ザ・タイガース
| ザ・タイガース | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 出身地 | |
| ジャンル | ロック ポップス 歌謡曲 |
| 職業 | グループサウンズ |
| 活動期間 | 1967年 - 1971年 1981年11月 - 1983年 |
| レーベル | (1967年-1971年)日本グラモフォン (1981年)ポリドール・レコード (1982年-1983年)ポリドール・ジュリーレーベル |
| 事務所 | 渡辺プロダクション |
| 共同作業者 | すぎやまこういち 渡辺晋 渡辺美佐 |
| メンバー | |
| 沢田研二(ボーカル・タンバリン) 岸部一徳(ベース・コーラス) 加橋かつみ(ギター・ボーカル・コーラス) 森本太郎(ギター・コーラス) 岸部シロー(ギター・タンバリン・コーラス) 瞳みのる(ドラムス) |
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ザ・タイガース(The Tigers)は、日本のグループ・サウンズ。
1967年2月に「僕のマリー」でデビュー、「モナリザの微笑」、「君だけに愛を」など数多くのヒット曲を放ち、グループサウンズ(GS)の王者として君臨し、ブームの最盛期を支え、デビューから解散までの4年間、ビジネスとして成り立った唯一のグループサウンズである。
1971年の日本武道館コンサートを最後に解散。その後1981年11月に同窓会と銘打って再結成した( - 1983年)。
目次 |
メンバー [編集]
- 沢田研二(ジュリー)(1948年6月25日 - )身長171cm、体重51kg、ボーカル、タンバリン
- 岸部修三(サリー、後に岸部一徳に改名)(1947年1月9日 - )身長181cm、体重65kg、ベース、コーラス
- 加橋かつみ(トッポ)(1948年2月4日 - )身長165cm、体重50kg、リードギター、コーラス、ボーカル
- 森本太郎(タロー)(1946年11月18日 - )身長178cm、体重58kg、ギター、コーラス
- 瞳みのる(ピー)(1946年9月22日 - )身長165cm、体重48kg、ドラムス
- 岸部シロー(シロー)(1949年6月7日 - )身長187cm(ダウンタウンDX出演時の本人談、現役時は185cmと表記)、体重67kg、ギター、タンバリン、コーラス
- 1969年3月に脱退した加橋かつみに代わって参加。岸部修三の実弟。
1981年 - 1983年の同窓会時のメンバーは沢田、岸部兄弟、加橋、森本の5人で瞳みのるは不参加。
身長及び体重は現役当時のもの。
来歴 [編集]
原型は沢田研二を除く4人で1965年に京都で結成された「サリーとプレイボーイズ」。当初は、ベンチャーズなどのエレキインストナンバーを主なレパートリーにしていたが、同年12月に「サンダース」で活動していた沢田研二の加入で歌主体のいわゆるボーカル・インストゥルメンタル・グループへと路線変更。バンド名も「ファニーズ」に改称する。
当時、メンバー全員がファンクラブに加入していたザ・スパイダースの田邊昭知より「上京するならスパイダクション(現田辺エージェンシー)へ来ないか」と誘われたこともあった。[1]
大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」の楽屋へ向かう階段でブルージーンズの内田裕也から『君たち、俺と一緒にやんねぇか?』と声を掛けられたことがきっかけでナベプロ(渡辺プロダクション、現在のワタナベエンターテインメント)に所属する運びとなる。
1966年11月9日、新幹線こだまで上京。11月15日、初出演のテレビ番組「ザ・ヒットパレード」(CX系列)収録当日、関西出身ということからすぎやまこういちによってバンド名をザ・タイガースに変更させられる。[2]また、当時アメリカ、カナダ、イギリス、そして日本などでビートルズを凌ぐ大人気だったアイドルグループ「モンキーズ」の存在を意識して動物名となった説もある。[3]
初のテレビ出演では、当時アメリカ本国に於いてモンキーズに次ぐアイドル人気となっていた元祖パンクロックバンドであるポールリビアとレイダースの『KICKS』を演奏。[4]
