グループ・サウンズ

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グループ・サウンズのひとつ ザ・スパイダース

グループ・サウンズ(またはグループ・サウンド)(和製英語:group sounds)とは、ギターなどの電気楽器を中心に数人で編成される、演奏及び歌唱を行うグループ。欧米における「ヴォーカル・アンド・インストゥルメンタル・グループ」の影響を受けたとされ、1967年(昭和42年)初夏より1969年(昭和44年)春にかけ日本で大流行した。略称・GS

定義[編集]

一般的に「グループ・サウンズ」といえば1960年代後半、ジャズ喫茶中心に活動したポップスグループやロックグループを指している。 グループ・サウンズに共通する事は、殆どのグループがリード・ヴォーカル+エレクトリック・ギター+エレクトリックベースドラムスといった編成(スリーピース+ワン)をとっていることであるが、例外的に、初期ザ・ハプニングス・フォーギターを弾くことを禁じられていたころのザ・フィンガーズ等のギターレスGS、シャープ・ホークスザ・ワンダースの様な、プロのエレキバンドを従えたコーラスGSも存在していた。

「グループ・サウンズ」という呼び名の定義が曖昧な例として、例えばピンキーとキラーズはGSとして扱われることも往々にあったが、クレージーキャッツや後輩のザ・ドリフターズはジャズ喫茶で活動していた時期があったものの、テレビや映画が中心だった為なのか、GS以前の活動歴が長かった故か、または音楽性の理由からか、当時も現在もGSとは呼ばれていない。一方でGS以前の活動やGS以外の仕事も多く、そう呼ばれることにも難色を示していたジャッキー吉川とブルー・コメッツはメンバー再編までGSのレッテルを貼られ続けた。また年輩の記者などの中には1970年代以降も、エレクトリックギター編成のロックバンド=グループ・サウンズと表現する人もおり、1970年代中頃までにデビューした「はっぴいえんど」や「キャロル」などといったロックグループまでが当時「グループ・サウンズ」と一部の雑誌等で分類された事がある。

経緯[編集]

1966年ビートルズ来日公演以降、エレクトリックギター等の楽器を自ら演奏しながら歌うグループが日本で次々とデビューした事を受け、若者向け芸能雑誌「週刊明星」がこれらのグループや音楽を総括して「グループ・サウンズ」または「グループ・サウンド」と呼び始めた事をきっかけに広まった呼称で、起源にはいくつかの説がある。1965年寺内タケシが当時のブルージーンズのジャンルを記者から聞かれた際の「グループ・サウンドだ」「でもそれだと単数形だからグループ・サウンズのほうがいい」というやりとり、またはエレキの若大将を撮影中だった加山雄三がTVのインタビューで「ロックンロール」に代わる新しい名称として「グループ・サウンズ」を提案した、等の説が最初と言われている[1](因みに最初のグループ・サウンズのレコードは、1965年5月に発売された田辺昭知ザ・スパイダースの『フリフリ』である[2])。

当時は音楽ジャンルの細分化が進んでいなかった時代でもあり、ジャッキー吉川とブルー・コメッツやザ・スパイダースのように、ビートルズ来日公演以前からプロのバンドとして活動していたものから、ザ・サベージザ・ワイルドワンズのようなフォーク・ロック・グループ、またザ・タイガースザ・テンプターズのように「ビートルズ」や「ローリング・ストーンズ」に影響を受けた学生が仲間内で結成したアマチュア出身のバンド等までをも「グループ・サウンズ」と称されており、各グループの音楽性や表現性などにはかなりのばらつきがあった。

当時の音楽業界はまだまだ旧体制で、各レコード会社には専属の作曲家作詞家がついており[3]、プロの作家が書いた楽曲や、メンバーが書いたオリジナル曲でも、レコード会社に認められたもののみをシングル曲として発表させられた。そのため、コンサートリサイタル)などでは自分たちの好きな洋楽ロック等を中心に演奏し、シングル曲は絶対に演奏しないというポリシーを貫いたグループもいた[4]

GSブーム初期にはジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ザ・スパイダース、ザ・サベージが3大人気グループと呼ばれ[5]、GSブームの中期から後期にはザ・タイガース、ザ・テンプターズ、オックスがGS御三家と呼ばれた[6]

但し現在では、1970年以降に現れたロック・パイロットモト冬樹も後期在籍していたローズマリーゴダイゴのギタリストである浅野孝已が在籍していたチャコとヘルス・エンジェルなどはGSと呼ばれることもある。この時期は「プレ・ネオGS期」と呼ばれる場合がある。

社会現象[編集]

