット コーク
- カフェインフリー ダイエットコーク
- ノーカロリー・コカ・コーラ
- ノーカロリーコカ・コーラ プラスビタミン(現:コカ・コーラ プラス)
- コカ・コーラ レモン
- バニラ コカ・コーラ
- チェリーコーク
[編集] 日本におけるこれまでのコカ・コーラCM
1968年のサーフィン編までは白黒で制作されていた。1968年のテレフォン編で初めてカラー化された。
[編集] 品目・出演タレント等
- 『コカ・コーラの唄』フォー・コインズ(コーラスグループ)
- 初めてのテレビCM「コカコーラ買ってきた(地球)」編からストップモーション・アニメーションによる「人形」編、実写による花火編、海編、山(バイキング料理)編があり、後述する1967年の加山雄三が出演したスキー編、音楽編、船編などもフォー・コインズがバックグラウンドコーラスを挿入している。
- コカ・コーラ 加山雄三
- 日本における初めてのコカ・コーラCMタレント
- コカ・コーラ ピンキーとキラーズ
- コカ・コーラ グレン・キャンベル、ダイアナ・ロス、スタイリスティックス
「カミング・ホーム」がイメージ・ソングとして使われ、グレンVersionは日本でのみシングルカットされヒット。
- スプライト(1リットル瓶) 山岡久乃
- コカ・コーラ(夏のキャンペーン) 沢田研二
- コカ・コーラ 松山千春
- コカ・コーラ 早見優
- コカ・コーラ BLACK CATS
- コカ・コーラ BLACK CATS
- コカ・コーラ 松本孝美
- コカ・コーラ 加勢大周
- コカ・コーラ・ライト(電話)りょう
- コカ・コーラライト(軽い気分)りょう
- コカ・コーラライト(ドライブインシアター)りょう
- コカ・コーラライト(髪を切る)りょう
- コカ・コーラライト(気分のダイエット)りょう
- コカ・コーラライト(観覧車)りょう
- コカ・コーラ(No Reason! キャンペーン) 桑田佳祐
- CMソングとして「可愛いミーナ」「ROCK AND ROLL HERO」「影法師」が起用。(同年末終了)
- コカ・コーラ(No Reason! キャンペーン) 東山紀之・堂本光一・井ノ原快彦・嵐・岡田准一・山下智久
- CMソングとしてKinKi Kidsの「永遠のBLOODS」、嵐の「ハダシの未来」が起用された。
- コカ・コーラC2「中田のマイ・コーク」 中田英寿
- コカ・コーラC2「それぞれのマイ・コーク」 渡瀬広子
- コカ・コーラC2「よくばり」 井上訓子・里中あや・片山怜雄
- CMソングとしてエアロスミスを起用。
- コカ・コーラ 「正月のバトン 篇 」木南晴夏
- コカ・コーラ(Coke, Please! キャンペーン)横山剣(クレイジーケンバンド)→明石家さんま→KREVA+I.B.B
- 初期のCMソング「スカッとさわやか」の歌がニューアレンジで復活。
- ダイエットコカ・コーラ 「空港」「チアリーダー」(Coke, Please! キャンペーン) 倖田來未
- コカ・コーラゼロ 「ガードル編」 照英、小手伸也
- ノーカロリーコカ・コーラ 「ギャラリー編」 サラ・ジェシカ・パーカー
2008年7月にはエイベックスより1962年より1989年までのTVコマーシャルを収録した『The Coca-cola TVCF Chronicles』(DVD)がリリースされている。これによれば1968年より1990年までマッキャンエリクソン(広告代理店・1968年当時は博報堂との提携企業)の坂田耕がTVCM制作にかかわっていた。
[編集] 歴代のCMソング
- 1962年
- 「コカ・コーラの唄」(フォー・コインズ)
- 1970年
- 1972年
- 「コークの世界」(西郷輝彦)
- 「愛するハーモニー」(ザ・ニュー・シーカーズ)
- 1973年
- 1974年
- 1977年
- 「Come on in. Coke'77」(トランザム)
- 1978年
- 「Come on in. Coke'78」(トランザム、サーカス)
- 1979年
- 「Come on in. Coke'79」(サーカス)
- 1980年
- 「THIS IS A SONG FOR COCA-COLA」(矢沢永吉)
- 1982年
- 「YES MY LOVE -愛はいつも-」(矢沢永吉)
- 1983年
- 「Sing a Song」(松山千春)
- 「夏色のナンシー」(早見優)
- 「Brown Coke」(渡辺貞夫+カシオペア)
- 1984年
- 1986年
- 「太陽にPUMP!PUMP!」(EPO)
- 1987年
- 「I feel Coke'87」(佐藤竹善)
- 1991年
- 「さわやかになるひととき」(楠木勇有行)
- 1993年
- 「Lyric Logo」(楠木勇有行)
- 「ふたりのオルケスタ」(久保田利伸)
- 1994年
- 1995年
- 「情熱男・灼熱女(ナツオトコ・ナツオンナ)」 (永岡昌憲)
- 2001年
- 2002年
- 「可愛いミーナ」(桑田佳祐)
- 「ROCK AND ROLL HERO」(桑田佳祐)
- 「影法師」(桑田佳祐)
- 2003年
- 「永遠のBLOODS」(KinKi Kids)
- 「ハダシの未来」(嵐)
- 2005年
- 2006年
- 2007年