1967年2月5日発売のシングル『僕のマリー』(1966年12月の録音時点でのタイトルは『マリーの想い出』)でデビュー。この頃、メンバーのニックネームが決まり、沢田は女優ジュリー・アンドリュースから「ジュリー」と名乗るようになる。岸部は背が高かったことから、リトル・リチャードのシングル『のっぽのサリー』にかけて「サリー」、森本は本名から「タロー」、加橋はトッポ・ジージョに似ていることから「トッポ」、瞳はキューピーに似ていることから、幼少のころに乳母から呼ばれた二ックネームの「ピー」と呼ばれることになった。5月発売のセカンド・シングル『シーサイドバウンド』で人気に火がつき、8月発売のサード・シングル『モナリザの微笑』で一気にマスメディアからクローズアップされ、折りからの爆発的なグループ・サウンズ(GS)ブームも相なって、ザ・タイガースは瞬く間にトップ・アイドルへと躍り出る。
1968年には『君だけに愛を』のヒットに続き、3月発売の『銀河のロマンス/花の首飾り』がオリコンシングル・チャートの1位を7週間連続で獲得、68万枚を売り上げた。7月発売の『シー・シー・シー』も6週1位となり、51万枚を売り上げた。
1968年8月12日に日本初のスタジアム・ライブとなる「ザ・タイガース・ショー〜真夏の夜の祭典」を後楽園球場で開催。11月25日には、トータル・コンセプト・アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』[5]を発売し、社会現象とまで言われた圧倒的な人気の渦中でザ・タイガースはGSブームの頂点に立つ。[6]
しかし、1969年3月に加橋かつみがザ・タイガースを脱退(所属事務所の演出による「加橋失踪」という茶番劇で、後に事務所側は謝罪会見を開いた)。事務所のシナリオ通りに新メンバーとして岸部の弟・岸部シローが加入するも[7]、1969年も夏に差し掛かる頃には急速に音楽シーンが多様化、GSブームも終焉の兆しを見せ始める。そんな中、7月にはほぼ完全に沢田のソロシングルとも受け取れるような『嘆き』(岸部シローの薄いコーラス程度)を発売、秋からは日増しにグループとしての活動よりもメンバー個々の活動が中心となっていった。その後12月1日に沢田は初のソロ・アルバム『JULIE』を発表する。
1970年4月26日には日本万国博覧会のEXPOホール・水上ステージにて「ザ・タイガース・ショー」を開催するなど根強い人気を保つものの12月7日、ザ・タイガースは解散を表明。翌1971年1月24日、日本武道館における「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」を事実上の解散コンサートとして、ザ・タイガースは解散する(武道館では以前、新曲発表会を開いているので初演ではない)。この模様は日曜日ということもありニッポン放送で3時間にわたり生中継され、テレビでは録画で1月30日にフジテレビで放映された。また、大幅に編集された実況録音盤(ライブアルバム)『ザ・タイガース・フィナーレ』として同年に発売された。
再結成 [編集]
解散後、瞳を除くメンバーで何度か再結成され、コンサート活動も行った。
1981年1月、東京・有楽町の日劇が取り壊されるのを前に、「さよなら日劇ウエスタン・カーニバル」が開催され、ザ・スパイダース、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ザ・カーナビーツなど往年の人気GSが再結成して集結。瞳以外のメンバーが結集しザ・タイガースも再結成する。
翌1982年には「ザ・タイガース同窓会」と銘打って本格的に再結成。ただし瞳みのるに配慮して「来たい人だけ来ればいい」という意味合いから一貫して「同窓会」の語を用い、自分たちは「再結成」とは決して称しなかった。アルバム『THE TIGERS 1982』やシングル『色つきの女でいてくれよ』をリリースし、大ヒットとなる。日本武道館を含む全国主要都市でのツアーも展開された。コンサートのビデオ、写真集なども発売され、CM出演とシングル発売は1983年まで続いた。
1989年12月31日には、NHK紅白歌合戦に初出場。紅白40回記念大会の昭和を振り返るコーナーに紅組のピンク・レディーとともに出演し、『花の首飾り』、『君だけに愛を』を演奏する。
2013年1月6日の沢田研二正月ライブにて、『オリジナル・メンバーでのザ・タイガース復活』を沢田自らが発表。12月に東京ドームなどでライブを開催する予定[8]。瞳みのると加橋かつみが入ったオリジナル・メンバーでの活動は1969年以来、44年ぶりとなる。
その他別名義での活動 [編集]
1971年に沢田と一徳はザ・スパイダース、ザ・テンプターズのメンバー数人とスーパーグループ「PYG」を結成。
詳細は「PYG」を参照
1988年に森本が中心となり、往年の人気GSの中心メンバーがそろって「タイガース・メモリアル・クラブバンド」を結成、アルバム制作やコンサート活動を行った。アルバムでは「花の首飾り」を瞳を除くメンバーで新録音している。また、本人たち出演のカラオケ「DAM」では、沢田と瞳を除く4人が出演している。