当時は長髪やエレキギターといった要素は不良、若者の非行に結びつけられ、一般社会からの風当たりは非常に強かった。そのため、グループ・サウンズのコンサートを観に行った高校生には停学もしくは退学処分を下し、コンサートに行くこと自体を禁止する中学校・高校が続出、それらの処分を学校側としてはあたかもごく自然の成り行きとして罷り通るようになっていった。

1967年11月に行われたザ・タイガースの奈良あやめ池での野外コンサートで、ファンの転倒事故が発生、重軽傷者を出した。そのためNHKは、『歌のグランド・ショー』で既に収録済みだったザ・タイガースの出演部分をカットし、以後、ジャッキー吉川とブルー・コメッツを例外に、長髪系のグループ・サウンズの出入りを禁止した。また1968年5月にはザ・タイガースの女子高生ファンによるコンサート入場券偽造事件も起きた。

オックスがステージ上で行った失神パフォーマンスにより実際に失神する少女達が続出、これを契機にPTAや教育関係者に顰蹙を買い、事故防止のためグループ・サウンズのバンドにはコンサート会場を提供しないという劇場や自治体が多くなった[7]

女性版GS[編集]

60年代にはピンキー・チックス、ザ・ハイビスカス、スター・サファイヤーズ、東京エンゼル・シスターズ、ザ・スパンキー、松田智加子とTokyo Pink Pearls、ザ・フォクシー・レディズなど、いくつかのプロの女性GS(事務所に所属)が存在し、そのうちレコードを出したのはピンキー・チックスのみである。

GSのその後[編集]

1968年夏頃にはGSブームはピークを迎え、百を超えるグループがレコードデビューを果たすも[8]1969年春にはザ・タイガース、オックスなどの人気グループから主要メンバーが相次いで脱退、またジャッキー吉川とブルー・コメッツを筆頭にムード歌謡路線に転向するグループも現れ人気は急下降。同年夏を迎える頃には完全にGSブームは終焉を迎え、1971年に入ると殆どのグループが解散・自然消滅をした[9]

その後人気グループ・サウンズに於いてリード・ヴォーカルを務めていた人物の中からは、グループ解散後も歌手ミュージシャン俳優、またタレントとして芸能界の第一線で活躍し続けている人物も多く、また他の楽器パートを務めていた人物にも、俳優作曲家音楽プロデューサー芸能事務所経営者等として、芸能界の重要人物へと納まっている者が多く存在する。

1984年から翌1985年にかけてはかっての大手グループの幾つかが出演し演奏するTVのスペシャル番組(90分枠)が度々放送された(メンバー全員としてはワイルドワンズ、ヴィレッジシンガーズ、ジャガーズ、カーナビーツ、そして赤松愛、夏夕介を除いたオックス)。

また1988年から1990年にかけて、タイガース・メモリアル・クラブ・バンドと称した大型ユニットが結成され、当時のヒット曲を次々と披露した。さらに、沢田研二の物真似で御馴染みの岩本恭生が彼らに感動し、ザ・タイガースのメンバーの内、加橋かつみ森本太郎岸部シローザ・タイガースマニアというバンドを1993年に結成し、「涙のロマンス」をリリースした。

一方ザ・ワイルドワンズも、1981年に再結成し、現在も活動中。またジャッキー吉川とブルー・コメッツは解散せず(いわゆるGSとしてのブルー・コメッツは1972年秋に解散=再編成という形を採った)にメンバーチェンジを繰り返し現在も活動を続けている。なおザ・タイガース、ザ・ワイルドワンズは共にGS全盛期、渡辺プロ所属であった(ジャッキー吉川とブルー・コメッツの所属した大橋プロは業務提携という形で渡辺プロの傘下だった)。

2002年にはヴィレッジ・シンガーズの『亜麻色の髪の乙女』が島谷ひとみによってカバーされ(詳細はこちらの項目を参照)ヒット、それをきっかけにヴィレッジ・シンガーズはライブ活動を再開し現在も続けている。

ブームが去った後はいわゆる『懐メロ』として長らく扱われ、若手音楽ファンからは過少評価されて来たが、1980年代半ばからの黒沢進による研究や近田春夫による再検証が1990年代後半に功を奏し、同じ頃インターネットの普及により、オークションにて当時発売されたレコードが容易に入手し易くなった事、そして2007年よりYouTube日本語版にて当時の映像が視聴出来るようになった事もあいまって徐々に再評価を得始めている。海外でも『ガレージパンク』や『ガレージロック』、『ソフトロック』として評価されており、ブートレッグ版が発売され、その人気を受け正式にCDがリリースされたりしていた。日本ではレーベル別の再編集アルバムや、ジャンル別のアルバム、発売当時そのままの紙ジャケット仕様によるCD再発などのリリースが相次いでいる。

新世代によって継承されるGS[編集]