なお1991年以前のCMソングは「コカ・コーラCMソング集 1962-89」(ジェネオンエンタテインメント、2005年)、「コカ・コーラCMソング集Super More」(ジェネオンエンタテイメント、2006年)という2枚のコンピレーション・アルバムにまとめられている。
[編集] キャッチコピー
ほとんどが日本国内で独自に考案されているが、英文コピーの中には本国アメリカでも高い評価を受けたものが多い。
- 1959年 「スカッとさわやかコカ・コーラ」
- 1960年代 「コークと呼ぼうコカ・コーラ」
- 1970年 「Big New Life」
- 1971年 「The Real Life」
- 1973年 「うるおいの世界」
- 1976年 「Come on in Coke」
- 1980年 「Yes Coke Yes」
- 1985年 「Coke is it!」- ニュー・コーク発売の際に世界共通のキャッチコピーとして使用。
- 1987年 「I feel Coke」
- 1991年 「さわやかになるひととき。」
- 1993年 「Always Coca-Cola」
- 1995年 「Nothing,but Coke」
- 1999年 「Live the Moment」
- 2000年 「Enjoy」
- 2001年 「Life Tastes Good」
- 2002年 「No Reason」
- 2004年 「Special Magic」
- 2005年 「つながる瞬間(とき)に。Coca-Cola」(提供クレジット用のキャッチとしては「人と人をうるおすコカ・コーラ」)
- 2006年 「Coke,please! - スカッとさわやかコカ・コーラ」
- 2007年~ 「the Coke Side of Life(Cokeのきいた人生を)」 - このキャッチコピーのみ世界共通のものを使用している。
[編集] (^^)について
コカ・コーラのTVCMの中で、CMの最後にインターネットの検索窓を模した枠のなかに「(^^)」と書かれて、検索ボタンがクリックされている様子が流れたものがある。これは、「(^^)」という言葉を使って検索をするように促しているものであった。
- 実際大手検索サイトでは、通常記号のみの検索は出来ない仕様になっている。
- Yahoo! JAPANでは(^^)_コカ・コーラという予測機能が働いてしまっている。
[編集] GTA酷似CMについて
2006年に、アメリカのコカ・コーラのCMでゲームソフト「Grand Theft Auto」(GTA) のゲーム画面にそっくりのCMが放映され、その動画がYouTubeにアップされる事で日本でも視聴可能となり、GTAのコアなファンや一般視聴者に話題を呼んだ。好評を博した理由は、CMの内容が余りにもGTAとかけ離れた平和的かつフレンドリーな描写になっており、視聴者の笑いを誘った為らしい。なお、一部のシーンにはGTA的な要素(クルマのドライバーを強制的に降ろすなど)も見受けられる。このCMは2007年から日本でも、コカ・コーラ公式サイトでアメリカ放映版がそのまま視聴できた他、テレビCMでは30秒に編集され『いい人のフリ?それとも、ホントにいい人?』編として放送された。
[編集] 関連項目
- ジンジャーエール
- ドクターペッパー
- ペプシコーラ
- インカ・コーラ
- コカコーラ・キッド("The Coca-Cola Kid" オーストラリア映画:コカコーラの熱狂的な信奉者である主人公の物語[10])
- 高村光太郎(「狂者の詩」にて「コカコオラ」の文字が登場する)
- 青酸コーラ無差別殺人事件
- 熱闘甲子園
- 東海クラシック(毎年東海テレビ放送の主催により愛知県で開催されているプロゴルフトーナメント。現在、男子の大会の特別協賛を務めている)
- カクレカラクリ(コカコーラ120周年記念のために森博嗣が書き下ろした小説)
- メントスガイザー (コーラとメントスで作る噴水)
- Jリーグ(2009年からオフィシャルスポンサー)
[編集] 脚注
- ^ 『大事典desk』講談社、1983年
- ^ a b ウィリアム・パウンドストーン「コカ・コーラの堅いガードをかいくぐる」『大秘密 噂・都市伝説・憶測の真相あばきます』田村義進訳、ハヤカワ文庫、2001年、pp.42-78
- ^ "Coca-Cola — Our Brands" (). 2007-02-11 閲覧。
- ^ "The Chronicle Of Coca-Cola" (). 2007-11-28 閲覧。
- ^ 「サンタは赤い服を着ていなかった?」 日本テレビ『世界一受けたい授業』公式サイト
- ^ 『クリスマス~どうやって日本に定着したか』(クラウス・クラハト、克美・タテノクラハト、1999年、角川書店、ISBN 4-04-883598-X)
- ^ 都市伝説in米国)
- ^ Urban Legends Reference Pages: Cokelore
- ^ 山本弘 (作家)、植木不等式、江藤巌、志水一夫、皆神龍太郎『と学会レポート 人類の月面着陸はあったんだ論』楽工社、2005年、pp.129-131
- ^ 「コカ・コーラキッド」Movie Walker内キネマ旬報DB
[編集] 外部リンク
- The Coca-Cola Company (英語)
- 日本コカ・コーラ株式会社 (日本語)
- I LOVE COKE! (日本語)ファンサイト