1989年には、大阪城ホール及び横浜アリーナで開かれた「タイガース・メモリアル・クラブ・バンド」コンサートに瞳を除く5人のタイガースでトリで出演。ジョイント演奏コーナーが大半を占める中、単独で数曲を演奏した後に、「シーサイド・バウンド」で他の出演者も加わって演奏し、フィナーレへと進んだ。[9]。
1993年には森本、加橋、シローに岩本恭生を加えた構成で「ザ・タイガースマニア」というユニットで活動しシングルをリリースしている。
1997年には、森本、一徳、沢田がロックユニット「TEA FOR THREE」を結成し、CDシングルを発売、ラジオ番組のパーソナリティなども務めたが現在は活動を休止している。
2003年には、解散後、ザ・タイガースの元メンバーと一切の交流を絶ち、古文・中国語関連の参考書の著者および慶應高校の教師として中国語教育に力を入れていた瞳に捧げ、沢田と一徳が作詞を手がけた曲『Long Good-by』が、森本率いる「森本太郎とスーパー・スター」のオリジナル曲として発表された。また、沢田自身もこの曲を2008年9月24日に出演した『SONGS』(NHK総合テレビジョン)にて歌唱している。元マネージャーの中井國二の尽力や、瞳の心境の変化、そしてこの曲による呼び掛けがきっかけとなり、その年の暮れに沢田、一徳、森本と瞳が38年振りに東京で再会を果たし、翌年には加橋と瞳も再会した。
2011年9月8日に開始された沢田研二の2011年 - 2012年ライブツアー(全公演38回)に岸部一徳、森本太郎、瞳みのるがゲスト参加することが決定した[10]。切符の発売当日に、大都市開催分は即日完売となり、特に瞳の40年ぶりの参加が大きなインパクトとなった。そして2012年1月24日の沢田研二ライブツアー最終日(日本武道館)にて、岸部四郎が脳梗塞で2003年に倒れてから療養中の躰を押してゲストとして登場、第二期ザ・タイガースが1971年1月24日の解散ライブ以来勢揃いした[11]。
社会現象 [編集]
魅惑的な大きな瞳に端整かつ甘美なルックスで他の男性歌手とは明らかに一線を画していた沢田は10代少女から熱狂的な人気を博し、一躍芸能界を代表する国民的なアイドルとなる。[12]
その反面、当時は不良の代名詞とされた長髪やエレキという要素に加え、異常ともいえる人気の過熱ぶりはコンサート会場での転倒事故や、女子高生によるコンサート入場券偽造事件などという不幸な結果を招き、世の大人たちはGSブームを煙たがり、NHKはザ・タイガースの出演を拒否した(既にNHKの冠番組「歌のグランドショー」用に収録済の映像もあったが、転倒事故を理由に放送中止となった)。以後、沢田は1970年に歌わないことを条件に単独出演した後はソロ活動中の1972年までNHKに出演することはなかった。[13]
ディスコグラフィ [編集]
アルバム [編集]
加橋かつみ在籍期 [編集]
- THE TIGERS ON STAGE(1967年11月5日)
- 世界はボクらを待っている(1968年4月20日)
- ヒューマン・ルネッサンス(1968年11月25日)
岸部シロー在籍期 [編集]
- THE TIGERS AGAIN(1970年9月15日)
- 自由と憧れと友情(1970年12月15日)
- ザ・タイガース・サウンズ・イン・コロシアム(1971年2月20日)
- ザ・タイガース・フィナーレ(1971年7月10日)
再結成期 [編集]
- THE TIGERS 1982(1982年2月5日)
- A-LIVE(1982年5月10日)
※ サヨナラ日劇ウエスタン・カーニバル(ザ・タイガース、沢田研二&オールウェイズ)1981年、カセットのみで発売されたが、1996年3月21日に初CD化。
メンバー公認ベスト [編集]
- ザ・タイガース 1967-1968 -レッド・ディスク-(2013年2月20日)
- ザ・タイガース 1968-1971 -ブルー・ディスク-(2013年2月20日)
シングル [編集]
加橋かつみ在籍期 [編集]
- 僕のマリー(1967年2月5日)
- シーサイド・バウンド(1967年5月5日)
- モナリザの微笑(1967年8月15日)
- 君だけに愛を(1968年1月5日)
- 銀河のロマンス/花の首飾り(1968年3月25日)
- シー・シー・シー(1968年7月15日)
- 廃虚の鳩(1968年10月5日)
- 青い鳥(1968年12月1日)
- 美しき愛の掟(1969年3月25日)
- 発売は岸部シロー加入後だが、岸部参加後の再録音の出来が良くなかったため、加橋在籍時の録音が採用された。
岸部シロー在籍期 [編集]
- 嘆き(1969年7月5日)
- スマイル・フォー・ミー(1969年7月25日)
- ラヴ・ラヴ・ラヴ/君を許す(1969年12月5日)