第二次バンドブームが勃興した1980年代半ばにC-C-BがGSの再来といわれた。時をほぼ同じくして、GSが流行した前後に生まれた子供たちによるネオGSムーブメントが東京のライブハウスを中心に起きた。当時の代表的なバンドは ザ・ファントムギフトザ・コレクターズザ・ストライクスヒッピー・ヒッピー・シェイクス等が挙げられる。

このムーブメントは様々なメディアに取り上げられると、すぐに全国に飛び火した。ムーブメントが下火になったその後も デキシード・ザ・エモンズルルーズ・マーブル等がGSを継承していった。そして21世紀以降もGO!GO!7188ザ・キャプテンズザ・サイクロンズザ・シャロウズなど、次々とGSフォロワーが生まれている。

日本のグループ・サウンズ[編集]

主要10グループ・サウンズ[編集]

主要10グループ・サウンズ[10]

その他のグループ・サウンズ[編集]

外国人のグループ・サウンズ[編集]

女性のグループ・サウンズ[編集]

ネオGS[編集]

新世代のグループ・サウンズ[編集]

脚注[編集]

  1. ^ ジュリアン・コープ『ジャップロック サンプラー』2007年、90頁。このコープの採用した説の起源は米ローリングストーン誌69年3月1日号「Rockin' in the Land of the Rising Sun」という記事が原典となっている
  2. ^ 黒沢進 『日本ロック紀GS編』 シンコー・ミュージック 1994年、123頁。ただし発表当時は、グループ・サウンズという概念は具現化しておらず、寧ろインストゥルメンタルの演奏を中心とした「エレキバンド」が幅を利かせていた時期である。黒沢進によれば、この曲に対する当時の世間の評価は「エレキバンドの余技」「エレキバンドが歌も唄いましたよ」という程度ではなかったか、という(黒沢進『熱狂! GS図鑑』「フリフリ」曲紹介の項より)。
  3. ^ ヒット曲を手がけた作家で作詞家には橋本淳なかにし礼など、作曲家には村井邦彦筒美京平すぎやまこういちなどが挙げられる。
  4. ^ エミー・ジャクソンの『涙の太陽(Crying in a storm)』やブルー・コメッツの『青い瞳(Blue eyes)』が、そうした旧体制を逆手に取った形で洋楽レーベルから発売され、それらが成功を収めて以降、旧体制は徐々にではあるが崩れ始め、GSのオリジナル曲は殆どの場合、メンバーと年齢のあまり変わらないプロの作家や、フリーの野良作家たちの作った(またはメンバー、スタッフなどと共同制作で作った)楽曲であった。また、歌詞やメロディーなどを自己流にアレンジしているグループが数多く存在している。なおGSや歌謡ポップスより前の旧体制下に於いては歌謡曲側と和製ポップス側の交流は何一つ無い状態であった。
  5. ^ 黒沢進 『日本ロック紀GS編』 シンコー・ミュージック 1994年、114頁。
  6. ^ [1]
  7. ^ こうした一連の出来事もあって「オックスはGSブームの終わりを早めた」との評価もあるが、後年ヴォーカルだった真木ひでと(野口ヒデト)は「僕は逆に(GSブームを)一年半延ばしたと思いますね」と語っている(アルバム『オックス・コンプリート・コレクション』・ジャケット内掲載のインタビュー等より)。
  8. ^ 大半のグループが、曲数の差こそあれ、シングル盤の発売のみ、又はアルバム発売へと至らず終い、そしてアルバムの構想が持ち上がるも立ち消えとなったグループが含まれる。
  9. ^ ゴールデン・カップスやモップス、ハプニングスフォーなどは、GSブーム末期から暗中模索しニューロックへと変貌を遂げ、又1971年から1972年にかけGS残党組によってPYGフラワー・トラベリン・バンドなどのニューロックのグループが結成された。
  10. ^ 黒沢進 『日本ロック紀GS編』 シンコー・ミュージック 1994年、185-187頁。
  11. ^ 串田アキラがこのザ・ボルテイジにヴォーカリストとして在籍していた、とする説があるが、『日本ロック紀GS編』150頁によれば、串田は1967年3月に、横浜の「バームス」というバンドから、ボルテイジの前身となるバンド(バンド名不明)の結成に参加したものの、同年10月にそのバンドを抜けた、とある(このバンドが「ザ・ボルテイジ」として正式に活動を始めるのは、翌1968年2月からである)。これに関しては串田本人も、公式サイトで「ボルテイジに所属していた事実はありません」とコメントしている。[2]
  12. ^ のち、藤田はトライアングル・プロの社長を務め、菊池桃子を輩出する。(カルトGSコンプリート・シングルズ4、解説より。発売元テイチクエンタテインメント

関連項目[編集]

外部リンク[編集]