- 都会(1970年3月20日)
- 素晴しい旅行(1970年7月1日)
- 誓いの明日(1970年11月20日)
再結成期 [編集]
- 十年ロマンス(1981年11月21日)
- 色つきの女でいてくれよ(1982年2月5日)
- 銀河旅行(1983年3月1日)
CM [編集]
- 明治製菓「明治ミルクチョコレート」、「明治チョコバー」
- セーラー21金ペン
※再結成期
ビデオ [編集]
- A-LIVE(日本武道館同窓会コンサート)(1982年5月10日)
出演映画 [編集]
- ドリフターズですよ!前進!前進!また前進!(1967年、東宝)
- ザ・タイガース 世界はボクらを待っている(1968年、東宝/東京映画)
- ザ・タイガース 華やかなる招待(1968年、東宝/東京映画)
- ザ・タイガース ハーイ!ロンドン(1969年、東宝/東京映画)
- 喜劇 右むけェ左!(1970年12月31日封切、東宝)
脚注 [編集]
- ^ 後日彼は「あのグループをデビューさせるとスパイダースの人気が危うくなる」と悟り以後何も無かったかの如く毅然とした態度で臨んだ、しかしその後ファニーズがザ・タイガースとしてデビューすると対抗馬としてザ・テンプターズをスパイダクションから送り込むがそれがかえって裏目に出てしまいスパイダースの人気はブルー・コメッツと共に一気に急降下していく。
- ^ 加橋、瞳、森本が巨人ファンだったことから一瞬揉めそうになったが、「ここで了承しないと出演させてもらえないかも知れない」ということで納得した。
- ^ 近代映画 1967年12月号 近代映画社 130頁。
- ^ 国公立大卒初任給が東京で約3万5000円前後だった当時の価格で250万円もしたソニー製ビデオデッキ(オープンリール・白黒)で岸部の父の友人がこれを録画した。このビデオテープは岸部シローが保管しているという説があったが、現在は岸部の友人の息子が保管していることがTVで判明した。
- ^ タイガースのメンバーに創価学会員がいたことから『ヒューマン・ルネッサンス』というアルバムを出したとの情報もあったが、岸部四郎はこれを否定。ただし岸部によると、メンバーの一人(瞳みのるは自身の著書『ロング・グッバイのあとで』P51・P61でタイガースデビュー前後創価学会員だったことを明かしている)が一時期創価学会に入信していたことは事実であり、合宿の時も仏壇を買ってきて南無妙法蓮華経を唱えるので他のメンバーから「それはマズいよ」と言われたことはあるという。(吉田豪『人間コク宝』p.25(コアマガジン、2004年)
- ^ グループ・サウンズのファンクラブは親衛隊と呼ばれたが、ザ・タイガース親衛隊の数は断トツで後々デビューする荒井由実(現:松任谷由実)は八王子の支部長であった、また、「追っかけ」と呼ばれる新しいファン行動も出現した。
- ^ 彼の加入により、タイガースの人気は下がったと本人が言っている。シローは兄・修三を通してタイガースのアマチュア時代から裏方的な貢献を行っていたが楽器歴は一切なかった状態での参加となり、当初はステージで演奏をするフリだけの存在であった。しかしその後ある程度のギターやタンバリンはこなせるようになり、1970年8月の田園コロシアムでのコンサートや解散コンサートでは実際に演奏しているのが映像でも確認できる。また、加橋がメイン・ボーカルをとっていた曲では代わりに歌っておりビージーズやドノヴァンの曲を好んで歌っていた。
- ^ ザ・タイガース完全復活へ!トッポ参加 デイリースポーツ 2013年1月7日閲覧
- ^ この時の横浜アリーナライブは、NHK衛星第2テレビジョンで収録放送された
- ^ 沢田研二 LIVE2011〜2012 沢田研二オフィシャルサイト ライブツアー告知参照
- ^ 岸部シローも登場…「ザ・タイガース」解散の地で再集結 スポーツニッポン 2012年1月25日閲覧
- ^ 現在における「ジャニーズ事務所」所属タレントをはじめとする、甘い顔立ちのどちらかというと中性的なイメージの男性タレントが「アイドル」としてもてはやされる風潮のはしりである。
- ^ 当時はザ・タイガースに限らずザ・テンプターズ、ザ・スパイダースなど一連の長髪GSは軒並みNHKに出演できなかった。唯一の例外はジャッキー吉川とブルーコメッツである。のちにザ・タイガースはNHK紅白歌合戦に出場したが、これが実現したのはずっと後の1989年、紅白40回記念大会でのことである。またすぎやまこういちの作曲による一連の楽曲はひとつの組曲としてのイメージで曲を書いたと本人が語っている。
関連項目 [編集]
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